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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

■訂正一覧

掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2016/5/26の「成田にもあった!~二つの「明治神宮」中にある古老の発言中に「アザミヶ里」とあるのは、「アザミガサク」の間違いでした。(2023/10/25成田市教育委員会より指摘をいただきました。) 【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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前林・「諏訪神社」の回り舞台と「妙見神社」の妙見菩薩
前林にある「諏訪神社」と「妙見神社」を訪ねます。

諏訪妙見-10

「千葉県神社名鑑」には、「諏訪神社」について次のように書かれています。
「諏訪神社  祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ) 本殿・亜鉛板葺流造一.七五坪
拝殿・亜鉛板葺二四坪 境内坪数 一七七.五坪 氏子一八五戸」
「由緒沿革 創立年代は不詳。 今の社殿は、建築様式から推して享保年間にものらしく、
彫刻の精巧華麗な建物である。 御祭神が開拓の神であることからすれば、前林区が拓か
れた頃と関係があるのではないかとも思われる。 応永三三年四月の古文書にはすでに
前林の名が出ている。」


応永三十三年は西暦1426年ですから、約600年も前にはすでに集落があったわけです。


諏訪妙見-1

建御名方神(タケミナカタノカミ)とは、諏訪大社の主祭神で、大国主神(オオクニヌシノカミ)
の御子神であり、事代主神(コトシロヌシノカミ)の弟神になります。
「建御名方神」は、諏訪大社から勧請された全国の諏訪神社で祀られていますが、軍神と
して、また農耕や狩猟の神として信仰されています。


諏訪妙見-4
諏訪妙見-2
********** 諏訪妙見-3

手水舎には昭和25年に寄進された手水盤が置かれています。
手水盤には諏訪大社の神紋である「諏訪梶の葉」が彫られています。


諏訪妙見-5
諏訪妙見-6
***************諏訪妙見-7

ご神木の杉の大木は、幹周り7~8メートルはありそうです。


諏訪妙見-8

大きな拝殿です。
どこかで見たような建物ですが思い出せません。
後で調べたところ、この拝殿には意外な秘密が隠されていました。(それは後ほど・・・)


諏訪妙見-9

がらんどうの拝殿の向こうに、本殿が見えています。


諏訪妙見-11
諏訪妙見-16

「今の社殿は、建築様式から推して享保年間にものらしく、彫刻の精巧華麗な建物である。」
と「千葉県神社名鑑」にあったように、見事な彫刻です。


諏訪妙見-12

脇障子には迫力のある表情の獅子が彫られています。


諏訪妙見-13
諏訪妙見-82

反対側の脇障子の獅子は抜け落ちて、濡縁に無造作に置かれています。


諏訪妙見-83
********** 諏訪妙見-86
諏訪妙見-17
********** 諏訪妙見-81

見えにくい所にも細かい彫刻が施されています。
享保年間の造営ということですので、約300年前の芸術的作品です。


諏訪妙見-37

さて、ここで先ほどの“拝殿の秘密”について、です。


諏訪妙見-34

弊殿から拝殿側を見ると、床の板目が不規則なことが分かります。


諏訪妙見-33

さらによく見ると、円形の切れ目が・・・。


諏訪妙見-35
********** 諏訪妙見-36

天井を見ると、いろいろな形の木材が積まれています。

『この大竹岸太郎の「自叙伝」の記述によれば、現在の前林の舞台は、岸太郎らが地狂言を
上演するために、戸長である岸太郎の父親が、工事主任となって建設したものであることが
知られる。』
『現在の、前林の舞台(常設舞台)は、寄棟トタン葺(以前は、茅葺)で、「拝殿」と呼んでいる。
前林地区の中心地である諏訪神社の境内、参道の中央に本殿と同方向で、ちょうど拝殿の
位置に建っている。』
『舞台の規模は、間口六間、奥行四間で、伊能の舞台よりひと回り大きいといえる。回り舞台
があり、形式は、心棒付鍋蓋式の回り舞台であったが、現在は奈落改造によって、回転不能
となっている。二重台の上下機構などはない。花道なども現存しないが、おそらく組み立て式
で、取り付けられたものと思う。』
『戦後も、しばらくの間、芸能大会、映画会、地方巡業の買芝居などに使用されていたという。
なお、この前林の舞台は、千葉県立「房総のむら」に復元建設されている。』

(「大栄町史 民俗編」 P262~263)

