明治十九年(1886)六月に作成された「下總國下埴生郡成田村誌」に「名勝」として次の
ような記述があります。
【新勝寺境内ノ東端ニアリ、東和田、日吉倉ノ田畝ヲ東南ニ望ミ本村ヲ直下トス。風光壮快
ナリ。本地ハ新勝寺住職故原口照輪是茲ニ見ルアリテ、好樹木数株ヲ漸次ニ他ヨリ移シ
蕃植シ求メタレハ、樹林蒼々トシテ名勝ノ区画ヲ存スル。】
前回に「(日光の)五重塔の先は柵に囲まれた展望台のようになっていますが、木々が生い
茂り、残念ながら見晴らしは良くありません。目を凝らすと、成田駅方面がわずかに望めるよう
です。」と触れた場所が、その「名勝」と言われた所だったのかも・・・と思いつきました。

これがその場所。 柵で先には進めませんが、ちょっとした台地のようなスペースがあります。


東南の方向 →

残念ながら東南の方向は鬱蒼と樹木が生い茂り、遠くを見渡すことができませんが、地図で
見るかぎり、ここから東南方向には東和田・日吉倉があります。
当時のここからの景色は、遙か先まで見渡せるのどかなものであったことでしょう。


東和田方向から成田山を望遠で望むと、ビルの先に大本堂の大屋根が見えます。
明治十九年当時なら、視界を遮る高い建物などは無く、正面に当時の本堂(現在の釈迦堂)が
しっかり見えたでしょうね。
さて、前回からの続きです。

小さなサークルのような場所から始めます。

大正十二年(1922)の「永代御膳料奉納碑」。
「磐城平町 大新榮講 鈴木得鑁」と刻まれ、世話人として井上貞治郎の他十二名の名が
刻まれています。
平町は現在のいわき市で、この奉納碑が建立された当時は石城郡平町。

(左奥) 大正七年(1918)一月の「永代御膳料奉納碑」。
「幕張村 市原任三郎」と刻まれています。
幕張村は現・千葉市花見川区と現・習志野市にまたがる地域にあった村です。
明治二十八年(1896)には町制施行で「幕張町」になっていますが、この時代は
住民にとって新たな行政区域の浸透が薄かったのでしょうか?
(手前) 大正二年(1913)六月の「永代御膳料奉納碑」。
「栃木縣下都賀郡中村 石川政之助 石川福次 石川寅之進」と読めます。
「下都賀郡中村」は現・小山市。
(左) 大正三年(1914)三月の「永代御膳料奉納碑」。
「石川縣能美郡小松町 佐野とよ」と刻まれています。
能美郡小松町は、現在の小松市です。
(右) 大正三年(1914)十二月の「永代御膳料奉納碑」。
「武藏國埼玉郡新方村 金岡祐元」と読めます。
新方村は現・越谷市。

(左) 大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
「陸奥國八戸町 高橋常太郎 妻ふく」と刻まれています。
八戸町は当時は三戸郡に属していて、現在の八戸市の中心部あたりです。
(中) 明治四十一年(1908)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
香取郡香西村岩澤新兵衛と刻まれています。
香西村(かさいむら)は現・香取市の西部にあたります。
(右) 大正五年(1916)八月の「永代御膳料奉納碑」。
「石川縣能美郡小松町 渡邊そと」と読めます。

(左) 大正十五年(1926)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
「猿島郡新郷村 長澤茂一郎 長澤善三郎」と記されています。
猿島郡新郷村は、現・古河市になります。
(中) 大正六年(1917)の「明大講記念碑」。
「水戸市上市」と刻まれています。
(右) 大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
「府下大井町 白米商 鈴木保五郎 仝未次郎 仝タツ」と記されています。

(中央左) 明治四十四年(1911)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
「茨城縣結城郡石下町 山田清三郎」と刻まれています。
結城郡石下町(いしげまち)は、現・常総市になります。
(中) 大正六年(1917)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
福島縣石城郡平町 小林サツ」と読めます。
石城郡平町は、現在のいわき市。
(右) 明治四十五年(1912)二月の「永代御膳料奉納碑」。
福島縣邑樂郡六郷村 鑓田三四郎 仝利平」と刻まれています。
邑樂郡六郷村は、現・館林市になります。

