成田參詣記」 平成10年 成田山新勝寺 P488から489)、境界は明確ではありませんが、
今の幸町あたりは「上甼内横甼」と書き込まれています。
昔は「横町」と呼ばれていたようです。


幸町の散策は、薬師堂のロータリーから始めます。
幸町の東端は、表参道の台の坂の右側にある数軒の店舗です。


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「表参道開運通り」と刻まれた石柱が上町との境界になり、画面の先数軒が幸町、画面右が
上町になります。
石柱を右に入ると、神明山へ向かう路地に続きます。
路地の右は上町、左は仲町になります。


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台の坂の左側に面した幸町の店舗も数軒だけです。

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店舗と店舗の間に町名の石柱が入り組んで置かれています。


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薬師堂のロータリーから「西参道三の宮通り」を進みます。
右手に入る小道は「出世稲荷」に向かいます。
小道の右側は仲町です。


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しばらく進むと「七霊地蔵尊」があり、ここが町境になります。
「七霊地蔵」とは聞き慣れない名前です。
いろいろ調べても由来についての史料は見つかりません。
思い浮かぶのは、「八百屋お七」の慰霊のために建立されたと伝えられる、大森の密厳院に
ある「お七地蔵」くらいですが、無関係でしょう。

大師堂の二体の大師像には「明治卅一年」(1898)と記されています。

お堂の奥は小さな墓地です。
元禄、宝永、正徳、享保、宝暦、安永、寛政などの元号が読めます。

「奉供養 勢至菩薩」と刻まれています。
享保の元号は読めますが、年号と干支は読めません。
ただ、最後に「廿三日」の文字があり、珍しい勢至菩薩像であることから、これは二十三夜の
月待塔のようです。

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「三の宮通り」へ戻る途中の石段は、成田山裏門の駐車場へ下りる道です。



「三の宮通り」を横切ると、明治六年(1873)開校の「成田市立成田小学校」があります。
「千葉縣印旛郡誌」に収録の「成田町史」に、「成田尋常高等小學校」として次のように
記載されています。
「明治廿年以前には高等小學校の設置なく尋常小學校のみなりき尋常小學校は明治六年
三月埴生郡寺臺村永興寺内に借設し東谷小學校と稱す仝七年四月成田村字辻堂に校舎
を改築す仝八年三月聯區第百八十四番成田小學校と改稱仝廿五年五月教育令改正により
成田尋常小學校と改稱仝三十七年二月更に地を成田横町に卜し校舎を新築し茲に移轉す
仝四十一年四月高等科を併置す高等小學校は明治二十年五月之を創設し尋常小學校々舎
の二階を教塲に假用せしが爾來生徒も年々增し狹猛を告ぐるに至りしより仝二十九年更に
校舎を字辻堂に新築し茲に移轉す仝四十一年四月尋常小學校に併置し成田尋常高等小學
校と改稱し更らに校舎の大增築に着手し全竣功す今のものこれなり明治四十三年度末現在
尋常科十四學級男四百五十九人女四百二十八人高等科二學級男三十九人女十八人あり」
卒業生には、プロ野球の唐川侑己選手、リオオリンピックのマラソンに出場した田中智美さん、
プロサッカーの船山祐二・貴之兄弟などがいます。

小学校の正門前を左に入ります。
路地の一角に「白蛇神」があると地図には書かれていますが、どこを探しても見つかりません。
地図に示された場所は、何か建物が取り壊されたような跡があります。
多分、ここに「白蛇神」があったのでしょう。
白蛇は、弁財天の使いとして信仰の対象となっています。
事情があって取り壊されたのでしょうが、残念な気がします。

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突き当たりに小さな墓地があります。
入口に大師堂、古い墓石には享保、明和、安永、文化などの元号が刻まれています。

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墓地を左に行けば薬師堂の横にでます。
右に行くと下り坂となり、JRの線路に突き当たります。
途中の丁字路を左折すると大師堂があり、二体の大師像の後に明治三十三年(1900)の
「奉納 樒樹壹千本」と刻まれた石版が置かれています。
「樒樹」とは、常緑樹で、仏事に用いるため寺院に植栽されることが多く、その実は有毒です。
地図で見ると、この大師堂の位置は上町になるようです。
路地の右側は米屋の工場で上町、左側は幸町です。




ちょっと戻って坂を下り、JRの線路に向かいます。
線路脇にはお堂が二つ、石碑が一つ建っています。
手前の小さなお堂は名前が分かりません。
大きなお堂は大師堂で、二体の大師像の銘文は、たくさんの張り紙で見えません。
奥の昭和7年の石碑には「三界万霊 供養塔」の文字が刻まれています。


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お堂の先には小さな踏切があります。
ひっきりなしに電車が通ります。


左に曲がって行く線路は成田線の我孫子行き、直進して行くのは佐原・銚子方面行きです。
振り返ると成田駅はすぐ近くです。

踏切を渡ると急坂になります。
「人と自転車以外は通れません」の注意書きがあります。
この踏切は「古葉師踏切」と言いますが、本来は「古薬師踏切」だったという説が、「成田の
史跡散歩」(小倉 博 著)の「薬師堂」の説明の中で紹介されています。
「日当りの良い場所にあるのに、通称日陰の薬師という。もと成田小学校裏側の日当りの
悪い窪地にあったからで、その名残が小学校裏のJR線踏切の名称「古薬師踏切」である。
しかし踏切の表示は「古葉師踏切」となっている。国鉄時代の担当者が「薬」と「葉」を間違
えてしまったのであろう。」 (P21~22)



踏切を渡り、急坂を下ると、住宅街が広がっています。
線路に分断されていますが、ここも幸町です。
赤い屋根は昭和29年から31年にかけて建設された初期の市営住宅です。
懐かしいような、ゆったりとした空間が広がっています。


北の方角にはNTTの鉄塔や「埴生神社」の森が、南には成田駅周辺のビル群が見えます。


さて、ここはどこでしょう?
何の変哲もない用水路のようですが・・・、じつはここが1級河川の「小橋川」の水源なのです。
新町の方向からの暗渠が初めて顔を出すここが、町境にある水源になります。

