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Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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「若王神社(じゃくおうじんじゃ)」と「三王神社(さんのうじんじゃ)」

下金山の「若王神社」(じゃくおうじんじゃ)を訪ねます。

若王神社-84

前回に訪問した「七星神社」と同じく珍しい社号のようで、ネットでやっと二社を見つけました。
岐阜県中津川市と、岡山県津山市の「若王神社」は、「にゃくおうじんじゃ」と呼ばれています。
有名な京都市左京区の「熊野若王子神社」も「にゃくおうじ」と呼ばれますが、ここ成田市の
「若王神社」は「じゃくおうじんじゃ」と呼ぶようです。


若王神社-14

平成八年に建立の明神鳥居は、通りから路地をちょっと入ってさらに右へ曲がったところに
あるため、注意して歩かないと見逃してしまいそうです。


若王神社-15

鳥居の脇には十数基の墓石が並んでいますが、古いものは倒れています。


若王神社-16
********** 若王神社-17

なだらかな石段が続いています。


若王神社-18
若王神社ー20

「千葉県神社名鑑」には次のように紹介されています。
祭神 事解男命(ことさかのおのみこと) 本殿・流造一坪、弊殿・二坪、拝殿・四坪 境内
坪数三〇坪 氏子四〇戸」


亡き伊弉冉尊(イザナミニミコト)を黄泉国にまで追った伊弉諾尊(イザナギノミコト)は、醜悪
な姿となった伊弉冉を見て驚き、現世に逃げ帰ります。
途中で追いついた伊弉冉と離縁することを決め、吐いた唾から速玉男命(ハヤタマオノミコト)
とともに生まれたのが事解男命です。
唾を吐くことは約束を確認するために行われる行為のようです。
「コトサカ」は「コト」を「サク」の意味で、縁切りと浄化を表していると言われています。

「事解男命」は全国の熊野神社に多く祀られていることから、この「若王神社」も熊野神社の
流れをくむ神社でしょう。
桜田の「熊野大神」や南羽鳥の「熊野神社」のご祭神も「事解男命」でした。

熊野権現ー11   桜田・熊野大神
   南羽鳥・熊野神社  熊野神社ー1

「成田市史 近代編史料集一」に収録の「下總國下埴生郡下金山村誌」には、
若王神社 本村字北之内台ニアリ。地坪壱畝歩。祭神ハ伊弉諾尊。創建詳カナラス。」
と記述されています。
一畝は30坪になりますから、「千葉県神社名鑑」の記述と整合がとれていますが、ご祭神は
事解男命の親神の伊弉諾尊とされています。
神社のご祭神に関してはよくあることで、伊弉諾尊と御子神の事解男命の二柱が祀られて
いるということで良いのではないでしょうか。


若王神社-19

手水盤には安政四年(1857)と記されています。 
(政の字は異体字で、偏(へん)を上に、旁(つくり)を下にしています)


若王神社-21
若王神社-63

拝殿の小窓から覗くと、薄暗い中に本殿が見えています。
蟇股の彫刻は鳳凰でしょうか。


若王神社-64
若王神社-81

本殿は大きな鞘堂の中にあるため、その全容を見ることができません。


若王神社-82
若王神社-26   本殿の神額

本殿と鞘堂との間に1メートルほどの隙間があり、そこから本殿の周りを見ることができます。


若王神社-66

若王神社-67

鞘堂の内壁に、いくつかの掲額が掛かっています。
「昭和拾四年 富士浅間神社 霊峰参拜記念」(上)、「大正七年 伊勢神宮参拜紀念」(下)。


若王神社-69

鞘堂ができるまで長い間風雨に晒されていたのでしょうか、大分傷みが目立ちます。


本殿の裏には小さな流造のお社が点在しています。

若王神社-29
********** 若王神社-30
若王神社-31
********** 若王神社-32

何のお社かは分かりませんが、いずれも土台を多くの丸石で固めたしっかりした造りです。


若王神社-33

明治三十年(1897)建立の「出羽三山参拝記念碑」。


若王神社-34

傾いた祠の前には力石のような二つの石が置かれています。


若王神社-71

大木の根元に寄りかかっている石碑があります。
風化と、表面が削られたような痕があり、刻まれた文字はほとんど判別できません。
中央上部に「天」の文字が見え、右端に「植」、左端に「少」の文字が読めます。
「天」は「天照大神(アマテラスオオミカミ)」、「植」は「植安媛命(ハニヤスヒメノミコト)」、
「少」は「少彦名命(スクナヒコノミコト)」と刻まれていたと推測すれば、他には「大己貴命
(オオムナチノミコト)」と「倉稲神命(ウカノミタマノミコト)」の名前が刻まれていたはずです。
これは、五穀豊穣を祈願する「地神塔」で間違いないと思います。
側面に「文政」の元号が読み取れますので、200年近い昔のものです。

「地神塔」は五角の石柱に五柱の神名を刻むものが多く、このブログでもこれまでに江弁須
の「皇産霊神社」、米野の「麻賀多神社」、八代の「稲荷神社」の三基を紹介しています。

円應寺ー48   米野・麻賀多神社
    八代・稲荷神社   善勝院ー28 

ちょっとしたスポット~米野の麻賀多神社 ☜ ここをクリック
寺社が並立する信仰の場~八代の「善勝院」と「稲荷神社」 ☜ ここをクリック


若王神社-72
若王神社-73

境内の裏の竹林に道のようなものが見えています。
尾根のような地形で緩やかに上っています。


若王神社-36
若王神社-02
若王神社-74

100メートルほど登ると突然社殿が現れました。
神額も社号標もありません。
社殿の後ろに鳥居があり、その先にお社が見えています。

社殿の形状と鳥居の位置などから考えると、これは神楽殿かもしれません。


若王神社-38
若王神社-39
若王神社-40

神額の文字はすっかり消えてしまっています。

後で調べたところ、ここは「三王神社」のようです。
「千葉県神社名鑑」その他の資料にもこの神社の名前は出てきません。

若王神社-78
若王神社-75
**********若王神社-76

屋根には徳川家の紋章である三葉葵が見えます。
「下金山村誌」に「山王神社」として次のような記述がありました。

「字北之内ニアリ。泉城ノ出城ニテ寺台海保守ノ城、押畑千葉家ノ出城ヲ目前ニ望ムコト
ヲ得。祭神ハ大山咋命ヲ祀ル。其後素盞嗚尊ヲ合祀シ三王神社ト改ム。」


「大山咋神」の別名は「山王」で、山の地主神です。
「山王神社」は山王信仰に基づいて滋賀県大津市の「日吉大社」より勧請を受けた神社で、
広く全国に分布し、大山咋神(オオヤマクイノカミ)と大物主神(オオモノヌシノカミ)を祭神
としています。
この二柱に素戔嗚尊が加わって「三王神社」となったわけです。


若王神社-41
********** 若王神社-42

昭和57年に寄進された御神燈。
片方は宝珠・傘・火袋の部分が崩れ落ちています。

若王神社-46

手水盤には安政四年(1857)と刻まれています。
側には割れた手水盤と同じ安政四年と記された板碑が置かれています。


若王神社-37

境内の片隅には、壊れた板碑や石碑が積み上げられています。


若王神社-44
  昭和61年建立の鳥居を挟んで見た  神楽殿(?) ↑  と三王神社  ↓
若王神社-45


若王神社-48
********** 若王神社-49

木々の合間からはのどかな田園風景と、空港へ向かう鉄道の高架線が見えています。
その向こうに見えるのは吉倉にある「インターナショナルガーデンホテル」です。


若王神社-50
若王神社-51
若王神社-52

狭い境内の全景を撮ろうと苦戦中に、視線をを感じました。
いつの間にか社殿の横に猫が一匹、じっとこちらを見つめています。
こんな人気のない山中で何をしているのでしょう?
(向こうも同じことを思っているか・・・)


北之内北方ノ台ニ隆起ス。地形馬ノ背ノ如シ。高サ五丈ニ余レリ。南方耕地ヲ隔テ成田山
アリ。北方ニ新妻、押畑其他数村ノ耕地及長沼及利根川ノ風帆漁船ヲ見ル。又晴天ノ日ニ
極目遠望スレハ常陸ノ筑波、足尾ノ諸山風景ヲ見ルコトヲ得。」


「下金山村誌」には「山岳」と題した、こんな記述も見られます。
これは「若王神社」と「三王神社」のある高台のことを指していると思われます。

若王神社-62
若王神社-77

南方には鉄道の高架線が横切り、大型のショッピングモールができて、往時の景色とは
一変していますが、かろうじて成田山の一角は見えています。
北方は竹と雑木に覆われて、何も見えません。


若王神社-54
若王神社-57

深い森の中の「若王神社」と「三王神社」。
かつての見晴らしの良さは半減してしまいましたが、秋の紅葉の時期はきっと鮮やかな
色彩に彩られることでしょう。


若王神社-85  
     
                            ※ 「若王神社」  成田市下金山589

テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

中郷村の寺社 | 08:05:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
下金山の「龍金寺」と「七星神社」
下金山の「龍金寺」を訪ねます。