これで納得です。
拝殿を兼ねた舞台だったわけです。
ここで上演された芝居を見てみたかった気がします。

諏訪妙見ー80

大須賀神社ー30  大須賀神社の能舞台
房総のむらー28  房総のむらの能舞台


諏訪妙見-18

鰹木は三本、千木は垂直切りで、男神の「建御名方神」が祭られていることを示しています。

「大栄町史 通史編中巻」に、この「諏訪神社」について一行だけ書かれています。
「前林村字花輪に所在。祭神は武御名方命(「県神社明細」)。旧社格は村社。」


「諏訪神社」から山道を150メートルほど進んだところには、「妙見神社」があります。

諏訪妙見-23

明神鳥居は平成9年に建立されました。


諏訪妙見-22

鳥居の手前にポツンと置かれた「道祖神」。
「安政六己未」 と読めるような気がします。
安政六年は西暦1859になります。


諏訪妙見-24

境内には小さなお社だけがあり、石造物等は全く見当たりません。

この「妙見神社」に関する資料は少なく、「千葉縣香取郡誌」や「千葉県神社名鑑」などにも
社名は出てきません。
「大栄町史 通史編」中の、第二章「大須賀氏関連の中世城館跡」にある、前林城跡・館跡の
項に、チラリと社名があるのを見つけました。

「大須賀川の最上流に近い前林の集落内に館跡があり、谷を挟んだ東側台地上に城跡が
あった。前林の集落は、大須賀川上流部の本支流に開析された北に伸びる台地上に存在
する。館跡は台地北端にあり、隣には妙見社がある。」


この前林城の城主であった前林志摩守は、前回紹介した「医王院」の開基とされる人物です。


諏訪妙見-25
諏訪妙見-88
********** 諏訪妙見-89

暗い堂内を覗かせていただくと、妙見菩薩像が見えました。


諏訪妙見-29
諏訪妙見-91

「大栄町史 通史編」に、この妙見菩薩像についての解説がありました。

『像(像高三五・七センチメートル、木造・玉眼)は髪際正中で左右に振り分けながら被髪に
あらわし、盤首の袍・穿裳を着け沓を履き、右手で戟の柄を握り、左手は仰掌して宝珠状の
持物を載せ、正面を向いて岩座(框付)の上で腹這いにあらわされた霊亀の上に直立する。
造像は近世と考えられ、現状の彩色・右手の戟・輪光はいずれも後補である。』
「なお、台座框裏には「奉彩色妙見大菩薩/醫王院十九世/和尚寄付」という施人に関わ
る銘および「上サ山崎村/佛工□□」・「明治六年冬十月」という修理にかかわる銘が存在
する。』
 (P40~41)

医王院十九世の名が出てくることは、開基・前林伊勢守以来の結びつきが続いていることを
示しています。
仏工の上サ山崎村とは、当時は上埴生郡の山崎村で、その後明治二十二年に長柄郡二宮
本郷村に編入され、現在は茂原市の西部に位置しています。


諏訪妙見-32
諏訪妙見-26
********** 諏訪妙見-27

ガランとした境内に羽黒トンボが舞っています。


諏訪妙見-21

諏訪妙見-19

「諏訪神社」と「妙見神社」。
地元の人々に守られて、静かに時を重ねています。


諏訪妙見-95

                      ※ 「諏訪神社」 成田市前林658
                         「妙見神社」 成田市前林ミジョウ(番地不明)
                                 (ミジョウとは城を意味する小字です。)



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本大須賀村の寺社 | 08:42:23 | トラックバック(0) | コメント(2)
清水が湧き出る山裾に五百年~前林の「医王院」

今回は旧大栄町前林の「医王院」です。

医王院-12

「医王院」は曹洞宗のお寺で、山号は「前林山」。
500年近い歴史を持っています。


医王院-10

立派な山門は宝暦年間(1751~1764)のものとされています。
およそ260年の間、風雪に耐えてきました。


医王院-6

山門の脇には数基の石造物が並んでいます。


医王院-7

手前の石塔は天明二年(1782)のもので、 「三界萬霊等」 (等は異体字)と刻まれています。
この世のあらゆるものの霊を供養するという意味で建てられます。
一番高い石塔は明治三十三年(1900)の読誦塔で、「奉 讀誦普門品壱萬巻供養塔」と刻ま
れています。(普門品(ふもんぼん)とは「観音経」のことです)


