松崎街道から山を回り込むように脇道を進んだ先に「證明寺」はあります。

長い石段が、境内に向かって一直線に伸びています。

「證明寺」は天台宗のお寺で、院号は「観明院」、山号は「臻暁山(しんぎょうざん)」です。
ご本尊は「阿弥陀如来」、来迎三尊の形式です。
※ 「成田市史 中世・近世編」や「成田の史跡散歩」では、本尊を「大日如来」または「薬師如来」としていますが、
後述のようにご本尊は「阿弥陀如来」でした。
『堂宇は六間四面の本堂、創建は不詳なるも、中世の正和四年(一三一五)、応永十三
(一四〇六)、永享八(一四三六)年の古文書に證明寺の名が見える。』(證明寺由来書)
少なくとも700年以上の歴史を持ったお寺です。
安政六年(1859)の火災で全山が焼失し、多くの寺宝が失われましたが、翌、万延元年
(1860)には再建されました。
ご住職の話では、安政六年の火災は花火が原因だったとのことです。

焼失を免れた、享保五年(1720)の「稲荷神社及證明寺縁起」によって寺暦の概要が
分かっています。
證明寺由来書には、この「稲荷神社及證明寺縁起」の要約を次のように書いています。
『縁起書によれば、戦国時代千葉宗家二十一代千葉勝胤の室(奥方)にかかわる記録
があり古くから千葉氏の信仰があったことがわかる。』
『貞和年中(一三四五~五○)天台修験道の行者、信海が逗留、村民の悪疫祈祷を
行っている。』
『中興は延文年間(一三五六~六一)道名法印、ついで叡山の儒僧恵心僧都が東国
行脚の折り、自ら薬師如来を刻し、裏山に堂宇を建て~』
この裏山の堂宇や写経を埋納した供養塚などは、瑠璃台と呼ばれていました。
その場所は今では分かりません。
ご住職のお話では、今の美郷台の辺りではないか、とのことでした。
なお、「成田の史跡散歩」には、
『当初は日蓮宗であったが、八世行運上人が以前に山之作の天台宗・円融寺の住職で
あったことから、天台宗に改宗し、寺も現在地に移したという。また瑠璃台は先に述べた
湯川の場所で、薬師如来はそこに湧出する温泉の守り本尊であるともいっている。』
(P221) とあります。
温泉が出ているとされる場所は、ニュータウンの開発に伴い消えてしまったと言われます。
瑠璃台の場所の謎は深まるばかりです。
證明寺の寺伝には、
『江戸時代の初期、山之作円融寺四世行運法印は、この證明寺に隠居し、十一面観音像
や堂宇建立、寺観を整備している。』
とあるだけで、改宗や移転については触れていません。
堂宇の建立、整備は、現在地に移転して行われたのでしょう。