竜金寺-24

天台宗のお寺で、山号は金峰山、ご本尊は阿弥陀如来です。

「龍金寺 下金山村字西前にありて天台宗に屬す金龍山と號す阿彌陀佛を本尊とす由緒
不詳堂宇間口二間奥行二間寺院間口五間奥行八間半境内二百七十三坪官有地第四種にして
管轄廰まで八里十八町なり寺院明細帳

(下線の部分で山号が「金龍山」となっているのは誤りで、正しくは「金峰山」。)
「千葉縣香取郡誌」中の「中郷村誌」に、「龍金寺」はこう記述されています。


竜金寺-1

いかにも旧道らしい、曲がりくねった「和田下金山線」沿いに「竜金寺」はあります。
入り口には四基の石造物が並んでいます。


竜金寺-2

右端の如意輪観音は全体が白苔に覆われていますが、何とか「文政三年」と読めます。
文政三年は西暦1820年、約200年前のものです。


竜金寺-3

隣の石仏は風化と破損が激しく、何の石仏か分かりません。


竜金寺-4

これは墓石でしょうか、寬保や延享などの元号と、~禅定門の文字が見えます。


竜金寺-5

左端も風化と苔で文字がほとんど読み取れませんが、奉誦塔のようで「~万巻」と読めます。


竜金寺-6

瓦葺きの方形造りの本堂は、通りから一段高い場所にあります。

明治十七年の「下總國下埴生郡下金山村誌」には、
「本村字西前ニアリ、地坪九畝三歩。天台宗・金峰山龍金寺。由緒開基詳カナラス。」
とあります。
山之作の「円融寺」の末寺ですが、なぜか成田市の宗教法人名簿にも、天台宗の寺院名簿
にも記載がありません。
「成田市史 中世・近世編」の中で、「円融寺」の末寺として寺名が載っているだけです。


竜金寺-7
竜金寺-8
********** 竜金寺-9

失礼して中を覗かせていただきました。
反射でよく見えませんが、木造仏が数体おられるようです。
「阿弥陀如来像」ではないか、とは思うのですが、来迎印を結んでいるようには見えないのは
両手が欠損しているからでしょうか?

証明寺ー3 
   山口・證明寺の阿弥陀三尊像    證明寺 ☜
神宮寺ー48
 神崎町・神宮寺の阿弥陀如来像   神宮寺 ☜

『阿弥陀如来は仏の領土=浄土のなかでも最も広大な西方極楽浄土にいながら、現世で
人々に無量の寿命(永遠の生命)を与えてくれる法力を持つ如来です。「人は念仏さえ唱え
れば極楽浄土に往生できる」「臨終のときには菩薩や天(神々)を連れて迎えにいく(来迎)」
ことを誓願し、人々を救ってくれる阿弥陀如来は、十世紀以降、厚く信仰されるようになり
ます。』
 (「仏像の事典」 熊田由美子監修 成美堂出版 P24)

ちょっと脱線しますが、私なりに解釈した、想像を絶する「阿弥陀如来」の広大な世界を、
数字で見てみましょう。(計算違いがありましたらお許しを)

遙か昔のインドに王位を捨てて「法蔵」と名乗った修行僧がいました。
「法蔵」は五劫という永い期間の修行を経て悟りを開き、「阿弥陀如来」となりました。
「劫(こう)」とは時間の概念で、一辺が一由旬(ゆじゅん=7.2㎞)の立方体にケシの実を
ぎっしりと詰めて、その実を100年に一粒ずつ取り出し、すべてのケシの実がなくなるまで
の時間を言います。
立方体の体積は約373㎦で、ケシの実は直径5ミリ程度ですから、”気の遠くなるほどの
長い時間”という意味になります。(「未来永劫」の「劫」もこの言葉から来ています)

さて、「阿弥陀如来」の極楽浄土は、私たちの住むこの世界から十万億土もの彼方にある
と言われています。
十万億土の「十万億」とは、一億の十万倍という意味ですから、10兆ということになります。
十万億土の「土」とは、“一尊の仏が治める銀河系ほどの広さをもつ国”を指す言葉なので、
十万億土の彼方とは、銀河系を10兆回越えた先ということになります。
銀河系の直径はおよそ10万光年とされていますから、その10兆倍とは、100京光年の
距離ということになります。
気の遠くなるような距離、と言うより、想像の範囲を超えた遙か彼方という意味です。
仏教の時間や空間の概念の大きさには圧倒されますね。


竜金寺-10
竜金寺-11

本堂の右裏手にあるお堂には数枚の欠けた板碑が置かれています。


竜金寺12
********** 竜金寺-13
竜金寺-14
********** 竜金寺-21
竜金寺-15

本堂の左裏手には墓地が広がっています。
寛文、貞享、元禄、宝永、正徳、享保、延享などの元号が見えます。


竜金寺-16

墓地の向こうの景色は大きく変わりました。
成田空港への鉄道の延伸による高架の建設、大型ショッピングモールの開業は、ここ20年
ほどの間の出来事です。


竜金寺-19
竜金寺-20

比較的新しい墓石の陰に、草生す無縁墓石が多く見られます。
人が生き、死んでいった痕跡のこのような姿を見るたびに、人生の無常を感じ、以前訪ねた
野毛平の「東陽寺」の景色を思い出してしまいます。

東陽寺ー24竹と雑木に覆われた東陽寺
東陽寺ー25


竜金寺-17
竜金寺-18

太子堂の二体の太子像は年代が分かりません。
頭は欠損し、近年になって付け直されたものです。


竜金寺-22
*********竜金寺-25

寺の裏山は寺台城主であった馬場氏の一族が居城としていた「下金山城址」です。
急斜面は木々に覆われ、登り口は見当たりません。


竜金寺-26
竜金寺-27

山裾を切り開いた台地にある境内は、南側に開けて、前方には遮るものも無いためか、
とても明るい空間になっています。


竜金寺-31

「下金山城址」の手掛かりを探して少し近所を歩いてみました。
民家の庭先の向こうにチラリと鳥居が見えました。


竜金寺-33
竜金寺-32

鳥居の神額には「七星神社」と記されています。


竜金寺36

しばらくの間は石段がありましたが、途中からこんな様子になりました。
45度以上の急斜面で、飛び出している木の根やツルを掴んで登るしかありません。
足を滑らせたら大怪我は間違いありません。


竜金寺-34

二十メートルほど、這いつくばるように登った先に小さなお社がありました。
狭い台地にはお社以外何もありません。


竜金寺-35

十メートルくらい先のがけ下に祠が見えています。
側面に何やら神紋のようなものが付いていますが、とても近づくことはできません。

急斜面を降ることばかりが気になって、早々にこの場所を離れましたが、道に戻ってふと
頭をよぎったのは、馬場氏が千葉一族であるなら、城跡であろう場所にあったあのお社は、
“「七星神社」となっているが、実は「妙見社」ではないだろうか?”ということでした。

「千葉縣印旛郡誌」に収録の「中郷村誌」に、「七星神社」の名前を見つけました。
「七星神社 下金山村字東前 無格社 祭神 天御中主命 由緒不詳 社殿間口二尺奥行
二尺 境内二五坪 氏子二七人 管轄廰まで八里十八町」


天御中主命(=天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ))は、天地開闢に関わった別天津神
(コトアマツカミ)の一柱で、高天原の中央に座する主宰神という意味があります。
「天之御中主命」をご祭神とする神社としては、「千葉神社」・「秩父神社」・「東京大神宮」等
がありますが、全国的には「妙見社」がご祭神としています。
特に下総地方一帯は、千葉氏の影響下にあった関係から、多くの城跡には「妙見社」が
セットのように見られます。

また、「成田市史 中世近世編」の「成田市域の主な神社」の項に、
「七星神社 古社名 七星権現 祭神 妙見菩薩」 
とあるのを見つけました。

ご祭神の「天之御中主命」と「妙見菩薩」との混乱は、明治新政府の神仏分離令により、
妙見社では仏教世界の「菩薩」を祀れなくなり、天之御中主神を、妙見菩薩をと同一視
してご祭神としたことによります。(千葉神社や秩父神社もこの理由により天之御中主神
をご祭神としました。)

これで、この「七星神社」とは、妙見信仰からの北斗七星から来た社名で、実は「妙見社」
であることが分かりました。

二宮神社ー43   二宮神社の月星紋
 馬頭観音堂の七曜紋  山田馬頭ー29

源頼朝を支えたことで勢力を拡大した千葉氏は、「妙見菩薩」を深く信仰し、領地内に多く
の妙見社を建立しました。
「妙見」とは北極星や北斗七星を神格化したもので、千葉家の家紋とした月星紋や九曜・
七曜紋などはこの信仰に根差しています。
 
さて、前述の「中郷村誌」には下金山村にもう一つ「天神社」があると書かれています。
「天神社 下金山村字北ノ内 祭神不詳 由緒不詳 間口一尺奥行二尺 境内一六坪 
氏子二七人 管轄廰まで八里十八町」