今さらですが、「講」とはどんなものなのでしょうか?
「新修成田山史」(昭和43年)に次のような解説があります。
【 講について
講とは本来講演の意味で集会の席上で経論等を講演論議することを云うのである。「法華
八軸」を講議するのを「法華八講」と云い「最勝王経」・「仁王経」等を講議するのを「最勝講」
・「仁王講」と云うが如きである。かくの如く講の歴史は頗る古く、推古天皇一一年に聖徳太
子が諸法師を小墾田宮に招いて「安宅経」を講ぜしめたこともあり又太子自身も「勝鬘経」・
「法華経」を講ぜられたことは歴史上有名なことである。尚其の後も各時代、宮中及び諸寺
で行われたことは非常に多く特に「仁王経」・「金光明最勝王経」の読誦は宮中の恒例となっ
ていたのである。こうした上堂方の行事が民間に移動し、一定の日を決めて庶民が仏寺に
集会して僧侶を請じて法談を聴聞することが行なわれるようになった。そこで「観音講」・「地
蔵講」等と称せられるようになった。 (中略) 江戸時代の随筆「翁草」の一九一の雑話の中
に「昔より仏家に観音講等あり、近世伊勢講と称し、結衆銭を集め貸之・・・・・・」とある。この
風習は参詣の為めに積立てをした金を講員に貸すまでに発展したもので先述の「たのもし
講」の起源とも云うべきであろう。偖て、古代に於いては上述の如き意味であったが、其の後
語義が変じて遂に仏事參詣等宗教的行事の為めに集会する意になり、その集団を講又は
講社と称し其の加入者を講中と云うようになって登山参詣と云う宗教的行事に発展したので
ある。」 (P349~350)
多くの奉納碑に刻まれている「講」や「講社」とは、簡単に言えば、 神社・仏閣への参詣や寄進
等を行なう信者の集まりです。

(左) 大正六年(1917)九月の「永代御膳料奉納碑」。
「葛飾郡大島町 大須賀菊次郎」と記されています。
葛飾郡大島町は、現在の東京都江東区の東北部にありました。
(中左) 大正四年(1915)の「永代御膳料奉納碑」。
「東京芝區新錢座町 藤本恭助」と刻まれています。
新錢座町は、現在の港区浜松町1丁目あたりで、寛永十三年(1636)に江戸で
最初の銭貨鋳造所が設けられたことから付けられた地名です。
(中右) 大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
群馬縣邑楽郡三●谷村 三田庄作」と読めます。
この時代の邑楽郡の村名の中には該当しそうなものはありませんでした(あえて選
べば、四ッ谷村・入ヶ谷村の二村、または田谷村・中谷村・細谷村・鍋谷村・仙石村
・籾谷村の六村)。
(右) 大正七年(1918)一月の「永代御膳料奉納碑」。
「茨城縣那珂郡芳野村 水戸藩士族 鈴木昂之介」と刻まれています。
那珂郡芳野村は現在の那珂市の西部にあたります。
「士族」とは、明治維新後に旧武士階級をはじめとする禄を得ていた者のうち、華族
に取り立てられなかった者に与えられた身分で、戸籍には「士族」と身分表示が記さ
れていました。
この制度は昭和22年の民法改正時まで続きました。
あえてここに「士族」と刻んだ鈴木昂之介氏の心情とは、武士階級の崩壊から50年
経っても捨てきれぬ「誇り」なのか、単なる過去への郷愁なのか、それとも時代への
怨嗟なのか?
できれば聞いてみたい気がします。

明治四十五年(1912)一月の「永代資堂講奉納碑」。
「新榮講 行者 野村英海」と刻まれています。
台座には「武蔵 川越」と彫られています。
さらに「比企郡松山 行者 中村海運 同郡南吉見村 行者 岡野海寶」の文字も読めます。
比企郡松山は現在の東松山市、南吉見村は現在の比企郡吉見町です。
左の小さな碑は、大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
川越と武州松山の新榮講の奉納です。

