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Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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1350年の時の流れ~神崎町の「神崎神社」
今回は、前回の「神宮寺」に続いて、神崎町の「神崎神社」を訪ねます。

神崎神社ー63

大正十年の「香取郡誌」中の神社誌の項に「神崎神社」が次のように紹介されています。

「神崎町神崎本宿字雙生山に在り域内六千八百八十八坪面足尊大貴己尊惶根尊少彦名尊
を合祀す祭日一月四日三月廿日五月六日九月新嘗祭等なり創建詳かならず然れども古史
巳に之を載するを見れば其最古に在りしは以て證ず可し社傳に曰ふ白凰二年二月朔日常陸
國河内郡と本郡の境界なる大浦沼字二ッ塚より此地に遷座す」

(※ 面足尊(オモダルノミコト) 大貴己尊(オオナムチノミコト) 惶根尊(カシコネノミコト) 少彦名尊(スクナビコナノミコト)
「大貴己尊(オオナムチノミコト)」については通常「大己貴尊」と書きます。)


「白凰(はくほう)」という年号は日本書紀には記されていない諸説ある年号で、西暦674年と
する説が有力ですが、651年とする説や662年とする説などがあります。
いずれにしろ実に約1350年ほど前のことになります。

「史に元慶三年四月五日下總國正六位上子松神に從五位下を授くと三代實録記するものは
即ち本社なり承平二年春宮學士大江某本州の國司なりし時社殿を造り社領卅六町餘を寄進
し廿一年毎に改造の例と為す」


明治時代初期まで、「神崎神社」は「子松神」とも呼ばれていました。
正六位上から一段階上の從五位下を賜った元慶三年は、西暦879年になります。
社殿が造営された承平二年は西暦932年になり、約1080年前のことです。


神崎神社ー12
神崎神社ー11
********** 神崎神社ー13
神崎神社ー14

神崎町を横切る「利根水郷ライン」に面して大きな鳥居と社号標が立っています。
昭和10年に寄進された狛犬の台座には、お馴染“魚がし”のマークが刻まれています。


神崎神社ー15

真っ直ぐ伸びる石段は101段もあります。


神崎神社ー16
神崎神社ー18

石段を登り切った右側には「金刀比羅宮」があります。
側に数基の祠がありますが、唯一紀年銘が読めたのが■保十一丙■年で、該当するのは
「享保十一年丙午年」(1726)となります。


神崎神社ー20

「金刀比羅宮」の反対側に小高い場所があり、数基の祠があります。
神社の案内板に「愛宕神社」のお宮が描かれていた場所ですが、今は石祠だけです。


神崎神社ー21

今度は42段の石段を下って小さな広場のような場所に出ます。
「皇紀二千六百年四月十五日 中段参道コンクリート工事延長二十三間」と刻まれた石碑
が立っています。


神崎神社ー33

右側の石段は鳥居から登って下った参道です。
左側へは石段が下へ伸びています。
「神崎神社」は後方になります。

なかなか「神崎神社」に辿りつきませんが、ちょっと石段を下りてみます。

神崎神社ー24
********** 神崎神社ー25
神崎神社ー28

石段の下は墓地になっています。
寛文、明和、安永、天明、寛政、文政、慶応等の年号が読め、中には400年近く昔の寛永
年間の墓石もあります。
墓地を抜けると、昭和3年に建立の「神崎神社近道」と刻まれた大きな石柱がありました。


神崎神社ー29
神崎神社ー30

通りに出ると、そこは日本酒製造販売の「寺田本家」です。
延宝年間の創業で、約340年の歴史がある老舗です。
すぐ近くにはもう一軒の老舗、元禄二年創業の「鍋店」があります。
そう言えば、神崎町のキャッチフレーズは「発酵の里こうざき」でした。


神崎神社ー32

下りてきた石段を登って戻ります。
この石段は「女坂」と呼ばれていて、61段あります。


神崎神社ー34
神崎神社ー35

「女坂」上の広場には鳥居を持った「三峰神社」があります。
新しくお堂を覆った鞘堂は、大変失礼ながら何やら犬小屋のようで・・・。


神崎神社ー67

この道祖神は寛政元年(1789)のものです。


神崎神社ー39
********** 神崎神社ー40

大正十一年(1922)に寄進された狛犬。
毛並みの良い巻毛の狛犬です。

そばに神社の説明板がありました。
「白鳳時代に大浦沼二つ塚より現在の地に遷座し、明治6年に郷社、大正10年県社に
昇格しました。 7000坪あまりの境内は「神崎の森」と呼ばれ、全域が県の天然記念物
に指定されています。 また本殿脇には国指定天然記念物の「なんじゃもんじゃの木」が
あります。 ご祭神は天鳥船命、少彦名命、、大己貴命、面足命、惶根命であり、交通・
産業守護の神として深く信仰されています。」


天鳥船命(アメノトリフネノミコト)」の名前は「香取郡誌」の中では出てきませんでした。
この神はイザナギとイザナミとの間に産まれ、鳥の様に空を飛べるとされています。
またこの神の名は、神が乗る船の名前としても登場することから、船の神や運輸・交通の
神とも言われています。
「天鳥船命」をご祭神とする神社は少なく、この「神崎神社」の他は、
「隅田川神社(東京都墨田区)、大鷲神社(横浜市南区)、鳥船神社(埼玉県所沢市)など」
(ウィキペディア 「鳥之石楠船神」の項)数えるほどしか無いようです。

さて、さらに43段の石段を登ると、ようやく社殿が現われます。
(今回は段数ばかり数えていますが、「利根水郷ライン」の鳥居からは101段登って42段
下り、43段登って社殿前に着きます。)

神崎神社ー41
********** 神崎神社ー42

最後の石段の上にも狛犬がいます。
元禄八年(1695)の狛犬ですが、無残に顔が削られています。
明治初期の廃仏毀釈はお寺や仏像に向けられたものですから、神社にある狛犬の顔が
削られるということは考えられません。
一体何があったのでしょうか?