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中台運動公園の第6駐車場の下から流れ出す水と、郷部との町境で合流します。
この合流地点が「小橋川」の起点となり、宝田で「根木名川」に合流するまでの4760メートル
を流れて行きます。
成田市ホームページ中に土木課の「準用河川整備事業」の資料があり、その中に幸町の水源
から合流地点までの145メートルは、準用河川の「上小橋川」であることが記載されています。

成田小学校前に戻り、「西参道三の宮通り」を進みます。


幸町交差点に向かう左側に、小さな道標が立っています。
小さいうえに、道路からちょっと引っ込んだ場所にありますので、注意しないと見落とします。
「正面成田不動尊」と記され、側面には『「南へ上る 酒々井 佐倉」「東へ下る 成田門前を
へて三里塚 芝山」 道』、『北へ下る 滑川 佐原」「西へ上る 安食 木下」 道』とあります。
明治十五年(1882)と刻まれていますが、見たところ新しいので、復元されたものでしょう。

幸町交差点は三叉路で、右に曲がると成田山裏門を経て土屋方面への裏参道、左へ進むと
西参道三の宮通りで、「三の宮埴生神社」を経て「松崎街道なりたみち」となります。

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この通りは、畳屋、工務店、塗装店、建材店などがとても多いように感じます。
昔から成田山の門前町が形成されて行く過程で、必要とされる職人たちが、自然とこの一角
に集まり、今日に至っているようです。
天保九年(1838)の「諸商渡世向取調書上帳」と、同十四年(1843)の「諸商人軒数書上帳」
から集計した、門前町成田でのさまざまな職業について、「成田市史 中世・近世編」にはこう
書かれています。
『なお、これらの商売の他に成田には医師五人をはじめ畳屋・薪屋・石屋・附木屋・鍛冶屋・
持遊(花札など遊具)屋などの商いもあり、~』
『また天保二年の「諸職人名前取調書上帳」(石井しげ家文書・近世編史料集五上)によると、
大工職七人、桶職七人、木挽四人、下駄職・左官・塗物職各二人、それに屋根職・建具職
各一人の計二六人の職人がいたとある。』 (P743)

この通りの幸町の町境はJR線をまたぐ郷部橋の手前になります。
橋の向こうは郷部の「埴生神社」です。

郷部橋の手前を北へ入ります。

狭い道から見上げるNTTの鉄塔は威圧感があります。

道は直ぐに三叉路となり、「三竹山道祖神」が現れます。


榧の大木に覆われたこの道祖神は、「北向きのドウロクジン」と呼ばれています。
「ドウロクジン」とは「道陸神」と書きますが、「道祖神」と同義です。
その名の通り北向きのうえに、NTTのビルに陽を遮られて、いつも薄暗い感じです。


カヤの木の根元に三基の祠が並んでいます。
左と真ん中の祠には明和八年(1771)と刻まれた道祖神で、右端は「奉唱十五夜講中」「元文
四己未」と記された月待塔です。
元文四年は西暦1739年、約280年前のものです。
この十五夜塔の正面には、「此方なりたみち」、右の側面には「此方なめ川道」、また左の側面
には「此方竜ヶ崎安食みち」とありますので、道標を兼ねていたのではないでしょうか。
指している方角が違うのは、以前の場所から移されたためでしょう。


道祖神の左手には、六体の大師像が並ぶ「大師堂」があります。
台座にはビッシリとお札が貼られ、刻まれているはずの文字は見えません。

道祖神に背を向ける形で進む小道は、滑川に向かう旧道です。
フェンスの左側は崖で、町名は郷部になります。

石段が崖を下っています。
この先はJRの線路をまたいで薬師堂へと向かう「松崎街道」の旧道です。
以前、「松崎街道」の取材中に、ここがかつての旧街道であった痕跡を見つけました。

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滑川への旧道を進むと、「庚申堂」があります。

お堂の中に立つ「青面金剛像」は、六臂で邪鬼を踏みつけ、左右に鶏を配し、台座には三猿
を刻んでいます。
紀年銘は「■永■■申」とだけ読め、永の次は元か八に見えます。
元号と干支の組み合わせで考えると、「宝永元年甲申」が一番可能性が高いと思われます。
宝永元年は西暦1704年、310年以上も前になります。


庚申堂だけに、狛犬ならぬ狛猿?
だいぶ傷んでいますが、昭和15年の寄進です。

右端は回国塔で、「寛■四壬子」と読めます。
該当する年代は寛政四年(1792)です。
隣は読誦塔で、「宝暦二壬■」と読めるような気がします。
宝暦二年は西暦1752年になりますが、宝暦十二年(1762)かもしれません。
中央は年代は分かりませんが、「三界萬霊」の文字が見えます。
左の二基は「馬頭観音」で、明治四十二年(1909)のものです。


市立成田中学校の手前を右折し、町内境界に沿って細い路地を進みます。

突き当たりは先ほど歩いた滑川への旧道、後ろ側は成田山の裏門方向になります。


幸町交差点から土屋へ向かう土屋中央通り(成田山裏参道)が町境になります。
写真左(後)は成田山弘恵会の駐車場になります。
右に登る坂は市立成田中学校方向、左に登る坂は幸町交差点方向です。
郷部橋まで戻って道を横切り、南に下ると、幸町の「山車庫」があります。



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山車庫の先はJRの線路になります。

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狭い路地を上ると「西参道三ノ宮通り」のNTT前に出ます。



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幸町は、「西参道三の宮通り」によって「三竹山道祖神」や「庚申堂」のある区域、「成田小学校」
や「山車庫」のある区域、「七霊地蔵尊」や表参道に面する区域、さらにJRの線路によって分れて
いる市営住宅等の区域の大きく4ブロックに分かれている感じです。
上町・仲町・成田・郷部・新町・囲護台・土屋と複雑に町境を接する「幸町」。
いろいろな顔を持った幸町の入り組んだ路地の奥には、まだまだ何かが隠れていそうです。

四か町とは、仲町、田町、上町、そして本町を指します。
(仲町、田町、上町の記事は、巻末にリンクがあります。)

ここが本町の北端。
手前の黒い建物は酒屋の「なべだな(鍋屋源五右衛門)」、その後ろは「鍋店ビル」です。
鍋店ビルのすぐ後ろは、同じ「成田山門前四か町」の田町になります。


