(正しくは、雷神社の前にあるのが雷神橋ですね。)


鳥居は昭和58年に建てられました。
小橋川は郷部を水源として新妻で根木名川に合流する全長4.8キロの川です。

階段では猫が日向ぼっこ


急階段の上にちらりとお社が見えます。

第三十四代舒明天皇(593~641)が行幸の途中にこの地を通った時、山頂の古松より
一つの雷鳴が響きました。
これを聞いた天皇はこの雷鳴に深く感ずるものがあり、その古松の下に一祠を建てられ
たのが、この神社の始まりだと伝えられています。
伝承通りとすれば約1400年の歴史があることになります。
ご祭神は「大雷神」で、疫病除けの神様として近隣の信仰を集めています。

神額は陸軍大将・立花小一郎の書です。
立花小一郎(1861~1929)は、日清戦争では第1軍参謀、日露戦争では第4軍参謀副長
を務めるなど、輝かしい軍歴を持ち、福岡市長を務めた後、貴族院議員となった人物です。
この神額を書くに至った経緯は分かりません。


本殿は質素な造りです。



本殿の裏に2つの祠。
いずれも「雷神宮」と記されています。




「『成田詣』という道中記には「雷の宮へ参り候、抑是は山口村の一の宮にて峨々たる
老松隠森渠々として枝を交え、社頭の石坂を登りて渇仰弥増」と記し、雷神社の森の
すばらしさを表現している。」
(「成田の地名と歴史」成田市発行 P389)
いまは樹木も少なくなっていますが、古木の生い茂るこの小山は当時の面影を残しています。
なお、「成田市史近代編資料集1旧町村誌」中に納められている「下総国下埴生郡山口村誌」
(明治17年)に、雷神社について次のような記述があります。(214P)
「字雷アリ、地坪四拾九坪。 祭神ハ大雷神ナリ。 境内ノ土地醎気ヲ帯ビ海塩ノ如シ。」
塩害があるような場所ではありませんので、太古にこの一帯が海だった名残でしょうか?
そんな土壌に見事な森が育つものなのか、記述に誤りがあるのか、何らかの理由で一時的に
醎気(かんき-辛い・塩辛い)を帯びたのでしょうか?


眼下を我孫子に向かう成田線が走っています。
下総松崎(しもうさまんざき)駅を出て成田に向かっています。


雷神社という名前は多くあるようですが、そのほとんどは雷(いかずち)と読むようです。
雷(らい)と読むこの神社は、(伝承によれば)1400年の歴史を刻むわりには地味な
存在です。
狭いながらもきれいに掃き清められた境内には、冷たい北風が吹きつけて、
近くを走る電車の音も届きません。

※ 「雷神社」 成田市山口1205
北総線成田湯川駅から徒歩約20分
新年は1月5日(月)から更新の予定です。
皆様良いお年をお迎えください。

室町時代の宝徳年間(1449~52)の創建で、真言宗豊山派のお寺です。
現在は本堂は無く、この観音堂だけが残っています。
説明板には次のように書かれています。
「この周辺は平安時代の和名抄に「埴生郡玉作郷」とある歴史上古い土地である。
当山も宝徳年間創建と伝えられこのお堂も宝徳寺伽藍の一棟で貞享元年(一、六八四)
住持照栄和尚の発願により近江国坂田郡柏原吉田又左衛門家次設計によるもので
成田山光明堂も同人の設計である。 堂宇は六角四面造りで珍しい六柱造りであるため
一名六角堂と呼ばれ県内でも数例しかなく建築史上注目に値する建造物である。
御本尊は銅造聖如意輪観音像で三百余年の今日も安産子育、の観音様と言われて
諸人の崇敬を集めております。」

この2つの祠には万人講と書かれています。

細い参道の入り口に立つお地蔵様には「奉造立念佛供養」と刻まれています。
他にも文字が刻まれていますが、判別できません。
凛とした立ち姿です。
『観音堂の前に地蔵菩薩を刻んだ石仏が立っている。寛文九年(一六六九)十月の造立で、
「奉造立念仏供養」の銘がある。造立者は八代村の念仏講であるが、石仏としては成田市内
最古のものと思われる。』
(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉 博著 P140)

ヤツデの葉に覆われた手水盤には元文五年(1740年)と刻まれています。
参道の左手に3基の板碑が並んでいます。

「三十三年目供養 聖如意輪観音菩薩」の板碑には明治37年と記されています。

明治18年の「普門品供養塔」。

上部に種字を刻んだ「先祖代々供養塔」は明治23年のものです。

3基の板碑の後ろには沢山の石仏が並んでいます。

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享保、寛保、宝暦、安永、天明などの年号が読めます。
どれもとても味わいのあるお姿です。


不思議な言い伝えがある「木隠れ観音」の大木です。
説明板にはこうあります。
「この古木に包まれた石佛は「木隠れ観音」と呼ばれ「この観音様が見えなくなる時この
土地は発展する」と言い伝えられて来ましたが当時は山林と畑に囲まれた淋しい処で
誰も夢想だにしませんでした。 然し今この言い伝えが現実のものとなり周辺が市街化
するを見るにつけ先人の残された言い伝えの中に子孫への期待感と未来への願望を
見る思いがします。 刻々と移り行く人生の中で正しい信仰を持ち先人・古老の教えを
大切にしこの伝承を子孫に伝えて行き度いと念じております。 宝徳寺 照文 敬白 」
もう観音像は見えません。
古木の幹に包み込まれてしまったのでしょうか。
昭和40年ごろまでは幹に空いた小さな穴から台座のような石が見えたそうです。

石灯篭の形も六角の観音堂。
ピカピカで出来たてのようです。
実はもともとあった観音堂は平成23年8月に不審火により焼失してしまったのです。
茅葺の美しい姿はもう見ることができません。
つい最近再建されたのがこの観音堂。
以前のものとは形も少々違っていますが、これはこれで見事な建造物です。
しかし、歴史の重みが感じられない分、ちょっと趣が足りません。
木隠れ観音の古木は焼け残り、説明板も火災以前のものです。
古木の中に隠れた観音様が、火事で再び現れなくて良かったですね。



観音堂の火災に関する多くの記事を読みましたが、ご本尊の行方が分かりません。
焼失してしまったのでしょうか?
火災に遭う前の記事に「立派な厨子の中に安置され~」とありましたが・・・

失礼して中を覗かせていただきましたが、厨子らしきものも見えません。
ご本尊が失われてしまったので、説明板も書き直さないままになっているのでしょうか?

