
山号は「雲通山」、ご本尊は阿弥陀如来です。
永正十一年(1514)の開山と伝えられています。


***

参道の入り口に立つ二基の「地蔵菩薩」。


境内に入ってすぐ左手に「青面金剛」があります。
明治九年(1876)のもので、六臂像です。


隣には欠けた二基の板碑があります。
正徳の元号だけが読めますので、約300年前のものです。


右側の大師堂にはやや小さめの大師像が安置されています。


***********

大師堂の隣は「子安堂」です。
ガラス戸の奥の子安観音は、赤子を抱くというよりは、左手の掌の上に乗せています。

子安堂の隣には七福神の「寿老人」が祭られています。
「寿老人」は、中国の伝説上の人物で、南極老人星(りゅうこつ座α星・カノープス)の化身と
され、長寿の神様です。
「福禄寿」と同一神と考えられているため、七福神から除外されることもあります(この場合は、
代わりに猩々や吉祥天が入ります)。



お堂の奥の像と手前の石像とは、大分雰囲気が違います。
この「寿老人」は、地域活性化事業の一環として昭和61年に誕生した、「しもふさ七福神」の
一柱となっていますが、七福神の各像はどれも表情豊かです。


天女が舞う~常福寺 ☜ ここをクリック


「龍勝院」の位牌を抱いた落武者が身を寄せた古刹~眞城院 ☜ ここをクリック


静けさが寺の始まり~楽満寺 ☜ ここをクリック


杉木立の中の乗願寺 ☜ ここをクリック


坂東札所28番滑河観音(龍正院) ☜ ここをクリック



徒歩で七福神を回ると、約17.5キロのコースです。
【JR滑河駅 →(0.7㎞)→ 眞城院 →(5.2㎞)→ 成田ゆめ牧場 →(0.6㎞)→ 常福寺 →
(1.8㎞)→ 楽満寺 →(4.0㎞)→ 乗願寺 →(3.0㎞)→ 昌福寺 →(1.0㎞)→ 龍正院
→(1.2㎞)→ JR滑河駅】 が「千葉県公式観光物産サイト」のお勧めコースです。


「千葉縣香取郡誌」に、「昌福寺」はこう書かれています。
「雲遍山昌福寺 滑川町大字西大須賀字谷津に在り域内千二百五十四坪淨土宗名越派に
して阿彌陀佛を本尊とす傳へて慈覺の作とせり寺傳に曰く永正十四年丁丑僧昌順之を開創し
良正上人を以て中興とす雲遍山の扁額は知恩院順眞法親王の筆なり」
また、「下総町史 通史 近世編」(平成6年)には、
「昌福寺 雲通山智光院と号し、下野国芳賀郡大沢村(栃木県益子町)円通寺の末。 本尊は
阿弥陀如来。寺伝によれば永正十一年(一五一四)に円通寺開祖良栄上人の法孫良翁上人
昌順和尚が開いたという。 にしかし、郡誌では山号を雲遍山とし、永正十四年(一五一七)に
昌順が良正上人をもって中興とすとしており一致しない。」
「幕末安政二年(一八五五)の昌福寺什物帳によれば、本尊の阿弥陀三尊、他に善導大師・
開祖大師(法然)・開山上人像を安置している。 また寺所有の土地を十数人に小作地として
貸している。 かなり裕福な寺院であったと想像される。」 (P402~403)
と書かれています。
山号について、郡誌では「雲遍山」、町史では「雲通山」となっていますが、扁額(寺額)には
「雲通山」とありますので、町史の解説の方が正しいように思われます。


**********


墓地には延宝、宝永、享保、宝暦、明和、安永などの古い墓石が並んでいます。


境内に入ってすぐの場所に、四つの礎石跡があります。
その間隔から、かつてここにあった山門跡のように思われます。

道路際のガードレールに隠れるように、昭和58年の「馬頭観音」の石碑がありました。

県道に立つ看板には「寿老神」の文字が見えます。
神社に祀られるときは「寿老神」となりますが、お堂の中の像が「寿老神」で、前の石造が
「寿老人」なのかな・・・などと思いました。

