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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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五百年の歴史~船形の「東永院(トウヨウイン)」 《旧公津村》

東永院-1

「東永院」(とうよういん)は曹洞宗のお寺で、山号は久昌山。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。

【大永6年(1526)に、船形の楫波山城主船形越前守胤信が、超林寺第2世松厳周鶴を
開山として創建したと伝えられています。長い間廃寺同様でしたが、平成2年(1990)に
再建されました。】


「成田市の文化財 第42集 仏閣編」(平成23年)には「東永院」がこう紹介されています。


東永院-4
東永院-57東永院-5

「千葉縣印旛郡誌」には、「東永院」について次のように記述されています。

【船形村字稲荷下にあり曹洞通幻派にして超林寺末なり下總國印旛郡臺方村超林寺二世
當院開山松岩周鶴大和尚此地に来到て大永元辛巳年八月當院を建立して弘治三乙卯年
正月二十四日に示寂すと記録に記載有之儘上書仕候也堂宇間口五間半奥行四間境内
五百八十六坪官有地第四種あり檀徒四十一人を有し管轄廳まで八里七町三間なり境内堂宇
一宇あり即
一 大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行三尺寺院明細帳


東永院-12

ここは、当院を建立した千葉一族で馬場氏の流れをくむ、揖波山(かじばやま)城主であった
船形胤信(越前守)の菩提寺となっています。


東永院-58
東永院-11
東永院-59

再建されてから約30年の本堂は、装飾のないスッキリした佇まいです。


東永院-60

ちょっと愛嬌のある鬼瓦。


東永院-7
東永院-70

「印旛郡誌」にあった「大師堂」。

東永院-9
東永院-8

ちょっと失礼して中を覗かせていただいて、びっくり!
大師像の左側面がざっくりと削られています。
風化のようなものではなく、明らかに人工的なものです。


東永院-74
東永院-69

廃仏毀釈による首の無い石仏は多く目にしますが、正面からは見えないところで大きく
えぐり取られたこの姿は衝撃的です。


東永院-6
東永院-75

大師堂の側に、明治四十五年(1912)建立の「悟庵義堂大和尚 大信觀光尼首座」と
刻まれた大きな石碑があり、裏面に二人の生い立ちや業績、明治三十九年(1906)と
四十年に亡くなったことが記されています。

【 梧庵義堂大和尚禪師生國能登國鳳至郡大野村長田彦ノ男同郡稲舟村笠原藤太有忠ノ猶子
トナル明治二拾一年本村船形貮百八番地ノ内壱ニ居住西谷家創立ニ尤モ功アリ明治四十年
九月拾六日午前八時老衰病ヲ以テ遷化セラル行年七拾才 】
【 大信觀光尼首座西谷家ノ先祖生國越後國中頸城郡柿崎宿小出源治右衛門ノ長女明治貮拾
壱年本村船形弐百八番地ノ内弐ニ居住明治三拾九年八月貮拾七日午後壹時老衰病死行年
八拾六年八ケ月 】


明治四十五年(1912)に西谷家の戸主・西谷八三が建立したものです。


東永院-13

平成2年の「本堂新築記念」碑。


東永院-83
**************東永院-84

境内の左右には立派な桜の古木があります。
寂しい境内ですが、満開の桜は一時的にも東永院を華やかに見せることでしょう。


東永院-61

本堂の裏に回ると、小さな墓地があります。


東永院-63
東永院-65

コンクリーで固められた墓石からは、安らぎのようなものが感じられず、もの悲しい風情です。

どれも風化が進んでいますが、元禄、宝永、享保、明和、天明、寛政、天保、嘉永などの元号
がかろうじて読み取れます。


東永院-66

一角には歴代住職の卵塔が並んでいます。


東永院-67
東永院-68

墓石に刻まれている多くが、地蔵菩薩か如意輪観音です。


東永院-23

「成田市史 中世・近世編」の東永院の項には、次のような文章があります。

【 船形にあり、超林寺末で、大永六年(一五二六)八月、船形の楫波山城主船形越前守胤信
が超林寺第二世松厳周鶴を開山として創建した。境内に鎌倉時代の嘉曆四年(一三二九、
元徳と改元)と南北朝時代の康永元年(一三四二)の板碑がある。】 
(P258~259)


さて、境内をくまなく探しましたが、板碑らしきものは見当たりません。

東永院-86

道路から境内に上る階段の両脇に、門柱代わりのように置かれた石がありますが、あらためて
見ると、何となく板碑のような気もします。


東永院-54

どうやらこれが嘉曆四年(1329)と康永元年(1342)の板碑のようです。
約690年前と680年前の板碑の残し方に、もう少し工夫があって欲しかったと思います。

このお寺の創建が大永6年(1526)ですから、その200年近く前に刻まれた板碑が境内
にあることに理由があるのかも知れません。
どこかにあったものを移設してきた、というようなことであれば、その扱いに丁寧さが欠ける
のは仕方ないことでしょう。
階段工事の時にここに埋め込まれたようですから、もともとあまり注目されてはいなかった
のでしょう。


東永院-22
東永院-52

向かって左の板碑には、かすかに梵字が残っています。

0001キリーク      なんとか読める梵字は「キリーク」のようです。
キリークは阿弥陀如来または千手観音を表しますが、ご本尊が阿弥陀如来であることから、
これは「阿弥陀如来」を刻んでいると考えるのが妥当でしょう。(でも、お寺の創建と板碑の
年代の問題から、あまりあてにはなりませんね。)

梵字の下に「曆」らしき文字がうっすらと見えます。
こちらが嘉曆四年のものでしょうか。


薬師寺-109
東永院-53

向かって右の板碑。
こちらは風化で何も読めない状態です。


東永院-80
薬師寺-116薬師寺-117
東永院-81

境内の左奥に小さなお社がありました。
何のお社かは分かりませんが、しっかりとした流造りのお社です。


薬師寺-118
東永院-100

木陰にひっそりと並んでいる二体の石仏。


薬師寺-119         観音菩薩(?)
**************東永院-102

向かって左は観音菩薩のようですが、何となく像容に違和感があります。


東永院-104
****東永院-103

裏に回ってみると、頭部は補修されてセメントで固められていました。
首を落とされて、後に付け直されたようです。

顔は観音菩薩のようですが、体は地蔵菩薩に見えます。
昭和58年の「成田市の文化財 第14集」に、この石仏らしき写真が載っていますが、首が
無く、地蔵菩薩と記されています。
首を落とされた地蔵菩薩に、観音菩薩の首を載せたのかもしれません。
よく見ると観音菩薩の顔は仮面のような薄さです。


東永院-79   首のない地蔵菩薩
**************東永院-2

どこにも残る廃仏毀釈の傷跡ですが、そのまま放置されて草に埋もれてしまった石仏や、
首や腕のないまま立ち尽くしている石仏、あるいは稚拙であっても何とか補修しようとして、
セメントで間に合わせの頭を載せたもの等々、それぞれのお寺の事情によって境内の風景
は異なります。
時代が変わり、人々の信仰心も薄れて行くのは仕方ないことですが、通りすがりに石仏に
たとえ首が無くとも、そっと合掌するような日常が欲しいと思うのは私だけでしょうか?


東永院-51

境内から向いの山腹に薬師寺の屋根が見えます。


東永院-20

二年前に同じ場所から撮った薬師寺の屋根です。
屋根の右側に天然記念物の「船形の大シイ」が見えています。
今、そこには大木の姿がありません。
昨年六月の大風で倒壊してしまいました。

人による歴史の破壊だけでなく、自然もまた徐々に歴史を消し去って行きます。


東永院-90
東永院-93
東永院-94
東永院-95

蘖が伸びて、数百年後にまた、あの大木がここに聳えていることを信じたい気持ちです。


東永院-14
東永院-21
東永院-88
東永院-87

訪れる人も無い東永院ですが、再建されて二十八年、再び五百年の歴史を繋ぎ始めています。


Map船形

                        「久昌山 東永院」  成田市船形185




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公津村の寺社 | 17:46:47 | トラックバック(0) | コメント(2)
奈土の名刹、「紫雲山 昌福寺」
奈土にある名刹、「昌福寺」を訪ねます。

紫雲山-58

「昌福寺」は天台宗のお寺で、「釈迦如来」をご本尊としています。
山号は「紫雲山」、院号は「来迎院」です。


紫雲山-2

参道に面して四基の石仏が並んでいます。


紫雲山-3

左端の石仏は如意輪觀音です。
台座には「十九夜講」と刻まれていますので、十九夜待の「月待塔」です。
補修のため紀年銘がほとんど読めませんが、「享」「四」「子」の三文字が辛うじて読めます。
この三文字から推理すると、享のつく元号で四年以上あり、その四年の干支に子がある年号は、
永享四年(壬子・1432)と享和四年(甲子・1804)しかなく、月待講が広まったのが江戸時代
に入ってからであることを考えると、「享和四甲子年」と刻まれていると思われます。


紫雲山-4紫雲山-5

真ん中の二基は「子安観音」です。
右側の観音像には「文化十三子」の紀年銘があります。
文化十三年は西暦1816年、200年前の石仏です。


紫雲山-6

右端の観音像には「普門品供羪塔」と刻まれています。
「普門品」とは、法華経の中の「観世音菩薩普門品(観音経)」という一章のことです。
観音経は、観世音菩薩の偉大な慈悲の力を信じその名前を唱えることで、あらゆる苦難から
救われる、と説いています。
「明治四未年」(1871)の紀年銘があります。


紫雲山-7

隣には昭和16年の「馬頭観音」の文字石版が建っています。


紫雲山-10

「成田の地名と歴史」には、「昌福寺」が次のように紹介されています。

「奈土に所在する天台宗寺院。 山号は紫雲山。 院号は来迎院。 本尊は釈迦如来。 古くは
奈土城跡に近い寺家山にあり、慶覚法印が開いたと伝えられる。 常陸小野の逢善寺(茨城
県稲敷市)に残る「檀那門跡相承資井恵心流相承次第」には、奈土に観実という学僧がいた
こと、逢善寺13世の良證法印が16世紀前半に当寺から入山にたことがみえ、関東の天台
宗の中心であった逢善寺と密接な関係を有していた。 1570(永禄13)年に徳星寺(香取市
小見)で行われた伝法灌頂(密教の最高位である伝法阿闍梨となる僧に秘法を授ける儀式)
では、当寺や奈土の僧侶たちが重要な役を勤めている。 戦国期に当寺で書写された聖教
(教学について記した典籍)からは、談義所として各地から集まった学僧が修学に励んでいた
ことがわかる。 このように当寺は大須賀保における天台宗の拠点であった。 近世の「寺院
本末帳」には「門徒寺八ヶ寺」と、末寺が18か寺あることが記されているので有力な寺院で
あったことがわかる。 檀家も地元の奈土だけでなく、柴田や原宿・毛成(以上神崎町)・結佐
(茨城県稲敷市)にもあった。 元禄期(1688~1704)に現在地現在地に遷座したという説
もある。」
 (P276~277)

これにより「昌福寺」は、少なくとも16世紀前半には存在していたことが分かります。
450年以上の歴史あるお寺です。


紫雲山-12
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本堂の屋根には、天台宗の宗紋である「三諦星(さんたいせい)」が掲げられています。


紫雲山-57

「天台宗。 奈土村字昌福寺に所在。 山号は紫雲山で院号は来迎院(大正十年『千葉県香取
郡誌』、以下『郡誌』)。 本尊は釈迦如来(明治十二年『千葉県寺院明細帳 下総国香取郡』、
以下『県寺明細』。 天明六年(一七八六)前後の「上総国下総国 天台宗寺院名前帳』に、上州
世良田長楽寺末の下総国小見村徳星寺の末寺として「紫雲山来迎院昌福寺」とある。 長楽寺
は群馬県新田郡尾島町、徳星寺は香取郡山田町に」所在する。 長楽寺ー徳星寺ー昌福寺と
いう上下関係であった。 同名前帳には「門徒九ヶ寺」とあり、昌福寺が配下の寺を九ヶ寺有して
いたと解釈されるが、同帳には個々の寺院の記載はない。」
 (「大栄町史 P556~557)