氏子の人数や管轄廰への距離が全く同じですから、「字」は違っていても、「七星神社」の
下方に見えた小祠は「天神社」の可能性があります。
ぼやけて見えた紋のようなものは、梅鉢紋(平隅切り梅鉢紋(?))だったのかもしれません。
(確認のためいつものように再訪問したいところですが、あの崖をまた登る勇気は出ません)

それにしても「七星神社」とは珍しい社名です。
ネットでいろいろ調べてみましたが、二社しか見つかりませんでした。
秋田県山本郡三種町の「七星神社」と、山形県西置賜郡白鷹町の「立岩・七星神社」です。
三種町の「七星神社」のご祭神は「天御中主神」ほか六柱、白鷹町の「七星(しちょう)神社」
のご祭神は「金山比古命」「金山姫命」「倉稲魂命」の三柱です。
いずれも由緒不詳ですが、三種町の方はご祭神から考えて「妙見社」系かもしれません。


竜金寺-23
竜金寺-34


明るい台地に鎮座する「龍金寺」と、崖の上に取り残された形の「七星神社」との関係は、
今後千葉氏の盛衰を追って行くうちに、いずれもっと明らかになってくると思われます。


竜金寺-37

                             ※ 「龍金寺」 成田市下金山520

テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

中郷村の寺社 | 07:22:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
東西和泉村の絆~西和泉の「熊野神社」は420年の歴史
「熊野神社」は、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の「熊野三山」の祭神を勧請
した神社で、「熊野神社」、「熊野社」、「十二所神社」などの社名で全国に三千社余りもある
と言われています。
成田市内にも、宗教法人として記載されている「熊野神社」は八社もあります。
その中から今回は、西和泉の「熊野神社」を訪ねます。

和泉熊野ー1

細い坂道を下る途中に「熊野神社」への石段があります。


和泉熊野ー2
和泉熊野ー29
********** 和泉熊野ー30

控柱のある立派な台輪鳥居をくぐると、石段の上に拝殿の屋根が見えてきます。


和泉熊野ー3
********** 和泉熊野ー4

「文政十一戊子」と刻まれた御神燈。
文政十一年は西暦1828年になります。

右に写っているいるのは「熊野神社改修事業竣工記念之碑」で、
『悠久の地「西和泉」は天和二年(一六八二)和泉村より分かれ現在に至る・・・』で始まり、
改修が平成14年に拝殿屋根の銅版葺き替え工事をもって終了したことが記されています。

旧和泉村が東西に分村となった事情は分かりませんが、明治十六年(1883)の「下總國
下埴生郡東和泉村誌」には次のようにさらりと記されています。
「東和泉村創置ノ年號干支詳ナラスト雖モ、古老ノ口碑ヲ傳ヘ聞ニ、舊上和泉村ニテ平親王
将門ノ領、其後千葉之助常胤領、建仁元年ヨリ天正十八年マテ凡三百九拾年間領ス。其後
元和年中ヨリ寛永十年五月マテ居城当國印旛郡佐倉土井大炊頭領ス。夫ヨリ佐倉領ト云。
寛文元年松平和泉守領ノ時領主ノ名ヲ憚リ當村日出城ノ名有ヲ以テ日出村ト改稱ス。天和
二年分村トナル。字西方ヲ西和泉村ト改、字東方ヲ東和泉村ト称シ是本村ナリ。」


言い伝えのように、平将門領であったとすれば1000年以上も前に「和泉村」としてこの地に
あり、寛文元年(1661)に村名と同じ名を持つ領主を戴くこととなったために「日出村」と改称
し、天和二年(1682)に東西の和泉村に分村した、とありますから、この地は古くから人々の
営みがあったことが分かります。
(西和泉村の近世の出来事に関しては「成田市史 中世・近世編」の「第四章近世村落の変質」
に詳しく記載されています。P585~591)


和泉熊野ー5

この石碑には大正十一年(1922)のもので、「村社 熊野神社」と刻まれています。


和泉熊野ー6

境内右手の立派な手水舎と手水盤。
手水盤の年代は読めませんでした。


和泉熊野ー7

「千葉縣印旛郡誌」中の「中郷村誌」は、「熊野神社」について次のように記述しています。

「西和泉村字廣にあり熊野加武呂命を祭る創立年代は詳ならざれども天正年中造謍の事
ありとの傳説あり正保元年庚申五月社殿を改造す元文二丁巳年二月奉納の額面安永九年
九月奉納の谷文晁筆の繪馬等を存せり社殿間口四尺奥行四尺拜殿建坪六坪幣殿建坪二
坪鳥居高一丈二尺横八尺八寸冠木一丈四尺手水舎建坪一坪境内四百二十坪官有地第一種
あり神官澤田總右衛門にして氏子二十七戸を有し管轄廰まで十里五町あり陰暦正月十日及
十一月十五日を祭日とす境内遥拜所あり由緒不詳間口一丈奥行一丈五尺あり神社明細帳村誌


天正年間(1573~1592)に造営されたとすると、420年以上前のことになります。
この天正年間は織田信長と豊臣秀吉によって天下が統一された時代で、信長の安土城と
秀吉の伏見城(桃山)から、「安土桃山時代」と呼ばれることもあります。
改造された正保元年は1644年ですから、約370年前のことになります。


和泉熊野ー14
********** 和泉熊野ー15
和泉熊野ー35

拝殿の壁面に三枚の掲額があります。
いずれも描かれていた絵や文字は消えてしまっていますが、このうちのどれかが江戸末期の
日本画の重鎮・谷文晁の描いた絵馬なのでしょうか?
文晁の絵画はいくつも重要文化財となっている大変貴重なものですが、贋作が多いことでも
知られていますので、この保存状態からするともともと真贋に疑問があったのかも・・・。
でも、安永九年は西暦1780年、もう一つの掲額の元文二年は西暦1737年ですから、約
280年や240年前の絵馬が、例え贋作の疑いがあったとしても、よもやこのような雑な扱い
を受けることはないと思います。
きっと、どこかに大切に保管されていると信じたいですね。

神社名のみ書かれた神額 和泉熊野ー8
和泉熊野ー16 拝殿から見える本殿正面


和泉熊野ー10
和泉熊野ー11
和泉熊野ー12

流造の本殿には派手さは無いものの、懸魚などに凝った彫刻が施されています。


和泉熊野ー13
和泉熊野ー33

屋根には千葉氏の「九曜紋」があります。
この一帯は千葉氏一族の大須賀氏の勢力圏でした。
大須賀氏の家紋は七曜紋ですが、一部には九曜紋を使った者もいたようです。


********** 和泉熊野ー17
和泉熊野ー18
********** 和泉熊野ー26

「鹿島神宮」「香取神宮」「権現様」の新しい三基の社号表が目に入ります。
「権現」とは、本地垂迹思想による神号で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示して
いますが、明治に入って神仏分離令が出されたことによりその多くが廃され、「権現」の神号
は本来の神社の祭神に戻されました。


和泉熊野ー19
和泉熊野ー22
和泉熊野ー23

境内には小さなお社が五つあります。
いずれも社号を示すものがありません。


和泉熊野ー28
和泉熊野ー25
********** 和泉熊野ー27

ご祭神の「熊野加武呂之命」(クマノカムロノミコト)とは、熊野大社の主祭神の「熊野大神
櫛御気野命」(クマノオオカミクシミケヌノミコト)の別名で、「櫛御気野命」とは「素戔男尊」
(スサノオミミコト)の別名とされていますので、この神社のご祭神である「熊野加武呂之命」
とは「素戔男尊」のことになります。(神話の世界には諸説あり、異論もあるようです。)


和泉熊野ー31
和泉熊野ー36

鳥居のあたりは大木に覆われて昼間でも薄暗く感じます。

「成田市史 中世・近世編」に、この「熊野神社」に関する記述があります。

『西和泉村の熊野神社は創建不詳だが、天正年間に造営したといわれている。安永五年
(一七七六)の「西和泉村指出明細帳」には次のように記されている。
一 熊野権現壱社 宮弐間四面 拜殿長三間横二間
   社地長弐拾四間横拾四間除地 守泉寺幷出羽東西和泉檀家惣持支配
   是ハ西和泉村東和泉村両村鎮守ニ御座候、別当守泉寺社人大竹出羽 』


これにより、この「熊野神社」は西和泉村と東和泉村の両村の鎮守で「守泉寺」が別当寺で
あったことが分かります。(守泉寺は明治初期に廃寺)
前述のように、天和二年(1682)にそれまでの和泉村(日出村)は東西に分村されましたが、
分村の前からあったこの神社が、両村の絆の象徴とされていたのでしょう。


和泉熊野-37


                      ※ 西和泉「熊野神社」  成田市西和泉1


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中郷村の寺社 | 08:23:13 | トラックバック(0) | コメント(2)
討死した父と家臣を弔う姫~東和泉の「養泉寺」
養泉寺ー1

東和泉の山あいにある「養泉寺」は、曹洞宗のお寺。
山号は「松厳山」で、ご本尊は「十一面観音菩薩」です。

「十一面観音菩薩」は、仏教の尊像の中でも最初に現れた多面像です。
十一の顔を四方に向けているので、人々の苦しみをくまなく見つめて救いの手を差しのべる
とされることから、多くの信仰を集めています。


