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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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世渡り下手な大剣豪「小野次郎右衛門」
【 さて、海保三吉を説得して切腹させたと伝えられる小野次郎右衛門については、三吉と共に
伏見にて御番を務めていた同僚であり、三吉の乱暴狼藉を上司に注進した人物でもあります。
小野派一刀流で知られた剣豪であり、三吉の後に寺台領主となりました。
三吉に絡むこの人物の生き様もまた、大変興味が湧いてきます。】


前回の「海保三吉」の項の最後でこのように記しましたが、早速「小野次郎右衛門」について
追いかけることにしました。

次郎右衛門が海保三吉とともに伏見で務めていた「御番」とは、江戸時代に非役の小普請や部屋
住みの旗本・御家人から選ばれて、小姓組・書院番・大番などに任じられる役職のことです。

剣豪としての小野次郎右衛門は、多くの時代小説の主人公としてその名声をほしいままにして
いますが、今回は「而シテ小野氏本墓何ノ由緒アリテ本村ニ在ルヤ詳ナラス」とまで地元寺台
村の村誌に書かれるほど、領主としての評価が残されていない人物像に迫ってみたいと思います。

剣豪としてではなく、一人の武士として、あるいは一人の人間としての小野次郎右衛門は、どんな
人物だったのでしょうか?


典膳-6
(炭火焼き 山海料理 「隠れ屋敷 典膳」 ホームページより)


千葉県教育委員会のホームページに、小野次郎右衛門に関する一項があります。
【成田山公園に隣接する、永興寺所有の小高い丘の上に、江戸時代初期の剣豪で小野派一刀流
の流祖小野次郎右衛門忠明・二代小野次郎右衛門忠常の墓(五輪塔)が建っている。
小野派一刀流は、小野次郎右衛門忠明により開かれ、柳生新陰流とともに徳川将軍家に採用され
隆盛を誇った流派である。流祖忠明は、房州御子神(現安房郡丸山町)の生れで少年時代を御子
神の地で過ごし、御子神典膳と称していた。たまたま来遊した一刀流開祖の伊藤一刀斎景久に
入門し、修行を重ねた後、一刀流継承をかけた小金原の決闘で小野善鬼を破り、一刀流の正統を
継承した。その後に徳川家康に仕え、母方の小野姓に改め、元和3年(1617)成田市寺台の地頭
となり、寛永5年(1628)12月7日没した。
2代忠常は、3代将軍家光の指南番となり、小野派一刀流の隆盛に大きく貢献し、寛文5年
(1665)12月6日没したのち、流祖忠明とともに永興寺境内に埋葬された。】



地元の寺台村誌(明治十七年)には、小野次郎右衛門に関する記述がほとんどありません。
不行跡を咎められて切腹に追い詰められた前の地頭・海保三吉に関する記述に比して、不自然
なほどの無関心ぶりです。

【 小野忠明墓
本村永興寺ニ在リ。忠明ハ即チ神子上典膳ナリ。弱冠ヨリ刀槍ノ術ヲ好ム。慶長五年信濃
真田ニ戦ヒ七槍ノ誉アリ。後外祖氏ヲ冒シ小野次郎左衛門(右ノ誤リ)ト称ス。三百石ヲ食ム。
而シテ小野氏本墓何ノ由緒アリテ本村ニ在ルヤ詳ナラス。

(「下総國下埴生郡寺臺村誌」 明治17年)

専門家でもない村役人が作成した町村誌には、多くの誤りが記されていますが、この記述に
あるように小野次郎右衛門への関心は、専ら剣豪であったことに集中しているように思えます。


小野次郎右衛門の出身地である、現南房総市・旧丸山町の町史には彼についての記述がくつか
みられますが、剣客としての描写しかなく、人物像に関する史料は見当たりません。

