
山号は「雲通山」、ご本尊は阿弥陀如来です。
永正十一年(1514)の開山と伝えられています。


***

参道の入り口に立つ二基の「地蔵菩薩」。


境内に入ってすぐ左手に「青面金剛」があります。
明治九年(1876)のもので、六臂像です。


隣には欠けた二基の板碑があります。
正徳の元号だけが読めますので、約300年前のものです。


右側の大師堂にはやや小さめの大師像が安置されています。


***********

大師堂の隣は「子安堂」です。
ガラス戸の奥の子安観音は、赤子を抱くというよりは、左手の掌の上に乗せています。

子安堂の隣には七福神の「寿老人」が祭られています。
「寿老人」は、中国の伝説上の人物で、南極老人星(りゅうこつ座α星・カノープス)の化身と
され、長寿の神様です。
「福禄寿」と同一神と考えられているため、七福神から除外されることもあります(この場合は、
代わりに猩々や吉祥天が入ります)。



お堂の奥の像と手前の石像とは、大分雰囲気が違います。
この「寿老人」は、地域活性化事業の一環として昭和61年に誕生した、「しもふさ七福神」の
一柱となっていますが、七福神の各像はどれも表情豊かです。


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「龍勝院」の位牌を抱いた落武者が身を寄せた古刹~眞城院 ☜ ここをクリック


静けさが寺の始まり~楽満寺 ☜ ここをクリック


杉木立の中の乗願寺 ☜ ここをクリック


坂東札所28番滑河観音(龍正院) ☜ ここをクリック



徒歩で七福神を回ると、約17.5キロのコースです。
【JR滑河駅 →(0.7㎞)→ 眞城院 →(5.2㎞)→ 成田ゆめ牧場 →(0.6㎞)→ 常福寺 →
(1.8㎞)→ 楽満寺 →(4.0㎞)→ 乗願寺 →(3.0㎞)→ 昌福寺 →(1.0㎞)→ 龍正院
→(1.2㎞)→ JR滑河駅】 が「千葉県公式観光物産サイト」のお勧めコースです。


「千葉縣香取郡誌」に、「昌福寺」はこう書かれています。
「雲遍山昌福寺 滑川町大字西大須賀字谷津に在り域内千二百五十四坪淨土宗名越派に
して阿彌陀佛を本尊とす傳へて慈覺の作とせり寺傳に曰く永正十四年丁丑僧昌順之を開創し
良正上人を以て中興とす雲遍山の扁額は知恩院順眞法親王の筆なり」
また、「下総町史 通史 近世編」(平成6年)には、
「昌福寺 雲通山智光院と号し、下野国芳賀郡大沢村(栃木県益子町)円通寺の末。 本尊は
阿弥陀如来。寺伝によれば永正十一年(一五一四)に円通寺開祖良栄上人の法孫良翁上人
昌順和尚が開いたという。 にしかし、郡誌では山号を雲遍山とし、永正十四年(一五一七)に
昌順が良正上人をもって中興とすとしており一致しない。」
「幕末安政二年(一八五五)の昌福寺什物帳によれば、本尊の阿弥陀三尊、他に善導大師・
開祖大師(法然)・開山上人像を安置している。 また寺所有の土地を十数人に小作地として
貸している。 かなり裕福な寺院であったと想像される。」 (P402~403)
と書かれています。
山号について、郡誌では「雲遍山」、町史では「雲通山」となっていますが、扁額(寺額)には
「雲通山」とありますので、町史の解説の方が正しいように思われます。


**********


墓地には延宝、宝永、享保、宝暦、明和、安永などの古い墓石が並んでいます。


境内に入ってすぐの場所に、四つの礎石跡があります。
その間隔から、かつてここにあった山門跡のように思われます。

道路際のガードレールに隠れるように、昭和58年の「馬頭観音」の石碑がありました。

県道に立つ看板には「寿老神」の文字が見えます。
神社に祀られるときは「寿老神」となりますが、お堂の中の像が「寿老神」で、前の石造が
「寿老人」なのかな・・・などと思いました。

境内に隣接する「月かげ保育院」です。
昭和16年5月に、「昌福寺境内に託児所が開設された」という記録がありますので、それ以来
の伝統でしょうか。


成田市内には浄土宗のお寺は、この「昌福寺」の他は、大菅の「檀林寺」、冬父の「迎接寺」、
台方の「西光寺」と四寺しかありません。
このうち、「西光寺」以外は旧下総町にあります。



(上から大菅167の「檀林寺」、冬父86の「迎接寺」、下方905の「西光寺」)

成田市のホームページ中の成田市観光ガイドには、「昌福寺」を次のように紹介しています。
「雲通山、智光院、昌福寺、浄土宗。永正十一年(1514年)太蓮社良翁上人の開山。火災
により右文書、什物など消失し、由緒不詳。当山中奥十一世良正上人によって、元文五年
(1740年)に十間四面総欅造り、天井に極彩色の百花の絵、内陣欄間に龍などの彫刻を
施した現本堂を再建されたが、実に二度の洪水に見舞われながら、九年間の歳月を要した。
その後、山門、鐘楼堂、僧坊等の伽藍が整備されたが、現在は本堂のみ残る。」
根木名川と派川根木名川が利根川に注ぐこの地は、何度も洪水に見舞われたようです。
県道「成田・滑河線」からは一段高い境内は、洪水対策であったのでしょうか。
お堂や石仏・石造物を一角に集めて、中央には何も置かない、殺風景とも言えそうな境内は、
園児たちが楽しく走り回れるようにとの配慮のように思えます。