成田山総門に向かって右側の境内の外れから、参道に面した一角は「本町」になります。
総門側の、普段は閉まっている小さな売店から、右端の「なべだな(酒屋)」まで、数軒の
店が並んでいます。
「なべだな」の先は田町方向への道を挟んで田町の弘恵会駐車場です。

総門向かいの「若松本店」は「本町」ですが、隣の「信徒会館」は「成田」です。
「信徒会館」だけが「成田」で、その隣の「佐野屋」からは「本町」になります。
入り組んだ境界線ですが、もともとは「若松本店」から「いなりや」までの並びが本町だった
のが、後述する「日赤病院」(前・蓬莱閣ホテル)を成田山信徒会館とした時点で、この場所
だけを「成田」に移したのではないでしょうか。






「東町」との境の「いなりや」の脇に小さなお堂があります。
「正一位胡桃下稲荷大明神」の幟が数本立っています。
詳細は不明ですが、幟の中に「笠間稲荷大明神」と記したものが一本ありましたので、
茨城の「笠間稲荷」から分祀したものと考えられます。
「笠間稲荷」は別名「胡桃下稲荷」とも言われています。


参道から京成成田駅方面にに抜ける、通称「電車道」です。
この辺りが宗吾参道から成田駅を通って成田山まで走っていた「成宗電車」の終点で、
昭和19年に廃止されるまで「山門前駅」があった所です。
そのためでしょうか、この一角だけは道幅がとても広くなっています。
私の記憶では、30年ほど前までこの場所には大きな鉄傘が架かっていて、商店の店先
は昼間でも薄暗かったものです。
あれは駅の名残りだったのでしょうか。
「成宗電車」は、明治四十三年(1910)12月に門前~成田間が開通しましたが、宗吾~
成田間のように、すんなり実現したわけではありません。
門前への乗り入れには当時150台近くあった人力車の車夫や参拝客に素通りされる
不安を持つ上町や花崎町の商店主らが猛反対し、乗り入れ推進派の本町・田町との間で
町を二分する大騒動となりました。
滑車が回転して架線に接する集電装置(トロリーボール)で走る、定員40人の車両で、
巾約2.3メートル、長さ約8メートル、重量は約6.4トンでした。
(「成宗電車」についてはいずれじっくり取材して書くつもりです。)
電車道を京成成田駅方面にちょっと進んで左に折れると、町役場や郵便局、警察、裁判所
などがあった、かつての官庁街の一帯に出ます。
今は全てが移転して何も残っていません。

この辺りが官庁街だった(?)


明治三十二年(1899)に本町字谷津に新たに役場が建設されました。
木造二階建ての新役場の建設費は当時のお金で1785円かかりました。
「仝丗二年町村制施行につき成田町役塲と改稱九月十日成田町字谷津五百九十八番地
の二に新築移轉す即今の建物之にして敷地二畝十八歩建物は瓦葺木造二階建一棟建坪
四十七坪七勺三才あり」 (「千葉縣印旛郡誌」中の「成田町誌」)
(合は坪の10分の1、勺は合の10分の1、才は勺の10分の1)
町役場の周辺には、郵便局や警察の成田分署、佐倉裁判所の出張所などが集まって、
活気ある官庁街を形成して行きます。
この役場は昭和9年に建て直されました。
一階には事務室・町長室・助役室・応接室・食堂・印刷室などがあり、二階には会議室・議員
控室などがあるモダンな建物で、昭和29年に成田市が誕生後も、増改築を繰り返しながら
現在の市庁舎が建てられる昭和33年まで使われていました。

ここが現在の本町598番地。
番地が変更されていなければ、役場があった場所はここになります。
いまは跡形もありませんが、道端に鳥居が立っています。

細い路地の先に石段が見えます。

80段余りの九十九折りの石段を登ると、鞘堂に護られたお堂がありました。
このお堂の名前は地図にも史料にも出ていません。


お堂の前には「永代常燈明」を刻まれた小さな石塔と手水鉢があります。
石塔は一部が欠けていますが、「品■ 講中」と記され、側面には寛政十一年(1799)と
読める紀年銘があります。
手水鉢はお椀のような形の変わったものですが、年代は分かりません。


ここからは、門前地区の本町と成田山の伽藍が見えます。
鳥居のあった場所から石段の下までは「本町」ですが、このお堂は、上町が本町と東町
の間に突き出した場所にあります。


「電車道」の一本裏の道は静かな住宅街です。

登り坂の途中に大師堂と地蔵堂がありました。

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大師堂の中には小さな大師像が見えます。
地蔵堂には3体のお地蔵さまが立ち、中央の大きなお地蔵さまの台座には「三界万霊」
と刻まれています。
右端のお地蔵様は痛ましいお姿です。
それでも何とか修復が試みられて、あちらこちらにセメントの痕がありますが、首は無く
なっていて、頭の形をしたセメントの玉が載っています。

道端の地蔵堂は、何か懐かしい風景です。


登り坂の上は突き当たりになっていて、左側は「成田幼稚園」、右に行けば「上町」です。
チラリと「電車道」のトンネルが見えています。

トンネルの上から成田山方面を見ています。
画面右側が「本町」、左側は「上町」です。

「電車道」に下りてきました。
先ほど上から見下ろした「成宗電車」の名残りのトンネルが見えます。


電車のホームにある駅名板のようなものが、石垣に取り付けられています。
昔のものではなさそうですし、バス停でもなさそうです。
書かれている地名は、昔の小字(こあざ)で、「谷津」はこの一帯の小字、「小井戸」は
石段を上った先の小字で、古地図には、この辺りに「神明ミタラシ小井戸」があり、坂の
上には「神明社」が書き込まれています。

「電車道」を成田山に向かって戻ってきました。
「信徒会館」の裏側に左に入る細い石段が見えます。
「神明山」に登る道です。

石段は途中で二又に分かれ、真っ直ぐ登ると、昔の一時期に新勝寺があった「神明山」
に向かい、左に折れると「上町」の住宅街、そして表参道へと続いています。
分かれ道に祠が3基立っています。
手前の屋根の下の祠は、補修が加えられていて一見新しく見えますが、明和八年辛卯
(1771)と記され、露天の右側の祠には天保五年(1834)と記されています。