神崎神社ー43
神崎神社ー44

「香取郡誌」中の「神崎神社」の項には、
「文應元年正元改元三月神崎師時左衛門尉○社記に北條師時に作るは誤る文書を寄せ神崎神社内
惣領宮和田小松上畠多賀青山等六所四十餘町の神領及び神事並に神輿修理廿一年の
造謍等先例に因り・・・」

とあり、社殿は、造営された承平二年以降、何度かの改築・修繕が行われてきました。

「天正十九年徳川氏社領二十石を寄附す以上文書悉く存す當時神崎大明神と稱す寛文十一年
正殿を改造し神崎本宿外三十六區二千餘戸の領土神とし五月六日を例祭とす明治の初め
神崎神社と改號し六年八月郷社に列す」

天正十九年は西暦1591年、寛文十一年は1671年になります。

社殿は明治四十年(1907)に火災に遭ったため、新たに神殿の造営が行われて、大正五年
(1916)に至ってようやく本殿・中殿・拝殿が整ったと書かれています。


神崎神社ー45 またも狛犬(平成2年)
********** 神崎神社ー46
神崎神社ー48 文政五年(1822)の灯籠。


神崎神社ー49

社殿に向かって右手奥にあるこのお堂には、「安産子育聖観音」と書かれています。


神崎神社ー50

国の天然記念物の「なんじゃもんじゃの木」です。
クスの木で、親木の周りを数本のひこばえが取り巻き、主幹は周囲約13メートル、樹高は
約19メートルの大木です。

「神崎神社社側に在り一大巨樹にして高さ八丈圍二丈に餘り蒼々天を摩し遠望尚ほ之を認め
得べかりしが明治四十年中本社の火災に罹りし時樹も亦延焼するところとなり遂に舊狀を留
めざりしも根株の邊數本の萌蘖を生ぜり利根川圖誌に曰く本草綱目載するところ山桂樹の類
なりとし平田篤胤は以て藪肉桂とす傳へ曰ふ里人其名を知るものなく問ふにナンジャモンジャ
の語を以てす是より遂に稱となるナンジャモンジャは方言にして如何なるものゝ意なり又水戸
侯徳川光圀此名を附するの事を傳ふ」

「香取郡誌」中の「名勝誌」に、この「ナンジャモンジャの木」がこのように紹介されています。


神崎神社ー51
********** 神崎神社ー52
神崎神社ー56

「ナンジャモンジャの木」は意外と各地に点在していますが、木の種類ではなく、見慣れない
巨木・古木に対して付けられた名前のようです。

「神崎町史 近現代編」に、大正九年(1920)、この木についての「東京植物病院」からの
問合せに当時の神崎町町長・酒井子之助が答えた文書が載っています。
『千葉県香取郡神崎神社ノ社頭、神木「ナンヂャモンヂャ」ト称スル年古リタル老樹ガアル、
初メ其ノ何ノ木タルヲ知ラナカッタノデ、曖昧模稜ノ意ヲ以テ斯ク呼ンダトイッテ居ル、マタ
伝フ、水戸黄門光圀ノ命名ト』
『先哲平田篤胤先生ハ「藪肉桂」トイヒ鹿島日記著者高田輿清氏ハ「年経タル桂ノ樹」ト断
ジテ 神代より茂りて立てる湯津桂 栄え行くらん限り知らずも ト詠ンデ居ル、マタ利根川
図志ニハ「山桂」ト記シ、岩崎常正氏ハ「樟ノ異名」トイヒ近頃理学博士伊藤篤太郎先生ハ
研究ノ結果「樟樹ノ一種」ナルコトヲ証明シテ居ル、去ル明治四十年回祿ノ災ニ罹リ、老木
ハ廃幹ヲ残シ基根部ヨリ簇生セル数株ノ蘖ハ現ニ盛ニ成長シツゝアル、大正二年千葉県
ヨリ名木トシテ保存費金壱百円下付セラル、尚今回発布セラレタル天然記念物保存ニ指定
セラルゝコトニ内定シアリ』 

けっこう木の種類の特定には苦労したようですね。
結局、「ナンジャモンジャ」のままが一番良いようです。


神崎神社ー53

ナンジャモンジャの木のそばにある「地主稲荷」。
明治二五年(1892)の「神社明細帳」には、この神社について次のように書かれています。
「稲荷神社 祭神 受持命  由緒 地主ノ神ト称ス、神崎神社御遷坐以前稲荷神社ノ社地
ナルヲ以テシカ云フナリ」



神崎神社ー59
神崎神社ー60

本殿の裏を登る細道があり、いくつかの祠が並んでいます。


「神崎神社」へは神宿交差点から登るもう一つ登の参道があります。

神崎神社ー4

西側から坂を登る参道の途中に「八坂神社」があります。

説明板には、
「正徳二年(一七一二)創建 古くは「天王様」と呼ばれていた 明治元年に八坂神社に改称
祭神 建速須佐之男命と言われているが ここのお祭りは昔から女神の神輿といわれて出雲
の大蛇退治の神話中で後に命の奥方になった櫛稲田姫をお祭りしているとも言われている」

と書かれています。
(※ 建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト) 櫛稲田姫(クシナダヒメ))
300年以上の歴史がある神社です。


神崎神社ー5
********** 神崎神社ー6
神崎神社ー7

流造りの本殿には、5本の鰹木と垂直切りの千木が載り、鬼面の鬼瓦が見えました。

なお、神社下の西側にも「八坂神社」があります。

神崎神社ー26


神崎神社ー8
神崎神社ー9

「八坂神社」の上には「天然記念物の大クス」と書かれた標柱が立っていますが、同じくらいの
大きさの木が何本もあります。


神崎神社ー64

「千葉県神社名鑑」には「神崎神社」は次のように紹介されています。
「祭神・天鳥船命(あまのとりふねのみこと)少彦名命(すくなひこのみこと)面足命(おもだる
のみこと)惶根命(かしこねのみこと)大己貴命(おおなむちのみこと) 本殿・銅板葺流造六坪
幣殿・銅板葺一二坪 拝殿・同一六坪 社務所・亜鉛板葺三〇坪 境内七、〇六七坪 氏子
二、〇〇〇戸」
『由緒沿革 白鳳二年、常陸国と下総国との境である大浦沼二っ塚より現在の地に遷座した。
「三代実録」所載の子松神社で、元亀・天正の頃まで、神領七〇〇町歩を有した。 徳川時代
は代々御朱印二〇石を寄せられた。六所鎮守、神崎大明神、神崎大社等と称されていたが、
明治元年以降、神崎神社と改称されている。 明治六年郷社に列し、大正一〇年県社に昇格
した。』



神崎神社ー66
神崎神社ー47

神崎の深い森の中で、1350年の時の流れを過ごした「神崎神社」です。


神崎神社ー68


                  ※ 「神崎神社」 香取郡神崎町神崎本宿1994



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

神崎町の寺社 | 08:03:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
寺伝では1200年、少なくとも800年の古刹~神崎の「神宮寺」
今回は神崎町の古刹、「妙法山神宮寺」を訪ねます。

