
「昌福寺」は天台宗のお寺で、「釈迦如来」をご本尊としています。
山号は「紫雲山」、院号は「来迎院」です。

参道に面して四基の石仏が並んでいます。

左端の石仏は如意輪觀音です。
台座には「十九夜講」と刻まれていますので、十九夜待の「月待塔」です。
補修のため紀年銘がほとんど読めませんが、「享」「四」「子」の三文字が辛うじて読めます。
この三文字から推理すると、享のつく元号で四年以上あり、その四年の干支に子がある年号は、
永享四年(壬子・1432)と享和四年(甲子・1804)しかなく、月待講が広まったのが江戸時代
に入ってからであることを考えると、「享和四甲子年」と刻まれていると思われます。


真ん中の二基は「子安観音」です。
右側の観音像には「文化十三子」の紀年銘があります。
文化十三年は西暦1816年、200年前の石仏です。

右端の観音像には「普門品供羪塔」と刻まれています。
「普門品」とは、法華経の中の「観世音菩薩普門品(観音経)」という一章のことです。
観音経は、観世音菩薩の偉大な慈悲の力を信じその名前を唱えることで、あらゆる苦難から
救われる、と説いています。
「明治四未年」(1871)の紀年銘があります。

隣には昭和16年の「馬頭観音」の文字石版が建っています。

「成田の地名と歴史」には、「昌福寺」が次のように紹介されています。
「奈土に所在する天台宗寺院。 山号は紫雲山。 院号は来迎院。 本尊は釈迦如来。 古くは
奈土城跡に近い寺家山にあり、慶覚法印が開いたと伝えられる。 常陸小野の逢善寺(茨城
県稲敷市)に残る「檀那門跡相承資井恵心流相承次第」には、奈土に観実という学僧がいた
こと、逢善寺13世の良證法印が16世紀前半に当寺から入山にたことがみえ、関東の天台
宗の中心であった逢善寺と密接な関係を有していた。 1570(永禄13)年に徳星寺(香取市
小見)で行われた伝法灌頂(密教の最高位である伝法阿闍梨となる僧に秘法を授ける儀式)
では、当寺や奈土の僧侶たちが重要な役を勤めている。 戦国期に当寺で書写された聖教
(教学について記した典籍)からは、談義所として各地から集まった学僧が修学に励んでいた
ことがわかる。 このように当寺は大須賀保における天台宗の拠点であった。 近世の「寺院
本末帳」には「門徒寺八ヶ寺」と、末寺が18か寺あることが記されているので有力な寺院で
あったことがわかる。 檀家も地元の奈土だけでなく、柴田や原宿・毛成(以上神崎町)・結佐
(茨城県稲敷市)にもあった。 元禄期(1688~1704)に現在地現在地に遷座したという説
もある。」 (P276~277)
これにより「昌福寺」は、少なくとも16世紀前半には存在していたことが分かります。
450年以上の歴史あるお寺です。



本堂の屋根には、天台宗の宗紋である「三諦星(さんたいせい)」が掲げられています。

「天台宗。 奈土村字昌福寺に所在。 山号は紫雲山で院号は来迎院(大正十年『千葉県香取
郡誌』、以下『郡誌』)。 本尊は釈迦如来(明治十二年『千葉県寺院明細帳 下総国香取郡』、
以下『県寺明細』。 天明六年(一七八六)前後の「上総国下総国 天台宗寺院名前帳』に、上州
世良田長楽寺末の下総国小見村徳星寺の末寺として「紫雲山来迎院昌福寺」とある。 長楽寺
は群馬県新田郡尾島町、徳星寺は香取郡山田町に」所在する。 長楽寺ー徳星寺ー昌福寺と
いう上下関係であった。 同名前帳には「門徒九ヶ寺」とあり、昌福寺が配下の寺を九ヶ寺有して
いたと解釈されるが、同帳には個々の寺院の記載はない。」 (「大栄町史 P556~557)

本堂の前に「十三仏」と刻まれた石柱があります。
「奉造立 寶暦八戌■」と記されています。
寶曆八年は西暦1758年になります。
十三仏(じゅうさんぶつ)とは、平安時代の末期ごろから仏教に由来する末法思想や冥界思想
と共に広く浸透した十王(地獄で死者の審判を行う裁判官のような存在)という考え方をもとに、
死者の生前の行いを審判する十王と、浄土へと導く本地仏を置く思想です。
江戸時代に入ってから急速に広まり、三王・三仏を加えて十三王・十三仏となりました。
秦広王・不動明王(初七日)、初江王・釈迦如来(二十七日)、宋帝王・文殊菩薩(三十七日)、
五官王・普賢菩薩(四十七日)、閻魔王・地蔵菩薩(五十七日)、変成王・弥勒菩薩(六十七日)、
泰山王・薬師如来(七十七日)、平等王・観音菩薩(百か日)、都市王・勢至菩薩(一周忌)、
五道転輪王・阿弥陀如来(三回忌)、蓮華王・阿閃如来(七回忌)、祇園王・大日如来(十三回忌)、
法界王・虚空蔵菩薩(三十三回忌)
法要は、その都度、十王(十三王)に対して死者への減罪の嘆願を行うために行われます。