振り返ると先ほど登った向いの山の神社や道路の鳥居が見えています。
神明山については、以前書いた「お不動様の旅(4)」の項でふれています。
「神明山」から「現本堂」まで~お不動様の旅(4) ☜ ここをクリック

さて、最後にもう一度信徒会館に戻って、以前ここに建っていた「蓬莱閣ホテル」について
書いてみます。(写真は下記の成田市立図書館のホームページ中にありますので、リンク
を貼っておきます。)
「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 成田」(昭和55年 大野政治・小倉博 編)には、
「蓬莱閣ホテル」について次のように書かれています。
「大正一五年三月、門前の旅館海老屋・小川屋・阿波屋(もと鍵屋)を合して、株式会社
蓬莱閣ホテルが完成した。大小三十数室を備え、千人風呂・家族風呂・婦人専用風呂
の設備のほか、舞台付きの大広間などがある近代的なホテルであった。また階下には
大食堂をつくり、宿泊客だけでなく一般の参詣客にも利用させた。昭和四年の宿泊料金
は三円から七円で、他の旅館よりは高い。」 (P22)
京成電車が成田まで開通することになり、東京方面からの急増する参詣客が宿泊する
ことを予想して、このホテルは構想され建設されましたが、皮肉なことに電車の開通は
日帰りの参詣を可能にしたため、ホテル経営は思惑外れとなってしまいました。
「明治初年の成田村旅館業の状況は、52軒の旅籠屋が存在し、宿泊人数は半年間で
14万2,131人にのぼり、1日平均785人の客がいたことが示されている。」
(「成田の歴史アルバム」 昭和63年 市長公室広報広聴課 編 P48)
鉄道も無かったころの宿泊客がこれほどいたとすれば、明治30年に成田鉄道が開通して
以降も、宿泊客は飛躍的に増加していたはずで、そこに京成電車も・・・となれば、海老屋
や小川屋、阿波屋が近代的なホテル建設を急いだのは当然だったのかも知れません。
戦後は日本赤十字社の病院となり、さらに成田山信徒会館となっていましたが、それも
平成16年に解体され、現在の景色となっています。
成田市立図書館 「蓬莱閣ホテルと石川家(海老屋)」 ☜ ここをクリック
「千葉県博覧図」には、明治時代の「旅舎 海老屋石川甚兵衛」と「旅舎 小川屋小野寺
久太郎」の様子が描かれています。
「海老屋」は木造二階建てで「海老屋甚兵衛」と書かれた大看板が正面に掲げられ、二階
には道路に向かって突き出したベランダのようなものが見えます。
奥には廊下でつながった数棟の離れが並んでいて、正面の店先には人力車が並び、車夫
が客待ちをしています。
「小川屋」は木造三階建てで、二階・三階には「海老屋」と同じベランダのようなものがあり、
裏側の同じ三階建ての建て物との間には風呂場があるようで、大きな煙突が見えます。
一階の正面は大きく開かれて、奥には番頭らしき人物が座っています。
いずれも堂々たる旅館で、(結果論ですが)ホテルへの転身はちょっともったいなかった気
がしてしまいます。

「成田名所圖會」(昭和48年 中路定俊著)に掲載されている「成田山全圖」には、現在の
本町あたりも書きこまれていて、成田山の前を神明山の山裾を縫うように権現山に至る道
が見えます。
また、「元往来」と書かれた道は今の信徒会館の辺りを通り、現在「電車道」と言われている
通りに合流しています。
合流点の辺りは大きな「用水」があり、元往来から成田山に向かって右側(現在の電車道
との間)には、「大日寺」というお寺があったようです。
昔から成田山の門前に拓けた「本町」界隈は、時代の移り変わりとともに大きく変貌して
きましたが、市外からの参詣客が表参道を歩く一方、勝手知ったる成田市民にとっては、
混雑の少ない「本町」を通る「電車道」が、生活道路としての重要な役割を果たしています。

台の坂の成田山門前町~仲之町 ☜ ここをクリック
門前四ヶ町の「田町」には宵待草のロマンが・・・ ☜ ここをクリック
上町~門前四ヶ町の一つは参道と路地の町 ☜ ここをクリック


薬師堂の三叉路から成田山の総門にかけての坂道が「台の坂」。
「仲之町」はこの坂の両側に並ぶ門前商店街です。
上町と幸町との境界が良く分かりませんが、どうやら竹製品の専門店「藤倉商店」と
おせんべいの「雷神堂」の間が境界のようです。
ちょうど2つの店の間に仲之町と書かれた灯篭が道端に建っています。
竹かごや竹の大根おろしをはじめとする台所用品など、店内いっぱいに竹製品が並ぶ
藤倉商店には、珍しそうに覗きこむ外人観光客が絶えません。
雷神堂も雰囲気のある店構えで、煎餅を焼く工程を通りから見ることができます。

「木内薬局」は明治時代には「木内一粒丸」という店名でした。
今も看板の上には一粒丸の文字が見えます。

総門に下る右側です。
「ごま福堂」、「三芳屋」、「川豊」、「菊屋」、「近江屋」と並んでいます。
三芳屋の手前は現在閉店しているようです。
三芳屋の手前に細い路地があり、その奥に甘味処の「三芳屋お茶処」があります。

(2014年6月撮影)
両脇の店の軒下をくぐるように入って行く路地ですから、知る人ぞ知る穴場の休憩所です。


数ある鰻屋の中でも一番有名な「川豊」。
店先で鰻をさばく職人の包丁さばきを、道行く人々が足を止めて見入ります。
「川豊」は明治43年に伊藤豊治氏が印旛沼や長沼、利根川などでウナギや鯉を捕って
卸売をしたことに始まります。
大正14年には田町に「丸豊川魚店」を開き、昭和43年に屋号を「川豊」として、現在の
仲之町に移転しました。

