FC2ブログ
 
■プロフィール

sausalito

Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

■訪問していただいた数

■最近の記事

クリックした記事に飛びます。

■記事の分類とアップ数
■良く参考にする書籍リスト

記事中で引用したり、取材のヒントを得るために良く利用する書籍です。  文中の注釈が長くなりますので、ここに掲載します。               ■「成田の史跡散歩」小倉 博 著 崙書房 2004年               ■「成田の地名と歴史」大字別地域の事典編集委員会 2011年      ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会編 1986年       ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会編 1972年

■訂正一覧

掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル        --------------- 

【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                            

■月別アーカイブ
■リンク
■検索フォーム

■最新コメント
■最新トラックバック
■メールフォーム

メールをいただける場合はこちらから

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

最下行の「コメント」をクリックしていただいてもご連絡いただけます

■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

成田山公園-じっくり散歩(その壱)

今回は成田山公園を散策します。
この公園についてはネット上でもたくさん紹介されていますので、ちょっと趣向を変えて、園内
をゆっくり歩きながら、石造物や金石文を丹念に見て行こうと思います(長期の更新無しにつ
いての言い訳と逃げです-追記もお読みください)。
園内にはとても多くの石造物・金石文がありますので、何回かに分けて紹介することになります。

成田山公園-3

大本堂に向かって右側奥に成田山公園の入口があります。
光明堂の脇や、平和大塔の前など、入口は何カ所かありますが、まずは正面入口(?)から
散策を始めましょう。


成田山公園-51

【 成田山の境内には、東京ドーム約3.5個分 (16万5000㎡)にも及ぶ広大な公園が整備
されています。公園は仏教の生きとし生けるものすべての生命を尊ぶという思想が組み入れ
られ、不殺生を表す尊い生命をはぐくむ場となっております。また、公園内各所には松尾芭蕉
や高浜虚子など著名な文人たちの句碑があり、先人の足跡を感じることができます。】 

(成田山新勝寺ホームページ)


成田山公園-2

緩やかな石段を上って行きます。

石造物のほとんどは、立ち入り禁止の柵内にあり、風化も進んでいて紀年銘や金石文が良く
読めなくなっています。
可能な限り読み取り、不明部分は「成田山新勝寺史料集 別巻」にある、金石に関する資料
(以下「別巻資料」)等をもとに補足して行きます。
ただ、別巻資料では場所の特定が難しく、類似する石造物の特徴等から推定したものも多く
あります(場所が移動したり、地震等による損壊で撤去されたりしたものもあるようです)。


成田山公園-4

公園に入って直ぐ右側には「永代御膳料」と竿の部分に刻まれた大きな石灯籠が立っています。
「久富■■」と読めるような気がします。
別巻資料に「久富~」とあるのは、大正十一年(1922)の灯籠のみです。


成田山公園-5

 大寺や 玄関飾る 菊懸崖

石灯籠の隣には、こう刻まれた句碑があります。
「中興第十九世 空如」とあるのは、中興十九世の松田照應師の俳号です。

松田照應師は明治三十六年(1903)成田に生まれ、明治四十五年(1912)に成田山に
入山、昭和3年総本山地積院主事、同9年横浜別院主監、13年権少僧正、16年少僧正、
20年大阪別院主監、21年権中僧正、24年中僧正、28年権大僧正、40年大僧正となって、
大本山成田山貫主となりました。 昭和61年(1986)没。


成田山公園-6
*****成田山公園-7
成田山公園-8
*****成田山公園-140

この辺りは「梅園」と呼ばれ、多くの梅の木が植えられています。
早春の頃の成田山公園は、梅のほのかな香りにつつまれます。


成田山公園-9

変わった形のこの灯籠には、「 獻燈 」「東京明治座 大正十年五月建立」と刻まれています。
この献灯の二年後、当時久松町にあった劇場が関東大震災で焼失し、麻布十番の末広座を
明治座と改称して興業するなど、苦難の時代が続きました。


成田山公園-10
成田山公園-11

公園入口の門をくぐって直ぐに左に入る小径があります。
スダジイの大木の根元に立つ灯籠には、「永代御膳料」と刻まれています。
東京の大久保久七氏が、大正十年(1921)に寄進したものです。
大久保久七氏は日本橋富沢町で呉服商として成功を収めた人のようです。(三田商学研究・
第46巻第2号、同第48巻第3号の織物問屋群生化に関する白石 学氏の論文に、何度か
名前が出ています。)


成田山公園-12
成田山公園-105
成田山公園-106

小径の左側は崖で、右側にはたくさんの紫陽花が植えられています。
崖の下は雄飛の滝(いずれ散策に行きます)になるようです。
目を凝らすと、滝の上にある「洗心堂」の屋根が見えます。


成田山公園-13

紫陽花の小径を進むと、藤棚が見えてきます。


成田山公園-14
***成田山公園-59
成田山公園-60

四月下旬から五月初旬にかけて、見事な花を咲かせます。
花の盛りには、ベンチは人々でいっぱいになります。


成田山公園-15

藤棚からメインストリート(?)へ出る場所に立つ灯籠。
竿下部にかすかに「大正十年十二月建之」と読める文字があります。
別巻資料には年代等の記載が無い灯籠が一基載っていますが、記載されている高さから、
「東京旭一心講」の奉納ではないかと思われます。


成田山公園-16

藤棚の横の柵内にある、明治十一年(1878)の照輪上人らの句碑。
「花園」(現成田山公園)の完成祝に、三橋梅隣が主催した句会で詠まれたもののようで、
「如是我聞   園の日に 経よみ鳥や 法の花   黙堂」 (黙堂は照輪上人の俳号)
をはじめ約二十首が刻まれています。
「経よみ鳥」とはウグイスのことで、その鳴き声が「法華経(ホケキョウ)」と聞えることから
こう呼ばれることがあります。


成田山公園-17

照輪上人らの句碑の隣にある小さな石碑には、「大護摩修行」「明治十二年」と刻まれています。


成田山公園ー21

藤棚の脇にある、天明八年(1788)建立の松尾芭蕉の句碑。

「丈六に 陽炎高し 石の上」

この句は、貞享五年(1688)故郷の伊賀の新大仏寺を訪ねた時に、土砂崩れによって
堂塔が破壊され、仏頭のみが石座に残されたさまを詠んだものです。

丈六(じょうろく)とは、仏像の背丈を現す言葉で、仏は一丈六尺(約4.85m)の身長が
あるとされているので、仏像もこれに合わせて作られます。
半丈六像は約八尺(2.43m)、坐像はこの高さが多いようです。


成田山公園ー40
成田山公園-18

藤棚に入らず、そのまま小径を進むと、「獻燈」と刻まれた古い灯籠があります。
台座に「斎木」「平岡」の名前が読めますが、寄進年等は不明で、別巻資料にもこの灯籠は
見当たりません。


成田山公園-108
成田山公園ー19

灯篭の先には、明治四十二年(1909)の東京府消防組木遣会の「木遣塚」が見えてきます。
江戸火消し時代の「ほ組」「と組」「ち組」「ぬ組」「わ組」「か組」が再編された「第五区」(現在の
台東区全域、荒川区の大部分、千代田区の一部を担当)が奉納したもので、不動明王を現す
剣を中心に置き、左右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)を従えた
三尊の形式になっています。

