明治十九年(1886)六月に作成された「下總國下埴生郡成田村誌」に「名勝」として次の
ような記述があります。
【新勝寺境内ノ東端ニアリ、東和田、日吉倉ノ田畝ヲ東南ニ望ミ本村ヲ直下トス。風光壮快
ナリ。本地ハ新勝寺住職故原口照輪是茲ニ見ルアリテ、好樹木数株ヲ漸次ニ他ヨリ移シ
蕃植シ求メタレハ、樹林蒼々トシテ名勝ノ区画ヲ存スル。】
前回に「(日光の)五重塔の先は柵に囲まれた展望台のようになっていますが、木々が生い
茂り、残念ながら見晴らしは良くありません。目を凝らすと、成田駅方面がわずかに望めるよう
です。」と触れた場所が、その「名勝」と言われた所だったのかも・・・と思いつきました。

これがその場所。 柵で先には進めませんが、ちょっとした台地のようなスペースがあります。


東南の方向 →

残念ながら東南の方向は鬱蒼と樹木が生い茂り、遠くを見渡すことができませんが、地図で
見るかぎり、ここから東南方向には東和田・日吉倉があります。
当時のここからの景色は、遙か先まで見渡せるのどかなものであったことでしょう。


東和田方向から成田山を望遠で望むと、ビルの先に大本堂の大屋根が見えます。
明治十九年当時なら、視界を遮る高い建物などは無く、正面に当時の本堂(現在の釈迦堂)が
しっかり見えたでしょうね。
さて、前回からの続きです。

小さなサークルのような場所から始めます。

大正十二年(1922)の「永代御膳料奉納碑」。
「磐城平町 大新榮講 鈴木得鑁」と刻まれ、世話人として井上貞治郎の他十二名の名が
刻まれています。
平町は現在のいわき市で、この奉納碑が建立された当時は石城郡平町。

(左奥) 大正七年(1918)一月の「永代御膳料奉納碑」。
「幕張村 市原任三郎」と刻まれています。
幕張村は現・千葉市花見川区と現・習志野市にまたがる地域にあった村です。
明治二十八年(1896)には町制施行で「幕張町」になっていますが、この時代は
住民にとって新たな行政区域の浸透が薄かったのでしょうか?
(手前) 大正二年(1913)六月の「永代御膳料奉納碑」。
「栃木縣下都賀郡中村 石川政之助 石川福次 石川寅之進」と読めます。
「下都賀郡中村」は現・小山市。
(左) 大正三年(1914)三月の「永代御膳料奉納碑」。
「石川縣能美郡小松町 佐野とよ」と刻まれています。
能美郡小松町は、現在の小松市です。
(右) 大正三年(1914)十二月の「永代御膳料奉納碑」。
「武藏國埼玉郡新方村 金岡祐元」と読めます。
新方村は現・越谷市。

(左) 大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
「陸奥國八戸町 高橋常太郎 妻ふく」と刻まれています。
八戸町は当時は三戸郡に属していて、現在の八戸市の中心部あたりです。
(中) 明治四十一年(1908)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
香取郡香西村岩澤新兵衛と刻まれています。
香西村(かさいむら)は現・香取市の西部にあたります。
(右) 大正五年(1916)八月の「永代御膳料奉納碑」。
「石川縣能美郡小松町 渡邊そと」と読めます。

(左) 大正十五年(1926)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
「猿島郡新郷村 長澤茂一郎 長澤善三郎」と記されています。
猿島郡新郷村は、現・古河市になります。
(中) 大正六年(1917)の「明大講記念碑」。
「水戸市上市」と刻まれています。
(右) 大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
「府下大井町 白米商 鈴木保五郎 仝未次郎 仝タツ」と記されています。

(中央左) 明治四十四年(1911)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
「茨城縣結城郡石下町 山田清三郎」と刻まれています。
結城郡石下町(いしげまち)は、現・常総市になります。
(中) 大正六年(1917)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
福島縣石城郡平町 小林サツ」と読めます。
石城郡平町は、現在のいわき市。
(右) 明治四十五年(1912)二月の「永代御膳料奉納碑」。
福島縣邑樂郡六郷村 鑓田三四郎 仝利平」と刻まれています。
邑樂郡六郷村は、現・館林市になります。

今さらですが、「講」とはどんなものなのでしょうか?
「新修成田山史」(昭和43年)に次のような解説があります。
【 講について
講とは本来講演の意味で集会の席上で経論等を講演論議することを云うのである。「法華
八軸」を講議するのを「法華八講」と云い「最勝王経」・「仁王経」等を講議するのを「最勝講」
・「仁王講」と云うが如きである。かくの如く講の歴史は頗る古く、推古天皇一一年に聖徳太
子が諸法師を小墾田宮に招いて「安宅経」を講ぜしめたこともあり又太子自身も「勝鬘経」・
「法華経」を講ぜられたことは歴史上有名なことである。尚其の後も各時代、宮中及び諸寺
で行われたことは非常に多く特に「仁王経」・「金光明最勝王経」の読誦は宮中の恒例となっ
ていたのである。こうした上堂方の行事が民間に移動し、一定の日を決めて庶民が仏寺に
集会して僧侶を請じて法談を聴聞することが行なわれるようになった。そこで「観音講」・「地
蔵講」等と称せられるようになった。 (中略) 江戸時代の随筆「翁草」の一九一の雑話の中
に「昔より仏家に観音講等あり、近世伊勢講と称し、結衆銭を集め貸之・・・・・・」とある。この
風習は参詣の為めに積立てをした金を講員に貸すまでに発展したもので先述の「たのもし
講」の起源とも云うべきであろう。偖て、古代に於いては上述の如き意味であったが、其の後
語義が変じて遂に仏事參詣等宗教的行事の為めに集会する意になり、その集団を講又は
講社と称し其の加入者を講中と云うようになって登山参詣と云う宗教的行事に発展したので
ある。」 (P349~350)
多くの奉納碑に刻まれている「講」や「講社」とは、簡単に言えば、 神社・仏閣への参詣や寄進
等を行なう信者の集まりです。

(左) 大正六年(1917)九月の「永代御膳料奉納碑」。
「葛飾郡大島町 大須賀菊次郎」と記されています。
葛飾郡大島町は、現在の東京都江東区の東北部にありました。
(中左) 大正四年(1915)の「永代御膳料奉納碑」。
「東京芝區新錢座町 藤本恭助」と刻まれています。
新錢座町は、現在の港区浜松町1丁目あたりで、寛永十三年(1636)に江戸で
最初の銭貨鋳造所が設けられたことから付けられた地名です。
(中右) 大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
群馬縣邑楽郡三●谷村 三田庄作」と読めます。
この時代の邑楽郡の村名の中には該当しそうなものはありませんでした(あえて選
べば、四ッ谷村・入ヶ谷村の二村、または田谷村・中谷村・細谷村・鍋谷村・仙石村
・籾谷村の六村)。
(右) 大正七年(1918)一月の「永代御膳料奉納碑」。
「茨城縣那珂郡芳野村 水戸藩士族 鈴木昂之介」と刻まれています。
那珂郡芳野村は現在の那珂市の西部にあたります。
「士族」とは、明治維新後に旧武士階級をはじめとする禄を得ていた者のうち、華族
に取り立てられなかった者に与えられた身分で、戸籍には「士族」と身分表示が記さ
れていました。
この制度は昭和22年の民法改正時まで続きました。
あえてここに「士族」と刻んだ鈴木昂之介氏の心情とは、武士階級の崩壊から50年
経っても捨てきれぬ「誇り」なのか、単なる過去への郷愁なのか、それとも時代への
怨嗟なのか?
できれば聞いてみたい気がします。

明治四十五年(1912)一月の「永代資堂講奉納碑」。
「新榮講 行者 野村英海」と刻まれています。
台座には「武蔵 川越」と彫られています。
さらに「比企郡松山 行者 中村海運 同郡南吉見村 行者 岡野海寶」の文字も読めます。
比企郡松山は現在の東松山市、南吉見村は現在の比企郡吉見町です。
左の小さな碑は、大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
川越と武州松山の新榮講の奉納です。