お堂の左手奥に、いずれも「権大僧都~」と読める墓石らしきものがあります。
左手は享保七年(1722年)と読めました。
右手は正徳六年(1716年)と読みましたが、ちょっと自信がありません。
風化で読みにくく、正徳六年は年の途中で享保に年号が代わっているからです。


住宅地の中にこんな空間があるのはとても良いことですね。
昔の写真を見ると、お堂は鬱蒼とした木々に囲まれていましたが、防災上の配慮
からか、現在は周りから見渡せるようになっています。
真新しいこのお堂が、年月を重ねて趣のある姿になるのを見るのは、
何世代後の人たちなのでしょうか?

※ 「宝徳寺観音堂(六角堂)」 成田市玉造3-9
JR成田駅西口より千葉交通バス中央通り線成田湯川行き
玉造中学下車 徒歩3分
平成26年の風は吹き納めです。

(空港第1ターミナル北ウィング)
そう言えば、
どこにでも派手なクリスマスツリーが置かれるようになったのは
いつ頃からでしょうか?

(空港第2ターミナル出発ゲート前)
夜中にこっそり煙突から入っていたサンタクローズが
日中に堂々と人前に現れるようになったのは
いつ頃からでしょうか?

(さくらの山散策路)
師走の夜にはイルミネーションが定番となったのは
いつ頃からでしょうか?

(成田山釈迦堂前)
成田山ではもう初詣の準備が始まっています。

(空港第1ターミナル)
帰ってきたのか、訪ねてきたか、
どことなくせわしなく見えてしまう師走の空港です。



成田山の「歳末助け合い運動」は
寒風の中でのお坊さんの托鉢行列です。
師走の風のように結構早足で表参道を歩きます。


(空港第1ターミナル屋上)
師走の北風は、遠く筑波の峯を見せてくれます。
冷たく強い風が澄んだ空気を運んでくれる
冬の風物詩です。



この季節は、夕焼けも何となく赤くは焼けきれません。


滑走路を吹き抜ける師走の風は
良いことも悪いことも
思い出の国へ連れ去って行きます。

「大須賀大神」は弘仁元年(810年)の勧請と伝えられています。
1200年の歴史を持っているこの神社は、当初は近くの別の場所(神代)にありましたが、
火災にあってこの場所に移転してきました。

手水盤には享保十四年(1729年)と刻まれていました。

ご祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)。
春日権現と呼ばれることもある祝詞の神様で、出世の神様とされています。
天照大神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(くつぬしのみこと)を合祀していて、
郷社の格を持つ近隣村社の総鎮守です。
「境内はかつて祭礼ともなると1万を超える人が訪れたという広さで、いたるところに
合祀された祠がある。」(「大栄町史・民俗編」 大栄町史編さん委員会編 P155)

鳥居の下に昭和12年の「拝殿鳥居間参道敷石」と記された寄進の碑が建っています。

足元に子犬(?)がいます

参道の左手にはずらりと石碑が並んでいます。

「護国碑」は昭和27年に建てられ、徳富蘇峰の書になります。
「蘇峰九十叟」と記されていますが、昭和27年には蘇峰はちょうど90歳になっていました。
叟とは翁という意味でしょう。
蘇峰は高名な思想家ですが、自由民権から富国強兵までの振幅の激しい思想家でした。
「不如帰」で知られる徳富蘆花は実弟になります。

「忠魂碑」は海軍大将・東郷平八郎の書です。
日清・日露両役戦没者の慰霊のために、明治39年に建てられました。
東郷平八郎(1848~1934)は日露戦争での日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を
撃破したことで世界中の海軍から尊敬を集めた軍人で、陸軍の乃木希典大将とともに
軍神として崇められました。
東京・渋谷、福岡・福津、埼玉・飯能に「東郷神社」があります。

「凱旋記念碑」も東郷平八郎の書で、明治39年に建てられました。

「戦役記念碑」は陸軍大将・田中義一の書で、大正11年の建立です。
田中義一(1864~1929)は軍を退役後、政界に進み、第26代内閣総理大臣を務めた
人物で、政治家としての評価は分かれますが、気さくな人柄で知られています。
戦後の内閣総理大臣・吉田茂は、この田中義一を師と仰いでいました。

「招魂碑」は昭和28年の建立で、宇垣一成謹書と記されています。
裏面に日露戦役、日支事変、太平洋戦争の戦没者を慰霊するためと書いています。
宇垣一成(1868~1956)は陸軍大将で、陸軍大臣、朝鮮総督などを歴任しました。
軍部出身ながら当時の軍部の独走に批判的で、何度も軍部に対する抑止力を期待されて
首相に推されましたが、いずれも軍部強硬派に阻まれ、ついに首相にはなれませんでした。


本殿の千木は垂直切り、鰹木は5本で、ご祭神が男神であることを表しています。

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拝殿の装飾はさほど多くはありませんが、見事な彩色に彩られています。