成田山公園-113
***********成田山公園-114
成田山公園-115

**額堂-99

三尊像は境内の何カ所かで見られますが、光明堂脇にある三尊像の構図とほぼ同じようです。


成田山公園-109
成田山公園-110

木遣塚からメインストリートに出る角にある灯籠。
笠の部分に特徴のある、ずんぐりした灯籠です。
「永代御膳料」「大正九年九月」の文字が見えます。


ほとんどの石碑や石造物への接近が、立ち入り禁止の柵またはロープに阻まれている中、
小さな階段に導かれる石碑があります。

成田山公園ー25

照輪上人の碑。
中興第十三世照輪上人は、文化十二年(1815)上総富津の生まれで、字は貫瑞、黙堂と
号しました。

抑〻成田山公園は、当山光明堂右側丘陵地の一部に始まり、漸次に拡張せられて現公園
となったのであるが、もとこの場所は平坦な芝地で、当山開帳等の場合には、此処に各種の
興業場が設けられ、就中曲馬の興業は最も盛んに行われていた関係から古くは此処を「曲
馬場」と称し、又一方屢〻佐倉藩郷兵の調練場となったところから、一名「調練場」ともいわれ
ていた。然るに其の後照輪上人は、一般參詣者並びに信徒の慰安を図る為め、明治九年(一
八七六)此の地に花園を造る計画を立て、同一〇年此の芝地を開拓して梅樹を植えて梅園と
し、藤棚を設け、池を掘って花菖蒲を植え、更に桜樹・花卉等を裁えて、「花園」又は「花屋敷」
と称し、其の南側には四阿を建て、上人自ら筆を執って「華胥」と題し、屢〻歌人・俳士・文人・
墨客を集めて、清遊を試みた処である。蓋し当時この園は、艶美恰も華胥の境に遊ぶが如き
感があったからであろう。】 
 (「新修成田山史」 P166~167)


成田山公園ー38
成田山公園ー23

公園内の「金蘭不朽」の碑の右方、一段高き丘上にある銅碑で、三段の墓石の上に立ち、
高さ三メートル、巾一・一〇メートルの雲竜の縁付の鋳造物である。明治二一年(一八八八)
一一月二九日昭輪上人の七回忌に際し、三池大僧正の建立せるものであって、照輪上人の
伝記を詳細に誌してある。「照輪和尚之碑」の六字の題額は、北白川宮能久親王殿下の御染筆
にして、撰文は上人と蘭交ありし宗伯浅田惟常氏。書は高橋泥舟氏、鋳造人は川口住の永瀬
正吉である。】 
 (「新修成田山史」 P659  赤字の「昭」は「照」の誤植と思われます)

碑文にはこう記されています。

照輪和尚之碑 二品大勲位能久篆額 泥舟隱士高橋精一書
師諱照輪字貫瑞號黙堂姓原口氏下總國周准郡富津村人父半藏母某氏師生而頴異文政甲申
中從下總國新勝寺主照胤薙染爲僧時年甫十歳天保中就照恵和尚受戒後入京師智積院顕密
二教凡二十余季學就住于江都浅草正福院慶應丁卯衆推襲其師新勝寺職明治中擢七級教導
試補暦階級至権中教正兼眞言學頭当此時寺務倥怱冗費極多師入寺後慈忍化行百廃倶擧称
爲中興繼之築明王支院於東京及横浜高崎等修行徳詣成田道路改架佐倉鹿島橋時供學校警
署育児訓児等費官屢賜銀杯以賞之明治十四年 皇上臨三里塚種畜場以本寺爲行在所特許
拝謁賜紅白縐各一匹金百錠越十五年又臨幸賜菊章銀杯三脚絳錦二巻金百錠他寺之所罕世
以爲栄焉師賦性慈緩端重寡言夙夙起奉事不動明王日佛有盛衰道不虛行在其人勉勵耳終身
持行不倦誨人則務以身卒惓惓唯恐其力之不逮故其道風雅量爲世所欽如此師以文化乙亥二
月廿一日生以明治壬午十一月廿九日示寂世壽六十八僧臘五十八檀越慕之如哀妣師會在都
下十八年與貴紳名流驩又與異邦名士爲詩文之友傍通諸子百家書頗有文字禅之名蓋逃于墨
而仍不失爲儒者也記距今六年余與門生林静斎訪師盧一見如旧識齢亦相若因訂兄弟之盟詩
文贈答殆無虚月師乃爲余撰壽蔵文而今弟子来徴師墓銘潜然不堪存没之感余曷得辞乎為之
銘曰
      仁風披拂成田雨   炎威薫騰聖尊煙
      非斯師誰能爲之   非斯道孰得其縁
      神朗気清仙耶佛   宜矣其徳蚤達天
                  明治十九年九月     明宮尚薬  従六位  浅田惟常謹撰 】  
   
(「新修成田山史」 P659~660)


この「照輪和尚の碑」は、一段と高い場所にありますが、向かって左側に少し下りると、「金蘭
不朽の碑」があります。


成田山公園ー39
成田山公園-22

この碑は、生前の漢方医学の大家である浅田宗伯と、原口照輪との親しい交わりを記したもので、
題額は勝海舟、撰文は石川大僧正、書は浅田惟恭によるものです。

【 際洋医跋扈之時凛然持長沙之正脈者非栗園浅田先生乎當佛教衰頽之日毅然掲不動之法幢
者非我師黙堂上人乎其精神気魄俱足壓當代而動後世矣明治十二年己卯先生拉其門人林静斎
訪上人於我成田山新勝寺先生與上人意気相投年歯相若握手驩甚因直訂兄弟之盟爾來交情日
厚山河雖隔雁魚頻通夢寐之間不能相忘於懐也是實希世之佳遇而雖由先生之與我師有道心相
印者安知非不動明王之冥助陰誘哉十三年庚辰先生自建壽碑題曰寂然不動上人爲之銘十五年
壬午上人示寂先生撰其墓碑銘二十七年甲午先生亦逝矣今玆丁酉静斎與院代峰川照和等相謀
募浄財建一大碑将傳金襴之交於不朽其志可嘉也庶幾千歳之下聞二老之風者使薄夫敦懦夫立
志焉銘曰
       成田之山  蒼翠聳天  両賢相遇  笑指白雲
       宿縁甚深  交誼至重  妙諦仁術  萬古不動
                                        明治三十五年五月
                               成田山新勝寺現住權少僧正照勤謹撰
                               從二位勲一等伯爵勝安芳題額
                                            東京  淺田惟恭謹書 】
(「新修成田山史」 P661)


成田山公園ー26
成田山公園ー28
成田山公園-112

照輪和尚の碑からメインストリートをはさんだ反対側に、木々に埋もれた五重塔があります。
繁みの中には小さな奉納碑が立っています。
別巻資料で該当すると思われるのは、大正十一年(1922)の東京穀物商組合の寄進です。