紫雲山-13

本堂の前に「十三仏」と刻まれた石柱があります。
「奉造立 寶暦八戌■」と記されています。
寶曆八年は西暦1758年になります。

十三仏(じゅうさんぶつ)とは、平安時代の末期ごろから仏教に由来する末法思想や冥界思想
と共に広く浸透した十王(地獄で死者の審判を行う裁判官のような存在)という考え方をもとに、
死者の生前の行いを審判する十王と、浄土へと導く本地仏を置く思想です。
江戸時代に入ってから急速に広まり、三王・三仏を加えて十三王・十三仏となりました。

秦広王・不動明王(初七日)、初江王・釈迦如来(二十七日)、宋帝王・文殊菩薩(三十七日)、
五官王・普賢菩薩(四十七日)、閻魔王・地蔵菩薩(五十七日)、変成王・弥勒菩薩(六十七日)、
泰山王・薬師如来(七十七日)、平等王・観音菩薩(百か日)、都市王・勢至菩薩(一周忌)、
五道転輪王・阿弥陀如来(三回忌)、蓮華王・阿閃如来(七回忌)、祇園王・大日如来(十三回忌)、
法界王・虚空蔵菩薩(三十三回忌)

法要は、その都度、十王(十三王)に対して死者への減罪の嘆願を行うために行われます。


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元禄、正徳、享保、延享、明和、寛政、文政などの元号が読める墓地の奥には、歴代の住職や
有力者の墓石が並んでいます。

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墓地の中でとても珍しい、貴重な石仏を見つけました。
「愛染明王」像です。

紀年銘はほとんど読めませんが、「明■■庚寅」と読めるような気がします。
元号の頭が「明」で干支が「庚寅」の年は、明和七年と明治二十三年だけです。
「大栄町史」の「町域の寺院総覧」の項に、昌福寺に関する記述があり、その末尾に、
「なお境内墓地には、後述の廃寺東光寺にあった石塔類が移されている。特に江戸時代中期
の愛染明王像は、県内屈指の石仏である。」
 
とありますので、明和七年(1770)の造立であると思われます。

愛染明王は一面三目六臂の忿怒相で、頭には獅子の冠をかぶり、叡知を収めた宝瓶の上の
蓮華座上に結跏趺坐で座るという、特徴ある像容を持っています。
恋愛・縁結び・家庭円満などをつかさどる仏として信仰を集め、また「愛染」を「藍染」と解釈して、
染物や織物職人達の守護仏としても信仰されています。


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左手には金剛鈴と弓を持ち、後の手は拳を握って突き上げていて、右手には五鈷杵と矢を持ち、
後の手は蓮華を持っています。
この明王像は廃寺となった「東光寺」にあったもので、移設前の東光寺跡での姿が、「大栄町史
民俗編」に掲載されています。(P196)


紫雲山-18

額には第三の目があり、牙をのぞかせる忿怒の相ですが、なぜか童顔に見えてしまいます。

成田では、成田山「光明堂」の「愛染明王」像と、吉岡の「大慈恩寺」の「絹本着色愛染明王」が
知られていますが、私の知る限り、成田市内に「愛染明王」の石像はこの一体だけです。
このブログで訪ねた150近い寺社でも、唯一、印西市の「松虫寺」に隣接する「松虫姫神社」
境内で見つけた石像が一体あるのみです。

松虫寺ー28
(「松虫姫神社」境内の「愛染金剛」像 2014年11月撮影)
時の彼方の姫と牛、「摩尼珠山松虫寺」(2) ☜ ここをクリックしてください。


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***********紫雲山-23

境内には多くの本堂や庫裏の改修記念碑が建っています。


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境内の右手に建つ年代不詳の二基の宝塔。
右の宝塔には「法蕐塔」と刻まれ、側面には「十方佛土中 唯有一乘法」と記されています。
これは法華経中の「方便品」にある一節で、仏の真の教えは唯一であって、それによって全て
の衆生が成仏できると説いています。


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宝塔のそばにある年代不詳の「子安観音」像。


紫雲山-26

境内の一角には、千葉県指定の文化財である「山王社」があります。

「山王とは、滋賀県大津市坂本の日吉大社で祀られる神の別名であり、比叡山に鎮まる神を
指したものである。」
「山王信仰は、「山王神道」とも呼ばれる信仰をも派生させた。山王神道では山王神は釈迦の
垂迹であるとされ、「山」の字も「王」の字も、三本の線とそれを貫く一本の線からなっており、
これを天台宗の思想である三諦即一思想と結びつけて説いた。」
 (ウィキペディア)

「享保中十八世俊存中興開山と爲り當時里正金岡貞正獨力を以て本堂山門等を建て柱材
其他頗る宏壯を極め又銅佛像十三体を鑄り之を寄附せり」
「域内山王社あり亦貞正の寄附建立する所にして其子孫奮族を以て稱せらる貞正通稱を
平兵衛と曰ふ」
 (千葉縣香取郡誌)

この記述から、「山王社」は享保年代に奈土村の里正(村長的な存在)であった金岡貞正と
いう人物が建立・寄進したことが分かります。
説明板には次のように書かれています。
「寛保二年(一、七四二年)第二十世俊亮法師の建立。天台宗特有の社で、滋賀県比叡山の
日吉神社を勧請したもので、祭神は山咋命に大巳貴命、小祠であり、総けやき作りである。」

金岡貞正(平兵衛)の名前は出てきませんが、約280年前に建立されたことが分かります。


紫雲山-27

虹梁や側面、脇障子、台座部分に至るまで、細かい彫刻が施されています。


紫雲山-29

紫雲山-28紫雲山-34
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さらに、「香取郡誌」には、
「明治の初大に荒敗に屬し銅像蓮臺の如きに至るまで之を失ふに至りしが後住長澤良心
杜澤亮朝等苦心經營し漸く保存の道を講せり」

と書かれた一節があります。
この一節の前半部分は、明治政府による「神仏分離令」に触発されて起こった「廃仏毀釈」の
嵐を指しているものと思われますが、「神仏習合」の一例である「山王社」は、「神道」の側に
あるものとして、難を逃れたのでしょうか。


紫雲山-60

山門には釣鐘が下がっている珍しい造りです。
撞木もありますので、鐘楼も兼ねた山門です。


紫雲山-40
***********紫雲山-41
紫雲山-42

鐘は昭和37年の鋳造で、撞座の脇にはうっすらと釈迦如来像が浮き上がっています。


紫雲山-43
紫雲山-44

山門の手前左右に二基の六角柱があり、それぞれに六観音と六地蔵が刻まれています。


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************紫雲山-52

「山門の前に六地蔵を刻んだ六角石幢と六観音を刻んだ六角石幢が建っている。 一対のように
見えるが六地蔵は1679(延宝7)年の造立、六観音は1765(明和2)年の造立である。」

(「成田の地名と歴史」 P276~277)


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紫雲山-65
紫雲山-8

「紫雲山來迎院昌福寺 
同村奈土字昌福寺に在り域内七百三十六坪天台宗にして釋迦牟尼佛を本尊とす創建
詳ならざるも慶覺法印の開基にして天正中古山城主秋山佐内本寺に歸依し金穀を寄附
せり往時は村の寺家山に在りしを元禄中今の地に移せしと改建の時奮構造に用ゐたる
欄間あり之を本堂全体壁間に保存しあるも其彫刻の古雅なるは確として奮刹なるを證す
るに足る享保中十八世俊存中興開山と爲り當時里正金岡貞正獨力を以て本堂山門等
を建て柱材其他頗る宏壯を極め又銅佛像十三体を鑄り之を寄附せり各高各四尺許」
 
(千葉縣香取郡誌 P431~432)

のどかな山道を登り切ったところに「昌福寺」はあります。
長い年月を刻んだ境内を、春の風が桜を散らしながら吹き抜けて行きます。


紫雲山-0


                          ※ 「紫雲山 昌福寺」 成田市奈土608




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大須賀村の寺社 | 18:43:25 | トラックバック(0) | コメント(2)
堀之内の森に佇む「西福寺」の「不動堂」
今回は、堀之内の「西福寺」を訪ねます。

西福寺-10

「西福寺」は天台宗のお寺で、山号は「不動山」。
本尊は「阿弥陀如来」です。


西福寺-38
西福寺-32

本堂は民家風の建物で、周りには何もありません。
お寺の境内の雰囲気は、本堂の手前左側にある「不動堂」に残されています。


西福寺-36
西福寺-39
西福寺-40

参道の入口には小さな大師堂があります。


西福寺-1

門柱には「不動山西福寺」と刻まれ、裏面には「平成十三年」とあります。


西福寺-3
西福寺-2

門柱の左右に立つ、地蔵菩薩と観音菩薩。
地蔵菩薩には享保十一年(1726)の銘があります。
廃仏毀釈の痕でしょうか、地蔵菩薩の頭は仮のセメント造です。


西福寺-4
西福寺-5

「不動堂」の前にある小さな鐘楼。
鐘も小さく、橦木はありません。


西福寺-6

手水鉢の銘は読めませんが、それほど古いものではなさそうです。


西福寺-7
西福寺-8

大銀杏の樹齢は数百年はありそうです。


西福寺-9

宝珠と火袋が失われた灯籠には、「文化八辛未春」との銘が見えます。
文化八年は西暦1811年、11代将軍徳川家斉の時代です。


西福寺-11
西福寺-27

「不動堂」には掲額がなく、小さな木版が掛かっていますが、文字はすっかり消えています。
なんとか「不動」と読めるような気がしますが・・・。


西福寺-12

「不動堂」の脇にある小さな「大師堂」。
柱にはまだ謹賀新年のお札が・・・


西福寺-13

しっかりとした造りですが、飾り気はありません。


西福寺-14

失礼してお堂の中を覗かせていただきました。
正面の厨子は扉が閉まっていますが、右側に二体の仏像らしきものが見えます。
暗いうえに幕に遮られてよく見えませんが、二体の後にもう一体の仏像があるようです。


西福寺-37

目を凝らして見ると、仏像の背に火焔光が見えています。
腰のあたりまでしか見えませんが、これは「不動明王」像のようです。
足許の二体は八大童子の「制多迦(せいたか)童子」と「矜羯羅(こんから)童子」でしょうか。

「不動明王」は、『「動かない守護者」を意味する名の、明王の中で最も重要な存在。大日如来
の教令(命令)を受け、如来の教えに従わない者たちの前に忿怒の形相で現れ、教化します。』

(「仏像の事典」 熊田由美子 P56)

足跡ー7
(九十九里の尾垂ヶ浜に建つ不動明王像)
観照院-20
(富里の「観照院」境内の不動明王像)

不動明王は右手に剣、左手に羂索を持っています。
剣は、「魔を退け、人々の煩悩を断つため」、羂索は、「悪を縛り、煩悩から抜け出せない者を
救い出すため」のものです。


西福寺-16
西福寺-17
西福寺-18

不動堂の周りには石仏や墓石が並んでいます。
寛文、貞享、元禄、正徳、享保、延享、宝暦、文化、文政などの元号が読めます。


西福寺-19
西福寺-20
西福寺-21

「不動堂」の裏に鳥居があり、小さなお社があります。
鳥居の扁額には「子安様」と刻まれています。
ここはお寺の境内ですが、鳥居とお社の組み合わせはまさに「神社」そのものです。

お寺の中に神社があることは、さほど珍しいことではありません。
神仏習合や本地垂迹の産物として、各地で見られる風景です。
たとえば成田山の「額堂」の周りには「天満宮」や「金毘羅大権現」、「白山明神」、「今宮神社」
がありますし、匝瑳市の「飯岡檀林」にも「古能葉稲荷大明神」があります。