養泉寺ー2

小さいながら、しっかりとした木組みの山門です。


養泉寺ー3

山門横に「不許葷酒入山門」と刻まれた石柱が立っています。
これは結界石と呼ばれるもので、酒気を帯びたり、ニラのような臭いものを食べた者は
入山することを許さないという意味です。

寺台の「永興寺」や伊能の「長興院」など、曹洞宗のお寺の山門前には必ずと言って良い
ほど立っているもので、戒壇石とも呼ばれます。

東参道ー15   永興寺の結界石
長興禅寺ー16   長興院の結界石


養泉寺ー4

結界石に並んで立つこの石碑は、大正五年(1916)に建立したものですが、文字の彫りが
浅かったのか、碑文は読めなくなっています。


養泉寺ー5

「普門品供羪塔」とだけ刻まれたこの石碑は、読誦の巻数も記されていません。
白カビに覆われて、建立年代は分かりません。
供羪の文字は時々見かけますが、かなり古いものであると思われます。


養泉寺ー30

大正三年に編さんされた「千葉縣印旛郡史」には、「養泉寺」の創建について、

「養泉寺は村の西方字細目にあり地坪千八百八十九坪曹洞宗厳山と號す上総國望陀郡
九谷村眞如寺の末派なり文祿元年二月大須賀英胤創立す村史による仝書には尚當寺の古
き靈牌に英胤以下の法名及年月を左の通り記されあることを載せたり」
 
(以下3名の法名等の記述)
※ アンダーライン部分は曹洞宗松厳山の間違いだと思われます。

と記載されています。
創建された文禄元年は西暦1592年で、420年以上前になります。

さらに、「成田市史近代編史料集一」中の「下總國下埴生郡東和泉村地誌記」には、
「養泉寺ハ村ノ西方字細田ニアリ、地坪千百八拾九坪、曹洞宗、松厳山ト号ス。上総國望陀
郡丸谷村真如寺ノ末派ナリ。文禄元年二月大須賀英胤ノ創立ナリ。」
 (P258)
と記載されています。

※「印旛郡史」と「東和泉村地誌記」間の地坪の違いは、実感として「地誌記」の1,189坪が近いと思われます。
※「九谷村」「丸谷村」は共に確認できません。「真如寺」は望陀郡真里谷村(現・木更津市真里谷)にあります。


養泉寺ー6

境内の左手にあるお堂には、六体のお地蔵様と11体の大師像が並んでいます。
お地蔵さまは「六地蔵」だと思われますが、何れも首に補修跡が見られます。
これも南羽鳥の「観音寺」の項で書いた「廃仏毀釈」の爪跡でしょうか?

廃仏毀釈の爪跡(?)~南羽鳥の「観音寺」 ☜ ここをクリック


養泉寺ー8

境内の一角に立つ2体の石仏。
こちらのお地蔵さまの首も着け直した跡があります。


養泉寺ー9

文政四年(1821)のお地蔵様を載せた「法華経千部供養塔」。
普通見かける念仏供養塔の「奉読誦普門品○巻供養塔」という表現とは異なり、「法華経」
と刻まれています。
これは、膨大な法華経を読誦したということではなく、法華経の中の「観音経=普門品」を
読誦したという意味だと思います。


養泉寺ー10

本堂に向かって左側に、名前が分からないお堂があります。


養泉寺ー11

外の景色が反射して、お堂の中はとても見にくくなっていますが、何とか正面に架かって
いる額を写すことができました。
「神通力」と書かれています。
「神通力」とはもともと仏教用語で、菩薩が衆生を救済するための、自由で妨げるものの
ないはたらきを指します。


養泉寺ー31

小さな木札が架かっています。
このお堂の名前が書かれているのかも知れませんが、墨が消えて文字は読めません。

ガラス戸に「鎭防火燭」と書かれた護符が貼ってありました。
木札にも何となく同じ文字が書かれているような気がします。
曹洞宗のお寺ではこの「鎭防火燭」と「立春大吉」の護符を見かけることを思い出しました。


養泉寺ー17

「境内佛堂一宇あり即
一、観音堂 本尊観世音にして由緒不詳建物間口二間三尺奥行一間三尺あり寺院明細帳
 

このように、「千葉縣印旛郡史」には「養泉寺」内に「観音堂」があると書かれています。
現地では分かりませんでしたが、大きさもほぼ一致しますので、これは「観音堂」であろうと
推測しました。

本項を出稿する直前に、次のような文章があることに気付きました。
「本堂に向かって左側に子安堂がある。中に五〇枚ほどの小絵馬があるが、いずれも女性
が子安観音に祈っている図であり、子授けの観音様として周辺の女性に信仰されていること
がわかる。」 
 (「成田の史跡散歩」P237)

確かに女性の絵がたくさん架かっているのが見えましたので、このお堂は今では「子安堂」と
呼ばれている、「印旛郡史」にある「観音堂」だと納得できました。


養泉寺ー12

本堂と「観音堂」との間に「大師堂」があり、28体の石像と1体の木像が並んでいます。
ここも多くの大師像の首に補修の跡があります。
着け直されたお顔は、どれも現代風の顔つきに見えます。

養泉寺ー13
*********************養泉寺ー14
養泉寺ー15
*********************養泉寺ー16


養泉寺ー19

「寺院明細帳には文禄元年二月創立とあり堂宇間口九間三尺奥行七間三尺境内一千百
八十九坪官有地第四種あり住職は森田眞海にして檀徒百五十九人を有す庫裡間口九間
奥行四間三尺小屋間口二間奥行三間東司間口六尺奥行一間三尺總門間口二間奥行
四間三尺大門間口一間三尺奥行一間にして管轄廰まで十里五町とす」


「千葉縣印旛郡史」にはこのような記述も見えます。
この本堂には記されている本堂の大きさはありません。

何回か建て直されているはずですが、壁の一部が土壁になっています。

養泉寺ー21
養泉寺ー22

この部分は他の部分より古いのでしょうか?


養泉寺ー36
養泉寺ー34

本堂の裏にはかつての礎石だったような石の並びがあります。
この石を辿ると、「印旛郡史」に収録されている「寺院明細帳」の本堂の大きさになりそうです。


養泉寺ー20

寺額の「養泉寺」の文字も消えかかっています。


養泉寺ー23

裏山には墓地に続く急坂があります。


養泉寺ー24
養泉寺ー25
養泉寺ー27
養泉寺ー28

所々に平らな場所があり、そこは何とか墓地の体裁が残っていますが、その他は山腹の
斜面にへばりつくように墓石が並び、竹林の浸食によって傾いたり倒されたりしています。
辿りつける場所の墓石には、寛文、享保、宝暦、寛政、文化等の年号が記されています。


養泉寺ー29

とても登れないような場所に「卵塔」が並んでいます。
「卵塔」は無縫塔(むほうとう)とも呼ばれ、主に僧侶の墓石として使われます。
歴代の住職のお墓なのでしょうか、もうお参りする人は無さそうです。


養泉寺ー32

「天正九年に東和泉城が落城したとき、城主の成毛八郎教胤の娘は、家老の桜井庄兵衛家
に嫁いでいたため難を逃れたが、父や家臣らの菩提を弔うため、文禄元年(一五九二)二月
に養泉寺を建て、化国周鷹和尚をもって開山したという。」 
 (「成田の史跡散歩」P237)

この「養泉寺」の開山に関する説は、先に記した「印旛郡史」や「東和泉村地誌記」の記述と
異なりますが、「印旛郡史」には次のような記述もあります。

「東和泉村字細田にあり曹洞宗にして松厳山と號す眞如寺末なり十一面観音を本尊とす
由緒不詳なれども文禄元壬辰歳櫻井庄兵衛化國周鷹大和尚創建とも社寺公文書綴村役場蔵


これは村役場に所蔵されていた「社寺公文書綴」にある記述で、文禄元年(1592)に創建
されたとしているところは同じですが、創建した人物名が「大須賀英胤」とは異なっています。

さらに、「成田市史 中世近世編」の「近世成田市域の寺院」表には、「養泉寺」の開山の項に
「化国周鷹」、開基の項に「大須賀英胤」と記しています。
また、創建年次を文禄元年としつつ、備考欄に「一説に天正9年」とも記しています。

当時滑川城主であった織田左京太夫が助崎城を攻めた時、その先兵により東和泉城が強襲
され、抵抗むなしく天正九年(1581)十二月の大晦日に城主自ら城に火を放って落城したこと
は史実として知られています。
大晦日の落城であれば、同年に寺を建立することは不可能ですから、文禄元年の創建時に、
姫の色々な想いから落城の年に創建したということにしたのかも知れません。

