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このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があっても、そのまま記載しています。また、大正以前の年号については、漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。 なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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成田は新しいものと旧いものが入り混じる魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊を、流れる風になって気の向くままに綴ります。

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大きな仁王石像が迎える~富里の「観照院」
観照院ー1

「観照院」は富里市立沢にある真言宗智山派のお寺で、山号は「徳羅山」。
ご本尊は「大日如来」です。

「立沢字天神前ニアリ、真言宗ニシテ霊通寺末ナリ、大日如来ヲ本尊トス、堂宇間口五間
奥行七間半、境内八百十九坪アリ、住職ハ兼田宥海ニシテ檀徒百二十五人ヲ有ス」


大正十年(1921)の「富里村誌」には、「観照院」についてこれだけの記述しかありません。


観照院ー4
観照院ー2

寺号標の手前に「六地蔵」が並んでいます。
六地蔵は宗派やお寺によっていろいろな呼び名があるようで、ここでは、
破勝地蔵、不休息地蔵、延命地蔵、讃竜地蔵、弁尼地蔵、護讃地蔵となっています。


観照院ー3

六地蔵の隣には地蔵堂があります。
台座には「念佛講中」とあり、紀年銘は宝暦だけが読み取れます。


観照院ー5
観照院ー7
観照院ー6
観照院ー8

境内の入口には、左右に大きな仁王像が立っています。
曲がりくねった急坂を登ってくるので、目の前に突然現われる大きな石像に驚かされます。
階段の上にあることもあって、見上げると強い威圧を感じます。


観照院ー9

賽銭箱の上に、「大日如来」と記された金属板が置かれています。
周りに七本の蝋燭を立てて、光背を意味しているのでしょうか。


観照院ー10

「創建については不詳だが、鎌倉時代の豪族である千葉氏系の立沢四郎太郎胤義一族の
建立に架かるものではないかと思われる。」
「境内から室町時代のものと思われる宝篋印塔と応永九年(一四〇二)の銘をもつ五輪塔
が出土しており、寺の創建になにか関係があるのではないだろうか。」

(「富里村史 通史編」 昭和56年 富里村史編さん委員会 P618)

「観照院」は、少なくとも六百数十年の歴史を有するお寺のようです。 


観照院ー11

本堂左手に立つ「引導地蔵尊」、「水子地蔵尊」、「輪法地蔵尊」。


観照院ー29

本堂右手には平成11年に建立の「修行大師」像。
弘法大師・空海の 修行時代の姿です。


観照院ー30

「修業大師」の隣には、昭和51年に建立の「慈母観音」。


観照院ー12
観照院ー13

草むらに埋もれた十九夜待塔とお地蔵様。
月待塔には天保四年(1833)と記されています。
お地蔵さまの台座は土中に埋まっていますが、わずかに“乃”と“至”の文字が読めます。
道標を兼ねていたものをここに移したのでしょうか?


観照院ー37

「永代護摩木山」と刻まれたこの石塔は、昭和13年と記されています。
脇には「七畝十八歩」とありますので、約230坪の山林です。


観照院ー14

境内の奥にある「大師堂」への道の両脇には、たくさんの崩れた石塔が並べられています。


観照院ー15
観照院ー16

「大師堂」には「南無大師遍照金剛 南無興教大師」の貼り紙が・・・。
「遍照金剛」とは、「大日如来」のことで、光明があまねく照らし、金剛のように不滅である
ところからこう言われます。
お遍路さんの白衣の背中には、この「南無大師遍照金剛」の文字が書かれていますね。
「興教大師」とは、真言宗中興の祖である「覚鑁上人(かくばんしょうにん)」のことです。


観照院ー17
観照院-18

墓地は広い奥行きがあり、奥の方には比較的新しい墓石もあります。
墓地の手前側に並ぶ古い墓石には、元禄、宝永、享保、元文、天明、寛政、天保等の
年号が刻まれています。


観照院-21
観照院-22 梵鐘には昭和33年の銘
観照院-19

「富里村史」には、鐘楼は江戸時代に建てられたものとの記述があります。


観照院-20

鐘楼に登る階段下には「不動明王」像があります。
平成2年の建立です。


本堂に対面する側には多くの石像が並んでいます。

観照院-23
観照院-24
観照院ー25
観照院ー26
観照院ー27
観照院ー28

いちだんと大きいこの観音像は平成元年に建立されました。


観照院-31
観照院-32

「洗心」と刻まれた手水鉢は昭和34年に寄進されました。


観照院ー36

本堂裏の目立たない場所にひっそりと建つお堂には、「青龍大権現」と「.粟嶋大明神」が
並んで祀られています。


観照院ー34
観照院ー33
観照院ー1
観照院ー35

大きな石像が目立つ境内ですが、そのほとんどが近年のものだということは、大正十年
(1921)に「檀徒百二十五人を有ス」と村誌に記されていた檀徒と子孫の方々が、現在
まで厚い信仰心を持ってこのお寺を守っていることの表れでしょうか。