医王院-8

こちらはちょっと変わったお姿の地蔵菩薩です。
右手に錫杖(欠損)を、左手には宝珠を持って蓮華座から左足を踏み下ろした半跏倚座を
とっている、ふっくらとした体型の力強い像形です。
右手が施無畏印を結ぶものもありますが、この像の右手は何かを握っていたような形です
から、立像が持つような長い錫杖ではなく、振り鳴らす短めの錫杖を持っていたのでしょう。
「享保二丁酉」 の紀年銘があります。
享保二年は西暦1717年ですから、300年前のものです。


医王院-9

これは、曹洞宗のお寺には必ずと言ってよいほど見られる「不許葷酒入山門」 と刻まれた
結界石で、“酒気を帯びたり、ニラのような臭いものを食べた者は、修業の妨げとなるので、
入山することを許さない”という意味です。
「安永七戊戌八月」 と刻まれています。(安永七年は1778年)

高徳寺-29 高徳寺の結界石(堀籠)
養泉寺ー3養泉寺の結界石(東和泉)
長興禅寺ー16 長興院の結界石(伊能)
宝応寺ー8 宝応寺の結界石(伊能)


医王院-15

「千葉縣香取郡誌」にはこの「医王院」について一行のみの記載があります。
「前林山醫王院  同村前林字門内に在り域内五百六十一坪曹洞宗にして藥師如来を本尊
とす
(同村とは本大須賀村を指します)

「大栄町史通史編中巻」には、
「曹洞宗。前林村字門脇上に所在。山号は前林山(「郡誌」)。本尊は薬師如来(県寺明細」)。
常陸竹原(茨城県東茨城郡美野里町)の鳳林院の末寺。 鳳林院は多賀郡宮田(日立市)
大雄院の末寺であったから、大雄院-鳳林院-医応院という関係であった。天保十五年に
当寺が発行した寺送り状が今に残されている。(「史料編Ⅱ」〔一九〕)。明治三十八年に火災
に遭い、その後本尊を釈迦牟尼仏にしたという
(「史話」)。」
 
(下線部の医応院は医王院の間違いです。)
(「史料編Ⅱ」とある寺送り状については、本項の最後に載せています。)

「医王院」という名前から、ご本尊は藥師如来だと思いがちですが、こちらは110年ほど前に
「釈迦牟尼仏」に替えようです。(市内の磯部にある真言宗の「医王院」や、茨城県龍ケ崎市
(曹洞宗)、横浜市金沢区(真言宗)、長野県南牧村(天台宗)等、多くの「医王院」のご本尊は
「薬師如来」となっています。)
「釈迦牟尼仏」または「釈迦如来」は、仏教の開祖の釈迦を仏様とした呼び名です。


医王院-16
医王院-17

昭和40年に建立された「招徳福」碑。
「開山曉天秀初大和尚 大永二年」と右側に記し、中央に「開創四百五十年之碑」と大きく
刻んで、左側には「開基前林志摩守 醫王院殿量外道無居士 天正六年三月二十九日
院昌安妙久大姉 天正六年五月廿七日」
(蓁は異体字)とあります。
大永二年は西暦1522年、天正六年は1578年になります。

「大永町史通史編」中の「大須賀氏関連の中世城館跡」の項に、次のような記述があります。
「前林の地名は、すでに南北朝初期に「金沢文庫古文書」中に見られることから、鎌倉期
には集落が存在していたものと考えられる。 前林集落の大須賀川西対岸の字門内には、
曹洞宗医王院がある。 縁起によると、開山が大永二年(一五二二)、大檀那は天正六年
一五六八)没の前林城主前林志摩守であったとされる。 この前林志摩守とは、消滅した
字城山の前林城に関連する大須賀氏一族の人物であろう。」
 
(下線部の一五六八は一五七八の誤りです。)

前林城は志摩守が没した12年後の天正十八年(1590)に、豊臣勢の攻撃で落城しました。


医王院-18

「招徳福」碑の隣には代々の住職の墓所があります。


医王院-20

本堂裏の山裾からはきれいな清水が湧き出しています。
地形的に豊富な水脈があるようです。


医王院-26

この石仏は風化と苔で年代は不明ですが、「地蔵菩薩」と刻まれているような気がします。


医王院-21

元禄九年(1696)の聖観音像。
きれいに苔が落とされています。

ちょっと余談ですが、この聖観音像が造られた元禄九年には、「竹島一件」と呼ばれる朝鮮
との領有権争いにより、竹島への渡航を禁止する措置が執られました。
現在韓国が「竹島」を自国領だと主張する根拠の一つに、この「竹島一件」を挙げていますが、
この頃「竹島」と呼ばれていて日本人の渡航が禁じられたのは、現在の「鬱陵島」のことです。
現在韓国によって占拠されている「竹島」は、この頃は「松島」と呼ばれていました。