境内に隣接する「月かげ保育院」です。
昭和16年5月に、「昌福寺境内に託児所が開設された」という記録がありますので、それ以来
の伝統でしょうか。


成田市内には浄土宗のお寺は、この「昌福寺」の他は、大菅の「檀林寺」、冬父の「迎接寺」、
台方の「西光寺」と四寺しかありません。
このうち、「西光寺」以外は旧下総町にあります。



(上から大菅167の「檀林寺」、冬父86の「迎接寺」、下方905の「西光寺」)

成田市のホームページ中の成田市観光ガイドには、「昌福寺」を次のように紹介しています。
「雲通山、智光院、昌福寺、浄土宗。永正十一年(1514年)太蓮社良翁上人の開山。火災
により右文書、什物など消失し、由緒不詳。当山中奥十一世良正上人によって、元文五年
(1740年)に十間四面総欅造り、天井に極彩色の百花の絵、内陣欄間に龍などの彫刻を
施した現本堂を再建されたが、実に二度の洪水に見舞われながら、九年間の歳月を要した。
その後、山門、鐘楼堂、僧坊等の伽藍が整備されたが、現在は本堂のみ残る。」
根木名川と派川根木名川が利根川に注ぐこの地は、何度も洪水に見舞われたようです。
県道「成田・滑河線」からは一段高い境内は、洪水対策であったのでしょうか。
お堂や石仏・石造物を一角に集めて、中央には何も置かない、殺風景とも言えそうな境内は、
園児たちが楽しく走り回れるようにとの配慮のように思えます。

※ 「雲通山 昌福寺」 成田市西大須賀1872
(ようくつじんじゃ)」を訪ねました。

県道からちょっと入ったところに鳥居があります。
民家の間の駐車場のようなスペースなので、気を付けていないと見過ごしそうです。

昭和42年に建てられた立派な社号標です。
「耀窟大明神」は読めましたが、もう一つが読めません。
裏に記された由来(?)を何とか読んでみて分かりました。
「若宮八幡宮」です。
長文ですが、その一部を抜き出すと、
「従五位上斯波毛野飛彈守尊親ハ皇紀九十九代後亀山天皇第三皇子小倉宮良泰親王ノ
曾孫ナリ ・・・・・ 文亀辛酉年同月日父尊親ト共ニ西大須賀ニ於テ誘殺 等覺照卋童男
神際 若宮八幡宮 右ハ王源斯波宗統譜ニ據リテ
昭和四十二年八月下野国晃陽郷長野城址住南朝皇胤第廿六代昇謹誌崇祖王源會建立
栃柿泉町 福原弘念刻」
と書かれています(誤読があるかも知れません)。
何やら良く分かりませんが、南北朝時代の後亀山天皇の第三皇子であった小倉宮良泰親王
(南朝第百代天皇・招慶院天皇)の曾孫にあたる「毛野飛騨守尊親」が、文亀元年(1501年)
にこの地で謀殺されたようです。
南北朝時代は、1392年(南朝・元中九年、北朝・明徳三年)に足利義満により南北朝が統一
されて両統迭立となり、一応の決着をみましたが、その後も火種が尽きずに、100年後には
遠く下総の地でもこのような事件が起きていたのですね。


長い石段が続きます。


128段登ったところに「金毘羅社」がありました。
荒れ果てています。

脇にあるこの祠には㊎とあります。
明治20年の紀年銘がありました。

さらに78段。
大木に寄りかかるように小さな祠が見えます。
風化が進んで何のお宮かは分かりません。

やっと登り切った先に参道が続きます。

明治33年に建てられた「阿夫利神社」。

「耀窟神社」の創建は不詳です。
ご祭神は「稜威尾羽張神(いつおわりばりのかみ)」であることと、「湯立て神事」が行われる
こと以外に、この神社に関する資料は見つかりません。
(前回の八幡神社の項でも紹介しました「ぜんまいねずみ」さんのブログ「ぐるり房総」の中に
「湯立て神事」の写真があります。)
西大須賀の神楽(ぐるり房総)⇒
「下総町史」にもこの神社に関する資料は無く、千葉県や成田市の神社リストにもありません。
成田市の無形民俗文化財に指定されている「西大須賀の神楽」の説明にも、神社名が出て
くるだけで、神社の説明はありません。
ウィキペディアで、江戸時代の下総地方の名士「赤松宗旦」(1806~62)に関する記事の
中に、耀窟神社の名前を見つけましたが、旅の途中に立ち寄ったと言うだけの記述でした。