※ 「雲通山 昌福寺」 成田市西大須賀1872
前回の「大戸駅」の近くにある「浄土寺」を訪ねます。




「浄土寺」は浄土宗のお寺で、ご本尊は「阿弥陀如来」、山号は「遍照山」です。
山門の掲額には「徧照山」となっていますが、各種の史料には「遍照山」となっています。
(徧は遍の異体字です。)
浄土宗千葉教区ホームページには、「浄土寺」について次のように書かれています。
「寺伝によれば、天正7年(1579)矢作城主・国分大膳胤政を開基に、奥州磐城の生れ、
存把上人の弟子であった南蓮社人譽上人が開山となり創建された。その後、新城主と
なった鳥居彦右衛門尉の菩提所となり、寺領を加附されたと伝えられるが、再三の火災
により、その後の事は不明である。」
また、境内にある板碑に刻まれた年号や梵鐘の銘文から、開基は鎌倉時代中期以前で
ある可能性もあることが紹介されています。
天正七年の開山とすれば約440年、鎌倉時代中期以前となれば約800年の歴史です。

参道の途中に、六基の石仏が並ぶ細長いお堂があります。


左端にあるのは智拳印を結ぶ「大日如来」です。
「湯殿山大権現」と「貞享二」の文字だけが読め、他は剥落や風化で読めません。
貞享二年は西暦1685年になりますから、330年前のものです。

***********

安政六年(1859)の「慈母観音」。
「観音經百万巻供養塔」と刻まれています。
一瞬、“マリア像か?”と思わせる像容です。


元禄十五年(1702)のこの石仏には、「奉造立大勢至為■■■」と記されています。
合掌する「勢至菩薩」です。

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「如意輪観音」。
「元禄八■九月 奉造立如意輪觀世音■■」と読める気がします。


この「慈母観音」には、「享和二戌年三月吉日」と記されています。
享和二年は西暦1802年になります。

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二臂に見えますが、よく見ると六臂の「青面金剛」。
「寛延二己巳九月吉日」と刻まれています。
寛延二年は、西暦1749年です。

山門を入った右側に卵塔が並んでいます。
歴代住職のお墓のようですが、いずれも風化が進んで、文字はほとんど読めませんが、
かろうじて元禄、正徳、明治の元号を見つけました。

山門の先には鐘楼があります。
案内板には次のように書かれています。
『梵鐘(貞和五年在銘)梵鐘は、もとは仏事に使われていたが、のちに人を集めたり、時刻の
合図に用いられるようになった。 この鐘は、銘文から以前あった鐘を貞和五年(一三四九)
に改鋳、慶長年間(一六〇〇年前後)この寺に持ってこられたと考えられています。鐘をつく
ところを「撞座」と呼ぶが、この撞座の文様は、千葉市郷土館保管(康永二年在銘)のものと
一致し、同じ型で造られたことがわかる。』
667年前に鋳造された鐘が、まだ現役でここにあることは驚きです。
浄土宗千葉教区ホームページにも、この梵鐘についての記述があります。
「現存する梵鐘は、城主鳥居彦右衛門尉が 磐城へ処替えの際に寄進された鎌倉時代の
古鐘で、慶長7年(1602)6月12日に磐城より当寺にもたらされたものである。銘文には、
建長6年(1254)・貞和5年(1349)の年号等のほか、当寺への寄進の旨、人譽上人のこと
などが刻まれている。」
「この鐘は大平洋戦争の時にも、貴重な文化財として供出をまぬがれている。」



「佐原市史」には、この梵鐘について次のように書かれています。
「本寺の梵鐘は、鐘身の高さ約七四糎、総高約一米、径約五七糎でどちらかといえば、やや
小さい部類に属するものとみられる。『下總國奮事考』巻一一の金石篇に記されている著者
の注記には 「土人伝、此鐘自二陸奥岩城一齎来、浄土寺、天正中有二鳥井家臣高須氏之
縁故一、及下鳥井家自二岩埼一移中岩城上、於二岩城一別創二國慶寺一為二供華院一、此時
新鋳二彼地鐘一、以二其古鐘一寄二附此寺一、即是也、果然則建長貞和題名、皆奥州人也。」
とある。 これによってもこの梵鐘は慶長七年(一六〇二)六月一二日に岩城(磐城)から
もたらされたものであることがわかる。』
(文中の朱色の小文字は、一・二点、上・中・下点です。)