川豊の向かい側にあるのが「成田観光館」です。
昔の成田の様子や、祇園祭りの山車などが展示されています。


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位置関係が分かりにくいと思いますので、見にくいでしょうが薬師堂から総門に向かって
一覧表を書いておきます。
[台の坂商店一覧]
(薬師堂)
(煎餅)きゃら
●
(竹細工・民芸品)竹工房せいみや 滝沢酒店(酒・佃煮)
ヨシバ写真館 藤月(煎餅)
(漬物)おぐらや 杉養蜂店(蜂蜜)
(煎餅)林田本店 下田康生堂(薬・漢方)
(甘栗)加藤ちゃん 藤倉商店(竹製品)
(漬物)兄弟堂 ●
(蕎麦)日進庵 雷神堂(煎餅)
(鰻)国之家
(漬物)京増 鰻福亭(鰻)
(胡麻)ごま福堂 粉名屋(鰻)
(喫茶・甘味)三芳屋お茶処
(羊羹・漬物)三芳屋 さかみち(民芸品)
(鰻)川豊 木内薬局(薬・漢方)
成田観光館
(鰻)菊屋
(漬物)川村佐平治商店
(漬物)上総屋 橘鮨(寿司)
(美術品)アンデルセン 梅屋(旅館)
(旅館)梅屋別館
(箸)手作り箸工房遊膳 大黒屋(レストラン)
(和装・雑貨)長谷川 大野屋旅館(旅館・レストラン)
(漢方)一粒丸三橋善兵衛
(佃煮)茂平のつくだ煮 江戸久(漬物)
延命院跡
(佃煮)又兵衛 ひしや旅館(旅館)
(旅館)若松本店 駿河屋(レストラン)
(信徒会館) (成田山大師堂)
(弁財天)
(総門)
青太文字は明治40年頃の地図に載っている店です。
なお、当時は兄弟堂は人形店、粉名屋は旅館、菊屋は土産物店、上総屋は洋物店でした。 ●は灯篭の町名が仲之町に変わるところです。

台の坂の中央付近(2014年6月撮影)

成田観光館の先には「旅館梅屋」「大黒屋」「大野屋旅館」と続きます。

「大野屋旅館」は江戸中期に蝋燭屋として創業しました。
現在の建物は昭和10年のもので、木造三階建て、望楼のついた特異な建造物です。
三階の114畳の大広間には能舞台があり、映画の撮影にもしばしば使われます。
今は旅館としての営業は休業中で、食事処と鉄砲漬けの販売を行っていますが、張り出し
た縁に修学旅行の生徒が鈴なりになって参道を見降ろしていた景色が思い出されます。
平成17年に国の有形文化財に指定されました。

通りにはレトロなポストが・・・。


向かい側には「アンデルセン」「梅屋別館」「手作り箸工房・遊膳」と続きます。
梅屋別館の手前の路地はかつて新勝寺があった「神明山」へと続きますが、現在は
地震の被害を受けて通行止めになっています。



大野屋旅館の先は「江戸久」。
そして路地を左に入ると、水野忠邦による天保の改革でスケープゴートとなった七代目
市川団十郎が一時身を寄せた「延命院跡」があります。
初代以来の市川家と成田山との縁は、屋号を成田屋としていることからもうかがえます。
台の坂に並ぶ小さな灯篭と木戸には、市川家の定紋の三升(みます)が刻まれています。


延命院跡の脇の細い路地を進むとこんな景色で、幸町側の崖に突き当たります。


延命院跡から参道に戻ると、道の反対側に重厚な蔵造りの「一粒丸三橋善兵衛」があります。
創業280年の老舗で、店名の一粒丸は「道中薬」と言われる万能薬で、腹痛・頭痛・ストレスに
効能があると言われています。
蔵は明治初期のもので、国の登録有形文化財です。

「若松本店」の前はもう成田山。
「大師堂」が向かいに見えています。

信徒会館の駐車場からは神明山がちょっと覗けます。
神明山 ⇒
「仲之町」は昔ながらの雰囲気を守って、参拝客を迎える門前の商店街。
時代の流れで少しずつ代替わりが進み、「いまふう」の店舗が増えていますが、
できればこのままで残したい風景です。

本町、上町、仲町、田町の4町は成田村時代からの門前四か町です。
今回はその田町をぶらついてみます。

スタートは成田山の東門です。
東参道を歩いてきた人たちはこの門から境内に入ります。

東門の脇に「洲之崎稲荷」があります。
周りの建物に隠れて見落としがちな場所です。

人一人が立つといっぱいになってしまう境内に、唯一あった石碑です。
「昭和十六年石坂修繕 三須重五郎」と記されています。

祠の中のキツネは怖いくらいの眼力です。

東門から東参道方向を見ています。
左側にあるのは「旅館 はま屋」です。
きっとこの場所で昔から参拝客を泊めていたのでしょう。

東門の少し先の細い路地を入ると「成田山仏教図書館」があります。
名前からは想像できないモダンな建物です。

仏教図書館脇の階段から見上げる三重塔は、傍で見るときより一層華麗な姿です。


仏教図書館への路地の一本先の路地を上ると成田小学校があります。
小学校の裏手への草むした細道の先に忘れられたような小さな墓地がありました。
かろうじて元禄、享保、文化等の年号が読めました。

東参道に戻ると「詩仙香房」というお香の店がありました。
いかにも門前町らしいお店です。
民芸品や細工を施したロウソクなども並んでいます。

公民館です。
成田図書館の分館や客席200程度の市民ホールなどがあります。

公民館の前で東参道の標識を見つけました。
以前に「成田山東参道を歩く」の項で東参道の標識は一つしか無いと書きましたが、
見落としていたことに気づきました。
成田山東参道を歩く ⇒
門前らしいお店が続きます。

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田町の山車蔵です。
田町の山車は人形がせり上がる二層式で、前面には唐破風の踊り屋台がついている
伝統的な様式です。
人形は素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。