成田山公園-101
成田山公園-102

五重塔の先は柵に囲まれた展望台のようになっていますが、木々が生い茂り、残念ながら
見晴らしは良くありません。
目を凝らすと、成田駅方面がわずかに望めるようです。


成田山公園ー30

五重塔の反対側に立つ大きな灯籠。
別巻資料の中に該当すると思われるものは見つけられませんでした。


成田山公園ー33
成田山公園ー34
成田山公園-100
                                               ( 裏 側 )
木(?)のように見える不思議な形状の碑ですが、公園の管理をしていた方の話ですと、木の
化石のようだとのことです。
灯籠奉納碑のようで、かすかに「■田久保」と読めます。


成田山公園-37

左は明治三十九年(1906)の「日露戦争戦勝紀念碑」。
東京・日本橋の太物商(綿や麻の和服商)の小島勇次郎夫妻による建立ですが、上部の
碑銘には「紀念 東郷書」とあります。
「東郷」とは、日露戦争で連合艦隊司令長官を務めた東郷平八郎のことです。
碑文は風化で読みにくくなっているので、「新修成田山史」から引用します。

 【我が国露国との戦争は明治三十七年二月八日に始り、海陸連戦連勝九月四日遼陽を
占領、三十八年一月一日旅順を陥れ三月十日奉天を占領、十六日は鉄嶺も占領せり、
五月二十七日より二十八日までの日本海海戦に敵の船隊をして殆ど全滅に至らしむ後
米国大統領の講和勧告によりてこゝに平和の秋とはなりぬ
           御代なれや凱旋門に菊の花    愛宕
                            香鴻  山岡 昇 書   田鶴年刻 】

裏面には建立のいきさつが次のように刻まれています。

【 此表面は愛宕千葉先生の亀戸に建られし紀年碑を老父勇翁が報国のため先生に乞て
覆刻し成田山に建むといふ時に年七十七其志に感し老父に代りて之を建
嘗て老父の句に
              開戦の二月八日や大勝利
                           明治三十九年冬日
                             東京日本橋区元大坂町太物商
                                  大坂屋二代 小島勇次郎
                                        妻    なか  】


句にある二月八日とは、日露戦争における最初の戦闘に、勝利した日のことです(二月六日・
国交断絶、二月十日・宣戦布告)。

この紀念碑の右側、成田小学校方向へ下る石段の脇にあるのは、は明治四十一年(1908)の
奉納碑で、「永代御膳料 金五百圓」と刻まれています(寄進・横浜 原田久吉・寿以)。」
 
現代の貨幣価値に換算すると4~500万円くらいでしょうか。
原田久吉は天保八年(1837)、静岡の佐久間出身で、横浜を拠点に活躍した名士です。


成田山公園-56

「紀念碑」から少し奥に進むと、明治三十六年の「竜王講内田竜左右頌徳碑」があります。

内田竜左右(文化十三年~明治三十年)は武州葛飾郡桜田村の生まれで、東京・日本橋の
ほか上州、武州に多くの講社を主宰し、安政の本堂再建に大きな貢献をした人物です。
安政の本堂とは、安政五年(1858)に建立された現在の釈迦堂のことです。
現在の大本堂の建立にあたって昭和39年に現在の場所に移されました。


成田山公園ー35

大師像。
ビッシリと張紙があって、刻まれているはずの文字が全く見えません。
寄進者と思われる「立嵜貞助」の名前が読めました。


成田山公園-41

成田山公園-54

成田小学校脇へ下る石段の右側に建つ灯籠。
木々に覆われて刻まれている文字が良く見えませんが、辛うじて「獻燈」「石橋利仁」「大正十■」
などが読めます。


「木遣塚」の先にはズラリと石碑が並んでいます。

成田山公園-116

大東講の護摩木山奉納碑。


成田山公園-117

護摩木山奉納碑。
奉納者は新栄講の石森安兵衛。


成田山公園-119

明治九年(1876)、新栄講の「永代護摩木山奉納碑」。
「山坪数四千八百三十五坪」と刻まれています。

護摩木山とは護摩木になる杉を切りだす山のことで、山ごと寄進されるものです。
「酒々井町篠山新田字大山」と読めますが、現在の国道51号線の「公津の杜入口」の信号の
ちょっと先、酒々井町に入って直ぐの右側、ゴルフ練習場やガソリンスタンドがあるあたりです。

手前は奉納者名簿。


成田山公園-120

大正六年(1917)の「永代御膳料奉納碑」。
山梨・上野原の弘敬講中の寄進です。


成田山公園-121

これは句碑のようです。
明治三十四年(1901)の建立で、「吉田・太田・和田」等の名前があり、6首の俳句が刻まれて
います。


成田山公園-122

「永代護摩料奉納碑」。
木に隠れて見にくいのですが、「新明講」「君津郡金田村」と読めます。
君津郡金田村は、現在の木更津市の西部にあたります。


成田山公園-123

明治三十三年(1900)の「敷石紀念碑」。
「神力講・古谷野」の名前があります。
手前は「鉄柵奉納連名碑」で、明治三十九年(1906)のものです。


成田山公園-124

明治三十六年(1903)の永代御膳料奉納碑。
弘明講社と記されています。

横にある永代御膳料奉納碑は,大正二年(1913)のもので、「中村平右衛門」の名があります。


成田山公園-125

左は大正三年の(1914)「玉垣建設補助人名碑」。
真ん中は大正六年(1917)の「百度大願成就」記念碑。
右は明治四十四年(1911)の神生講の「永代護摩料奉納碑」。


成田山公園-126

明治四十年(1907)の「永代御膳料奉納碑」。


成田山公園-127

「永代資堂金奉納碑」。
明治四十年(1907)に深谷町と記されています。
「金五百圓」を何かの時の資金として新勝寺に奉納したものです。


成田山公園-129

「永代御膳料奉納碑」。
「不動講」とありますが、別巻資料には該当しそうなものが見つかりません。
柵の奥にあるため、良く見えませんが、裏面に「嶋野念」の名前が読めます。


成田山公園-70
成田山公園-128

大正十一年(1922)の五重塔。
「栃木縣日光町」と刻まれています。


成田山公園-130
成田山公園-141

五重塔の奥には明治二十四年(1891)の「永代大護摩修行碑」があります。
成田町の丸成元講社が建立しました。
横にある石碑には講の由来が記されています。

【 丸成講社起因碑
  夫天者生々発育之気而不能無不時晦明風雨人者万物之霊長而不免有不虞疾病災害是故人
  皆欲去禍害就福利仰神明仏陀之冥護亦古今之常情也抑丸成元講先師原口教正之所金圏而
  現住三池僧正之継其志信者長谷川社長及副長諸氏協同組織之実以明治七年起社員三十毎
  歳三回必修大護摩以祈講社安全所謂畏彼天命以真実之心行善良之事者社運日趨隆盛不宜
  哉雖是因明王之冥護然亦諸氏積善之余慶在新勝寺多年能知其事実故不敢辞也 】
 