鐘楼の脇の常夜燈には、「慶應元年」と刻まれているように見えます。
慶応元年は西暦1865年です。

**********

常夜燈の側にある手水鉢と「大乘妙典供養塔」。
残念ながら年代は分かりません。

「千葉縣香取郡誌」に、「浄土寺」についての記述があります。
「遍照山浄土寺 東大戸村大字大戸川字新宿に在り域内三百八十九坪浄土宗にして阿彌陀
如来を本尊とす創建詳かならす天正九年辛巳矢作城主國分胤政之を再建すと七八十年前
舞馬の變に際せしが古文書古鐘等は依然として存せり其建長の古鐘銘に因り之を察すれば
其開創の殊に古代に在りしを知るに足る可し慶長七年六月十二日徳川家康亦梵鐘を寄附し
後世佐原の人伊能景晴茂左衛門亦阿彌陀を寄附せり本寺古鐘銘は下總國奮事考に詳記し
あるを以てこれを略す」
矢作城主の伊能景晴によって再建されたのが天正九年(1581)とすれば、創建はそれ以前
ということになり、鎌倉時代中期以前の創建とする説が有力となってきます。
なお、この記述のように、梵鐘が徳川家康によって寄附されたとすれば、梵鐘の銘文にその
記述があってもおかしくないと思われますが、史実はどうだったのでしょうか?



本堂の裏には割れた板碑が散乱しています。
いろいろ事情があって仕方が無いことかも知れませんが、それぞれに歴史や制作者の想いが
あるはずなので、少々残念な気がします。


倒れた板碑の向こうは大須賀川です。


日中戦争や大東亜戦争での地元出身の戦死者慰霊碑。

境内の一角に板碑が並んでいます。
「佐原市史」(昭和41年)には、この寺の開基年代を知る根拠として、これらの板碑の紀年銘を
あげています。
「大戸川新宿にある。山院号遍照山光明院。浄土宗鎮西派知恩院の末である。本尊阿弥陀
三尊。創建の年代は明らかでないが、墓域内には文永八年(一二七一)・永仁六年(一二九八)・
至徳三年(一三八六)などの年号を刻んだ板碑があるところから、本寺の開基は鎌倉時代中期
以前にさかのぼることができる。」








欠損した板碑も並んでいます。


***********

隣接する墓地には古い墓石が並んでいます。
寛文、延宝、宝永、享保、元文、延享、明和、安永、天明などの元号が読めます。


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「『香取郡誌』には、天正九年(一五八一)矢作城主国分胤政が本寺を再建したとあるが、国分
胤政なる者がはたして矢作城主として居城したかどうか不明である。」 (P981)
「佐原市史」にはこんな一節もあります。
梵鐘や板碑など、歴史を語るものが多く残っているものの、謎も残る「浄土寺」です。

※ 「遍照山 浄土寺」 香取市大戸川35

踏切の際から、跨線橋を上り、ホームに直接下ります。
駅舎も、改札口もありません。


踏切から佐原方面の景色です。

駅の看板(?)は跨線橋にあります。
「大戸駅」はJR東日本の成田線の駅で、大正十五年(1926)の開業です。
今年で開業90年になります。

跨線橋の上から成田方面を見ています。

こちらは佐原方面です。

跨線橋からホームに下りたところに改札口代わりのゲートがあります。

*****

入場ゲートは跨線橋側に向いていて、出場ゲートはホーム側に向いています。
平成21年からSuicaが使えるようになりました。


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Suicaを持っていない人は、この「乗車駅証明書発行機」のボタンを押して乗車駅証明書を
抜き出し、降車駅の窓口で精算します。
同じ無人駅の「久住駅」にも、この「乗車駅証明書発行機」がありました。

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「久住駅」 ☜ ここをクリック

「着札乗車券箱」が跨線橋の上に括り付けられています。
切符で乗車してきた人は、ここに切符を入れます。

2番線側の待合室


成田方面の隣駅は下総神崎(しもうさこうざき)、銚子方面の隣駅は佐原(さわら)です。


向かって左側(跨線橋から下りると右側)が1番線で、上下線共にこちら側を使いますが、
行き違いがあるときだけ2番線が使われます。

長いホームです。(成田側の端から佐原方向を見ています。)

8両が最長だと思います



駅の南側はこんな景色です。


踏切を挟んで北側はこんな景色です。
「駅前」が無い、って感じですね。


線路沿いの道を成田方向に150メートルほど行くと、大戸神社の「御休所之跡」があります。
祭礼の際、神輿が立ち寄る「御旅所」のような所でしょうか。
「跡」となっていますので、現在は利用されていないのでしょう。


石造りのお社と御神燈には平成15年と記されています。


すぐ前の線路を電車が通過して行きます。


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駅と「御休所跡」の間に「縣社大戸神社道の碑」と記された石碑が建っています。
側面に「大正拾五年建立」とあります。
昔はこの道が御休所の前を通って大戸神社へ向かう主要道であったわけですが、今ではその
面影はありません。
この石碑が建てられた大正十五年は、大戸駅が開業した年でもあることが、建立をめぐる複雑
な想いのようなものを感じます。
大戸駅から歩ける距離には、以前に紹介した「大戸神社」や「地福寺」、「禅昌寺」、そして次回
紹介予定の「浄土寺」などがあります。
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平成10年頃までの一日の平均乗車人数は400人を超えていましたが、その後減り続けて、
現在の一日の平均乗車人数は200人程度になっているようです。
平成18年の平均乗車人数は243人でしたが、「佐原市史」には昭和27年の年間乗車人数
が、185,795人(1日平均約509人)であったとありました。
電車が到着し、すぐに発車して行きました。
この電車に乗車した人は一人、降車した人は二人でした。
電車が去って、また誰もいないホームに戻ります。


