今回は、富里・久能の「駒形神社」を訪ねます。

「駒形神社 旧村社 <祭神>駒形神(こまがたのかみ) <主要建物>本殿・亜鉛板葺流造
一坪、弊殿・同一五坪、社務所・同六坪 <境内坪数>五三八.五七坪 <氏子>一〇〇戸
<神事と芸能>一月二〇日備社。 四月三日と八月二八日に獅子舞(三匹獅子・羯鼓舞)を
奉納する。」 (「千葉県神社名鑑」昭和62年)
御祭神の「駒形神(こまがたのかみ)」とは、あまり聞き慣れない神名ですが、馬の守護神で
あるとされていて、「馬頭観音」の垂迹神であるとも言われています。
「駒形神社」といえば、通常、岩手県奥州市にある式内社(現神社本庁別表神社)を指しま
すが、久能の「駒形神社」も、この岩手の「駒形神社」を勧請したもので、「駒形神社」が多く
分布する岩手・宮城地方と同様に、富里が馬の産地であったことと無関係では無いでしょう。


神社入口の道端に、やや傾いた「道祖神」があります。
この道祖神には「南無道祖神」と刻まれています。
相模地方やその他の地方では、この「南無道祖神」と刻まれた道祖神をよく見かけますが、
これまで私の見てきた成田近郊の多くの道祖神には無かった珍しいものです。
「明和四丁亥」と記されています。
明和四年は西暦1767年で、第十代将軍・徳川家治の治世です。

一の鳥居は石造りの明神鳥居で、昭和49年のものです。

鳥居の脇にある手水盤は、明治四十五年(1912)に寄進されています。
この年の7月には明治天皇が崩御され、元号が大正と代わりました。


ニの鳥居は、控柱のある木製の明神鳥居です。


玉垣に囲まれたこの木は、枯れた幹の根元から蘖(ひこばえ)が生えています。
玉垣には「大當番奉任記念 昭和十五年一月 丸山八代藤崎源之助」と記されています。
この名前は「一の鳥居」にも寄進者として記され、狛犬の台座にも多くの寄進者の中に
寄進者の一人として記されています。

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小振りながら、なかなか重量感のある狛犬は、昭和15年の寄進です。

「富里村史通史編」(昭和56年)には、「駒形神社」はこう紹介されています。
「駒形神社 駒形神・天照皇大神・宇賀御霊命
所在地は、久能字比丘尼内にあり、ここは古くは尼僧寺のあった所かも知れない。 「富里
村誌」によれば、村社で祭神は稚産霊命、大巳貴命、面足少名彦命、惶根命となっている
が創建は不詳である。境内には、明和四年(一七六七)丁亥十一月吉日建立の道祖神が
あり、これは、入母屋式石祠で、「南無道祖神」と彫られている。他に二三夜塔、天神宮など
の石塔、石祠がある。また、四月と八月の祭礼に獅子舞が行われている。」 (P627)
御祭神が史料や時代と共に変わっているのはよくあることです。


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鞘堂に覆われた本殿は、辛うじて流造の屋根が見えるだけで、外からはほとんど見えません。

拝殿の屋根に「立浪」の飾瓦がありました。
神社やお寺の屋根に、火除けのまじないとしてよく見られるものです。
「千葉県神社名鑑」には、本殿・拝殿ともに亜鉛板葺となっていましたが、近年瓦葺きに改装
されたようです。
参道の左右、少し奥まった所に、数基ずつの石造物が並んでいます。

拝殿に向かって左側の石造物は六基です。

一番左には、力石のような丸い石が置かれています。
見たところ、表面にはなにも刻まれていません。

「延享四丁卯」の紀年銘が読めますが、何の石祠かはわかりません。
延享四年は西暦1747年ですから、270年前のものです。
(後述の「千葉縣印旛郡誌」にある、「摩利支天王」かもしれません。)