天候不順による災害・疫病から、仏陀に救いを求めて講を組織したようです。


今回はこのへんで。
この先はまたいずれ次回に。


成田山公園-133
成田山公園-134

取材を始めた夏の盛りから5ヶ月以上経ち、公園は紅葉の時期を終わろうとしています。

梅がほころぶ早春の日まで、石造物は落ち葉が舞う木枯らしの中で立ち続けます。




続きを読む >>

テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公園・施設 | 11:38:10 | トラックバック(0) | コメント(4)
家族連れでお弁当持って・・・坂田ヶ池総合公園(2)
坂田ヶ池ー37

「坂田ヶ池総合公園」の2回目です。
1回目をお読みになっておられない方は、できれば1回目からお読みください。

家族連れでお弁当持って・・・坂田ヶ池総合公園 1回目 ☜ ここをクリック


坂田ヶ池ー43

「中央広場」を過ぎ、さらに公園の奥へと入って行きます。
10月も半ばとなると、そろそろ紅葉が始まります。


坂田ヶ池ー44

「芝生広場」に出ました。
遊具などはありませんがとても広々としていて、周りには桜が植えられていますので、
春のお花見には絶好の場所ではないでしょうか。


坂田ヶ池ー45
坂田ヶ池ー46

「渓流の径」に入ってみます。
狭い坂道が下っています。


坂田ヶ池ー47
坂田ヶ池ー48

池から流れ出る水が、小さな渓流を作っています。


坂田ヶ池ー49

渓流の終点には小さな公園があります。


坂田ヶ池ー53
坂田ヶ池ー50  花輪下踏切
坂田ヶ池ー51  成田線・我孫子行き

ここから先は道路に沿った側溝になって、約1キロ先の印旛沼へと流れて行きます。
小公園のすぐ先をJR成田線が走って行きます。


坂田ヶ池ー54
坂田ヶ池ー55

戻りの道は流れの反対側を歩いてみました。
こちらを歩く人はほとんどいないようで、枯れ枝が散乱し、蜘蛛の巣が行く手を邪魔します。
でも、渓流の眺めは一段と良くなり、意外と深い谷になっていることが分かります。


坂田ヶ池ー58
******坂田ヶ池ー57*****
坂田ヶ池ー60

「芝生広場」には戻らず、山道を左手に進みます。
右手には木々の間から池の水面が見えていますが、道は徐々に池から離れて行きます。


坂田ヶ池ー61
坂田ヶ池ー62
*********** 坂田ヶ池ー63
坂田ヶ池ー64
坂田ヶ池ー65

やがて、古墳が次々と現れてきます。
それぞれは良く見れば確かに小高く土盛りがされた古墳のようですが、木や笹が生えて
いて、説明の標識がなければ気が付かないでしょう。

これらは「龍角寺古墳群」と呼ばれ、現在確認されている古墳は114基に上ります。
発掘はあまり進んでいないため、不明な点が多いのですが、6世紀~7世紀にかけて
造られたものであるとされています。


坂田ヶ池ー66

突然、見慣れた景色が現れました。
「房総のむら」に入り込んだようです。
「坂田ヶ池総合公園」と「房総のむら」の一部がつながっていました。
この一帯は以前は「房総風土記の丘」と呼ばれていた辺りです。

房総風土記の丘 ☜ ここをクリック


坂田ヶ池ー67
坂田ヶ池ー68
*********** 坂田ヶ池ー69
坂田ヶ池ー72
坂田ヶ池ー71

来た道を途中まで引き返し、⑥と書かれた標識を左に曲がって、坂道を下ります。
この標識は公園内のあちこちに立っていて、道に迷った時などに携帯で今いるところの
番号を知らせると、助けに来てくれるようになっています。
坂を下りるとアヤメやコウホネの群生地として知られる「水生湿生植物園」があります。


坂田ヶ池ー70

ここは池が入江のようになっていて、とても静かな雰囲気です。


坂田ヶ池ー73
坂田ヶ池ー74

少し進むと池の周回路に合流します。
向こう岸には「野鳥観察所」や「ガゼボ」が見えています。


坂田ヶ池-75

あずまやの周りは「水生植物園」になっています。


坂田ヶ池ー76

池をぐるっと回って、出発点の駐車場が見えてきました。


坂田ヶ池ー77
坂田ヶ池ー78

「片歯の梅」です。

「その昔、坂田ヶ池に住む雄の大蛇が、毎年梅雨時になると土手を越えて長沼の雌の
大蛇に逢いに行きました。その度、田や家を守る土手が崩れてしまったそうです。村人
たちは、土手が崩れないようにするには人柱を立てた方が良いということを耳にしました。
そこへ、子供を背負った女の人が通りかかったので、この親子をふびんと思いながらも
埋めてしまいました。それ以来、土手は崩れることがなくなり村々は助かったそうだ。
ところが、いつの間にか埋めた場所の土手に、梅ノ木が育ちました。しかしその梅は、
実が半分しかないことから片歯の梅とよぶようになりました。その梅ノ木は、埋められた
時に子供が、半分かじったままの梅から生えたものだと伝えられています。」

(成田市ホームページ「坂田ヶ池総合公園」より)

伝承のわりにはちょっと物足りない大きさですが、細かいことは言わないことにしましょう。


坂田ヶ池ー79

遠くに成田・安食線のバイパスが見えています。


坂田ヶ池ー80
坂田ヶ池ー81

「花のテラス」と名付けられたスペースには、きれいな花時計があります。


坂田ヶ池ー82

この池には、周りの山から絶え間なく水が流れ込んでいます。


坂田ヶ池ー84
坂田ヶ池ー85
坂田ヶ池ー86
坂田ヶ池ー83

これからは紅葉のシーズン。
お天気の良い日に、ご家族で「坂田ヶ池総合公園」にお出かけになってはいかがですか?


坂田ヶ池ー00


                       ※ 「坂田ヶ池総合公園」 成田市大竹1450




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公園・施設 | 09:31:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
家族連れでお弁当持って・・・坂田ヶ池総合公園(1)
今回は家族連れでの手軽な行楽に最適な、「坂田ヶ池総合公園」を紹介します。


坂田ケ池ー1

「本公園は、成田市の北西の市街化調整区域に位置し、JR成田線下総松崎駅から北へ
約1kmの地点にあり、主要地方道成田安食線と成田安食バイパスに挟まれています。
本公園は、平成元年度のふるさと創生事業をきっかけとして、約5haの水面を有する
坂田ヶ池を取り囲み、豊かな自然と水に親しめる市民の憩いの場として整備した総合公園
で、北側に隣接する体験博物館「千葉県立房総のむら」と一体でご利用いただけます。
園内の遊具は、印旛沼周辺に古くから伝わる龍神降雨伝説にちなんで大龍・小龍の形を
しています。また江戸時代に灌漑用として作られた坂田ヶ池には、洪水を防ぐために人柱
にされたという悲しい母と子の物語が今に伝えられています。」

[成田市ホームページ(公園緑地課)より]