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線路脇の茂みから猫が一匹悠然と現れました。
この駅が縄張りなのでしょうか?
時刻表が頭に入っているかのように、しばらくの間ホームを歩いたり線路に下りたり・・・。
次の電車までは1時間はあります。

※ 「JR大戸駅」 香取市大戸川11
今回は二年前に「三里塚街道を往く その壱」でちょっと立ち寄った、小菅の「側鷹神社」です。

「千葉縣印旛郡誌」には、「側鷹神社について次のように記述しています。
「村社 側鷹神社 小菅村字中小菅にあり彦火々出見尊を祭る大同三年九月廿八日建立
社殿間口三尺奥行三尺拜殿間口三間奥行二間境内二百三十三坪官有地第一種あり神官は
宮崎廣重にして氏子六十戸を有し管轄廳まで九里二十五町一間一尺あり境内一社あり即
一天神々社 菅原道眞公を祭る嘉永元年戊申八月勸請建物間口三尺奥行一間あり神社明細帳」
「彦火々出見尊」(ヒコホホデミノミコト)は、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)と木花開耶姫(コノハナノ
サクヤヒメ)との子で、山幸彦(ヤマサチヒコ)の名で知られています。
また、神武天皇の祖父にあたるとされています。
大同三年は西暦808年ですから、実に1200年以上前に建立された古社です。

「成田市史 近代編史料集一」に収録されている、昭和8年の「遠山読本稿 巻七」には、
「村社側鷹神社は小菅区にあり、神饌幣帛供進指定神社たり。」 とあります。
また、「成田市史 中世・近世編」には、
「小菅村の側鷹神社は大同三年の創建と伝えられ、古くは杣鷹大明神と称していたが、
明和八年(一七七一)に側鷹と改称している。」 とあります。
「神饌幣帛供進指定神社」とは、郷社・村社を対象に、明治から終戦に至るまでの間、勅令
により県知事から祈年祭・新嘗祭・例祭に神饌幣帛料を供進された神社を指します。
神饌幣帛(しんせんへいはく)とは、神社や神棚に供える供物のことで、米や酒、山海の幸、
布帛、衣服、武具などです。
「側鷹神社」は実は珍しい社名で、下総地方に多くある「ソバタカ神社」は「側高神社」が多く、
他に「脇鷹神社」(成田市小泉・香取市・旭市)、「祖波鷹神社」(香取市岩部)、「相馬高神社」
(芝山町)、「素羽鷹神社」(栄町)などがあります。
いずれも香取市大倉にある香取神宮の第一摂社である「側高神社」の分社です。


手水盤は天保六年(1835)のものです。


**********

「側鷹神社遷座紀念碑」には、次のように記されています。
「本側鷹神社(祭神彦火火出見尊)は、大同三年九月二十八日(西暦八百八年)現成田市
小菅七八三番地に創祀され、以来、古くは東国の守護神であることから、神饌幣帛供進
指定神社として崇められ、過のアジア、太平洋戦争時には、旧遠山村の総社として位置付
けされた。また、地域の産土神として多くの住民が崇拝した。今般、本神社の遷座は、国家
的施策である新東京国際空港の建設に協力する美事なるも、小菅地区開村以来の大事業
であることから、氏子一同の総意をもって協恭一心敬神の誠を奉げ、平成十九年十月この
地に遷座祭を斉行した。仍って、ここに碑を建て、愈々国運の隆昌と氏子崇敬者の御加護
を祈念し、御稜成の光被を仰がんとする次第である。」
産土神(うぶずながみ)とは、人が生まれた土地の守護神を指します。
人を一生を通じて守護してくれ、生まれた土地を離れても守ってくれると信じられています。




狛犬は平成19年の寄進です。
阿形の狛犬は左足で鞠を押さえ、吽形の狛犬の足許には子犬(?)がうずくまっています。

二基の灯籠も平成19年の寄進です。

境内の左手には、小さなお社や祠が並んでいます。
手前から見て行きましょう。

左の石柱には、「奉納 御寶■■ 天保八丁酉二月吉日」と刻まれています。
天保八年は西暦1873年、この年には大坂(現大阪)で「大塩平八郎の乱」がありました。
右の祠は風化によって文字らしきものは何も見えません。

「子安社」。
「本社は、妊婦の安産と、お子様が健やかに育つことを願い、創祀されました。また、疱瘡神様
とも言われ疫病から身体を守る神様として崇められています。創祀年は不詳です。」
(説明板)