(左) 大正七年(1918)三月の「永代御膳料奉納碑」。
「平沼福次郎」と刻まれています。
崩し字で読みにくいのですが、「請負業」と刻まれているようです。
(右) 大正八年(1919)二月の「永代御膳料奉納碑」。
「文京 日本橋區元濱町 合名會社 中村商店」と刻まれています。
隣の灯籠は、竿の部分に「御半」と刻まれていますが、その他の文字は読めません。
「御半」の意味は分かりません。
「御半下」なら、召使い・下女という意味ですが、灯籠に刻む文字とは思えません。

(手前) 明治四十三年(1910)三月建立の「永代御膳料奉納碑」。
「横濱市伊勢佐木町 足袋卸商 岡田佐金次」と刻まれています。
(中央) 大正八年(1919)九月建立の「永代 護摩料」奉納碑」。
「東京浅草千束町 鳥料理 みまき(「ま」は崩し字)」と刻まれています。
(右) 大正五年(1916)九月建立の「永代御膳料奉納碑」。
「北海道網走港 福米講」と読めます。
(右奥) 大正八年(1919)五月建立の「永代御膳料奉納碑」
「東京府下日暮里元金杉 東京硝子管製作所」と記されています。

大正七年(1918)四月の「永代御膳料奉納碑」。
「弘運講」「埼玉縣大里郡大寄村」「講元 森田周藏」と刻まれています。
大里郡大寄村は現在の深谷市になります。

大正元年(1912)の「成田山 報徳會松戸支部記念碑」。
会長の渋谷保太郎と支部長の澁谷保太郎の名前があります。

大きい方は、大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
「埼玉縣北足立郡植水村 蓜島辨作」と刻まれています。
北足立郡植水村は現在のさいたま市西区。
もう一基は大正七年(1918)五月の「永代御膳料奉納碑」。
「内陣五講」「講元 五十嵐寅七 高橋忠治」と刻まれています。
「内陣五講」は、「内陣十六講」・「浅草十講」とともに成田山との強いつながりを持った講でした。
「新修成田山史」には、最も古い講として東京の「丸下講」を挙げた後に、
【この講に次いで古いものは「御内陣五講」・「御内陣十六講」・「浅草十講」等があり当山に最も
縁故が深い講社とせられている。】 (P351)
と記述しています。

大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
「山梨縣谷村町 奥孫三郎」と刻まれています。
谷村町は現在の都留市になります。

(手前) 「久保たか先生之碑」。 「一心講」と刻まれています。
「久保たか先生」については手掛かりが見つかりませんでした。
(奥) 明治三十二年(1899)十二月の「一心日護摩講記念碑」。
「東京府南千住」「先達 塚本施心」と刻まれています。

大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
東京市日本橋兜町 行木松五郎」と刻まれています。


大正七年(1918)の「永代護摩修行料奉納碑」。
「大新榮講」「社長 鈴木得鑁」の文字が読めます。
台座の両脇には不動明王の脇侍である矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子( せいたか
どうじ)像が置かれています。




ここに矜羯羅童子と制吒迦童子像が置かれていることは謎です。
三尊像であれば、中央に不動明王を象徴する剣が置かれているはずですが、見当たりません。
欠けたり、失われたような痕跡もありません。


さらに、両童子像はまるで両腕を切り取られたように失っています。
これを見たときに一瞬、廃仏毀釈が頭に浮かびましたが、奉納碑が建立された大正中期には
とうに廃仏毀釈の嵐は過ぎ去っていました。
もしかしたら、この童子像は奉納碑の建立後にどこからか移設されたのではないか?
それは、童子像が置かれた火山岩にはめ込まれた名板にある「田方郡伊東町」(現・伊東市)
や「相州中郡」(現・神奈川県中郡)から運び込まれたのかもしれない。
廃仏毀釈の被害に遭って、修復不能な破損を受けた不動明王の剣を除き、かろうじて残った
童子像を講中の人達がここへ安置した・・・。
両童子像のどこか物憂げで寂しそうな表情を見ていると、こんな想像をしてしまいます。


前回紹介した木遣会の童子の表情


今回の奉納碑の童子像の表情

大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
「大新榮講」「鈴木得鑁」「伊豆伊東町 山田屋 井原平助」の文字が読めます。
「鈴木得鑁」の名前はあちこちで見かけますが、その人物像は不明です。

(左) 大正八年(1919)十月の「永代御膳料奉納碑」。
「岩根政太郎事 家元 港家大夢」と刻まれています。
「港家」は浪曲界の一門です。
(中) 明治四十五年(1912)四月の「永代御膳料奉納碑」。
「埼玉縣北足立郡白子村 常燈元講社 社長 榎本英喜」と記されています。
「北足立郡白子村」は現在の和光市の一部です。
(右) 大正七年(1918)十月の「永代御膳料奉納碑」。
「香取郡大須賀村 高木重左衛門 高木伊助」と刻まれています。
「香取郡大須賀村」は旧大栄町・現成田市の一部です。

明治四十四年(1911)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
「東京兜町 川口關之助 川口佐一郎」と記されています。

「永代護摩料奉納碑」(建立年不明)。
「開永講」「初代先達 平井觀全」と刻まれています。
手前は「永代護摩講連名碑」。

大正六年(1917)十二月の「永代御膳料奉納碑」。
「大成講社 先達 大竹良蔵 一鋤田與右衛門」他三名の名が記されています。

大正四年(1915)の「永代御膳料奉納碑」。
「東京古屋同志會」「古屋良作」他11名の名前が刻まれています。

(右手前) 大正六年(1917)の「永代御膳料奉納碑」(柱状)。
「穀肥料商 永沼嘉右衛門 永沼運造」の名前があります。
(中右) 「拾周年記念碑」(建立年不明)。
「横濱市 寛盛講」と刻まれています。
講の創立十周年なのでしょうか。
(中左) 明治三十九年(1906)九月の「大護摩料奉納碑」。
隣と同じく「寛盛講」とあり、「福重助」の名前が読めます。
(奥) 明治三十九年(1906)一月の「永代御膳料奉納碑」。
「志木町 坂間久次郎」と刻まれています。
「志木町」は現在の埼玉県志木市になります。

大正九年(1920)一月の「永代護摩料奉納碑」。
「新潟縣長岡講中」と刻まれ、台座には昭和15年にはめ込まれた「皇紀二千六百年記念」
と記されたプレートがあります。
「皇紀」とは、日本書紀の記述による神武天皇即位の年(西暦紀元前660年)を元年とする
紀元のことで、大東亜戦争の敗戦まではよく使われていました。
ちなみに、今年は皇紀(紀元)2679年になります。

(左) 「奉納 永代大護摩料」の他は石材の酸化(?)で碑文が読めません。
(中) 明治三十九年(1906)の「永代護摩修行碑」。
「武藏国青梅町 永盛講」と刻まれています。
題額は中興第十五世石川照勤上人によるものです。
(右) 大正二年(1913)四月の碑。(汚れで碑文が読めません)

「成田山 不動尊」の碑。(建立年不明)
「新榮講 水峯清泉」と読めます。

(左) 明治三十九年(1906)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
「東京日本橋區濱町 永井京子」と刻まれています。
題額は石川照勤上人(中興第十五世)のものです。
(中) 「碑石建設寄附 幕張組」「荻田得門」と読めます。
(右) 「碑石建設寄附名簿」「田邊虎松」と刻まれています。

