
元応元年(1319年)に中山法華経寺(現・市川市)の日祐上人によって開山され、
「高祐山東福寺」と称していましたが、約270年後の天正十九年(1591年)に
「正東山日本寺」に改められました。
慶長四年(1599年)には僧侶の養成機関である中村檀林が開かれ、
最盛期には36の学坊に千人近くの学僧が学ぶという全国有数の学問所となり、
小西檀林(現・大網白里市正法寺)、飯高檀林(現・匝瑳市飯高寺)と並んで
関東三大壇林と称されました。
学坊を東西に分け、勉学を競い合い、毎年春と秋には宗教論議を戦わせて
多くの聴衆を集めたそうです。
檀林は明治5年の学制発布によって廃檀となるまで、270年以上続きました。

日本寺の入り口には、曲がりくねった県道に面して「南無妙法蓮華経と刻まれた
大きな石柱が建っています。

石柱に並んで大きな石板があり、「徳育風振」と大きく刻まれた下にびっしりと
文字が記されています。
雑木や篠竹に覆われて近づけず良く読めませんが、地元出身の実業家で
地域振興に尽くした渋谷嘉助(1849~1930)の顕彰碑のようです。
昭和3年9月の建立です。

顕彰碑の後方の林の中は墓地になっていて、木々の間に点々と墓石が連なっています。


整然と墓石が並んでいる一角は、歴代の住職のお墓のようです。
それぞれ第○代と記され、慶長、万治、延宝、元禄、享保、元文、寛保、延享、宝暦、明和、
安永、天明、寛政、享和、文化、天保、慶応、・・・と、ずいぶんと昔の年代が刻まれています。
その歴史の流れ、重みに圧倒される思いです。


入り口の石柱まで戻って、参道に入ると、何やら山門のような建物が見えます。
塀に囲まれて近づくことができません。
ぐるりと回って裏側から覗くと、木々の間から立派な墓石や宝塔のようなものが見えます。
偉いお坊さんのお墓なのでしょうか?

参道の途中に数基の古い墓石が建っていました。
左はこの寺を中興した第13世「賢聖院日俒聖人」のもので、説明札には
日俒は中山法華経寺より宗宝の三尊像を奉持して入山したと書かれています。
右は中村檀林の廃檀後に現在の本堂等を再建した第331世「龍妙院日慶聖人」のもので、
中村檀林の廃檀後に現在の本堂等を再建しました。
特に物理的に功績のあった聖人と言うことなのでしょうか。
他に234世日紀上人、332世日壽上人、335世日専上人の墓石が並んでいます。

参道の両脇にはアジサイが植えられています。
その数、8千本と紹介されていますから、シーズンには素晴らしい眺めでしょうね。
あじさい寺と言われていることも納得できます。




参道を大きく左に曲がると山門が見えてきました。
この山門は多古町の指定文化財になっています。
説明板にはこう書かれています。
『切妻造り、トタン葺(もと茅葺)の四脚門。軒は二軒の疎棰で妻飾りに三ッ花懸魚を
つけている。』
『木割が雄大で角柱の面取りも大きく、構架も簡潔で、装飾も少なく、柱上につけた
頭貫鼻の角度、その曲線、礎盤と柱経との比率関係や、藁座の施工等に桃山時代から
江戸初期の手法がみられ、注目すべき建造物の一棟といえよう。』
山門から本堂まではまっすぐな道が150メートル位続いていて、両側は杉並木です。

山門の扁額は本阿弥光悦の筆になるもので、日本三額の一つと言われています。
本阿弥光悦(1558~1637)は、近衛信尹、松花堂昭乗と並んで「寛永の三筆」と
言われた名筆家です。
本阿弥光悦 ウィキペディア ⇒
実は、この扁額はレプリカで、本物は本堂に納められています。

手水盤は明治38年に寄進されたもので、中央に身代わり観音が置かれています。



鐘楼は享和三年(1803年)の建立で、町の指定文化財になっています。
『入母屋造り、銅板瓦棒葺、扇棰の二軒で妻構架は紅梁蚕股式に組み、蕪懸魚をつけ、
下層に袴腰をつけた鐘楼』 (説明板より)

この多層宝塔の建立年代は不明ですが、土台部分は昭和59年に改修した
記録が記されています。

一切経堂は説明板によれば𣴎応三年(承応のことと思われます・1654年)に建立され、
最近大幅な改修が加えられました。
約6千巻の経書がおさめられていましたが、今はわずかしか残っていないと書かれています。

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本堂の昇り口左右に置かれている木製の狛犬。
檀林時代の講堂の壁面に掛けられていたものだそうです。

「正東学庠」と書かれたこの扁額は本堂の正面に掲げられています。
庠はまなびやという意味です。

この石柱には「奮 中村檀林正東山日本寺」と刻まれています。
奮は羽ばたくという意で使われているのでしょうか。
中村壇林には「観月庵」「寂光庵」「鳳林庵」「浄心庵」「真如庵」「精進庵」「摂心庵」等、
東西36の学坊のほか多くの付属施設が点在し、境内は学究の僧であふれていた
様子が想像できます。

廃檀とともに消えた多くの学坊の跡は、いまは深い森となり、学僧達の声は消えて
本堂の周りには静かな時間が漂っています。
※ 日本寺には紹介したいものがまだまだあります。
次回はこの続きを書きます。
成田や多古町も歴史があり、建築様式もまた、興味深いですね。
ここに沢山の学坊が建っていて、大勢の学僧が修行をしていた
とは思えない景色です。
2014-12-03 Wed 19:15:38 | 千葉県の公園・観光スポット