今回は、富里・久能の「駒形神社」を訪ねます。

「駒形神社 旧村社 <祭神>駒形神(こまがたのかみ) <主要建物>本殿・亜鉛板葺流造
一坪、弊殿・同一五坪、社務所・同六坪 <境内坪数>五三八.五七坪 <氏子>一〇〇戸
<神事と芸能>一月二〇日備社。 四月三日と八月二八日に獅子舞(三匹獅子・羯鼓舞)を
奉納する。」 (「千葉県神社名鑑」昭和62年)
御祭神の「駒形神(こまがたのかみ)」とは、あまり聞き慣れない神名ですが、馬の守護神で
あるとされていて、「馬頭観音」の垂迹神であるとも言われています。
「駒形神社」といえば、通常、岩手県奥州市にある式内社(現神社本庁別表神社)を指しま
すが、久能の「駒形神社」も、この岩手の「駒形神社」を勧請したもので、「駒形神社」が多く
分布する岩手・宮城地方と同様に、富里が馬の産地であったことと無関係では無いでしょう。


神社入口の道端に、やや傾いた「道祖神」があります。
この道祖神には「南無道祖神」と刻まれています。
相模地方やその他の地方では、この「南無道祖神」と刻まれた道祖神をよく見かけますが、
これまで私の見てきた成田近郊の多くの道祖神には無かった珍しいものです。
「明和四丁亥」と記されています。
明和四年は西暦1767年で、第十代将軍・徳川家治の治世です。

一の鳥居は石造りの明神鳥居で、昭和49年のものです。

鳥居の脇にある手水盤は、明治四十五年(1912)に寄進されています。
この年の7月には明治天皇が崩御され、元号が大正と代わりました。


ニの鳥居は、控柱のある木製の明神鳥居です。


玉垣に囲まれたこの木は、枯れた幹の根元から蘖(ひこばえ)が生えています。
玉垣には「大當番奉任記念 昭和十五年一月 丸山八代藤崎源之助」と記されています。
この名前は「一の鳥居」にも寄進者として記され、狛犬の台座にも多くの寄進者の中に
寄進者の一人として記されています。

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小振りながら、なかなか重量感のある狛犬は、昭和15年の寄進です。

「富里村史通史編」(昭和56年)には、「駒形神社」はこう紹介されています。
「駒形神社 駒形神・天照皇大神・宇賀御霊命
所在地は、久能字比丘尼内にあり、ここは古くは尼僧寺のあった所かも知れない。 「富里
村誌」によれば、村社で祭神は稚産霊命、大巳貴命、面足少名彦命、惶根命となっている
が創建は不詳である。境内には、明和四年(一七六七)丁亥十一月吉日建立の道祖神が
あり、これは、入母屋式石祠で、「南無道祖神」と彫られている。他に二三夜塔、天神宮など
の石塔、石祠がある。また、四月と八月の祭礼に獅子舞が行われている。」 (P627)
御祭神が史料や時代と共に変わっているのはよくあることです。


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鞘堂に覆われた本殿は、辛うじて流造の屋根が見えるだけで、外からはほとんど見えません。

拝殿の屋根に「立浪」の飾瓦がありました。
神社やお寺の屋根に、火除けのまじないとしてよく見られるものです。
「千葉県神社名鑑」には、本殿・拝殿ともに亜鉛板葺となっていましたが、近年瓦葺きに改装
されたようです。
参道の左右、少し奥まった所に、数基ずつの石造物が並んでいます。

拝殿に向かって左側の石造物は六基です。

一番左には、力石のような丸い石が置かれています。
見たところ、表面にはなにも刻まれていません。

「延享四丁卯」の紀年銘が読めますが、何の石祠かはわかりません。
延享四年は西暦1747年ですから、270年前のものです。
(後述の「千葉縣印旛郡誌」にある、「摩利支天王」かもしれません。)

三番目の祠は、昭和62年の新しいものです。

この五角の柱は、「地神碑」と呼ばれるもので、神々に五穀豊穣を祈願するためのものです。
それぞれの面に、「大己貴命(オオムナチノミコト)、少彦名命(スクナヒコノミコト)、植山姫命
(ハニヤマヒメノミコト)、倉稲神命(ウカノミタマノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)と、
何れも農業に深い関わりを持つ神々が刻まれています。

