栄町の利根川河畔に鎮座する「一ノ宮神社」を訪ねます。

「一之宮神社 祭神 経津主命(ふつぬしのみこと)
本殿・亜鉛板葺流造二.二五坪、拝殿・亜鉛板葺寄棟造九坪
境内神社 浅間神社 境内坪数 九二〇坪 氏子 五五戸
由緒沿革 延長二年九月十九日に奉斎」 (「千葉県神社名鑑」 昭和62年)
延長二年は西暦924年、ほぼ1100年前になります。
ご祭神の「経津主之命(フツヌシノミコト)」は香取神宮に祀られている神として知られ、剣神、
または武神・軍神とされています。
さて、境内を見渡しても鳥居が見当たりません。

境内の周りを歩き回ると、風に落とされた木の枝が散乱し、枯れ葉に覆われた、人の通る
気配のない細道の奥に、鳥居がチラリと見えていました。
これがかつての参道なのでしょう。



境内からは300メートルほど離れた場所に建つ鳥居は、平成4年の建立。
「一宮大明神」と刻まれた石の扁額の周りには腐った注連縄が残っていて、少なくとも1年
以上は放置されていたような感じです。
この鳥居や参道の荒れ具合から考えると、今では参道としての役割は失っているようです。


鳥居の先に「矢口区共同墓地」があり、参道の先を 遮る感じになっています。
脇の無縁塚には、宝永・享保・元文・宝暦・寛政などの元号が刻まれた墓石が並んでいます。
ここは以前「花輪堂」と呼ばれるお堂があったところで、毎年4月に神社に奉納される獅子舞
(オコト)が、この共同墓地の前から出発します。
この獅子舞が鳥居をくぐり、社殿へと進む日だけが、参道として蘇る唯一の時なのでしょう。


鳥居をくぐって、参道を神社の境内へと戻ります。

大正二年(1913)編纂の「千葉縣印旛郡誌」は、一宮神社について次のように記述しています。
「村社一ノ宮神社 矢口村字花輪にあり由緒不詳社殿間口一間三尺奥行一間三尺拜殿間口
四間三尺奥行二間境内九百二十坪官有地第一種あり神官は大野橘磨にして氏子八十五戸を
有し管轄廳まで十一里二十町なり五月初旬御田植の式ありて賽客多し」

境内に入った右手に、円筒と手水盤が並んでいます。
円筒形の石造物には、「一宮本地堂」と刻まれ、「文化六己巳年十一月吉日」「當山現住舜海」
と記されています。
ちょっと不思議な形ですが、「千葉県印旛郡栄町神社棟札集成」(平成4年)には、
「中間が膨んだ円筒形に造られた上端は、丁寧な仕上げが施されていないため、この上に
笠石状のものが乗っていたとも考えられ、或いは石灯籠の竿石であった可能性もある。
翌七年の棟札には、この年の八月に大風により大破したため、組物から上方を組直したこと
が記されていて、文化二年(一八〇五)に修造が行われた本殿の再建祈念といえよう。」
と書かれています。(P168)
そして、翌七年の棟札には、次のように記されています。
「文化六己巳年八月廿三日大風裏大杉木 本社江折懸大破舛ヨリ組直修復造営成就
翌文化七年六月朔日吉辰」
手水盤には「明和九辰」の文字が見えます。
明和九年は西暦1772年、「明暦の大火(振袖火事)」、「文化の大火(車町火事)」とともに
江戸三大大火の一つと言われる「明和の大火(目黒行人坂大火)」のあった年です。

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常夜燈には、「天保八丁酉秋九月吉日」と刻まれています。
天保八年は西暦1837年、この年には大坂(現大阪)で「大塩平八郎の乱」が起こりました。

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ご神木の杉。
「栄町の自然シリーズ 第一集」(平成2年)には、樹高約28メートル、根回り6.8メートル、
樹齢は推定300年と記されています。

ご神木の他にも、境内には見上げるような大木がたくさんあります。

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本殿には見事な彫刻が施されています。
「本殿は、一間社流れ造りで、屋根は銅板葺、向拝の虹梁上の柱間に見える竜、その柱上
には獅子鼻、その左右に象鼻そして海老虹梁、前廻り縁の左右にある脇障子の彫刻など、
実に見事である。」 (「栄町觀光ガイドブック」 P16)