観照院ー39


                 ※ 「徳羅山観照院」 富里市立沢851



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

富里市の寺社 | 07:24:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
十六羅漢と三谷胤政供養塔~富里の「昌福寺」
今回は富里市の中沢にある「昌福寺」を訪ねます。
春先から何度か訪ねていますので、写真の多くには満開の桜が写っています。

昌福寺ー1

「昌福寺」は曹洞宗のお寺で、山号は「稲荷山」。
ご本尊は「聖観世音菩薩」です。
聖観音菩薩は多くの菩薩像が多面多臂である中で、一面二臂の形をとり、六観音の中では
地獄道を化益するとされています。


昌福寺ー3
昌福寺ー4

参道を進み、階段を登って山門をくぐります。
山門の掲額には「安處林」とあります。
かつてこの寺に「退歩」という雅号を持つ文人・住職がおられて、この場所を心から安らげる
所として、「安處林」と名付けたようです。

大正十年(1921)に編さんされた「富里村誌」の、「昌福寺」に関する数行の記述の中に、
「三代前ノ住職ハ我国印度哲学ノ泰斗ト称セラレタル京璨和尚ニシテ原坦山師ノ師ナリ、・・・」
(「富里村史 資料集Ⅱ 近・現代編 P69)
との文章を見つけました。
退歩という雅号を持つ住職とは、この京璘和尚のことですね。

中国の文人・陸機(261~303)の擬古詩にある「去去遺情累,安處撫清琴」から連想した
のではないか、と思いますが、自信はありません。



昌福寺ー49
昌福寺ー50
 
山門の手前左右にお地蔵様を刻んだ石塔が立っています。
それぞれに3体のお地蔵さまがおられますので、これは六地蔵ですね。
右側は合掌する除蓋障地蔵(人道)を中心に、宝印地蔵(向かって右・畜生道)、持地地蔵
(左・修羅道)が刻まれ、左側には錫杖を持つ日光地蔵(天道)と、檀陀地蔵(右・地獄道)、
宝珠地蔵(左・餓鬼道)が刻まれています。

明和元年(1764)と記されていますので、250年前のものです。


昌福寺ー7
昌福寺ー8
昌福寺ー9

「富里村史」(昭和56年 富里村史編さん委員会)は、「昌福寺」の建立について次のように
記しています。

「曹洞宗にして寺台村(現成田市)永興寺の末寺。本尊は観世音菩薩である。寺伝によると
慶長年間の創立にして、初代住職の三谷右衛門尉平朝臣胤政は慶長十年(一六〇五)に
亡くなったといわれる。」
 (P612)

これにより、「昌福寺」の建立は慶長年間であるとされていますが、「富里村誌」には、この寺
の歴史は実はもっと古い時代に遡るのではないか?、との推論が述べられています。
千葉一族の三谷氏が、鎌倉時代の西暦1200年頃にはこの地を支配していたので、その頃
にこの寺を建立したのではないか、というわけです。

「創建については不詳だが、鎌倉時代の豪族である千葉氏系の立沢四郎太郎胤義一族
の建立にかかるものではないかと思われる。」 
「境内から室町時代のものと思われる宝篋印塔と応永九年(一四〇二)の銘を持つ五輪塔が
出土しており、寺の創建になにか関係があるのではないだろうか。」 
(P618)

「その後三百年近くを経た天正十八年(一五九〇)、秀吉の小田原攻めで千葉氏滅亡と
ともに三谷氏、立沢氏、中沢氏など千葉一族も滅び、彼らは農民の中へと埋没していった。
そして戦国時代最後の武将三谷胤政は出家し、従来の氏寺である昌福寺を中沢村の
百姓寺とし、自ら住職となったと考える。」
 (P612)

「昌福寺が慶長年間の創立というのは、氏寺から百姓寺へと変身した年代を指している
ものと推定する。」 
(P613)