本殿裏の天満宮と三峯神社。

拝殿の右手にある疱瘡神、八坂神社、金毘羅宮。

比較的新しい祠が三つ並んだ裏側に、古い祠が置かれています。
金毘羅宮は寛政5年(1793年)と読めます。



裏山は鬱蒼とした林です。
その中にポツンと白山神社が建っています。

境内の一角に能舞台があります。
ここで民俗芸能の「伊能歌舞伎」が上演されます。
「伊能歌舞伎」は、元禄十年(1697年)に始まったと言われています。
昭和40年を最後に上演されなくなっていましたが、平成に入って復活の気運が高まり、
「伊能歌舞伎保存会」が設立されて平成11年に復活し、今では近隣の各地で公演を行う
までになっています。

地芝居ポータル提供「伊能歌舞伎」⇒

FEEL成田 伊能歌舞伎 2013.4.2 ⇒
昭和40年以降上演が途絶えたのは、火災によって衣装が焼失したり、役者は若衆
(16~25歳までの男子)のみがなれるという決まりが、少子化の影響もあって役者
不足を招き、また時代と共に娯楽が多様化するなかで、上演が難しくなったためです。
一度途絶えた民俗芸能を復活させるには、大変な苦労があったことでしょう。
現在は市の指定無形文化財となっています。


1200年の歴史がある「大須賀大神」。
その歴史を記すものはほとんど残っていません。
しかし、社殿をはじめ裏山の深い森や、境内の静かな佇まいは、時の重みを
感じさせるに十分な雰囲気です。

※ 「大須賀大神」 成田市伊能345
京成成田駅中央口より千葉交通バス 吉岡経由佐原行き
大栄郵便局下車 徒歩5分

珍しい名前の神社ですが、創建年代やご祭神の記述がなかなか見つかりません。(※)
同じ名前の神社が栃木の日光にあり、ご祭神は磐裂命と根裂命の二柱とありますし、
同じく栃木県の下都賀郡壬生町にある「磐裂根裂神社」のご祭神も同様なので、
多分ここの「磐裂神社」のご祭神も「磐裂命」「根裂命」の二柱だと思われます。
「イワサク(イハサク)・ネサクは、日本神話に登場する神である。
『古事記』では石析神・根析神、『日本書紀』では磐裂神・根裂神と表記される。
『古事記』の神産みの段でイザナギが十拳剣で、妻のイザナミの死因となった
火神カグツチの首を斬ったとき、剣の先についた血が岩について化生した神で、
その次に石筒之男神(磐筒男神)が化生している。」
(ウィキペディア「イワサク・ネサク」の項より)
(※「成田の地名と歴史」にはご祭神を磐裂神とし、松子城主の大須賀氏が城の
鬼門除けのために、伊勢国の朝熊山から勧請した、という記述がありました。)

道端のちょっと引っ込んだところに急階段があり、その上に鳥居が建っています。
坂道の途中なので、下を向いて歩いていると見落としてしまいそうです。

階段の上の鳥居の脇に「大願成就」と記した昭和20年1月の石碑が建っています。
右上の部分が欠けていて、何の大願成就なのかは分かりませんが、敗色濃い戦争
末期のころに、どんな「大願」があったのか、想像もできません。


質素な拝殿ですが、2月に行われる神事の「奈土のおびしゃ」(後述)が行われる場所です。
神額は陸軍大将林銑十郎の筆になるものです。
林銑十郎は石川県金沢の出身で陸軍大学校長、近衛師団長等を歴任し、昭和12年に
内閣総理大臣となった人物。
林と奈土というこの土地、この神社とのつながりはどんなものだったのでしょう?
林が陸軍大将になったのは昭和7年、12年2月初めには総理大臣になっていますから、
昭和7年~11年の間に書かれたことになります。



本殿は小振りながらなかなか質感のある造りで、千木は垂直切り、鰹木は3本で、
ご祭神が男神であることを示しています。


風化で良く読めませんが、皇太子・・・と記されていますので、今上天皇の誕生(昭和8年
12月23日)を祝賀して寄進されたのでしょう。

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拝殿右手の天王社と手水舎。
天王社は牛頭天王・素戔男尊をご祭神としています。

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狛犬の台座は昭和48年に寄進されていますが、狛犬はもっと古い年代のもののようです。
この神社には境内のあちこちに合祀された神社の小さな祠があります。

拝殿の左側にある「阿夫利神社」

本殿左手にある奥から天満宮、淡島神社、月山神社
天満宮は文政十二年(1829年)と記されています。

疱瘡神社
文化五年(1808年)と記されています。

金毘羅大権現

稲荷大明神
さて、聞き慣れない「おびしゃ」について説明しましょう。
歩射、奉社、備社などとも書かれ、昔から村人が集まって五穀豊穣や家内安全、子孫繁栄、
悪疫退散などを祈願する、正月行事が起源です。
「奈土のおびしゃ(御武射)」は、「磐裂神社」で約150年前から行われてきた祭礼で、
毎年2月13日に行われてきましたが、近年はその前後の日曜日に行われるようです。
珍しい行事ですので、進行について大栄町史編纂委員会編の「大栄町史・民俗編」から要約
して説明してみます。(大栄町は平成の大合併により現在は成田市になっています)
まず、「おびしゃ」の2日前に当番(官主と言います)とハタラキと呼ばれる女性が、各戸から
儀式に使うもち米を5合ずつ集めてまわります。
前日には官主の使いが「明日、御神酒あげとうございますので、おこしください」と各戸を
ふれてまわります。
当日は午前中に磐裂神社の神殿にて、地域の各班持ち回りの新旧官主、区長、組長など
の役員が集まって神事を行い、その後現官主の家で祭礼が行われます。
酒がふるまわれ、庭先では獅子舞が奉納されます。


