今回は「気になる石仏・石神・石造物シリーズ」から、造立例が非常に少ない「愛染明王」の
石像を紹介します。
【愛染明王は、もともとは煩悩(愛欲や欲望、執着)を悟りに変えて、菩提心(悟りの境地)
にまで導いてくれる力を持つ仏尊。すなわち、愛欲と、その裏返しの怨憎の両方を整え、
人々の心を安らかにしてくれる仏尊である。】
(「知っておきたい仏像と仏教」 今井浄圓・廣瀬良弘・村越英裕・望月真澄 監修 P137)
【 忿怒形で、体の色は真紅、一面三目六臂が一般的である。 頭上に獅子頭のついた獅子冠を
載いているのが特徴で、獅子の頭からは天帯という長い紐が左右の耳の後ろを通って、膝の
あたりまで垂れている。 左手には金剛鈴、弓を持ち、いちばん後ろの手は拳を握って上に挙げ
ている。 右手には五鈷杵、矢、蓮華を持っている。 拳を握った左手には、われわれが求める
ものは何でも掴んでいるという意味が込められている。宝甁という大きな壺の上の蓮華座に
座る坐像のみで、立像は見られない。 赤い日輪を光背とする。】
(「仏像鑑賞入門」 瓜生中 著 P146)

愛染明王像は作例が少なく、特に石像はほとんど見かけることがありません。
私の知る限りでは、成田市・奈土と印西市・松虫の二基があるのみです。


この愛染明王像は、奈土にある「紫雲山昌福寺」の墓地の一角に佇んでいます。
「昌福寺」は天台宗のお寺で、開山は不詳ですが、いろいろな史料から、少なくとも450年以上
の歴史を有すると推定される名刹です。
「成田の地名と歴史」には、「昌福寺」が次のように紹介されています。
【奈土に所在する天台宗寺院。 山号は紫雲山。 院号は来迎院。 本尊は釈迦如来。 古くは
奈土城跡に近い寺家山にあり、慶覚法印が開いたと伝えられる。 常陸小野の逢善寺(茨城
県稲敷市)に残る「檀那門跡相承資井恵心流相承次第」には、奈土に観実という学僧がいた
こと、逢善寺13世の良證法印が16世紀前半に当寺から入山にたことがみえ、関東の天台
宗の中心であった逢善寺と密接な関係を有していた。 1570(永禄13)年に徳星寺(香取市
小見)で行われた伝法灌頂(密教の最高位である伝法阿闍梨となる僧に秘法を授ける儀式)
では、当寺や奈土の僧侶たちが重要な役を勤めている。 戦国期に当寺で書写された聖教
(教学について記した典籍)からは、談義所として各地から集まった学僧が修学に励んでいた
ことがわかる。 このように当寺は大須賀保における天台宗の拠点であった。 近世の「寺院
本末帳」には「門徒寺八ヶ寺」と、末寺が18か寺あることが記されているので有力な寺院で
あったことがわかる。 檀家も地元の奈土だけでなく、柴田や原宿・毛成(以上神崎町)・結佐
(茨城県稲敷市)にもあった。 元禄期(1688~1704)に現在地現在地に遷座したという説
もある。】 (P276~277)
(昌福寺について詳しくは http://narita-kaze.jp/blog-entry-100.html ☜ こちらをクリック)

紀年銘はほとんど読めませんが、「明■■庚寅」と読めるような気がします。
元号の頭が「明」で干支が「庚寅」の年は、明和七年と明治二十三年だけです。
「大栄町史」の「町域の寺院総覧」の項に、昌福寺に関する記述があり、その末尾に、
【なお境内墓地には、後述の廃寺東光寺にあった石塔類が移されている。特に江戸時代中期
の愛染明王像は、県内屈指の石仏である。】
とありますので、この像は、明和七年(1770)の造立、250年前のものであると思われます。
【愛欲の存在をそのまま認めて、悟りまで導く功徳を持つ明王である。特に男女の愛の悩みを
救うと信じられた。また、愛染という言葉から染色業の守り本尊になったりもする。町内では
一基のみが確認された。奈土の東光寺跡にあったもので、造立年代は不明であるが、三眼
六臂で日輪を表わす円光背を背負い、獅子冠を戴き、宝瓶の蓮華に結跏趺坐をしている。】
(「大永町史 民俗編」 P196)
廃寺となった東光寺については、「大栄町史 通史編中巻」に、次のような記述を見つけました。
【 東光寺 天台宗。奈土村字仲台に所在。本尊は阿弥陀如来(『県寺明細』)。天明六年前後
の天台宗寺院名前帳には、東叡山末(寛永寺末)として「一律院天幢山東光寺」等と載せられて
いる。 『県寺明細』には浄名院(台東区)末と記されているが、同院は寛永寺の子院である。
当寺の成立については明確な史料があり、元文五年(一七四〇)に山門(比叡山)の安楽律院
の末として、正式に寺院として認められた(『史料編Ⅳ』〔九七〕。同史料によれば当寺は廃寺で
あったのを、金岡氏で善楽沙弥と称した人物が再興したものという。 (中略) なお、その少し前
の文政九年(一八二六)に当寺は類焼で焼失したとある(『史料編Ⅲ』〔二五八〕。さらに『郡誌』
によれば、明治二年にも火災で諸堂のことごとくを焼失したという。その後昭和二十七年に至り、
栃木県日光市の日光山興雲律院に合併し、寺院としての役目を終えた。】 (P561)
また、「千葉縣香取郡誌」には、
【 同所字仲臺に在り域内五百三十一坪天台宗にして阿彌陀佛を本尊とす寺傳に曰く享保
十一年亦亦金岡貞愛の創建する所にして仝空開基たり天保元年火災〇罹り八年之を再建す
往時は其構造頗る宏麗なりしが明治二年再び祝融の變に遭ひ本堂庫裏舎利堂悉く燒失せり
・・・ 】 (P432 祝融とは、中国の神話に出てくる火の神)
記録にあるだけでも、文政九年(1826)、天保元年(1831)、明治二年(1869)と、たびたび
火災に見舞われた(43年間に3度も!)不運なお寺です。
なお、移設前の東光寺跡での姿が、「大栄町史民俗編」の196ページに掲載されています。