神宮寺ー1

参道の入口には、宝暦四年(1754)に建立された石柱が立っています。
正面に「南無遍照金剛第四番神宮寺」、側面に「阿彌陀如来第四十七番」と刻まれています。
(第四番、第四十七番ともに由緒は分かりません)


神宮寺ー3

正面に「仁王門」が見えています。
江戸時代中頃に建立されたものです。


神宮寺ー56
神宮寺ー4
********** 神宮寺ー58
神宮寺ー55
神宮寺ー5
********** 神宮寺ー57

阿形・吽形の二体は、大分傷んでいますが、迫力のある表情で、堂々たる姿です。


神宮寺ー6

仁王門の説明板には次のように書かれています。

「仁王門は間口十尺たらずの四脚門で、木割りが細く屋根は切妻造りになっています。
木柱は一般的な円柱ではなくごひらの柱で、柱天に縦長断面の冠木をおいています。
建立は江戸時代中期(17世紀後半)とみられていますが、本柱や冠木の形式が通常の
四脚門とは違っており、また藁座を蹴放から造り出しとする珍しい造りとなっています。」


(ごひら=五平・断面が長方形の木材  冠木=かぶき・左右の柱の上部を貫く横木  藁座=わらざ・柱の根元に
巻き付ける金属や木  蹴放=けはなし・門の下に置かれる水平な木材で、敷居のようなもの)
 


神宮寺ー10

山門をくぐると、左手に「並木の大梛(なぎ)」があります。
説明板には次のようにあります。

「梛の木は遠く中国海南島や台湾等に自生するが、南紀、四国、九州の温暖な地方に定着
した常緑の高木である。古代から神社の境内や庭園等に植樹する習わしがあり、神宮寺の
梛も同様と考えられるが、いつ頃植えられたものなのか定かではない。その昔、並木村の
住人達が相談し、代表者を五穀豊穣と村の興隆を祈願するため、お伊勢参りに向かわせた。
帰り際に一本の小さな梛の木の苗木を頂き、これを神社かお寺の境内に植えて大事に育て
よと言われ、現在のこの地に植えられた。梛の葉は多数の平行脈を有し「チカランバ」や「セン
ニンリキ」といった異名が示すように、強靭で切れにくいので大切な人とのご縁を結ぶとされる。
また二つの並んだ赤い実をつけることから「夫婦円満、相思相愛の木」といわれ、「固い契り」
の象徴とされ、大変縁起のよい神木である。」


梛の木の手前にある石碑は、明治四十年(1907)建立の「普門品供養塔」です。


神宮寺ー44

境内の一角に小さな池が見えています。
ちょっと覗いただけですが、魚影は見えませんでした。


神宮寺ー45

近年建て直された本堂です。

「神崎町史 史料編 近・現代編」(昭和60年)に収録されている、「明治十五年下総国香取郡
寺院明細帳」には、
「千葉県官下々総國香取郡神崎町並木村字田向根 惣持寺末新義真言宗智山派 神宮寺
本尊 阿弥陀如来 十一面観世音菩薩  由緒不詳  本殿間数 間口四間奥行四j間
客殿間数 間口五間奥行三間 仁王門 間口二間半奥行弐間 境内坪数 千百七拾壱坪」

とあり、檀徒は139人であることが記されています。
以前は四間四方の本堂と、五間・三間の客殿というで堂々たる構えであったようですが、老朽
化か損傷か、どのような経緯で建て直されたのかは分かりません。

また、「千葉縣香取郡誌」(大正十年)には、次のような記述が見られます。
「妙法山神宮寺 同町大字並木郷に在り域内千百七十一坪眞言宗にして阿彌陀如来佛及
十一面觀音を本尊とす側に觀音堂あり寺傳に曰ふ僧空海彌陀觀音勢至三尊の像を携えて
東國に至り遂に此地に來り勝地を卜す」
「後慈覺大師之を草創して庵室を營むと往時は神崎神社の別當寺にして同社藏承久三年
六月廿四日下文に下總國神崎御領神官沙汰人等所可早宛行中臣廣勝神宮寺領田云々の
文あり其舊寺なる以て知る可し」
「徳川氏の時觀音堂領十四石余を給し往時又神崎神領の内より五石を寄せられたりしが社
等の區別ありしより漸舊時の觀を失せり」


寺伝は、空海(弘法大師)が開山したかのようにしているので、延暦・大同・弘仁・天長年代
あたりの平安初期から約1200年の歴史を有していることになります。
次の慈覚大師(円仁)が庵を営んだのは空海の数十年後でしかありません。
文書が残っているとする承久三年は西暦1221年で、これでも約800年前という、まさに
「其舊寺なる以て知る可し」ですね。  
最後の文は、徳川氏の手厚い保護が、明治になって「神仏分離令」により外され、衰退した
ことを言っています。

「神崎町史」に徳川家よりの朱印状が掲載されています。
天正十九年(1591)の家康から始まり、元和三年(1617)の秀忠、寛永十三年(1636)
の家光、寛文五年(1665)の家綱、貞享二年(1685)の綱吉、享保三年(1718)の吉宗、
延享四年(1747)の家重、宝暦十二年(1762)の家治、天明八年(1788)の家斉、天保
十年(1839)の家慶、安政二年(1855)の家定、万延元年(1860)の家茂などです。


神宮寺ー48

本堂のガラス越しに厨子に納まった「阿弥陀如来像」が見えています。
金色に輝いた柔和なお顔です。


神宮寺ー52
********** 神宮寺ー49

あちらこちらに千葉氏の九曜紋が見えます。
「千葉氏」と「神宮寺」に関する資料は今のところ目にしていませんが、この寺の裏山には
その昔、千葉一族の神崎氏の城(神崎城)がありましたので、「神崎氏」と「神宮寺」とは
深い関係があったことが想像できます。


神宮寺ー46
神宮寺ー47

境内の外れにとても珍しい猿の石像がありました。
紀年銘も説明板もありませんが、それほど古いものではなさそうです。
三猿といえば「見ザル・聞カザル・言ワザル」ですが、この三匹の猿のポーズは違います。
大きな猿が小さな二匹の猿を抱きかかえ、二匹の猿はそれぞれの掌を合わせて合掌する
形になっています。