奈土のおびしゃ(成田市観光プロモーション課提供) ⇒
最後に旧官主が新官主の衿に「御幣の依り代(ごへいのよりしろ)」を差し込みます。
「御幣」とは神事に用いられる2本の紙垂れを竹や木の幣串に挟んだもので、「依り代」とは
神様が依り付くものという意味です。
これ以降は新官主は自宅に戻るまで一切しゃべってはいけない決まりがあります。
その後近くの三叉路の路上で新官主と旧官主が盃を交わして、神様が新官主の班に移り、
儀式が終わります。
「おびしゃ」と呼ばれる行事は北総の各地に見られますが、古くからの形式を守っている
「奈土のおびしゃ」は珍しく、県の無形民俗文化財に指定されています。

境内からやや離れた道端に道祖神と思われる小さな石碑が立っています。
かろうじて「南 いのう たこ」と読めます。
道祖神が向かっている方角が違いますから、どこからか移設されたのでしょう。


普段は訪れる人も無い磐裂神社。
近隣では「虚空蔵様(こくうぞうさま)」とも呼ばれていて、奈土の人々は「虚空蔵様の使い」
とされるウナギを決して食べないそうです。
成田山はウナギが名物の一つですが、奈土の皆さんはどう思っているのでしょう?
奈土を離れれば食べても良いのでしょうか?
でも、信心とはそういうものではありませんよね。
(南房総の大多喜町のある地区でも、同じ理由からウナギを食べない風習があるようです)
昔ながらの様式を守って行われる「おびしゃ」、そして、「ウナギを食べない」風習など、
奈土の地は、成田でも珍しい伝統の集落です。

※ 磐裂神社 成田市奈土738
京成成田駅前よりコミュニティバス津冨浦ルート 奈土下車徒歩10分

小高い丘の上にある長沼城址の斜面に、貼りつくように稲荷神社が建っています。
階段は相当に急な勾配で、この場所からお社は見えません。(81段あります)

階段の登り口にある手水盤には天明二年(1782年)とありました。

手水盤のある場所は小さな台地になっていて、「長沼下戻記念碑」(大正7年)、「福沢諭吉
功績記念碑」(大正15年)、「干拓頌功之碑」(昭和54年)の3基の記念碑が並んでいます。
なぜ、この地に「福沢諭吉」の名前が出てくるのでしょう?
通称「長沼事件」または「長沼訴訟」と言われることの経緯を「成田市史」(成田市編纂)の
記述などを参考に要約すると、次の通りです。
長沼村に隣接する地に長沼という約70万坪の瓢箪形の沼があり、村は江戸時代の昔から
この沼から得られる恵みに頼っていました。
いろいろな経緯を辿って、延宝五年(1677年)からは年貢を納めることと引き換えに、長沼
の漁猟採藻権は実質的に村の専有権となりました。
「運上高は一ヵ年に米八石四斗、すなわち一俵に三斗五升入りで二四俵であった。
同年、荒海磯部両村は長沼村に下猟銭を支払うことによって入猟できるようになった。
次いで正徳三年(1713)長沼村は年貢割付状に沼高を記入させることに成功し、ここに
長沼村は長期安定的に沼に関する権利を手中に収めた。」
(「成田市史 近世編資料集三 産業・文化」 P9~10)
近隣の村にとっては、長沼は地域の排水が流れ込む遊水池として重要な役割を持っており、
長沼村の独占状態に不満を持っていましたが、明治5年に維新以後の混乱に乗じて沼の
国有化を当時の印旛県に申請し、県はこれを受理したため、長沼村は独占権を失いました。
沼に頼ってきた長沼村は困窮し、県へ利権の回復を請願しましたが認められません。
村の代表の小川武平は、かねてより心酔している福澤諭吉を訪ね、事の解決を依頼します。
面識もない諭吉を訪ねる武平も、そんな武平に気軽に会う諭吉も大したものです。
当時はそうした時代だったのでしょうか・・・。
武平の話を聞いて長沼村の利権回復運動に共鳴した諭吉は、請願書の作成や、当時の
政府高官に働きかけて支援しました。
明治30年1月に小川武平ほか3名が福沢邸に年始あいさつに訪れた際に、諭吉と交わした
会話記録が残されています。
長沼村の現状についての諭吉の質問に対する武平の答えの要旨はこうです。
「300年前の長沼村は僅か14戸の寒村でした。明治の初めには114戸になっていますが、
これは長沼の恵みがあったからです。田畑は300年間にほとんど増えておらず、もっぱら
漁業で生計を立ててきました。最近では養蚕にも力を入れていますが、沼から採れる藻など
が良い肥料となって桑が良く育つからです。」
諭吉の働きかけもあって、明治30年6月に県知事の阿部 浩によって「沼地下戻命令書」
が発せられ、ようやく長沼村の利権が回復しました。
この争いに関しては、近隣の村々にももっともな言い分がありますが、各地で養蚕を奨励して
いた諭吉が、養蚕に力を入れていた長沼村に協力したとも言われています。
現在長沼は全てが干拓されて、一面の水田地帯となっています。

城跡に向かう中腹に「稲荷神社」があります。
ご祭神は「保食之命」(うけもちのみこと)で、文久三年(1863年)に京都の伏見稲荷より
分神勧請されました。
「保食之命」は食物の神様で、神話に次のように出てきます。
「天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊
が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から
魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。
月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。
それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。
それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。」(ウィキペディア「保食神」)
なるほど!と思わず頷いてしまいそうな神話ですね。