東参道をしばらく進むと、左側の道路から少し高い所に水子地蔵と子安地蔵が見えます。
3メートルほどの高さにありますので、車で通ると目には入りません。


水子地蔵と子安地蔵との間に数基の石仏が並んでいます。
写真上の石仏は「准胝観音(じゅんていかんのん―准堤観音と書かれることもあります)で、
6本の手の内、中央で合掌し、右手に蓮を左手に羂索(けんじゃく)を持っています。
明和四年(1767年)の建立で、何気なく立っていますが、大変珍しいもののようです。
『准胝観音は・・・・・墓地などの六観音像のその姿を見かけるが、准胝観音だけを独立して
一基とするのは少ない。沖本博氏も「房総の石仏百選」の中で本像を取り上げ、「准胝観音
は真言宗系の六観音のひとつとして造立される(天台宗では不空羂索観音となる)。単体
としての造立は少なく、千葉県下でも他に例がない。全国的にみても造立例は少ない石仏
の一つである」と述べられている。』(「成田の史跡散歩」崙書房 小倉博 著 P30)
『ヒンドゥー教の女神チュンディーの音号。初期の経典では准堤仏母などと呼ばれ、
観音の名がない。このため、准堤は観音ではないという説もあるが、日本では六観音の
一尊に数えられている。仏母は仏の母親の意味で、この観音が衆生を救済するために、
多くの仏を生み出したことを表す。』(「仏像鑑賞入門」幻冬舎 瓜生中 著 P120)

お地蔵さまの脇の階段を上ると、白髪毛(しらばっけ)と呼ばれる墓地があります。

墓地の奥には成田が生んだ女流俳人、三橋鷹女の墓と句碑があります。
「鴨翔たば われ白髪の 媼とならむ」の鷹女の句が記されています。

墓地を登り切ったところは成田山公園でした。
何度も歩いた成田山公園ですが、こんな風につながっているとは知りませんでした。

墓地と公園の境目に珍しい石碑が立っていました。
「奉納 下田耕地 三反壹畝拾歩 嘉永三年戌十月」と刻まれています。
耕作地を奉納することもあったのですね。

再び参道に戻って寺台方向に進むと左手に成田高校・中学の正門があります。
成田高校の住所は成田市成田になります。

高校の正門前はロータリーになっています。
先にちょっと進むと道路を挟んで田町側にちらっと成田高校の陸上グランドが覗けます。
ハンマー投げの室伏やマラソンの増田が汗を流した場所です。


参道を離れて根木名川方向に入って行くと、そこは住宅街でした。
「田町街区公園」がありましたが、滑り台が1つあるだけであとは雑草だけでした。
いまどきの子供たちは公園で駆け回ることなどしないのでしょうか。

根木名川にかかる「てらみばし」です。
今ではほとんど見えませんが、昔はここから成田山が一望できたのでしょう。

ぐるっと回って総門の近くに出てきました。
東門の傍と同じように、たぶん昔からあっただろうと思われる旅館が2軒並んでいます。
東門の近くに戻ってきました。
公民館を挟んで田町にゆかりのある2人の有名な女性の居住跡地があり、
説明板もかかっています。


三橋鷹女(1899~1972)は昭和の時代に中村汀女、星野立子、橋本多佳子とともに
4Tと呼ばれた女流俳人で、その表現の激しさで知られています。
代表的な句は、
鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪うべし
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
などです。
鷹女の像は表参道の薬師堂の向かいにある公園に立っています。
成田山表参道を歩く(2)⇒
長谷川カタ(1890~1967)は竹久夢二の「宵待草」のヒロインとして知られています。
明治43年、夢二は前年に離婚した岸たまきとよりを戻して、2歳の息子を連れて銚子の
近くの海鹿島(あしかじま)の宮下旅館に避暑のため滞在していました。
カタの一家は秋田から宮下旅館の隣に引っ越してきていて、成田の高等女学校の教師
である姉のところに身を寄せていたカタ(当時19歳)が、たまたま訪ねて来ていたのです。
出会った二人は惹かれあい、いつしか近隣住民の噂になるほどになりましたが、夢二は
夏の終わりとともに家族と帰京することになります。
夏休みで実家に戻っていたカタも成田へ戻りましたが、その後も何度か夢二は成田に
カタを訪ねてきます。
家族のある夢二との交際を心配した父親が、急いで結婚話をまとめ、翌年夢二が成田を
訪れたときには、カタは嫁いで鹿児島に去った後でした。
悲しみの中、思い出の海辺でカタを想い、マツヨイグサに気持ちを寄せて書いた詩が
「宵待草」です。
宵待草は高峰三枝子が歌ってヒットしましたが、短い期間ではあってもほんの近くに
暮らしていたカタと鷹女の二人が言葉を交わしたことはあったのでしょうか。
宵待草は正しくは待宵草(マツヨイグサ)ですが、夢二が詩の流れの良さから、宵待草と
したと言われています。

「ナンでも図鑑」ヨイマツグサ ⇒


どこからか懐かしい「♪ト~フ~」のラッパが聞こえます。
野菜や惣菜、食品などを売る移動販売車です。
田町の住宅地には、こうした生活感のある風景がありました。

参道を挟んで路地が入り組む上町。
路地の先には新たな発見がありました。

上町の散策はこのトンネルから始めます。
このトンネルはかつての成宗電車が通った跡で、レンガで覆われた姿は
なかなか趣があります。

トンネルは二つあり、このトンネルの先には市役所や京成成田駅があります。
このトンネルは第2トンネルです。

第1トンネルの先は成田山の総門に向います。
この道は「電車道」と呼ばれています。
成宗電車は明治43年に開通した路面電車ですが、参拝客が素通りしてしまうことを
恐れた門前街の反対で、参道の東側を通るルートになりました。
昭和19年に廃線となった後はバス道路として利用されていました。

第1トンネルの前を右に坂を下ると、成田山交通安全祈願殿に突き当たりました。
ここは成田市成田なので、この手前までが上町です。


トンネルまで戻って階段を上ると子安地蔵があり、市中では比較的広い墓地があります。
この墓地はちょうどトンネルの真上になります。

墓地を先に進んで急坂を下ると機関車のある公園が見えました。
花崎町の栗山近隣公園です。

さっき上ってきた階段近くまで戻ったところに、祇園祭で活躍する上町の屋台蔵がありました。
上町の屋台は、江戸時代後期に造られた彫刻踊り屋台です。

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路地を進むと突然視界が開け、表参道に出ました。
ここは参道が緩やかに左に曲がる場所で、正面に山田刃物店、手前は長命泉です。