この説によれば、実に建立して800年以上の古刹ということになり、三谷胤政建立説を採って
も400年以上の歴史を有していることになります。


昌福寺ー10

山門の内側にある小僧さんは、熊手を持っています。


昌福寺ー55
昌福寺ー51

三谷胤政の供養塔。
聖観音像を中心に数基の石仏が並んでいます。
説明板には次のように書かれています。

『三谷胤政の一族は千葉四郎胤広を始祖とする一族であり、千田荘内中村郷三谷村(現多古
町)を出自地とし、富里に移り住んで勢力を拡大させていったと考えられています。
また応永十三年(1406)に記された「香取造営料足納帳」には、中沢に居住した三谷一族の
知行地が記されており、中沢地区にかなりの勢力を有していたことが明確です。
この史料の後、三谷氏に関する史料は確認されおらず、その動向については定かではあり
ません。しかし昌福寺の寺伝では、江戸初期の慶長年間に三谷胤政の開基によるものと伝え
ており、これを参考とすれば、三谷氏が15世紀初頭から16世紀末までの間、連綿と富里の
在地土豪の地位を保っていたと考えることができます。
このような歴史背景がうかがえる本供養塔については、様式的に見て慶長年間の造立とは
考えにくく、おそらくは17世紀から18世紀初頭の作と考えられます。
丁寧な彫りによって均整のとれた像容を示す石造物であること、また、中沢地区に所在する
千葉氏関連遺構(中沢城址)などとの関係を考慮すれば、富里と三谷氏、ひいては千葉氏と
富里の関係をうかがい知る上で貴重な文化財といえます。』



昌福寺ー14
昌福寺ー15

左側には十九夜の月待塔が並んでいます。
二基の如意輪観音は、明和七年(1770)と享保二十年(1735)のものです。


昌福寺ー17

一番右は天保七年(1836)の「馬頭観音」です。


昌福寺ー21

応永三十三年(1426)の小さな「宝篋印塔」です。

傍らに立つ説明板には次のように書かれています。

「宝篋印塔とは、中国の唐が滅亡した後の時代である五代十国時代の呉越王、銭弘俶が
延命を願って諸国に建てた八万四千塔の形を簡略化して作られたものといわれており、
日本には平安時代中期に伝えられ、鎌倉中期以降には盛んに造立されました。 塔の名
にある「宝篋印」とは、宝篋印陀羅尼経(これを書写して読誦するか、あるいはこの経巻を
納めた宝篋印塔を礼拝すれば罪障は消滅し、三途の苦は免れ、寿命長遠であるなど無量
の功徳を説いた経)を指しており、この経を内部に納めた塔であることから名付けられたも
のです。 この宝篋印塔は、新橋字東長作の畑から耕作中に偶然出土したものであり、
基礎部に応永三十三年(1426年)の銘が刻まれていたことから、富里市では唯一、室町
時代の年号か確認できる資料となっています。 しかし、この宝篋印塔は、内部に経を納め
るような構造になっておらず、おそらくは墓標として造立されたものと考えられます。 塔の
高さは80cmと小型で、反花の一部も欠いていますが、全体的に均整のとれた美しい形を
した優品であり、室町時代の富里市の仏教思想を物語る貴重な石造物です。


宝篋印塔の周りには、象形文字を思わせるような碑文を刻んだ石碑が並んでいます。

昌福寺ー52歴代住職名(?)文化四年
昌福寺ー20  祖先御霊報恩供羪塔
昌福寺ー22  常夜塔(?)


昌福寺ー24
昌福寺ー53

本堂の右奥に溶岩の固まった富士ぼく石を積んだ小山があり、その上にお釈迦様が座って
いるのが見えます。
小山のあちこちには「十六羅漢」が配置されています。


「羅漢」は「阿羅漢」の略で、修行を完成して悟りを得た人を指しますが、「十六羅漢」とは、
お釈迦様の弟子の内で特に優れた代表的な16人のことです。
良く見聞きする五百羅漢は、初めての経典編集に集まった弟子達を指す言葉になります。