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瑞垣の隙間から見える脇障子も、確かに見事な彫りです。

拝殿にも凝った彫刻が施されています。
拝殿は明治四十五年(1912)に建造されました。

「現在の社殿は、安和元年に建造され、安和8年には宮様が訪れていることが石碑などから
うかがわれる。 なお、現在の拝殿は明治45年3月に作られたもので、祭日には獅子舞が
奉納されていた。」 (「栄町觀光ガイドブック」 P16)
安和元年は西暦968年で、約1050年もの昔になります。
ここで、疑問が湧きます。
千年もの歴史を持つ建造物が、国や県の文化財指定を受けず、さらに地元自治体からも
指定を受けていないのはなぜなのでしょう?
棟札等で見る限り、度々修造が行われているようで、さすがに安和元年の社殿が現存して
いるとは考えにくいのですが・・・。
・ 天明五年(1785) 本殿の建立(再建?) (※1)
・ 文化二年(1805) 修造工事
・ 文化七年(1810) 修造工事
・ 慶應二年(1866) 修造工事
・ 明治三十八年(1905) 修造工事
・ 昭和二十六年(1951) 修築工事
火災による焼失の記録はありませんが、何度かの修繕・修造を繰り返し、昭和26年に大幅
な改築を行ったため、安和元年の社殿はもとより、天明五年の社殿の部分すらほとんど残さ
れていない状態となり、文化財の指定には至らないと判定された、と推測したのですが・・・。
栄町に照会したところ、ニュアンス的には”伝承による神社の歴史の古さはあるものの、建造
物としての社殿には文化財に指定するほどの価値はそれほど見い出せない”とのことでした。
栄町には、古刹の「龍角寺」に関連する国や県の指定文化財がありますが、町の指定文化財
としては一宮神社本殿より新しいものもあり、それぞれ建築技法の珍しさや歴史的価値、美術
的価値などを評価しての指定となっています(※2)。
残念ながら一宮神社本殿には、建造物としての古さ以外に、際立った特徴がないのでしょう。
(※1)天明五年の棟札(これにより天明五年に社殿が建立されたことが分かります)
旹天明五乙巳年 遷宮大導師天竺山
聖衆天中天迦陵頻伽聲 龍角寺竪者法印春捍
天下泰平四海静謐
奉 建立一宮大明神社頭一宇棟札所
國郡安全万民快樂
哀愍衆生者我等今敬禮 別當 長見寺法印智道
十一月吉祥日
下総國埴生郡矢口村七箇村氏子中
(※2)日枝神社本殿(寛文十二年・1672)、布鎌神社水神社本殿(宝暦七年・1757)、駒形
神社本殿・文化四年(1807)、大鷲神社本殿・天保二年(1831)、雙林寺大師堂(明治九年・
1876)
なお、「安和8年」は存在しない年号で、「安永八年(1779)」の間違いだと思われます。
「千葉県印旛郡栄町神社棟札集成補遺」(平成9年)に収録されている一宮神社の墨書中に、
小さく 「安永八年亥年宮様御下リ良宮奉称候」 と書かれている部分があります。

拝殿の左側に二基の祠が立っています。
左側の祠は大正十五年(1926)の「出世稲荷神社」。
右は風化で社号、年号ともに不明です。


本殿の裏には小高い塚があり、その上に祠が一つ立っています。
社号は見えませんが、側面には「天下泰平五穀成就」と「安政五午二月」と刻まれています。
状況から、「浅間神社」であろうと思われます。
安政五年は西暦1858年、大老井伊直弼による「安政の大獄」が始まった年です。


塚の下に並ぶ数基の石造物。
左端の一番大きな石柱には、「奉納 御寶前 文化元年甲子九月吉日 當山現住舜海」と
刻まれています。
文化元年は西暦1804年になります。
左から二番目の祠には「天保八酉年」、三番目の祠には「明治十四年」、四番目は二つに
割れて判別不能、そして右端の祠には「万延元申」の文字が読めますが、いずれも社号は
分かりません。
天保八年は西暦1837年、明治十四年は1881年、万延元年は1860年になります。


塚の裏には、100段以上もある裏参道の急勾配な石段があります。

境内の一角にある、明治三十九年(1906)の「戦捷紀年碑」。



葉の裏に文字を書いて文通したと伝えられる「タラヨウの木」。
タラヨウは多羅葉と書き、昔は葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したり、
文字を書いたりしたことから、神社やお寺に植えられるようになりました。
タラヨウとは「もちのき」のことで、樹皮から鳥や昆虫などを捕まえるために使う「鳥もち」を作る
ことができることから、この名前が付きましたが、今では鳥もちなど忘れられた存在です。