小振りな本殿は装飾も無く、素っ気ない感じです。


本殿の裏には崩れかけた祠が散在しています。
その中の一つに、「寛延」(1748~50)の年号が読めました。

明治43年と記された「耀窟神社之跡」の碑。
「耀窟神社」は何らかの理由で消失し、この碑が建てられた後、大正に入ってから拝殿と本殿
が再建されたのでしょうか?

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神社の真上を着陸態勢に入った旅客機が横切ります。
静かな境内の空気がビリビリと振動します。

ここには昔城があったとも言われていますが、それらしき気配は感じられません。
ただ鬱蒼とした森が覆う台地です。


神社の裏手の森を進むと、利根川から茨城方向が見渡せます。
こうしてみると、確かに城があってもおかしくない立地です。


この神社には、「湯立て神事」が行われるとき以外は、お参りする人もほとんどいないように
思えます。
この辺りには横穴式の墳墓があり、神社との関連や城の存在、さらに、社号標の記述などを
調べて行けば意外な歴史が掘り起こせるかもしれません。

※ 「耀窟神社」 成田市西大須賀1892
JR成田線滑河駅より徒歩約30分
しもふさ循環バス西大須賀下車 徒歩約10分 駐車場なし

ご祭神は「大鷦鷯命(おほさざきのみこと)」「息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)」、
誉田別命(ほんだわけのみこと)の三神です。
「息長帯比賣命」は「三韓征伐」で知られる「神功皇后」のこと。
「誉田別命」は応神天皇のこと。
神功皇后の子で、その実在が信じられる最初の天皇だと言われています。
「大鷦鷯命」は応神天皇の子で、「仁徳天皇」のこと。
民の家のカマドから炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間にわたって租税を
免除し、その間は宮殿の屋根の葺き替えを行わないなど自らも倹約に努めたという
逸話で有名な天皇です。
親子三代が祀られているわけです。


何とも可愛らしい狛犬です。
狛犬と言うより子犬ですね。

手水盤には元文四年(1739年)の紀年銘があります。


まるで散歩中の子犬です


手水舎の隣には先代の(?)狛犬が並んでいます。
風化で表情は分かりませんが、現在の狛犬同様に可愛らしい感じです。
台座には明治2年と彫られています。
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天保九年(1838年)の御神燈。



「社伝によれば天元五年(982)の創建といい、中世には千葉支族大須賀氏の尊崇を
受けて栄えたと伝える。また、明治時代の社寺明細帳等によれば、永長元年(1096)
の古文書を有する旨記されているが、現在は所在不明である。いずれにせよ、当社は
江戸時代以前から続く古社である。」(下総町史 通史近世編 P411)
千年以上の歴史を有する「八幡神社」には、成田市の無形民俗文化財に指定されている
「西大須賀の神楽」と言われる民俗芸能が伝わっています。
「江戸時代より受け継がれてきた獅子舞で、西大須賀のここ八幡神社と耀窟神社
の春の例祭(4月15、16日前の土曜日、日曜日)に西大須賀神楽保存会によって
奉納されます。現在下総地区で唯一伝承されている獅子舞であり、『剣の舞・悪魔払い・
怒(病気・怪我などの患部を噛んで治す治療の舞)』の3部で構成されています。
耀窟神社の湯立て神事と古くから同一行事であったと考えられており、伊勢系の神楽
として古式様式を残す貴重な民俗芸能です。」(境内の説明板)

(布舞)

