
「東勝寺」は真言宗豊山派の寺院で、正式名称は鳴鐘山東勝寺、
ご本尊は「大日如来」です。
この東勝寺は「宗吾霊堂」と呼ばれることが多いようです。
平安時代に坂上田村麻呂が東国を平定した際、戦死者の供養のためのお堂を建てたのが
始まりと言われ、“東国に勝利した”という意味で「東勝寺」となりました。
『中興第1世澄祐が1662(寛文2)年から境内の整備を行い、1668年までに
本堂などの諸堂伽藍を建立した。1767(明治14)年に大和国の長谷寺と京都の
智積院から、常法談所の寺格を与えられている。談所(檀林)とは法談を催すことが
できる有力寺院のことである。』(「成田の地名と歴史」2011年成田市発行)
大正10年に「宗吾供養堂」を再建することになった時、この地に東勝寺も移転してきました。

「宗吾霊堂」は義民・佐倉宗吾(木内惣五郎)を祀るお堂で、
宗吾の霊像をご本尊としています。
明治8年に再建されたお堂が焼失した後、現在のお堂は大正2年に再建されました。

http://www1.ocn.ne.jp/~einosuke/sub109.htm (中田英之助氏HPより)
原典:写真誌「NARITA」 1993年成田市発行

ウィキペディア 佐倉惣五郎の項より転載
佐倉宗吾は慶長十年(1605年)生まれと伝えられています。
公津村の名主であった木内惣五郎は、厳しい年貢に苦しむ農民を救うべく
佐倉藩主に直訴しましたが聞き入れられず、止むなく時の四代将軍家綱が
上野寛永寺に参詣した折に直訴しました。
その訴えは聞き入れられましたが、直訴という大罪を犯した惣五郎は死罪となり、
承応二年(1653年)公津ヶ原の刑場で子供とともに処刑されました。
ただ、事の経緯についてはあまり資料が残っていないため、詳しいことは分かりません。
宝暦二年(1752年)の百回忌に藩主・堀田正亮より「宗吾道閑居士」の法号を与えられ、
以後「佐倉宗吾」と呼ばれるようになりました。
江戸時代中期になってこの話が芝居になって上演されると、「義民・佐倉宗吾」の名は
一気に有名になりました。

手水舎の屋根には桜に宗の字が描かれた小さな飾りが付いていました。

仁王門の手前、右側に立派な宗吾親子のお墓があります。
宗吾とともに処刑された4人の子供が合葬されています。
時代とは言え、子供まで処刑されるとは何んとも痛ましいことです。



立派な仁王門です。
昭和53年に再建されたものです。
説明板には仁王門ではなく、「大山門」と書かれていました。

仁王門の左手に「慈眼閣」があり、その先に東勝寺の大本堂があります。
(画面右にちょっと屋根が見えています)


仁王門の先、右奥に池を挟んで鐘楼があります。
細い道を辿ると直ぐ下まで行くことができます。
鐘楼は昭和27年に建立されたものですが、鐘には応長元年(1311年)の銘があり、
「全国百鐘」の一つに数えられています。


境内の右奥には明治44年に建立された「薬師瑠璃光如来」を祀る「薬師堂」があり、
その隣には「歓喜天」を祀る「聖天堂」があります。



仁王門の正面に建つ霊堂の左右には「天下泰平萬民豊楽」
「慈眼視衆生福聚海無量」と書かれています。


狛犬も“阿・吽”としっかり睨みを効かせています。


霊堂の左手にある「霊宝殿」の前に2つの板石塔婆があります。
左の板石は明徳二年(1391年)、右の板石には康永元年(1342年)のものです。
阿弥陀の種子(キリーク)と、願文、願主が記されています。
酒々井の山中にあったものを移設したもので、市の指定文化財になっています。
霊宝殿の奥には佐倉宗吾の生涯について説明・展示している記念館もあります。

「宗吾顕彰碑」です。
福沢諭吉の発意により建てられたものです。
諭吉は「学問のススメ」の中で、佐倉宗吾の生き様を絶賛しています。

霊堂の右、一番奥に「奥之院」があります。
平成14年の建立で、十一面観世音菩薩がご本尊です。

門前にあるお蕎麦屋さん、その名も「甚兵衛そば」。
宗吾が直訴のためこっそり村を離れる時に、
印旛沼を渡る舟を出した甚兵衛に因んだ名前です。
この甚兵衛はその後周りに累が及ぶことを避けるため、
自ら印旛沼に入水したと伝えられています。
(「佐倉宗吾」については、いずれ「人とその歴史」の項で採り上げて見ようと思います。)

仁王門の脇では学校帰りの小学生達がゲームに夢中です。
昔はお寺の境内での遊びと言えば「鬼ごっこ」「かくれんぼ」が主流でしたが、
これも時代の移り変わり、側に立つ仁王様はこんな子供たちをどう思っているのでしょう。

六時の鐘が撞き終わるころ、境内には誰もいなくなりました。
※ 東勝寺・宗吾霊堂 成田市宗吾1-558
京成宗吾参道駅 徒歩約10分
2016-07-09 Sat 12:22:12 | リタイア後の悠々スローライフ