医王院-19
医王院-23
********** 医王院-24

裏山の中腹に古い墓石が並んでいるのが見えます。
近づくと、天和、享保、安永、天明、寛政などの年号が読めます。
周りは鬱蒼と茂る木々に覆われて薄暗く、どの墓石も苔生しています。


医王院-25

苔で滑りそうな急坂があり、墓地はまだ上に伸びているようです。


医王院-2
医王院-4
********** 医王院-1

六地蔵が見守る山の上の墓地に出ました。
こちらは比較的新しい墓石が目立ちます。

境内に戻り、山門を出て緩やかな坂を100メートルほど行くと、鳥居の建つ三叉路になり、
そこにかつての「医王院」の痕跡が残っています。

医王院-29
医王院-34
********** 医王院-30
医王院-87


「愛宕神社」の鳥居の脇に、「延命瀧」と刻まれた明治三十年(1897)の石碑があり、手前の
岩から清水が滾々と湧き出しています。
ここはもともと「医王院」の敷地内で小さな滝があったそうです。
水量があり、水質も良いので、近隣の人々が毎日汲みに来ています。


医王院-31

「地蔵堂」の中のお地蔵様は年代不詳です。
ここにあった滝の名前からすると、「延命地蔵」でしょうか?
かつてはここが「医王院」の入り口だったのでしょう。


医王院-32

地蔵堂の横には数基の石造物が並んでいます。


*********医王院-80

右端には年代不詳の「聖観音」。

*********医王院-81

隣は「青面金剛」の庚申塔。
側面に「奉拜待庚申三年成就所」「惟時天明三癸卯十月庚申日」と刻まれています。
天明三年は西暦1783年で、大飢饉の真っ最中であったころです。
60日に1回、1年に6回ある庚申の日に人々が集まって、三尸の虫が天帝に悪口を告げない
ように夜明かしをする「庚申講」を、3年・18回続けると「庚申塔」を建てることができます。

*********医王院-82

年代不詳の「聖観音」。

*********医王院-83

「奉納大乘妙典六十六部供養塔」と刻まれた読誦塔。
「元文■未年」と読めます。
元文年間の未年は元文四年(己未・1739年)になります。

*********医王院-84

寛政元年(1789)の「月待塔」。
「奉侍十・・・・・観世音」とあり、刻まれているのが聖観音ですから、欠損して読めない部分
には十五夜、十七夜、十八夜待のいずれかの文字が記されていたはずです。

*********医王院-85

風化で何の像か、分かりません。

*********医王院-86

「読誦塔」のようです。
元禄と読めるような気がしますが・・・。


医王院-36
医王院-37

「愛宕神社」への石段は急で、所々崩れていますのでちょっと危険です。
段数を数えながら登ったのですが、足許に気をとられて途中で数えられなくなりました。
100段以上はあるはずです。


医王院-38
医王院-39

大正十五年(1926)に建立された小さな石の祠です。
狭い境内には祠以外何もありません。


医王院-40

石段の最上段の左右に置かれている小さな石柱には、延享三年(1746)と刻まれています。


医王院-41
医王院-27
医王院-22

「延命瀧」碑と「地蔵堂」からは、「医王院」の境内がチラリと見えています。
500年の時の流れに、かつての広大な敷地も大分狭くなっていますが、それでも裏山の墓地
を含めれば相当な寺域が残っています。
近くには工業団地があり、大規模な採土場やソーラー施設など、開発の波がジワジワ寄せて
来ていますが、何とかこの静かな環境と歴史が続いていってほしいものです。


医王院-45

                        ※ 「前林山 医王院」 成田市前林545

※ 「史料編Ⅱ」に収録の寺送り状(九八寺送り状)

送リ一札之事
一 此九八与申者、代々拙院檀中ニ御座候処、此度当人之依望寺送遣シ候間、然上ハ
何方之御檀中ニ相成候共、拙院ニ而ハ決而構無御座候、仍而寺送一札、如件
                                     天保十五年 辰六月廿日
 先御寺 様
                                           前林村 醫王院


「九八」とは村人の名前です。
移住先が無いまま、寺送り状が書かれるのは非常に稀なことです。



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本大須賀村の寺社 | 08:12:33 | トラックバック(0) | コメント(2)
成田にもあった!~二つの「明治神宮」
成田にも「明治神宮」があることをご存じでしょうか?

