古い墓地の多くには、その片隅に無縁仏となった墓石が集められている一角があります。
お墓を守る人がいなくなると、無縁仏となってひとまとめにされ、墓石は廃棄されたり、一ヶ所
に積み上げられたりします。
人の移動が激しく、核家族化が進む現代では、実質的に無縁化するお墓が増加しますが、
江戸時代にも飢饉などの災害によって一家が離散し、無縁墓が発生することはありました。
跡取りがいなくなってしまうこともあったでしょう。
そして、明治・大正・昭和・・・と、長い時間の経過が無縁墓を増やし続けてきました。
限られた墓地では、こうした無縁墓は整理される運命にあり、うち捨てられることは免れても、
無縁塚として墓石を積み上げられることになります。
花を手向ける人もいない無縁塚では、物言わぬ墓石がただただ風雨に晒されています。


(高岡の真城院)
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(下金山の竜金寺)

(八代の善勝院)
無縁塚の中に紛れて、あるいは代々続いている旧家の墓地の中に見え隠れする幼子の
墓石には、特に心惹かれるものがあります。
名古屋の「常願寺」裏の墓地では、多くの子どもの墓石を見ることができます。

「跬行童女」「幻泡善孩子」と彫られたこの小さな墓石からは、可愛かった我が子の面影を追う
親の哀しい心情が伝わってきます。
「跬」(き)とは片足を一歩前に出すさまを表わす言葉で、「跬行」とは多分、ヨチヨチ歩きのように、
まさに歩き始めようとしている様子を思い出して付けたのでしょう。
「幻泡」とは、<まぼろしとあわ>すなわち<はかないもの>を表わしてます(「泡幻」(ほうげん)
という言葉があります)。
「孩」(がい)とは、幼児の笑い声を表わす言葉で、「孩子」は2~3才ごろの幼児を愛おしむ
感情のこもった呼びかけです。
風化で年代は不明ですが、補修の跡が見られます。

「○○阿童子」 「安永○戌年二月」と読めます。
安永の干支に戌があるのは七年(1778)ですから、約240年前に亡くなった子供の墓石です。
菩薩像の顔は風化というより削られたような感じです。
童子(童女)とは子どものことですが、仏教用語としては、仏の王子すなわち菩薩を指す言葉で
あったり、菩薩や明王などの眷属につける名前であったりりします。
そして、15才ごろまでに亡くなった子どもの戒名としても使われることがあります。


向かって右に「妙空童女」、左に「雪然童女」と刻まれた墓石。
元号は見当たりませんが、「妙空童女」は四月、「雪然童女」には十二月と記されています。
「雪然」とは、<雪が降るように、白鷺が飛びおりるさま>(「旺文社・漢和辞典第五版)のことで、
「せつぜん」と読みます。
初夏と冬に亡くなった二人の娘を偲ぶ、親の哀しみが伝わってきます。


この墓石の戒名はどうしても読めません(二文字目は覚の異体字だと思うのですが・・・)。
「天保十己亥五月三日」と記されています。
天保十年は西暦1839年、十二代将軍家慶の時代で、この年の五月には高野長英・渡辺崋山
などが、幕府の鎖国政策を批判したため、獄に繋がれた「蛮社の獄」事件がありました。
「○○童女」とありますから、女の子の墓石です。

幡谷の薬師寺境内の一角で見つけた幼子の墓石です。
「夢幻童子」と刻まれています。
享年は(はっきりとはしませんが)「十一月廿七日 灵位」とのみで、元号が見当たりません。
(「灵」は「れい」と読み、”霊・みたま”のことです)
「夢幻」を辞書で引くと、「夢とまぼろし・はかないこと」とあります。

如意輪観音像が彫られたこの墓石には、母親と思われる戒名も刻まれています。
左に「妙忍信女」と刻まれ、「享保十一丙午年」の文字が見えます。
享保十一年は西暦1726年、八代将軍吉宗の時代です。
「自分の墓には、幼くして亡くなった我が子を一緒に」とでも言い残したのでしょうか、子を想い
続けた、290年以上昔の母親の気持ちが伝わってくるような墓石です。

西大須賀の「昌福寺」の墓地で見つけたこの墓石には、「性譽浄心信女(?)」「禅譽了恵㳒子
(㳒は法の異体字)」「香○童女」と三つの戒名が刻まれた墓石があります(○は顔か韻のよう
な気がします)。

側面には、それぞれの享年と思われる日付が記されています。
「性 寛政十三酉年四月○○」「禅 文化十三子○○」「香 文化十二亥年十月○○」と読めます。
寛政十三年は西暦1801年、文化十二年・十三年は1815・1816年になります。
寛政十三年から文化十三年の15年間に、この家族にどんなことがあったのでしょうか?。
寛政十三年に母親が女の子のお産の際に亡くなり(当時はお産で亡くなる母親は多かった)、
文化十二年には十四歳になった娘も亡くなって、その翌年には父親も亡くなってしまった・・・。
この墓石を見ながら、こんな想像をしてしまいます。


「夢幻童子」「幻泡童子」と刻まれた墓石は、外柵に囲われた立派なお墓の外に、ひっそりと
隠れるように立っていました。
両方の戒名の下には「享保八卯○○」と記されています。
二人が相次いで亡くなったとしたら、親の嘆きはいかばかりであったでしょうか。