神宮寺ー50

梅の古木は早くも蕾を開き始めています。


神宮寺ー53
神宮寺ー54

裏山の中腹に、鮮やかな朱色の「観音堂」の屋根が見えています。


神宮寺ー59
神宮寺ー12
********** 神宮寺ー13

石段の下にある常夜燈には、「文化九壬申年四月建立」と刻まれています。
文化九年は西暦1812年になります。
手水盤には、「元文五庚申」の文字が読めます。
元文五年は、西暦1740年になります。


神宮寺ー15

石段の中ほどに小さなお堂や石碑が並んでいます。
左のお堂は地蔵堂、右は子安堂です。
真ん中の宝塔は宝暦十二年(1762)のものです。


神宮寺ー16  地蔵堂の地蔵菩薩
神宮寺ー18  子安堂の慈母観音

子安観音には「文化十一甲戌」と記されています。
文化十一年は西暦1814年になります。

神宮寺ー17 少し離れて立つ庚申塔。
「青面金剛」と刻まれていますが、年代は不詳です。


神宮寺ー43

58段の石段を登ると、神崎町の指定文化財となっている「観音堂」があります。
この「観音堂」は元禄年間の建立と伝えられています。


神宮寺-20
神宮寺ー25

説明板には次のように書かれています。

「神宮寺は、神崎神社の別当寺として創建されたもので近世には、四国八十八ヶ所を移した
第九番札所として近郷庶民の信仰を集めてきた。観音堂は、初め石段の下にあったが、のち
現在地へ移したと伝えられている。柱総間二十六尺弱の方三間の堂で屋根は寄棟造とし、
一間向拝を設ける。元来は茅葺であるが、近年になって鉄板を被せている。三間堂としては、
規模が大きく建ちが高い。軸部と軒は和様で組み物を本格的な禅宗様とするが詰物の間に
蟇股を入れる手法はあまり例を見ない。向拝や外軸の複雑な架構は江戸時代中期以降、特に
関東地方の仏堂に多く用いられた形式であり、また外陣を吹放しとするのは大衆参詣の便宜
をはかったものであり時代の特徴をよく示している。寺蔵文書によると、元禄十年(一六九七)
頃の建立といい、扁額には宝永五年(一七〇八)の刻名、その下の欄間彫刻の裏面には元文
二年(一七三七)の墨書がある。」


約320年前に建立されたお堂は、今もしっかりとした木組みを見せています。


神宮寺ー21

失礼して中を覗かせていただきましたが、厨子の周りは暗くてほとんど見えません。

神宮寺ー22 
 観音像と四天王の「多聞天」でしょうか?

神宮寺ー23
 四天王の「増目天」?

厨子の中にある「木造十一面観音立像」は、11世紀後半から12世紀のころに造られたと
されている像高155センチの等身大の立像で、千葉県の有形文化財に指定されています。

千葉県公式観光物産ガイドの「まるごとeちば」には、
「カツラ材の一木造りで彩色が施してあったが、現在は素地を表しています。左手は華瓶を
持つために肘を曲げ、右手は下げて数珠をとっています。十一面観音としてはごく一般的な
スタイルであるが、天冠台には文様はなく、頭髪も髪の筋などは刻まない単純な平彫りです。」

と、「十一面観音立像」が紹介されています。


神宮寺ー26 
神宮寺ー27

お堂には何枚もの奉納額が掲げられていますが、いずれも観音様を拝む人々の絵です。
構図は中里の「楽満寺」本堂にある、「女人観音拝み絵馬」にそっくりです。

楽満寺ー34 中里・楽満寺の奉納額
楽満寺ー40


神宮寺ー33

観音堂の裏を登る山道があります。
山の頂上には古墳があると聞きましたので、がんばって登ってみます。
途中で折り返すように曲った急坂を400メートルほど登った先に「中ノ城古墳」があります。
神崎城の中の城があった所です。




急坂を登り切って、平坦になった所で何かの気配がして顔を上げると、タヌキがいました。





逃げもせず、こちらを見ながら一歩、二歩と近づいてきます。
7~8メートル位の位置で立ち止まり、またこちらをじっと見ています。



“今年はエサはたくさんあるかい?”“ここは君の縄張りかな?”“ちょっと通してくれる?”
当然タヌキは無言でしたが、何か会話ができたような気がしました。

神宮寺ー31

「中ノ城古墳」はこの地方最大の前方後円墳で、古墳時代後期のものとされています。
昔、この辺りが「香取の海」と呼ばれる内海であった頃にも、この場所は水面上にあった
のでしょう。
小さな丘のような古墳の上には、木が生い茂っているほかは何もありません。


神宮寺ー32

遠く、神崎の家並みが見えています。


神宮寺ー35

観音堂に戻ってお堂を一回りすると、7基の石仏群がありました。
左から寛文八年(1668)の観音菩薩、元禄四年(1691)の如意輪観音(十九夜月待塔)、
宝永六年(1709)の廿日夜月待塔、明和八年(1771)の如意輪観音(十九夜月待塔)、
天明元年(1781)の如意輪観音(十九夜月待塔)、右の2基は年代不詳です。


神宮寺ー37
神宮寺ー38

天明元年と明和八年の十九夜月待塔。
元禄四年のものと同様に、十九夜の本尊の如意輪観音が彫られています。


神宮寺ー34
神宮寺ー42
神宮寺ー60

千葉県指定有形文化財 の「神宮寺文書」に関する説明板には次のように書かれています。

「神宮寺に所蔵されている「大般若波羅密多経」の写経は、全六〇〇巻のうち約六〇巻を
欠くだけで、大部分が現存している。この写経は、貞治二年(一三六三)に、下総国塩古郷
(現在の佐倉市、八街町)とその近在の僧によって筆写され、塩古六所宮に奉納されたもの
である。写経の大半の巻末に奥書が記入されており、この奥書から当時の寺院や僧侶の
文化的活動の実態、信仰圏等が知られる。中世史料の乏しい本県においては稀に見る好
史料であり、神宮寺所蔵の文書のうち、最も価値が高いものである。」


650年も前に筆写された「大般若波羅密多経」が、どのような経緯でこの寺に収蔵されること
になったのでしょうか?
なぜ観音堂はわざわざ現在の高い場所に移されたのでしょうか?