三番目の祠は、昭和62年の新しいものです。

この五角の柱は、「地神碑」と呼ばれるもので、神々に五穀豊穣を祈願するためのものです。
それぞれの面に、「大己貴命(オオムナチノミコト)、少彦名命(スクナヒコノミコト)、植山姫命
(ハニヤマヒメノミコト)、倉稲神命(ウカノミタマノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)と、
何れも農業に深い関わりを持つ神々が刻まれています。

社号も紀年銘もありませんが、風化は進んでいないので、あまり古いものではなさそうです。

右端にあるこの石には、何やら文様があるように見えますが、風化で判別はできません。


拝殿に向かって右側にも、五基の石造物が並んでいます。
手前にある手水鉢には「明治参拾九年」と刻まれています。
明治三十九年は、西暦1906年にあたります。

左端の石祠には、「妙正大明神」と刻まれています。
この神様については確たる史料が見当たりませんが、どうやら「疱瘡神」のようです。
(市川市にある「龍経山妙正寺」の縁起に出てくる「妙正大明神」の話が有名です)
「寶暦■辛未」の紀年銘があります。
宝暦年代中の干支が「辛未」となるのは「宝暦元年」ですので、西暦1751年のものです。

右にある石祠も「妙正大明神」です。
こちらには「天保六乙未」と記されています。
天保六年は西暦1835年ですから、隣の「妙正大明神」から84年後のものです。

拝殿に向かって左側にあった石宮と同じもので、昭和62年と記されています。

「奉勸請廿三夜月天王」と刻まれたこの石塔は、弘化二年(1845)の月待塔です。
月待講は通常仏教の世界での行事とされていますが、神道でも行われることがあります。
仏教の二十三夜講では「勢至菩薩」を信仰の対象としますが、神社にある珍しい月待塔の
信仰対象は、「月読尊(ツクヨミノミコト)」になります。

右端のこの石祠は、風化で刻まれている文字が読めませんが、上部は「三」と読めるような
気がしますので、「三峯神社」ではないでしょうか。

「千葉縣印旛郡誌」には、「駒形神社」について次のように記述されています。
「村社 駒形神社
久能字比丘尼内にあり稚産靈命大己貴命面足少名彦命惶根命を祭る創建不詳なれども
明治四十三年三月許可を得て仝村大字久能字久保臺にありし無格社妙正神社仝村大字
宮谷にありし無格社皇産靈神社を本社に合祀し祭神を配祠せり本殿間口四尺六寸奥行
六尺七寸雨屋間口二間三尺奥行三間境内百八十坪官有地第一種あり神官は篠原周助にして
氏子三十九戸を有し管轄廳まで八里十一町五十四間なり境内三社あり即
一、天照皇太神 大日靈女貴命埴山姫命少名彦命倉稲魂命大己貴命を祭る由緒不詳
建物は石祠にして高三尺一寸横五寸
二、廿三夜月天王 月夜見命を祭る弘化二年己年勸請建物は石祠にして高二尺三寸
横七寸
三、摩利支天王 武甕槌命を祭る由緒不詳建物は高三尺一寸横九寸の石祠なり 」
神社の境内では、毎年4月3日と8月の最終日曜日に、五穀豊穣や交通安全などを祈願する
獅子舞が行われます。
「久能の獅子舞」と呼ばれ、約300年前から行われてきた伝統芸能で、富里市の指定民俗
文化財となっています。