(左) 建立年不明の「永代御膳料奉納碑」。
「新榮講社中 永峰濟衆」と読めます。
(左奥) 明治三十年の「永峰濟衆頌徳碑」。
碑面にビッシリ文字が彫られていますが、柵から遠いため読めません。
「新修成田山史 別巻」に碑面についての記述がありましたので引用します。
【 成田山新勝寺住職権少僧正石川照勤篆額 田中 参撰
成田山信者新栄講社長永峰君卒既葬其徒追慕不措相謀為一大斉出財建碑表之
請文於予予乃表之白人之慶世信而己矣信則人自信之初君有娣帰依成田山来拝
布施歳時靡懈近隣人相従而為伴必来拝以為常其衆日益盛此其功君興有力馬遂
請名於富時之住持照輪照輪命以新栄講邦人結社拝神仏称講娣以明治六年十一
月十三日没享年五十九扵是講衆推君爲長嗚呼死生亦大矣君継娣之遺志捨身成
田山絶食至二十一日貧民病者投財興之自至其家而祷祷禳自是嚮慕帰依者極多
近自千葉遠至北海道入講衆者至二万余人講衆之盛無出於其右者明治十八年六
月受道路修繕之賞状於時之知県十一月受木盃九十二月又受木盃一十九年一月
又受木盃一皆以輔公事也其尽力於公益如此矣其所施捨供田数十頃及供米数百
俵可以供斉有山林数十町可以供護摩其他自珎宝竒竒品及器物之異常者不可枚
擧新勝寺住持三池照鳳其帰仏篤信賜袈裟一領及賞状嗚呼信之及人至於此乎君
東京青山善光寺門前坊長峰喜太郎長子後嗣家又称喜太郎諱済衆幼字和三郎娶
東京柏木成子坊川村喜兵衛長女有子一人名亀太郎為嗣以明治二十四年一月二
十四日病没葬下
印旛郡伊篠村浄泉寺中享年七十三 明治三十年十二月 】 (P651)
【銘文によると永峰は新栄講を組織して新勝寺の参詣を続け、明治六年に没した。
しかし、彼を慕う者は千葉県から北海道に至るまで二万人を越え、そこで彼の恩
に報いるため新栄講から分派した各講などが協力してこの碑を建てるとある。(中
略)碑の題額は新勝寺の中興第一五世石川照勤上人が書き、東勝寺(宗吾霊堂)
の住職田中照心上人が揮毫している。】 (P58~59)
(中央) 「碑石建設寄附内譯」。
「内譯」は内訳のことですから、この碑は寄附者名簿ということになります。
「東京日本橋濱町壹町目壹番地 柳澤久太郎」と刻まれています。
ここからは見えませんが、裏面に寄附者の名前が記されているのでしょう。
(中奥) 明治三十四年(1901)五月の「永代供養料奉納碑」。
「京橋新榮講」と刻まれています。
(右奥) 「碑石建設寄附」。
「東京京橋 新榮講」「行者 清水法善」と刻まれています。

(左) 「碑石建設寄附内譯」。
「東京日本橋區蠣壳町壹丁目四番地 木村猛三郎」と刻まれています。
「蠣壳」は「蛎殻」の異体字です。
(右) 「碑石建設寄附」。
「京橋區 新榮講 八王子部 斎●●吉」
京橋と八王子との関連に疑問が残ります。
もしかすると、お釈迦様よりはるか以前に、法華経を説いた二万の日月灯明仏の最後
の一人が出家以前にもうけた八人の王子に因んだグループなのでしょうか?

大正三年(1914)の「永世大護摩」奉納碑。
崩し字で読みにくいのですが、「成田山御貫主権大僧正石川照勤」「小阪●●」等が読めます。

隣にある灯籠は風化で竿に刻まれた文字が読めません。

大正四年(1915)一月の「永代御膳料奉納碑」。
「東京市京橋區新榮町四丁目 渡村榮左ェ門 妻せき」と刻まれています。
今回はここまでにしましょう。
距離にして僅か4、50メートルの距離しかありませんが、林立する石碑に圧倒される思いです。
一月下旬の梅林では、蕾が少しずつふくらんできたように思えます。
日当りの良い場所の枝には、気の早い白梅・紅梅が寒風に晒されながらも、小さな花を開いて
います。
春はもうすぐです。

******


さて、石碑群はまだまだ続いています。
次回は少し気分を変えて、公園の別の場所を歩いてみようと思います。
その後、この場所にまた戻って、碑面とにらめっこするつもりです。
今回は成田山公園を散策します。
この公園についてはネット上でもたくさん紹介されていますので、ちょっと趣向を変えて、園内
をゆっくり歩きながら、石造物や金石文を丹念に見て行こうと思います(長期の更新無しにつ
いての言い訳と逃げです-追記もお読みください)。
園内にはとても多くの石造物・金石文がありますので、何回かに分けて紹介することになります。

大本堂に向かって右側奥に成田山公園の入口があります。
光明堂の脇や、平和大塔の前など、入口は何カ所かありますが、まずは正面入口(?)から
散策を始めましょう。

【 成田山の境内には、東京ドーム約3.5個分 (16万5000㎡)にも及ぶ広大な公園が整備
されています。公園は仏教の生きとし生けるものすべての生命を尊ぶという思想が組み入れ
られ、不殺生を表す尊い生命をはぐくむ場となっております。また、公園内各所には松尾芭蕉
や高浜虚子など著名な文人たちの句碑があり、先人の足跡を感じることができます。】
(成田山新勝寺ホームページ)

緩やかな石段を上って行きます。
石造物のほとんどは、立ち入り禁止の柵内にあり、風化も進んでいて紀年銘や金石文が良く
読めなくなっています。
可能な限り読み取り、不明部分は「成田山新勝寺史料集 別巻」にある、金石に関する資料
(以下「別巻資料」)等をもとに補足して行きます。
ただ、別巻資料では場所の特定が難しく、類似する石造物の特徴等から推定したものも多く
あります(場所が移動したり、地震等による損壊で撤去されたりしたものもあるようです)。

公園に入って直ぐ右側には「永代御膳料」と竿の部分に刻まれた大きな石灯籠が立っています。
「久富■■」と読めるような気がします。
別巻資料に「久富~」とあるのは、大正十一年(1922)の灯籠のみです。

大寺や 玄関飾る 菊懸崖
石灯籠の隣には、こう刻まれた句碑があります。
「中興第十九世 空如」とあるのは、中興十九世の松田照應師の俳号です。
松田照應師は明治三十六年(1903)成田に生まれ、明治四十五年(1912)に成田山に
入山、昭和3年総本山地積院主事、同9年横浜別院主監、13年権少僧正、16年少僧正、
20年大阪別院主監、21年権中僧正、24年中僧正、28年権大僧正、40年大僧正となって、
大本山成田山貫主となりました。 昭和61年(1986)没。

*****


*****

この辺りは「梅園」と呼ばれ、多くの梅の木が植えられています。
早春の頃の成田山公園は、梅のほのかな香りにつつまれます。

変わった形のこの灯籠には、「 獻燈 」「東京明治座 大正十年五月建立」と刻まれています。
この献灯の二年後、当時久松町にあった劇場が関東大震災で焼失し、麻布十番の末広座を
明治座と改称して興業するなど、苦難の時代が続きました。


公園入口の門をくぐって直ぐに左に入る小径があります。
スダジイの大木の根元に立つ灯籠には、「永代御膳料」と刻まれています。
東京の大久保久七氏が、大正十年(1921)に寄進したものです。
大久保久七氏は日本橋富沢町で呉服商として成功を収めた人のようです。(三田商学研究・
第46巻第2号、同第48巻第3号の織物問屋群生化に関する白石 学氏の論文に、何度か
名前が出ています。)



小径の左側は崖で、右側にはたくさんの紫陽花が植えられています。
崖の下は雄飛の滝(いずれ散策に行きます)になるようです。
目を凝らすと、滝の上にある「洗心堂」の屋根が見えます。

紫陽花の小径を進むと、藤棚が見えてきます。

***


四月下旬から五月初旬にかけて、見事な花を咲かせます。
花の盛りには、ベンチは人々でいっぱいになります。

藤棚からメインストリート(?)へ出る場所に立つ灯籠。
竿下部にかすかに「大正十年十二月建之」と読める文字があります。
別巻資料には年代等の記載が無い灯籠が一基載っていますが、記載されている高さから、
「東京旭一心講」の奉納ではないかと思われます。

藤棚の横の柵内にある、明治十一年(1878)の照輪上人らの句碑。
「花園」(現成田山公園)の完成祝に、三橋梅隣が主催した句会で詠まれたもののようで、
「如是我聞 園の日に 経よみ鳥や 法の花 黙堂」 (黙堂は照輪上人の俳号)
をはじめ約二十首が刻まれています。
「経よみ鳥」とはウグイスのことで、その鳴き声が「法華経(ホケキョウ)」と聞えることから
こう呼ばれることがあります。