追いかけたい謎が残る「神宮寺」です。


神宮寺ー61


                   ※ 「妙法山神宮寺」 神崎町並木642



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神崎町の寺社 | 08:41:56 | トラックバック(0) | コメント(2)
ちょっとしたスポット~米野の麻賀多神社
ちょっとしたスポット~米野の麻賀多神社

円應寺ー30

八生村誌には「村社 麻賀多神社」として、次のように記述されています。

「公津新田字宮下ニアリ、稚産霊命ヲ祭ル。由緒詳カナラズ。社殿間口三間、奥行三間、
境内二百五十坪アリ、神官ハ稷山久興ニシテ、氏子十二戸ヲ有ス。又境内ニ二社アリ、
一ヲ疱瘡神社ト稱ス。直日命ヲ祭ル。一ヲ三峰神社ト稱ス。伊邪那岐命ヲル。由緒共ニ
詳カナラズ。」


市内の台方と船形にある「麻賀多神社」は、「延喜式」に記載されている由緒ある神社で、
史書によれば、応神天皇の時代に印波国造の伊都許利命が創始した神社です。
麻賀多神社のホームページによれば、「麻賀多」という珍しい名前の由来は、古来より
この地方が麻の産地であったこと、そしてこの神社を創建した国造・伊都許利命が多氏
一族の出であることから、「麻の国で多氏が賀す神の社」という意味の「麻賀多神社」と
なったとされています。

珍しい名前の麻賀多神社 ☜ ここをクリック
船形の麻賀多神社(奥宮) ☜ ここをクリック


この神社はちょっと分かりにくい場所にあります。

円應寺ー52

赤坂の郵便局(本局)から西口大通りを突っ切り、中央公民館・図書館脇を抜けて中台中学
の前を通る「郵便局通り」に面していますが、通りからは「米野集会所」の建物に遮られて、
植木の間からチラリと見えるだけです。


円應寺ー53

目線より高い位置にありますので、気をつけて見ないと見落とします。


円應寺ー29

米野方面からは急坂を登った場所になり、左手に鳥居が見えます。

成田市の「宗教法人一覧」や、千葉県神社庁の「神社名鑑」、その他の資料にも所在地が
“米野121”となっていますが、地図で調べると神社の位置は中台になります。
「麻賀多神社」の辺りの郵便局通りの西側は、道にへばりつくように僅かな幅の字・中台が
あり、崖のような傾斜地から先は米野の田んぼが広がっています。
資料にある“米野121”は、下の写真の辺りだと思われます。

円應寺ー28


円應寺ー31

「千葉縣印旛郡誌」には、「村社 麻賀多神社」として、次のように記されています。

「公津新田村字宮下にありて稚産靈命を祭る由緒不詳或伝寶永甲申正月の觀請にかかると社殿
間口三間奥行三間境内二百五十坪官有地第一種あり神官は稷山久興にして氏子十二戸を
有し管轄廰まで七里六町四十九間とす按るに此地は昔公津村の一部なりしが稷山の麻賀多神社を奉遷
せしものか
境内二社あり即
一、疱瘡神社 直日命を祭る由緒不詳建物三尺四方あり
二、三峰神社 伊邪那岐命を祭る明治九年六月十五日觀請建物二尺四方あり神社明細帳村誌


伝承にある「寶永甲申正月の觀請」とは、宝永元年(1704)のことですから、この神社は
310年を超える歴史があることになります。
また、「公津村誌」に由緒不詳とあった「三峰神社」は、明治九年(1876)に勧請されたこと
が分かります。
なお、現在の社殿の大きさも書かれているものとは違いますし、「疱瘡神社」、「三峰神社」
ともに今では境内には見当たりません。

※ 稷山の麻賀多神社とは、成田市内には二社ある内の台方の総社を指します(稷山は
昔の”字”です)。


円應寺ー50

境内の奥に九基の祠や石柱が並んでいます。
左から、大正七年(1918)の「浅間神社」、慶応元年(1865)の「馬頭観世音」、明和七年
(1770)の「二十三夜塔」、享保十三年(1728)の「青面金剛」、大正八年(1919)の祠、
安永八年(1779)の祠、文化六年(1809)の祠、年代不詳の祠、年代不詳の「地神碑」。


円應寺ー48

この五角柱は「地神碑」と呼ばれるもので、神々に五穀豊穣を祈願するためのものです。
それぞれの面に、「大己貴命(オオムナチノミコト)、少彦名命(スクナヒコノミコト)、植安媛命
(ハニヤスヒメノミコト)、倉稲神命(ウカノミタマノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)と、
何れも農業に深い関わりを持つ神々が刻まれています。

善勝院ー28  八代の稲荷神社の地神碑


円應寺ー49

この「青面金剛」像は、290年近く経っているとは思えないほど保存状態が良いものです。
「講中拾三人 印旛郡公津新田村」と記されています。
六臂の像で上右手には三叉、下右手には仏具の棒、上左手には法輪、下左手にショケラ
(三尸虫=サンシのムシを象徴する半裸の女人像)を持ち、中央の二臂は合掌して、足許
の左右に鶏、邪鬼を踏みつけ、台座には三猿が配されている、正統な(?)像形です。


円應寺ー55

「二十三夜講中十二人」とあるこの月待塔には、「勢至菩薩」が刻まれています。


円應寺ー34

鰹木は3本、千木は垂直切り

神社名鑑には、
「祭神 稚産霊神(わかむすびのかみ)、本殿・流造〇.二五坪、境内坪数二六〇坪、氏子
一五戸、 宮司 欠員」
と記載されています。
稚産霊神の「ワク」または「ワカ」は若々しいことを表し、「ムスビ」は生成の意味を持つので、
穀物の育成を司る神ということになります。


円應寺ー35
円應寺ー33
円應寺ー51

古い地図で米野の「麻賀多神社」を探してみました。
1967(昭和42年)の手書きの地図(「成田市動態図鑑」)には、「麻賀多神社」は現在の
場所より大分西方に書かれていました。
手書きのため位置関係が曖昧ですが、明らかに違う場所です。
そして、1985(昭和60年)のゼンリン地図には、現在の場所に神社名は無いものの神社
マークが書き込まれ、「成田市動態図鑑」にあった場所には神社は見当たりませんでした。
神社マークの周辺は「造成中」と書かれていて、「郵便局通り」は完成していません。
どうやら、米野にあった「麻賀多神社」は、昭和60年より少し前に、米野から隣の中台へ
移転したようです。

隣接地とは言え、境内にある「米野集会所」とともに、「中台」に鎮座する「稚産霊命」の
居心地は、いかがなものなのでしょうか?