(剣の舞)
(「ぐるり房総」の「ゼンマイねずみ」さんから許可をいただいて転載しました。)
西大須賀の神楽(ぐるり房総)⇒
初日は村々を神楽櫃(かぐらびつ)を曳き回して八幡神社に向かい舞を奉納します。
二日目は神楽櫃を曳き回した後に耀窟神社(ようくつじんじゃ)で湯立て神事が行われ、
舞が奉納されます。
(「耀窟神社」へは次回訪ねる予定です)

本殿もなかなか大きな造りで、見事な木組みが見えます。

鰹木は3本で男神(「誉田別命」「大鷦鷯命」)を表していますが、千木は水平切りで
女神(「息長帯比賣命」)を表しています。

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拝殿と本殿を囲むように多くの祠や崩れた板碑・石碑が並んでいます。



割れて倒れた板碑にはびっしりと漢文が彫られています。
読めるところだけを拾い出すと、(写し間違いがあるかもしれません)
「宗祗者紀伊産姓中臣氏・・・・・充母藤氏也祈乎玉津島神・・・・・祗也自童而・・詩歌全是
・・・・・東常緑而・・和歌衆集・・・・・比曳杖乎東国而既過乎駐乎詩歌而・・後人感焉・・・・・
春也余旅遊乎此也・・・・・右飯塚・・・・・」 と読めます。
裏面に和歌のような文字が見えますので、誰かが詠んだ和歌についての板碑なのでしょう。
(掘り起こして読んでみたい誘惑に駆られますが、それはルール違反ですね。)
崩れた祠や板碑



「猿田彦大神」。
猿田彦は天孫降臨の際に道案内をした神で、道祖神と同一視されます。
鼻の長さが七咫(咫は親指と中指を広げた長さ)もあったと伝えられることから、天狗の
原型であるとも言われています。

昭和13年に建立された、当時の農林大臣・島田俊雄題掲とある「櫻井直蔵翁頌徳碑」。
この地域の治水事業に功績のあった人物のようです。


裏参道の鳥居。
こちらが県道に面していて、表参道のように見えますが、この奥の道から入るのが
表参道になります。


神社の前には田んぼが広がり、その先に根木名川の堤防が見えています。
ほんの少し右手に行けば、利根川との合流点になります。


「天正十九年(1590)には、徳川家康から一〇石の土地を与えられ、以後幕末に至るまで
朱印地として継続した。」 (「下総町史 通史近世編 P411)
平地に鎮座している「八幡神社」の境内には、根木名川からか、それとも利根川からか、
さわやかな川風が吹き抜けて行きます。

※ 「八幡神社」 成田市西大須賀1426
JR成田線滑川駅から徒歩約40分
コミュニティバス(水掛ルート)がありますが、本数がありません。
県道161号線の裏側の道が正面です。 駐車場あり(5台)。

この神社のご祭神は、「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」「別雷命(わけいかづちのみこと)」
「宇賀之御魂命(うかのみたまのみこと)」「天児屋根命(あまのこやねのみこと)」の四神で、
後に「菅原道真」が加わりました。
素戔嗚尊はその粗暴な振る舞いから天照大神を怒らせ、天岩戸に隠れさせてしまった
張本人で、八俣遠呂智を退治してその尾から三種の神器の一つである草薙剣を取出す
など、逸話の多い神様です。
別雷命は上賀茂神社のご祭神で、雷を別けてしまうほどの力を持つ神様。
宇賀之御魂命は穀物・食物の神様で、伏見稲荷大社のご祭神で、稲荷神(おいなりさん)
として信仰を集めています。
天児屋根命は春日権現とも呼ばれ、祝詞の神・出世の神様です。
この四神の組み合わせの理由や経緯については、私には全く分かりません。

創建の年代は不詳ですが、千葉県神社名鑑に、
「奈良時代の天平勝宝年中に祇園・稲荷・加茂・春日の四神を祀ったのが始まりという」
とあるそうなので、1270年近い歴史があることになります。
鳥居は昭和41年に建てられたものです。