創建時の史料に混乱がありますが、単に大須賀英胤の創建とするより、物語としては討死
した城主や家臣の菩提を城主の娘が弔うという方が、個人的には好みです。

***********養泉寺ー1

  420年の時を経て東和泉に佇む「養泉寺」は、物音一つしない山あいのお寺です。


養泉寺ー38
養泉寺ー39


                        ※ 「松厳山養泉寺」 成田市東和泉719



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中郷村の寺社 | 23:28:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
埋立られた池の主は何を想う?~赤荻の善福寺
赤荻の「善福寺」は同地区唯一のお寺です。

善福寺ー7

「成田市史近代編史料集一」にある下総國下埴生郡赤荻村誌(明治36年)には、

『寺号善福寺、宗派天台宗 寺格七等、村内西和泉城固寺末寺、創建不詳、開基住覚師。』

とあります。
六つの末寺を持っていた西和泉の城固寺の末寺としても、現在唯一残っているお寺です。
城固寺の末寺には、この「善福寺」の他に、西和泉の「守泉寺」、赤荻の「吉祥院」、水掛の
「正寿院」、芦田の「安養寺」、同じく芦田の「証明寺」がありました。
「吉祥院」が弘化四年(1847)に火災に遭って以降再建されなかったことを除き、いずれも
明治初頭に廃寺となっています。
本寺の城固寺 ☜ ここをクリック
芦田の証明寺跡 ☜ ここをクリック


善福寺ー2

本堂に向かう石段の前には畑が広がり、その中に取り残されたような墓地があります。


善福寺ー3
ーーーーーーーーーーーー善福寺ー4
善福寺ー5
ーーーーーーーーーーーー善福寺ー6

傾き、倒れ、風化した古い墓石には、貞享、正徳、元文、安永、文化等の年号が見えます。


善福寺ー19

小道を挟んだ墓地の手前に、記念碑が建っています。
「稲荷山・善福寺・弁天池跡」と記し、地域の事情から池を埋め、防火槽を設置するにあたり、
池の主に、“これまでの恵を感謝し、やむを得ず埋め立てる人々の詫びる心を受け入れて、
これからもお護りください”という趣旨のこの碑文は、自然を敬い大切にしてきた日本人の
心根を見るような気がします。

“自然界のあらゆる所に神が宿る”という昔からの素朴な庶民信仰は、大切に伝え続けて
行きたい素晴らしいものだと思います。

ところで、この池の主は埋められてしまったこの場所に、今も留まっているのでしょうか?


善福寺ー23

この銀杏の古木は、弁天池を知っています。
根元が池のほとりだったはずです。


善福寺ー1
善福寺ー22
善福寺ー21

池は姿を消し、コンクリートの防火槽と砂利が敷かれた空き地になっています。
空き地を巡る小道は昔からの道のようですから、「弁天池」はせいぜい20メートル四方の
小さな池だったと思われます。

ここ赤荻の地で没した幕末の剣豪、富士浅間流の中村一心斎と、この池にまつわる話が、
「成田 寺と町まちの歴史」(小倉 博著)に紹介されています。

一心斎は当代随一の剣豪と謳われ、一方ではその破天荒な言動でも知られる人物です。
乗っていた船が難破し、外国船に助けられて二年ほどアメリカに渡っていたと吹聴したり、
水野忠邦、勝海舟、千葉周作、斎藤弥九郎、二宮尊徳等、時代の著名人との交流などは、
高橋三千綱氏の「剣聖一心斎」シリーズで(史実か否かはともかく)良く知られています。

流派の普及のため諸国を巡り、晩年は木更津や九十九里に逗留した後、赤荻で安政元年
(1854)にこの世を去りました。

『村の天台宗善福寺に葬られ、門人たちによって墓石が建立されたが、その後若者の
いたずらなどにより、墓石は寺の門前の小池に沈められたという。』 
 (P259)

この池が埋められた時、一心斎の墓石は掬い上げられたのでしょうか?

一心斎の墓は木更津の「成就寺」にもありますが、これは弟子たちが善福寺より分骨して
建立したのもと伝えられています。


善福寺ー8
善福寺ー13

『善福寺は阿弥陀如来が本尊で、稲荷山と号している。安政三年当時、村内に一六軒の
檀家を有し、持高は四石七斗一升である。境内一畝六歩が除地で、鎮守稲荷大明神宮や
天狗宮を支配していた。』
『本堂は文化年間(一八○四~一八一八)の建立になる。』

(「成田市史 中世・近世編」 P783)

200年前の本堂はもうありません。
市史が編さんされたのが1988年ですから、現在の本堂はここ二十年くらいの間に建て替え
られたもののようです。
ほんの一部、窓越しに見える内部の様子からは、生活感が感じられる本堂ですが、声をかけ
ても返事はありませんでした。


善福寺ー26

善福寺ー9善福寺ー10
善福寺ー11善福寺ー12
境内には4つのお小堂が並んでいます。

右端のお堂には「観音堂」と書かれていますが、並んでいる他の三つのお堂には
何も書かれていません。
一番左の新しい鞘堂に入っているのが「稲荷大明神」でしょうか。
中の二つは「地蔵堂」のようです。


善福寺ー14

石段の下に残る桜の古木。
この桜は、埋め立てられた池のほとりに立つ銀杏とともに、かつての「善福寺」を見て
いるはずです。
明治27年(1894)ごろには、「善福寺」の境内に中郷小学校の仮校舎があり、近隣に
元気な子どもの声が響いていました。


善福寺ー16
善福寺ー17

石段と墓地の間の小さな畑でキジバトが何かを突いていました。
近づくとちょっとさがって距離を置きますが、あまり人を恐がっていないようです。
普段はひとけの無い場所だからでしょうか。


善福寺ー18
善福寺ー15

「成田の地名と歴史」によれば、天保九年(1838)の赤荻村の戸数は34戸、人口は174人
という記録が残っています。
昭和36年(1961)には人口は316人でしたが、平成22年には228人へと減少しています。

多くのお寺と同様、「善福寺」も地域の過疎化の影響を受けているのでしょうか。


善福寺ー28
善福寺ー27

前回ここを訪ねたのは4月の末でした。
この2枚の写真は5月末のものです。
1ヶ月経った今、石段も境内も、すっかり雑草に覆われていました。
一部のお寺を除き、大部分のお寺は、維持して行くのも難しいのが現実のようです。


善福寺ー20


               ※ 「稲荷山善福寺」  成田市赤荻1162



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中郷村の寺社 | 23:26:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社
今回は、赤荻(あかおぎ)の稲荷神社です。

赤荻稲荷ー1

「稲荷神社」のご祭神は「倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)」。
古社名は「稲荷大明神」。
倉稲魂命は日本書紀に登場する神で、古事記では宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)として
記されています。
前回に訪ねた「羽黒神社」と同じご祭神で、穀物の神様です。
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されています。


赤荻稲荷ー2

石段下の斜面に立つ「青面金剛」(庚申塔)。
享保十六年(1731)のものです。


赤荻稲荷ー3

石段下の斜面には「道祖神」もあります。
宝暦八年(1758)と記されています。


赤荻稲荷ー4
赤荻稲荷ー5

石段は折れ曲がって上へと続いています。


赤荻稲荷ー6

台輪鳥居には控柱が付いています。


赤荻稲荷ー7

鳥居の下に置かれた手水鉢には明和六年(1769)と刻まれています。


赤荻稲荷ー9

『稲荷神社は赤荻地区の鎮守で、ご祭神は穀物の神で知られる倉稲魂命である。創建年代
は不詳であるが、村人が京都の伏見稲荷大社から勧請したと伝えられる。』

(「成田の史跡散歩」 P274)

以前、野毛平の「鎮守皇神社」が村人によって勧請された珍しい例と紹介しましたが、良くある
ことなのかも知れません。

また、「成田市史近代編史料集一」に収録の「下総國下埴生郡赤荻村誌」には、
『境内二百四坪、祭神大山祇女尊、倉稲魂命 土祖神三座、創建詳カナラス。社格村社。』
とあります。
「大山祇尊(オオヤマツミノミコト)」は良く見聞きする名前ですが、「大山祇女尊」という神様は
初めて聞く名前です。
「オオヤマツミメノミコト」というのでしょうか、名前からすると女神のようです。
「オオヤマツミ」とは「大いなる山の神」という意味で、男神とされています。
「山の神」とは、普通、女神を指す言葉であることと、日本書記には「オオヤマツミ」が女神と
読めるところがあるという説もありますが、一般に広く知られている「大山祇尊」の名前に、
わざわざ「女」と入れる必要があるでしょうか?

「大山祇尊」について調べるうちに、その娘の「石長姫(イワナガヒメ)」に関して興味深い
ことを見つけました。
「石長姫」は妹の木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)とともに、天孫降臨の物語で知られる
邇邇芸命(ニニギノミコト)に嫁いだものの、容姿が醜いという理由で帰されてしまった姫で
すが、この姫をご祭神とする数少ない神社の中で、奈良県にある「伊波多神社(いはたじん
じゃ)」に関連して「大山祇女石長姫」の名前がありました。
この神社の現在のご祭神は、「伊波多神」なのですが、明治3年(1870)の「大和國大小
諸神社名記並縁起」にはご祭神を「大山祇女石長姫」と記しているのです。

「赤荻村誌」にある「大山祇女尊」とは、「大山祇女石長姫」のことではないでしょうか?