拝殿の中には小さな石の祠が隅に置かれているだけです。
向こう側に本殿が透けて見えています。

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150年を経て、さすがに傷みが目立ちますが、しっかりとした骨組みのお社です。

神社の脇を城跡に向かう急坂の途中にある祠には、文久元年(1861年)とありました。
稲荷神社が建立される前からここにあったのでしょうか。

なかなか険しい地形です。


登ってみると、この城跡は意外に広い台地です。

(本年5月に撮影)
城があった頃は、長沼に突き出た島のような地形であったのでしょう。
この城は長沼氏の居城で、最後の城主の長沼五郎武俊が天正九年(1582年)の
竜台合戦で討死して廃城となりました。
竜台合戦とは、天正九年に滑川城主の小田左京太夫政治が、長沼城の長沼五郎武俊らと
助崎城の内田信濃守を攻めたことが発端です。
一進一退の戦いは内田氏と同盟を結んでいた常陸の足高城主岡見宗治の差し向けた援軍
により、小田方が劣勢となり、利根川近くの竜台城において小田方の諸将がことごとく討死
して終わった合戦です。
その戦いは4カ月にも及びました。

(本年9月に撮影)
祥鳳院から見る助崎城址です。

木々の間から見える下の景色はのどかな田園風景です。

堀の跡のような人工的な地形が見えます


「縄張構造としては、長軸120m、短軸60mほどの土塁で囲まれた平坦面を
居住空間とし、斜面部に横堀と腰曲輪を配して防御性を高めている。角部の
腰曲輪には仕切りの土塁を設け、容易に回り込めないよう工夫が凝らされている。」
(「成田の地名と歴史」成田市発行 P323)


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展望台があったので登ってみました。
この眺望ならば、確かに城を構えるには絶好の場所です。


台地の北西側に一段高くなっている場所があり、その上に祠があります。
大きな方の祠は金比羅大権現です。
文化元年(1804年)と記されていて、側面には鰐が彫られていました。
(実ははじめは「象」だと思って「象」と書いたのですが、Romanさんからのコメントで気付
かされて、改めて調べた結果「鰐」だということが分かりました。ありがとうございます。)

この長沼城址は現在は「長沼市民の森」となっています。
何もない場所ですが、つわもの共の夢の跡をのんびりと散策するには
良いかもしれません。

※ 長沼城址(稲荷神社) 成田市長沼2189
JR久住駅より徒歩約45分
京成成田駅東口よりコミュニティバス豊住ルート
長沼保育園下車 徒歩5分(1日に5本)

(不動尊像 成田山ホームページより)
(お不動様の道を辿る最終回です)
さて、天文年間の前半に神明山に本堂が建立され、お不動様は表参道の米屋裏の
「不動尊御遷座之旧跡」から遷座されました。
「神明山」は現在の成田山の向かい側、信徒会館の裏側に位置する小高い山です。
信徒会館や参道の店舗に視界を遮られ、この山に気付く人はほとんどいません。
今や「忘れられた旧跡」と言えるでしょう。

神明山に登る道は3か所ありますが、いずれも非常に狭く、分かりにくくなっています。
今回は表参道から一本中に入った路地、「神明山通り」から登ってみます。

神明山通りは、表参道が薬師堂の前で大きく曲がる三差路の脇から、右に入る路地と
交わる辺りで、突然消えてしまいます。
これがその場所の景色です。

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トタンやフェンスの廃材で囲まれた小道がありました。
途中に人家は数軒ありますが、人が住んでいる様子はありません。

しばらく進むと下に降りる階段になります。


階段は途中で「電車道」から上ってくる階段と合流して、今度は上りに変わります。
合流点に祠が3つ、明和八年(1771年)と天保五年(1834年)と記されています。
平成23年の大震災で山の一部が崩れ、今も補修工事が続いているようで、
上りの階段にはロープが貼られていました。
人が通らないのでモミジの落葉が積って、赤絨毯のようです。


現在の神明山です。
小さな祠がひとつ、ポツンとあるだけで、フェンスに囲まれ立ち入り禁止になっています。
中に入れないので説明板も読めません。
フェンスにへばりついて何とか読んでみると、この祠は「将軍地蔵」をご本尊とする「地蔵堂」
で、普段は空になっていて11月の御祭礼の時だけここにお祀りされます。
地元では「愛宕様」と呼ばれているそうです。


小さな台地の向こうに、現在の成田山の本堂や三重塔、総門などが一望でき、参道の
大野屋の望楼が見えます。
残念ながらこの場所での成田山の記録はほとんど見つけることができません。
永禄九年(1566年)に当時の寺台城主、海保甲斐守三吉によって現在の地に諸堂が
再建されるまでは、この神明山に本堂があったと思われます。
(なお、「新修成田山史」には永禄九年というのは諸堂が整備された落慶の式典であって、
“神明山から現在地に移ったのは、天文年間のはずだ”という説が述べられています。)
海保甲斐守三吉については ⇒

神明山通りからと、電車道からの他にもう一本登り口がありましたが、現在はこの状態です。
以前は参道の菊屋別館の辺りから登れたはずです。
明治40年ごろの地図では愛宕様への階段が描かれています。


西参道から出世稲荷に通じる路地を歩くと、木々の間からこの神明山が見え隠れします。
傍からではフェンスに阻まれて見えなかった祠の中が、ここから望遠で見ると良く見えました。
成田山の学問の道 ⇒
神明山はいかにも狭い敷地であったので、永禄九年(1566年)、海保甲斐守三吉らの
尽力により、神明山の向かい側、現在の大本堂の場所に新たに本堂が建立されました。
お不動様もようやく落ち着けたことでしょう。