額堂-00
(成田山にある「天満宮」)
額堂-98
(成田山にある「三社」(中央「金毘羅大権現」、左「白山明神」、右「今宮神社」))
飯高檀林-79
(飯高檀林 「古能葉稲荷大明神(このはいなりだいみょうじん)」)

ただ、気になる記述が「千葉縣印旛郡誌」(大正二年)にあります。

「西福寺 堀内村字西之台にあり天台宗山門派にして圓融寺末あり阿彌陀如來を本尊とす
由緒不詳堂宇間口六間奥行五間境内四百八十三坪官有地第四種あり檀徒十八戸住職は鈴木
諄英にして管轄廳まで十里九町とす境内佛堂二宇あり即
一、不動堂  不動尊とす由緒不詳建物二間半四面なり
二、観音堂  本尊子安觀音にして由緒不詳建物二尺四面あり 寺院明細帳」


「観音堂」の大きさもほぼ一致していますので、これは「子安観音」を本尊とする「観音堂」で、
鳥居は神仏習合の名残だ、とも考えられます。


西福寺-22
***********西福寺-24
西福寺-25
***********西福寺-26

様々な石仏、墓石の中に、三基の月待塔が並んでいます。

西福寺-28

十九夜の月待塔。
「奉造立 十九夜待成就之所」「元禄七甲戌二月」の文字が読めます。
元禄七年は西暦1694年、忠臣蔵の逸話で有名な「高田馬場の決闘」があった年です。


西福寺-29

「享保十六辛亥」と記された「十九夜月待塔」。
享保十六年は西暦1731年、徳川吉宗の治世でした。


西福寺-30

「天明七丁未年」と記された「十七夜月待塔」。
天明七年は西暦1787年、この年には全国規模での打ち壊し(天明の打ち壊し)がありました。


西福寺-31

この石仏は頭部を砕かれています。
「十七」という文字だけが台座に残されています。
十七夜待の聖観音像かと思いましたが、像容は地蔵菩薩にも見えます。
可能性のある、十七年以上あった元号は、慶長・寛永・享保なので、慶長十七年(1612)か、
寛永十七年(1640)か、享保十七年(1732)のいずれかの地蔵菩薩かもしれません。


西福寺-33

裏の藪の中に山羊がいました。
怪訝そうにこちらを見ています。


西福寺-34
西福寺-35
西福寺-41

境内に人影はありません。
参道も分かりにくい場所にあり、周囲の人家もまばらです。

「成田の地名と歴史」に、堀之内村は、「元禄期(1688~1703)は南町奉行所与力給地で、
その後北町奉行所与力給地に移る。」
(P180)とあります。

「与力は加勢するという意味で、諸役職の奉行や頭に付属した役人の称である。将軍への
拝謁を許されない御家人であるが、中には俸禄として知行地を集団で与えられた与力がいた。
その知行地が与力給地で、市域には江戸の南北両町奉行与力の給地が存在した。」

(同 P338)

見かけた石仏の銘の一番古い元号は「寛文」(1661~1672)なので、このお寺の歴史は
少なくとも350年以上はあると思われます。
ここを給地とした江戸の奉行所与力が、このお寺に参詣したこともあったことでしょう。


西福寺-0

                           ※ 「西福寺」  成田市堀之内148



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遠山村の寺社 | 11:51:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
再訪~七百年以上の歴史ある古刹、船形の「薬師寺」

今回は二年以上前(平成26年8月)に一度ご紹介した、船形の「薬師寺」を再び訪れます。

薬師寺-164

薬師寺-100

「薬師寺」は真言宗のお寺で、山号は「船形山」、本尊は「阿弥陀如来」とされています。

「千葉縣印旛郡誌」には、「薬師寺」が次のように紹介されています。
「船形村字船形にあり眞言宗にして東勝寺末なり本尊を阿彌陀如來とす元は麻賀多神社の
別當にして今も船形北須賀二ヶ村の祈願にて二百年前船形の文書にも別當とありしと云ふ
堂宇間口六間奥行四間庫裏間口六間奥行三間半門間口三間奥行二間境内六百四十九坪
官有地第四種あり住職は田中照心にして檀徒四十三人を有し管轄廳まで八里七町なり境内
佛堂一宇あり即
一、藥師堂 藥師如來を本尊とす由緒不詳建物間口三間奥行三間」


今は本堂は無く、仁王門と薬師堂だけが残っています。


薬師寺-121
薬師寺-168  阿形の仁王像
吽形の仁王像  薬師寺-166

仁王門の左右に、県の有形文化財に指定されている迫力ある二体の仁王像があります。


薬師寺-170
薬師寺-169

阿形像は像高1.7メートルで、右腕をさげ、左手で金剛杵を振り上げています。

薬師寺-165
薬師寺-167

吽形像は像高1.71メートルで、左手を握りしめ、右腕を曲げて掌を開いて構えています。

この仁王像は、応長年間(1311~1312)の制作と考えられています。
近年、この仁王像の解体修理を行った際、腕と胴体の部材に大永二年(1522)と天正
二十年(1592)の修理墨書銘が見つかりました。


薬師寺ー42

仁王門の脇の手水盤には、延享三年(1746)と刻まれています。


薬師寺-122

仁王門下に立つ風化した石碑には、「奉 光明■眞言億万■■」「元禄十■■」と刻まれて
いるように見えます。
これは「光明真言百万遍塔」の一種だと思います。
「光明真言」はとても短いお経で( オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ
ジンバラ ハラバリタヤ ウン )、これを一心に唱えれば、全ての災いを除くことができると
されています。
元禄十年は西暦1697年ですから、320年前のものです。


薬師寺-123

仁王門をくぐらずに左に行くと、小さな墓地があります。
元禄、明和、天明、寛政、文化、文政などの年号が読めます。


薬師寺-126

台座に「筆子中」とある文久二年(1862)の墓石には、「法印照山不生位」と刻まれています。
照山という僧侶に学問を学んだ生徒が、師匠の菩提を弔うために建立したものである。
右側面には「松に日は暮てあかるきさくらかな 方円舎器水」の句が刻まれている。方円舎
器水は照山の俳号で、辞世の句であろうか。」
 (成田の史跡散歩 小倉 博 P106)


薬師寺-125

墓地の外れ、と言うよりは近くの原っぱにポツンと小さな石仏が置かれています。
何か文字らしきものが見えますが、読むことはできません。


薬師寺-127
薬師寺-128

薬師堂へ登る石段の左右に、数基の板碑や石塔があります。
石塔には「大僧都法印照盛」「天明七丁未」と刻まれています。(天明七年は西暦1787年)


薬師寺-154
薬師寺-129

『船形村には薬師寺と明王寺という末寺がある。 薬師寺は船形山と号し、阿弥陀如来を本尊
としている。創建年代など不詳。天保八年(一八三七)の「寺柄書上」によると、薬師寺は東西
二〇間・南北二八間の除地に認可された境内に六間・四間半の客殿(本堂)をはじめ、庫裏・
薬師堂・仁王門が建ち、檀家は一一軒であった。』
 (P787~8)
「成田市史 中世・近世編」は、「薬師寺」を「東勝寺」の末寺として、こう解説しています。

また、「成田の史跡散歩」(小倉 博 著)にも、
「明王寺跡から少し行った左側が船形の薬師寺である。薬師寺は山号を船形山と号する
真言宗豊山派の持院で、阿弥陀如来をご本尊としている」
 (P104)
とあり、その他のほとんどの資料が本尊を「阿弥陀如来」としています。

しかし、全国寺院名鑑(昭和44年)には、
「薬師寺 真言宗(豊山派) 本尊薬師如来境内八五六坪建物薬師堂一一坪仁王門寺宝
旗曼荼羅版木梵鐘(応永元年作) 由緒 船形山と号し、創建年代不詳。麻賀多神社の
別当寺であったといわれる。」

とあり、また安政五年(1858)の「成田名所圖會」には、
「舟形山薬師寺 船形村にあり。本尊薬師如来行基菩薩の開眼なりと云開基詳ならす。
此寺旗曼荼羅と云古き板木を蔵す。古色掬すべし。」

とあります。
さらに、「成田の地名と歴史」では、「薬師寺の木造薬師如来坐像」を本尊としています。

さて、ご本尊は「阿弥陀如来」か、「薬師如来」か?


薬師寺-104

薬師堂の中には三尊像があります。

「成田の史跡散歩」ではこの三尊像について次のように解説しています。
「仁王門をくぐると正面に石段があり、その上に本堂(薬師堂)が建つ。本堂にはご本尊の
阿弥陀如来坐像と観音菩薩立像・勢至菩薩立像の、いわゆる阿弥陀三尊が祀られ、その
後方の厨子に平安時代から鎌倉時代の作品とされる、やはり千葉県指定文化財の木造
薬師如来坐像が納められている」
 (P105)

ずっと疑問に思っていたことがあります。
それは、「薬師寺」なのになぜご本尊が「阿弥陀如来」なのか?
さらに、薬師堂になぜ「薬師三尊」ではなく「阿弥陀三尊」なのか?
ということでした。

これまで多くのお寺を訪ねてきましたが、この船形の「薬師寺」は特に好きなお寺の一つ
なのですが、訪ねる度にこの疑問が湧いてきます。


薬師寺-103
薬師寺-205

「阿弥陀如来」であれば九品来迎印や弥陀の定印を結び、衣は偏袒右肩が一般的ですが、
この像は定印で通肩、しかも薬壺らしきものを抱えています。
もしこの像が薬師如来だとすれば、この像容は珍しく、ネット上で画像を探しましたが、東京都
中野区の新井薬師、山口県山口市の瑠璃光寺、京都府井出町の西福寺で見つかりました。
そして中尊が薬師如来ならば、脇侍は日光菩薩と月光菩薩ということになります。
背後に十二神将が並んでいることも整合します。


薬師寺-106
薬師寺-207 左脇侍(漢音菩薩か日光菩薩)

薬師寺-105
薬師寺209 右脇侍(勢至菩薩か月光菩薩)

「阿弥陀三尊」だとすると、左脇侍の「観音菩薩」、右脇侍の「勢至菩薩」、ともにその像容に
やや違和感があります。


薬師寺-156

「薬師三尊」である確信は持てませんが、「阿弥陀三尊」にも疑問が残ります。

へそ曲がりの素人の妄言かもしれませんが、専門家の方のご意見が欲しいところです。


三尊像の両脇後方には十二神将が並んでいます。

薬師寺-213
薬師寺-217
薬師寺210
***********薬師寺-211

十二神将(じゅうにしんしょう)は、仏教の信仰・造像の対象である天部の神々で、薬師如来や
薬師経を信仰する人を守護するとされています。
十二神将とその本地物を列挙すると、
                         
宮毘羅大将(くびら)   弥勒菩薩   ・  伐折羅大将(ばさら)   勢至菩薩 
迷企羅大将(めきら)  阿弥陀如来 ・  安底羅大将(あんちら) 観音菩薩
頞儞羅大将(あにら)  如意輪観音 ・  珊底羅大将(さんちら) 虚空蔵菩薩
因達羅大将(いんだら) 地蔵菩薩   ・  波夷羅大将(はいら)   文殊菩薩
摩虎羅大将(まこら)  大威徳明王  ・  真達羅大将(しんだら) 普賢菩薩
招杜羅大将(しょうとら) 大日如来   ・  毘羯羅大将(びから)  釈迦如来