左の流造の小祠は、風化で何も読めません。
右の祠には大正六年(1917)と記されています。

「天神社」。
「本社の祭神は、菅原道真公であります。嘉永元年(一、八四五年)に学問の神様である
同公が勧請され、以降崇められています。」 (説明板)

「日天子社」。
「本社の祭神は、大日孁尊(お日様)であります。正保二年(西暦一、六四七年)に妙福寺
住職日延上人により、五穀豊穣を祈願し、創祀されました。なお、昭和四五年(西暦一、九
七〇年)までは、その年の豊作を願い、例祭を毎年八月一日に行っていました。」
(説明板)
「大日孁尊(オオヒルメノミコト)」とは、「天照大神」の別称です。
「日天子」はインドの太陽神が仏教に取り入れられたもので、観音菩薩の化身とされ、仏法
守護の十二天に数えられています。
「天照大神」を祭神とするこのお社を「日天子社」と呼んでいるのは、「両部習合神道」と呼ば
れる神仏習合思想によるものと思われます。
この「両部習合神道」については、ウィキペディアに次のように解説されています。
「両部神道(りょうぶしんとう)とは、仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基
づく神仏習合思想である。 両部習合神道(りょうぶしゅうごうしんとう)ともいう。」
「両部神道では、伊勢内宮の祭神、天照大神は胎蔵界の大日如来であり、光明大梵天王で
あり、日天子であるとし、一方、伊勢外宮の豊受大神は、金剛界の大日如来であり、尸棄
大梵天王であり、月天子であるとする。そして伊勢神宮の内宮と外宮は胎蔵界と金剛界の
両部で、この両部が一体となって大日如来の顕現たる伊勢神宮を形成しているとした(二宮
一光説)。 両部神道とは、これによって神と仏の究極的一致を説明しようとしたところに注目
した命名である。」


境内の左奥には鳥居のある「熊野神社」があります。
「熊野神社(村社) 本社の祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊であります。地域住民の夫婦神と
して、」信仰も厚く、多くの人々に崇拝されています。創祀年は不詳です。」 (説明板)
「熊野神社」と「日天子社」、「天神社」、「子安社」の各社は、もともとは小菅地区に分散して
いましたが、昭和45年に小菅783番地の「側鷹神社」の境内に合祀され、その後平成19年
の「側鷹神社」遷座に伴い、現在地に遷座したものです。
合祀前の「熊野神社」については、「千葉縣香取郡誌」中の「遠山村誌」に一行、
「小菅村字中臺 由緒不詳 氏子六〇戸」 と書かれていました。
「側鷹神社」が以前に鎮座していた“小菅783番地”を地図で探しましたが、見つかりません。
平成7年まで時間を遡って、ようやく見つけた「側鷹神社」は、現在地より約2キロほど北の
新空港自動車道を超え、ヒルトンホテルの裏側から取香川に向かったあたりにありました。
現在の地図にも、平成7年の地図にも、その一帯には地番は付けられていません。
(参考までに、巻末に地図を載せてあります。)


鰹木は三本、千木は垂直切りです。



装飾の少ない本殿と拝殿は、バランスの良い、とても美しい姿です。

境内の隅に、忘れられたように置かれている手水盤には、「安政二卯」 と刻まれています。
安政二年は西暦1855年になります。
160年前のものですが、遷座前の境内で遣われていたものなのでしょう。


**********

上空を旅客機が飛んで行きます。
遷座前の「側鷹神社」は、飛んで行く飛行機の下あたりにあったのでしょうか。


**********


境内を囲むフェンスの向こうは、遠くに見える「成田ビューホテル」のゴルフ場です。


**********

鳥居の前の狭い道路の向こうは、切り通しになっていて、京成電車が走っています。

隣接地には以前は無かったソーラーパネル群が・・・。
最近はどこへ行ってもこうしたソーラーパネル群が目立ちます。
自然を破壊してまでエコだ、クリーンだと言えるのか、私には納得できない光景です。


ソーラーパネル群とコルフ場、切り通しには線路が走り、この神社の周りには人の生活の
気配が全く感じられません。
空港事業のためとはいえ、遷座したこの場所は寂しすぎる感じがします。
2年前のブログに、この神社に立寄った時の印象が書かれていますが、この景色から感じる
ところは2年後の今も変わりません。
(その時の文章 ↓ )
「境内にも、神社の周辺にも人影がありません。
数台が停まれる駐車場も立ち入り禁止のロープが張られています。
狛犬もどことなく寂しそうです。
空港事業のためとは言え、何世代にもわたって親しんできた住民との絆が
細くなってしまったのでしょう。
道は行き止まりになり、右に曲がって京成電車の跨線橋を渡り
細い道を下ると思わぬ場所に出ました。
空港建設のために使われた、通称「資材道路」が県道44号線と交わる
急坂の途中です。
44号を左に行けば、直ぐに「さくらの山」になります。」

遷座した平成19年に植えられた記念樹も、まだこんな頼りなさです。
昔はどこにでも見られた「鎮守の森」は、そう簡単には得られない貴重な遺産であることを
痛感させられる景色です。