照輪上人らの句碑の隣にある小さな石碑には、「大護摩修行」「明治十二年」と刻まれています。

藤棚の脇にある、天明八年(1788)建立の松尾芭蕉の句碑。
「丈六に 陽炎高し 石の上」
この句は、貞享五年(1688)故郷の伊賀の新大仏寺を訪ねた時に、土砂崩れによって
堂塔が破壊され、仏頭のみが石座に残されたさまを詠んだものです。
丈六(じょうろく)とは、仏像の背丈を現す言葉で、仏は一丈六尺(約4.85m)の身長が
あるとされているので、仏像もこれに合わせて作られます。
半丈六像は約八尺(2.43m)、坐像はこの高さが多いようです。


藤棚に入らず、そのまま小径を進むと、「獻燈」と刻まれた古い灯籠があります。
台座に「斎木」「平岡」の名前が読めますが、寄進年等は不明で、別巻資料にもこの灯籠は
見当たりません。


灯篭の先には、明治四十二年(1909)の東京府消防組木遣会の「木遣塚」が見えてきます。
江戸火消し時代の「ほ組」「と組」「ち組」「ぬ組」「わ組」「か組」が再編された「第五区」(現在の
台東区全域、荒川区の大部分、千代田区の一部を担当)が奉納したもので、不動明王を現す
剣を中心に置き、左右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)を従えた
三尊の形式になっています。

***********


**

三尊像は境内の何カ所かで見られますが、光明堂脇にある三尊像の構図とほぼ同じようです。


木遣塚からメインストリートに出る角にある灯籠。
笠の部分に特徴のある、ずんぐりした灯籠です。
「永代御膳料」「大正九年九月」の文字が見えます。
ほとんどの石碑や石造物への接近が、立ち入り禁止の柵またはロープに阻まれている中、
小さな階段に導かれる石碑があります。

照輪上人の碑。
中興第十三世照輪上人は、文化十二年(1815)上総富津の生まれで、字は貫瑞、黙堂と
号しました。
【 抑〻成田山公園は、当山光明堂右側丘陵地の一部に始まり、漸次に拡張せられて現公園
となったのであるが、もとこの場所は平坦な芝地で、当山開帳等の場合には、此処に各種の
興業場が設けられ、就中曲馬の興業は最も盛んに行われていた関係から古くは此処を「曲
馬場」と称し、又一方屢〻佐倉藩郷兵の調練場となったところから、一名「調練場」ともいわれ
ていた。然るに其の後照輪上人は、一般參詣者並びに信徒の慰安を図る為め、明治九年(一
八七六)此の地に花園を造る計画を立て、同一〇年此の芝地を開拓して梅樹を植えて梅園と
し、藤棚を設け、池を掘って花菖蒲を植え、更に桜樹・花卉等を裁えて、「花園」又は「花屋敷」
と称し、其の南側には四阿を建て、上人自ら筆を執って「華胥」と題し、屢〻歌人・俳士・文人・
墨客を集めて、清遊を試みた処である。蓋し当時この園は、艶美恰も華胥の境に遊ぶが如き
感があったからであろう。】 (「新修成田山史」 P166~167)


【 公園内の「金蘭不朽」の碑の右方、一段高き丘上にある銅碑で、三段の墓石の上に立ち、
高さ三メートル、巾一・一〇メートルの雲竜の縁付の鋳造物である。明治二一年(一八八八)
一一月二九日昭昭輪上人の七回忌に際し、三池大僧正の建立せるものであって、照輪上人の
伝記を詳細に誌してある。「照輪和尚之碑」の六字の題額は、北白川宮能久親王殿下の御染筆
にして、撰文は上人と蘭交ありし宗伯浅田惟常氏。書は高橋泥舟氏、鋳造人は川口住の永瀬
正吉である。】 (「新修成田山史」 P659 赤字の「昭」は「照」の誤植と思われます)
碑文にはこう記されています。
【 照輪和尚之碑 二品大勲位能久篆額 泥舟隱士高橋精一書
師諱照輪字貫瑞號黙堂姓原口氏下總國周准郡富津村人父半藏母某氏師生而頴異文政甲申
中從下總國新勝寺主照胤薙染爲僧時年甫十歳天保中就照恵和尚受戒後入京師智積院顕密
二教凡二十余季學就住于江都浅草正福院慶應丁卯衆推襲其師新勝寺職明治中擢七級教導
試補暦階級至権中教正兼眞言學頭当此時寺務倥怱冗費極多師入寺後慈忍化行百廃倶擧称
爲中興繼之築明王支院於東京及横浜高崎等修行徳詣成田道路改架佐倉鹿島橋時供學校警
署育児訓児等費官屢賜銀杯以賞之明治十四年 皇上臨三里塚種畜場以本寺爲行在所特許
拝謁賜紅白縐各一匹金百錠越十五年又臨幸賜菊章銀杯三脚絳錦二巻金百錠他寺之所罕世
以爲栄焉師賦性慈緩端重寡言夙夙起奉事不動明王日佛有盛衰道不虛行在其人勉勵耳終身
持行不倦誨人則務以身卒惓惓唯恐其力之不逮故其道風雅量爲世所欽如此師以文化乙亥二
月廿一日生以明治壬午十一月廿九日示寂世壽六十八僧臘五十八檀越慕之如哀妣師會在都
下十八年與貴紳名流驩又與異邦名士爲詩文之友傍通諸子百家書頗有文字禅之名蓋逃于墨
而仍不失爲儒者也記距今六年余與門生林静斎訪師盧一見如旧識齢亦相若因訂兄弟之盟詩
文贈答殆無虚月師乃爲余撰壽蔵文而今弟子来徴師墓銘潜然不堪存没之感余曷得辞乎為之
銘曰
仁風披拂成田雨 炎威薫騰聖尊煙
非斯師誰能爲之 非斯道孰得其縁
神朗気清仙耶佛 宜矣其徳蚤達天
明治十九年九月 明宮尚薬 従六位 浅田惟常謹撰 】
(「新修成田山史」 P659~660)
この「照輪和尚の碑」は、一段と高い場所にありますが、向かって左側に少し下りると、「金蘭
不朽の碑」があります。


この碑は、生前の漢方医学の大家である浅田宗伯と、原口照輪との親しい交わりを記したもので、
題額は勝海舟、撰文は石川大僧正、書は浅田惟恭によるものです。
【 際洋医跋扈之時凛然持長沙之正脈者非栗園浅田先生乎當佛教衰頽之日毅然掲不動之法幢
者非我師黙堂上人乎其精神気魄俱足壓當代而動後世矣明治十二年己卯先生拉其門人林静斎
訪上人於我成田山新勝寺先生與上人意気相投年歯相若握手驩甚因直訂兄弟之盟爾來交情日
厚山河雖隔雁魚頻通夢寐之間不能相忘於懐也是實希世之佳遇而雖由先生之與我師有道心相
印者安知非不動明王之冥助陰誘哉十三年庚辰先生自建壽碑題曰寂然不動上人爲之銘十五年
壬午上人示寂先生撰其墓碑銘二十七年甲午先生亦逝矣今玆丁酉静斎與院代峰川照和等相謀
募浄財建一大碑将傳金襴之交於不朽其志可嘉也庶幾千歳之下聞二老之風者使薄夫敦懦夫立
志焉銘曰
成田之山 蒼翠聳天 両賢相遇 笑指白雲
宿縁甚深 交誼至重 妙諦仁術 萬古不動
明治三十五年五月
成田山新勝寺現住權少僧正照勤謹撰
從二位勲一等伯爵勝安芳題額
東京 淺田惟恭謹書 】
(「新修成田山史」 P661)



照輪和尚の碑からメインストリートをはさんだ反対側に、木々に埋もれた五重塔があります。
繁みの中には小さな奉納碑が立っています。
別巻資料で該当すると思われるのは、大正十一年(1922)の東京穀物商組合の寄進です。


五重塔の先は柵に囲まれた展望台のようになっていますが、木々が生い茂り、残念ながら
見晴らしは良くありません。
目を凝らすと、成田駅方面がわずかに望めるようです。

五重塔の反対側に立つ大きな灯籠。
別巻資料の中に該当すると思われるものは見つけられませんでした。



( 裏 側 )
木(?)のように見える不思議な形状の碑ですが、公園の管理をしていた方の話ですと、木の
化石のようだとのことです。
灯籠奉納碑のようで、かすかに「■田久保」と読めます。