一ノ宮神社の隣には「矢口青年館」と駐車場がありますが、神社の境内との境界を示すように、
たくさんの石仏・石造物が並んでいます。

この如意輪観音には「寛文九己酉年」の紀年銘が刻まれています。
寛文九年は西暦1669年になりますので、一宮神社が再建された天明五年(1785)より
110年以上前のものです。
ここは、一宮神社の別当寺の「長見寺」があった場所です。
「千葉縣印旛郡誌」(大正2年)に、「長見寺」に関する記述がありました。
「矢口村字花輪にあり天台宗にして龍角寺末なり如意輪觀世音にして由緒不詳庫裏間口
八間奥行五間境内一千六十坪官有地第四種あり住職は觀音寺住職は弘海尭潤にして檀徒
五十二人を有し管轄廳まで十一里二十町なり寺院明細帳」
「印旛郡栄町寺院棟札集成」(平成6年)に、次のような記述があります。
「長見寺(天台宗) 如意輪観世音 本堂七間×五間半 庫裏八間×五間 由緒不詳。
明治三十九年本堂大破に付き取崩し願い出。現在建物はなく、長見寺は廃寺となっている。」

左の大師堂

寺の境内入口だったであろう場所の左右に「大師堂」があります。
向かって右の大師像には、「文化■■甲戌■」と読める紀年銘が刻まれています。
文化年代で干支が甲戌となるのは十一年(1814)です。
左の大師像の台座には、「万人講」と読める文字が見えます。

右の大師堂の隣には、「新 四國八十三番 一ノ宮山■■寺」と刻まれた石柱があります。
■の部分は「長」の異体字と「見」のように思えます。
四国八十八か所霊場の八十三番は「神毫山(しんごうざん)一宮寺」ですが、一ノ宮にかけて
「一ノ宮山長見寺」としたのでしょうか?(■の部分に疑問が残りますが・・・)
右側面には「讃刕一ノ宮 写」とあります(刕は州の異体字なので「讃刕」とは讃岐地方のこと)。
左側面には「南無大師遍照金剛」、裏面には「文政四辛巳年三月造立」と刻まれています。
文政四年は西暦1821年です。


石柱の隣には「子安堂」があります。
赤子を抱いた子安観音は文化三年(1806)のもので、「十九夜講」と刻まれています。
これは「月待講」と呼ばれるもので、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの
月齢の夜に、村の仲間(講)が集まって飲食を共にし、お経をあげたり、月を拝んだりして
悪霊を払うという宗教行事ですが、「庚申講」と同様に娯楽的色彩を強くもった行事です。

子安堂の向いには風化で年号が読めない地蔵菩薩像と、「權大僧都竪者法印舜海大和尚位」
と刻まれた文政七年(1824)の石碑が並んでいます。
この「舜海」という名前は、境内の多くの石造物に刻まれていて、寺の維持管理に大いに貢献
した方のようです。

右端は天保七年(1836)の読誦塔、その隣は文政二年(1819)の読誦塔です。

安永、寛政年間の供養塔。
「竪者法印秀榮」「竪者法印智觀」などの高僧の名前が読み取れます。

子 安 観 音


左は「法眼宮本豐水之墓」と刻まれた明治十七年(1884)の碑ですが、台座に「文雅堂塾中」
とあるので、墓石ではなく筆子塚だと思われます。
右は三人の戒名が刻まれた慰霊碑のようです。


神社境内と小道を挟んで金属柵に囲まれた、「金比羅大権現」があります。
中央の鞘堂の扉が半開きになっていて、中の祠がみえています。

手前の祠は安政四年(1857)のもので、後ろの細長い石碑は「江川延命所 多賀大明神」
と刻まれた文久二年(1862)のものです。
「多賀大明神」とは滋賀県にある式内社の「多賀大社」のことです。

「栄町観光ガイドブック」には、
「矢口の一ノ宮神社は、延長2年(今から1023年前)に創建したと伝えられているが、一説
では、現成田市松崎に鎮座する二ノ宮神社は一ノ宮神社よりも110年前に創建されている。
しかし、一ノ宮神社の神官外記という人が二ノ宮神社を相続していることから、一ノ宮神社は、
二ノ宮神社よりも前の創建と考えるのが自然である。 伊藤義一氏説」 (P16)
と紹介されています。
「神社由緒禄」に神職外記が二ノ宮神社を相続したとあるのは、斎衝三年(856)のことです
ので、二ノ宮神社を相続した外記と一ノ宮神社の外記が同一人物だとすると、少なくとも神職
としては68年以上現役でいたことになり、(神職になるまでの年齢なども考慮すると)平均寿命
が30歳程度であった時代であることから、この説には少々無理があるように思えます。
いずれにしろ、一ノ宮神社が1100年近い歴史を持つ古社であることは間違いありません。