そしてさらに約90年後の明暦元年(1655年)に本堂が再建され、水戸光圀公(黄門様)や
初代市川団十郎などが参拝しています。
その時の本堂は、前回紹介した「成田不動尊御遷座之旧跡」から参道を進み、西参道と
台の坂に分かれる三差路に面して建つ「薬師堂」として残っています。


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元禄十四年(1701年)に新本堂が建立されたため、この建物は「光明堂」として使われ、
安政二年(1855年)にこの場所に移築されて「薬師堂」となりました。
せっかく落ち着いたお不動様ですが、50年も経ずに新本堂に遷座されることになりました。
近在のみならず、遠方からの参拝客も増えたことから、手狭になったためです。

本堂の建立と共に鐘楼や山門も新たに建てられました。
新しく建立された本堂は安政五年(1858年)に次の新たな本堂が建立されるまで、
150年以上にわたって多くの信者の参拝を受け入れることになります。

(本年7月に撮影)



お不動様も落ち着いた年月を過ごし、正徳二年(1712年)には「三重塔」が建立、享保七年
(1722年)には「一切経堂」、享保十七年(1732年)には清瀧権現堂、天保二年(1831年)
には仁王門と次々と諸堂が建立されて、大伽藍が形成されました。
その後160年近く経った安政五年(1858年)にさらに次の本堂が完成し、役目を終わった
本堂は「光明堂」となり、それまでの「光明堂」が「薬師堂」にと変わることになります。
この「光明堂」はもともとあった場所(現在の大本堂の位置)から額堂や清瀧権現堂のある
高台に引き上げられました。
ある程度解体してから組み立て直したのでしょうが、当時としては大工事だったでしょうね。
なお、この大工事の間にお不動様は江戸にお出かけになられています。
世に言う「江戸出開帳」です。


安政五年に建立された新本堂が、現在の「釈迦堂」です。
建立当時はその豪華さが人々を大いに驚かせたと言われていますが、確かにバランスの良い
重厚な佇まいは人々の信仰心をいやがうえにも高めたことでしょう。

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110年後の昭和43年、現在の「大本堂」が建立され、旧本堂は、新本堂の横に移動して
「釈迦堂」となります。

現在の大本堂は、余計な装飾を排した大伽藍です。
「高さは三二.六メートル、内陣の広さは二九六畳といわれる。成田山信仰の中心となる
場所で、内陣の中央奥の須弥檀にご本尊不動明王像が安置されている。」
(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉 博 著 P55)

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正月には全国屈指の参拝客を集める成田山。
初詣が終わっても、一年中参拝客の途絶える日はありません。
遥か昔、京の神護寺を出てから千年以上の旅を続けて今、参拝客を静かに見守って
おられるお不動様。
これからもずっと私たちを見守り続けていただけることでしょう。

明暦の本堂はひっそりと薬師堂に ⇒
元禄の本堂-光明堂 ⇒
釈迦堂に棲む鬼 ⇒
正体見たり釈迦堂の鬼 ⇒

(不動尊像 成田山ホームページより)
お不動様の旅はまだまだ続きます。
寛朝大僧正による祈祷の効もあってか、将門の乱も治まり、天皇から寺号も賜った「新勝寺」
でしたが、時が経つにしたがって次第に人々からは忘れられて行き、荒れ果ててしまいます。
見かねた近郷の名主たちが集まり、相談の結果、お不動様を成田村の名主諸岡三郎左衛門
の屋敷内に移すことになりました。
以後、お不動様はこの場所で大切にお祀りされていました。

「成田不動尊 御遷座旧跡」の碑。
昭和41年に建立されました。

「不動の大井戸」。
三郎左衛門は、霊水が湧き出ると言われた近くの大井戸から毎朝水を汲んでお不動様に
お供えしました。
その井戸はもう埋められてしまいましたが、同じ水脈より湧出する清水を「不動の大井戸」と
名付けて今日に伝えています。
三郎左衛門は羊羹の米屋の創業者の遠縁にあたる人物で、その屋敷跡は米屋總本店の
の裏側にある、ここ「お不動様旧跡庭園」のあたりになります。
お不動様は現在の成田山の向かい側にある神明山に本堂が建立されるまで、この場所に
留まることになります。

米屋は表参道のほぼ中間点にあり、一年中参拝客がお土産を求めて来店します。


総本店の裏に工場があり、その工場敷地の中に「お不動様旧跡庭園」はあります。
案内板はあるのですが、店舗とは仕切られた工場内なので、ちょっと入りにくい感じがします。

平成4年に建立の「平成水守り不動」。
裏側に「大本山成田山新勝寺貫主 照硯 開眼」と記されています。
この庭園を守護し、「不動の大井戸」の水源を守っていただくよう願って建立したと、
米屋のホームページに書かれています。


小さな庭園ですが、いつもきれいに清掃され、手入れされています。
お不動様が諸岡家屋敷内から神明山へ遷座した年代は不明ですが、小倉 博氏の著書
「成田 寺と町まちの歴史」(聚海書林)によれば、
「遷座年代は不明だが、天文年間(一五三二~五五)に千葉郡生実の大厳寺の道誉
上人が参拝したとの記録があるので、それ以前のことと思われる。」
とあります。(参拝したのは神明山)
神明山はとても狭かったので、永禄九年(1566年)には現在の成田山の場所へ遷座した
のですが、いくら狭かったとはいえ、せっかく建立した本堂をわずか十年や十五年で放棄
してしまうとも思えません。
道誉上人は、享禄四年(1531年)に和泉国(大阪)から関東に下って修行し、帰国。
しばらくして再び関東に下った際、成田山にて21日間の断食修行を行い、天文二十年
(1551年)に大厳寺の開山となりましたから、成田山で修業した時は大厳寺開山の
前ということになります。
諸岡家の屋敷内から遷座したのは天文年間の早い時期だったと私は推測しています。
さて、もう一か所忘れてはならない場所があります。