成田市ホームページ・坂田ヶ池総合公園  ☜ ここをクリック


坂田ヶ池ー2
坂田ヶ池ー3
坂田ヶ池ー4

よく使われる広さの比較で言うと、「坂田ヶ池」の水面の広さは、東京ドームより一回り
広い位ですが、入り組んだ形をしていますから、もっとずっと広い感じがします。
「坂田ヶ池総合公園」の広さは約17.2haですから、東京ドームの約3.7倍の広さです。


坂田ヶ池ー5

駐車場には県外のナンバーも見えます。

池の周りを時計回りに散策してみましょう。

坂田ヶ池ー92
坂田ヶ池ー90
坂田ヶ池ー6

まず目に入るのが広い芝生の斜面、「斜面広場」です。
前方には大きな吊り橋とジャンボスライダーが見えています。


坂田ヶ池ー87
坂田ヶ池ー88
坂田ヶ池ー91
坂田ヶ池ー89

斜面広場の左側には散策路に沿って「龍の泉」と名付けられた小さな流れがあり、右側には
ジャンボスライダーへ向かう階段があります。


坂田ヶ池ー7
坂田ヶ池ー8
*********** 坂田ヶ池ー9
坂田ヶ池ー10
*********** 坂田ヶ池ー11

坂を登ると「森のあそび場」があります。
大きな龍と小さな龍をイメージした、クネクネと曲がった遊具類がたくさんあります。
登ったり、滑ったり、ぶら下がったり・・・、子供たちの歓声が聞こえるようです。

この公園には龍に因んだ名前や施設がいくつかありますが、それはこの地域に伝わる龍の
伝説に因んだものです。

「むかし印旛沼のほとりに心優しい人たちの村がありました。近くの村の人たちは、もちろん
印旛沼に住んでいた竜からも好かれていました。ある年のこと、印旛沼一帯が大日照りで
村の人たちは困り果て一生懸命雨乞いをしました。こうして、いく日か過ぎると、いつも遊び
に来ていた印旛沼の竜が現れて 「日ごろの恩返しに大竜王にしかられて体が断ち切られ
ても雨をふらすべえ」 と言って天に昇りました。しばらくすると空はにわかに曇り始め、大粒
の雨が降ってきました。村の人たちは喜び、天をあおいで竜に手を合わせていました。
すると突然、天を裂くような雷が鳴り、稲妻が走り一瞬村中が明るくなったとき、中天で竜の
姿が三つに裂けるのが見えました。雨に喜んだ村人たちは 「やっぱりオレたちの身代わり
になったんだな」 と悲しみに包まれました。三つに裂かれた竜の体は、頭が安食に、腹が
本埜に、尾が大寺(八日市場)にそれぞれ落ちていました。村人たちは、義理堅い竜の心を
偲んで、せめて供養でもと、それぞれの場所に竜角寺、竜腹寺、竜尾寺を建てたと伝えられ
ています。」

(成田市ホームページ「坂田ヶ池総合公園」より)

※ この龍の伝説に関わる「龍角寺」「龍腹寺」「龍尾寺」については、リンク先を本文の
   最後に記載しています。


坂田ヶ池ー12

ここは結構高い場所になっていて、ずっと下に池の水面が見えています。


坂田ヶ池ー13

「りゅうのみち」と名付けられた吊り橋。


坂田ヶ池ー14
坂田ヶ池-16

吊り橋の上からは、木々の間からジャンボスライダーが見え隠れし、眼下には斜面広場が
広がっています。


坂田ヶ池ー15
坂田ヶ池-17

管理棟の右手にはキャンプ場があります。


坂田ヶ池-18
坂田ヶ池ー19
坂田ヶ池ー20

テントサイトは28か所あり、使用料は以下のようになっています。

        午前9時~午後4時まで   午後4時~翌日の午前9時
一般・学生      200円               200円
小・中学生      100円               100円
幼    児       無料                 無料
[かまど及びテーブルセット]
             610円               610円

[詳しくは公園管理事務所 0476-29-1161 (午前9時~午後4時半)まで]


坂田ヶ池ー21
坂田ヶ池ー22
坂田ヶ池ー23

このジャンボスライダーは全長78メートルもあります。
お尻に敷くダンボールを持参すると、良く滑れます。


坂田ヶ池ー24
坂田ヶ池ー30

散策路は適度なアップダウンがあり、緑がいっぱいです。


坂田ヶ池ー25
坂田ヶ池ー29

水辺には沈みかけた木船があったり、干潟のようなところがあったりして、変化があります。


坂田ヶ池ー27
坂田ヶ池ー28
坂田ヶ池ー32

ダイサギやアオサギが羽根を休めています。


坂田ヶ池ー26

西洋風のあずまやで「ガボゼ」と言います。
レジャーシートを敷いて、家族連れがお弁当を広げていました。


坂田ヶ池ー31
*********** 坂田ヶ池ー35
坂田ヶ池ー36
*********** 坂田ヶ池ー38
坂田ヶ池ー40

池の中央には浮橋があり、人が渡っていると水鳥たちが寄ってきます。


坂田ヶ池ー41

「中央広場」でちょっと一休み。
この続きは明後日に・・・


「小さな龍の伝説が結ぶ三つの寺」はこちら。

 龍角寺  ☜  ここをクリック
 龍腹寺  ☜  ここをクリック
 龍尾寺  ☜  ここをクリック

「家族連れでお弁当持って・・・坂田ヶ池総合公園(2)」から来られた方、
「家族連れでお弁当持って・・・坂田ヶ池総合公園(2)」へ戻る ☜ ここをクリック



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公園・施設 | 07:45:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
目で見る昔の成田~成田観光館
今回は、これまでにも何回かチラリと紹介した「成田観光館」です。

観光館ー1
仲の町ー7
観光館ー2

「成田観光館」は表参道の台の坂の真ん中、鰻の「川豊」の向かいにあります。
昭和63年の開館で、蔵造り風のデザインが参道でも目を引く建物の一つです。


観光館ー4

1階のエントランスでは大型スクリーンに成田の観光案内が映し出され、インターネット端末も
数台設置されているので、外人観光客が操作する姿をよく見かけます。
受付では成田に関する種々の案内や相談を受け付けていて、パンフレットも揃っています。
(受付に断れば館内の撮影はOKです。)


観光館ー6
観光館ー7

見学はエレベーターで3階または2階に上がって、1階に下りてくる順路になっています。
3階はイベント室と展示室になっていて、数々の催しが行われます。

2階に下りると2枚の錦絵が目に入ります。

観光館ー8
観光館ー9
初春の成田詣図(2代目国貞)

観光館ー11
観光館ー10
御礼参り贔屓船之図(3代目豊国)

これを見ると、昔から成田詣は庶民にとっての一大イベントだったことが分かります。


仲の町ー8

2階のフロアの真ん中には、昔の成田詣での道中風景がジオラマになって展示されています。


  川越し客の奪い合い 仲の町ー9
観光館ー16
  大絵馬奉納の船旅  仲の町ー10
観光館ー15
   人馬の交換風景  仲の町ー11
観光館ー12
観光館ー13
観光館ー14

馬で行くも良し、駕籠に揺られて行くも良し。


古い写真や絵も沢山展示されています。

仲の町ー12
昭和13年の薬師堂前

仲の町ー13
昭和13年の成田停車場

仲の町ー14
成宗電車(成田と宗吾霊堂間を走りました)