「稲荷神社及證明寺縁起」にある、信海と恵心僧都にまつわる話を、「成田の史跡散歩」から
(少し長くなりますが)引用してみます。
『貞和年間(一三四五~五○)に信海という行者が不治の病にかかったとき、仏力に頼るしか
ないと各地の霊像を訪ね歩いた。物忌みをし、露を飲んで飢えをしのぐなど、ひたすら仏の
力に頼った。そしてある日、この地に至り山口の日月の滝の下に宿したとき、夢の中に神が
現われ「われは薬師垂迹、日月の神で、この滝の主なり。昔国中に疫病が流行して死者が
多く出たとき、恵心僧都という僧がこの里で、九寸三分の薬師如来を刻み、その災いから
のがれることができた。この霊験あらたかな薬師如来像は、今でも北方の瑠璃台にあるので、
汝もそこで尊像に祈念してみよ」とお告げをうけたのであった。』
『夢から覚めた信海が、ふと滝の上を見上げると日月神の古い祠があった。これは不思議な
ことと、夢の教えに従って瑠璃台に行ったところ一宇のお堂があり、そこに九寸三分の薬師
如来が祀られていた。信海は感嘆涕泣し、懇願すると不治の病が治ったのである。』
『そこで信海はここに新たに堂宇を建て、出家して名を道名と改めた。これが証明寺の開山
の由来で、室町時代初期の延文四年(一三五九)ころのことである。』 (P220~221)
さて、話を蒸し返すようですが、「下総國下埴生郡山口村誌」(明治十七年)に、こんな文章を
見つけました。
『湯川谷 八幡臺ノ西麓ニアリ(現今字宮田)傳昔温泉ヲ湧出セシ所ナル由ナリ。』
『日月滝 村南端字下谷津ニアリ。僅ニ遺蹟ヲ存シ殆ト井ノ埋瘞セシ者ニ彷彿タリ。然トモ
微水湧出セリ。』
『八幡臺(仝字宮田)村ノ中央ヨリ以南ニ崛起ス。』
(いずれも「成田市史近代編史料集一」P215)
温泉の出ていた湯川谷は、「證明寺」のある字(あざ)宮田(きゅうでん)にあり、日月滝は
村誌が書かれた明治十七年(1884)には、すでに水量は無く単なる湧水程度でしたが、
宮田から丘ひとつ越えた字・下谷津にあったようです。
下谷津の隣の字・天神台には證明寺の境外地の「観音堂」があったり、さらにその奥の
字・下井戸には同じく境外地の「地蔵堂」があることなどを考えると、思ったより瑠璃台は
現在の「證明寺」に近い場所だったかもしれませんね。

「臻暁山」の寺額。

本堂の軒下に吊るされた鐘は、以前、「雷神社」にあった火の見櫓に吊るされていたもので、
櫓の撤去によって行き場の無くなったものを貰い受けたのだそうです。
1400年前の雷鳴~雷神社 ☜ ここをクリック


ご住職のお許しを得て、本堂に入り、ご本尊の写真も撮らせていただきました。
中央の仏様は阿弥陀如来、如来様から見て左(写真では右)が観音菩薩、如来様から見て
右(写真では左)は勢至菩薩です。
阿弥陀如来は九品来迎印(くぼんらいごういん)の上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)
を結び、衣は偏袒右肩(へんたんうけん)の形をとっています。
右肩は露出せずに衣を(袖を通さずに)かけています。
脇侍の観音菩薩、勢至菩薩はすっきりした立ち姿です。

本堂は山の中腹に張り付くように建っていて、前方は崖のような地形です。
裏手はすぐに山腹が迫っています。

「普門品壱萬巻供養塔」は昭和5年に建立されました。

「大師堂」です。
左の石仏には、文政十三年(1830)と記されています。

境内の一角に一体の石仏があります。
風化が進み、あちこちが欠けています。
昔、近隣から持ち込まれたもののようで、ご住職にも何の仏様かは分からないそうです。


古い墓地が、本堂から一段高い山の斜面にあります。
寛延、享保、寛政等の年号が読めます。

墓地の一角に「竪者法印慧行塔」と刻まれた「筆子塔」があります。
慧行というお坊さんに学問を教わった弟子たちが、文化十五年(1818)に建立したものです。
「竪者(りっしゃ)」とは、仏法論議での質問に答えることのできるお坊さんのことで、天台宗の
お寺では良く見かける文字です。
慧行というお坊さんは算盤の名人だったそうです。


本堂の後方の山には、かつて薬師堂があったそうですが、今はすっかり竹林になり、お堂も
消えて登って行くのも難しい様子です。


境内が狭いので、本堂の全景は、墓地の上からか、山を下りて反対側の道に出て振り返る
しか見ることができません。


境内から見上げると、木々の間から鳥居やお堂が見えています。
「稲荷神社」でした。
(次回はここを訪ねる予定です。)

石段を下りると、二本の見事な銀杏の木が、まるで山門のように立っていました。

山を下り松崎街道に出ると、もう「證明寺」は見えません。

草深い山中で、長い歴史を抱えて静かに佇む「證明寺」です。

※ 「臻暁山證明寺」 成田市山口71