(富里市教育委員会生涯学習課 提供)
富里市のホームページに、この獅子舞の”ストーリー”が紹介されています。
「獅子舞は、頭の大きなものから順に「雄獅子」「中獅子(雄)」「雌獅子」と呼ばれる3匹の獅子
によって演じられ、笛と大小太鼓の囃子に合わせて舞を踊ります。
久能の獅子舞は別名「やきもち獅子」とも呼ばれており、1匹の雌獅子をめぐる2匹の雄獅子
のストーリーが展開されます。
4段の場から構成されていて、1段目の場では、雌獅子と雄獅子がそれぞれの個性を表わし、
2段目では、3匹が入り乱れ仲良く踊りに興じます。3段目では、雄獅子2匹による雌獅子の
独占争いが始まります。争いは、話し合いという形で始まりますが、何度話し合いをしても
折り合いがつかず、そのうちに雄獅子同士の喧嘩が始まってしまいます。
喧嘩の様子はユーモラスで、勝ち獅子は右に左にと大きく飛び回り、倒れて負け獅子が立ち
上がろうとしているところに出向き、「どうだ!参ったか」というような仕草を見せます。 結局、
勝負は引き分けとなって、舞は4段目に移ります。 2匹の雄獅子は争いの愚を悟り、最初の
ように3匹の獅子は仲直りして舞は終わります。 近隣で行なわれている獅子舞は、勇壮な
ものが多いように見受けられますが、この獅子舞は、勇壮な場面の中にユーモラスな動きを
含め、民俗芸能としての娯楽性を備えています。」

(富里市教育委員会生涯学習課 提供)
獅子舞の行われる境内の賑やかさが想像できないほど、普段の境内は静かです。
鬱蒼とした木々に囲まれ、日中でも薄暗く、曇天の日はフラッシュが必要なほどです。




それにしても、この森には圧倒されます。
杉やスダジイの巨木が何本も、何本も・・・。


通りの反対側にも幹周りが7~8メートルはあろうかという巨木が・・・。



久能の「駒形神社」は、交通量の多い道路に面していますが、巨木に囲まれた社殿と境内は
忘れられた空間のように静寂に包まれています。

※ 「久能 駒形神社」 富里市久能553
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「観照院」は富里市立沢にある真言宗智山派のお寺で、山号は「徳羅山」。
ご本尊は「大日如来」です。
「立沢字天神前ニアリ、真言宗ニシテ霊通寺末ナリ、大日如来ヲ本尊トス、堂宇間口五間
奥行七間半、境内八百十九坪アリ、住職ハ兼田宥海ニシテ檀徒百二十五人ヲ有ス」
大正十年(1921)の「富里村誌」には、「観照院」についてこれだけの記述しかありません。


寺号標の手前に「六地蔵」が並んでいます。
六地蔵は宗派やお寺によっていろいろな呼び名があるようで、ここでは、
破勝地蔵、不休息地蔵、延命地蔵、讃竜地蔵、弁尼地蔵、護讃地蔵となっています。

六地蔵の隣には地蔵堂があります。
台座には「念佛講中」とあり、紀年銘は宝暦だけが読み取れます。




境内の入口には、左右に大きな仁王像が立っています。
曲がりくねった急坂を登ってくるので、目の前に突然現われる大きな石像に驚かされます。
階段の上にあることもあって、見上げると強い威圧を感じます。

賽銭箱の上に、「大日如来」と記された金属板が置かれています。
周りに七本の蝋燭を立てて、光背を意味しているのでしょうか。

「創建については不詳だが、鎌倉時代の豪族である千葉氏系の立沢四郎太郎胤義一族の
建立に架かるものではないかと思われる。」
「境内から室町時代のものと思われる宝篋印塔と応永九年(一四〇二)の銘をもつ五輪塔
が出土しており、寺の創建になにか関係があるのではないだろうか。」
(「富里村史 通史編」 昭和56年 富里村史編さん委員会 P618)
「観照院」は、少なくとも六百数十年の歴史を有するお寺のようです。

本堂左手に立つ「引導地蔵尊」、「水子地蔵尊」、「輪法地蔵尊」。

本堂右手には平成11年に建立の「修行大師」像。
弘法大師・空海の 修行時代の姿です。

「修業大師」の隣には、昭和51年に建立の「慈母観音」。


草むらに埋もれた十九夜待塔とお地蔵様。
月待塔には天保四年(1833)と記されています。
お地蔵さまの台座は土中に埋まっていますが、わずかに“乃”と“至”の文字が読めます。
道標を兼ねていたものをここに移したのでしょうか?