滋賀県草津市の「伊砂砂神社(いささじんじゃ)」では「岩長比賣命」、静岡県松崎町の「雲見
浅間神社(くもみせんげんじんじゃ)」では「磐長姫尊」、茨城県つくば市の「月水石神社(がっ
すいせきじんじゃ)」では「磐長媛」と書きますが、いずれも「石長姫」と同一神です。


赤荻稲荷ー10

神額には「正一位稲荷大明神」と記されています。

人に対する位階は正一位以下30階ありますが、神社に対する神階は15階で、最下階は
正六位となっています。
嘉祥四年(851)に全国の神社のご祭神に対して、正六位以上の神階が贈られたためです。
神階は分祀された神社には与えられませんが、次第に律令制の効力が失われるにつれて
勧請元の神階を名乗る分祀先の神社が現れました。
特に稲荷神社ではこの例が多く、「正一位」は稲荷神社の別称と言われるほどです。


赤荻稲荷ー11
赤荻稲荷ー13

流造りの本殿にはいくつかの掲額がありますが、いずれも色褪せて、「額に入った板」でしかない
状態になっています。

赤荻稲荷ー14
赤荻稲荷ー15
赤荻稲荷ー16

そんな中で、一枚だけ何かが描かれた跡が見えました。
アップして見ると、どうやら昔の稲荷神社の絵のようです。
社殿や鳥居が見え、一部民家の屋根も見えています。
人影のように見える白い部分には何が描かれていたのでしょうか?
人にしては、周りとのバランスから大きすぎます。


赤荻稲荷ー17

本殿の右奥の鞘堂に守られたお堂。


境内には多くの石祠があります。

『境内にはほかの場所から移された一〇数基の小祠が合祀されているが、この合祀は
明治四二年(一九○九)と大正初期に行われたものである。』

(「成田の史跡散歩」 P274)

拝殿・本殿の周りを時計回りに見てみます。

赤荻稲荷ー19  ←  一番左の祠
赤荻稲荷ー20  ← 二番目の祠 
赤荻稲荷ー21  ← 三番目(明和三年)  
赤荻稲荷ー22  ← 四番目の祠
赤荻稲荷ー23  ← 五番目の祠
赤荻稲荷ー24  ← 六番目(郷内安全)
赤荻稲荷ー25  ← 七番目(浅間社)
赤荻稲荷ー26  ← 八番目(庚申塔)
赤荻稲荷ー27  ← 九番目(愛宕社)
赤荻稲荷ー28  ← 十番目の祠
赤荻稲荷-39  ← 十一番目の祠

『小祠のうち、拝殿に向かって一番手前の左側の石宮をしゃあぶき爺さんといい、右側の
石宮をしゃあぶき婆さんという。ほかの小祠は羽黒神社とか熊野神社のように社名がある
が、しゃあぶき爺さん・婆さんはおもしろい。「咳く(しわぶく)」から付けられてように両方とも
咳の神様といわれ、咳の出る人は、ここに香煎を供えると咳が止まるとされる。』

(「成田の史跡散歩」P274)
上の写真の一番目が「しゃあぶき爺さん」で十一番目が「しゃあぶき婆さん」のようですが、
他の祠と同じように見えて、特徴はありません。

※ 十番目と十一番目の祠が同じ写真だとのご指摘をいただき、差替え修正しました。
   確認ミスをお詫びいたします。 ご指摘、ありがとうございました。


赤荻稲荷ー35
赤荻稲荷ー37

石段を下りて神社の山裾を少し廻ったところに、文化十四年(1817)の庚申塔と、年代不詳の
十五夜待塔がありました。
庚申塔は斜面を見上げる位置にあり、十五夜待塔は足許の草むらに埋もれていて、注意して
歩かないと見落としてしまいます。


赤荻稲荷ー30
赤荻稲荷ー31
赤荻稲荷ー33

「稲荷神社」の森は鬱蒼として、ひんやりとした空気が流れています。

「赤荻村誌」には、村内にある神社として「稲荷神社」の他に五社を記しています。

『愛宕神社 弐拾四坪   香取神社 七拾貮坪   浅間神社 五拾六坪
熊野神社 五拾四坪餘  羽黒神社 七拾坪餘 』


どれも小さな神社ですが、これらは全て村誌が編さんされて以降、稲荷神社に合祀され、
先ほどの石祠群となったようです。


赤荻稲荷ー38


                ※ 「稲荷神社」 成田市赤荻 1



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中郷村の寺社 | 08:07:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
このまま森に沈んで行ったほうが・・・「東陽寺」
前回の「神光寺」から、さらに50メートルほど進むと、「東陽寺」があります。
残念ながら、「神光寺」以上の荒寺です。

東陽寺ー9

「東陽寺」の山号は「妙照山」、日蓮宗のお寺です。
小菅の「妙福寺」の末寺で、創建は永禄九年(1566)になります。

『一ヲ東陽寺ト云フ。位置村の中央ニアリ地坪五百廿坪、日蓮宗妙照山ト号ス。同郡
小菅村妙福寺ノ末寺ナリ。永禄九年丙寅九月廿五日、中道院日善開基創建スル所ナリ。』

(「成田市史 中世・近世編」に収録の「下総國下埴生郡野毛平村誌」より (P267)) 


東陽寺ー1
東陽寺ー2
東陽寺ー3

入口の塚の上に、2基の「青面金剛像」が彫られた「庚申塔」があります。
左側の大きい金剛像は六臂で、下部には猿を配しており、「奉侍諸親成就処」「同行十九人」
と記されています。
享保六年(1721)の紀年銘があります。
右側の金剛像は四臂で、紀年銘は無く、「長命長運」「区内安全」の文字が刻まれています。


東陽寺ー4

境内への入口に「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目塔があります。
文字は日蓮宗のお寺で良く見かけるもので、くねくねと曲がった字体です。
側面には「明照山東陽寺 享保十十壹」と記されています。
「十十」のところは、(他に読み方は無さそうなので)十が二つで二十(廿)ではないかと推理
しましたが、廿壱(21)だとすると、享保二十一年(1736)は四月二十八日に元文に改元
されていますので、微妙なところです。

また、ここでもう一つの疑問が出てきました。
「野毛平村誌」や、「成田市史」中の「近世成田市域の寺院表」では、山号を「照山」と
していますが、この題目塔には「照山」と記されています。
また、小倉博氏の「成田の歴史散歩」にも、「明照山」と紹介されています(P271)。
本山が「妙福寺」なので、「妙照山」のような気がするのですが・・・。

※ 後日漢和辞典で廾が廿の俗字であることを見つけました。享保21年でした。


東陽寺ー5
東陽寺ー6

題目塔の隣のお堂には、子安観音らしき石仏があります。
成田市史には「七面天女堂」があると書かれていますが、どう見ても子どもを抱いているよう
にしか見えません。
「明治二十五年 女人中」と記されているので、古い台座の上に新しい像を乗せたのでしょう。

七面天女は七面大明神ともいい、法華経の護法神、法華経を信仰する人々の守護神として
信仰され、右手に施無畏の鍵を、左手に如意珠の玉を持つ姿で現わされています。
この像の左手にあるのは「如意珠の玉」にしては大き過ぎ、どう見ても赤子です。
しかし、光背にある三つの玉は、如意珠の形に見えます。
あまり深く考えずに、七面天女像を子安観音の姿にしたのか、それとも・・・。
疑問は尽きません。

※ 一昨日、改めて訪れてしっかり確認しました。左手に抱えているのは赤子でした。


東陽寺ー8

お堂の前に置かれた手水鉢には、文化九年(1812)の紀年銘があり、側面には
「十六夜 十五夜講中 七面」と記されています。


東陽寺ー10
東陽寺ー11
東陽寺ー12

『東陽寺は永禄九年(一五六六)中道院日善が開山した寺で、本尊は釈迦如来。明暦元年
(一六五五)に本堂を建立し、さらに五十年後の宝永三年(一七〇六)に再建した。境内に
三十番神堂や七面天女堂などがある。』
 (「成田市史 中世・近世編」 P790)

開山した永禄年間は武田信玄が勢力を伸ばし、織田信長が桶狭間で今川義元を討ち、上杉・
武田の川中島合戦が繰り広げられるなど、戦国の時代の真っ只中にありました。
そんな時代に開山し、450年もの歴史を有するお寺が、荒れ果てています。
本堂の扉は開きっ放しで、風雨が吹き込み、祭壇も壊れています。

昭和61年編さんの「成田市史」では、このような荒れた様子は微塵も感じられません。
僅か30年の間に、一体何があったのでしょうか?