社号も紀年銘もありませんが、風化は進んでいないので、あまり古いものではなさそうです。

右端にあるこの石には、何やら文様があるように見えますが、風化で判別はできません。


拝殿に向かって右側にも、五基の石造物が並んでいます。
手前にある手水鉢には「明治参拾九年」と刻まれています。
明治三十九年は、西暦1906年にあたります。

左端の石祠には、「妙正大明神」と刻まれています。
この神様については確たる史料が見当たりませんが、どうやら「疱瘡神」のようです。
(市川市にある「龍経山妙正寺」の縁起に出てくる「妙正大明神」の話が有名です)
「寶暦■辛未」の紀年銘があります。
宝暦年代中の干支が「辛未」となるのは「宝暦元年」ですので、西暦1751年のものです。

右にある石祠も「妙正大明神」です。
こちらには「天保六乙未」と記されています。
天保六年は西暦1835年ですから、隣の「妙正大明神」から84年後のものです。

拝殿に向かって左側にあった石宮と同じもので、昭和62年と記されています。

「奉勸請廿三夜月天王」と刻まれたこの石塔は、弘化二年(1845)の月待塔です。
月待講は通常仏教の世界での行事とされていますが、神道でも行われることがあります。
仏教の二十三夜講では「勢至菩薩」を信仰の対象としますが、神社にある珍しい月待塔の
信仰対象は、「月読尊(ツクヨミノミコト)」になります。

右端のこの石祠は、風化で刻まれている文字が読めませんが、上部は「三」と読めるような
気がしますので、「三峯神社」ではないでしょうか。

「千葉縣印旛郡誌」には、「駒形神社」について次のように記述されています。
「村社 駒形神社
久能字比丘尼内にあり稚産靈命大己貴命面足少名彦命惶根命を祭る創建不詳なれども
明治四十三年三月許可を得て仝村大字久能字久保臺にありし無格社妙正神社仝村大字
宮谷にありし無格社皇産靈神社を本社に合祀し祭神を配祠せり本殿間口四尺六寸奥行
六尺七寸雨屋間口二間三尺奥行三間境内百八十坪官有地第一種あり神官は篠原周助にして
氏子三十九戸を有し管轄廳まで八里十一町五十四間なり境内三社あり即
一、天照皇太神 大日靈女貴命埴山姫命少名彦命倉稲魂命大己貴命を祭る由緒不詳
建物は石祠にして高三尺一寸横五寸
二、廿三夜月天王 月夜見命を祭る弘化二年己年勸請建物は石祠にして高二尺三寸
横七寸
三、摩利支天王 武甕槌命を祭る由緒不詳建物は高三尺一寸横九寸の石祠なり 」
神社の境内では、毎年4月3日と8月の最終日曜日に、五穀豊穣や交通安全などを祈願する
獅子舞が行われます。
「久能の獅子舞」と呼ばれ、約300年前から行われてきた伝統芸能で、富里市の指定民俗
文化財となっています。

(富里市教育委員会生涯学習課 提供)
富里市のホームページに、この獅子舞の”ストーリー”が紹介されています。
「獅子舞は、頭の大きなものから順に「雄獅子」「中獅子(雄)」「雌獅子」と呼ばれる3匹の獅子
によって演じられ、笛と大小太鼓の囃子に合わせて舞を踊ります。
久能の獅子舞は別名「やきもち獅子」とも呼ばれており、1匹の雌獅子をめぐる2匹の雄獅子
のストーリーが展開されます。
4段の場から構成されていて、1段目の場では、雌獅子と雄獅子がそれぞれの個性を表わし、
2段目では、3匹が入り乱れ仲良く踊りに興じます。3段目では、雄獅子2匹による雌獅子の
独占争いが始まります。争いは、話し合いという形で始まりますが、何度話し合いをしても
折り合いがつかず、そのうちに雄獅子同士の喧嘩が始まってしまいます。
喧嘩の様子はユーモラスで、勝ち獅子は右に左にと大きく飛び回り、倒れて負け獅子が立ち
上がろうとしているところに出向き、「どうだ!参ったか」というような仕草を見せます。 結局、
勝負は引き分けとなって、舞は4段目に移ります。 2匹の雄獅子は争いの愚を悟り、最初の
ように3匹の獅子は仲直りして舞は終わります。 近隣で行なわれている獅子舞は、勇壮な
ものが多いように見受けられますが、この獅子舞は、勇壮な場面の中にユーモラスな動きを
含め、民俗芸能としての娯楽性を備えています。」