明治神宮-1

これが多古町との境の「大栄十余三」にある「明治神宮」です。
明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする、あの東京・代々木の「明治神宮」と同じ社号です。


明治神宮-2

毎年初詣の人出が日本一で、境内は約21万坪の「本家」(?)とは比較にならない規模と
知名度ですが、間違いなくここは「明治神宮」と呼ばれています。


明治神宮-3
明治神宮-4
********** 明治神宮-5

社殿には菊の神紋が掲げられています。
どうやら十五弁菊のようです。
明治になって皇室の御紋である菊の紋章は一般には使用することが禁止されていましたが、
明治12年5月の太政官達第23号によって、神殿・仏堂の装飾としての菊紋使用は(皇室の
十六弁以外は)許されるようになりました。


***明治神宮-6
明治神宮-19

流れ造りの社殿には目立った装飾はなく、極めて質素な造りです。


明治神宮-7
明治神宮-8

境内の一角にある梅鉢紋が付いた「天満天神宮」。
梅鉢紋と言えば、「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」(拾遺和歌集)の
菅原道真公ですが、この祠の側面には「奉納 開拓五十周年 昭和三十五年五月」(1960)と
刻まれています。
ここの字(あざ)の十余三(とよみ)とは、かつての矢作牧であった地域を明治政府が窮民対策
のための開墾事業の対象とし、十三番目に開墾されたことから付けられたものです。
事業は明治初期の頃から行われていましたが、なかなか思うようには進まず、この神社の一帯
の開墾は明治43年(1910)頃に始まったということでしょうか。


明治神宮-10
明治神宮-23
********** 明治神宮-9

手水盤は昭和九年九月のもので、「奉納 御大典記念」と刻まれています。
この御大典とは、昭和3年(1928)に行われた昭和天皇のご即位を指すものです。

少し離れた場所にあるもう一つの手水盤は年代不詳です。


明治神宮-11

山あいにわずかに広がる畑の中に参道があり、遠くに鳥居が見えています。


明治神宮-12

鳥居は痛みが激しく、一部が剥落しています。


明治神宮-29

鳥居側から「明治神宮」を見ています。
参道と言うより農道の向こうに僅かに社殿が見えます。


明治神宮-14
********** 明治神宮-28
明治神宮-17
********** 明治神宮-21

辿り着くまでは、畑や藪の間を抜けて行きます。
地図には載っているような、いないような・・・、道のような、畑のような・・・、進むには結構
気合いが要る道です。


明治神宮-18
明治神宮-20

境内には社殿のほかには手水舎と「天満天神宮」の石祠があるだけです。


明治神宮-22
明治神宮-27

社殿に神額はなく、鳥居の額束にも「明治神宮」の文字はありません。
でも、ここは間違いなく「明治神宮」です。

成田市の宗教法人名簿や「千葉県神社名鑑」、「全国神社名鍳」のいずれにも記載は無く、
「千葉県香取郡誌」にも名前は見当たりませんが、詳細な地図なら、周辺に何もないような
場所に、小さな⛩の地図記号と「明治神宮」の表示を見つけることができます。

近所の農道を歩いていた92歳だというお婆さんに聞くと、
『ああ、あそこは「明治神宮」って呼ばれているよ。 毎年10月には地区の役員が東京の明治
神宮にお参りしてお札を持ち帰って納めているよ。私らの子供の頃はあそこでよく遊んだもん
もんだ。 今は大栄十余三なんて地名になってしまったけれど、昔は「アザミヶ里」と呼ばれた
良い所だよ。』
とのことでした。
   ※訂正があります。編集後記をお読み下さい。
「アザミ」は、草丈50~70センチの、初秋に淡い紅紫色の花を付ける棘のある植物で、漢方
では止血剤として用いられる、どこでも良く見かける野草です。
きっと、この一帯の秋は、アザミが咲き乱れていたのでしょう。


明治神宮-24
*********明治神宮-25
明治神宮-30

鬱蒼とした森の中で、忘れられたように佇む「明治神宮」です。


さて、成田にはもう一カ所「明治神宮」があります。

明治神宮-31
明治神宮-32

旧大栄町の川上地区にある「明治神宮遙拝所」です。


明治神宮-43
********** 明治神宮-44

県道44号線と79号線が交わる十余三交差点の脇にあります。


明治神宮-39

平成12年(右)と昭和23年(右)の手水盤。


明治神宮-33
明治神宮-36

ここには皇室の「十六弁八重表菊」紋が掲げられています。
数多い菊花紋の中でも、この紋は皇室の他のは東京・九段の「靖国神社」など、ごく一部で
しか使われていません。