左は明治三十九年(1906)の「日露戦争戦勝紀念碑」。
東京・日本橋の太物商(綿や麻の和服商)の小島勇次郎夫妻による建立ですが、上部の
碑銘には「紀念 東郷書」とあります。
「東郷」とは、日露戦争で連合艦隊司令長官を務めた東郷平八郎のことです。
碑文は風化で読みにくくなっているので、「新修成田山史」から引用します。
【我が国露国との戦争は明治三十七年二月八日に始り、海陸連戦連勝九月四日遼陽を
占領、三十八年一月一日旅順を陥れ三月十日奉天を占領、十六日は鉄嶺も占領せり、
五月二十七日より二十八日までの日本海海戦に敵の船隊をして殆ど全滅に至らしむ後
米国大統領の講和勧告によりてこゝに平和の秋とはなりぬ
御代なれや凱旋門に菊の花 愛宕
香鴻 山岡 昇 書 田鶴年刻 】
裏面には建立のいきさつが次のように刻まれています。
【 此表面は愛宕千葉先生の亀戸に建られし紀年碑を老父勇翁が報国のため先生に乞て
覆刻し成田山に建むといふ時に年七十七其志に感し老父に代りて之を建
嘗て老父の句に
開戦の二月八日や大勝利
明治三十九年冬日
東京日本橋区元大坂町太物商
大坂屋二代 小島勇次郎
妻 なか 】
句にある二月八日とは、日露戦争における最初の戦闘に、勝利した日のことです(二月六日・
国交断絶、二月十日・宣戦布告)。
この紀念碑の右側、成田小学校方向へ下る石段の脇にあるのは、は明治四十一年(1908)の
奉納碑で、「永代御膳料 金五百圓」と刻まれています(寄進・横浜 原田久吉・寿以)。」
現代の貨幣価値に換算すると4~500万円くらいでしょうか。
原田久吉は天保八年(1837)、静岡の佐久間出身で、横浜を拠点に活躍した名士です。

「紀念碑」から少し奥に進むと、明治三十六年の「竜王講内田竜左右頌徳碑」があります。
内田竜左右(文化十三年~明治三十年)は武州葛飾郡桜田村の生まれで、東京・日本橋の
ほか上州、武州に多くの講社を主宰し、安政の本堂再建に大きな貢献をした人物です。
安政の本堂とは、安政五年(1858)に建立された現在の釈迦堂のことです。
現在の大本堂の建立にあたって昭和39年に現在の場所に移されました。

大師像。
ビッシリと張紙があって、刻まれているはずの文字が全く見えません。
寄進者と思われる「立嵜貞助」の名前が読めました。


成田小学校脇へ下る石段の右側に建つ灯籠。
木々に覆われて刻まれている文字が良く見えませんが、辛うじて「獻燈」「石橋利仁」「大正十■」
などが読めます。
「木遣塚」の先にはズラリと石碑が並んでいます。

大東講の護摩木山奉納碑。

護摩木山奉納碑。
奉納者は新栄講の石森安兵衛。

明治九年(1876)、新栄講の「永代護摩木山奉納碑」。
「山坪数四千八百三十五坪」と刻まれています。
護摩木山とは護摩木になる杉を切りだす山のことで、山ごと寄進されるものです。
「酒々井町篠山新田字大山」と読めますが、現在の国道51号線の「公津の杜入口」の信号の
ちょっと先、酒々井町に入って直ぐの右側、ゴルフ練習場やガソリンスタンドがあるあたりです。
手前は奉納者名簿。

大正六年(1917)の「永代御膳料奉納碑」。
山梨・上野原の弘敬講中の寄進です。

これは句碑のようです。
明治三十四年(1901)の建立で、「吉田・太田・和田」等の名前があり、6首の俳句が刻まれて
います。

「永代護摩料奉納碑」。
木に隠れて見にくいのですが、「新明講」「君津郡金田村」と読めます。
君津郡金田村は、現在の木更津市の西部にあたります。

明治三十三年(1900)の「敷石紀念碑」。
「神力講・古谷野」の名前があります。
手前は「鉄柵奉納連名碑」で、明治三十九年(1906)のものです。

明治三十六年(1903)の永代御膳料奉納碑。
弘明講社と記されています。
横にある永代御膳料奉納碑は,大正二年(1913)のもので、「中村平右衛門」の名があります。

左は大正三年の(1914)「玉垣建設補助人名碑」。
真ん中は大正六年(1917)の「百度大願成就」記念碑。
右は明治四十四年(1911)の神生講の「永代護摩料奉納碑」。

明治四十年(1907)の「永代御膳料奉納碑」。

「永代資堂金奉納碑」。
明治四十年(1907)に深谷町と記されています。
「金五百圓」を何かの時の資金として新勝寺に奉納したものです。

「永代御膳料奉納碑」。
「不動講」とありますが、別巻資料には該当しそうなものが見つかりません。
柵の奥にあるため、良く見えませんが、裏面に「嶋野念」の名前が読めます。


大正十一年(1922)の五重塔。
「栃木縣日光町」と刻まれています。


五重塔の奥には明治二十四年(1891)の「永代大護摩修行碑」があります。
成田町の丸成元講社が建立しました。
横にある石碑には講の由来が記されています。
【 丸成講社起因碑
夫天者生々発育之気而不能無不時晦明風雨人者万物之霊長而不免有不虞疾病災害是故人
皆欲去禍害就福利仰神明仏陀之冥護亦古今之常情也抑丸成元講先師原口教正之所金圏而
現住三池僧正之継其志信者長谷川社長及副長諸氏協同組織之実以明治七年起社員三十毎
歳三回必修大護摩以祈講社安全所謂畏彼天命以真実之心行善良之事者社運日趨隆盛不宜
哉雖是因明王之冥護然亦諸氏積善之余慶在新勝寺多年能知其事実故不敢辞也 】
天候不順による災害・疫病から、仏陀に救いを求めて講を組織したようです。
今回はこのへんで。
この先はまたいずれ次回に。


取材を始めた夏の盛りから5ヶ月以上経ち、公園は紅葉の時期を終わろうとしています。
梅がほころぶ早春の日まで、石造物は落ち葉が舞う木枯らしの中で立ち続けます。
続きを読む >>

「坂田ヶ池総合公園」の2回目です。
1回目をお読みになっておられない方は、できれば1回目からお読みください。
家族連れでお弁当持って・・・坂田ヶ池総合公園 1回目 ☜ ここをクリック

「中央広場」を過ぎ、さらに公園の奥へと入って行きます。
10月も半ばとなると、そろそろ紅葉が始まります。

「芝生広場」に出ました。
遊具などはありませんがとても広々としていて、周りには桜が植えられていますので、
春のお花見には絶好の場所ではないでしょうか。


「渓流の径」に入ってみます。
狭い坂道が下っています。


池から流れ出る水が、小さな渓流を作っています。

渓流の終点には小さな公園があります。



ここから先は道路に沿った側溝になって、約1キロ先の印旛沼へと流れて行きます。
小公園のすぐ先をJR成田線が走って行きます。


戻りの道は流れの反対側を歩いてみました。
こちらを歩く人はほとんどいないようで、枯れ枝が散乱し、蜘蛛の巣が行く手を邪魔します。
でも、渓流の眺めは一段と良くなり、意外と深い谷になっていることが分かります。

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「芝生広場」には戻らず、山道を左手に進みます。
右手には木々の間から池の水面が見えていますが、道は徐々に池から離れて行きます。


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やがて、古墳が次々と現れてきます。
それぞれは良く見れば確かに小高く土盛りがされた古墳のようですが、木や笹が生えて
いて、説明の標識がなければ気が付かないでしょう。
これらは「龍角寺古墳群」と呼ばれ、現在確認されている古墳は114基に上ります。
発掘はあまり進んでいないため、不明な点が多いのですが、6世紀~7世紀にかけて
造られたものであるとされています。