薬師三尊像の眷属として十二神将像をともに安置することが多く見られます。


後ろの厨子に安置されている、「木造薬師如来坐像」の画像を、千葉県教育庁教育振興部
文化財課の許可をいただいて、掲載します。

薬師寺ー36
(千葉県教育委員会ホームページより 薬師如来 ⇒ 

「この像は同寺の本尊として本堂に安置されている。 ヒノキ材、前後割矧造で、玉眼が
はめこまれた高さ54.3㎝の坐像である。表面の仕上げは、現状では素地となっているが、
薄く朱をかけた痕跡がみられる。
ゆるやかに面を取った幅の広い胸腹部の造りや、胸を少し後ろに引き起こした姿勢は、
平安時代後期の余風を残している。ただし、やや眼が吊り上がり、頬のしまった面相や、
彫り込みの深い衣文には鎌倉時代の作風が顕著に見られる。こうした点から考えて、
制作時期は、13世紀前半には遡るものと考えられている。
また、光背と台座も当初のものを備えており貴重である。」

この画像の解説にはこう書かれています。

ここでもこの「薬師如来」を本尊としています。

ご本尊は「阿弥陀如来」なのか、「薬師如来」なのか、そして、三尊像は「阿弥陀三尊」なのか
「薬師三尊」なのか・・・。
素人なりに追いかけるには、おもしろいテーマだと思っています。


薬師寺-130

薬師堂の前に、宝珠と火袋部分が無くなって、中台の上に笠だけが乗っている石灯籠が二基
並んでいます。
「享保十一午」の文字が読めますので、1726年のものです。


薬師寺ー6

本堂左手に立つ一対の灯籠と宝篋印塔。


薬師寺-134
***********薬師寺-135

灯籠の竿の部分には地蔵菩薩が刻まれています。


薬師寺-136

この宝篋印塔は、明和二年(1765年)に建立されました。


薬師寺-137
薬師寺-138

宝篋印塔の後方に裏山へ登る石段があり、小さな祠が見えています。
登ってみましたが、何の祠かは分かりませんでした。


薬師寺-139
薬師寺-141

祠の先の急な山道を登ると、子安観音を祀った祠がひっそりと建っています。
こんな足許の悪い狭い急坂を登って、熱心にお詣りする方がおられるようで、新しい御札が
置かれています。
二年前にここに登ったときにも、新しい御札が置かれていました。

薬師寺ー8  二年前の子安観音

子安観音には宝暦四年(1754年)と記されています。


薬師寺-142

子安観音から坂を下る途中から薬師堂を見ると、軒下に何やら彫刻が並んでいます。


薬師寺-143
薬師寺-144
薬師寺-145
薬師寺-146
薬師寺-147
薬師寺-148

長い年月で木が痩せ、どれがどれだか分かりませんが、十二支であることは確かです。


薬師寺-153

境内の右手には大きな宝篋印塔と大師堂があります。


薬師寺-149

宝篋印塔は宝暦とだけ読めますので、約260年前のものです。


薬師寺-152

大師像の後ろにある石版には、「量海法師皆得体怡信士」と記されています。
文化十年(1813)の文字も見えます。


薬師寺-154

この薬師寺にはもう一つ、県の有形文化財に指定されているものがあります。
応長元年(1311年)に造られた梵鐘で、現在は宗吾霊堂(東勝寺)の宝物殿内に置かれて
いるものですが、「木造薬師如来坐像」と同様に、千葉県教育庁教育振興部文化財課の許可
をいただき、画像を掲載します。

薬師寺ー37
(千葉県教育委員会ホームページより 梵鐘 ⇒ )

「宗霊宝殿に保管されている梵鐘で、総高79.6㎝、口径51.4㎝、3段組で鋳造されていて、
乳は4段4列、上帯下帯とも文様のない素文である。蓮の花をかたどった蓮華文を陰刻した
撞座が一つというめずらしい例で、県内で撞座が一つというのは他に印西市龍腹寺の梵鐘
があるのみである。竜頭も簡略化されたものとなっている。
4区画された池の間の1区画目の銘文には「下州印東庄八代郷船方薬師寺」とあり、成田市
船形の薬師寺に奉納されたものであることがわかる。さらに、梵鐘の由来として、僧良円が
願主となって応長元年(1311)に、娑弥善性という茨城県新治郡出身の鋳物師によって鋳造
されたことが記されている。」

この画像の解説にはこう書かれています。

梵鐘の銘文からすると、この「薬師寺」は、700年以上の歴史があることがわかります。


薬師寺ー33
薬師寺-160
薬師寺-161

境内の外れにシイの大木があります。
「船形の大シイ」と呼ばれているこの大木は、市の天然記念物で、幹周りは6メートル、高さは
15メートルもあります。
一部に傷みも見えますが、樹勢はまだまだ盛んです。


薬師寺-155
薬師寺-159
薬師寺-121
薬師寺-101

『1311(応長元)年の銘のある梵鐘(宗吾霊堂宝物殿に展示)に「下州印東庄八代郷船方
薬師寺」とみえ、更に1486(文明18)年に関東を旅した道興准后が、この寺に豆留しながら
印旛沼の風景を漢詩に詠んでいることが「廻国雑記」にみえる。「成田参詣記」には仁王門・
薬師堂・三社権現など境内の伽藍が図入りで紹介され、江戸時代にはこの地方屈指の大寺
であった。』
 (成田の地名と歴史)

「成田名所圖會」には、薬師寺から北須賀村越しに、帆掛け舟が浮かぶ印旛沼を望み、その
遥か先には富士山が描かれています。
実に風光明媚なお寺であったことが分かります。

境内は狭くなり、干拓によって印旛沼は遠くなって、見晴らしも悪くなってしまいましたが、長い
歴史を有する古刹の雰囲気は十分に残っています。


薬師寺-220

                          ※ 「船形山薬師寺」 成田市船形219-1


追記: 二年間で少しは進歩したでしょうか? 
二年前の「薬師寺」の記事 ☜ ここをクリック



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公津村の寺社 | 07:54:00 | トラックバック(0) | コメント(4)
五百年前の開山~西大須賀の「昌福寺」と七福神
西大須賀の「昌福寺」は浄土宗のお寺です。

昌福寺-103
 
山号は「雲通山」、ご本尊は阿弥陀如来です。
永正十一年(1514)の開山と伝えられています。


昌福寺-138
昌福寺-101
***昌福寺-102

参道の入り口に立つ二基の「地蔵菩薩」。


昌福寺-104
昌福寺-129

境内に入ってすぐ左手に「青面金剛」があります。
明治九年(1876)のもので、六臂像です。


昌福寺-106
昌福寺-128

隣には欠けた二基の板碑があります。
正徳の元号だけが読めますので、約300年前のものです。


昌福寺-111
昌福寺-107

右側の大師堂にはやや小さめの大師像が安置されています。


昌福寺-108
昌福寺-133
***********昌福寺-110

大師堂の隣は「子安堂」です。
ガラス戸の奥の子安観音は、赤子を抱くというよりは、左手の掌の上に乗せています。


昌福寺-112

子安堂の隣には七福神の「寿老人」が祭られています。
「寿老人」は、中国の伝説上の人物で、南極老人星(りゅうこつ座α星・カノープス)の化身と
され、長寿の神様です。
「福禄寿」と同一神と考えられているため、七福神から除外されることもあります(この場合は、
代わりに猩々や吉祥天が入ります)。


昌福寺-135
昌福寺-114
昌福寺-136

お堂の奥の像と手前の石像とは、大分雰囲気が違います。
この「寿老人」は、地域活性化事業の一環として昭和61年に誕生した、「しもふさ七福神」の
一柱となっていますが、七福神の各像はどれも表情豊かです。

常福寺ー8
常福寺ー20   常福寺・大黒天   

天女が舞う~常福寺 ☜ ここをクリック

真城院ー22
真城院ー33   眞城院・弁財天

「龍勝院」の位牌を抱いた落武者が身を寄せた古刹~眞城院 ☜ ここをクリック

昌福寺-139 
楽満寺ー10   楽満寺・恵比寿

静けさが寺の始まり~楽満寺 ☜ ここをクリック

乗願寺ー8
乗願寺ー24   乗願寺・布袋尊

杉木立の中の乗願寺 ☜ ここをクリック

龍正院ー9
龍正院ー16   龍正院・毘沙門天

坂東札所28番滑河観音(龍正院) ☜ ここをクリック
  
昌福寺-144
昌福寺-142
昌福寺-141   ゆめ牧場・福禄寿

徒歩で七福神を回ると、約17.5キロのコースです。
【JR滑河駅 →(0.7㎞)→ 眞城院 →(5.2㎞)→ 成田ゆめ牧場 →(0.6㎞)→ 常福寺 →
(1.8㎞)→ 楽満寺 →(4.0㎞)→ 乗願寺 →(3.0㎞)→ 昌福寺 →(1.0㎞)→ 龍正院
→(1.2㎞)→ JR滑河駅】 が「千葉県公式観光物産サイト」のお勧めコースです。


昌福寺-115
昌福寺-116

「千葉縣香取郡誌」に、「昌福寺」はこう書かれています。
「雲遍山昌福寺 滑川町大字西大須賀字谷津に在り域内千二百五十四坪淨土宗名越派に
して阿彌陀佛を本尊とす傳へて慈覺の作とせり寺傳に曰く永正十四年丁丑僧昌順之を開創し
良正上人を以て中興とす雲遍山の扁額は知恩院順眞法親王の筆なり」


また、「下総町史 通史 近世編」(平成6年)には、
「昌福寺 雲通山智光院と号し、下野国芳賀郡大沢村(栃木県益子町)円通寺の末。 本尊は
阿弥陀如来。寺伝によれば永正十一年(一五一四)に円通寺開祖良栄上人の法孫良翁上人
昌順和尚が開いたという。 にしかし、郡誌では山号を雲遍山とし、永正十四年(一五一七)に
昌順が良正上人をもって中興とすとしており一致しない。」
「幕末安政二年(一八五五)の昌福寺什物帳によれば、本尊の阿弥陀三尊、他に善導大師・
開祖大師(法然)・開山上人像を安置している。 また寺所有の土地を十数人に小作地として
貸している。 かなり裕福な寺院であったと想像される。」
 (P402~403)
と書かれています。

山号について、郡誌では「雲遍山」、町史では「雲通山」となっていますが、扁額(寺額)には
「雲通山」とありますので、町史の解説の方が正しいように思われます。


昌福寺-117
昌福寺-119
********** 昌福寺-121
昌福寺-122

墓地には延宝、宝永、享保、宝暦、明和、安永などの古い墓石が並んでいます。


昌福寺-132
昌福寺-124

境内に入ってすぐの場所に、四つの礎石跡があります。
その間隔から、かつてここにあった山門跡のように思われます。


昌福寺-130

道路際のガードレールに隠れるように、昭和58年の「馬頭観音」の石碑がありました。


昌福寺-131

県道に立つ看板には「寿老神」の文字が見えます。
神社に祀られるときは「寿老神」となりますが、お堂の中の像が「寿老神」で、前の石造が
「寿老人」なのかな・・・などと思いました。


昌福寺-123

境内に隣接する「月かげ保育院」です。
昭和16年5月に、「昌福寺境内に託児所が開設された」という記録がありますので、それ以来
の伝統でしょうか。


昌福寺-120
昌福寺-127

成田市内には浄土宗のお寺は、この「昌福寺」の他は、大菅の「檀林寺」、冬父の「迎接寺」、
台方の「西光寺」と四寺しかありません。
このうち、「西光寺」以外は旧下総町にあります。

檀林寺ー4
迎接寺-23
昌福寺-199

(上から大菅167の「檀林寺」、冬父86の「迎接寺」、下方905の「西光寺」)


昌福寺-126

成田市のホームページ中の成田市観光ガイドには、「昌福寺」を次のように紹介しています。
「雲通山、智光院、昌福寺、浄土宗。永正十一年(1514年)太蓮社良翁上人の開山。火災
により右文書、什物など消失し、由緒不詳。当山中奥十一世良正上人によって、元文五年
(1740年)に十間四面総欅造り、天井に極彩色の百花の絵、内陣欄間に龍などの彫刻を
施した現本堂を再建されたが、実に二度の洪水に見舞われながら、九年間の歳月を要した。
その後、山門、鐘楼堂、僧坊等の伽藍が整備されたが、現在は本堂のみ残る。」