左手には金剛鈴と弓を持ち、後の手は拳を握って突き上げていて、右手には五鈷杵と矢を持ち、
後の手は蓮華を持っています。

額には第三の目があり、牙をのぞかせる忿怒の相ですが、なぜか童顔に見えてしまいます。
成田では、成田山「光明堂」の「愛染明王」像と、吉岡の「大慈恩寺」の「絹本着色愛染明王」が
知られていますが、成田市内に「愛染明王」の石像はこの一体だけのようです。
このブログで訪ねた150近い寺社でも、唯一印西市松虫の「松虫寺」に隣接する「松虫姫神社」
境内で見つけた石像が一体あるのみです。(今回、「印旛村史」に、平賀にもう一体あるこという
記述を見つけました。折を見て探したいと思います。)
もう一体の「愛染明王」像は、印西市の松虫寺に隣接する「松虫姫神社」境内にあります。

(松虫姫神社の愛染明王像)
宝甁の上に座ってはいませんが、台座には「女人講中八(?)人」と刻まれ、石仏の側面には
「嘉永元申年八月吉日」と記されています。
嘉永元年は西暦1848年ですから、170年前のものです。



(2014年11月 撮影)
「松虫姫神社」については、「印旛村史 通史1」(印旛村史編纂委員会編 1984年)に次の
ように記されています。
【松虫の松虫寺境内にある神社で、同寺の開基にかかわる聖武天皇の皇女松虫姫を祭神と
している。松虫姫が都で蚕を飼っていたという伝承から、同神社は蚕の神様として信仰を集め、
四月と八月の十五日の祭礼には、印旛郡内はもとより茨城県などから養蚕を行う人々が講社
を結成にて参拝に訪れ、境内にも露店が出るほど賑わった。しかし、養蚕業の衰退とともに
次第に参詣人も減少した。】 (P823)

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左上の手は拳を握って突き上げ、中の手には弓を持ち、前の手には金剛令を持っています。
右上の手には蓮華を、中の手には矢を、そして前の手には五鈷杵を持っています。
頭上に獅子頭の付いた獅子冠を戴き、額には第三の眼があります。
(松虫神社について詳しくは http://narita-kaze.jp/blog-entry-100.html ☜ こちらをクリック)

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170年前の松虫姫神社の石像に比べて、250年前の奈土の石像は、長い風雪に耐えてきたに
しては驚くほど風化がなく、忿怒の形相はもとより、獅子頭やそれぞれの手に持つ金剛鈴や
金剛杵、弓矢などもはっきり見分けることができます。


多くの墓石に囲まれてひっそりと佇むこの石仏は、注意して見ないと見落としてしまいそうです。
「愛染明王像」といえば、成田山外周路の「馬頭観音像」が「愛染明王像」だとされていることに
も触れなければなりません。
ご覧の通り、よく見ればこの石仏の頭上にあるのは「馬頭」であって「獅子頭」には見えません。
獅子か馬の頭を戴き、三目で六臂であることなど、像容が似ているため、間違えられることが
多いのかも知れません。

成田山の馬頭観音

(この石像の詳細は http://narita-kaze.jp/blog-entry-275.html ☜ こちらをクリック)


愛染明王が祀られている成田山の光明堂などは、縁結びの祈願に訪れる人が大勢いますが、
意外とこの明王の像容を知る人は少ないように思います。
馬頭観音と間違えられている愛染明王があるかも知れません。
まだ、人知れず佇んでいる愛染明王がどこかにいるかも知れません。