「妙本浄定尼」「元文元丙辰九月〇〇」と刻まれた墓石の左側には、「穐月童女」という戒名も
併記されています。
「穐」は秋を指す言葉で、この幼子は秋に亡くなったのでしょう。
松崎の「善導大師堂」の奥にある無縁塚でも、いくつもの幼子の墓石を見つけることができます。


「妙霜童女」と刻まれた横に、「天保十亥年十一月十二日」とあります。
180年前の、霜の降りた初冬の寒い日に亡くなったのでしょうか。

この墓石には「慈雲童子」と刻まれています。
風化と苔で年号が読めませんが、「延享」と読めるような気がします。
延享だとすると、270年以上も前の墓石ということになります。

「幻紅童女」「享保六丑年」と読めます。
享保六年は西暦1721年、八代将軍吉宗の時代で、約300年も前の墓石です。

「秋月妙蓮信女」と刻まれた脇に、「夢幻童子」の戒名が並んでいます。
薬師寺の夢幻童子の墓石と同様に、母が幼くして逝った我が子と一緒に葬ってくれと言い残し
たのでしょうか。
はっきりとしませんが「天保」の元号が見えるような気がします。

他にも「恵光童子」「幻心童女」「幻性童子」「春覺童女」などの戒名が無縁塚の中に見えます。

奈土の「昌福寺」の墓地には、「梅薫善童女」「妙菖善童女」と刻まれた地蔵菩薩像の墓石が
ありました。
梅の薫りが漂う早春と、菖蒲が咲く初夏に、相次いで幼い娘を亡くしたのでしょうか。
美しい二つの戒名に、親の切ない哀しみが込められているような気がします。
飯岡の永福寺の無煙塚でも子供の墓石が多く見られます。


「幻覺童子」「宝永四亥年五月十五日」と刻まれたこの墓石の上部は欠けていますが、
わずかに「禅定尼」の文字が見えます。
この幼児の母親なのでしょうか。
宝永四年は西暦1707年、富士山が史上最後の大噴火(宝永大噴火)を起こしました。

ウメノキゴケに覆われたこの墓石には、「幻信童子」「泡〇童子」「〇〇童女」の三人の戒名。
いずれも享和の元号が記されているように見えます。
「享和」の時代は四年あまりしかないので、わずか四年の間に二人の男児と一人の女児を
失った哀しい親がいたわけです。

「一向孩女」と刻まれたこの墓石は、無煙塚の脇に無造作に放置されているようでした。
側面に「〇和十二年八月」と記されています。
〇に該当しそうな元号は明和くらいですが、明和に十二年はありません。
墓石も風化があまりみられませんので、どうやらこれは「昭和」ということのようです。
わずか80年余りのあいだに無縁仏となった「一向孩女」が哀れです。
しきたりや宗派の決まり事などで、縛られる成人の戒名に比べて、幼児の戒名には制約が
少ないようで、早逝した我が子への深い想いを表わした、美しくも哀しい文字が並びます。
そして、墓石の多くには地蔵菩薩が刻まれています。
地蔵菩薩は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を巡りながら、人々の苦難を身代り
となって受ける(代受苦)の菩薩ですが、子供の守護尊ともされています。
賽の河原で、獄卒(鬼)に責められる子供を地蔵菩薩が守る姿は、中世のころより仏教歌謡
「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知れ渡り、子供の供養における地蔵信仰を作り上げました。
幼い子供が親より先にこの世を去ると、幼かったためにまだ何の功徳も積んでいないので
三途の川を渡ることができず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に
続けなければならないと言い伝えられていました。
その賽の河原に頻繁に現れては子供達を鬼から守り、仏法や経文を聞かせて徳を与え、
成仏への道を開いてあげるのが「地蔵菩薩」なので、親たちは幼子の墓石にすがるような
想いで地蔵菩薩像を彫ったのでしょう。
(「西院河原地蔵和讃」にはいくつものバージョンが伝えられていますが、代表的な和讃を
追記に載せておきます。)
庶民がお墓を持てるようになったのは江戸時代に入ってからで、現在のような「○○家の墓」
というような形になったのは江戸時代も終わりに近づいたころからです。
それまでのお墓は個人単位で、墓石も死者の数だけ建てられました。
多産・多死であった江戸時代は、子どもが成人になるまで生きられる確立は50パーセント
程度であったと言われています。
【 「七つまでは神のうち」という言葉に示されているとおり、死産児や生後間もなくなくなる
乳幼児が多かった江戸時代には、数え年七歳になるまでは人間とは見なされず、葬儀が
行われないこともあった。】
【 大名家など特殊な事例を除き、庶民が子どもの墓石を建てるようになるのは、成人より
遅れ、江戸中期以降である。】 (「墓石が語る江戸時代」 関根達人著 P134)
幼くしてこの世を去り、やがて無縁仏となって墓石を無縁塚に積み上げられ、弔う人も無く、
長い年月を雨風に打たれている・・・。
哀れで、愛おしくもある、幼子の墓石。
それでも、墓石すらなく土に還った大多数の幼子たちに比べれば、まだ幸せなのでしょうか。
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