昌福寺ー25
昌福寺ー26
昌福寺ー27
昌福寺ー28
昌福寺ー29
昌福寺ー30

昌福寺ー31
昌福寺ー32

頂上にお釈迦様が座り、山腹に十六羅漢が座る小山は、永代供養塔になっています。
この小山の脇には、七体の大師像が並んでいます。
左端の一体だけが木像です。


昌福寺ー34
昌福寺ー35

境内の奥にあるお堂は「天神様」と呼ばれています。
道真公の木像には、大師像と同様の色鮮やかな襷が何本も掛っています。


昌福寺ー36

裏山からきれいな清水が流れ出しています。
境内の一角にかすかに流れ落ちる水音が響いています。


昌福寺ー37

隣接する墓地には、元禄、享保、文化、天保、嘉永などの墓石が並んでいます。


昌福寺ー38 延宝三年(1675)と読める
昌福寺ー39 天保六年(1835)と読める
昌福寺ー46 墓地上の草むらに猫が・・・
昌福寺ー47

昌福寺ー42
昌福寺ー48

三谷胤政の供養塔は「開基様」とも呼ばれているようです。
三谷一族は、長い間上総国埴生郡三谷(現・茂原市)が発祥の地とされていましたが、
昭和50年に「横芝町史」が千田荘内の中村郷三谷村(現・多古町)説を提起し、現在は
こちらの説の方が有力とされています。
供養塔の説明板も、「横芝町史」の説を支持しているようです。

400年か、800年か・・・、きれいに整備された境内は、あまり古さを感じさせません。

初めて訪れた時には桜が満開でしたが、「昌福寺」の今はすっかり夏の風情です。


昌福寺ー56


                          ※ 「稲荷山昌福寺」 富里市中沢593-1




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富里市の寺社 | 08:19:28 | トラックバック(0) | コメント(2)
ポツンと取り残された「新橋観音堂」
今回は富里市の新橋(にっぱし)にある観音堂です。

観音堂ー3

この観音堂は、もともとこの地にあった真言宗の「駒形山真乗院」の一角にありました。
「真乗院」は元禄十六年(1703年)の開山と伝えられています。

明治42年に「真乗院」は酒々井町の「東光寺」に合併となり、本堂と地蔵堂が移設されて、
「観音堂」だけがここに残されました。


観音堂ー1

目の前には田んぼが広がる、のどかな景色です。


観音堂ー2

手水鉢には寛政十二年(1800年)と刻まれています。


観音堂ー4
観音堂ー5 厨子には卍(まんじ)が
観音堂ー7 馬が描かれた絵馬
観音堂ー6

「千葉県近世社寺建築緊急調査報告書」(1978年 千葉県教育委員会)には、「真乗院
観音堂」として次のように記されています。

「観音堂は、沿革については明らかではないが、その本堂に馬頭観世音を祀る。建築年代
を証する棟札等の資料はないが、堂内に元文五年の掲額、寛保二年の宮殿垂幕がある。
(中略)全体の手法は、前記の潮音寺観音堂をさらに簡略化したもので、建築年代は掲額
や垂幕に記された元文、寛保年間をあまり遡らない十八世紀前期の建築ではないかと考え
られる。」


元文五年は1740年、寛保二年は1742年です。
少なくとも280年は経っているお堂ということになりますが、「真乗院」の開山とされる元禄
十六年(1703年)から時を経ずして建てられたのでしょう。

観音堂ー8 大正13年の常夜燈
観音堂ー9


観音堂ー10

数段の石段を登った右手にある「普門品千部供養塔」は、享和三年(1803年)と読める
ような気がします。
「新坂東拜禮記念」とある碑は、昭和15年に建てられました。


観音堂ー11

左手には境内で一番大きな石碑が建っています。
「伊勢代々講 大廟參拜紀念」と刻まれ、大正6年と記されています。

この石碑と並んで5基の石碑が並んでいます。

観音堂ー12 明治19年・普門品千部供養
明治26年・四宮順教先生の碑 観音堂ー13
観音堂ー14  昭和12年
                                 月山 湯殿山 羽黒山 登山参拝記念
観音堂ー15観音堂ー16
           昭和50年・普門品拾萬巻供養塔と明治30年の寄附連名碑