円應寺ー56


                 ※ 米野の「麻賀多神社」  成田市中台4-26



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寺社 | 08:01:05 | トラックバック(0) | コメント(5)
「円應寺」~唯一現存する成田山の門徒寺
今回は米野の「円應寺」を訪ねます。

円應寺ー1
円應寺ー2

「円應寺」は真言宗智山派のお寺で、山号は「米野山」。
成田山新勝寺の門末六ヶ寺の一つで、「米野山円能寺」と称していましたが、近世になって
「円應寺」と寺号を改めました。
創建年代等は不明ですが、残る記録から、少なくとも三百数十年の歴史があります。
新勝寺の門末六ヶ寺とは、末寺が延命院のみで、門徒寺として観音院・正福院・南光坊・
神光寺・円應寺となっていますが、現在残っているのはこの「円應寺」のみです。
(観音院・正福院・神光寺が明治初期に、南光坊が明治十七年、延命院が明治二十六年
に廃寺となっています。)

「公津新田字中台ニアリ。成田山新勝寺ノ末寺ニシテ真言宗ニ属シ、正観世音ヲ本尊トス。
由緒詳カナラズ。住職ハ池田照誓ニシテ檀徒六十八人ヲ有ス。」

(「八生村誌」 大正三年)
(※ 昭和29年に公津新田から米野に改称)


円應寺ー3
円應寺ー4
円應寺ー40

境内右手ある「如意輪観音」。
天保四癸巳二月吉日の紀年銘があります。
天保四年は西暦1833年です。

修復の痕があり、首が傾いていませんので、何となく違和感があります。
観音様も首の座りが悪いのか、ちょっと苦笑されているようにも見えますね。


円應寺ー5
円應寺ー6
********** 円應寺ー7

参道から境内に入る場所に「大師堂」があります。
手水盤は明治二十一年(1888)のものです。


円應寺ー8
円應寺ー9
********** 円應寺ー10
円應寺ー11

庫裡の裏に山を下る石段が見えています。
裏参道のようです。
下り切った場所には目印になる石碑や案内板は無く、静かな田園風景が広がっています。


円應寺ー12

裏参道の周りには手つかずの鬱蒼とした森です。


円應寺ー13

本堂脇にある、流造の小さなお堂の名前は分かりません。
内部も荒れていました。



円應寺ー14
********** 円應寺ー16

本堂の中がチラリと見えましたが、きれいに整頓されています。
庫裡の屋根には大きなスズメバチの巣が・・・。


円應寺ー17

『享保八年の「公津新田寺社差出帳」には「一真言宗 一境内弐反歩 除地 是ハ南北
三拾間 東西弐拾間」と記されている。同寺が別当をしている真杉大明神宮を宝永元年
(一七〇四)に再建したとき、成田山の照範が遷宮導師になっているので、同寺と成田山
との関係はかなり古い。宝永年間以降、宥性・寂明・尊専・照呼らが住していた。』

(「成田市史 中世・近世編 P709)

この記述からすれば、「円應寺」の歴史は少なくとも三百数十年以上あるようです。

「千葉縣印旛郡誌」には、「圓應寺」について次のように記しています。
「公津新田村字中台にあり新勝寺の末寺にして眞言宗に屬し正観世音菩薩を本尊とす
由緒不詳堂宇間口五間奥行四間庫裡間口五間奥行二間境内四百二十坪官有地第四種あり
住職は池田照誓にして檀徒六十八人を有し管轄廰まで七里六町四十九間あり境内堂宇
三宇あり即
一、釋迦堂 釋迦如来を本尊とす由緒不詳建物間口二間奥行一間なり
二、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口一間奥行一間なり
三、子安堂 子安観世音菩薩を本尊とす由緒不詳建物間口一間奥行一間なり寺院明細帳

いずれの堂宇も失われてしまい、大師堂のみが形を変えて境内入口に建っています。


円應寺ー23

昨年の十一月には33年に一度のご本尊の御開帳があったようで、回向柱が残っています。
正面には「奉開帳 聖観世音菩薩 為参詣檀徒 現當二世 安樂也」とあり、右側面には
「福聚海無量是故応頂礼」、左側面には「具一切功徳慈眼視衆生」、そして裏面には「維時
平成二十六年十月十八日 山主敬白」と記されています。


円應寺ー46
********** 円應寺ー45
円應寺ー21
********** 円應寺ー20

ちょっと離れた所に小さな墓地がありました。
寛文、延享、享保、寛政、天明、天保、慶応等の年号が読めます。
大きな地蔵像には歴代住職の名前が刻まれ、元文五年(1740)の文字が見えます。


円應寺ー27
円應寺ー24
円應寺ー25

墓地を抜けてしばらく行くと、椎の大木の下に小さなお堂が見えました。
近づいて中を覗くと、「馬頭観音」が安置されています。
成田市文化財保護協会発行の「成田史談第22号」(1977年)に、「米野山円応寺雑考」
という後藤栄一氏の論文があり、その中に次の一説があります。

『なぜならば寺の南方五十米の大椎の根元から、純金の守本尊が発見されたと伝えられ
ている。円応寺縁起からして多分公津ヶ原の大合戦の最中にかくしたのではないだろうか。
古老の話だと、其の時に寺(館)が火災にあったらしいと言う。同寺の縁起によれば「下総
国印旛郡公津新田村米野山円応寺で本尊聖観世音菩薩は、千葉氏十二代貞胤の守本尊
にして天正三年に一旦其の行衛を失いしが、承応三年に至り、字中台の畑地の大椎の樹
下より、武田彦兵衛翁に因りて発掘せられたるを、千葉家の遺族たる宥澄上人(承応三年
成田山貫主となる)の発願に依りて一寺を建立して奉安供養して今日に至る。抑も聖観音
菩薩は、大日如来の大悲の総徳を司り、三十三種の大願を立て弘誓の深きこと、海の如く、
娑婆、世界に遊化して無数の衆生を済度に依し奉る時は、各其の所願に応じ、観音の妙智
力、能く無量の苦患を免れて、無辺の福徳を増し、現当二世如意、円満ならん」とある。』


「現在その場所には、交通安全と深いつながりをもつと言われる馬頭観音菩薩と、二柱が
祀られて区民の信仰を集めている。」
 (P61)

この場所が、「円應寺」のご本尊が掘り出された場所のようです。
そして、「円應寺」の建立は、前述した宝永元年の記録による推測よりも古い、承応三年
(1654)あたりである可能性があることが分かります。
天正三年(1575)から承応三年までの約80年間、「聖観世音菩薩像」は椎の木の根元に
眠っていたわけです。