※ 「側鷹神社」 成田市小菅1389-9

(参考: ⇓ が現在の「側鷹神社」 + がかつて「側鷹神社」があった場所です)

「千葉県神社名鑑」には、「諏訪神社」について次のように書かれています。
「諏訪神社 祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ) 本殿・亜鉛板葺流造一.七五坪
拝殿・亜鉛板葺二四坪 境内坪数 一七七.五坪 氏子一八五戸」
「由緒沿革 創立年代は不詳。 今の社殿は、建築様式から推して享保年間にものらしく、
彫刻の精巧華麗な建物である。 御祭神が開拓の神であることからすれば、前林区が拓か
れた頃と関係があるのではないかとも思われる。 応永三三年四月の古文書にはすでに
前林の名が出ている。」
応永三十三年は西暦1426年ですから、約600年も前にはすでに集落があったわけです。

建御名方神(タケミナカタノカミ)とは、諏訪大社の主祭神で、大国主神(オオクニヌシノカミ)
の御子神であり、事代主神(コトシロヌシノカミ)の弟神になります。
「建御名方神」は、諏訪大社から勧請された全国の諏訪神社で祀られていますが、軍神と
して、また農耕や狩猟の神として信仰されています。


**********

手水舎には昭和25年に寄進された手水盤が置かれています。
手水盤には諏訪大社の神紋である「諏訪梶の葉」が彫られています。


***************

ご神木の杉の大木は、幹周り7~8メートルはありそうです。

大きな拝殿です。
どこかで見たような建物ですが思い出せません。
後で調べたところ、この拝殿には意外な秘密が隠されていました。(それは後ほど・・・)

がらんどうの拝殿の向こうに、本殿が見えています。


「今の社殿は、建築様式から推して享保年間にものらしく、彫刻の精巧華麗な建物である。」
と「千葉県神社名鑑」にあったように、見事な彫刻です。

脇障子には迫力のある表情の獅子が彫られています。


反対側の脇障子の獅子は抜け落ちて、濡縁に無造作に置かれています。

**********


**********

見えにくい所にも細かい彫刻が施されています。
享保年間の造営ということですので、約300年前の芸術的作品です。

さて、ここで先ほどの“拝殿の秘密”について、です。

弊殿から拝殿側を見ると、床の板目が不規則なことが分かります。

さらによく見ると、円形の切れ目が・・・。

**********

天井を見ると、いろいろな形の木材が積まれています。
『この大竹岸太郎の「自叙伝」の記述によれば、現在の前林の舞台は、岸太郎らが地狂言を
上演するために、戸長である岸太郎の父親が、工事主任となって建設したものであることが
知られる。』
『現在の、前林の舞台(常設舞台)は、寄棟トタン葺(以前は、茅葺)で、「拝殿」と呼んでいる。
前林地区の中心地である諏訪神社の境内、参道の中央に本殿と同方向で、ちょうど拝殿の
位置に建っている。』
『舞台の規模は、間口六間、奥行四間で、伊能の舞台よりひと回り大きいといえる。回り舞台
があり、形式は、心棒付鍋蓋式の回り舞台であったが、現在は奈落改造によって、回転不能
となっている。二重台の上下機構などはない。花道なども現存しないが、おそらく組み立て式
で、取り付けられたものと思う。』
『戦後も、しばらくの間、芸能大会、映画会、地方巡業の買芝居などに使用されていたという。
なお、この前林の舞台は、千葉県立「房総のむら」に復元建設されている。』
(「大栄町史 民俗編」 P262~263)
これで納得です。
拝殿を兼ねた舞台だったわけです。
ここで上演された芝居を見てみたかった気がします。




鰹木は三本、千木は垂直切りで、男神の「建御名方神」が祭られていることを示しています。
「大栄町史 通史編中巻」に、この「諏訪神社」について一行だけ書かれています。
「前林村字花輪に所在。祭神は武御名方命(「県神社明細」)。旧社格は村社。」
「諏訪神社」から山道を150メートルほど進んだところには、「妙見神社」があります。

明神鳥居は平成9年に建立されました。

鳥居の手前にポツンと置かれた「道祖神」。
「安政六己未」 と読めるような気がします。
安政六年は西暦1859になります。

境内には小さなお社だけがあり、石造物等は全く見当たりません。
この「妙見神社」に関する資料は少なく、「千葉縣香取郡誌」や「千葉県神社名鑑」などにも
社名は出てきません。
「大栄町史 通史編」中の、第二章「大須賀氏関連の中世城館跡」にある、前林城跡・館跡の
項に、チラリと社名があるのを見つけました。
「大須賀川の最上流に近い前林の集落内に館跡があり、谷を挟んだ東側台地上に城跡が
あった。前林の集落は、大須賀川上流部の本支流に開析された北に伸びる台地上に存在
する。館跡は台地北端にあり、隣には妙見社がある。」
この前林城の城主であった前林志摩守は、前回紹介した「医王院」の開基とされる人物です。