後方にはさらに石碑が並んでいます。

観音堂ー17

文化十一年(1814年)の「奉 供養念願成就 湯殿山 羽黒山 月山」の碑。
側面には「西国 秩父 坂東 願成就」と記されています。
 

観音堂ー18

半分土に埋もれた、文化七年の「如意輪観音」。
今風の簡略化されたデザインのような感じがします。


観音堂ー21

境内の左奥に、「新橋観音堂の石造物群」と呼ばれる5基の石仏、板碑があります。

観音堂ー25

前列中央の「馬頭観音像」。
延享元年(1744年)の紀年銘があり、富里市内最古の馬頭観音です。


観音堂ー26

前列左の「馬頭観音」。
安永二年(1773年)の紀年銘が刻まれています。


観音堂ー27

延享四年(1747年)の「十五夜塔」。
延命地蔵菩薩が彫られ、「奉供養十五夜講成就之攸」と刻まれています。
富里市内では唯一の十五夜塔だと言われています。


観音堂ー28

文化四年(1807年)の「馬頭観音」。
この像を見た時は「馬頭観音」とは思いませんでしたが、傍らにある説明板には「馬頭観音」
と書かれています。
以前、小泉の「自性院」で見た「馬頭観音」と同じようなポーズで、表情はさらに柔和です。
小泉の自性院 ☜ こちらをクリック


観音堂ー29

後列左の板碑については、説明板に次のように書かれています。

「後列左の下総型板碑は、絹雲母片岩の一枚岩を利用した「石製塔婆」です。正面中央には
キリーク(阿弥陀如来)、その左下には(観音菩薩)、右下にはサク(勢至菩薩)の種子が刻まれ、
その右の縁辺には各五種子が刻まれています。風化が進んでいますが、向かって右側の種子
はバン(大日如来)、バイ(薬師如来)、カ(地蔵菩薩)、マン(文殊菩薩)、カーン(不動明王)と
判読されます。銘文には「孝子等敬白」の字句が見られ、亡き親の追善供養のため、遺子たちが
造立したものであることがわかります。本市以南においては下総型板碑の造立例は確認されて
おらず、下総型板碑の分布南限を示す貴重な例といえます。」



観音堂ー30

境内の左奥にはお堂があり、3体の石仏が並んでいますが、何のお堂かは分かりません。


観音堂ー36
観音堂ー37
観音堂ー38

境内には首が無くなった石仏や、杉の根元にはめ込むように置かれた石仏、ツタに覆われた
墓石などが散在しています。


観音堂ー39
観音堂ー34
観音堂ー33

明治6年にはこの「観音堂」があった「真乗院」に小学校が開校しています。
「新橋小学校の正式名称は次の通りであり、新橋、中沢、新中沢を学区とし、新橋村
真乗院で開校した。
第廿六番中学区 甲第百六拾弐番新橋小学校」

(富里村史 P798)

富里地区では「普門寺」、「円勝寺」と並んで最も早く小学校を開設した「真乗院」が、
如何なる事情から酒々井の東光寺に合併となり、本堂や地蔵堂まで移設することと
なったのかは分かりませんが、「小学校」という、いわば地域のコミュニティの中心に
あった場所の、今の姿は寂しいものがあります。


観音堂ー42

               ※ 「新橋観音堂」 富里市新橋809



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富里市の寺社 | 21:15:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
信仰と権力の狭間に揺れた「潮音寺」
「潮音寺」は富里市にある日蓮宗のお寺で、山号を観久山とする中山法華経寺の末寺です。

潮音寺ー1

「創建の由来は、大同年間(八〇六-八〇九)に駿河国(現静岡県)住の都筑刑部久能と
いう者が観音像を得て小堂に安置し祀っていた。その後祖先の地である本村久能(旧久能村)
に来りてここに小堂を作り遷座し、後久能山観音寺と号する真言宗寺院となったといわれる。」

「天正年間(一五七三-一五九一)覚正の代に中山法華経寺日俒に帰依して改宗、観久山
潮音寺と改めた。」
 (「富里村史 通史編 P628)

遡れば1200年の歴史を有する古刹です。
中山法華経寺日俒は、多古町にある「中村壇林」で有名な「日本寺」の中興の祖と言われて
いて、そのお墓も日本寺にあります。
日本寺 ⇒


潮音寺ー2
潮音寺ー3

本堂正面の柱には龍の彫刻が巻きついています。


潮音寺ー31

本堂の左手に建つ「南無日蓮大菩薩」と刻まれたこの石碑には、文政七年(1824年)
の紀年銘があります。


潮音寺ー5

墓石には、寶永、寶暦、享和、文政、嘉永、文久などの年号が記されています。


潮音寺ー6
潮音寺ー7

本堂と見紛うばかりの、立派な「観音堂」。
寺伝では天正年間(1573~93)の建立としていますが、裏付けとなる資料はありません。
「富里村史」には、工法や様式から17世紀なかば頃の建築で、江戸後期に増改築された
のでははないか、と書かれています。