(富里市教育委員会生涯学習課 提供)
獅子舞の行われる境内の賑やかさが想像できないほど、普段の境内は静かです。
鬱蒼とした木々に囲まれ、日中でも薄暗く、曇天の日はフラッシュが必要なほどです。




それにしても、この森には圧倒されます。
杉やスダジイの巨木が何本も、何本も・・・。


通りの反対側にも幹周りが7~8メートルはあろうかという巨木が・・・。



久能の「駒形神社」は、交通量の多い道路に面していますが、巨木に囲まれた社殿と境内は
忘れられた空間のように静寂に包まれています。

※ 「久能 駒形神社」 富里市久能553
今回の「駒形神社」は、フェイスブックの公開グループである、「成田っ子|成田市を元気な
街にしよう」のメンバー、「ヒロ加藤さん」からリクエストをいただいて訪問しました。
じっくり見るといろいろ興味深い石造物が見つかりました。
ヒロ加藤さん、ありがとうございました。
また、獅子舞の写真の提供に関して、いろいろお骨折りいただいた、富里市教育委員会・
生涯学習課と、公益社団法人・千葉県観光物産協会に感謝を申し上げます。
当方では、狐が道化役で少し卑猥な棒を持ってちょっかいを出すところが大受けです。
駒形神社の「力石のような石」を拝見して、力石みたいだなあと思いました。
記録が残っていない限り断定できませんが、船山様がご覧になって、だいたいどのくらいの大きさだったでしょうか。埼玉の研究者から、「石祠と並べて置いてあるなど、佇まいは力石のようだが」と。富里市では現在まで立沢の稲荷神社入り口(消防第8分団横)に1個あるのみです。
16年前の地元の方の談話では、「本市地域は関東ローム層に覆われていて、大石を手に入れること自体、困難だったから、石を調達できるのはよほど裕福な地域でなければできなかった。それで石の代わりに若者たちは土を担いで力を競った。力塚はその名残りです」とあります。
50㎝×40㎝ぐらいの楕円形の石だったと記憶してますが、自信はありません。
よく見れば何らかの文字が刻まれていたかもしれない、と気になってきました。
天気の良い日に再訪して確認し、お知らせしますので、少しお持ち下さい。
急いでおりませんので、ご都合のつくときで大丈夫です。
ご面倒をおかけしてすみません。
本日久能の駒形神社に行ってきました。
力石では?と書いた石は、サイズが約36㎝×約25㎝×約15㎝でした。
結論から申し上げますと、残念ながら「風化等で壊れた小祠の代わりに置かれた石」
と考える方が正解に近いと思います。
角がない丸みを帯びたいかにも力石のような佇まいですが、力石にしては小振りで重量
感も足りないような気がします(恐れ多いのですが、ちょっと触らせていただいたので
すが・・・)。 http://narita-kaze.jp/blog-entry-147.html の「香取神宮」、同じく
blog-entry-157.html の「鎮守皇神社」、blog-entry-173.html の「松崎街を歩く」、
blog-entry-232.html の「六所神社」、blog-entry-239.html の「大鷲神社」 blog
-entry-243.html の「若王神社と三王神社」などに出てくる力石もしくは力石らしき
石に比べても小さく、軽量に見えます。
力石かも?と期待を持たせるような不正確な書き方をして申し訳ありませんでした。
とりあえずご報告いたします。 これからもよろしくお願いいたします。
またたくさんご教示いただきまして助かりました。
船山様のブログを拙ブログでぜひ、ご紹介させてください。
その節は何枚か写真を使わせてください。
使用許可、どうぞご検討ください。
記録するための写真なので芸術性が全くありませんが、それでよろしければ
どうぞ遠慮なくお使い下さい。
もし問題がなければ相互リンクをしませんか?
「成田に吹く風」はすでに拙ブログにリンクさせていただいています。
お聞きせず勝手にリンクしてしまい、申し訳なかったです。
お知らせくださった力石らしい石ですが、6カ所のうち3カ所が調査書の「千葉の力石」には未掲載でした。ただ小振りな石なので力石とは断定はできません。ですが、ご当地の力石はみな小振りなんです。ですから可能性はありますが、文字が彫られたり文献があれば別ですが、今となっては判明不可。
でもそれらを踏まえて、紹介してみたいと思っています。