

「観音寺」の境内に向かう細道は切通しのように両側が土手になっています。
その道の途中に「一隅を照らそう」と記された石碑が建っています。
この言葉は最澄の「照于一隅此則国宝」という言葉から採った言葉ですが、私は昨年10月に
土屋の「薬王寺」を紹介した時に、この言葉について以下のように書いています。
伝教大師最澄が弘仁九年(818年)に天台宗の修行規定として書いた「山家学生式」(さんげ
がくしょうしき)にある言葉で、「照于一隅此則国宝」(一隅を照らす、これすなわち国宝なり)が
一般に広く知られている言葉と意味ですが、最近の学説では「照千一隅此則国宝」(一隅を守
り千里を照らす、これすなわち国宝なり)が正しいとされています。
最澄の時代の背景を考えると「照千一隅~」なのでしょうが、「照于一隅~」が長年人々の心
に響いてきた言葉と意味なので、この方が良いと判断されたのでしょう、薬王寺のこの碑には
于と彫られています。 (平成26年10月11日)
「照于か照千か・・・土屋の薬王寺」 ☜ ここをクリック
「于」と「千」。
字は良く似ていますが、意味は微妙に異なります。
この碑も「照于」説を採用しています。


境内の入口に並ぶ7基の石仏群。
一番左の石仏には元禄の文字が読めます。
隣は宝永、次は享保十七年(1732)、元禄■■寅年(元禄年間で干支に寅があるのは十一
年のみ=1698)、享保、延宝、右端は元禄十三年(1700)年と読めました。

萬延元年(1860)と記された「馬頭観音」。
「馬頭観音」は六観音の内の一尊で、八代明王の内の一尊にも数えられます。
観音としては珍しい忿怒の姿で、人々の無智や煩悩を排除し、諸悪を打ち破る菩薩です。
また「馬頭」という名前から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られ、さらにあらゆる畜生類
を救う観音ともされています。
この「馬頭観音」は一面六臂の形で、下部が損傷して補修されています。


「南羽鳥村字鍛冶内にあり天台宗にして安食町龍角寺末寺格四等なり本尊大日如来
木像一身は座像丈九寸厨子入惣金箔なり由緒伝得知山勸音寺は元龜元年二月の創立
にして亮盈法師の開基なり然るに天明三年に至り本堂其の他㤁皆焼失し再建の際
年月不詳大日如来を以て本尊とす明治元年四月十八世亮融與津智性院より當山に轉住
仝二十八年六月十六日遷化すこれより暫時は本寺兼務なりしが仝卅三年四月十二日
亮融徒弟十九世亮朝住職たりしが仝四十二年四月三日香取郡奈土正福寺に轉住に
つき廿世堯潤與津智住院より轉住せり」
「千葉縣印旛郡誌」(大正二年編さん)は「観音寺」に関してこのように記述しています。
これにより、
○ 天台宗のお寺で、山号は「得知山」であること
○ 亮盈(りょうえい)法師により元亀元年(1570)に創立されたこと
○ 天明三年(1783)に火災により堂宇が焼失したこと
○ 年代は不詳だが、堂宇の再建の時に「大日如来」を本尊としたこと
が分かります。
約450年の歴史があるお寺です。
なお、引用文の最終行に智住院(アンダーライン部分)とあるのは、智性院の間違いだと
思われます。
「智性院」は安食町の興津にある天台宗のお寺です。

本堂右側にある小さな大師堂。
大小2体の大師像が並んでいます。


大師堂の後ろ、境内の一角にある墓地。
元禄、延享、宝暦、天明などの年号が刻まれています。
この墓地の墓石には上部が四角錐になっている神道式の奥津城(おくつき)形のものが多い
ように感じます。
良く見かける如意輪観音や地蔵菩薩を刻んだ墓石は、ここには数基のみです。


境内の一角に大きな石碑が2基並んでいます。
風化と白カビで碑文の判読が難しいのですが、顕彰碑のようなものであることは分かります。
どちらか1基は「成田の史跡散歩」にある「鳥居先生頌徳之碑」ではないかと思います。
『本堂に向かって右側に、題額に「鳥居先生頌徳之碑」と刻まれた大きな石碑が立っている。
高岡藩侍講福田錦斎らに学び、千葉師範学校卒業後、各地で教員をした鳥居忠亮の記念碑
である。大正八年(一九一九)の建立になる。』 (P169)