潮音寺ー13

手水盤には文政元年(1818年)とあります。


潮音寺ー8

文化十四年(1817年)と記された常夜燈。 

潮音寺ー9

「如意輪観音」。
紀年銘の上部が欠けていてますが、「○保三戌」と読めます。
とすると、享和三年(1803年)が正解でしょう。


潮音寺ー10

天明四年(1784年)の紀年銘がある題目塔。
この年には筑前国の志賀島で「漢委奴國王印(かんのわのなのこくおういん)」と刻まれた
国宝の王印が発見されました。
前年には浅間山が大噴火し、天明二年から続いていたいわゆる「天明の大飢饉」がさらに
深刻化した年でもあります。


潮音寺ー11
 「法寿之鐘奉献記」の碑 潮音寺ー34
潮音寺ー35

「法寿之鐘」と名付けられた鐘の由来は、概略こう記されています。
「宝暦五年(1755年)に鋳造された鐘は戦争中の昭和17年に供出されてしまいましたが、
昭和47年に新たにこの鐘が鋳造され、30年ぶりに除夜の鐘が鳴り響いた。」


潮音寺ー14
潮音寺ー15
潮音寺ー16

永代供養塔の前にある献香台は、二匹の鬼が支えています。
その重さに鬼の顔が歪んでいます。


潮音寺ー36

休憩所脇にある明治22年の「馬頭観世音」の板碑。


潮音寺ー17
潮音寺ー18

境内の真ん中にある休憩所には、「ぼけ封じ 関東三十三観音霊場 第一番札所」の看板。
千葉、東京、埼玉、茨城、群馬、栃木の33の「観音菩薩」を祀るお寺からなる札所です。
結願寺は茨城県稲敷市の「慈雲山無量寿院逢善寺」になります。


潮音寺ー19

「ぼけ封じ観音大菩薩」です。
二人の老人が観音様の足にすがりついている、何とも生々しい構図です。


潮音寺ー22

慈母観音像の足元にも大勢の子どもが纏わりついています。
背後には水子地蔵が見えます。


潮音寺ー28

この題目塔には天明元年(1781年)の紀年銘が刻まれています。


潮音寺ー24  境内の一角にあるペット霊園
潮音寺ー25

潮音寺ー26

「富里村史」に興味ある資料が紹介されています。
「『三宅島流人在命帳』という史料に次の記載がある。

明和六年十月二十二日
不受不施  三宅
天明三年十一月十五日御奉書到来 御免流人ノ内野州都賀郡東水代村源兵衛伜
千吉ト申者相頼、不受不施ニ罷成候御諌書指出、千吉儀ハ江戸入牢被仰付 
日照儀ハ右御吟呼之上不届ニ付、天明五年巳四月二十四日神宮丸ニテ御下知
被仰渡候御書付到来、神津島ヘ島替被仰付下候
  天明五年六月九日 神津島ヘ送ル
   下総国印旛郡久能村観久山 
                                  潮音寺隠居
                                        日  照  伊  谷
                                          丑五十二歳

これは当時キリスト教とともに江戸幕府の禁教である不受不施(日蓮宗の一派)を信仰
していた罪により、三宅島に島流しされていた潮音寺隠居日照が、反省することなく
ご赦免流人千吉を使って諌言書を箱訴したので、さらに小さな神津島に島替えを命ずると
いう内容である。 日照はその後も自分の気持ちを偽らずに不受不施を信仰し、また島民に
文字を教えたりして島民の崇敬を集めたという。 今日、神津島流人墓地には最大の墓が
建立されており、富里では傑出した人物の一人である。」


不受不施派(ふじゅふせは)とは、日蓮の教義である法華経を信仰しない者からは不施を
受けず、また法施などを施さないという宗派のことです。
文禄五年(1595年)に豊臣秀吉が方広寺大仏殿の千僧供養のために各宗派に出仕を
命じた際、日蓮宗内部の不受不施の教義を守って出仕を拒もうとする一派が、宗門を
守るために出仕を受け入れようとする教団に反旗を翻し、弾圧の対象となりました。
以後、明治9年に政府によって公認となるまで、邪宗派として隠れキリシタンと同様の境遇
に置かれていました。


潮音寺ー33

信仰と権力の狭間に翻弄された昔を思えば、今は穏やかな時が流れる境内です。


潮音寺ー27


          ※ 「観久山潮音寺」 富里市久能522-1
            京成成田駅から千葉交バス 久能・両国行き 久能下車徒歩2分




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富里市の寺社 | 07:41:57 | トラックバック(0) | コメント(0)