明治神宮-38
明治神宮-35
********** 明治神宮-37
明治神宮-42

流れ造りの社殿は大きな鞘堂に覆われています。

平成12年に設置された記念碑には、次のように記されています。
『明治神宮遙拝所創設の由来 十余三一区二区両地区の守護神として鎮座される明治神宮
遙拝所は大正十二年宮内省へ再三に亘る請願により許可建設されたものである 請願の内
容を記すれば「当地ハ旧御料地ニシテ皇室トモ御縁故深ク且ツ又牧ノ開墾地ニテ区民一同
崇敬スベキ神祀無之人心離敬ノ傾向有之夫等統一ヲ計ル為居住住民一同熱誠ナル希望ニ
ヨリ不肖等主唱者トナリ神宮遙拝所ヲ建設致シ度ク特別ノ御思召ヲ以テ御許可相成度ク請願
名簿図面添ヘ此ノ段奉願候」 このように熱誠なる請願が認められ大正十三年八月八日官弊
大社明治神宮社務所(第七二三号)により明治神宮遙拝所の建設許可を得て新築された歴史
的にも由緒ある守護神である その後永い間の風雪に耐え遙拝殿の破損も著しく昭和二十五
年二月二十五日新築し改めてこの年に御幣が下付されたのである その年遙拝殿の新築を
記念して四月三日を例祭と定め毎年記念行事として御祭礼が行われている』

ここは「明治神宮」から正式に認められた遙拝所なのです。


明治神宮-46

この遙拝所の隣にお住まいで、日頃から境内の管理をされている平山 博氏に、大変貴重な
書類を見せていただきました。

明治神宮からの遙拝所建設の許可状(コピー)です。
明治神宮と印刷された用箋に次のように書かれています。

 第七二三號 
 大正十三年八月九日 
  官弊大社明治神宮社務所
浅 沼 由 松 殿
市川角左衛門 殿
大正十三年八月九日願出ノ明治神宮遙拜
所左記ノ場所ニ建設ノ件當神宮ニ於テハ
何等差支無之候也
      記
千葉縣下総牧場駒之頭字夜番第二號地

明治神宮に保管されていた原本は、昭和20年4月の米軍の空襲で焼失しているので、この
副本が残された唯一の証拠となっています。

なお、代々木の「明治神宮」は正式には明治神宫と書きます。
「宮」の字は、うかんむり(宀)の下の「呂」に、二つの口を結ぶ線が入らない「宫」です。


明治神宮-26
明治神宮-40

大栄十余三の「明治神宮」には、社号に関する史料は見当たりませんが、代々木の神宮が
造営された頃に、開拓民の心の拠り所として、また皇室への崇敬の念をもって創建された
のだと思います。
遙拝所もまた、住民の心の拠り所と皇室への崇敬の念から創建されたもので、広大な開墾地
に生きる人々の様々な想いが凝縮されているように、私には思われます。


明治神宮-01

                     ※ 「明治神宮遙拝所」 成田市川上345-588
 
明治神宮-02

                     ※ 「明治神宮」 成田市大栄十余三(無番地)
        (成田にはここの他に、国道51号線沿いにもう一つ十余三の地名があります。)



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本大須賀村の寺社 | 08:15:43 | トラックバック(0) | コメント(2)
石の仁王様が守る廃寺~田中山宝蔵院
今回は秋の景色を探して車を走らせていた時に偶然見つけた廃寺です。
山間(やまあい)の細い道をしばらく走って、ぱっと視界が開けたところに
この寺はありました。

廃寺であることは後で調べて分かったことです。

田中山ー26

まず目に入ってきたのがこの景色です。
仁王像ですが、屋外に立っていてしかも石像です。


田中山ー1
田中山ー2
田中山ー33田中山ー34
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やや小柄で一見愛嬌のある丸顔ですが、なかなか厳しい表情の仁王様です。
寛保三年(1743年)の建立です(後述)。