突然、見慣れた景色が現れました。
「房総のむら」に入り込んだようです。
「坂田ヶ池総合公園」と「房総のむら」の一部がつながっていました。
この一帯は以前は「房総風土記の丘」と呼ばれていた辺りです。
房総風土記の丘 ☜ ここをクリック


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来た道を途中まで引き返し、⑥と書かれた標識を左に曲がって、坂道を下ります。
この標識は公園内のあちこちに立っていて、道に迷った時などに携帯で今いるところの
番号を知らせると、助けに来てくれるようになっています。
坂を下りるとアヤメやコウホネの群生地として知られる「水生湿生植物園」があります。

ここは池が入江のようになっていて、とても静かな雰囲気です。


少し進むと池の周回路に合流します。
向こう岸には「野鳥観察所」や「ガゼボ」が見えています。

あずまやの周りは「水生植物園」になっています。

池をぐるっと回って、出発点の駐車場が見えてきました。


「片歯の梅」です。
「その昔、坂田ヶ池に住む雄の大蛇が、毎年梅雨時になると土手を越えて長沼の雌の
大蛇に逢いに行きました。その度、田や家を守る土手が崩れてしまったそうです。村人
たちは、土手が崩れないようにするには人柱を立てた方が良いということを耳にしました。
そこへ、子供を背負った女の人が通りかかったので、この親子をふびんと思いながらも
埋めてしまいました。それ以来、土手は崩れることがなくなり村々は助かったそうだ。
ところが、いつの間にか埋めた場所の土手に、梅ノ木が育ちました。しかしその梅は、
実が半分しかないことから片歯の梅とよぶようになりました。その梅ノ木は、埋められた
時に子供が、半分かじったままの梅から生えたものだと伝えられています。」
(成田市ホームページ「坂田ヶ池総合公園」より)
伝承のわりにはちょっと物足りない大きさですが、細かいことは言わないことにしましょう。

遠くに成田・安食線のバイパスが見えています。


「花のテラス」と名付けられたスペースには、きれいな花時計があります。

この池には、周りの山から絶え間なく水が流れ込んでいます。




これからは紅葉のシーズン。
お天気の良い日に、ご家族で「坂田ヶ池総合公園」にお出かけになってはいかがですか?

※ 「坂田ヶ池総合公園」 成田市大竹1450

「本公園は、成田市の北西の市街化調整区域に位置し、JR成田線下総松崎駅から北へ
約1kmの地点にあり、主要地方道成田安食線と成田安食バイパスに挟まれています。
本公園は、平成元年度のふるさと創生事業をきっかけとして、約5haの水面を有する
坂田ヶ池を取り囲み、豊かな自然と水に親しめる市民の憩いの場として整備した総合公園
で、北側に隣接する体験博物館「千葉県立房総のむら」と一体でご利用いただけます。
園内の遊具は、印旛沼周辺に古くから伝わる龍神降雨伝説にちなんで大龍・小龍の形を
しています。また江戸時代に灌漑用として作られた坂田ヶ池には、洪水を防ぐために人柱
にされたという悲しい母と子の物語が今に伝えられています。」
[成田市ホームページ(公園緑地課)より]
成田市ホームページ・坂田ヶ池総合公園 ☜ ここをクリック



よく使われる広さの比較で言うと、「坂田ヶ池」の水面の広さは、東京ドームより一回り
広い位ですが、入り組んだ形をしていますから、もっとずっと広い感じがします。
「坂田ヶ池総合公園」の広さは約17.2haですから、東京ドームの約3.7倍の広さです。

駐車場には県外のナンバーも見えます。
池の周りを時計回りに散策してみましょう。



まず目に入るのが広い芝生の斜面、「斜面広場」です。
前方には大きな吊り橋とジャンボスライダーが見えています。




斜面広場の左側には散策路に沿って「龍の泉」と名付けられた小さな流れがあり、右側には
ジャンボスライダーへ向かう階段があります。


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坂を登ると「森のあそび場」があります。
大きな龍と小さな龍をイメージした、クネクネと曲がった遊具類がたくさんあります。
登ったり、滑ったり、ぶら下がったり・・・、子供たちの歓声が聞こえるようです。
この公園には龍に因んだ名前や施設がいくつかありますが、それはこの地域に伝わる龍の
伝説に因んだものです。
「むかし印旛沼のほとりに心優しい人たちの村がありました。近くの村の人たちは、もちろん
印旛沼に住んでいた竜からも好かれていました。ある年のこと、印旛沼一帯が大日照りで
村の人たちは困り果て一生懸命雨乞いをしました。こうして、いく日か過ぎると、いつも遊び
に来ていた印旛沼の竜が現れて 「日ごろの恩返しに大竜王にしかられて体が断ち切られ
ても雨をふらすべえ」 と言って天に昇りました。しばらくすると空はにわかに曇り始め、大粒
の雨が降ってきました。村の人たちは喜び、天をあおいで竜に手を合わせていました。
すると突然、天を裂くような雷が鳴り、稲妻が走り一瞬村中が明るくなったとき、中天で竜の
姿が三つに裂けるのが見えました。雨に喜んだ村人たちは 「やっぱりオレたちの身代わり
になったんだな」 と悲しみに包まれました。三つに裂かれた竜の体は、頭が安食に、腹が
本埜に、尾が大寺(八日市場)にそれぞれ落ちていました。村人たちは、義理堅い竜の心を
偲んで、せめて供養でもと、それぞれの場所に竜角寺、竜腹寺、竜尾寺を建てたと伝えられ
ています。」
(成田市ホームページ「坂田ヶ池総合公園」より)
※ この龍の伝説に関わる「龍角寺」「龍腹寺」「龍尾寺」については、リンク先を本文の
最後に記載しています。

ここは結構高い場所になっていて、ずっと下に池の水面が見えています。

「りゅうのみち」と名付けられた吊り橋。


吊り橋の上からは、木々の間からジャンボスライダーが見え隠れし、眼下には斜面広場が
広がっています。


管理棟の右手にはキャンプ場があります。



テントサイトは28か所あり、使用料は以下のようになっています。
午前9時~午後4時まで 午後4時~翌日の午前9時
一般・学生 200円 200円
小・中学生 100円 100円
幼 児 無料 無料
[かまど及びテーブルセット]
610円 610円
[詳しくは公園管理事務所 0476-29-1161 (午前9時~午後4時半)まで]



このジャンボスライダーは全長78メートルもあります。
お尻に敷くダンボールを持参すると、良く滑れます。


散策路は適度なアップダウンがあり、緑がいっぱいです。


水辺には沈みかけた木船があったり、干潟のようなところがあったりして、変化があります。



ダイサギやアオサギが羽根を休めています。

西洋風のあずまやで「ガボゼ」と言います。
レジャーシートを敷いて、家族連れがお弁当を広げていました。

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池の中央には浮橋があり、人が渡っていると水鳥たちが寄ってきます。

「中央広場」でちょっと一休み。
この続きは明後日に・・・
「小さな龍の伝説が結ぶ三つの寺」はこちら。
龍角寺 ☜ ここをクリック
龍腹寺 ☜ ここをクリック
龍尾寺 ☜ ここをクリック
「家族連れでお弁当持って・・・坂田ヶ池総合公園(2)」から来られた方、
「家族連れでお弁当持って・・・坂田ヶ池総合公園(2)」へ戻る ☜ ここをクリック



「成田観光館」は表参道の台の坂の真ん中、鰻の「川豊」の向かいにあります。
昭和63年の開館で、蔵造り風のデザインが参道でも目を引く建物の一つです。

1階のエントランスでは大型スクリーンに成田の観光案内が映し出され、インターネット端末も
数台設置されているので、外人観光客が操作する姿をよく見かけます。
受付では成田に関する種々の案内や相談を受け付けていて、パンフレットも揃っています。
(受付に断れば館内の撮影はOKです。)


見学はエレベーターで3階または2階に上がって、1階に下りてくる順路になっています。
3階はイベント室と展示室になっていて、数々の催しが行われます。
2階に下りると2枚の錦絵が目に入ります。


初春の成田詣図(2代目国貞)