「永代護摩木山」と刻まれたこの石塔は、昭和13年と記されています。
脇には「七畝十八歩」とありますので、約230坪の山林です。

境内の奥にある「大師堂」への道の両脇には、たくさんの崩れた石塔が並べられています。


「大師堂」には「南無大師遍照金剛 南無興教大師」の貼り紙が・・・。
「遍照金剛」とは、「大日如来」のことで、光明があまねく照らし、金剛のように不滅である
ところからこう言われます。
お遍路さんの白衣の背中には、この「南無大師遍照金剛」の文字が書かれていますね。
「興教大師」とは、真言宗中興の祖である「覚鑁上人(かくばんしょうにん)」のことです。


墓地は広い奥行きがあり、奥の方には比較的新しい墓石もあります。
墓地の手前側に並ぶ古い墓石には、元禄、宝永、享保、元文、天明、寛政、天保等の
年号が刻まれています。



「富里村史」には、鐘楼は江戸時代に建てられたものとの記述があります。

鐘楼に登る階段下には「不動明王」像があります。
平成2年の建立です。
本堂に対面する側には多くの石像が並んでいます。






いちだんと大きいこの観音像は平成元年に建立されました。


「洗心」と刻まれた手水鉢は昭和34年に寄進されました。

本堂裏の目立たない場所にひっそりと建つお堂には、「青龍大権現」と「.粟嶋大明神」が
並んで祀られています。




大きな石像が目立つ境内ですが、そのほとんどが近年のものだということは、大正十年
(1921)に「檀徒百二十五人を有ス」と村誌に記されていた檀徒と子孫の方々が、現在
まで厚い信仰心を持ってこのお寺を守っていることの表れでしょうか。

※ 「徳羅山観照院」 富里市立沢851
春先から何度か訪ねていますので、写真の多くには満開の桜が写っています。

「昌福寺」は曹洞宗のお寺で、山号は「稲荷山」。
ご本尊は「聖観世音菩薩」です。
聖観音菩薩は多くの菩薩像が多面多臂である中で、一面二臂の形をとり、六観音の中では
地獄道を化益するとされています。


参道を進み、階段を登って山門をくぐります。
山門の掲額には「安處林」とあります。
かつてこの寺に「退歩」という雅号を持つ文人・住職がおられて、この場所を心から安らげる
所として、「安處林」と名付けたようです。
大正十年(1921)に編さんされた「富里村誌」の、「昌福寺」に関する数行の記述の中に、
「三代前ノ住職ハ我国印度哲学ノ泰斗ト称セラレタル京璨和尚ニシテ原坦山師ノ師ナリ、・・・」
(「富里村史 資料集Ⅱ 近・現代編 P69)
との文章を見つけました。
退歩という雅号を持つ住職とは、この京璘和尚のことですね。
中国の文人・陸機(261~303)の擬古詩にある「去去遺情累,安處撫清琴」から連想した
のではないか、と思いますが、自信はありません。


山門の手前左右にお地蔵様を刻んだ石塔が立っています。
それぞれに3体のお地蔵さまがおられますので、これは六地蔵ですね。
右側は合掌する除蓋障地蔵(人道)を中心に、宝印地蔵(向かって右・畜生道)、持地地蔵
(左・修羅道)が刻まれ、左側には錫杖を持つ日光地蔵(天道)と、檀陀地蔵(右・地獄道)、
宝珠地蔵(左・餓鬼道)が刻まれています。
明和元年(1764)と記されていますので、250年前のものです。