仲の町ー15
甚兵衛渡しの風景

仲の町ー16
大正初期の宗吾霊堂前停車場

観光館ー18
軽便鉄道の機関車(三里塚~八街間を走りました。成田~多古間も走っていました。)

観光館ー20
昭和20年ごろの木炭バス(成田幼稚園の遠足)

仲の町ー17
明治36年の成田線喫茶列車(我孫子~成田間)

    広重の道中風景  仲の町ー18
仲の町ー20
観光館ー17

似たような風景がジオラマの中にありました。


観光館ー21
観光館ー22

江戸時代の成田山です。
台の坂は滑り止めの木材が敷かれていました。
神明山は「アタゴ社」と書き入れられています。
この絵の本堂は現在の「釈迦堂」でしょう。


観光館ー25

2階はこんな感じです。


仲の町ー21 日本武尊(成田山交道会) 
    神武天皇(仲之町) 仲の町ー22

祇園祭で曳き回される山車が展示されています。
展示場所が吹き抜けになっていて、2階から見ても見上げる角度になります。


観光館ー28

1階へ下りる階段の壁面には、成田山のポスターが貼られています。


観光館ー29  
仲の町ー23

千葉県指定の伝統的工芸品の「下総鬼瓦」と、江戸時代の獅子頭(長谷川権頭藤原政義作)


観光館ー36

山車は傍で見るとさすがに迫力十分です。
これを曳いて台の坂を上るのは大変でしょう。

大きなショウケースの中には、山車に載せられていた人形が飾られています。

観光館ー32   鎮西八郎源為朝
将門調伏を命じた朱雀帝 観光館ー33
観光館ー35    素戔嗚尊


仲の町ー26
観光館ー3

外に出ると表参道台の坂は、参拝客の足音、店の呼び込み、鰻を焼く香ばしい煙で、いつもの
賑やかな日常がありました。

参拝の途中で、休憩がてらにちょっと立ち寄ってみてはいかがですか?


             ※ 「成田観光館」 成田市仲町383-1
                JR・京成成田駅から徒歩約15分
                入館無料 休館日月曜日(祭日の場合は翌日)、12月20~31日
                10月~5月  9:00~17;00
                 6月~9月 10:00~18:00



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公園・施設 | 08:04:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
飛行機好きなら子供も大人も・・・航空科学博物館
航空博物館ー1

航空科学博物館は1989年の開館で、成田空港の南端に隣接しています。


航空博物館ー23
航空博物館ー17
航空博物館ー18

博物館前の広場にはたくさんの飛行機が展示されています。


航空博物館ー19航空博物館ー20

展示されている機内に入ることもできます。


航空博物館ー22

頭上を轟音をたてて旅客機が飛び立って行きます。


航空博物館ー24
航空博物館ー25

機首部分だけですが、ジャンボ機も展示され、レーダーや空港車両も並んでいます。


航空博物館ー21

駐車場脇にある「航空神社」。


航空博物館ー26
航空博物館ー29

館内に入ると大きな旅客機の模型が目に飛び込んできます。
ボーイング747で、翼を振ったりすることができる可動式の模型です。
エンジンやタイヤ、客室、コクピット等も展示されています。


航空博物館ー27

名機ダグラスDC-8です。
世界で初めて超音速飛行をした旅客機です。


航空博物館ー31
航空博物館ー32

実際の機内が再現されています。


航空博物館ー34ミニチュア飛行機がずらり!
航空博物館ー36
航空博物館ー33航空各社の制服やグッズも
航空博物館ー30

マニアにはこたえられない展示です。


航空博物館ー39
航空博物館ー37航空博物館ー38
                                           大きな空港のジオラマ
空港内の施設名が書かれたボタンを押すと、その場所のランプが点きます。
子供たちがやみくもにボタンを押しながら、ランプのついた場所を探しています。


航空博物館ー44

航空管制室も再現されています。


航空博物館ー45
                  (航空博物館ホームページより) リンク:航空科学博物館

フライトシュミレーターによるシュミレーション飛行を体験することもできます。


航空博物館ー40

4階まで来ると空港の滑走路が直ぐ目の前に広がっています。


屋外展示場では年に数回空港関連のイベントが開催されます。
5月に開催された空港車両の展示会の様子を紹介しましょう。

航空博物館ー15
航空博物館ー3 牽引車
・・・・・・・・・・航空博物館ー4
・・・・・・・・・・・・・燃料車 航空博物館ー5
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・投光車 航空博物館ー6

何んと言っても人気の中心はスーパー消防車。です

航空博物館ー7
航空博物館ー8
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・航空博物館ー12
航空博物館ー9


航空博物館ー10
航空博物館ー11
航空博物館ー13

体験試乗する子供とタイヤの大きさを比べてみると、この消防車の大きさが分かります。


航空博物館ー43
航空博物館ー16


イベントはほかにもパイロットによる飛行機の話や、空港の話、
航空ジャンク市などが行われます。

館内にはレストランや資料・図書室、売店があり、
子供はもちろん、大人も楽しめる空港と飛行機の博物館です。


航空博物館ー46


              ※ 航空科学博物館  芝山町岩山111-3
                 芝山鉄道芝山千代田駅より「AMB南三里塚」行きバス
                 航空博物館下車(空港第1、第2ターミナルからも乗車できます)
                 入館料:大人 500円 中高生 300円  4歳以上の子供200円
                 月曜休館(月曜が祝日の場合は翌日) 開館時間:10時~5時 




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公園・施設 | 07:06:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
房総風土記の丘
今回は「房総風土記の丘」を散策します。
現在は「房総のむら」と合併してこの場所も「房総のむら」と呼ばれていますが、
昔、何度も来た風土記の丘の名前の方が私にはしっくりきますので、
今回はこちらを使おうと思います。

風土記の丘ー1

「房総風土記の丘」は、成田市の西に隣接する栄町にある
広大な敷地に広がる県立の自然博物館です。
以前に紹介した「房総のむら」とは地続きになっています。


風土記の丘ー27

100を超える古墳が点在する広大な公園で、
古民家や資料館もあり、散策にはもってこいです。


風土記の丘ー16

房総のむらの駐車場から「房総のむら」に入らず、まっすぐ進むと「風土記の丘」です。
この道の左側に「岩屋古墳」があります。
道から少し入ったところにありますので、案内板がなければただの丘にしか見えません。
奈良県の橿原市にある舛山古墳に次ぐ、全国で2番目に大きい方墳です。