東陽寺ー13

この墓石には寛文二年(1662)と記されています。


東陽寺ー14
ーーーーーーーーーーーー東陽寺ー15
東陽寺ー16
竹林にのみ込まれそうな墓地には、元禄、寛文、正徳、明和、天明などの年号が見えます。


東陽寺ー17

墓地の中にも青面金剛の庚申塔がありました。
元禄十七年(1704)と刻まれています。


東陽寺ー20

墓地で一番大きな明治三十七年に日露戦争で戦死した陸軍歩兵伍長の墓石。
この兵士が戦死した明治三十七年(1904)八月二十日は、乃木将軍のもと旅順要塞への
総攻撃が始まった日です。
野毛平村からも何人かの出征兵士が戦場に向かい、帰らなかった兵士もいたのですね。
こんな立派な墓石が建てられた明治後半の頃、この寺は何かにつけて村人が集まる
場所であったことが分かります。


東陽寺ー21

あと十年もすれば、この墓地は雑木と竹に覆われてしまうことでしょう。


東陽寺ー22
東陽寺ー23

山道に出てしばらく行くと、目の前が開けた墓地がありました。
比較的新しい墓石が多く見られます。
墓地の入口に、天保十年(1839)の供養塔がありました。
側面に「正竜山」の文字が見えます。
「正竜山」は「東陽寺」の本寺の「妙福寺」の山号です。
往時はここまでが「東陽寺」の境内だったのでしょうか。

三里塚街道ー16
 「東陽寺」の本寺、小菅の「正竜山妙福寺」 (昨年4月末撮影)

東陽寺ー24
東陽寺ー25

竹薮の下の国道51号線との高低差は10メートルはあります。
ここに来る山道の国道側の斜面には「立入禁止」の立札があり、パイプの柵がありました。
開発の波が押し寄せてくるような予感がします。

忘れられたこの寺も、いずれ開発の波にさらわれて、消えてしまうのでしょうか?
この場に立っていると、いっそ忘れられたまま、雑木と竹に覆われて静かにゆっくりと朽ち、
森の中に沈んで行った方が良いような気もします。


東陽寺ー26


                  ※ 「妙照山東陽寺」 成田市野毛平614-2



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中郷村の寺社 | 08:03:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
荒れ寺に微笑む如意輪観音~神光寺
「神光寺(しんこうじ)」は前回紹介した「皇神社」のすぐ隣にあります。

神光寺ー8

「神光寺」は天台宗のお寺で、山号は「天照山」。
江戸時代には「鎮守皇神社」の別当でした。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。

「下総國下埴生郡野毛平村誌」には、この「神光寺」について、こう書かれています。

『二寺アリ。一ヲ神光寺ト云ヒ、村ノ稍中央ニ位シ、地坪四百一坪、天台宗天照山ト号ス。
同郡山之作村円融寺ノ末派ナリ。開基創建何レノ年号月日ナルヤ詳ナラス。』

(成田市史 近代編史料集一 P267)

円融寺ー1 本寺の山之作・円融寺
円融寺ー21 昨年11月撮影


神光寺ー1

静かな山道に人の気配は全くありません。

木々の合間に見えているのは、前回紹介した「皇神社」です。


神光寺ー2
神光寺ー3

宝珠も錫杖も、頭さえもかけてしまった石仏は、誰かが間に合わせで載せたセメントの頭で、
それでも一人すっくと立っています。

神光寺ー4
神光寺ー5
ーーーーーーーーーーーー神光寺ー6
境内左手に並ぶ二つのお堂。

石仏の一つの台座には、文政十年(1827)と「大師遍照金剛」の文字が見えます。
遍照金剛(へんじょうこんごう)とは大日如来のことですが、弘法大師を指すこともあります。
良くお遍路さんの背中にこの文字が書かれています。


神光寺ー14
神光寺ー9

境内、本堂ともに荒れています。
もう大分長い間、人の手が入っていないようです。

「成田市史 中世・近世編」には、「神光寺」について次のように記しています。

『野毛平村の神光寺は天照山と号し、本尊は阿弥陀如来である。鎮守皇神社(神明宮)の
別当寺であるため、同神社境内に本堂と薬師堂を置いていた。創建など明らかでないが、
寛文六年(一六六六)の神社再建時の棟札に「再造天照太神宮社一宇 香取郡大須賀庄
野毛平鎮守 地頭松平民部正 当時社務別当神光寺現住寛乗」と、寺名と住職寛乗の名前
がみえる。』
『なお、棟札にある「地頭松平民部正」とは、当時野毛平村の領主であった旗本松平(形原)
民部少輔氏信のことである。天保六年(一八三五)本堂を再建した。』
 (P781)

創建年代が不詳とは言うものの、少なくとも350年以上の歴史はあるわけです。


神光寺ー10

本堂正面の軒下に小さな鐘が吊るされていました。
埃にまみれて刻まれた文字はほとんど読めませんが、「昭和四十九年」の銘は読めました。


神光寺ー11
神光寺ー15
神光寺ー16

藪をかき分けて本堂の裏手へ回ろうとしましたが、密生する竹に阻まれて進めません。
荒れるにまかせた本堂の内部にも、竹が伸びていました。


神光寺ー17
神光寺ー19
神光寺ー20

本堂の左奥に並ぶ、古い墓石には、元文、享保、安永、天明、天保などの年号が見えます。


神光寺ー21
神光寺ー22

竹やぶの中に「如意輪観音」を見つけました。
この寺の荒れようを見ても、かすかに微笑む穏やかなお顔の横には、元文元年(1736)
丙辰と記されています。
280年前のこの観音様の前からは、掃き清められた境内が見渡せたはずです。


神光寺ー23

良く見ると、ツタに覆われた墓石が散在しています。


神光寺ー25
神光寺ー24

この石塔には「馬頭観世音」と刻まれています。

「馬頭」は、諸々の悪を下す力を象徴していて、煩悩を断つ功徳があるとされていますが、
「馬頭観音」をその馬頭という名前から、馬の守護仏とする民間信仰があります。

『神光寺にあった観音堂は、のちに香取神宮のご祭神となる経津主大神が、東征のため
この地を通ったとき、長旅の疲れで愛馬が死んでしまったのでその霊を祀ったところと
いわれている。』
 (「成田の史跡散歩」 P271)

村人たちは一本の松を植えて白馬を葬りましたが、年月を経て松が立派な木になったころ、
樹上から悲しげな馬の嘶きが聞こえることがありました。
村人たちは白馬が香取に去った経津主大神を呼んでいるのだろうと、たいそう憐れんで、
その松を「馬嘶の松」と名付けた、という話も、「成田 寺と町まちの歴史」(小倉 博 著)に
紹介されています。

石塔はこの伝承と関わりのあるものなのでしょうか?
周りを見渡してみても、境内には松の木は見当たりませんでした。

松虫姫に置いて行かれた牛の物語や、この白馬の物語は、何とも不憫な思いがします。
時の彼方の姫と牛 ☜ ここをクリック


神光寺ー28

境内から道に出て、更に奥に進む途中に、「奉敬 待庚申開眼供養」と刻まれた石塔が
建っていました。
「明和八年 別當神光寺」と記されています。
明和八年は、西暦1771年になります。


神光寺ー27

訪ねる人の無いお寺が荒れて行くのは寂しいものです。
“時の流れだ・・・”、“過疎化のためだ・・・”とは言っても、かつてここにお参りし、説法を聞き、
送り、送られした人たちの“想い”が、まだこの場所に漂っているような気がします。


神光寺ー29


                ※ 「天照山神光寺」 成田市野毛平497



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中郷村の寺社 | 08:16:56 | トラックバック(0) | コメント(4)
ひとり踏み止まる・・・野毛平の「鎮守皇神社」
今回は、野毛平の「鎮守皇神社(ちんじゅすめらじんじゃ)」を訪ねます。

成田駅方向から51号線を佐原方向に向かい、野毛平工業団地の少し手前を左に入ると、
国道や工場地帯のそばとは思えない雑木林と竹林が広がる台地に出ます。
まず人も車も通りそうもない道端に「鎮守皇神社」があります。


皇神社ー1

「鎮守皇神社」の古社名は「神明宮」。
ご祭神は天照大神です。


皇神社ー2
皇神社ー3
皇神社ー4

鳥居の下に、50×30センチくらいの石が2つ転がっています。
良く見ると、何か文字らしきものが彫られています。
摩耗していますが、「奉納 靈石」と読めました。
これは「力石」です。
江戸時代から明治時代にかけて、このような力石による力試しが各地の村や町で盛んに
行われ、特に神社のお祭りで行われることが多かったようです。
時の流れとともにこの風習は廃れ、ほとんどの力石が打ち捨てられ、忘れられて行きまし
たが、わずかに各地の神社に奉納されたものが残っています。
通常、石の重さは60キロ以上、米俵より重くなくては競技の意味がなかったようです。

かすかに「壱石」と読める文字が刻まれていますので、ここの石は通常の半分の約31キロ
の重さのようです。
何の変哲もない石のように見えますが、なかなか貴重なものだと思いますので、保存に
配慮が欲しいところです。