【 御子神典膳は御子神地区岩浪治兵衛(当主岩浪仁氏)の家の出生という。火災のため文書等
は失ったが、屋敷近くに今宮様と称する五輪塔がある。】

(「丸山町史」 平成元年 第八節 近世の村々中の御子神村 P341)

この「今宮様」とは、後述する、典膳によって殺された相模出身の旅の剣客・「今宮勝人」の墓で
あると伝えられています。

【 小野派一刀流は、江戸時代初期の剣豪・小野次郎右衛門忠明により開かれ、柳生とともに德川
德川将軍家に採用され隆盛を誇った。流祖忠明は、安房國朝夷郡御子神村(現丸山町御子神)の
生れで御子神典膳といい、上総國万喜城主に仕え、たまたま来遊した一刀流開祖伊藤一刀斎

景久に入門し、遂に一刀流の正統を継承した。】
【 その後、江戸に出て当時の兵法家小幡景憲によって非凡な剣技を見込まれ、文禄二年
(一五九三)景憲の推挙によって、徳川家康に仕え、二代将軍秀忠の剣法指南役を勤めた。
このころ、家康の命により外祖父の姓を継いで小野氏を名乗り、小野次郎右衛門忠明と改名した。
忠明の忠は将軍秀忠から賜ったと伝えられる。】
【 忠明は晩年、下総國埴生郡寺台村の地頭となり、寛永五年(一六二八)没した。】
【 二代忠常は、三代将軍家光の剣法指南役となり、父忠明に劣らず勇名を響かせ、小野派
一刀流の隆盛に大きく貢献した。寛文五年(一六六五)没した。】


唯一、彼の剣以外の業績について述べられている部分は、
【 流祖忠明と二代忠常の墓は、成田市寺台の保目山永興寺近くの山上(成田高校裏山)に
あり、永興寺本堂には、曹洞宗宗祖道元禅師と並んで忠明の木像がまつられ、地頭としての
優れた業績と同寺の発展への貢献を物語るように、宗祖と同格に中興の祖として崇められている。】

(丸山町史 第七章 郷土の文化 P1380)
しかし、地頭としての業績や永興寺への貢献についての具体的な記述はありません。


典膳-5
(ユーイの航海日誌 「ユーイ・痴郎」 千葉探訪記115 中の写真)

小野次郎右衛門(御子神典膳)生誕の地には彼の記念碑が建てられ、公園となっています。


有名な剣豪の墓がなぜ成田にあるのか?
寺台村の地頭であったというだけで、生誕の地や活躍した江戸の町ではなく、なぜ成田なのか?

埋葬の地とされるほどの寺台村とのつjながりがあるのか?



本ブログの2014年7月「成田山東参道を歩く」の記事中に、小野次郎右衛門父子の墓に関する
記述があります。 (成田山東参道を歩く 2014年7月 ☜ ここをクリック)

【 高校の手前の急坂を少し登ると狭く急な階段が上へ延びています。

東参道ー4  草に覆われ、顔に蜘蛛の巣がかかります。
             相当きつい階段です。  東参道ー5

東参道ー7

登り切った平地に、小野派一刀流で有名な「小野次郎右衛門」父子の墓がポツンと建っています。

小野次郎右衛門忠明は房州御子神村(現南房州市)の出で、小野次郎右衛門となる前は
神子上典膳と名乗っていました。
小野派一刀流のホームページには、
「伊藤一刀斎景久を一刀流元祖とし、流祖小野次郎右衛門忠明が一刀斎直伝の一刀流の
正統を継ぐ。他の分派・支流と区別するためこの正統に小野派を冠す。忠明は将軍家徳川
秀忠の指南役となる。小野次郎右衛門忠常は忠明の三男。初め忠勝と称す。父に学びその
統を継ぎ次郎右衛門を襲名す。忠常は徳川家並びに多数の門人を指南した。」とあります。
忠明は柳生新陰流の柳生宗矩とともに徳川家指南役となった剣豪です。
ちなみに、北辰一刀流はこの小野派一刀流の分派になります。