「富里村史」(昭和56年 富里村史編さん委員会)は、「昌福寺」の建立について次のように
記しています。
「曹洞宗にして寺台村(現成田市)永興寺の末寺。本尊は観世音菩薩である。寺伝によると
慶長年間の創立にして、初代住職の三谷右衛門尉平朝臣胤政は慶長十年(一六〇五)に
亡くなったといわれる。」 (P612)
これにより、「昌福寺」の建立は慶長年間であるとされていますが、「富里村誌」には、この寺
の歴史は実はもっと古い時代に遡るのではないか?、との推論が述べられています。
千葉一族の三谷氏が、鎌倉時代の西暦1200年頃にはこの地を支配していたので、その頃
にこの寺を建立したのではないか、というわけです。
「創建については不詳だが、鎌倉時代の豪族である千葉氏系の立沢四郎太郎胤義一族
の建立にかかるものではないかと思われる。」
「境内から室町時代のものと思われる宝篋印塔と応永九年(一四〇二)の銘を持つ五輪塔が
出土しており、寺の創建になにか関係があるのではないだろうか。」 (P618)
「その後三百年近くを経た天正十八年(一五九〇)、秀吉の小田原攻めで千葉氏滅亡と
ともに三谷氏、立沢氏、中沢氏など千葉一族も滅び、彼らは農民の中へと埋没していった。
そして戦国時代最後の武将三谷胤政は出家し、従来の氏寺である昌福寺を中沢村の
百姓寺とし、自ら住職となったと考える。」 (P612)
「昌福寺が慶長年間の創立というのは、氏寺から百姓寺へと変身した年代を指している
ものと推定する。」 (P613)
この説によれば、実に建立して800年以上の古刹ということになり、三谷胤政建立説を採って
も400年以上の歴史を有していることになります。

山門の内側にある小僧さんは、熊手を持っています。


三谷胤政の供養塔。
聖観音像を中心に数基の石仏が並んでいます。
説明板には次のように書かれています。
『三谷胤政の一族は千葉四郎胤広を始祖とする一族であり、千田荘内中村郷三谷村(現多古
町)を出自地とし、富里に移り住んで勢力を拡大させていったと考えられています。
また応永十三年(1406)に記された「香取造営料足納帳」には、中沢に居住した三谷一族の
知行地が記されており、中沢地区にかなりの勢力を有していたことが明確です。
この史料の後、三谷氏に関する史料は確認されおらず、その動向については定かではあり
ません。しかし昌福寺の寺伝では、江戸初期の慶長年間に三谷胤政の開基によるものと伝え
ており、これを参考とすれば、三谷氏が15世紀初頭から16世紀末までの間、連綿と富里の
在地土豪の地位を保っていたと考えることができます。
このような歴史背景がうかがえる本供養塔については、様式的に見て慶長年間の造立とは
考えにくく、おそらくは17世紀から18世紀初頭の作と考えられます。
丁寧な彫りによって均整のとれた像容を示す石造物であること、また、中沢地区に所在する
千葉氏関連遺構(中沢城址)などとの関係を考慮すれば、富里と三谷氏、ひいては千葉氏と
富里の関係をうかがい知る上で貴重な文化財といえます。』


左側には十九夜の月待塔が並んでいます。
二基の如意輪観音は、明和七年(1770)と享保二十年(1735)のものです。

一番右は天保七年(1836)の「馬頭観音」です。

応永三十三年(1426)の小さな「宝篋印塔」です。
傍らに立つ説明板には次のように書かれています。
「宝篋印塔とは、中国の唐が滅亡した後の時代である五代十国時代の呉越王、銭弘俶が
延命を願って諸国に建てた八万四千塔の形を簡略化して作られたものといわれており、
日本には平安時代中期に伝えられ、鎌倉中期以降には盛んに造立されました。 塔の名
にある「宝篋印」とは、宝篋印陀羅尼経(これを書写して読誦するか、あるいはこの経巻を
納めた宝篋印塔を礼拝すれば罪障は消滅し、三途の苦は免れ、寿命長遠であるなど無量
の功徳を説いた経)を指しており、この経を内部に納めた塔であることから名付けられたも
のです。 この宝篋印塔は、新橋字東長作の畑から耕作中に偶然出土したものであり、
基礎部に応永三十三年(1426年)の銘が刻まれていたことから、富里市では唯一、室町
時代の年号か確認できる資料となっています。 しかし、この宝篋印塔は、内部に経を納め
るような構造になっておらず、おそらくは墓標として造立されたものと考えられます。 塔の
高さは80cmと小型で、反花の一部も欠いていますが、全体的に均整のとれた美しい形を
した優品であり、室町時代の富里市の仏教思想を物語る貴重な石造物です。
宝篋印塔の周りには、象形文字を思わせるような碑文を刻んだ石碑が並んでいます。