根木名川と派川根木名川が利根川に注ぐこの地は、何度も洪水に見舞われたようです。
県道「成田・滑河線」からは一段高い境内は、洪水対策であったのでしょうか。
お堂や石仏・石造物を一角に集めて、中央には何も置かない、殺風景とも言えそうな境内は、
園児たちが楽しく走り回れるようにとの配慮のように思えます。


昌福寺-145

                          ※ 「雲通山 昌福寺」 成田市西大須賀1872


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滑河町の寺社 | 08:31:16 | トラックバック(0) | コメント(0)
千二百年前に建立された古社~小菅の「側鷹神社」

今回は二年前に「三里塚街道を往く その壱」でちょっと立ち寄った、小菅の「側鷹神社」です。

小菅側鷹-1

「千葉縣印旛郡誌」には、「側鷹神社について次のように記述しています。

「村社 側鷹神社 小菅村字中小菅にあり彦火々出見尊を祭る大同三年九月廿八日建立
社殿間口三尺奥行三尺拜殿間口三間奥行二間境内二百三十三坪官有地第一種あり神官は
宮崎廣重にして氏子六十戸を有し管轄廳まで九里二十五町一間一尺あり境内一社あり即
一天神々社 菅原道眞公を祭る嘉永元年戊申八月勸請建物間口三尺奥行一間あり神社明細帳」 


「彦火々出見尊」(ヒコホホデミノミコト)は、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)と木花開耶姫(コノハナノ
サクヤヒメ)との子で、山幸彦(ヤマサチヒコ)の名で知られています。
また、神武天皇の祖父にあたるとされています。

大同三年は西暦808年ですから、実に1200年以上前に建立された古社です。


小菅側鷹-2

「成田市史 近代編史料集一」に収録されている、昭和8年の「遠山読本稿 巻七」には、
村社側鷹神社は小菅区にあり、神饌幣帛供進指定神社たり。」 とあります。

また、「成田市史 中世・近世編」には、
小菅村の側鷹神社は大同三年の創建と伝えられ、古くは杣鷹大明神と称していたが、
明和八年(一七七一)に側鷹と改称している。」
とあります。

「神饌幣帛供進指定神社」とは、郷社・村社を対象に、明治から終戦に至るまでの間、勅令
により県知事から祈年祭・新嘗祭・例祭に神饌幣帛料を供進された神社を指します。
神饌幣帛(しんせんへいはく)とは、神社や神棚に供える供物のことで、米や酒、山海の幸、
布帛、衣服、武具などです。

「側鷹神社」は実は珍しい社名で、下総地方に多くある「ソバタカ神社」は「側高神社」が多く、
他に「脇鷹神社」(成田市小泉・香取市・旭市)、「祖波鷹神社」(香取市岩部)、「相馬高神社」
(芝山町)、「素羽鷹神社」(栄町)などがあります。
いずれも香取市大倉にある香取神宮の第一摂社である「側高神社」の分社です。


小菅側鷹-4
小菅側鷹-3

手水盤は天保六年(1835)のものです。


小菅側鷹-5
小菅側鷹-33
********** 小菅側鷹-7

「側鷹神社遷座紀念碑」には、次のように記されています。

「本側鷹神社(祭神彦火火出見尊)は、大同三年九月二十八日(西暦八百八年)現成田市
小菅七八三番地に創祀され、以来、古くは東国の守護神であることから、神饌幣帛供進
指定神社と
して崇められ、過のアジア、太平洋戦争時には、旧遠山村の総社として位置付
けされた。また、地域の産土神として多くの住民が崇拝した。今般、本神社の遷座は、国家
的施策である新東京国際空港の建設に協力する美事なるも、小菅地区開村以来の大事業
であることから、氏子一同の総意をもって協恭一心敬神の誠を奉げ、平成十九年十月この
地に遷座祭を斉行した。仍って、ここに碑を建て、愈々国運の隆昌と氏子崇敬者の御加護
を祈念し、御稜成の光被を仰がんとする次第である。」


産土神(うぶずながみ)とは、人が生まれた土地の守護神を指します。
人を一生を通じて守護してくれ、生まれた土地を離れても守ってくれると信じられています。


小菅側鷹-8
小菅側鷹-42
小菅側鷹-9
小菅側鷹-41

狛犬は平成19年の寄進です。
阿形の狛犬は左足で鞠を押さえ、吽形の狛犬の足許には子犬(?)がうずくまっています。


小菅側鷹-6

二基の灯籠も平成19年の寄進です。


小菅側鷹-39

境内の左手には、小さなお社や祠が並んでいます。

手前から見て行きましょう。

小菅側鷹-10

左の石柱には、「奉納 御寶■■ 天保八丁酉二月吉日」と刻まれています。
天保八年は西暦1873年、この年には大坂(現大阪)で「大塩平八郎の乱」がありました。
右の祠は風化によって文字らしきものは何も見えません。


小菅側鷹-11

「子安社」。
本社は、妊婦の安産と、お子様が健やかに育つことを願い、創祀されました。また、疱瘡神様
とも言われ疫病から身体を守る神様として崇められています。創祀年は不詳です。」

(説明板)


小菅側鷹-12

左の流造の小祠は、風化で何も読めません。
右の祠には大正六年(1917)と記されています。


小菅側鷹-13

「天神社」。
本社の祭神は、菅原道真公であります。嘉永元年(一、八四五年)に学問の神様である
同公が勧請され、以降崇められています。」
 (説明板)


小菅側鷹-14

「日天子社」。
本社の祭神は、大日孁尊(お日様)であります。正保二年(西暦一、六四七年)に妙福寺
住職日延上人により、五穀豊穣を祈願し、創祀されました。なお、昭和四五年(西暦一、九
七〇年)までは、その年の豊作を願い、例祭を毎年八月一日に行っていました。」

(説明板)

「大日孁尊(オオヒルメノミコト)」とは、「天照大神」の別称です。
「日天子」はインドの太陽神が仏教に取り入れられたもので、観音菩薩の化身とされ、仏法
守護の十二天に数えられています。
「天照大神」を祭神とするこのお社を「日天子社」と呼んでいるのは、「両部習合神道」と呼ば
れる神仏習合思想によるものと思われます。

この「両部習合神道」については、ウィキペディアに次のように解説されています。
「両部神道(りょうぶしんとう)とは、仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基
づく神仏習合思想である。 両部習合神道(りょうぶしゅうごうしんとう)ともいう。」
「両部神道では、伊勢内宮の祭神、天照大神は胎蔵界の大日如来であり、光明大梵天王で
あり、日天子であるとし、一方、伊勢外宮の豊受大神は、金剛界の大日如来であり、尸棄
大梵天王であり、月天子であるとする。そして伊勢神宮の内宮と外宮は胎蔵界と金剛界の
両部で、この両部が一体となって大日如来の顕現たる伊勢神宮を形成しているとした(二宮
一光説)。 両部神道とは、これによって神と仏の究極的一致を説明しようとしたところに注目
した命名である。」



小菅側鷹-17
小菅側鷹-18

境内の左奥には鳥居のある「熊野神社」があります。
「熊野神社(村社) 本社の祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊であります。地域住民の夫婦神と
して、」信仰も厚く、多くの人々に崇拝されています。創祀年は不詳です。」
 (説明板)

「熊野神社」と「日天子社」、「天神社」、「子安社」の各社は、もともとは小菅地区に分散して
いましたが、昭和45年に小菅783番地の「側鷹神社」の境内に合祀され、その後平成19年
の「側鷹神社」遷座に伴い、現在地に遷座したものです。
合祀前の「熊野神社」については、「千葉縣香取郡誌」中の「遠山村誌」に一行、
小菅村字中臺 由緒不詳 氏子六〇戸」 と書かれていました。

「側鷹神社」が以前に鎮座していた“小菅783番地”を地図で探しましたが、見つかりません。
平成7年まで時間を遡って、ようやく見つけた「側鷹神社」は、現在地より約2キロほど北の
新空港自動車道を超え、ヒルトンホテルの裏側から取香川に向かったあたりにありました。
現在の地図にも、平成7年の地図にも、その一帯には地番は付けられていません。
(参考までに、巻末に地図を載せてあります。)


小菅側鷹-19
小菅側鷹-23

鰹木は三本、千木は垂直切りです。


小菅側鷹-22
小菅側鷹-25
小菅側鷹-28

装飾の少ない本殿と拝殿は、バランスの良い、とても美しい姿です。


小菅側鷹-21

境内の隅に、忘れられたように置かれている手水盤には、「安政二卯」 と刻まれています。
安政二年は西暦1855年になります。
160年前のものですが、遷座前の境内で遣われていたものなのでしょう。


小菅側鷹-32
小菅側鷹-29
********** 小菅側鷹-24

上空を旅客機が飛んで行きます。
遷座前の「側鷹神社」は、飛んで行く飛行機の下あたりにあったのでしょうか。


小菅側鷹-26
小菅側鷹-27
********** 小菅側鷹-30
小菅側鷹-31

境内を囲むフェンスの向こうは、遠くに見える「成田ビューホテル」のゴルフ場です。


小菅側鷹-45
小菅側鷹-34
********** 小菅側鷹-35

鳥居の前の狭い道路の向こうは、切り通しになっていて、京成電車が走っています。


小菅側鷹-36

隣接地には以前は無かったソーラーパネル群が・・・。
最近はどこへ行ってもこうしたソーラーパネル群が目立ちます。
自然を破壊してまでエコだ、クリーンだと言えるのか、私には納得できない光景です。


小菅側鷹-37

小菅側鷹-38

ソーラーパネル群とコルフ場、切り通しには線路が走り、この神社の周りには人の生活の
気配が全く感じられません。
空港事業のためとはいえ、遷座したこの場所は寂しすぎる感じがします。

2年前のブログに、この神社に立寄った時の印象が書かれていますが、この景色から感じる
ところは2年後の今も変わりません。
(その時の文章  )
「境内にも、神社の周辺にも人影がありません。
数台が停まれる駐車場も立ち入り禁止のロープが張られています。
狛犬もどことなく寂しそうです。
空港事業のためとは言え、何世代にもわたって親しんできた住民との絆が
細くなってしまったのでしょう。
道は行き止まりになり、右に曲がって京成電車の跨線橋を渡り
細い道を下ると思わぬ場所に出ました。
空港建設のために使われた、通称「資材道路」が県道44号線と交わる
急坂の途中です。
44号を左に行けば、直ぐに「さくらの山」になります。」



小菅側鷹-40

遷座した平成19年に植えられた記念樹も、まだこんな頼りなさです。

昔はどこにでも見られた「鎮守の森」は、そう簡単には得られない貴重な遺産であることを
痛感させられる景色です。



側鷹神社-98

                         ※ 「側鷹神社」 成田市小菅1389-9

側鷹神社-100
(参考:  が現在の「側鷹神社」  がかつて「側鷹神社」があった場所です)



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遠山村の寺社 | 08:18:12 | トラックバック(0) | コメント(0)
前林・「諏訪神社」の回り舞台と「妙見神社」の妙見菩薩
前林にある「諏訪神社」と「妙見神社」を訪ねます。

諏訪妙見-10

「千葉県神社名鑑」には、「諏訪神社」について次のように書かれています。
「諏訪神社  祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ) 本殿・亜鉛板葺流造一.七五坪
拝殿・亜鉛板葺二四坪 境内坪数 一七七.五坪 氏子一八五戸」
「由緒沿革 創立年代は不詳。 今の社殿は、建築様式から推して享保年間にものらしく、
彫刻の精巧華麗な建物である。 御祭神が開拓の神であることからすれば、前林区が拓か
れた頃と関係があるのではないかとも思われる。 応永三三年四月の古文書にはすでに
前林の名が出ている。」