境内の外れに古い墓石が並んでいる一角がありました。
こちらは全て石仏が刻まれたものです。


さて、これまで各地で多くの墓石や石仏を紹介してきましたが、よく見かける頭部が欠損した
石仏については単に“頭部が欠けている”とだけ表現してきました。
「観音寺」の石仏にも頭部が欠損したものが多く見られますので、ここでこれまで避けてきた
「廃仏毀釈」について書いておこうと思います。
「廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは「仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、
僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、
「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏習合を
廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。」
(ウィキペディア 廃仏毀損)
徳川幕府はその施政の柱の一つに仏教を置き、「寺請制度」によって人々を地域に縛り
つけ、支配してきました。
一方で神道も人々の中に生き続け、いわゆる「神仏習合」が信仰の形として受け入れられ、
お寺の境内に神社が祀られていたり、神社に石仏が置かれていたりしました。
“神様、仏様”と何もかもごちゃまぜにして、お祈り・お願いする、いわば“おおらかな信仰”
が我が国には根付いていました。
『しかし、幕末になると諸外国からの開国要求が激しさを増し、尊皇攘夷論が生まれる。
そうした中、天皇を中心とした中央集権国家の樹立を理想とした江戸末期の国学者・
平田篤胤の思想が盛り上がりを見せる。日本は「神の国」であるという国学思想が武士
らに浸透し、神道と仏教を切り分ける思想へと発展していく。』
「一八六八年(慶応四年)、新政府によって出された神仏判然令(神仏分離令)が決定的
となり、いよいよ寺院や仏像、寺宝に対する破壊行為が全国に広がった。僧侶は還俗
させられ、中には兵士になる者も多かった。廃仏毀釈の強弱は、藩主ら権力者の一存で
決まることも多く、破壊行為が実施されなかった地域もある。」
(「寺院消滅」 鵜飼秀徳 著 日経BP社 2015年 P183)
明治政府は「神仏分離令」は発しましたが、廃仏毀釈については明確な指示があって
行われたものではありません。
江戸時代のお寺が、幕府によって様々な特権を与えられ、寺請制度下で人々を縛り、
管理してきたことへの反発が、過激な仏教攻撃に向かったと考えられます。
明治新政府は、それまで徳川家によって長い間続いてきた統治体制を崩壊させ、天皇
を中心とした中央集権を確立するために、この過激な運動を利用し、黙認したのです。
この廃仏毀釈に関わる一連の大事件は歴史の闇に隠され、正面からこれを検証したり
評価することは憚られてきました。
その評価をここですることは差し控えますが、各地のお寺の石仏が、首をはねられたり、
あるいは打ち壊されているのは、この廃仏毀釈運動によってもたらされたことで、(中に
は自然にそうなったものもあるかも知れませんが)その傷跡が各地に残っているのです。

大竹の「勧行院」 首の無い石仏と間に合わせの首を付けた石仏

野毛平の「神光寺」 とりあえず首を付け直してポツンと立つ・・・

「新橋観音堂」 打ち落とされたまま、今日まで・・・

芦田の証明寺跡 セメントで作られた頭が重そうなお地蔵様

「観音寺」にはイスラム圏で良く見る、顔を削られた石仏も・・・
痛ましくて掲載するに堪えない写真も多くあります。
多くの貴重な文化財が失われ、多くのお寺が廃寺となり、首の無い石仏やセメントで間に
合わせの頭を乗せた石仏が虚しく立ちつくしている姿を見るのは悲しいことです。
「廃仏毀釈」は長い間タブー視されてきましたが、これを正面から見つめて、(誰がやったか
を追求するのではなく)人々の信仰心が壊れて行く過程をきちんと検証しておく必要はある
と私は思います。
本来日本人が持っていたおおらかな信仰心が戻ってくることはあるのでしょうか?


本堂のガラス戸には、天台宗の宗紋である三諦章(さんたいしょう)が描かれています。
ペンキの剥げかかった屋根にも同じ三諦章が光っていました。



「観音寺」入口の斜面には青面金剛像を刻んだ「庚申塔」があります。
「観音寺の入口左側にも庚申塔がある。邪鬼を踏まえ、髑髏つきの宝冠をかぶった一面六臂
の青面金剛像で、六臂では鉾や剣・輪宝のほかに左下の手でショケラ(裸婦)をつかんでいる。
造立は安永六年(一七七七)九月である。」 (「成田の史跡散歩」 P169)
「ショケラ」とは三尸虫(さんしちゅう)のことです(異説あり)。
三尸(さんし)とは、人の体内にいていろいろな悪さをする考えられていた虫で、60日に一度
巡ってくる干支の庚申(こうしん)の日に、眠っている人間の体から抜け出して天帝にその人の
日常の罪状を告げ口するため、その人の寿命が縮められてしまうと言い伝えられてきました。
そのために庚申の夜は眠らずに過ごそうと大勢で集まり、飲み食いしながら夜明かしをする
風習が生まれ、これを庚申待(こうしんまち)と言うようになりました。
全国各地で庚申講が作られ、3年間に18回の庚申講が続いた記念に庚申塔や庚申塚を建て
ることが多くなりました。
「青面金剛」は、庚申講の本尊として知られ、この像を庚申塔に刻むことが多く見られます。

「庚申塔」の反対側に立つ「普門品一萬巻」と書かれた供養塔。


なお、「印旛郡誌」には「観音寺」に関して次のような記述もあります。
「寺帳並村誌伝區の北隅字谷田舊鍛冶内に勸音寺あり天台宗得山勸音寺と稱す安食町大字
龍角寺なる天竺山龍角寺の末派にして文禄三年申午釋了尊の開基創建する所明暦年間盗
あり僧を殺し寺に火す嘉永元年戌申權大僧都律者法印海應之を再建す現在に至るまで三十
余世なり」
これは寺伝や村の言い伝えとでも言うのでしょうか、大変物騒な話も書かれていますが、これに
よると「観音寺」の創建は文禄三年(1594)ということになり、「千葉縣印旛郡誌」の記述より
約30年遅いことになります。
「成田市史 中世・近世編」には、創建は元亀元年、開基は亮盈として、「千葉縣印旛郡誌」と
同一の記述がなされています。(火災についても天明三年としています。)
一方、「成田市史近代編史料集一」に収録されている「南羽鳥村誌」(明治十八年)には、文禄
三年に釋了尊により創建され、明暦年間に強盗殺人があり火災により焼失したことなど、寺伝
と同様の記述が見えます。
どちらが正しいのかは分かりませんが、創建や開基、事件などに諸説あるのは、それなりの
歴史があるということなのでしょう。


※ 「得知山観音寺」 成田市南羽鳥1614
わたしも、地元のお地蔵さんを探してみようかなと思いました。
コメント、ありがとうございます。
気をつけて見渡すと、けっこう道端にお地蔵さまは立っています。
それぞれのいわれなど調べるのも楽しいですよ。