見慣れない表情の狛犬です。
でも、よく見るとどことなく愛嬌があるような気もします。


鳥居をくぐって直ぐ左手にある「青面金剛(しょうめんこんごう)」。
元禄十七年(1704年)と記されていますから、300年以上も前のものです。
見ざる・言わざる・聞かざるの三匹の猿は、まるでお神輿のように金剛を担いでいます。
さて、この元禄十七年は3月には宝永に改元された年で、前年に死者二十万人を
超えたと言われる元禄の大地震があり、3年後の宝永四年には富士山の大噴火
(宝永の大噴火)があるなど、天変地異が続いていた時代でした。
青面金剛は主に関東地方で庚申様の名で親しまれています。
もともとは疫病をもたらす疫病神として恐れられていましたが、その後帝釈天の使者
として病魔を祓ってくれる存在と変化してきました。
不安な世情を振り払おうとの思いで建てられたのでしょうか。


青面金剛の向かい合う形で三峯神社があります。
(扉に書かれた墨書がほとんど消えていますが、三と山が上にある文字が読めますので、
三峯神社でしょう。)
明治26年の紀年名があります。

拝殿で何やら祭礼が行われています。
10人ばかりの人が神主さんを囲んで集まったりばらけたり・・・。
法螺貝の音も聞こえました。
よそ者が近づいては失礼と思い、鳥居の下で祭礼が終わるのを待ちました。

「下総町史」には「下総町の社寺と石宮」からの引用として、
「本来は檀林寺の鎮守として須佐之男神を祀っていたものへ、愛宕・天神・稲荷を
合祀したとする見解もある。」(P413)との記述もあり、四神の組み合わせには
諸説があるようです。
なお、明治43年に菅原道真の「天満宮」を合祀した記録は残っています。

開け放たれた拝殿からは本殿が見えます。


本殿の屋根には千木・鰹木はありません。
拝殿が最近建て替えられたものであるためか、比較するととても重厚に見えます。


天満宮 →

この2つのお宮にはどこにも名前がありません。
祭礼が終わった氏子の方に聞いてみましたが、「大きい方はキノミヤサマと言っているが、
詳しいことは分からない。小さい方は確か天満宮。」とのことでした。
「もう祭礼もほとんど参加する人がいなくなった。オレらの時代で終わりだな・・・。」
鳥居をくぐりながら振り返った老人は寂しそうに呟きました。



写真を撮っている傍を小鳥が飛び跳ねています。
近づいても恐がる様子を見せません。
鳥には詳しくありませんが、図鑑で見るとセキレイかカワラヒワだと思います。
雑木林に囲まれたこの神社は、格好の餌場なのでしょう。
※ 「地誌のはざまに」を書かれているKanageohisさんから、これは「ジョウビダキ」のオス
だと教えていただきました。 地誌のはざまに⇒
あらためて図鑑を見るとピッタリその通りでした! ありがとうございました。

雑木林に分け入ってみると、ところどころにこのような崩れた石碑のようなものが、
枯葉に埋もれて散乱しています。


この「四社大神」に関する資料はほとんど見当たりません。
わずかに残った高齢の氏子に細々と守られはいますが、やがては忘れ去られて
しまうのでしょうか。
奈良時代に創建されたのだとすれば、どこかに埋もれているであろう資料を
掘り起こせば興味ある歴史が現れてくるはずです。

※ 「四社大神」 成田市大菅162
JR成田線滑川駅より徒歩約30分
前回紹介した檀林寺と隣り合わせの場所にあります

「檀林寺(だんりんじ)」は浄土宗名越派のお寺で、山号は「梧桐山(ごどうさん)」、
院号は「光明院」。
「寺伝によると天平神護2年(766年)、良辯上人を開山とし、智証大師の中興を経て
天台寺院となりましたが、その後正和元年(1312年)浄土宗名越派大空上人により
再興されたと伝えられています。 本尊阿弥陀如来は台座に仏師定慶の銘があり、
境内には建武2年(1335年)を最古とする板碑十数基があります。 現在の本堂は
江戸期の火災後再建されたものです。」 (山門前の説明板)