「香取神宮」で「さし石」と呼ばれる「力石」の一種を見たことがありますが、ここの石は
「香取神宮」の力石より少し小振りのようです。

香取神宮に奉納のさし石 香取神宮ー57


皇神社ー5皇神社ー6
「皇神社改修記念」と記された、平成12年に奉納の御神燈。


皇神社ー7
皇神社ー8

手水鉢には明治三年(1870)と記され、正面に大きく「奉獻」と彫られています。


皇神社ー11

木々に陽を遮られている境内には、一面に苔が生えています。


皇神社ー12
皇神社ー13

「下総國下埴生郡野毛平村誌」には、

『皇太神宮ヲ祭レリ。村ノ稍中央ニ在リ、祭日九月二十日、本社ハ村内ノ人民之ヲ創建
スト虽トモ年号月日詳ナラス。境内ニ存スルモノハ妙見宮、天満宮ノ二社ナリ。』

(成田市史 近代編史料集一 P267)
とあります。

村民による創建と伝えられる神社は、珍しいのではないでしょうか。


皇神社ー14


千葉県神社庁編さんの「千葉県神社名鑑」(昭和62年)によれば、本殿は銅板瓦葺きの
神明造りで、1.6坪、拝殿は亜鉛板葺きで6坪の建物です。
境内は253坪あります。
鰹木は4本、千木は水平切りで、ご祭神が女神であることを示しています。


皇神社ー16

寛文六年(1666)に再建されたという記録が残っているようですが、現在の社殿は御神燈
にあったように、平成12年に改修されたものです。


皇神社ー17

脇の竹やぶから、筍が元気良く頭を出していました。(4月29日撮影)


皇神社ー19
皇神社ー9

「野毛平村誌」にあるとおり、二つのお堂が境内にありました。
どちらが妙見宮で、どちらが八幡宮でしょうか?
何となく石の祠が八幡宮、木造の小堂が妙見宮のような気がしますが・・・。
「成田市史 中世・近世編」中には、成田市域の妙見神社の一つが皇神社境内にあると
書かれていますが(P249)、八幡宮についての記述は見つかりませんでした。


皇神社ー23
皇神社-24

拝殿の軒にスズメバチの巣を見つけました。
そう言えば鳥居の下にスズメバチの死骸がありましたので、この巣はまだ活動中のようです。


皇神社-21

並び立つ古木にはツタがからみ、裏側からは竹林が迫っています。
周りの森が荒れているので管理が大変そうです。


皇神社ー20
皇神社ー22


『野毛平村創置ノ年号干支詳ナラス。往古ヨリ埴生郡ニ属シ、遠山庄久米郷ニ隷ス。
当村古昔ニ泝リ得テ考フヘキ書目ナシ。』
『只知ル佐倉下総國印旛郡城主堀田相模守正亮ノ所領ニ属シテヨリ、以還連綿トシテ
本村ヲ領スル事ヲ明治元年徳川氏大政ヲ返上シ、続テ明治二年己巳六月藩主堀田
正倫版籍ヲ奉還シ、仝月佐倉藩知事ニ任セラレ本村ヲ管轄ス。仝年十一月仝縣廃セラ
レテ更ニ印旛縣ノ管轄スル所トナル。仝六年癸酉六月仝縣廃セラレ改テ千葉縣ノ管轄
スル所トナル。』


「野毛平村誌」には村の成り立ちについてこう書かれています。

多くの村々では頻繁に領主の交代がありましたが、野毛平村は元禄十四年(1701)
から明治の廃藩置県に至るまでの約170年間堀田家の下にありました。


『地勢 村落部ハ高燥ニシテ平坦、四面土壌起伏シ、田畑山林相交ル。』
『地質 其色淡黒、其質稍美、稲麦甘薯及野菜等ヲ作ルニ適ス。』


村誌にこう書かれた野毛平村ですが、昭和50年代に入ると国際空港の開港の波に
のまれることになります。
この地域は騒音区域内になり、多くの住民が近くの米塚団地に移転し、神社の周りから
生活の匂いが遠のいて行きました。

その昔、野毛平の住民が地域の安寧を願って勧請した「鎮守皇神社」は、人影の無く
なったこの場所で、時の流れに逆い、ひとり踏み止まっているように感じます。


皇神社ー24


                  ※ 「鎮守皇神社」 成田市野毛平498



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中郷村の寺社 | 08:38:10 | トラックバック(0) | コメント(2)
山裾から清水が湧き出る~「大泉山城固寺」
城固寺ー1

「城固寺(じょうこじ)」は元亨二年(1322年)に創建された天台宗のお寺です。
山号は「大泉山」、ご本尊は「阿弥陀如来」です。


城固寺ー2

山門の手前に一体の石仏が坐っています。
文化十一年(1814年)と記されていますが、何の仏様かは分かりません。


城固寺ー3城固寺ー4
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「戦捷(せんしょう)=戦いに勝つ」と「紀念(記念と同意ですがもう少し深い“想い”のような
ものが込められていると私は思っています)」と刻まれた門柱。


城固寺ー5
城固寺ー6

境内にある平成8年の「本堂新築記念碑」に記されたところによれば、
「大泉山城固寺は天台宗に属し、その創建は後醍醐天皇の御宇元享二年(一三二二年)
良範僧正によると伝えられ、天正十年、元禄八年、享保十七年に夫々修繕されたが、
明治十二年七月の火災によって全院と古文書類焼失明治十六年(一八八三年)僧英純が
再建、本堂四十七坪、庫裡三十坪長屋十二坪の地方有数の伽藍となったが昭和十九年
末の米軍機本土空襲の際その犠牲となり全棟が灰燼に帰した。爾後度々再建の議が
興ったが戦後人心混乱期に当り延引したが去る平成四年住職の発願、法類諸寺院住職
の推奨と檀徒内有識者の懇願によって、再建新築の議興り同五年頭初建設委員会が
結成され委員各位の懸命な努力と檀徒の強力な支援のもとに・・・」

平成8年に新本堂が完成しました。

米軍機による爆弾投下が、こんな山中に行われるわけは無く、東京に落としそこなった
爆弾を適当に捨てたものが、たまたまこの寺を直撃したのでしょう。
余談ですが、当時の爆撃機は(今でも同じかも知れませんが)、目標の周りを旋回して
爆弾投下をするのではなく、目標上空を一直線に飛行して投下し、そのまま帰投します。
目標を通過しても投下し切れなかった爆弾は帰投途中で放棄するのが常でした。


城固寺ー7
城固寺ー8

本堂の左手には池があり、池に注ぐ水路が本堂の裏手へと延びています。


城固寺ー9
城固寺ー10

水路を辿って行くと、裏山の斜面から水が落ちています。
少量ですが、糸のように流れ落ちているのが見えます。
この寺の「大泉山」の山号はここから来ているのでしょうか。

城固寺ー11

湧水の多い土地のようで、すぐ傍にももう一か所水が浸み出している場所がありました。


城固寺ー12

本堂の陰になって見えない場所で、梅が満開になっています。


城固寺ー13

池の縁や周りには趣のある置き石や灯篭が配され、とても落ち着いた雰囲気です。


城固寺ー15

境内の外、小高い場所に墓地があります。
享保、寛政、弘化、嘉永、天保などの墓石の中に、竪者(りっしゃ)や大阿闍梨(だいあじゃり)
などの文字が見えます。
いずれも激しい修行を修めた高僧のお墓で、同じ天台宗の「薬王寺」にも多くの同様なお墓
がありました。
薬王寺 ⇒


城固寺ー16

山門に続く道端に小さな塚があり、百日紅の大木の下に小さな祠がありました。
近づいてみましたが、文字らしきものは見えません。


城固寺ー17

山門から50メートルほど手前のT字路に「一石一字塔」と刻まれた石塔があります。
これは「一字一石塔」とも呼ばれるもので、小石に経文の一字ずつを書写して地中に埋め、
その上に石塔を建てたものです。
埋経(まいきょう)と言われるもので、前述の土屋の「薬王寺」にもありました。


城固寺ー19
城固寺ー20
城固寺ー21

城固寺とは山を挟んで背中合わせの場所に「住吉神社」があります。
社殿に向かうには、「一石一字塔」の先の畦道から回り込まなければなりません。
せっかくですから86段の石段を登ってお参りしましたが、狭い境内には社殿の他には
何もありませんでした。


城固寺ー14
城固寺ー18

茨城の稲敷にある「逢善寺」を本山とする「城固寺」は、江戸時代には多くの末寺を持って
いましたが、そのほとんどのお寺が廃寺となり、今では赤荻の善福寺のみが残っています。
「成田市史 中世・近世編」中の「近世成田市域の寺院表」には、「城固寺」の末寺として
西和泉の「守泉寺」、赤荻の「善福寺」、同じく「吉祥院」、水掛の「正寿院」、芦田の「安養寺」
同じく「証明寺」の6寺が記載され、「吉祥院」が弘化四年の火災による焼失以降再建されず
に廃寺となったものを始め、「善福寺」以外には全て廃寺と記されていました。

裏山の山裾から清水が湧きだす「城固寺」。
前面に広がる山里と織りなす風景は、心休まるものがあります。


城固寺ー22

                 
                ※ 「城固寺」 成田市西和泉41-2
                  JR久住駅より徒歩約30分
                  成田市コミュニティバス 大室循環コース 赤荻経由で
                  東和泉青年館下車 徒歩2分  駐車場なし



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中郷村の寺社 | 06:50:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
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