田中山ー14

帰ってからこのお寺に関する資料を探しましたが、殆ど見つかりませんでした。
千葉県の宗教法人名簿にも記載が無く、見つけた唯一の資料が成田市発行の
「成田の地名と歴史」にあるこの一文です。
『一坪田の小高い丘陵上に観音堂がある。ここはもと田中山宝蔵院という真言宗のお寺で
あったが、明治初期に廃寺となり、十一面観音を本尊とするこの観音堂だけが残された。
入口の石段の左右に像高約145cmの仁王像が建っている。木造の仁王像は各地にあるが、
このような石造の仁王像は珍しい。千葉県内でもこれを含めて3例が知られるだけである。
銘文を見ると、1743(寛保3)年に一坪田の北崎氏が建立したことが知られる。』

(2011年成田市発行「成田の地名と歴史」P175)


田中山ー4

この石段の上にあるのは観音堂だったのですね。


田中山ー5
田中山ー6
田中山ー7
田中山ー8

階段の両脇には三十三観音でしょうか、ずらりと観音像が並んでいます。


田中山ー30階段の脇にいた2mの蛇(このお堂の主?)


田中山ー9

階段を上りさして広くない境内に出ると、まず目に入ったのが多くの寺に見られる
「奉 讀誦普門品一萬巻」の石柱です。
明治26年の建立です。


田中山ー10
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中山ー11
田中山ー12
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中山ー13

そして所狭しと並ぶ板碑を読むと、どれも「田中山三十三年開扉記念碑」です。
大正4年、昭和22年、昭和55年、平成25年と33年おきの4つの板碑があり、
廃寺になって以降も近隣の人々がこの観音堂を守ってきたことが分かります。


田中山ー18

観音堂の裏手にある「奉納 日本廻国」の碑は享保七年(1722年)と刻まれています。
廻国とは諸国を巡礼して廻ることを指すようです。


田中山ー19

「奉納 大乗妙典六十六部日本廻国」と刻まれたこの碑は正徳五年(1715年)のものです。


田中山ー20

「奉納 六十六部供養塔 天下泰平 国土安全」のこの碑は
延享三年(1746年)のものです。


田中山ー25

お堂の中を覗かせていただきましたが、厨子の中に十一面観音が安置されているようで、
内部はきれいに保存されています。


田中山ー21

この石灯籠には寛保二年(1742年)と刻まれています。


田中山ー22
田中山ー24

境内にひっそりと立つ二体の如意輪観音。
写真上の観音様は明治23年と刻まれていました。
写真下の観音様は制作年代は分かりませんが、穏やかで気品のあるお顔です。


田中山ー39

境内の端に子供を抱いた観音像がありました。
抱かれた子供が合掌しています。
文化元年(1804年)と刻まれています。


田中山ー32

平成25年の33年御開扉に際して500万円かけて改修を行った記念碑。
観世音の文字が左からということが今風ですね。


田中山ー27
田中山ー28

開墾のために周りを少しずつ削られてきたのでしょうか、この観音堂は
畑や田んぼの中にポコンと小さな丘が残ったような景色です。
参道の階段と境内の周りは15メートルくらいの崖になっています。


田中山ー41

崖の下に回ると、斜面にもたくさんの観音像が立っています。
これは馬頭観音です。


田中山ー42
・・・・・・・・・・・・・・・田中山ー43
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中山ー44
田中山ー45

この如意輪観音様はお昼寝中でしょうか。
気持ち良さそうに目を閉じておられます。


田中山ー35

廃寺になったとはいえ貴重な歴史的文化財が残る田中山宝蔵寺。
かろうじて残った観音堂は、地元の人々に大切に守られているようです。


田中山ー37


            ※ 一坪田の観音堂(田中山宝蔵院) 成田市一坪田460
               京成成田駅よりコミュニティバス津冨浦ルート 
               前林坂下下車 徒歩約40分(ひたすら登り坂です)
               駐車場なし(スペースはあります)



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本大須賀村の寺社 | 07:12:35 | トラックバック(0) | コメント(4)
吉岡の名刹「大慈恩寺」
今回は吉岡の名刹「大慈恩寺」を訪ねます。

大慈恩寺ー16

「大慈恩寺」は真言宗の寺院で、山号は雲富山。
ご本尊は「清涼寺式木造釈迦如来立像」で、明応四年(1495年)の銘があります。

天平宝字五年(761年)に唐よりの帰化僧、大律師・鑑真が開いたと伝えられています。
大伴家持が万葉集を編纂したのが天平宝字三年ですから、
実に長い歴史を重ねてきたお寺です。