路地を引き返すと前方に成田山の本堂の屋根が見えます。
上町は電車道をはさんで大きく高低差がある町です。

ちょっと路地を曲がると直ぐに参道に出てしまいます。
今度は米屋本店の前にでました。
参道については以前に紹介していますので、今回は路地から路地へと歩きます。

気になる標識を見つけました。
「神明山通り」とあります。
神明山はお不動様が米屋裏の遷座の地(※1)から移り、
本堂も建てられて寺院としての様式を整えた場所です。
永禄九年(1566年)に本堂が現在の場所に移され、神明山は忘れられて行きました。
前から気にはなっていたのですが、場所がどうしても分からなかったので、
今日こそは場所を突き止めようと路地を進みます。
やがて路地は路地とも言えないトタン塀に囲まれた細道になりました。
曲がりくねって視界を遮られ、人一人が歩けるだけの道(?)をさらに進むと、
下り坂となり、視界が少し開けます。

「旧蹟聖地 神明山」と記された小さな石碑が足元にありました。
どうやらこの坂の上が神明山のようです。

さらに坂を下ると左に上る石段と祠が見えました。


石段を登るとフェンスに囲まれた小さな台地のなかにお堂が一つ、ポツンと建っています。
ここが昔、本堂があった神明山でした。
立ち入り禁止となっているため、お堂の中は良く見えません。
現在の成田山の始まりの地としては寂しい景色です。


木々の間に現在の成田山が、そして参道の大野屋の望楼が見えます。

参道に戻るとそこは明暦の本堂・薬師堂(※2)の前です。

総門に向って参道が下って行きます。
右側の数軒だけが上町になります。


薬師堂の裏の路地を進み、米屋の裏に出ました。


「表参道」の項で紹介した「羊羹博物館と」「お不動様旧蹟小公園」(※4)。

さらに路地を進むとJRの線路脇に出ました。
「成田七ヶ町 三界萬靈 供養塔」と記された石碑がありました。
先に見える地下道からは、線路をくぐって新町方向に抜ける「なかよしトンネル」に
出ることができます。
ここは以前は踏み切りだったようです。
(厳密に言うとこの石碑の場所は花崎町か新町になるのかもしれません。
ちょうどこのあたりが3つの町の境界線になっています。)


町内のちょっとした路地にも名前がついています。


参道を横切って、再び電車道のトンネルの上に戻りました。
高低差のある地形を縦横に路地が横切り、電車道、トンネル、神明山、参道・・・
いろいろな顔を見せる上町には、まだおもしろい路地が隠れていそうです。

(※1)「成田山の表参道を歩く(1)」
(※2)「明暦の本堂はひっそりと薬師堂に」
(※3)「成田山の表参道を歩く(2)」
(※4)「成田山の表参道を歩く(1)」
二つに分断されています。
南北二つの地区を結ぶのは、取香橋と浅間橋という二つの橋しかありません。
取香橋には歩道がありますが、浅間橋には無く、人の往き来には取香橋しか使えません。
地区の総戸数は80戸余り、北側にはほとんど人家は無く、
大きなホテルや旅行客相手の広い駐車場が多くの面積を占めています。
今回は北側をひと回りしてから南側に回ります。

取香橋は空港の入り口近くにあり、ここからは管制塔やレーダーが見えます。
この道の先を左に入ると成田空港で一番大きなゲートがあります。
直進すると東成田、芝山千代田駅前を通って、芝山町、多古町へと抜けて行きます。
交差点の付近を少し歩いてみましょう。

空港ゲートの入り口の脇にあるのは、以前紹介したことのある「側高神社」です。
空港建設の影響で、住民からは切り離された場所に建っています。

交差点に面して、「成田東武ホテル」があります。
このホテルは開業時は「ホリデイ・イン」でした。
空港近辺のホテルの中では「ファーストシティ・ホテル(現成田ビュー・ホテル)」に次ぐ
早いオープンで、外から見えるエレベーターは当時はめずらしく、見物人が集まったほどです。

東武ホテルを背に左に3分ほど行くと、「東横イン・成田」があります。
成田地区のシティホテルの変遷は激しく、ほとんどのホテルが開業時の名前から
変わっていますが、中でもこのホテルは一番名前が変わった(経営母体が代った)ホテルです。
スタートは「トラべロッジ」でした。
直ぐに「成田プリンスホテル」にそして日本航空系の「ウィングホテル」に、
数年前に東横インへと看板が掛け替えられました。



遠くに建築中の建物が見えました。
近づいてみると、相当大きな建築物です。
空港の敷地内ですからこれ以上は近づけず、何の建物かは分かりませんが、
多分LCC専用ターミナルではないかと思います。
「空港第2ターミナル」の項で紹介しましたが、LCCの急速な伸びが、
専用ターミナルの建設を必要としています。


県道44号線沿いには旅行客向けの駐車場が目立ちます。
通りから見えない所にも驚くほどの台数の車が駐車しています。

ホテル日航成田です。
このホテルも日本航空の経営再建のため、現在はホテルオークラの傘下に入っています。
最近屋上に鶴丸のマークが復活しました。
44号線に沿って植えられた桜は見事な大木で、
開花の季節にはこの一帯がピンクに染まります。

道を挟んでホテルの反対側の崖下にチラリとトンネルのようなものが見えます。



空港に向かうJRと京成の線路がここでちょっと顔を出しています。
線路が見えている距離は50メートルほどしかありませんから、
ここで電車を見る機会はめったにありません。


浅間橋の手前に小さな丘があり、その上に浅間神社があります。
開発で削られた丘は4~5坪ほどしかなく、この神社に気付く人はほとんどいません。
石造りの祠は昭和48年に建てられたものです。

神社から見える新空港線と国道295号線です。
この2つの道で取香地区は南北に分断されています。
取香橋に戻って、取香の南の地区に入ります。
こちらの地区は北とは全く違う顔を見せてくれます。


取香橋を渡って直ぐに右の坂を登ると取香稲荷社が見えてきます。
小さなお社ですが、手入れが行き届いています。
入り口に金剛夜叉像が立っていました。
寛政三年(1791年)と刻まれていますから、
この地域に昔から人々の営みがあったことを示しています。