応永三十三年は西暦1426年ですから、約600年も前にはすでに集落があったわけです。


諏訪妙見-1

建御名方神(タケミナカタノカミ)とは、諏訪大社の主祭神で、大国主神(オオクニヌシノカミ)
の御子神であり、事代主神(コトシロヌシノカミ)の弟神になります。
「建御名方神」は、諏訪大社から勧請された全国の諏訪神社で祀られていますが、軍神と
して、また農耕や狩猟の神として信仰されています。


諏訪妙見-4
諏訪妙見-2
********** 諏訪妙見-3

手水舎には昭和25年に寄進された手水盤が置かれています。
手水盤には諏訪大社の神紋である「諏訪梶の葉」が彫られています。


諏訪妙見-5
諏訪妙見-6
***************諏訪妙見-7

ご神木の杉の大木は、幹周り7~8メートルはありそうです。


諏訪妙見-8

大きな拝殿です。
どこかで見たような建物ですが思い出せません。
後で調べたところ、この拝殿には意外な秘密が隠されていました。(それは後ほど・・・)


諏訪妙見-9

がらんどうの拝殿の向こうに、本殿が見えています。


諏訪妙見-11
諏訪妙見-16

「今の社殿は、建築様式から推して享保年間にものらしく、彫刻の精巧華麗な建物である。」
と「千葉県神社名鑑」にあったように、見事な彫刻です。


諏訪妙見-12

脇障子には迫力のある表情の獅子が彫られています。


諏訪妙見-13
諏訪妙見-82

反対側の脇障子の獅子は抜け落ちて、濡縁に無造作に置かれています。


諏訪妙見-83
********** 諏訪妙見-86
諏訪妙見-17
********** 諏訪妙見-81

見えにくい所にも細かい彫刻が施されています。
享保年間の造営ということですので、約300年前の芸術的作品です。


諏訪妙見-37

さて、ここで先ほどの“拝殿の秘密”について、です。


諏訪妙見-34

弊殿から拝殿側を見ると、床の板目が不規則なことが分かります。


諏訪妙見-33

さらによく見ると、円形の切れ目が・・・。


諏訪妙見-35
********** 諏訪妙見-36

天井を見ると、いろいろな形の木材が積まれています。

『この大竹岸太郎の「自叙伝」の記述によれば、現在の前林の舞台は、岸太郎らが地狂言を
上演するために、戸長である岸太郎の父親が、工事主任となって建設したものであることが
知られる。』
『現在の、前林の舞台(常設舞台)は、寄棟トタン葺(以前は、茅葺)で、「拝殿」と呼んでいる。
前林地区の中心地である諏訪神社の境内、参道の中央に本殿と同方向で、ちょうど拝殿の
位置に建っている。』
『舞台の規模は、間口六間、奥行四間で、伊能の舞台よりひと回り大きいといえる。回り舞台
があり、形式は、心棒付鍋蓋式の回り舞台であったが、現在は奈落改造によって、回転不能
となっている。二重台の上下機構などはない。花道なども現存しないが、おそらく組み立て式
で、取り付けられたものと思う。』
『戦後も、しばらくの間、芸能大会、映画会、地方巡業の買芝居などに使用されていたという。
なお、この前林の舞台は、千葉県立「房総のむら」に復元建設されている。』

(「大栄町史 民俗編」 P262~263)

これで納得です。
拝殿を兼ねた舞台だったわけです。
ここで上演された芝居を見てみたかった気がします。

諏訪妙見ー80

大須賀神社ー30  大須賀神社の能舞台
房総のむらー28  房総のむらの能舞台


諏訪妙見-18

鰹木は三本、千木は垂直切りで、男神の「建御名方神」が祭られていることを示しています。

「大栄町史 通史編中巻」に、この「諏訪神社」について一行だけ書かれています。
「前林村字花輪に所在。祭神は武御名方命(「県神社明細」)。旧社格は村社。」


「諏訪神社」から山道を150メートルほど進んだところには、「妙見神社」があります。

諏訪妙見-23

明神鳥居は平成9年に建立されました。


諏訪妙見-22

鳥居の手前にポツンと置かれた「道祖神」。
「安政六己未」 と読めるような気がします。
安政六年は西暦1859になります。


諏訪妙見-24

境内には小さなお社だけがあり、石造物等は全く見当たりません。

この「妙見神社」に関する資料は少なく、「千葉縣香取郡誌」や「千葉県神社名鑑」などにも
社名は出てきません。
「大栄町史 通史編」中の、第二章「大須賀氏関連の中世城館跡」にある、前林城跡・館跡の
項に、チラリと社名があるのを見つけました。

「大須賀川の最上流に近い前林の集落内に館跡があり、谷を挟んだ東側台地上に城跡が
あった。前林の集落は、大須賀川上流部の本支流に開析された北に伸びる台地上に存在
する。館跡は台地北端にあり、隣には妙見社がある。」


この前林城の城主であった前林志摩守は、前回紹介した「医王院」の開基とされる人物です。


諏訪妙見-25
諏訪妙見-88
********** 諏訪妙見-89

暗い堂内を覗かせていただくと、妙見菩薩像が見えました。


諏訪妙見-29
諏訪妙見-91

「大栄町史 通史編」に、この妙見菩薩像についての解説がありました。

『像(像高三五・七センチメートル、木造・玉眼)は髪際正中で左右に振り分けながら被髪に
あらわし、盤首の袍・穿裳を着け沓を履き、右手で戟の柄を握り、左手は仰掌して宝珠状の
持物を載せ、正面を向いて岩座(框付)の上で腹這いにあらわされた霊亀の上に直立する。
造像は近世と考えられ、現状の彩色・右手の戟・輪光はいずれも後補である。』
「なお、台座框裏には「奉彩色妙見大菩薩/醫王院十九世/和尚寄付」という施人に関わ
る銘および「上サ山崎村/佛工□□」・「明治六年冬十月」という修理にかかわる銘が存在
する。』
 (P40~41)

医王院十九世の名が出てくることは、開基・前林伊勢守以来の結びつきが続いていることを
示しています。
仏工の上サ山崎村とは、当時は上埴生郡の山崎村で、その後明治二十二年に長柄郡二宮
本郷村に編入され、現在は茂原市の西部に位置しています。


諏訪妙見-32
諏訪妙見-26
********** 諏訪妙見-27

ガランとした境内に羽黒トンボが舞っています。


諏訪妙見-21

諏訪妙見-19

「諏訪神社」と「妙見神社」。
地元の人々に守られて、静かに時を重ねています。


諏訪妙見-95

                      ※ 「諏訪神社」 成田市前林658
                         「妙見神社」 成田市前林ミジョウ(番地不明)
                                 (ミジョウとは城を意味する小字です。)



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本大須賀村の寺社 | 08:42:23 | トラックバック(0) | コメント(2)
清水が湧き出る山裾に五百年~前林の「医王院」

今回は旧大栄町前林の「医王院」です。

医王院-12

「医王院」は曹洞宗のお寺で、山号は「前林山」。
500年近い歴史を持っています。


医王院-10

立派な山門は宝暦年間(1751~1764)のものとされています。
およそ260年の間、風雪に耐えてきました。


医王院-6

山門の脇には数基の石造物が並んでいます。


医王院-7

手前の石塔は天明二年(1782)のもので、 「三界萬霊等」 (等は異体字)と刻まれています。
この世のあらゆるものの霊を供養するという意味で建てられます。
一番高い石塔は明治三十三年(1900)の読誦塔で、「奉 讀誦普門品壱萬巻供養塔」と刻ま
れています。(普門品(ふもんぼん)とは「観音経」のことです)


医王院-8

こちらはちょっと変わったお姿の地蔵菩薩です。
右手に錫杖(欠損)を、左手には宝珠を持って蓮華座から左足を踏み下ろした半跏倚座を
とっている、ふっくらとした体型の力強い像形です。
右手が施無畏印を結ぶものもありますが、この像の右手は何かを握っていたような形です
から、立像が持つような長い錫杖ではなく、振り鳴らす短めの錫杖を持っていたのでしょう。
「享保二丁酉」 の紀年銘があります。
享保二年は西暦1717年ですから、300年前のものです。


医王院-9

これは、曹洞宗のお寺には必ずと言ってよいほど見られる「不許葷酒入山門」 と刻まれた
結界石で、“酒気を帯びたり、ニラのような臭いものを食べた者は、修業の妨げとなるので、
入山することを許さない”という意味です。
「安永七戊戌八月」 と刻まれています。(安永七年は1778年)

高徳寺-29 高徳寺の結界石(堀籠)
養泉寺ー3養泉寺の結界石(東和泉)
長興禅寺ー16 長興院の結界石(伊能)
宝応寺ー8 宝応寺の結界石(伊能)


医王院-15

「千葉縣香取郡誌」にはこの「医王院」について一行のみの記載があります。
「前林山醫王院  同村前林字門内に在り域内五百六十一坪曹洞宗にして藥師如来を本尊
とす
(同村とは本大須賀村を指します)

「大栄町史通史編中巻」には、
「曹洞宗。前林村字門脇上に所在。山号は前林山(「郡誌」)。本尊は薬師如来(県寺明細」)。
常陸竹原(茨城県東茨城郡美野里町)の鳳林院の末寺。 鳳林院は多賀郡宮田(日立市)
大雄院の末寺であったから、大雄院-鳳林院-医応院という関係であった。天保十五年に
当寺が発行した寺送り状が今に残されている。(「史料編Ⅱ」〔一九〕)。明治三十八年に火災
に遭い、その後本尊を釈迦牟尼仏にしたという
(「史話」)。」
 
(下線部の医応院は医王院の間違いです。)
(「史料編Ⅱ」とある寺送り状については、本項の最後に載せています。)

「医王院」という名前から、ご本尊は藥師如来だと思いがちですが、こちらは110年ほど前に
「釈迦牟尼仏」に替えようです。(市内の磯部にある真言宗の「医王院」や、茨城県龍ケ崎市
(曹洞宗)、横浜市金沢区(真言宗)、長野県南牧村(天台宗)等、多くの「医王院」のご本尊は
「薬師如来」となっています。)
「釈迦牟尼仏」または「釈迦如来」は、仏教の開祖の釈迦を仏様とした呼び名です。


医王院-16
医王院-17

昭和40年に建立された「招徳福」碑。
「開山曉天秀初大和尚 大永二年」と右側に記し、中央に「開創四百五十年之碑」と大きく
刻んで、左側には「開基前林志摩守 醫王院殿量外道無居士 天正六年三月二十九日
院昌安妙久大姉 天正六年五月廿七日」
(蓁は異体字)とあります。
大永二年は西暦1522年、天正六年は1578年になります。

「大永町史通史編」中の「大須賀氏関連の中世城館跡」の項に、次のような記述があります。
「前林の地名は、すでに南北朝初期に「金沢文庫古文書」中に見られることから、鎌倉期
には集落が存在していたものと考えられる。 前林集落の大須賀川西対岸の字門内には、
曹洞宗医王院がある。 縁起によると、開山が大永二年(一五二二)、大檀那は天正六年
一五六八)没の前林城主前林志摩守であったとされる。 この前林志摩守とは、消滅した
字城山の前林城に関連する大須賀氏一族の人物であろう。」
 
(下線部の一五六八は一五七八の誤りです。)

前林城は志摩守が没した12年後の天正十八年(1590)に、豊臣勢の攻撃で落城しました。


医王院-18

「招徳福」碑の隣には代々の住職の墓所があります。


医王院-20

本堂裏の山裾からはきれいな清水が湧き出しています。
地形的に豊富な水脈があるようです。


医王院-26

この石仏は風化と苔で年代は不明ですが、「地蔵菩薩」と刻まれているような気がします。


医王院-21

元禄九年(1696)の聖観音像。
きれいに苔が落とされています。

ちょっと余談ですが、この聖観音像が造られた元禄九年には、「竹島一件」と呼ばれる朝鮮
との領有権争いにより、竹島への渡航を禁止する措置が執られました。
現在韓国が「竹島」を自国領だと主張する根拠の一つに、この「竹島一件」を挙げていますが、
この頃「竹島」と呼ばれていて日本人の渡航が禁じられたのは、現在の「鬱陵島」のことです。
現在韓国によって占拠されている「竹島」は、この頃は「松島」と呼ばれていました。