(左) 大正七年(1918)三月の「永代御膳料奉納碑」。
「平沼福次郎」と刻まれています。
崩し字で読みにくいのですが、「請負業」と刻まれているようです。
(右) 大正八年(1919)二月の「永代御膳料奉納碑」。
「文京 日本橋區元濱町 合名會社 中村商店」と刻まれています。
隣の灯籠は、竿の部分に「御半」と刻まれていますが、その他の文字は読めません。
「御半」の意味は分かりません。
「御半下」なら、召使い・下女という意味ですが、灯籠に刻む文字とは思えません。

(手前) 明治四十三年(1910)三月建立の「永代御膳料奉納碑」。
「横濱市伊勢佐木町 足袋卸商 岡田佐金次」と刻まれています。
(中央) 大正八年(1919)九月建立の「永代 護摩料」奉納碑」。
「東京浅草千束町 鳥料理 みまき(「ま」は崩し字)」と刻まれています。
(右) 大正五年(1916)九月建立の「永代御膳料奉納碑」。
「北海道網走港 福米講」と読めます。
(右奥) 大正八年(1919)五月建立の「永代御膳料奉納碑」
「東京府下日暮里元金杉 東京硝子管製作所」と記されています。

大正七年(1918)四月の「永代御膳料奉納碑」。
「弘運講」「埼玉縣大里郡大寄村」「講元 森田周藏」と刻まれています。
大里郡大寄村は現在の深谷市になります。

大正元年(1912)の「成田山 報徳會松戸支部記念碑」。
会長の渋谷保太郎と支部長の澁谷保太郎の名前があります。

大きい方は、大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
「埼玉縣北足立郡植水村 蓜島辨作」と刻まれています。
北足立郡植水村は現在のさいたま市西区。
もう一基は大正七年(1918)五月の「永代御膳料奉納碑」。
「内陣五講」「講元 五十嵐寅七 高橋忠治」と刻まれています。
「内陣五講」は、「内陣十六講」・「浅草十講」とともに成田山との強いつながりを持った講でした。
「新修成田山史」には、最も古い講として東京の「丸下講」を挙げた後に、
【この講に次いで古いものは「御内陣五講」・「御内陣十六講」・「浅草十講」等があり当山に最も
縁故が深い講社とせられている。】 (P351)
と記述しています。

大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
「山梨縣谷村町 奥孫三郎」と刻まれています。
谷村町は現在の都留市になります。

(手前) 「久保たか先生之碑」。 「一心講」と刻まれています。
「久保たか先生」については手掛かりが見つかりませんでした。
(奥) 明治三十二年(1899)十二月の「一心日護摩講記念碑」。
「東京府南千住」「先達 塚本施心」と刻まれています。

大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
東京市日本橋兜町 行木松五郎」と刻まれています。


大正七年(1918)の「永代護摩修行料奉納碑」。
「大新榮講」「社長 鈴木得鑁」の文字が読めます。
台座の両脇には不動明王の脇侍である矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子( せいたか
どうじ)像が置かれています。




ここに矜羯羅童子と制吒迦童子像が置かれていることは謎です。
三尊像であれば、中央に不動明王を象徴する剣が置かれているはずですが、見当たりません。
欠けたり、失われたような痕跡もありません。


さらに、両童子像はまるで両腕を切り取られたように失っています。
これを見たときに一瞬、廃仏毀釈が頭に浮かびましたが、奉納碑が建立された大正中期には
とうに廃仏毀釈の嵐は過ぎ去っていました。
もしかしたら、この童子像は奉納碑の建立後にどこからか移設されたのではないか?
それは、童子像が置かれた火山岩にはめ込まれた名板にある「田方郡伊東町」(現・伊東市)
や「相州中郡」(現・神奈川県中郡)から運び込まれたのかもしれない。
廃仏毀釈の被害に遭って、修復不能な破損を受けた不動明王の剣を除き、かろうじて残った
童子像を講中の人達がここへ安置した・・・。
両童子像のどこか物憂げで寂しそうな表情を見ていると、こんな想像をしてしまいます。