取香稲荷社の前を左に進むと「円勝寺」が見えてきます。
四月に行われる民俗芸能の「取香の三番叟」はこのお寺から出発し、
取香橋を渡って北側にある側高神社へと向います。

質素なお堂です。
右側に見えているのは「成田市取香共同利用施設」です。


墓地の石仏群
寺の左手は「取香墓地」で、空港関連工事への協力のため、
分散していた墓地をここにまとめたそうです。
入り口近くの仏石には、正徳三年(1713年)と刻まれています。


この山道を歩いている間、誰にも会うことがありませんでした。
風向きの関係もあるでしょうが、空港の騒音も聞こえません。
静かな、のんびりした山村がここにはありました。


坂を下る途中に「大師堂」がありました。
小さいながらも立派な構えです。

坂を下り切る少し手前には「熊野神社」があります。


熊野神社
狭くて急な石段を登ると、僅かに拓かれた平地にへばりつくようにお社がありました。
わざわざここまで登ってくる人は少ないようです。

杉の大木がお社を抱えるように立っています。


さらに坂を下ると、以前紹介した取香川の源流部に辿りつきます。


見上げると聖マリア記念病院が見えます。
心療内科、精神科、神経科等、特色のある診療科目を持つ大きな病院です。
前庭にはマリア像をはじめたくさんのメルヘンチックな像が置かれています。
新空港道と国道295号線によって分断された取香地区は、
平成22年時点で戸数88戸、人口162人の寂しい地区になってしまいました。
南北に分かれた地区を一つにまとめているものは、
円勝寺から出発して取香橋を渡り、側高神社で行われる
「三番叟」のご祭礼だけなのでしょうか。

千葉県教育委員会ホームページより 取香の三番叟 ⇒

1丁目から3丁目まであります。
この町には住民がいません。
人口はゼロなのです。
面積は27.3ヘクタールですから、市内の中心部にある町としては
とりたてて小さい町ではありません。
今回はこの赤坂を隅々まで歩いてみましょう。

出発点は近隣唯一の“デパート”、「ボンベルタ」です。
デパートと言うよりも、現在はショッピング・モールと言った方が良いかもしれません。
イオングループですが、現在は大きくイオンの看板が前面に出ています。

ボンベルタには2つの別棟がありますが、本館以上に集客に難があるようで、
いつも閑散としています。
本館からのコンコースは子供たちにとって絶好の自転車乗り場です。

駐車場から見る景色です。
中央に見えるのが成田郵便局(本局)、右側のストライプの建物は東京電力です。

通りに下りてきました。
成田郵便局は明治5年に開局し、仲町、田町と移転をした後、
昭和56年に現在地に移転してきました。
成田空港の第1、第2ターミナルに、それぞれ分室があります。
本局ですから窓口も広く、外国人、特に東南アジアの方が多く訪れています。

周りは手つかずの空き地です。
このあたりには古墳が点在しているので、開発がしにくいのでしょうか。

空き地の奥に進むと古墳が現れます。
公津原古墳群の中の「瓢塚古墳群・6号墳」です。
方墳で、直径は34メートル、高さ2メートルです。

向いにあるのは5号墳で、直径35メートル、高さ2メートルの方墳です。


この地区は主要な建物や施設を結ぶ遊歩道が張り巡らされています。
周辺の住宅地から道路を横断することなく、郵便局、ショッピングモール、図書館、
公民館、公園などに行くことができます。
道路をまたぐ橋の上から見える住宅地には、しゃれたお店が並んでいます。


遊歩道を進み、西口大通りに出ました。
市立図書館が見えます。
昭和59年の開館で、現在の所蔵図書は分館等を含めて55万冊、
平成25年度の総利用者数は約31万4千人、総貸出点数は約124万5千点です。
あいにく今日は休館日で、館内に人影は見えませんが、いつも大勢の方が利用しています。
私もこのブログを書くにあたっては、頻繁にお世話になっています。
図書館のある通りの向い側は1丁目、これまで歩いてきた所は2丁目です。

西口大通りは、JR成田駅西口からまっすぐ伸びた広い道路です。
並木の美しい通りの南側には銀行が並び、北側は図書館と公園です。

遊歩道から続く歩道橋を渡って「赤坂公園」に入ります。
6.8ヘクタールもある自然豊かな公園です。
子供の遊具もあり、市民の憩いの場になっています。


大きな池を迂回するように細く急な坂道が続きます。

突然視界が開けると、古墳が見えました。
ここは公津原古墳群の中の「船塚古墳群」になります。



公園を抜けて湯川方面に延びる広い通りに出ると、木造平屋の建物群が目に入ります。
「成田市保健福祉館」です。

急病診療所をはじめ、住民健診・乳幼児健診施設、在宅介護支援センター、
障害のある方たちの社会参加を計る授産施設、子育て支援施設等々
素晴らしい施設が整っています。
市外に住む住民にとって、この景色は地域格差を痛感させられます。

ボンベルタのある交差点まで戻ってきました。
消防署とNTTの建物が見えています。
NTTの鉄塔は市内の広い範囲から見えます。

交差点を挟んで消防署の向いには食品スーパーや大型書店、レストラン等の
商業施設になっています。
この商業施設や消防署のある一角が3丁目になります。
確かにこの町には人家がありません。
人が集まる施設が多くありますが、一戸建ての住宅やマンションは見当たりません。
人口ゼロという市役所の統計を見た時は疑問を感じましたが、
間違いなく住民はいないようです。
大型のドラッグストア


歩道橋を渡って消防署側に来ました。
こちら側にも大型のドラッグストアや自動車のディーラーが並び、生活感はありません。

突然サイレンが鳴り、消防署の前が騒がしくなりました。
救急車が出て行きます

消防車も出動です



人の住まない町から人の住む町へ、救急車と消防車が急ぎます。
赤坂消防署は成田市の南西部を管轄としています。
ニュータウンや美郷台、公津の杜等、人口の多い地区で、
管内の人口は市全体の50%にも上ります。
赤坂1丁目から2、3丁目と歩いてきました。
公共施設に大型商業施設、公園と古墳群・・・
ここは“住む”町ではなく、“集まる”町なのですね。