本堂の右奥に溶岩の固まった富士ぼく石を積んだ小山があり、その上にお釈迦様が座って
いるのが見えます。
小山のあちこちには「十六羅漢」が配置されています。
「羅漢」は「阿羅漢」の略で、修行を完成して悟りを得た人を指しますが、「十六羅漢」とは、
お釈迦様の弟子の内で特に優れた代表的な16人のことです。
良く見聞きする五百羅漢は、初めての経典編集に集まった弟子達を指す言葉になります。








頂上にお釈迦様が座り、山腹に十六羅漢が座る小山は、永代供養塔になっています。
この小山の脇には、七体の大師像が並んでいます。
左端の一体だけが木像です。


境内の奥にあるお堂は「天神様」と呼ばれています。
道真公の木像には、大師像と同様の色鮮やかな襷が何本も掛っています。

裏山からきれいな清水が流れ出しています。
境内の一角にかすかに流れ落ちる水音が響いています。

隣接する墓地には、元禄、享保、文化、天保、嘉永などの墓石が並んでいます。






三谷胤政の供養塔は「開基様」とも呼ばれているようです。
三谷一族は、長い間上総国埴生郡三谷(現・茂原市)が発祥の地とされていましたが、
昭和50年に「横芝町史」が千田荘内の中村郷三谷村(現・多古町)説を提起し、現在は
こちらの説の方が有力とされています。
供養塔の説明板も、「横芝町史」の説を支持しているようです。
400年か、800年か・・・、きれいに整備された境内は、あまり古さを感じさせません。
初めて訪れた時には桜が満開でしたが、「昌福寺」の今はすっかり夏の風情です。

※ 「稲荷山昌福寺」 富里市中沢593-1

この観音堂は、もともとこの地にあった真言宗の「駒形山真乗院」の一角にありました。
「真乗院」は元禄十六年(1703年)の開山と伝えられています。
明治42年に「真乗院」は酒々井町の「東光寺」に合併となり、本堂と地蔵堂が移設されて、
「観音堂」だけがここに残されました。

目の前には田んぼが広がる、のどかな景色です。

手水鉢には寛政十二年(1800年)と刻まれています。




「千葉県近世社寺建築緊急調査報告書」(1978年 千葉県教育委員会)には、「真乗院
観音堂」として次のように記されています。
「観音堂は、沿革については明らかではないが、その本堂に馬頭観世音を祀る。建築年代
を証する棟札等の資料はないが、堂内に元文五年の掲額、寛保二年の宮殿垂幕がある。
(中略)全体の手法は、前記の潮音寺観音堂をさらに簡略化したもので、建築年代は掲額
や垂幕に記された元文、寛保年間をあまり遡らない十八世紀前期の建築ではないかと考え
られる。」
元文五年は1740年、寛保二年は1742年です。
少なくとも280年は経っているお堂ということになりますが、「真乗院」の開山とされる元禄
十六年(1703年)から時を経ずして建てられたのでしょう。



数段の石段を登った右手にある「普門品千部供養塔」は、享和三年(1803年)と読める
ような気がします。
「新坂東拜禮記念」とある碑は、昭和15年に建てられました。