御礼参り贔屓船之図(3代目豊国)
これを見ると、昔から成田詣は庶民にとっての一大イベントだったことが分かります。

2階のフロアの真ん中には、昔の成田詣での道中風景がジオラマになって展示されています。
川越し客の奪い合い


大絵馬奉納の船旅


人馬の交換風景




馬で行くも良し、駕籠に揺られて行くも良し。
古い写真や絵も沢山展示されています。

昭和13年の薬師堂前

昭和13年の成田停車場

成宗電車(成田と宗吾霊堂間を走りました)

甚兵衛渡しの風景

大正初期の宗吾霊堂前停車場

軽便鉄道の機関車(三里塚~八街間を走りました。成田~多古間も走っていました。)

昭和20年ごろの木炭バス(成田幼稚園の遠足)

明治36年の成田線喫茶列車(我孫子~成田間)
広重の道中風景



似たような風景がジオラマの中にありました。


江戸時代の成田山です。
台の坂は滑り止めの木材が敷かれていました。
神明山は「アタゴ社」と書き入れられています。
この絵の本堂は現在の「釈迦堂」でしょう。

2階はこんな感じです。

神武天皇(仲之町)

祇園祭で曳き回される山車が展示されています。
展示場所が吹き抜けになっていて、2階から見ても見上げる角度になります。

1階へ下りる階段の壁面には、成田山のポスターが貼られています。


千葉県指定の伝統的工芸品の「下総鬼瓦」と、江戸時代の獅子頭(長谷川権頭藤原政義作)

山車は傍で見るとさすがに迫力十分です。
これを曳いて台の坂を上るのは大変でしょう。
大きなショウケースの中には、山車に載せられていた人形が飾られています。

将門調伏を命じた朱雀帝




外に出ると表参道台の坂は、参拝客の足音、店の呼び込み、鰻を焼く香ばしい煙で、いつもの
賑やかな日常がありました。
参拝の途中で、休憩がてらにちょっと立ち寄ってみてはいかがですか?
※ 「成田観光館」 成田市仲町383-1
JR・京成成田駅から徒歩約15分
入館無料 休館日月曜日(祭日の場合は翌日)、12月20~31日
10月~5月 9:00~17;00
6月~9月 10:00~18:00

航空科学博物館は1989年の開館で、成田空港の南端に隣接しています。



博物館前の広場にはたくさんの飛行機が展示されています。


展示されている機内に入ることもできます。

頭上を轟音をたてて旅客機が飛び立って行きます。


機首部分だけですが、ジャンボ機も展示され、レーダーや空港車両も並んでいます。

駐車場脇にある「航空神社」。


館内に入ると大きな旅客機の模型が目に飛び込んできます。
ボーイング747で、翼を振ったりすることができる可動式の模型です。
エンジンやタイヤ、客室、コクピット等も展示されています。

名機ダグラスDC-8です。
世界で初めて超音速飛行をした旅客機です。


実際の機内が再現されています。




マニアにはこたえられない展示です。



大きな空港のジオラマ
空港内の施設名が書かれたボタンを押すと、その場所のランプが点きます。
子供たちがやみくもにボタンを押しながら、ランプのついた場所を探しています。

航空管制室も再現されています。

(航空博物館ホームページより) リンク:航空科学博物館
フライトシュミレーターによるシュミレーション飛行を体験することもできます。

4階まで来ると空港の滑走路が直ぐ目の前に広がっています。
屋外展示場では年に数回空港関連のイベントが開催されます。
5月に開催された空港車両の展示会の様子を紹介しましょう。


・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・燃料車

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・投光車

何んと言っても人気の中心はスーパー消防車。です


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





体験試乗する子供とタイヤの大きさを比べてみると、この消防車の大きさが分かります。


イベントはほかにもパイロットによる飛行機の話や、空港の話、
航空ジャンク市などが行われます。
館内にはレストランや資料・図書室、売店があり、
子供はもちろん、大人も楽しめる空港と飛行機の博物館です。

※ 航空科学博物館 芝山町岩山111-3
芝山鉄道芝山千代田駅より「AMB南三里塚」行きバス
航空博物館下車(空港第1、第2ターミナルからも乗車できます)
入館料:大人 500円 中高生 300円 4歳以上の子供200円
月曜休館(月曜が祝日の場合は翌日) 開館時間:10時~5時
現在は「房総のむら」と合併してこの場所も「房総のむら」と呼ばれていますが、
昔、何度も来た風土記の丘の名前の方が私にはしっくりきますので、
今回はこちらを使おうと思います。

「房総風土記の丘」は、成田市の西に隣接する栄町にある
広大な敷地に広がる県立の自然博物館です。
以前に紹介した「房総のむら」とは地続きになっています。

100を超える古墳が点在する広大な公園で、
古民家や資料館もあり、散策にはもってこいです。

房総のむらの駐車場から「房総のむら」に入らず、まっすぐ進むと「風土記の丘」です。
この道の左側に「岩屋古墳」があります。
道から少し入ったところにありますので、案内板がなければただの丘にしか見えません。
奈良県の橿原市にある舛山古墳に次ぐ、全国で2番目に大きい方墳です。


古墳に向かう道端で野鳩がエサをついばんでいました。
恵まれた自然環境の中で、人を恐れることなく暮らしているのでしょう、
近づいても全く逃げる気配がありません。

古墳の入り口に着きました。
残念ながらしっかりと鉄扉で閉められていて中には入れません。

扉の隙間からシャッターを切ってみましたが、何も写っていません。
一体この奥にはどんな世界があるのでしょうか。

岩屋古墳を過ぎると、右側に白い大きな木造建築が見えてきます。
「旧学習院初等科正堂」です。



明治39年に建設された学習院の講堂で、
外見はモダンな感じですが、中は重厚な趣があります。
昭和に入って旧遠山村に下賜され、中学校の講堂として利用されてきましたが、
空港の騒音対策のため建て替えを余儀なくされ、この地に移設されたものです。
国の重要文化財ですが、出入り自由で周りに係員もいない状態は
良い状態での保存を続けて行くには不安が残ります。



正堂の裏をしばらく進むと、「旧平野家住宅」が見えてきます。
寛永四年(1751年)に建てられた富津市の名主の家を移設しました。

道の左右に番号の付けられた古墳が点在しています。



さらにしばらく歩くと「旧御子神住宅」が現れます。
安永九年(1780年)に丸山町(現南房総市)に建てられた農家を移設したものです。
梁の太さなどはさすがです。

垣根越しに房総のむらの屋並みを見ながら進むと、「風土記の丘資料館」があります。
残念ながら撮影禁止ですが、この近辺から出土した考古学的に貴重な出土品や
資料を中心に展示しています。

資料館の脇からは「白鳳道」と名付けられた道が龍角寺まで続いています。
(龍角寺については「小さな龍の伝説が結ぶ三つの寺(1)龍角寺」で紹介しました)

資料館の周りは古墳が集中している地域で、「古墳広場」と呼ばれています。


遺跡に囲まれた広場の一角に、面白い立て札を見つけました。
「ぎんなんを持ち帰らないで ぼくらのエサが無くなっちゃう たぬきより」
ぎんなんはタヌキやリスの貴重な食物なのですね。
この一角にはとても多くの銀杏の木があります。
ぎんなんの季節にはまだまだ遠いですが、
ベンチに座っておにぎりを頬張っている100メートルほど先を、
タヌキが悠然と横切ってゆきました。
あわててカメラを構えましたが、ズームのピントが合いません。
モタモタしている内に藪の中に消えて行ってしまいました。
あれはネコにしては大きくまるまるとしていたので、確かにタヌキでした。
それとも・・・歩き疲れて胃袋も膨らんだ時だったので、
もしかして化かされたかな?
※「房総風土記の丘」だけなら入場無料です。(資料館は有料)
房総のむらの入り口を入らず、「ドラムの里」というレストランと
産直品売り場の左を進むと、約3分で岩屋古墳、正堂が見えてきます。