階段を登ると質素な山門が迎えてくれます。

「寺伝によれば、天平神護2年(766)良辯上人を開山とし、智證大師の中興を経て
天台宗寺院となったとされているが、天台時代の記録等は他にない。
その後、堂宇荒廃していたが、正和年間(1310頃)浄土宗名越派祖・尊観上人の弟子
大空上人によって再興され、浄土宗寺院となったと伝えられる。
この地は浄土三祖・良忠上人に縁のある鎌倉桐ヶ谷に地形が以ており、大空上人、
二世恵観上人の努力で、境内の諸堂が整備され、またこのとき鎌倉光明寺に因み
院号を光明院として、僧侶の初期の学問寺院とならんことを願い寺号を檀林寺と
号したといわれる。
江戸時代には3つの坊に常時数十人の青年僧が修学・修行していたと伝えられる。
尚、境内には建武2年(1335)銘を最古とする十数基の板碑が点在し、当時の繁栄を
知ることができる。」
(浄土宗千葉教区Webより)
浄土宗の寺院になってからでも700年の歴史があり、寺伝によれば1250年もの
歴史を有するお寺です。
寺の名前の「檀林」とは僧侶の勉学所のことで、このお寺も小さいながら若い僧侶の
修行場であったようです。


派手さはありませんが、ダイナミックな龍の彫刻です。

板碑の形をとった説明板。
山門への階段脇にあった木製の説明板と同じ内容です。

本堂に向かって左手にあるお堂。
何の説明もありませんが、中に如意輪観音像が安置されているのが見えるので、
観音堂なのでしょう。

観音堂の隣にある小さなお堂には、風化でお顔の判別もつかない仏様が祀られています。


小さな観音菩薩像。
風化と補修痕のため、刻まれた文字は爲の一文字のみしか判読できません。


この石碑には深くしっかりした彫りで南無阿弥陀仏の文字が刻まれています。
側面に江戸の宮三左衛門ほか、~六郎、~兵衛門の名前と仏様が彫られ、宝永二年
(1705年)の紀年銘があります。


歴史あるお寺だけに、墓地には古い墓石が目立ちます。
寛文、宝永、延享、安永、寛政、文政などの年号が記されています。

本堂から少し離れた境内の地続きに建つ民家(ご住職のお宅でしょうか?)の庭先に
大小十基の板碑が並んでいます。
近づきたいのですが、残念ながら、通路に太い竹を渡して庭へ入ることを拒否する強い
意思が感じられて、離れた所から望遠で撮影するしかありません。



資料によると、一番古いものは建武二年(1335年)の十三仏の板碑で、以下暦応二年の
五仏板碑、貞治四年(1365年)の二仏板碑、応安三年(1370年)の三尊双式板碑、
応安四年(1371年)の阿弥陀三尊板碑等です。


帰り道に山門の脇に3基の石仏が埋もれているのを見つけました。
文字は読み取れませんが、合掌しているように見えます。

この地は成田市との合併前には香取郡下総町でした。
「下総町史 通史近世編」を拾い読みすると、
「『郡誌によれば「仏舎利は称徳天皇の御蔵に係り』、後江戸時代に『豊後木村(杵築)
城主松平重賢日向守の喜捨するところと為す舎利塔銘あり之を詳らかにす』とある。」
「明治二十八年(一八九五)の『神社寺院取調書』には、本尊阿弥陀如来は慈覚大師
の作、腹籠は一寸二分の釈迦如来で弘法大師の作、大永二年(一五二二)に下野国
芳賀郡七井村(益子町)正法寺から移した旨記されている。」
とあります。
いずれも伝承の域を出ないので、その真偽のほどは分かりません。
また、このお寺が浄土宗に改宗したのは「徳治元年(1306年)で、良安上人による」
との記述も見えます。