左手には境内で一番大きな石碑が建っています。
「伊勢代々講 大廟參拜紀念」と刻まれ、大正6年と記されています。
この石碑と並んで5基の石碑が並んでいます。

明治26年・四宮順教先生の碑


月山 湯殿山 羽黒山 登山参拝記念


昭和50年・普門品拾萬巻供養塔と明治30年の寄附連名碑
後方にはさらに石碑が並んでいます。

文化十一年(1814年)の「奉 供養念願成就 湯殿山 羽黒山 月山」の碑。
側面には「西国 秩父 坂東 願成就」と記されています。

半分土に埋もれた、文化七年の「如意輪観音」。
今風の簡略化されたデザインのような感じがします。

境内の左奥に、「新橋観音堂の石造物群」と呼ばれる5基の石仏、板碑があります。

前列中央の「馬頭観音像」。
延享元年(1744年)の紀年銘があり、富里市内最古の馬頭観音です。

前列左の「馬頭観音」。
安永二年(1773年)の紀年銘が刻まれています。

延享四年(1747年)の「十五夜塔」。
延命地蔵菩薩が彫られ、「奉供養十五夜講成就之攸」と刻まれています。
富里市内では唯一の十五夜塔だと言われています。

文化四年(1807年)の「馬頭観音」。
この像を見た時は「馬頭観音」とは思いませんでしたが、傍らにある説明板には「馬頭観音」
と書かれています。
以前、小泉の「自性院」で見た「馬頭観音」と同じようなポーズで、表情はさらに柔和です。
小泉の自性院 ☜ こちらをクリック

後列左の板碑については、説明板に次のように書かれています。
「後列左の下総型板碑は、絹雲母片岩の一枚岩を利用した「石製塔婆」です。正面中央には
キリーク(阿弥陀如来)、その左下には(観音菩薩)、右下にはサク(勢至菩薩)の種子が刻まれ、
その右の縁辺には各五種子が刻まれています。風化が進んでいますが、向かって右側の種子
はバン(大日如来)、バイ(薬師如来)、カ(地蔵菩薩)、マン(文殊菩薩)、カーン(不動明王)と
判読されます。銘文には「孝子等敬白」の字句が見られ、亡き親の追善供養のため、遺子たちが
造立したものであることがわかります。本市以南においては下総型板碑の造立例は確認されて
おらず、下総型板碑の分布南限を示す貴重な例といえます。」

境内の左奥にはお堂があり、3体の石仏が並んでいますが、何のお堂かは分かりません。



境内には首が無くなった石仏や、杉の根元にはめ込むように置かれた石仏、ツタに覆われた
墓石などが散在しています。



明治6年にはこの「観音堂」があった「真乗院」に小学校が開校しています。
「新橋小学校の正式名称は次の通りであり、新橋、中沢、新中沢を学区とし、新橋村
真乗院で開校した。
第廿六番中学区 甲第百六拾弐番新橋小学校」
(富里村史 P798)
富里地区では「普門寺」、「円勝寺」と並んで最も早く小学校を開設した「真乗院」が、
如何なる事情から酒々井の東光寺に合併となり、本堂や地蔵堂まで移設することと
なったのかは分かりませんが、「小学校」という、いわば地域のコミュニティの中心に
あった場所の、今の姿は寂しいものがあります。

※ 「新橋観音堂」 富里市新橋809

「創建の由来は、大同年間(八〇六-八〇九)に駿河国(現静岡県)住の都筑刑部久能と
いう者が観音像を得て小堂に安置し祀っていた。その後祖先の地である本村久能(旧久能村)
に来りてここに小堂を作り遷座し、後久能山観音寺と号する真言宗寺院となったといわれる。」
「天正年間(一五七三-一五九一)覚正の代に中山法華経寺日俒に帰依して改宗、観久山
潮音寺と改めた。」 (「富里村史 通史編 P628)
遡れば1200年の歴史を有する古刹です。
中山法華経寺日俒は、多古町にある「中村壇林」で有名な「日本寺」の中興の祖と言われて
いて、そのお墓も日本寺にあります。
日本寺 ⇒


本堂正面の柱には龍の彫刻が巻きついています。

本堂の左手に建つ「南無日蓮大菩薩」と刻まれたこの石碑には、文政七年(1824年)
の紀年銘があります。

墓石には、寶永、寶暦、享和、文政、嘉永、文久などの年号が記されています。


本堂と見紛うばかりの、立派な「観音堂」。
寺伝では天正年間(1573~93)の建立としていますが、裏付けとなる資料はありません。
「富里村史」には、工法や様式から17世紀なかば頃の建築で、江戸後期に増改築された
のでははないか、と書かれています。