東参道ー8

忠明の墓石には「妙法蓮華経 清岸院妙○霊」と刻まれ、寛永五年(1628年)の日付が読めます。
また、忠常の墓石には「妙法蓮華経 清海院日岸居士」と刻まれ、寛文五年(1665年)の日付が
あります。
墓石の後ろから撮ってみました。
これが父子が見ている景色です。
優しい木漏れ日に包まれて、二人は静かに眠っています。
忠明は元和三年(1617年)に寺台の地頭となっていることから、
この地に埋葬されているのでしょう。



父子の五輪塔の墓にはそれぞれ次のような文字が刻まれています。

(忠明)   妙法蓮蕐經  寛永五戊辰  清岸院妙達霊  十二月七日
(忠常)   妙法蓮蕐經  寛文五乙巳年  清海院日岸居士  十二月六日了

寛永五年は西暦1628年、寛文五年は1665年になります。



慶長六年九月に寺台村に本領二百石を賜った小野次郎右衛門ですが、「丸山町史」のP1498に
【典膳(忠明)は将軍家の御指南、御側役のため本領地にはほとんど居なかったようである。】
と書かれているように、寺台村との関わりは希薄だったようです。

このへんが、寺台村誌やその他の史料に次郎右衛門の人間性をうかがわせるエピソードを
見つけることができない理由になるのでしょうか。



小野忠明は、大阪冬の陣・夏の陣に参戦をしていますが、同僚の四奉行の戦場でのふるまいが
見苦しいものであったと強くなじったため、奉行達が諸大名が同席している席で将軍秀忠に直訴
し、大騒動になったことがあります。
【 ところが突発的に不幸が起った。典膳が元和元年、大阪夏の陣に諸道具奉行として出陣中、
同僚の神谷、山角、伊藤、石川の諸奉行が戦況不利に陥った時、督戦の事を忘れ兵と共に
動揺した事を誹謗したとして罰せられ、翌年九月閉門と決まり将軍家の側を去ることになる。
同僚奉行の捨て逃げたあと踏み留まって督戦につとめた働きを認められず、他の奉行達の
反論に上司の心無い裁定であった。しかし後に閉門を解かれたと「寛政重修諸家譜」に記され
ている。】 
 (「丸山町史」第八章 人物 P1498)

また、少し名の通った剣士に対して、相手を誹謗中傷する言辞を吐き、勝負に持ち込んで相手を
叩きつぶすようなことがあったり、同じ将軍家剣術指南の柳生宗矩をあからさまに蔑視するなど、
大人げない言動が多く伝えられています。

傲慢不遜というか融通の効かない、偏屈な天才剣士という、次郎右衛門の人物像が伝えられて
いますが、領民との触れあいのない孤独な後半生であったと推測されます。


東参道ー6
                                          (2014年7月撮影)

次郎右衛門の影の部分について、次のような記述を見つけました。

【まず丸山町御子神に語り伝えられる話から書いてみる。その伝説とは、御子神典膳が十七、八才
頃、御子神の村里に一人の旅の武芸者が訪れた。剣術自慢の典膳は早速、武芸申し込んだ申込
んだ。立合った結果は惨憺たるもので、コテンコテンに打ち据えられてしまった。悔しくて仕方ない
典膳は一計を案じた。それは、家の附近の樹に繫いであった牛を態と解き放し、その武芸者に
牛を取り押さえてくれるよう頼んだ。そして武芸者が牛を捕まえようとして、牛に気を取られている
スキを見て、突然斬り掛かり武芸者を殺してしまったという伝説である。】
【また、もう一つは彼の知行地である成田での話であるが、最初彼の領地は下総埴生郡の一部
だったと言われている。そして当時、成田の寺台領主として海保甲斐守という者が居た。甲斐守も
豪勇の士として有名であった。その海保甲斐守を小野次郎右衛門が、自らか?又は、家来に命じ
てか?暗殺したという伝説である。】
 (「考証 小野次郎右衛門忠明」 宇田川秀雄 昭和63年 P27~29)