円應寺ー43
円應寺ー42 
      ご本尊が納められている厨子 


円應寺ー44
円應寺ー47
********** 円應寺ー37
円應寺ー38

「米野」の地は、東・西・南の三方を成田ニュータウンに囲まれた場所ですが、開発とは無縁
のような、森と畑が広がるのどかな環境です。
昔から十数軒の家しかない住民の少ない地区であったことと、(部外者には分からない事情
があるのでしょうが)昭和42年に「成田ニュータウン計画に反対する請願書」の提出を行った
ことに見える、地区の住民の方たちの”開発”に対する姿勢が、この景色の背景にあるような
気がします。
個人的には、「円應寺」を中心とした自然が、ニュータウンに囲まれたの一角の「米野」の場所
に残っていて欲しいと思いますが・・・。


円應寺ー36


                        ※ 「米野山円應寺」 成田市米野202




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八生村の寺社 | 11:00:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
東和田の「長光寺」と無数の錐を刺す道祖神
小雨がパラついたり、薄日が差したりの曇天の中、東和田の「長光寺」を訪ねました。

長光寺ー23

「長光寺」は天台宗のお寺で、ご本尊は阿彌陀如来です。


長光寺ー2

「東和田村字要害にてり天台宗山門派にして圓融寺末なり阿陀彌如来を本尊とす堂宇
間口八間奥行七間境内七百六十坪官有地第四種あり由緒不詳住職は根元堯海にして信徒
二百六十一人管轄廰まで八里二十二町四十五間一尺なり境内佛堂二宇あり即
一、地蔵堂 地蔵菩薩を本尊とす由緒不詳建物間口二間半奥行二間
二、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行四尺
三、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行四尺寺院明細帳

(アンダーライン部分(「にてり」「阿陀彌如来」「大師堂のダブり」)は誤記と思われます。)

「千葉縣印旛郡誌」には「長光寺」についてこのように記述しています。
この「郡誌」には「長光寺」を「長老寺」と記していますが、「長光寺」の誤記と思われます。
同じ字(要害)には他に寺は無く、今は無くなった「観音堂」についての記述が、
「東和田村字要害にあり長光寺境外佛堂にして薬師如来を本尊とす」
とあるからです。


長光寺ー63
長光寺ー57
********** 長光寺ー58
長光寺ー59

本堂は全ての壁面が塞がれています。
近づいて良く見ると、もともとの古い本堂の周囲にトタンを打ちつけただけのようです。
所々に古い木材が見えています。


長光寺ー8

本堂の左手に数基の石塔が並んでいます。
右端の石塔には「佛乘心院權僧正堯海大和尚位」と刻まれています。
裏面に昭和30年に亡くなったと記されていますが、この和尚の名は大正二年(1913)に
編さんされた「千葉縣印旛郡誌」に名前がありますので、40年以上にわたってこの寺の
住職をされていたようです。
真ん中は「中心院恵暁墓」と刻まれています。
側面にびっしりと文字が書かれていますが、風化で良く読めません。
どうやら文政元年(1818)に亡くなったお坊さんのようです。


長光寺ー9

左端にあるこの石碑の文字が、読めそうで読めません。
「尊暢塔」と読めるような気がするのですが、いま一つ意味が・・・。
裏には「安政三丙辰七月八日 回向料金五両 村役人預」とあります。


長光寺ー10
長光寺ー12

内部が二つに仕切られた、真新しい大師堂があります。
前述の「印旛郡誌」に大師堂の記述がダブっていると書きましたが、もしかすると昔は二つ
あったものを近年になって一つにまとめたのかも知れません。


長光寺ー47
長光寺ー11

右の大師像の台座には「文久三年癸亥二月」「奉納新四國八十八ヶ所」と刻まれています。
大師像は頭が落とされ、側面の文字も大きく削られています。
間に合わせのセメントの頭が載っていますが、ここでも明治時代初期の廃仏毀釈の嵐が
吹き荒れたのかも知れません。
わざわざ削られた個所にはどんな文字が刻まれていたのでしょうか?

文久三年は西暦1863年で、長州による外国艦隊への砲撃や薩英戦争、天誅組の変や
生野の変など、世情は攘夷に沸いて騒然としていたころです。


*********** 長光寺ー60
長光寺ー61
*********** 長光寺ー62
長光寺ー15

境内の一角にある墓地は古い墓石ばかりが並んでいます。
明暦、寛文、元禄、正徳、元文、寛保、寛延、宝暦、天明、文化などの年号が読めます。
年号が読める中で一番古い「明暦年間」は、1655~57年ですから、この墓地がずっと
ここにあったとすれば、「長光寺」の歴史は少なくとも360年以上あることになります。


長光寺ー5
長光寺ー3

数年前までは鬱蒼とした森だった境内の裏手は、最近になってすっかり伐採されました。
山の上にある「長光寺」は遮るものが無くなって、風が強く吹き抜けています。


長光寺ー4
長光寺ー7
長光寺ー20

成田駅から成田山までが一望できます。


長光寺ー22
長光寺ー69

お寺の足許にまで宅地化の波が押し寄せています。
本堂はトタンで塞がれ、木は切り倒され、「長光寺」は風前の灯のように見えます。
裏の木の伐採が、境内の整備のために行われているのであって、整理のためではないことを
祈りたいと思います。


長光寺ー28

「長光寺」の山を下りた信号の無い交差点に「東和田の道祖神」があります。


長光寺ー35
長光寺ー36

多くの場合、道祖神は道端にポツンと置かれた小さな祠なのですが、この「道祖神」は鳥居
を持った立派なもので、祠の周りには道祖神と刻んだ小さな祠がたくさん奉納されています。


長光寺ー39
長光寺ー44

柱に数えきれないほどの錐が刺さっています。
柄の木が腐った古いものから、比較的新しいものまで・・・、ちょっと異様な光景です。
耳の悪い人がここに錐を奉納すると、耳の通りが良くなるという言い伝えがあるそうです。


長光寺ー26
長光寺ー32

観音像が線描されています。
横の上部が欠けた石仏は如意輪観音でしょうか?