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暗い堂内を覗かせていただくと、妙見菩薩像が見えました。


「大栄町史 通史編」に、この妙見菩薩像についての解説がありました。
『像(像高三五・七センチメートル、木造・玉眼)は髪際正中で左右に振り分けながら被髪に
あらわし、盤首の袍・穿裳を着け沓を履き、右手で戟の柄を握り、左手は仰掌して宝珠状の
持物を載せ、正面を向いて岩座(框付)の上で腹這いにあらわされた霊亀の上に直立する。
造像は近世と考えられ、現状の彩色・右手の戟・輪光はいずれも後補である。』
「なお、台座框裏には「奉彩色妙見大菩薩/醫王院十九世/和尚寄付」という施人に関わ
る銘および「上サ山崎村/佛工□□」・「明治六年冬十月」という修理にかかわる銘が存在
する。』 (P40~41)
医王院十九世の名が出てくることは、開基・前林伊勢守以来の結びつきが続いていることを
示しています。
仏工の上サ山崎村とは、当時は上埴生郡の山崎村で、その後明治二十二年に長柄郡二宮
本郷村に編入され、現在は茂原市の西部に位置しています。


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ガランとした境内に羽黒トンボが舞っています。


「諏訪神社」と「妙見神社」。
地元の人々に守られて、静かに時を重ねています。

※ 「諏訪神社」 成田市前林658
「妙見神社」 成田市前林ミジョウ(番地不明)
(ミジョウとは城を意味する小字です。)
今回は旧大栄町前林の「医王院」です。

「医王院」は曹洞宗のお寺で、山号は「前林山」。
500年近い歴史を持っています。

立派な山門は宝暦年間(1751~1764)のものとされています。
およそ260年の間、風雪に耐えてきました。

山門の脇には数基の石造物が並んでいます。

手前の石塔は天明二年(1782)のもので、 「三界萬霊等」 (等は異体字)と刻まれています。
この世のあらゆるものの霊を供養するという意味で建てられます。
一番高い石塔は明治三十三年(1900)の読誦塔で、「奉 讀誦普門品壱萬巻供養塔」と刻ま
れています。(普門品(ふもんぼん)とは「観音経」のことです)

こちらはちょっと変わったお姿の地蔵菩薩です。
右手に錫杖(欠損)を、左手には宝珠を持って蓮華座から左足を踏み下ろした半跏倚座を
とっている、ふっくらとした体型の力強い像形です。
右手が施無畏印を結ぶものもありますが、この像の右手は何かを握っていたような形です
から、立像が持つような長い錫杖ではなく、振り鳴らす短めの錫杖を持っていたのでしょう。
「享保二丁酉」 の紀年銘があります。
享保二年は西暦1717年ですから、300年前のものです。

これは、曹洞宗のお寺には必ずと言ってよいほど見られる「不許葷酒入山門」 と刻まれた
結界石で、“酒気を帯びたり、ニラのような臭いものを食べた者は、修業の妨げとなるので、
入山することを許さない”という意味です。
「安永七戊戌八月」 と刻まれています。(安永七年は1778年)





「千葉縣香取郡誌」にはこの「医王院」について一行のみの記載があります。
「前林山醫王院 同村前林字門内に在り域内五百六十一坪曹洞宗にして藥師如来を本尊
とす」 (同村とは本大須賀村を指します)
「大栄町史通史編中巻」には、
「曹洞宗。前林村字門脇上に所在。山号は前林山(「郡誌」)。本尊は薬師如来(県寺明細」)。
常陸竹原(茨城県東茨城郡美野里町)の鳳林院の末寺。 鳳林院は多賀郡宮田(日立市)
大雄院の末寺であったから、大雄院-鳳林院-医応院という関係であった。天保十五年に
当寺が発行した寺送り状が今に残されている。(「史料編Ⅱ」〔一九〕)。明治三十八年に火災
に遭い、その後本尊を釈迦牟尼仏にしたという(「史話」)。」
(下線部の医応院は医王院の間違いです。)
(「史料編Ⅱ」とある寺送り状については、本項の最後に載せています。)
「医王院」という名前から、ご本尊は藥師如来だと思いがちですが、こちらは110年ほど前に
「釈迦牟尼仏」に替えようです。(市内の磯部にある真言宗の「医王院」や、茨城県龍ケ崎市
(曹洞宗)、横浜市金沢区(真言宗)、長野県南牧村(天台宗)等、多くの「医王院」のご本尊は
「薬師如来」となっています。)
「釈迦牟尼仏」または「釈迦如来」は、仏教の開祖の釈迦を仏様とした呼び名です。


昭和40年に建立された「招徳福」碑。
「開山曉天秀初大和尚 大永二年」と右側に記し、中央に「開創四百五十年之碑」と大きく
刻んで、左側には「開基前林志摩守 醫王院殿量外道無居士 天正六年三月二十九日
長蓁院昌安妙久大姉 天正六年五月廿七日」(蓁は異体字)とあります。
大永二年は西暦1522年、天正六年は1578年になります。
「大永町史通史編」中の「大須賀氏関連の中世城館跡」の項に、次のような記述があります。
「前林の地名は、すでに南北朝初期に「金沢文庫古文書」中に見られることから、鎌倉期
には集落が存在していたものと考えられる。 前林集落の大須賀川西対岸の字門内には、
曹洞宗医王院がある。 縁起によると、開山が大永二年(一五二二)、大檀那は天正六年
(一五六八)没の前林城主前林志摩守であったとされる。 この前林志摩守とは、消滅した
字城山の前林城に関連する大須賀氏一族の人物であろう。」
(下線部の一五六八は一五七八の誤りです。)
前林城は志摩守が没した12年後の天正十八年(1590)に、豊臣勢の攻撃で落城しました。