前回紹介した木遣会の童子の表情


今回の奉納碑の童子像の表情

大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
「大新榮講」「鈴木得鑁」「伊豆伊東町 山田屋 井原平助」の文字が読めます。
「鈴木得鑁」の名前はあちこちで見かけますが、その人物像は不明です。

(左) 大正八年(1919)十月の「永代御膳料奉納碑」。
「岩根政太郎事 家元 港家大夢」と刻まれています。
「港家」は浪曲界の一門です。
(中) 明治四十五年(1912)四月の「永代御膳料奉納碑」。
「埼玉縣北足立郡白子村 常燈元講社 社長 榎本英喜」と記されています。
「北足立郡白子村」は現在の和光市の一部です。
(右) 大正七年(1918)十月の「永代御膳料奉納碑」。
「香取郡大須賀村 高木重左衛門 高木伊助」と刻まれています。
「香取郡大須賀村」は旧大栄町・現成田市の一部です。

明治四十四年(1911)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
「東京兜町 川口關之助 川口佐一郎」と記されています。

「永代護摩料奉納碑」(建立年不明)。
「開永講」「初代先達 平井觀全」と刻まれています。
手前は「永代護摩講連名碑」。

大正六年(1917)十二月の「永代御膳料奉納碑」。
「大成講社 先達 大竹良蔵 一鋤田與右衛門」他三名の名が記されています。

大正四年(1915)の「永代御膳料奉納碑」。
「東京古屋同志會」「古屋良作」他11名の名前が刻まれています。

(右手前) 大正六年(1917)の「永代御膳料奉納碑」(柱状)。
「穀肥料商 永沼嘉右衛門 永沼運造」の名前があります。
(中右) 「拾周年記念碑」(建立年不明)。
「横濱市 寛盛講」と刻まれています。
講の創立十周年なのでしょうか。
(中左) 明治三十九年(1906)九月の「大護摩料奉納碑」。
隣と同じく「寛盛講」とあり、「福重助」の名前が読めます。
(奥) 明治三十九年(1906)一月の「永代御膳料奉納碑」。
「志木町 坂間久次郎」と刻まれています。
「志木町」は現在の埼玉県志木市になります。

大正九年(1920)一月の「永代護摩料奉納碑」。
「新潟縣長岡講中」と刻まれ、台座には昭和15年にはめ込まれた「皇紀二千六百年記念」
と記されたプレートがあります。
「皇紀」とは、日本書紀の記述による神武天皇即位の年(西暦紀元前660年)を元年とする
紀元のことで、大東亜戦争の敗戦まではよく使われていました。
ちなみに、今年は皇紀(紀元)2679年になります。

(左) 「奉納 永代大護摩料」の他は石材の酸化(?)で碑文が読めません。
(中) 明治三十九年(1906)の「永代護摩修行碑」。
「武藏国青梅町 永盛講」と刻まれています。
題額は中興第十五世石川照勤上人によるものです。
(右) 大正二年(1913)四月の碑。(汚れで碑文が読めません)

「成田山 不動尊」の碑。(建立年不明)
「新榮講 水峯清泉」と読めます。

(左) 明治三十九年(1906)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
「東京日本橋區濱町 永井京子」と刻まれています。
題額は石川照勤上人(中興第十五世)のものです。
(中) 「碑石建設寄附 幕張組」「荻田得門」と読めます。
(右) 「碑石建設寄附名簿」「田邊虎松」と刻まれています。