長光寺ー33

崩れかけた手水盤は元治元年(1864)のものです。
前年の文久三年から世情不安は続き、池田屋事件や禁門の変などが起こった年です。


長光寺ー42 明治十六年(1883)
長光寺ー43 明治十八年(1885)


長光寺ー27

鳥居の後ろに大きな杉の切り株があります。
昔はこの杉の木に錐を刺したそうです。

道路が整備され住宅が迫って、ここにも開発の波が押し寄せています。
「道祖神」は子孫繁栄や交通安全の神様として信仰されていますが、古くは村とあの世を
別ける結界でもありました。
時代と共に信仰の形が変わり、あるいは薄れて行くのは仕方ないことかも知れませんが、
せめて先人の生きてきた時代にほんのちょっと思いをはせるきっかけになるような景色は
残したいものですね、この道祖神のように・・・。


長光寺ー71

                       ※ 「長光寺」 成田市東和田303



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遠山村の寺社 | 08:14:34 | トラックバック(0) | コメント(2)
朱色の鳥居が続く~東町の「お仙稲荷」
明けましておめでとうございます。
おかげさまでこのブログは3年目に入ります。
これからも成田を中心とした近郊の風物を、自己流のレポートで綴ってまいりますので、
よろしくお願い申し上げます。


今年の1回目は東町の「お仙稲荷」から始めます。

お仙稲荷ー50
お仙稲荷ー53

ご祭神は「倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)」で、鞘堂の中に石造りの社殿があります。
社殿は昭和40年に再建されたものです。


お仙稲荷ー2

社殿への長い登り坂の入口に、「子安観世音」があります。
台座に「砂田」の文字が見えますが、砂田はこの辺りの昔の字(あざ)です。
右にある小さな祠には昭和十六年と刻まれています。


お仙稲荷ー4
お仙稲荷ー5

「子安観世音」の隣にある流造りのお堂は、真ん中で仕切られていて、左が「子安観世音」、
右が「将軍地蔵尊」となっています。
「将軍地蔵」については、以前に宝田の「医王寺」の項でちょっと触れたことがありますが、
「勝軍地蔵」と書くこともあり、甲冑を着けて、右手には錫杖を持ち、左手には如意宝珠を
載せ、軍馬にまたがっています。
戦勝を祈願する武家の間で鎌倉時代以降に信仰された地蔵です。


お仙稲荷ー9
お仙稲荷ー10

「子安観世音」に向かいあうように「大師堂」があります。
たくさんのお札が貼られていて、台座の文字を読むことができません。
傍らにある手水盤の文字は、「八月吉日」とのみ読めました。


お仙稲荷ー7

こちらをじっと見つめる猫がいます。
額の模様が何か神様のお使いのような・・・。


お仙稲荷ー3
お仙稲荷ー11

階段の下から上を見上げると、ずっと上まで鳥居が続いています。
一番前の鳥居には「正一位お仙稲荷大明神」の額束が掲げられています。


お仙稲荷ー12
お仙稲荷ー13

九十九折りの階段をしばらく登ってふと見上げると、大きな給水塔が建っていました。
「高架給水塔」と呼ばれ、平成21年に建てられたものです。
以前は昭和34年に完成した、一回り小さなコンクリートの給水塔が建っていたのですが、
現在の給水塔が完成した後、取り壊されました。
古い給水塔は、たくさんの窓が付いた独特の建築物で、長く成田に住んでおられる方なら、
国道51号線から見える懐かしい風景を思い出されると思います。


お仙稲荷ー14
*********** お仙稲荷ー15
お仙稲荷ー48
*********** お仙稲荷ー16

山の頂上にある社殿まで、鳥居は続いています。
京都の伏見稲荷大社の千本鳥居ほどではありませんが、なかなか風情があります。


お仙稲荷ー49
お仙稲荷ー18

社殿に上る最後の石段前まで鳥居は続きます。
手水盤は昭和34年の寄進で、大きな宝珠が描かれています。


お仙稲荷ー20
お仙稲荷ー22
*********** お仙稲荷ー30

社殿横に立てられた説明板には次のように書かれています。

「お仙稲荷は、成田山の出世稲荷が男で、お仙、おろく、お竹という三姉妹があり、この
うちお仙がこのお仙稲荷であるという話が伝えられています。昔は、赤い屋根の立派な
社屋があったといわれていますが、そのうち朽ち果て、そこで、地元東町の篤信者である
三名のご婦人が発起人となり、昭和三十四年に再建されました。
里人の話によれば、このお仙稲荷は霊験あらたかであり、地元民はもとより、とくに明治
以降には花柳界や舞台役者たちの信仰が厚く、浅草、新橋、川口の方からの参詣者も
あり、祭礼日の三月十日には多くの信者が集まります。」



西参道ー15  成田山の出世稲荷

成田山の「出世稲荷」では、「お仙稲荷」に関する資料は見当たりませんでした。
「お仙稲荷」の名前の由来については、何か物語が隠れていそうなのですが、今のところ
境内の説明板以外に見つけることができていません。


お仙稲荷ー54
*********** お仙稲荷ー55
お仙稲荷ー26
お仙稲荷ー25

社殿の裏にも、たたくさんのキツネの狛犬と鳥居を備えた祠があります。
狛犬の台座には、日本橋や川口町(現川口市)などの文字が見え、この神社が遠くからも広く
信仰を集めていたことが分かります。


お仙稲荷ー58
お仙稲荷ー61

普段は訪れる人のいない境内ですが、毎年4月に行われる成田の「おどり花見」では、この
境内で「弥勒踊り」が奉納されます。
「おどり花見」とは、元禄年間から三百数十年間にわたって続いている行事で、上町・仲町・
田町・本町・幸町・花崎町・東町の旧成田町の7ヶ町の女人講(にょにんこう)によって、幹事
持ち回りで行われ、千葉県の無形民俗文化財に指定されています。
三ノ宮埴生神社から始まり各町内の計16か所の寺社を回って、「弥勒踊り」を奉納します。


お仙稲荷ー38
お仙稲荷ー59

「お仙稲荷」の境内を出て、高架給水塔のある広場に出ると、「松原稲荷大明神」があります。
「松原稲荷」に関する資料はありませんが、各地にある松原稲荷のご祭神は「稲倉魂命」です
ので、こちらも同じだと思われます。


お仙稲荷ー60
お仙稲荷ー37

鳥居は根元から折れています。
強風に倒されたのでしょうか?
倒れてからだいぶ時間が経っているようです。


お仙稲荷ー41
お仙稲荷ー44

給水塔の広場からは、成田山の伽藍が良く見えます。


お仙稲荷ー47
お仙稲荷ー42

「お仙稲荷」と「高架給水塔」。
遠くからも良く見える「高架給水塔」は知られていても、その隣にある「お仙稲荷」の存在は、
あまり知られていないようです。
狭い路地を縫うように登って行きますので、とても分かりにくい場所ですが、訪れる価値の
ある風景だと思います。


お仙稲荷ー46

                       ※ 「お仙稲荷大明神」  成田市東町




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成田町の寺社 | 08:01:42 | トラックバック(0) | コメント(6)