手水盤には文政元年(1818年)とあります。

文化十四年(1817年)と記された常夜燈。

「如意輪観音」。
紀年銘の上部が欠けていてますが、「○保三戌」と読めます。
とすると、享和三年(1803年)が正解でしょう。

天明四年(1784年)の紀年銘がある題目塔。
この年には筑前国の志賀島で「漢委奴國王印(かんのわのなのこくおういん)」と刻まれた
国宝の王印が発見されました。
前年には浅間山が大噴火し、天明二年から続いていたいわゆる「天明の大飢饉」がさらに
深刻化した年でもあります。

「法寿之鐘奉献記」の碑


「法寿之鐘」と名付けられた鐘の由来は、概略こう記されています。
「宝暦五年(1755年)に鋳造された鐘は戦争中の昭和17年に供出されてしまいましたが、
昭和47年に新たにこの鐘が鋳造され、30年ぶりに除夜の鐘が鳴り響いた。」



永代供養塔の前にある献香台は、二匹の鬼が支えています。
その重さに鬼の顔が歪んでいます。

休憩所脇にある明治22年の「馬頭観世音」の板碑。


境内の真ん中にある休憩所には、「ぼけ封じ 関東三十三観音霊場 第一番札所」の看板。
千葉、東京、埼玉、茨城、群馬、栃木の33の「観音菩薩」を祀るお寺からなる札所です。
結願寺は茨城県稲敷市の「慈雲山無量寿院逢善寺」になります。

「ぼけ封じ観音大菩薩」です。
二人の老人が観音様の足にすがりついている、何とも生々しい構図です。

慈母観音像の足元にも大勢の子どもが纏わりついています。
背後には水子地蔵が見えます。

この題目塔には天明元年(1781年)の紀年銘が刻まれています。



「富里村史」に興味ある資料が紹介されています。
「『三宅島流人在命帳』という史料に次の記載がある。
明和六年十月二十二日
不受不施 三宅
天明三年十一月十五日御奉書到来 御免流人ノ内野州都賀郡東水代村源兵衛伜
千吉ト申者相頼、不受不施ニ罷成候御諌書指出、千吉儀ハ江戸入牢被仰付
日照儀ハ右御吟呼之上不届ニ付、天明五年巳四月二十四日神宮丸ニテ御下知
被仰渡候御書付到来、神津島ヘ島替被仰付下候
天明五年六月九日 神津島ヘ送ル
下総国印旛郡久能村観久山
潮音寺隠居
日 照 伊 谷
丑五十二歳
これは当時キリスト教とともに江戸幕府の禁教である不受不施(日蓮宗の一派)を信仰
していた罪により、三宅島に島流しされていた潮音寺隠居日照が、反省することなく
ご赦免流人千吉を使って諌言書を箱訴したので、さらに小さな神津島に島替えを命ずると
いう内容である。 日照はその後も自分の気持ちを偽らずに不受不施を信仰し、また島民に
文字を教えたりして島民の崇敬を集めたという。 今日、神津島流人墓地には最大の墓が
建立されており、富里では傑出した人物の一人である。」
不受不施派(ふじゅふせは)とは、日蓮の教義である法華経を信仰しない者からは不施を
受けず、また法施などを施さないという宗派のことです。
文禄五年(1595年)に豊臣秀吉が方広寺大仏殿の千僧供養のために各宗派に出仕を
命じた際、日蓮宗内部の不受不施の教義を守って出仕を拒もうとする一派が、宗門を
守るために出仕を受け入れようとする教団に反旗を翻し、弾圧の対象となりました。
以後、明治9年に政府によって公認となるまで、邪宗派として隠れキリシタンと同様の境遇
に置かれていました。

信仰と権力の狭間に翻弄された昔を思えば、今は穏やかな時が流れる境内です。

※ 「観久山潮音寺」 富里市久能522-1
京成成田駅から千葉交バス 久能・両国行き 久能下車徒歩2分