医王院-19
医王院-23
********** 医王院-24

裏山の中腹に古い墓石が並んでいるのが見えます。
近づくと、天和、享保、安永、天明、寛政などの年号が読めます。
周りは鬱蒼と茂る木々に覆われて薄暗く、どの墓石も苔生しています。


医王院-25

苔で滑りそうな急坂があり、墓地はまだ上に伸びているようです。


医王院-2
医王院-4
********** 医王院-1

六地蔵が見守る山の上の墓地に出ました。
こちらは比較的新しい墓石が目立ちます。

境内に戻り、山門を出て緩やかな坂を100メートルほど行くと、鳥居の建つ三叉路になり、
そこにかつての「医王院」の痕跡が残っています。

医王院-29
医王院-34
********** 医王院-30
医王院-87


「愛宕神社」の鳥居の脇に、「延命瀧」と刻まれた明治三十年(1897)の石碑があり、手前の
岩から清水が滾々と湧き出しています。
ここはもともと「医王院」の敷地内で小さな滝があったそうです。
水量があり、水質も良いので、近隣の人々が毎日汲みに来ています。


医王院-31

「地蔵堂」の中のお地蔵様は年代不詳です。
ここにあった滝の名前からすると、「延命地蔵」でしょうか?
かつてはここが「医王院」の入り口だったのでしょう。


医王院-32

地蔵堂の横には数基の石造物が並んでいます。


*********医王院-80

右端には年代不詳の「聖観音」。

*********医王院-81

隣は「青面金剛」の庚申塔。
側面に「奉拜待庚申三年成就所」「惟時天明三癸卯十月庚申日」と刻まれています。
天明三年は西暦1783年で、大飢饉の真っ最中であったころです。
60日に1回、1年に6回ある庚申の日に人々が集まって、三尸の虫が天帝に悪口を告げない
ように夜明かしをする「庚申講」を、3年・18回続けると「庚申塔」を建てることができます。

*********医王院-82

年代不詳の「聖観音」。

*********医王院-83

「奉納大乘妙典六十六部供養塔」と刻まれた読誦塔。
「元文■未年」と読めます。
元文年間の未年は元文四年(己未・1739年)になります。

*********医王院-84

寛政元年(1789)の「月待塔」。
「奉侍十・・・・・観世音」とあり、刻まれているのが聖観音ですから、欠損して読めない部分
には十五夜、十七夜、十八夜待のいずれかの文字が記されていたはずです。

*********医王院-85

風化で何の像か、分かりません。

*********医王院-86

「読誦塔」のようです。
元禄と読めるような気がしますが・・・。


医王院-36
医王院-37

「愛宕神社」への石段は急で、所々崩れていますのでちょっと危険です。
段数を数えながら登ったのですが、足許に気をとられて途中で数えられなくなりました。
100段以上はあるはずです。


医王院-38
医王院-39

大正十五年(1926)に建立された小さな石の祠です。
狭い境内には祠以外何もありません。


医王院-40

石段の最上段の左右に置かれている小さな石柱には、延享三年(1746)と刻まれています。


医王院-41
医王院-27
医王院-22

「延命瀧」碑と「地蔵堂」からは、「医王院」の境内がチラリと見えています。
500年の時の流れに、かつての広大な敷地も大分狭くなっていますが、それでも裏山の墓地
を含めれば相当な寺域が残っています。
近くには工業団地があり、大規模な採土場やソーラー施設など、開発の波がジワジワ寄せて
来ていますが、何とかこの静かな環境と歴史が続いていってほしいものです。


医王院-45

                        ※ 「前林山 医王院」 成田市前林545

※ 「史料編Ⅱ」に収録の寺送り状(九八寺送り状)

送リ一札之事
一 此九八与申者、代々拙院檀中ニ御座候処、此度当人之依望寺送遣シ候間、然上ハ
何方之御檀中ニ相成候共、拙院ニ而ハ決而構無御座候、仍而寺送一札、如件
                                     天保十五年 辰六月廿日
 先御寺 様
                                           前林村 醫王院


「九八」とは村人の名前です。
移住先が無いまま、寺送り状が書かれるのは非常に稀なことです。



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本大須賀村の寺社 | 08:12:33 | トラックバック(0) | コメント(2)
「若王神社(じゃくおうじんじゃ)」と「三王神社(さんのうじんじゃ)」

下金山の「若王神社」(じゃくおうじんじゃ)を訪ねます。

若王神社-84

前回に訪問した「七星神社」と同じく珍しい社号のようで、ネットでやっと二社を見つけました。
岐阜県中津川市と、岡山県津山市の「若王神社」は、「にゃくおうじんじゃ」と呼ばれています。
有名な京都市左京区の「熊野若王子神社」も「にゃくおうじ」と呼ばれますが、ここ成田市の
「若王神社」は「じゃくおうじんじゃ」と呼ぶようです。


若王神社-14

平成八年に建立の明神鳥居は、通りから路地をちょっと入ってさらに右へ曲がったところに
あるため、注意して歩かないと見逃してしまいそうです。


若王神社-15

鳥居の脇には十数基の墓石が並んでいますが、古いものは倒れています。


若王神社-16
********** 若王神社-17

なだらかな石段が続いています。


若王神社-18
若王神社ー20

「千葉県神社名鑑」には次のように紹介されています。
祭神 事解男命(ことさかのおのみこと) 本殿・流造一坪、弊殿・二坪、拝殿・四坪 境内
坪数三〇坪 氏子四〇戸」


亡き伊弉冉尊(イザナミニミコト)を黄泉国にまで追った伊弉諾尊(イザナギノミコト)は、醜悪
な姿となった伊弉冉を見て驚き、現世に逃げ帰ります。
途中で追いついた伊弉冉と離縁することを決め、吐いた唾から速玉男命(ハヤタマオノミコト)
とともに生まれたのが事解男命です。
唾を吐くことは約束を確認するために行われる行為のようです。
「コトサカ」は「コト」を「サク」の意味で、縁切りと浄化を表していると言われています。

「事解男命」は全国の熊野神社に多く祀られていることから、この「若王神社」も熊野神社の
流れをくむ神社でしょう。
桜田の「熊野大神」や南羽鳥の「熊野神社」のご祭神も「事解男命」でした。

熊野権現ー11   桜田・熊野大神
   南羽鳥・熊野神社  熊野神社ー1

「成田市史 近代編史料集一」に収録の「下總國下埴生郡下金山村誌」には、
若王神社 本村字北之内台ニアリ。地坪壱畝歩。祭神ハ伊弉諾尊。創建詳カナラス。」
と記述されています。
一畝は30坪になりますから、「千葉県神社名鑑」の記述と整合がとれていますが、ご祭神は
事解男命の親神の伊弉諾尊とされています。
神社のご祭神に関してはよくあることで、伊弉諾尊と御子神の事解男命の二柱が祀られて
いるということで良いのではないでしょうか。


若王神社-19

手水盤には安政四年(1857)と記されています。 
(政の字は異体字で、偏(へん)を上に、旁(つくり)を下にしています)


若王神社-21
若王神社-63

拝殿の小窓から覗くと、薄暗い中に本殿が見えています。
蟇股の彫刻は鳳凰でしょうか。


若王神社-64
若王神社-81

本殿は大きな鞘堂の中にあるため、その全容を見ることができません。


若王神社-82
若王神社-26   本殿の神額

本殿と鞘堂との間に1メートルほどの隙間があり、そこから本殿の周りを見ることができます。


若王神社-66

若王神社-67

鞘堂の内壁に、いくつかの掲額が掛かっています。
「昭和拾四年 富士浅間神社 霊峰参拜記念」(上)、「大正七年 伊勢神宮参拜紀念」(下)。


若王神社-69

鞘堂ができるまで長い間風雨に晒されていたのでしょうか、大分傷みが目立ちます。


本殿の裏には小さな流造のお社が点在しています。

若王神社-29
********** 若王神社-30
若王神社-31
********** 若王神社-32

何のお社かは分かりませんが、いずれも土台を多くの丸石で固めたしっかりした造りです。


若王神社-33

明治三十年(1897)建立の「出羽三山参拝記念碑」。


若王神社-34

傾いた祠の前には力石のような二つの石が置かれています。


若王神社-71

大木の根元に寄りかかっている石碑があります。
風化と、表面が削られたような痕があり、刻まれた文字はほとんど判別できません。
中央上部に「天」の文字が見え、右端に「植」、左端に「少」の文字が読めます。
「天」は「天照大神(アマテラスオオミカミ)」、「植」は「植安媛命(ハニヤスヒメノミコト)」、
「少」は「少彦名命(スクナヒコノミコト)」と刻まれていたと推測すれば、他には「大己貴命
(オオムナチノミコト)」と「倉稲神命(ウカノミタマノミコト)」の名前が刻まれていたはずです。
これは、五穀豊穣を祈願する「地神塔」で間違いないと思います。
側面に「文政」の元号が読み取れますので、200年近い昔のものです。

「地神塔」は五角の石柱に五柱の神名を刻むものが多く、このブログでもこれまでに江弁須
の「皇産霊神社」、米野の「麻賀多神社」、八代の「稲荷神社」の三基を紹介しています。

円應寺ー48   米野・麻賀多神社
    八代・稲荷神社   善勝院ー28 

ちょっとしたスポット~米野の麻賀多神社 ☜ ここをクリック
寺社が並立する信仰の場~八代の「善勝院」と「稲荷神社」 ☜ ここをクリック


若王神社-72
若王神社-73

境内の裏の竹林に道のようなものが見えています。
尾根のような地形で緩やかに上っています。


若王神社-36
若王神社-02
若王神社-74

100メートルほど登ると突然社殿が現れました。
神額も社号標もありません。
社殿の後ろに鳥居があり、その先にお社が見えています。

社殿の形状と鳥居の位置などから考えると、これは神楽殿かもしれません。


若王神社-38
若王神社-39
若王神社-40

神額の文字はすっかり消えてしまっています。

後で調べたところ、ここは「三王神社」のようです。
「千葉県神社名鑑」その他の資料にもこの神社の名前は出てきません。

若王神社-78
若王神社-75
**********若王神社-76

屋根には徳川家の紋章である三葉葵が見えます。
「下金山村誌」に「山王神社」として次のような記述がありました。

「字北之内ニアリ。泉城ノ出城ニテ寺台海保守ノ城、押畑千葉家ノ出城ヲ目前ニ望ムコト
ヲ得。祭神ハ大山咋命ヲ祀ル。其後素盞嗚尊ヲ合祀シ三王神社ト改ム。」


「大山咋神」の別名は「山王」で、山の地主神です。
「山王神社」は山王信仰に基づいて滋賀県大津市の「日吉大社」より勧請を受けた神社で、
広く全国に分布し、大山咋神(オオヤマクイノカミ)と大物主神(オオモノヌシノカミ)を祭神
としています。
この二柱に素戔嗚尊が加わって「三王神社」となったわけです。


若王神社-41
********** 若王神社-42

昭和57年に寄進された御神燈。
片方は宝珠・傘・火袋の部分が崩れ落ちています。

若王神社-46

手水盤には安政四年(1857)と刻まれています。
側には割れた手水盤と同じ安政四年と記された板碑が置かれています。


若王神社-37

境内の片隅には、壊れた板碑や石碑が積み上げられています。


若王神社-44
  昭和61年建立の鳥居を挟んで見た  神楽殿(?) ↑  と三王神社  ↓
若王神社-45


若王神社-48
********** 若王神社-49

木々の合間からはのどかな田園風景と、空港へ向かう鉄道の高架線が見えています。
その向こうに見えるのは吉倉にある「インターナショナルガーデンホテル」です。


若王神社-50
若王神社-51
若王神社-52

狭い境内の全景を撮ろうと苦戦中に、視線をを感じました。
いつの間にか社殿の横に猫が一匹、じっとこちらを見つめています。
こんな人気のない山中で何をしているのでしょう?
(向こうも同じことを思っているか・・・)