長い歴史を有する「檀林寺」は、その名の通り若い僧を育てる「檀林」であっただけに、
もっと多くの歴史的な遺物があってもおかしくないと思われますが、たまたま居合わせた
古老の話では、修復もままならない状況の中、こっそり持ち去る不届き者がいるようで、
いつの間にか見えなくなってしまったそうです。
歴史が消されてしまった思いです。
板碑を庭先に集めてセメントで固めたのも、悲しい防衛策なのでしょう。

※ 「檀林寺」 成田市大菅167
JR滑川駅より徒歩約30分
コミュニティバスしもふさ循環 大菅下車徒歩1分(本数少)
駐車場はありませんが、駐車スペースはあります。
※ 檀林寺は以前訪ねた名古屋の小御門神社と滑川の龍正院
との中間地点にあります。3ヶ所回って4時間コースです。
小御門神社 ⇒
龍正院 ⇒

「龍正院」(りゅうしょういん)は天台宗のお寺で、山号は「滑河山」。
坂東札所第28番で、「滑河観音」(なめかわかんのん)の名前で親しまれています。
承和五年(838年)に滑河城主・小田政治が創建し、
開基は慈覚大師円仁と伝えられています。
ご本尊は「十一面観音菩薩」で、大観音像の胎内に納められています。
山門脇の寺伝によれば、『城主小田将治が凶害に苦しむ民百姓を救うため七日間の
法華経読誦の満願の日に小田川の朝日ヶ淵(ケサガフチ)より御出現され、当地に
おまつりしたところ人々は蘇生の思いをしたと云う。』とあり、
「音にきく 滑河寺の 朝日ヶ淵
あみ衣にて すくふなりけり」
という花山天皇御製の歌が添えられています。

花山天皇 (ウィキペディア「花山天皇」より 原典は月岡芳年画「月百姿花山寺の月」)


お寺の入り口、県道161号線に沿って十基の宝篋印塔が並んでいます。
風雨に削られて、彫られた文字はほとんど読めませんが、
辛うじて寛永八年(1631年)、十四年(1637年)の文字が読めました。
1637年とは、「島原の乱」の年です。

手水舎の先に八脚門茅葺寄棟造りのがっちりした佇まいを見せる仁王門があります。
建保四年(1216年)の暴風雨により倒壊したものを、文亀年間(1501~04)に
再建したもので、国の重要文化財に指定されています。


仁王様はやや彫が平面的に見えますが、表情が穏やかに見えるような気がします。
ユーモラスな「ぼけ封じ道祖神」

しもふさ七福神の「毘沙門天」


地蔵堂の中に置かれている2頭の馬の像は、本堂の軒下に置かれていたという
左甚五郎作と伝えられるものなのでしょうか。
中央に船越地蔵、右が閻魔大王、左が脱衣婆です。


銅造宝篋印塔(どうぞうほうきょういんとう)です。
享保三年(1718年)に建てられ、中に陀羅尼経が納められています。
良く見ると精緻で本格的な建造物ですが、
6メートル近い高さがあり、色彩が無いので見過ごされるかもしれません。
県の指定文化財になっています。

本堂は元禄九年(1696年)、5代将軍徳川綱吉の寄進によって再建されました。
建保四年の暴風雨から実に480年もの間、ご本尊を仮住まいさせていたことになります。


正面の彫刻は見事な天女の舞ですが、天女の表情が妙に艶めかしいのが印象的です。

天井にも色彩豊かな天女の絵が描かれています。

境内の中央に松尾芭蕉の句碑と夫婦松があります。
句碑には寛政五年(1793年)の銘があり、
「観音の いらか見やりつ 華の空」の句が刻まれています。

本堂の右裏には古い石仏群があり、宝暦、文化、等の年号が読めます。

本堂の左奥には、天満神社、金比羅神社、熊野神社、白山神社、
稲荷神社の五社が鎮座しています。

延命、安産、子育ての守り本尊として信仰を集めている
坂東観音札所28番の滑河観音。
一つ前の27番は銚子の「飯沼山円福寺」、次の29番は千葉の「海上山千葉寺」です。

※ 滑河山龍正寺(滑河観音) 成田市滑川1196
JR滑川駅より徒歩約15分