「招徳福」碑の隣には代々の住職の墓所があります。

本堂裏の山裾からはきれいな清水が湧き出しています。
地形的に豊富な水脈があるようです。

この石仏は風化と苔で年代は不明ですが、「地蔵菩薩」と刻まれているような気がします。

元禄九年(1696)の聖観音像。
きれいに苔が落とされています。
ちょっと余談ですが、この聖観音像が造られた元禄九年には、「竹島一件」と呼ばれる朝鮮
との領有権争いにより、竹島への渡航を禁止する措置が執られました。
現在韓国が「竹島」を自国領だと主張する根拠の一つに、この「竹島一件」を挙げていますが、
この頃「竹島」と呼ばれていて日本人の渡航が禁じられたのは、現在の「鬱陵島」のことです。
現在韓国によって占拠されている「竹島」は、この頃は「松島」と呼ばれていました。


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裏山の中腹に古い墓石が並んでいるのが見えます。
近づくと、天和、享保、安永、天明、寛政などの年号が読めます。
周りは鬱蒼と茂る木々に覆われて薄暗く、どの墓石も苔生しています。

苔で滑りそうな急坂があり、墓地はまだ上に伸びているようです。


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六地蔵が見守る山の上の墓地に出ました。
こちらは比較的新しい墓石が目立ちます。
境内に戻り、山門を出て緩やかな坂を100メートルほど行くと、鳥居の建つ三叉路になり、
そこにかつての「医王院」の痕跡が残っています。


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「愛宕神社」の鳥居の脇に、「延命瀧」と刻まれた明治三十年(1897)の石碑があり、手前の
岩から清水が滾々と湧き出しています。
ここはもともと「医王院」の敷地内で小さな滝があったそうです。
水量があり、水質も良いので、近隣の人々が毎日汲みに来ています。

「地蔵堂」の中のお地蔵様は年代不詳です。
ここにあった滝の名前からすると、「延命地蔵」でしょうか?
かつてはここが「医王院」の入り口だったのでしょう。

地蔵堂の横には数基の石造物が並んでいます。
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右端には年代不詳の「聖観音」。
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隣は「青面金剛」の庚申塔。
側面に「奉拜待庚申三年成就所」「惟時天明三癸卯十月庚申日」と刻まれています。
天明三年は西暦1783年で、大飢饉の真っ最中であったころです。
60日に1回、1年に6回ある庚申の日に人々が集まって、三尸の虫が天帝に悪口を告げない
ように夜明かしをする「庚申講」を、3年・18回続けると「庚申塔」を建てることができます。
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年代不詳の「聖観音」。
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「奉納大乘妙典六十六部供養塔」と刻まれた読誦塔。
「元文■未年」と読めます。
元文年間の未年は元文四年(己未・1739年)になります。
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寛政元年(1789)の「月待塔」。
「奉侍十・・・・・観世音」とあり、刻まれているのが聖観音ですから、欠損して読めない部分
には十五夜、十七夜、十八夜待のいずれかの文字が記されていたはずです。
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風化で何の像か、分かりません。
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「読誦塔」のようです。
元禄と読めるような気がしますが・・・。


「愛宕神社」への石段は急で、所々崩れていますのでちょっと危険です。
段数を数えながら登ったのですが、足許に気をとられて途中で数えられなくなりました。
100段以上はあるはずです。


大正十五年(1926)に建立された小さな石の祠です。
狭い境内には祠以外何もありません。

石段の最上段の左右に置かれている小さな石柱には、延享三年(1746)と刻まれています。



「延命瀧」碑と「地蔵堂」からは、「医王院」の境内がチラリと見えています。
500年の時の流れに、かつての広大な敷地も大分狭くなっていますが、それでも裏山の墓地
を含めれば相当な寺域が残っています。
近くには工業団地があり、大規模な採土場やソーラー施設など、開発の波がジワジワ寄せて
来ていますが、何とかこの静かな環境と歴史が続いていってほしいものです。

※ 「前林山 医王院」 成田市前林545
※ 「史料編Ⅱ」に収録の寺送り状(九八寺送り状)
寺送リ一札之事
一 此九八与申者、代々拙院檀中ニ御座候処、此度当人之依望寺送遣シ候間、然上ハ
何方之御檀中ニ相成候共、拙院ニ而ハ決而構無御座候、仍而寺送一札、如件
天保十五年 辰六月廿日
先御寺 様
前林村 醫王院
「九八」とは村人の名前です。
移住先が無いまま、寺送り状が書かれるのは非常に稀なことです。