当時は「慈恩寺」と称していましたが、鎌倉時代に荒れ果てたこの寺を
地元の豪族・大須賀氏が復興しました。

『南北朝時代の1341(暦応4)年、足利直義は慈恩寺を祈願所とし、
下総国の利生塔を置き、寺領とは別に料所を寄進した。1391(明徳2)年には
後小松天皇から「大」の字を賜り、以後、慈恩寺から大慈恩寺と称するように
なったとされる。』『1590(天正18)年に大須賀氏は滅んだが、翌年には
徳川家康から朱印地20石の土地を与えられ、以後、幕末まで朱印地として
継続した。』( 「成田の地名と歴史」 2011年成田市発行より)


大慈恩寺ー1

質素ですが、しっかりした山門です。


大慈恩寺ー2
大慈恩寺ー3

山門の手前左に「観世音菩薩」の石碑と小さな仏様の石碑が並んでいました。
小さな仏様は夏草に埋もれていますが、寛政七年(1795年)と記されています。


石碑の横に地蔵堂が建っています。大慈恩寺ー5

大慈恩寺ー4 丸顔の愛嬌あるお地蔵さまです。


大慈恩寺ー8

勅使門です。
天皇の使者のみがこの山門をくぐることができます。
雲富山と書かれた掲額が見えます。


大慈恩寺ー6
大慈恩寺ー7

勅使門の下には小さな池があり、中の島には弁財天が祀られていました。
石橋を渡るとき、驚いた大きなカエルが茂みから飛び込み、泥の中に潜るのがみえました。


大慈恩寺ー10

山門から境内に入り、閉まった勅使門の内側に立つと、
本堂へまっすぐに石段と石畳の道が延びています。


大慈恩寺ー11
大慈恩寺ー12

道の左側には利生塔跡があるのですが、残念ながら夏草に覆われて見えません。
利生塔は足利尊氏・直義の兄弟が、元弘以降の戦死者の冥福を祈って暦応四年(1341年)
に建立したものですが、明治35年の暴風雨で倒壊してしまいました。


大慈恩寺ー14
  綺麗な蓮の花が咲いています。  大慈恩寺ー29


大慈恩寺ー17

本堂の前には空海(弘法大師)の像が建っています。


大慈恩寺ー18
大慈恩寺ー19

板碑が並んでいます。
近隣からも集められた板碑の中で最も古いものは、元徳二年(1330年)のもので、
暦応、貞和の年号がかろうじて読むことができました。


大慈恩寺ー26
大慈恩寺ー21

本堂の裏手の崖から清水が湧き出しています。
池には見事な鯉が悠然と泳いでいます。

池の対岸に石仏がたくさん並んでいるのが見えます。

大慈恩寺ー22秩父札所の名前が記されています
 四国札所の名前が記されてます 大慈恩寺ー25


大慈恩寺ー27

一隅に古い墓石が並ぶ墓地があります。
正徳、宝永、天明、弘化、寛政、享保などの年号が読めました。


大慈恩寺-23
大慈恩寺-24

不思議な洞窟を見つけました。
5メートルほど先を左に折れて彫られているようです。
何やら祭壇のようなものが見えるのですが、足元には水が溜っていて入れません。


大慈恩寺ー30
大慈恩寺ー31

境内の右奥にある鐘楼です。
鐘は青銅製で、延慶三年(1310年)の銘が入っています。

『銘文の2行目には「開山往持比丘真源書」とあり、大慈恩寺は鑑真によって
開かれたという寺伝を有するものの、実際は律宗僧の真源を開山として
鎌倉時代に創建された寺院であったことを明らかにしている。』(「成田の地名と歴史)

ここでは鑑真により開かれたというロマンは否定されましたが、
この寺院が歴史に彩られた名刹であることには変わりありません。
歴史上の事実は事実として、伝説としてのロマンは残しておきたいものです。
千数百年も前のことなのですから、どんなに資料を精査しても、
本当のことは分かりませんよね。


大慈恩寺ー32
大慈恩寺ー33
大慈恩寺ー28

寺の周りは鬱蒼とした森です。
幹線道路からは外れた山中にあるこの寺を訪ねる人はほとんどいません。
歴史を抱えて静かに佇む「大慈恩寺」には、
探ればまだまだ歴史の不思議が隠れているような気がします。


               ※ 大慈恩寺  成田市吉岡183-1
                  京成成田駅より千葉交通バス 吉岡・佐原線 
                  吉岡大慈恩寺前下車 徒歩5分




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本大須賀村の寺社 | 16:47:23 | トラックバック(0) | コメント(2)