風土記の丘ー17
風土記の丘ー18

古墳に向かう道端で野鳩がエサをついばんでいました。
恵まれた自然環境の中で、人を恐れることなく暮らしているのでしょう、
近づいても全く逃げる気配がありません。


風土記の丘ー19

古墳の入り口に着きました。
残念ながらしっかりと鉄扉で閉められていて中には入れません。


風土記の丘ー20

扉の隙間からシャッターを切ってみましたが、何も写っていません。
一体この奥にはどんな世界があるのでしょうか。


風土記の丘ー25

岩屋古墳を過ぎると、右側に白い大きな木造建築が見えてきます。
「旧学習院初等科正堂」です。


風土記の丘ー26
風土記の丘ー29
風土記の丘ー30

明治39年に建設された学習院の講堂で、
外見はモダンな感じですが、中は重厚な趣があります。
昭和に入って旧遠山村に下賜され、中学校の講堂として利用されてきましたが、
空港の騒音対策のため建て替えを余儀なくされ、この地に移設されたものです。
国の重要文化財ですが、出入り自由で周りに係員もいない状態は
良い状態での保存を続けて行くには不安が残ります。

風土記の丘ー8
風土記の丘ー9
                             風土記の丘ー6

正堂の裏をしばらく進むと、「旧平野家住宅」が見えてきます。
寛永四年(1751年)に建てられた富津市の名主の家を移設しました。


風土記の丘ー10

道の左右に番号の付けられた古墳が点在しています。


風土記の丘ー12
                        風土記の丘ー11
風土記の丘ー13

さらにしばらく歩くと「旧御子神住宅」が現れます。
安永九年(1780年)に丸山町(現南房総市)に建てられた農家を移設したものです。
梁の太さなどはさすがです。


風土記の丘ー21

垣根越しに房総のむらの屋並みを見ながら進むと、「風土記の丘資料館」があります。
残念ながら撮影禁止ですが、この近辺から出土した考古学的に貴重な出土品や
資料を中心に展示しています。


風土記の丘ー22

資料館の脇からは「白鳳道」と名付けられた道が龍角寺まで続いています。
(龍角寺については「小さな龍の伝説が結ぶ三つの寺(1)龍角寺」で紹介しました)


風土記の丘ー24

資料館の周りは古墳が集中している地域で、「古墳広場」と呼ばれています。


風土記の丘ー28
風土記の丘ー31

遺跡に囲まれた広場の一角に、面白い立て札を見つけました。
「ぎんなんを持ち帰らないで ぼくらのエサが無くなっちゃう  たぬきより」
ぎんなんはタヌキやリスの貴重な食物なのですね。

この一角にはとても多くの銀杏の木があります。
ぎんなんの季節にはまだまだ遠いですが、
ベンチに座っておにぎりを頬張っている100メートルほど先を、
タヌキが悠然と横切ってゆきました。
あわててカメラを構えましたが、ズームのピントが合いません。
モタモタしている内に藪の中に消えて行ってしまいました。
あれはネコにしては大きくまるまるとしていたので、確かにタヌキでした。
それとも・・・歩き疲れて胃袋も膨らんだ時だったので、
もしかして化かされたかな?



            ※「房総風土記の丘」だけなら入場無料です。(資料館は有料)
              房総のむらの入り口を入らず、「ドラムの里」というレストランと
              産直品売り場の左を進むと、約3分で岩屋古墳、正堂が見えてきます。





テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公園・施設 | 08:10:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
江戸時代にタイムスリップ、「房総のむら」(2)
昨日の続きで「房総のむら」を回ります。

房総のむらー21

佐倉藩の中級武士の家を過ぎ、
しばらく行くと「上総の農家」が畑の向こうに見えます。


房総のむらー23
房総のむらー41
房総のむらー42

広い庭には竹馬や竹ぽっくり、独楽などの懐かしい遊び道具が用意されています。
最近の子供たちには新鮮な遊びでしょう。


房総のむらー24
房総のむらー25
房総のむらー26

名主クラスの家なので、納屋や機織り場などがあって、相当広い敷地です。


房総のむらー27

道端に庚申塚がありました。


房総のむらー31
房総のむらー59

成田安食バイパスをまたぐ橋を渡ります。
ここにも「網つり」がありました。


房総のむらー28

広場の先に能舞台が見えます。
大栄町の諏訪神社にあったものを参考にして造られたものです。


房総のむらー29
房総のむらー43

広場の奥に茶店がありました。
お茶とせんべい、きんつば、ラムネだけのメニューですが、
ちょっと歩き疲れた足には恰好の休憩場所です。


房総のむらー44
房総のむらー46
房総のむらー47

茶店を過ぎるとアップダウンのある坂道が続きます。
やがて、下総の農家、安房の農家が畑をはさんで建っているのが見えます。
江戸時代の農家を資料をもとに再現したものです。


房総のむらー48
房総のむらー49

散策路のあちこちに五穀豊穣や災難を避けるための藁人形があります。
木の枝に巻きつく蛇にはちょっとびっくりしました。


房総のむらー30

木々の間から田んぼが見えてきました。


房総のむらー50

水車小屋が現れました。


房総のむらー51

江戸時代末期の水車小屋を再現したそうで、結構複雑な構造です。
昔は田舎に行けばあちこちで見られた光景ですが、
今は観光施設や和風料理店のお飾りでしか見ることができなくなりました。


房総のむらー52

田んぼは谷戸の奥まで続いています。


房総のむらー33

メインストリートに戻り、お蕎麦屋さんに入りました。
昼時の短い時間ですが、実際にお蕎麦を食べることができます。

二階に上がって通りを眺めることもできます。
向いの店の前には籠が置いてあります。
駕籠かきはいませんから、これはお飾りですね。

房総のむらー34

休日ともなれば結構団体客がいて賑やかな通りですが、
平日の昼下がりは見学客もまばらで、静かでのんびりした昼下がりです。


房総のむらー53

出入り口の木戸の脇に明治初期の「書状集箱」を模したポストがありました。
実際に郵便局の集配があります。


房総のむら-35

正面の門はふだんは閉まっていますが、
タイムスリップの入り口としてはなかなか趣があります。
左側の木戸から入場します。

日常のしがらみから解放され、
森林浴をかねながら江戸時代に思いをはせるのも良いものです。


             ※房総のむら   印旛郡栄町龍角寺1028
              JR成田線安食駅から龍角台車庫行きバス10分
              「房総のむら」下車、徒歩3分
              入場料 300円 学生150円 中学以下・65歳以上は無料
              月曜・年末年始は休業           

              



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公園・施設 | 19:34:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
江戸時代にタイムスリップ、「房総のむら」。
今日は「県立房総のむら」を訪ねます。

房総のむらー1

「房総のむら」は印旛郡栄町にある「参加体験型博物館」です。
昭和61年に開館し、平成16年には隣接する房総風土記の丘と合併しました。
自然豊かな丘陵地帯に展開される博物館は、一日では回りきれない広さです。