元禄、正徳、享保、延享、明和、寛政、文政などの元号が読める墓地の奥には、歴代の住職や
有力者の墓石が並んでいます。


墓地の中でとても珍しい、貴重な石仏を見つけました。
「愛染明王」像です。
紀年銘はほとんど読めませんが、「明■■庚寅」と読めるような気がします。
元号の頭が「明」で干支が「庚寅」の年は、明和七年と明治二十三年だけです。
「大栄町史」の「町域の寺院総覧」の項に、昌福寺に関する記述があり、その末尾に、
「なお境内墓地には、後述の廃寺東光寺にあった石塔類が移されている。特に江戸時代中期
の愛染明王像は、県内屈指の石仏である。」
とありますので、明和七年(1770)の造立であると思われます。
愛染明王は一面三目六臂の忿怒相で、頭には獅子の冠をかぶり、叡知を収めた宝瓶の上の
蓮華座上に結跏趺坐で座るという、特徴ある像容を持っています。
恋愛・縁結び・家庭円満などをつかさどる仏として信仰を集め、また「愛染」を「藍染」と解釈して、
染物や織物職人達の守護仏としても信仰されています。

左手には金剛鈴と弓を持ち、後の手は拳を握って突き上げていて、右手には五鈷杵と矢を持ち、
後の手は蓮華を持っています。
この明王像は廃寺となった「東光寺」にあったもので、移設前の東光寺跡での姿が、「大栄町史
民俗編」に掲載されています。(P196)

額には第三の目があり、牙をのぞかせる忿怒の相ですが、なぜか童顔に見えてしまいます。
成田では、成田山「光明堂」の「愛染明王」像と、吉岡の「大慈恩寺」の「絹本着色愛染明王」が
知られていますが、私の知る限り、成田市内に「愛染明王」の石像はこの一体だけです。
このブログで訪ねた150近い寺社でも、唯一、印西市の「松虫寺」に隣接する「松虫姫神社」
境内で見つけた石像が一体あるのみです。

(「松虫姫神社」境内の「愛染金剛」像 2014年11月撮影)
時の彼方の姫と牛、「摩尼珠山松虫寺」(2) ☜ ここをクリックしてください。

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境内には多くの本堂や庫裏の改修記念碑が建っています。

境内の右手に建つ年代不詳の二基の宝塔。
右の宝塔には「法蕐塔」と刻まれ、側面には「十方佛土中 唯有一乘法」と記されています。
これは法華経中の「方便品」にある一節で、仏の真の教えは唯一であって、それによって全て
の衆生が成仏できると説いています。

宝塔のそばにある年代不詳の「子安観音」像。

境内の一角には、千葉県指定の文化財である「山王社」があります。
「山王とは、滋賀県大津市坂本の日吉大社で祀られる神の別名であり、比叡山に鎮まる神を
指したものである。」
「山王信仰は、「山王神道」とも呼ばれる信仰をも派生させた。山王神道では山王神は釈迦の
垂迹であるとされ、「山」の字も「王」の字も、三本の線とそれを貫く一本の線からなっており、
これを天台宗の思想である三諦即一思想と結びつけて説いた。」 (ウィキペディア)
「享保中十八世俊存中興開山と爲り當時里正金岡貞正獨力を以て本堂山門等を建て柱材
其他頗る宏壯を極め又銅佛像十三体を鑄り之を寄附せり」
「域内山王社あり亦貞正の寄附建立する所にして其子孫奮族を以て稱せらる貞正通稱を
平兵衛と曰ふ」 (千葉縣香取郡誌)
この記述から、「山王社」は享保年代に奈土村の里正(村長的な存在)であった金岡貞正と
いう人物が建立・寄進したことが分かります。
説明板には次のように書かれています。
「寛保二年(一、七四二年)第二十世俊亮法師の建立。天台宗特有の社で、滋賀県比叡山の
日吉神社を勧請したもので、祭神は山咋命に大巳貴命、小祠であり、総けやき作りである。」
金岡貞正(平兵衛)の名前は出てきませんが、約280年前に建立されたことが分かります。

虹梁や側面、脇障子、台座部分に至るまで、細かい彫刻が施されています。








さらに、「香取郡誌」には、
「明治の初大に荒敗に屬し銅像蓮臺の如きに至るまで之を失ふに至りしが後住長澤良心
杜澤亮朝等苦心經營し漸く保存の道を講せり」
と書かれた一節があります。
この一節の前半部分は、明治政府による「神仏分離令」に触発されて起こった「廃仏毀釈」の
嵐を指しているものと思われますが、「神仏習合」の一例である「山王社」は、「神道」の側に
あるものとして、難を逃れたのでしょうか。

山門には釣鐘が下がっている珍しい造りです。
撞木もありますので、鐘楼も兼ねた山門です。

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鐘は昭和37年の鋳造で、撞座の脇にはうっすらと釈迦如来像が浮き上がっています。


山門の手前左右に二基の六角柱があり、それぞれに六観音と六地蔵が刻まれています。

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「山門の前に六地蔵を刻んだ六角石幢と六観音を刻んだ六角石幢が建っている。 一対のように
見えるが六地蔵は1679(延宝7)年の造立、六観音は1765(明和2)年の造立である。」
(「成田の地名と歴史」 P276~277)




「紫雲山來迎院昌福寺
同村奈土字昌福寺に在り域内七百三十六坪天台宗にして釋迦牟尼佛を本尊とす創建
詳ならざるも慶覺法印の開基にして天正中古山城主秋山佐内本寺に歸依し金穀を寄附
せり往時は村の寺家山に在りしを元禄中今の地に移せしと改建の時奮構造に用ゐたる
欄間あり之を本堂全体壁間に保存しあるも其彫刻の古雅なるは確として奮刹なるを證す
るに足る享保中十八世俊存中興開山と爲り當時里正金岡貞正獨力を以て本堂山門等
を建て柱材其他頗る宏壯を極め又銅佛像十三体を鑄り之を寄附せり各高各四尺許」
(千葉縣香取郡誌 P431~432)
のどかな山道を登り切ったところに「昌福寺」はあります。
長い年月を刻んだ境内を、春の風が桜を散らしながら吹き抜けて行きます。

※ 「紫雲山 昌福寺」 成田市奈土608