ここは「不動尊旧跡」と呼ばれる場所です。
安政五年(1858年)、新勝寺の新本堂(現釈迦堂)が完成し、その入仏供養の行列が
ここから出発しました。
元禄十四年(1701年)の新本堂(現光明堂)の入仏供養は、前回訪ねた不動塚から
出発しましたが、その後この地が幕府直轄領となったため、約1.7キロ離れたこの地に
仮の安置所を設け、ここから出発したのが始まりです。
現在でも7月の祇園祭では、ここから神輿と稚児行列が出発して始まります。





中央に小さな祠がありました。
失礼して中を覗かせていただきました。


慶應四年(1868年)と明治4年の「永代護摩木山」と刻まれた石碑。
護摩木山とは護摩木になる杉を切りだす山のことで、山ごと寄進されるものです。


足元には京成本線、その先にはJR成田線の線路が見えています。
見えている陸協は「阿利耶(ありや)」という難解な仏教語がついた「阿利耶橋」です。

落葉の季節ですが、きれいに掃き清められていました。
新本堂の入仏供養のために、一時的に使われただけの場所ですが、
成田山新勝寺と地元の人々に大切に守られていることが分かります。
次回は神明山から薬師堂(明暦の本堂)、光明堂(元禄の本堂)、釈迦堂(安政の本堂)、
そして現在の大本堂へとお不動様の旅を追いかけます。

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※ 「お不動様旧跡庭園」
JR・京成 成田駅から表参道を徒歩5~6分
なごみの米屋本店内を抜けて裏に出られます。
※ 「不動尊旧跡」
JR・京成 成田駅から徒歩約15分
駐車場はありません。

(不動尊像 成田山ホームページより)
前回に続いてお不動様の旅の跡を辿ります。
さて、寛朝大僧正は尾垂ヶ浜に上陸後、公津ヶ原まで進み、その地で将門の乱を
鎮めるべく、21日間の祈願を行うことになります。
奇しくも祈願の最終日に将門が藤原秀郷、藤原為憲、平貞盛らに討たれ、さしもの
大乱も治まりました。

祈祷を行う寛朝大僧正(成田山ホームページより)

寛朝大僧正が祈祷を行ったとされる場所は「不動塚」と呼ばれています。
並木町のJR踏切のそばには小さな祠があり、中に石のお不動様が立っています。


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昭和16年にこの像は建てられました。
長い間野ざらしになっていたのでしょうか、風化が進んでいます。

「成田山舊跡 不動塚之碑」と刻まれたこの石碑は明治17年に建てられました。
将門の乱が平定され、寛朝大僧正が都へ帰還する際に、なぜか不動明王像が
全く動かなくなりました。
その時の様子を「新修成田山史」(成田山新勝寺編 P15)にはこう書かれています。
「兵乱既に治まりしを以て、僧正再び尊像を俸持して都に還らんとせしに、重きこと盤石の
如く、僧正未曾有の想をなし、合掌瞑目至心に黙禱せしに明王髣髴として告げ給わく、
『夫れ衆生は無辺にして、我が願も亦尽くることなし。儻し深信機熟の者あらば、処として
応ぜざるなし、我復び京師に還るを願はず、永く此の地に留りて東国の逆徒を鎮押し
渇仰の輩を利益せん』と。」
この話を聞いた天皇は大いに感動し、「新たに勝った」という意味を込めて、「神護新勝寺」の
寺号を与えてこの地に堂宇を建て、不動明王を祀りました。
天慶三年(940年)のことです。
これが成田山の始まりです。
「こうした縁故から、成田山が元禄十四年(1701)に新本堂(現光明堂)を建立したとき、
この不動塚から御本尊の入仏供養の行列が出発したという。」
(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉 博 著 P87)

一応、手水舎になっていますが、手水盤には水は無く、刻まれた文字も読めません。


さして広くもない境内の手水舎の傍に小さな石仏が置かれています。

この祠には「十九夜様」と書かれた木札が掛っています。
十九夜様(十九夜講)とは、安産や子供の健康を祈って、地域の女性が旧暦の
十九日に集まって、如意輪観音に灯明や線香をあげて十九夜念仏を唱える
風習です。

祠の中におられるのは如意輪観音さまと思いきや、右手で如意宝珠ならぬ赤子を抱く
子安観音さまのようです。
やさしく微笑んで赤子を見つめています。

不動塚に並んで小さな金刀比羅神社があります。
地図を見ると不動塚の表示は無く、金刀比羅神社のみが表示されています。
お不動様は間借りしている感じです。

明治45年奉納の手水盤


寛朝大僧正がこの地で将門の乱の平定を祈願し始めた天慶三年一月頃には、平貞盛
と藤原秀郷が4千の兵を集めて将門軍を攻め破りました。
貞盛・秀郷軍が二月半ばに将門の本拠である石井に攻め寄せた時には、将門軍には
わずか4百の兵しか残っていませんでした。
攻め手には藤原為憲も加わって、連合軍と将門の決戦が始まります。
強風が吹き荒れる中、風上に立った将門軍は弓矢による戦いを優位に展開し、圧倒的に
数の優位を持つ連合軍を退けます。
しかし勝ち戦の中、自陣に引き上げる将門は、急に風向きが変わって反撃に転じた連合軍
によって放たれた矢を額に受けて討死してしまいます。
戦場から遠く離れた公津ヶ原では寛朝大僧正が21日間の祈祷を終わるころでした。