海保甲斐守の件については諸説あり、
(本ブログ「寺台城の豪傑海保三吉」を参照 寺台城の豪傑 海保三吉 ☜ ここをクリック )
真実は闇の中ですが、この本の著者は、次のように述べています。
【これらの伝承は今迄小説等に書かれてきた、真面目な御子神典膳像や、粗暴なところはあるが
卑怯な振舞を嫌う武辺一本槍の小野次郎右衛門の映像からは想像できない汚れた姿である。
これは私にとっても郷土の英雄の像を汚すことであるから大変残念至極であるが、調査の結果
その様な伝承が在ることが判明したのだから、ここに書きしるすのもやむを得ないのである。】

(同 P29)


どんな人にも明るい部分だけでなく、暗い部分もあるものです。
剣豪としての名声をほしいままにした小野次郎右衛門にも、闇の部分が見え隠れします。
命のやりとりを何度も行ってきた剣客が、その勝負の全てで正々堂々と振舞ったということは
考えられなく、修羅場の中で人には言えぬ卑怯な行為や策略があったはずです。
生き残った勝者は堂々と勝ったことになり、倒した相手の数だけ伝聞が膨らみ、やがて高潔な
人格者としての「剣豪像」が一人歩きして行きます。
小野次郎右衛門がそうであったとは言い切れませんが、人々の記憶からはただひたすら強く、
剣以外の俗事など彼を語るに不要なこととされてきたのでしょう。
諸説あるものの、忠明には忠常をはじめとして三人または四人の子どもがいたようなので、妻
がいたはずですが、ここに触れている文献は見つかっていません(永興寺には次郎右衛門夫妻の
木像が保管されています)。
人々には、彼の人間性や知行地での施策などは記憶に留めるほどの価値がなかったのでしょう。


次郎右衛門が寺台村の地頭となったのは元和三年(1617)ですが、領民には人気のあった海保
三吉が切腹となったのも元和三年。
つまり、次郎右衛門は前地頭の海保三吉が無念の死を遂げた直ぐ後に地頭となり、しかも、諸説
あるものの、海保三吉を追い詰めた張本人と目されていたわけですから、村人達に人気がない
のも仕方ないところでしょう。


天才肌、または一芸に秀でた人の中には、往々にして融通の利かない、付き合いづらい人物が
いるものです。
言わずもがなの一言を言ってしまう、大局に影響ないのに自説に固執する、妥協することができず
組織の内で常に敵をつくってしまう・・・。

徳川家康によって、柳生新陰流の柳生宗矩と一刀流の神子上典膳(小野忠明)の両名は同時期
に200石で召し抱えられましたが、その後柳生宗矩は関ヶ原で2000石に、大坂の陣の後には
3000石に加増されています。
一方、小野忠明は、生涯で600石に加増されたのみです。
世渡り下手な次郎右衛門の生涯を象徴するような結果です。



人並みに野心はあったものの、生来の性格が出世を阻み、並外れた剣の力を活かす場面の
少ないままに人生を終えてしまった剣客・小野次郎右衛門忠明。
その剣名の高さに相応しいとは言えない不遇とも思える一生に、後悔はなかったのでしょうか。


房総風土記の丘に御子神家住宅が移設されています。

風土記の丘ー12
                        風土記の丘ー11
風土記の丘ー13
(房総風土記の丘に移設されている「旧御子神家住宅」)

のどかな上総の農家ですが、このような環境の中からどのようにして剣聖と称される人物が生まれ
たのでしょうか。
どこかがほんの少し変っていたら、典膳の人生はどう違っていったのでしょうか。
軒先に立って覗く薄暗い室内から、若き典膳の息づかいが聞えてくるような気がします。


東参道ー16
(「永興寺」 2014年7月 撮影)





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