北之内北方ノ台ニ隆起ス。地形馬ノ背ノ如シ。高サ五丈ニ余レリ。南方耕地ヲ隔テ成田山
アリ。北方ニ新妻、押畑其他数村ノ耕地及長沼及利根川ノ風帆漁船ヲ見ル。又晴天ノ日ニ
極目遠望スレハ常陸ノ筑波、足尾ノ諸山風景ヲ見ルコトヲ得。」


「下金山村誌」には「山岳」と題した、こんな記述も見られます。
これは「若王神社」と「三王神社」のある高台のことを指していると思われます。

若王神社-62
若王神社-77

南方には鉄道の高架線が横切り、大型のショッピングモールができて、往時の景色とは
一変していますが、かろうじて成田山の一角は見えています。
北方は竹と雑木に覆われて、何も見えません。


若王神社-54
若王神社-57

深い森の中の「若王神社」と「三王神社」。
かつての見晴らしの良さは半減してしまいましたが、秋の紅葉の時期はきっと鮮やかな
色彩に彩られることでしょう。


若王神社-85  
     
                            ※ 「若王神社」  成田市下金山589

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中郷村の寺社 | 08:05:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
下金山の「龍金寺」と「七星神社」
下金山の「龍金寺」を訪ねます。

竜金寺-24

天台宗のお寺で、山号は金峰山、ご本尊は阿弥陀如来です。

「龍金寺 下金山村字西前にありて天台宗に屬す金龍山と號す阿彌陀佛を本尊とす由緒
不詳堂宇間口二間奥行二間寺院間口五間奥行八間半境内二百七十三坪官有地第四種にして
管轄廰まで八里十八町なり寺院明細帳

(下線の部分で山号が「金龍山」となっているのは誤りで、正しくは「金峰山」。)
「千葉縣香取郡誌」中の「中郷村誌」に、「龍金寺」はこう記述されています。


竜金寺-1

いかにも旧道らしい、曲がりくねった「和田下金山線」沿いに「竜金寺」はあります。
入り口には四基の石造物が並んでいます。


竜金寺-2

右端の如意輪観音は全体が白苔に覆われていますが、何とか「文政三年」と読めます。
文政三年は西暦1820年、約200年前のものです。


竜金寺-3

隣の石仏は風化と破損が激しく、何の石仏か分かりません。


竜金寺-4

これは墓石でしょうか、寬保や延享などの元号と、~禅定門の文字が見えます。


竜金寺-5

左端も風化と苔で文字がほとんど読み取れませんが、奉誦塔のようで「~万巻」と読めます。


竜金寺-6

瓦葺きの方形造りの本堂は、通りから一段高い場所にあります。

明治十七年の「下總國下埴生郡下金山村誌」には、
「本村字西前ニアリ、地坪九畝三歩。天台宗・金峰山龍金寺。由緒開基詳カナラス。」
とあります。
山之作の「円融寺」の末寺ですが、なぜか成田市の宗教法人名簿にも、天台宗の寺院名簿
にも記載がありません。
「成田市史 中世・近世編」の中で、「円融寺」の末寺として寺名が載っているだけです。


竜金寺-7
竜金寺-8
********** 竜金寺-9

失礼して中を覗かせていただきました。
反射でよく見えませんが、木造仏が数体おられるようです。
「阿弥陀如来像」ではないか、とは思うのですが、来迎印を結んでいるようには見えないのは
両手が欠損しているからでしょうか?

証明寺ー3 
   山口・證明寺の阿弥陀三尊像    證明寺 ☜
神宮寺ー48
 神崎町・神宮寺の阿弥陀如来像   神宮寺 ☜

『阿弥陀如来は仏の領土=浄土のなかでも最も広大な西方極楽浄土にいながら、現世で
人々に無量の寿命(永遠の生命)を与えてくれる法力を持つ如来です。「人は念仏さえ唱え
れば極楽浄土に往生できる」「臨終のときには菩薩や天(神々)を連れて迎えにいく(来迎)」
ことを誓願し、人々を救ってくれる阿弥陀如来は、十世紀以降、厚く信仰されるようになり
ます。』
 (「仏像の事典」 熊田由美子監修 成美堂出版 P24)

ちょっと脱線しますが、私なりに解釈した、想像を絶する「阿弥陀如来」の広大な世界を、
数字で見てみましょう。(計算違いがありましたらお許しを)

遙か昔のインドに王位を捨てて「法蔵」と名乗った修行僧がいました。
「法蔵」は五劫という永い期間の修行を経て悟りを開き、「阿弥陀如来」となりました。
「劫(こう)」とは時間の概念で、一辺が一由旬(ゆじゅん=7.2㎞)の立方体にケシの実を
ぎっしりと詰めて、その実を100年に一粒ずつ取り出し、すべてのケシの実がなくなるまで
の時間を言います。
立方体の体積は約373㎦で、ケシの実は直径5ミリ程度ですから、”気の遠くなるほどの
長い時間”という意味になります。(「未来永劫」の「劫」もこの言葉から来ています)

さて、「阿弥陀如来」の極楽浄土は、私たちの住むこの世界から十万億土もの彼方にある
と言われています。
十万億土の「十万億」とは、一億の十万倍という意味ですから、10兆ということになります。
十万億土の「土」とは、“一尊の仏が治める銀河系ほどの広さをもつ国”を指す言葉なので、
十万億土の彼方とは、銀河系を10兆回越えた先ということになります。
銀河系の直径はおよそ10万光年とされていますから、その10兆倍とは、100京光年の
距離ということになります。
気の遠くなるような距離、と言うより、想像の範囲を超えた遙か彼方という意味です。
仏教の時間や空間の概念の大きさには圧倒されますね。


竜金寺-10
竜金寺-11

本堂の右裏手にあるお堂には数枚の欠けた板碑が置かれています。


竜金寺12
********** 竜金寺-13
竜金寺-14
********** 竜金寺-21
竜金寺-15

本堂の左裏手には墓地が広がっています。
寛文、貞享、元禄、宝永、正徳、享保、延享などの元号が見えます。


竜金寺-16

墓地の向こうの景色は大きく変わりました。
成田空港への鉄道の延伸による高架の建設、大型ショッピングモールの開業は、ここ20年
ほどの間の出来事です。


竜金寺-19
竜金寺-20

比較的新しい墓石の陰に、草生す無縁墓石が多く見られます。
人が生き、死んでいった痕跡のこのような姿を見るたびに、人生の無常を感じ、以前訪ねた
野毛平の「東陽寺」の景色を思い出してしまいます。

東陽寺ー24竹と雑木に覆われた東陽寺
東陽寺ー25


竜金寺-17
竜金寺-18

太子堂の二体の太子像は年代が分かりません。
頭は欠損し、近年になって付け直されたものです。


竜金寺-22
*********竜金寺-25

寺の裏山は寺台城主であった馬場氏の一族が居城としていた「下金山城址」です。
急斜面は木々に覆われ、登り口は見当たりません。


竜金寺-26
竜金寺-27

山裾を切り開いた台地にある境内は、南側に開けて、前方には遮るものも無いためか、
とても明るい空間になっています。


竜金寺-31

「下金山城址」の手掛かりを探して少し近所を歩いてみました。
民家の庭先の向こうにチラリと鳥居が見えました。


竜金寺-33
竜金寺-32

鳥居の神額には「七星神社」と記されています。


竜金寺36

しばらくの間は石段がありましたが、途中からこんな様子になりました。
45度以上の急斜面で、飛び出している木の根やツルを掴んで登るしかありません。
足を滑らせたら大怪我は間違いありません。


竜金寺-34

二十メートルほど、這いつくばるように登った先に小さなお社がありました。
狭い台地にはお社以外何もありません。


竜金寺-35

十メートルくらい先のがけ下に祠が見えています。
側面に何やら神紋のようなものが付いていますが、とても近づくことはできません。

急斜面を降ることばかりが気になって、早々にこの場所を離れましたが、道に戻ってふと
頭をよぎったのは、馬場氏が千葉一族であるなら、城跡であろう場所にあったあのお社は、
“「七星神社」となっているが、実は「妙見社」ではないだろうか?”ということでした。

「千葉縣印旛郡誌」に収録の「中郷村誌」に、「七星神社」の名前を見つけました。
「七星神社 下金山村字東前 無格社 祭神 天御中主命 由緒不詳 社殿間口二尺奥行
二尺 境内二五坪 氏子二七人 管轄廰まで八里十八町」


天御中主命(=天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ))は、天地開闢に関わった別天津神
(コトアマツカミ)の一柱で、高天原の中央に座する主宰神という意味があります。
「天之御中主命」をご祭神とする神社としては、「千葉神社」・「秩父神社」・「東京大神宮」等
がありますが、全国的には「妙見社」がご祭神としています。
特に下総地方一帯は、千葉氏の影響下にあった関係から、多くの城跡には「妙見社」が
セットのように見られます。

また、「成田市史 中世近世編」の「成田市域の主な神社」の項に、
「七星神社 古社名 七星権現 祭神 妙見菩薩」 
とあるのを見つけました。

ご祭神の「天之御中主命」と「妙見菩薩」との混乱は、明治新政府の神仏分離令により、
妙見社では仏教世界の「菩薩」を祀れなくなり、天之御中主神を、妙見菩薩をと同一視
してご祭神としたことによります。(千葉神社や秩父神社もこの理由により天之御中主神
をご祭神としました。)

これで、この「七星神社」とは、妙見信仰からの北斗七星から来た社名で、実は「妙見社」
であることが分かりました。

二宮神社ー43   二宮神社の月星紋
 馬頭観音堂の七曜紋  山田馬頭ー29

源頼朝を支えたことで勢力を拡大した千葉氏は、「妙見菩薩」を深く信仰し、領地内に多く
の妙見社を建立しました。
「妙見」とは北極星や北斗七星を神格化したもので、千葉家の家紋とした月星紋や九曜・
七曜紋などはこの信仰に根差しています。
 
さて、前述の「中郷村誌」には下金山村にもう一つ「天神社」があると書かれています。
「天神社 下金山村字北ノ内 祭神不詳 由緒不詳 間口一尺奥行二尺 境内一六坪 
氏子二七人 管轄廰まで八里十八町」

氏子の人数や管轄廰への距離が全く同じですから、「字」は違っていても、「七星神社」の
下方に見えた小祠は「天神社」の可能性があります。
ぼやけて見えた紋のようなものは、梅鉢紋(平隅切り梅鉢紋(?))だったのかもしれません。
(確認のためいつものように再訪問したいところですが、あの崖をまた登る勇気は出ません)

それにしても「七星神社」とは珍しい社名です。
ネットでいろいろ調べてみましたが、二社しか見つかりませんでした。
秋田県山本郡三種町の「七星神社」と、山形県西置賜郡白鷹町の「立岩・七星神社」です。
三種町の「七星神社」のご祭神は「天御中主神」ほか六柱、白鷹町の「七星(しちょう)神社」
のご祭神は「金山比古命」「金山姫命」「倉稲魂命」の三柱です。
いずれも由緒不詳ですが、三種町の方はご祭神から考えて「妙見社」系かもしれません。


竜金寺-23
竜金寺-34


明るい台地に鎮座する「龍金寺」と、崖の上に取り残された形の「七星神社」との関係は、
今後千葉氏の盛衰を追って行くうちに、いずれもっと明らかになってくると思われます。


竜金寺-37

                             ※ 「龍金寺」 成田市下金山520

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中郷村の寺社 | 07:22:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
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