(左) 建立年不明の「永代御膳料奉納碑」。
「新榮講社中 永峰濟衆」と読めます。
(左奥) 明治三十年の「永峰濟衆頌徳碑」。
碑面にビッシリ文字が彫られていますが、柵から遠いため読めません。
「新修成田山史 別巻」に碑面についての記述がありましたので引用します。
【 成田山新勝寺住職権少僧正石川照勤篆額 田中 参撰
成田山信者新栄講社長永峰君卒既葬其徒追慕不措相謀為一大斉出財建碑表之
請文於予予乃表之白人之慶世信而己矣信則人自信之初君有娣帰依成田山来拝
布施歳時靡懈近隣人相従而為伴必来拝以為常其衆日益盛此其功君興有力馬遂
請名於富時之住持照輪照輪命以新栄講邦人結社拝神仏称講娣以明治六年十一
月十三日没享年五十九扵是講衆推君爲長嗚呼死生亦大矣君継娣之遺志捨身成
田山絶食至二十一日貧民病者投財興之自至其家而祷祷禳自是嚮慕帰依者極多
近自千葉遠至北海道入講衆者至二万余人講衆之盛無出於其右者明治十八年六
月受道路修繕之賞状於時之知県十一月受木盃九十二月又受木盃一十九年一月
又受木盃一皆以輔公事也其尽力於公益如此矣其所施捨供田数十頃及供米数百
俵可以供斉有山林数十町可以供護摩其他自珎宝竒竒品及器物之異常者不可枚
擧新勝寺住持三池照鳳其帰仏篤信賜袈裟一領及賞状嗚呼信之及人至於此乎君
東京青山善光寺門前坊長峰喜太郎長子後嗣家又称喜太郎諱済衆幼字和三郎娶
東京柏木成子坊川村喜兵衛長女有子一人名亀太郎為嗣以明治二十四年一月二
十四日病没葬下
印旛郡伊篠村浄泉寺中享年七十三 明治三十年十二月 】 (P651)
【銘文によると永峰は新栄講を組織して新勝寺の参詣を続け、明治六年に没した。
しかし、彼を慕う者は千葉県から北海道に至るまで二万人を越え、そこで彼の恩
に報いるため新栄講から分派した各講などが協力してこの碑を建てるとある。(中
略)碑の題額は新勝寺の中興第一五世石川照勤上人が書き、東勝寺(宗吾霊堂)
の住職田中照心上人が揮毫している。】 (P58~59)
(中央) 「碑石建設寄附内譯」。
「内譯」は内訳のことですから、この碑は寄附者名簿ということになります。
「東京日本橋濱町壹町目壹番地 柳澤久太郎」と刻まれています。
ここからは見えませんが、裏面に寄附者の名前が記されているのでしょう。
(中奥) 明治三十四年(1901)五月の「永代供養料奉納碑」。
「京橋新榮講」と刻まれています。
(右奥) 「碑石建設寄附」。
「東京京橋 新榮講」「行者 清水法善」と刻まれています。

(左) 「碑石建設寄附内譯」。
「東京日本橋區蠣壳町壹丁目四番地 木村猛三郎」と刻まれています。
「蠣壳」は「蛎殻」の異体字です。
(右) 「碑石建設寄附」。
「京橋區 新榮講 八王子部 斎●●吉」
京橋と八王子との関連に疑問が残ります。
もしかすると、お釈迦様よりはるか以前に、法華経を説いた二万の日月灯明仏の最後
の一人が出家以前にもうけた八人の王子に因んだグループなのでしょうか?

大正三年(1914)の「永世大護摩」奉納碑。
崩し字で読みにくいのですが、「成田山御貫主権大僧正石川照勤」「小阪●●」等が読めます。

隣にある灯籠は風化で竿に刻まれた文字が読めません。

大正四年(1915)一月の「永代御膳料奉納碑」。
「東京市京橋區新榮町四丁目 渡村榮左ェ門 妻せき」と刻まれています。
今回はここまでにしましょう。
距離にして僅か4、50メートルの距離しかありませんが、林立する石碑に圧倒される思いです。
一月下旬の梅林では、蕾が少しずつふくらんできたように思えます。
日当りの良い場所の枝には、気の早い白梅・紅梅が寒風に晒されながらも、小さな花を開いて
います。
春はもうすぐです。

******


さて、石碑群はまだまだ続いています。
次回は少し気分を変えて、公園の別の場所を歩いてみようと思います。
その後、この場所にまた戻って、碑面とにらめっこするつもりです。
大量の石碑…迫力があります。
刻まれた文字が過去へいざなう暗号のようで、解読されるようすに胸が踊ります。
新潟県長岡市は父方の田舎なんです!
なぜ成田に長岡が??
それが非常に疑問です(^o^)
奉納碑のほとんどは関東地方のものですが、新潟や長野、福島などのものも時々見かけます。
今回も北海道網走のものがありました。
本当に成田山は広く信仰を集めていることがわかります。