佐倉藩の中級武士の家を過ぎ、
しばらく行くと「上総の農家」が畑の向こうに見えます。



広い庭には竹馬や竹ぽっくり、独楽などの懐かしい遊び道具が用意されています。
最近の子供たちには新鮮な遊びでしょう。



名主クラスの家なので、納屋や機織り場などがあって、相当広い敷地です。

道端に庚申塚がありました。


成田安食バイパスをまたぐ橋を渡ります。
ここにも「網つり」がありました。

広場の先に能舞台が見えます。
大栄町の諏訪神社にあったものを参考にして造られたものです。


広場の奥に茶店がありました。
お茶とせんべい、きんつば、ラムネだけのメニューですが、
ちょっと歩き疲れた足には恰好の休憩場所です。



茶店を過ぎるとアップダウンのある坂道が続きます。
やがて、下総の農家、安房の農家が畑をはさんで建っているのが見えます。
江戸時代の農家を資料をもとに再現したものです。


散策路のあちこちに五穀豊穣や災難を避けるための藁人形があります。
木の枝に巻きつく蛇にはちょっとびっくりしました。

木々の間から田んぼが見えてきました。

水車小屋が現れました。

江戸時代末期の水車小屋を再現したそうで、結構複雑な構造です。
昔は田舎に行けばあちこちで見られた光景ですが、
今は観光施設や和風料理店のお飾りでしか見ることができなくなりました。

田んぼは谷戸の奥まで続いています。

メインストリートに戻り、お蕎麦屋さんに入りました。
昼時の短い時間ですが、実際にお蕎麦を食べることができます。
二階に上がって通りを眺めることもできます。
向いの店の前には籠が置いてあります。
駕籠かきはいませんから、これはお飾りですね。

休日ともなれば結構団体客がいて賑やかな通りですが、
平日の昼下がりは見学客もまばらで、静かでのんびりした昼下がりです。

出入り口の木戸の脇に明治初期の「書状集箱」を模したポストがありました。
実際に郵便局の集配があります。

正面の門はふだんは閉まっていますが、
タイムスリップの入り口としてはなかなか趣があります。
左側の木戸から入場します。
日常のしがらみから解放され、
森林浴をかねながら江戸時代に思いをはせるのも良いものです。
※房総のむら 印旛郡栄町龍角寺1028
JR成田線安食駅から龍角台車庫行きバス10分
「房総のむら」下車、徒歩3分
入場料 300円 学生150円 中学以下・65歳以上は無料
月曜・年末年始は休業

「房総のむら」は印旛郡栄町にある「参加体験型博物館」です。
昭和61年に開館し、平成16年には隣接する房総風土記の丘と合併しました。
自然豊かな丘陵地帯に展開される博物館は、一日では回りきれない広さです。


駐車場で千葉県のキャラクター「チーバクン」が出迎えてくれました。
あちこちに引っ張りだこで大忙しですね。


江戸時代の街並みを再現したメインストリートです。
店も看板も当時のままを復元しています。


日替わりでどこかの店が実演と体験ができるコーナーを開いています。
勾玉つくり、張子の絵付け、千代紙ロウソク、をはじめ様々な体験ができます。




店の中も凝っています。
16のお店が並んでいますが、その全てに入ることができ、
二階に上がることもできます。


小さいながらも本格的なお稲荷さんもあります。


木橋がかかる掘割には小さな舟が浮かび、大きな鯉がたくさん泳いでいました。


江戸時代後期の武家屋敷です。
佐倉藩の中級武士の家を再現しています。
意外に質素な感じがしますね。

予約が必要のようですが、子供の甲冑や内掛の着付けが体験できます。

床の間には大小の刀が掛り、奥の座敷には書見台が置かれています。

農村地区に入ってきました。
不思議なものが通りにぶら下がっています。

「綱つり」といって、村の入り口にぶら下げて災いを防ぐお守りにしていたものです。
サイコロ、男、エビ、お札、たわし、タコ、女の7つを藁で編んで吊るします。
これはタコです。

緑の濃い散策路が続きます。
見所満載なので、続きは明日、アップします。

この公園は、成田空港の建設により、それまでこの地にあった
「宮内庁下総御料牧場」が栃木県に移転したため、
我が国の畜産振興に多くの実績を残した御料牧場を記念して造られました。

門を入りしばらく行くと右手に茅葺きの平屋が見えてきます。
これは「貴賓館」で、各国の大公使を招待しての園遊会や、
皇族の宿舎として使われたものです。

玄関から覗くと、内部も外見と同じく和風です。

欄間、襖、畳、障子・・・日本家屋そのものです。
これで外国の客人をもてなすことができたのでしょうか?

いくつかの部屋を抜けて奥の部屋に入ると、洋風の大広間が現れました。
板張りの床に高い天井、照明もシャンデリア風です。
広く大きな窓に白い壁。
これなら外国人を招いてちょっとしたパーティーが開けます。

広い風呂場には総檜の浴槽が。

とても面白いものを見つけました。
雨戸の戸袋を少なくして、室内を出来るだけ明るくするための工夫です。
直角に曲がる場所では雨戸を半分ほど庭側に飛び出させ、角の丸い金具と
溝を削った場所を利用して90度ターンさせるのです。


ちょっとしたコツが要りますが、これだと角かどに戸袋は要りません。
お分かりになりますか?

折れ曲がった長い廊下も戸袋が無いので、陽の光が差し込んで
室内がとても明るくなっています。

芝生の庭には2つの文学碑があります。
左奥にはこの場所に近い駒井野に住んだ文人、水野葉舟の歌碑で、
「我はもよ野にみそきすと しもうさの あらまきに来て土を耕す」とあります。
手前は葉舟の親友の高村光太郎の詩碑で、“三里塚の春は大きいよ。”から始まる
「春駒」という詩が刻まれています。

これは裏庭にある防空壕の鉄扉です。
階段を地上から10メートルほど降りたところにあります。
左側の細長く見える斜面は、爆風を逃がす設計で、地上に通じています。
昭和16年に宮内省(当時)から発注され、当時の皇太子(今上天皇)が
戦災を避けてこの地に来られた時のために造られました。

小さな前室の先に主室があります。
壁のコンクリートは75センチ、1メートルの爆風逃しの空間を挟んで
さらに52センチのコンクリート壁で守られています。
広さは3.4坪、電話の引き込みもありました。

爆風逃しのスペースは1メートル、この右側が主室になります。
一般の防空壕とは規模も強度も比べ物になりません。
なお、この防空壕が使われたという記録はありませんが、
この防空壕の存在は機密事項でしたから、真偽のほどはわかりません。

明るい地上に戻り、公園の奥にある「三里塚御料牧場記念館」に向うと、
左側にひっそりと3つ並んだ石碑がありました。
一番左は「獣医学実地教育創始記念碑」です。
明治11年、取香種畜場に獣医科が設けられたことを記念する碑です。
真ん中の石碑には「名馬ダイオライトの碑」と書かれています。
昭和10年に英国から輸入された種牡馬で、子には史上初の三冠馬・
セントライトがいます。(ダイオライトは閃緑岩の意)
右の石碑は「名馬トウルヌソルの碑」です。
昭和2年に英国から輸入された馬で、第1回日本ダービーの優勝馬・
ワカタカをはじめ多くのダービー優勝馬を輩出しました。
東京の目黒競馬場跡の近くに銅像があるそうです。
(トウルヌソルはひまわりの意)

記念館の前庭に新山荘輔博士の銅像が建っています。
下総御料牧場をはじめ各地の御料牧場長を勤め、三里塚近郊の振興や
児童たちの奨学に大きな功績を残した人です。

残念ながら記念館の内部は撮影禁止です。
内部には御料牧場の歴史や畜産や農耕に関する資料の展示があり、
2度にわたって行幸された明治天皇や昭和天皇が行幸された時の記念品等が、
展示されています。

葉舟をはじめ高村光太郎、窪田空穂、前田夕暮、水町京子等の
三里塚ゆかりの文人たちの作品も展示されています。

公園の入り口から記念館へと続く一本道はトチノキ並木です。
左奥にある細い散策路に沿って桜が植えられ、こちらは桜並木になっています。
数本の八重桜が残り少ない花を咲かせていますが、
2週間ほど前には、大勢の花見客でさぞかし賑わったことでしょう。
※三里塚記念公園 成田市三里塚御料1-34
JR成田駅東口からから三里塚行き、または多古行き・八日市場行きで
三里塚下車。来た道を戻る方向に徒歩3分。
入場無料。貴賓館は原則として内覧はできません。
記念館も入場無料。駐車場あり。