房総のむらー2
房総のむらー58

駐車場で千葉県のキャラクター「チーバクン」が出迎えてくれました。
あちこちに引っ張りだこで大忙しですね。


房総のむらー54
房総のむらー6

江戸時代の街並みを再現したメインストリートです。
店も看板も当時のままを復元しています。


房総のむらー37
房総のむら-36

日替わりでどこかの店が実演と体験ができるコーナーを開いています。
勾玉つくり、張子の絵付け、千代紙ロウソク、をはじめ様々な体験ができます。


房総のむらー13
房総のむらー7
房総のむらー9
房総のむら-8

店の中も凝っています。
16のお店が並んでいますが、その全てに入ることができ、
二階に上がることもできます。


房総のむらー11
房総のむらー56

小さいながらも本格的なお稲荷さんもあります。


房総のむらー15
房総のむらー14

木橋がかかる掘割には小さな舟が浮かび、大きな鯉がたくさん泳いでいました。


房総のむらー17
房総のむらー38

江戸時代後期の武家屋敷です。
佐倉藩の中級武士の家を再現しています。
意外に質素な感じがしますね。


房総のむらー40

予約が必要のようですが、子供の甲冑や内掛の着付けが体験できます。


房総のむらー16

床の間には大小の刀が掛り、奥の座敷には書見台が置かれています。


房総のむらー18

農村地区に入ってきました。
不思議なものが通りにぶら下がっています。


房総のむらー19

「綱つり」といって、村の入り口にぶら下げて災いを防ぐお守りにしていたものです。
サイコロ、男、エビ、お札、たわし、タコ、女の7つを藁で編んで吊るします。
これはタコです。


房総のむらー20

緑の濃い散策路が続きます。

見所満載なので、続きは明日、アップします。






テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公園・施設 | 23:09:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
三里塚記念公園
今回は三里塚記念公園を訪ねます。



この公園は、成田空港の建設により、それまでこの地にあった
「宮内庁下総御料牧場」が栃木県に移転したため、
我が国の畜産振興に多くの実績を残した御料牧場を記念して造られました。





門を入りしばらく行くと右手に茅葺きの平屋が見えてきます。

これは「貴賓館」で、各国の大公使を招待しての園遊会や、
皇族の宿舎として使われたものです。





玄関から覗くと、内部も外見と同じく和風です。





欄間、襖、畳、障子・・・日本家屋そのものです。
これで外国の客人をもてなすことができたのでしょうか?





いくつかの部屋を抜けて奥の部屋に入ると、洋風の大広間が現れました。
板張りの床に高い天井、照明もシャンデリア風です。
広く大きな窓に白い壁。
これなら外国人を招いてちょっとしたパーティーが開けます。





広い風呂場には総檜の浴槽が。





とても面白いものを見つけました。
雨戸の戸袋を少なくして、室内を出来るだけ明るくするための工夫です。
直角に曲がる場所では雨戸を半分ほど庭側に飛び出させ、角の丸い金具と
溝を削った場所を利用して90度ターンさせるのです。



三里塚公園ー1
三里塚公園ー2

ちょっとしたコツが要りますが、これだと角かどに戸袋は要りません。
お分かりになりますか?



三里塚公園ー3

折れ曲がった長い廊下も戸袋が無いので、陽の光が差し込んで
室内がとても明るくなっています。





芝生の庭には2つの文学碑があります。
左奥にはこの場所に近い駒井野に住んだ文人、水野葉舟の歌碑で、
「我はもよ野にみそきすと しもうさの あらまきに来て土を耕す」とあります。
手前は葉舟の親友の高村光太郎の詩碑で、“三里塚の春は大きいよ。”から始まる
「春駒」という詩が刻まれています。



 

これは裏庭にある防空壕の鉄扉です。
階段を地上から10メートルほど降りたところにあります。
左側の細長く見える斜面は、爆風を逃がす設計で、地上に通じています。

昭和16年に宮内省(当時)から発注され、当時の皇太子(今上天皇)が
戦災を避けてこの地に来られた時のために造られました。





小さな前室の先に主室があります。
壁のコンクリートは75センチ、1メートルの爆風逃しの空間を挟んで
さらに52センチのコンクリート壁で守られています。
広さは3.4坪、電話の引き込みもありました。





爆風逃しのスペースは1メートル、この右側が主室になります。

一般の防空壕とは規模も強度も比べ物になりません。
なお、この防空壕が使われたという記録はありませんが、
この防空壕の存在は機密事項でしたから、真偽のほどはわかりません。





明るい地上に戻り、公園の奥にある「三里塚御料牧場記念館」に向うと、
左側にひっそりと3つ並んだ石碑がありました。

一番左は「獣医学実地教育創始記念碑」です。
明治11年、取香種畜場に獣医科が設けられたことを記念する碑です。

真ん中の石碑には「名馬ダイオライトの碑」と書かれています。
昭和10年に英国から輸入された種牡馬で、子には史上初の三冠馬・
セントライトがいます。(ダイオライトは閃緑岩の意)
右の石碑は「名馬トウルヌソルの碑」です。
昭和2年に英国から輸入された馬で、第1回日本ダービーの優勝馬・
ワカタカをはじめ多くのダービー優勝馬を輩出しました。
東京の目黒競馬場跡の近くに銅像があるそうです。
(トウルヌソルはひまわりの意)





記念館の前庭に新山荘輔博士の銅像が建っています。
下総御料牧場をはじめ各地の御料牧場長を勤め、三里塚近郊の振興や
児童たちの奨学に大きな功績を残した人です。





残念ながら記念館の内部は撮影禁止です。
内部には御料牧場の歴史や畜産や農耕に関する資料の展示があり、
2度にわたって行幸された明治天皇や昭和天皇が行幸された時の記念品等が、
展示されています。





葉舟をはじめ高村光太郎、窪田空穂、前田夕暮、水町京子等の
三里塚ゆかりの文人たちの作品も展示されています。





公園の入り口から記念館へと続く一本道はトチノキ並木です。
左奥にある細い散策路に沿って桜が植えられ、こちらは桜並木になっています。
数本の八重桜が残り少ない花を咲かせていますが、
2週間ほど前には、大勢の花見客でさぞかし賑わったことでしょう。



          ※三里塚記念公園  成田市三里塚御料1-34
           JR成田駅東口からから三里塚行き、または多古行き・八日市場行きで
           三里塚下車。来た道を戻る方向に徒歩3分。
           入場無料。貴賓館は原則として内覧はできません。
           記念館も入場無料。駐車場あり。




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公園・施設 | 18:41:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
再びさくらの山へ
桜が七分咲きの「さくらの山」に先週に続いて立ち寄ってみました。
さすがに平日の朝ですから人影もまばらです。





遠くの管制塔にもほんのり春霞がかかり、
いよいよ春本番です。





今日は滑走路の南端から
さくらの山に向かって離陸する風です。
頭上の桜の花の合間から、
遠い外国に向かう旅客機が見えます。





週末には桜は散り始めるでしょうから、
午後には何んとか時間をやり繰りした人達で賑やかになることでしょう。





昇りきらない朝日を受けて、桜の影はまだ長く
散策の人の足元に延びています。

この散策路の下には京成電車が走っています。
幼い子どもたちは上空の大きな飛行機よりも
金網越しに見る電車の方が好きなようです。







来週にはさくらの山は葉桜となり、
いつもの穏やかな時間と、時々それを揺るがす飛行機の轟音の
世界が戻っていることでしょう。







     ※さくらの山
      先週さくらの山への道順を記しましたが、駐車場も整備されていますので
      やはり車で訪れる方が良いと思います。
      100台程度の駐車スペースがあります。




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公園・施設 | 20:20:59 | トラックバック(0) | コメント(2)
次のページ