成田山発祥の地とか、神護新勝寺に関する説明板は無く、不動塚は踏切脇の道端に
金刀比羅神社と同居しています。
厳密にこの場所であったかどうかはともかく、この場所に由緒あるお寺があったとは
とても思えません。
今では千葉県内のほか、北海道から沖縄まで、成田山の別院、分院、末寺、教会は
71ヶ所に上ります。
これほどの大寺院の発祥の場所としては、寂しい景色です。

お不動様の旅はまだ続きます。
次回は表参道の「なごみの米屋」裏にある、「成田不動尊御遷座旧跡」と、不動が岡にある
「不動尊旧跡」を訪ねます。
※ 不動塚 成田市並木町
京成電鉄公津の杜駅から徒歩約30分
京成成田駅から千葉交通バス八街(やちまた)行き
並木町下車徒歩約5分(1時間に1本程度の運行)

成田山新勝寺の御本尊不動明王は、真言宗の開祖、弘法大師空海が自ら一刀三礼
(ひと彫りごとに三度礼拝する)の祈りをこめて敬刻開眼された御尊像です。
成田山では、この霊験あらたかな御本尊不動明王の御加護で、千年以上もの間、
御護摩の火を絶やすことなく、皆さまの心願成就を祈願してきました。
(成田山新勝寺ホームページより)
今回はこの成田山新勝寺のご本尊、「不動明王」が現在の大本堂に鎮座されるまでの
長い「旅」を4回にわたって追跡してみます。
天慶二年(939年)、平将門が関東で兵を挙げ、自らを新皇と称して朝廷に反旗を翻し、
関東は混乱の極みにありました。
時の朱雀天皇はこれを鎮めるべく、諸寺に調伏の祈祷を命ずるとともに、藤原忠文を
征東大将軍に任じて追討軍を向かわせ、あわせて寛朝大僧正に京の高尾山神護寺の
護摩堂にあった不動明王像を与えて、関東に入って調伏の祈祷を行うよう命じました。
寛朝大僧正(916~998)は真言宗の僧で、父は宇多天皇の皇子・敦実親王。
真言宗の僧侶としては初めて、日本では三人目の大僧正となり、洛外・広沢に遍照寺
を開いています。
寛朝大僧正は不動明王を奉持して大阪から船に乗り、房州の尾垂ヶ浜(おだれがはま)
に上陸しました。

不動明王上陸の図(成田山新勝寺ホームページより) ⇒

ここが尾垂ヶ浜(おだれがはま)です。
九十九里浜の中央よりやや銚子寄りの海岸で、横芝光町にあります。
付近には堀川浜、木戸浜、屋形、殿下等の海水浴場が並んでいますが、この浜には
ただ太平洋の波が打ち寄せるだけで、何もありません。

海岸線から100メートルほど入ったところに「成田山」の額束が懸った鳥居があります。

「成田山御本尊不動明王御上陸之地」とありますが、なにせ今から千年以上も
前のことですから、海岸線は現在よりもずっと内陸部にあったと思われます。
海上(うなかみ)、干潟、春海等の地名が、現在の海岸線よりだいぶ内陸にある
ことや、○○新田(しんでん)と付く地名が海岸近くに多くみられることからも
推測できると思います。

鳥居の傍に建つ昭和36年1月建立の「殉職碑」。
「流るる雲よ 打ち寄する波よ しばしとどまりて聴け~」と始まる碑文には、
昭和35年8月8日にこの近くの海岸で遊泳中に溺れた子供たちを救って、
自らは海中に沈んだ市原幸治郎氏を悼む言葉が記されています。

遠くに見えるのは不動明王像でしょうか?
まっすぐ続く道の両側には二十数本の桜の木が植えられています。
それぞれの木には寄進者の名前と年齢が記されていますが、寄進は昭和53年と
なっており、寄進者の年齢は85歳、81歳、78歳などと、いずれも高齢の方たちです。
失礼ながら大部分の方はすでに亡くなられているでしょうが、こうして名前の付いた
桜が毎年咲くことを想って植えられたのでしょう。
海岸近くのせいか、30年以上の樹齢のわりには成長が遅いようですが、来年も
きっとささやかながら綺麗な桜並木を見せてくれると思います。


不動明王像です。
10メートルはあるでしょうか。
台座には「浪切不動尊」と記されています。
首をやや右に傾け、左眉を吊り上げて、海の方角を睨んでいます。

「成田山御本尊 不動明王 御上陸之地」と記された石碑は、昭和38年に建立され、
「大本山成田山貫主 大僧正照定 謹書」とありました。
現在の橋本照稔貫首の3代前、第18世の貫首です。

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ここから見える海には、ただ水平線が広がっています。
寛朝大僧正はなぜこの海岸に上陸したのでしょう?
現在とは違う地形だったのでしょうか、それとも、“たまたま”だったのでしょうか?

「成田山御本尊 御上陸記念碑」の裏には、この場所を整備するために寄付をした
人たちの名前がびっしりと記されています。

海に向かって降りてみます。
この海岸はウミガメの産卵地であり、コアジサシの営巣地でもあるようで、車やバイクの
乗り入れが規制されています。
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看板のそばを、注意を無視した車輪の跡が・・・
残念ながら心無い人たちはどこにでもいます。

はるかに見えるのは日本のドーバー・屏風ヶ浦です。



上陸の時もこんな穏やかな海と、砂浜の景色だったのでしょうか?

この地に上陸した不動明王はいよいよ将門の乱を鎮めるため、内陸に向かいます。
次回からは幾多の変遷を経て現在の成田山に鎮座されるまでの足跡を追います。

※ 尾垂ヶ浜 横芝光町尾垂
JR横芝駅より循環ひかり号バス 尾垂浜下車徒歩5分
(1日3本程度しかありませんので車をおすすめします)