さて、一ノ宮神社の解説には必ずと言って良いほど、成田市松崎の「二ノ宮神社」、同郷部の
「三ノ宮神社(埴生神社)」との関連が出てきます。
「二ノ宮神社」の解説にも、そして「三ノ宮神社」の解説にも、(確証はないものの)三社には
何らかのつながりがあるかのように書かれています。
「成田市史中世・近世編」に、安政年間に書かれた「利根川図志」にある、一ノ宮・二ノ宮・
三ノ宮の三社についての記述が紹介されています。
「一ノ宮大明神 下総埴生郡矢口村にあり佐倉風土記ニ伝、伝フ延長二年九月十九日祭ルトレ之
二ノ宮大明神 同松崎村にあり年記詳ならず、経津主命を祭と伝
三ノ宮大明神 同成田より二三町西の方郷部にあり、祭神詳かならず、相馬日記に郷部村
に埴生大明神の社ありて、鳥居に当国三ノ宮といふ額をかく、こハ神明帳にハ見えぬ神なり」
(P801 なお、郷部村は成田村の間違い)
「三ノ宮・埴生神社」のホームページには、
「当神社は通称三ノ宮といわれ、その昔物資が利根川流域より運び込まれ、栄町矢口の一ノ宮、
成田市松崎の二ノ宮、そして終点の三ノ宮と順になったとされています。その名残か現在当神社
の向きは真西にむいており、一ノ宮・二ノ宮の方を向いております。」
と書かれています。
旧埴生郡内にある三社は、もともと一ノ宮埴生神社・二ノ宮埴生神社・三ノ宮埴生神社と呼ばれ
ていたのかも知れません。(二ノ宮神社は近年まで「二ノ宮埴生神社」と呼ばれていました)
「二ノ宮神社」 ☜ ここをクリック
「三ノ宮神社」 ☜ ここをクリック



千年の時を刻む境内には、ほのかに梅の香りがただよい、微かな春の足音が聞こえています。

※ 「一ノ宮神社」 印旛郡栄町矢口1
その際、仏に関わる部分を区別したのでしょうが、村人達にとってはたまらない気分だったのではないかと推測しています。
御地での姿を拝見し、一度にそれが胸に迫ってきました。
今は利根川のほとりの一之宮神社ですが、古代には香取の海のほとりに位置していたという立地もあり、古代に鳥見神社だったとすると、常陸風土記にいう
「景行天皇が印波の『鳥見の丘』に立ち、東の方角の海の先に国があると言った」
その『鳥見の丘』が、この一之宮神社の地だったのではないかと、その説では言われていました(佐藤誠氏「常陸風土記における印旛鳥見の丘の一考察」成田史談57号)。
さすがに実際に景行天皇が来たということはないとは思いますが、神社創建の千数百年前の古墳時代の頃、大和政権からはるばる下ってやってきた使者が訪れて、当時香取海を越えたところにあった常陸を眺めて立った場所なのかもしれないですね。
> 「長見寺」はそもそも付けられていた寺号は「鳥見寺」ではないかという話がありまして、別当寺に「鳥見」と読みかえられる名が付いていることから、一之宮神社は鳥見神社と関係があるのではないか(または、元々は経津主之命を祀る神社だったのではなく、饒速日命の神社(古い鳥見神社)だったのではないか)という説があります。
> 今は利根川のほとりの一之宮神社ですが、古代には香取の海のほとりに位置していたという立地もあり、古代に鳥見神社だったとすると、常陸風土記にいう
> 「景行天皇が印波の『鳥見の丘』に立ち、東の方角の海の先に国があると言った」
> その『鳥見の丘』が、この一之宮神社の地だったのではないかと、その説では言われていました(佐藤誠氏「常陸風土記における印旛鳥見の丘の一考察」成田史談57号)。
> さすがに実際に景行天皇が来たということはないとは思いますが、神社創建の千数百年前の古墳時代の頃、大和政権からはるばる下ってやってきた使者が訪れて、当時香取海を越えたところにあった常陸を眺めて立った場所なのかもしれないですね。
成田は近いので、ブログを拝見して
興味の湧いたものは行ってみようと思います。
成田山以外にも、興味深い寺院や神社がたくさんありますよ。