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sausalito

Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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成田にもあった!~二つの「明治神宮」
成田にも「明治神宮」があることをご存じでしょうか?

明治神宮-1

これが多古町との境の「大栄十余三」にある「明治神宮」です。
明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする、あの東京・代々木の「明治神宮」と同じ社号です。


明治神宮-2

毎年初詣の人出が日本一で、境内は約21万坪の「本家」(?)とは比較にならない規模と
知名度ですが、間違いなくここは「明治神宮」と呼ばれています。


明治神宮-3
明治神宮-4
********** 明治神宮-5

社殿には菊の神紋が掲げられています。
どうやら十五弁菊のようです。
明治になって皇室の御紋である菊の紋章は一般には使用することが禁止されていましたが、
明治12年5月の太政官達第23号によって、神殿・仏堂の装飾としての菊紋使用は(皇室の
十六弁以外は)許されるようになりました。


***明治神宮-6
明治神宮-19

流れ造りの社殿には目立った装飾はなく、極めて質素な造りです。


明治神宮-7
明治神宮-8

境内の一角にある梅鉢紋が付いた「天満天神宮」。
梅鉢紋と言えば、「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」(拾遺和歌集)の
菅原道真公ですが、この祠の側面には「奉納 開拓五十周年 昭和三十五年五月」(1960)と
刻まれています。
ここの字(あざ)の十余三(とよみ)とは、かつての矢作牧であった地域を明治政府が窮民対策
のための開墾事業の対象とし、十三番目に開墾されたことから付けられたものです。
事業は明治初期の頃から行われていましたが、なかなか思うようには進まず、この神社の一帯
の開墾は明治43年(1910)頃に始まったということでしょうか。


明治神宮-10
明治神宮-23
********** 明治神宮-9

手水盤は昭和九年九月のもので、「奉納 御大典記念」と刻まれています。
この御大典とは、昭和3年(1928)に行われた昭和天皇のご即位を指すものです。

少し離れた場所にあるもう一つの手水盤は年代不詳です。


明治神宮-11

山あいにわずかに広がる畑の中に参道があり、遠くに鳥居が見えています。


明治神宮-12

鳥居は痛みが激しく、一部が剥落しています。


明治神宮-29

鳥居側から「明治神宮」を見ています。
参道と言うより農道の向こうに僅かに社殿が見えます。


明治神宮-14
********** 明治神宮-28
明治神宮-17
********** 明治神宮-21

辿り着くまでは、畑や藪の間を抜けて行きます。
地図には載っているような、いないような・・・、道のような、畑のような・・・、進むには結構
気合いが要る道です。


明治神宮-18
明治神宮-20

境内には社殿のほかには手水舎と「天満天神宮」の石祠があるだけです。


明治神宮-22
明治神宮-27

社殿に神額はなく、鳥居の額束にも「明治神宮」の文字はありません。
でも、ここは間違いなく「明治神宮」です。

成田市の宗教法人名簿や「千葉県神社名鑑」、「全国神社名鍳」のいずれにも記載は無く、
「千葉県香取郡誌」にも名前は見当たりませんが、詳細な地図なら、周辺に何もないような
場所に、小さな⛩の地図記号と「明治神宮」の表示を見つけることができます。

近所の農道を歩いていた92歳だというお婆さんに聞くと、
『ああ、あそこは「明治神宮」って呼ばれているよ。 毎年10月には地区の役員が東京の明治
神宮にお参りしてお札を持ち帰って納めているよ。私らの子供の頃はあそこでよく遊んだもん
もんだ。 今は大栄十余三なんて地名になってしまったけれど、昔は「アザミヶ里」と呼ばれた
良い所だよ。』
とのことでした。
「アザミ」は、草丈50~70センチの、初秋に淡い紅紫色の花を付ける棘のある植物で、漢方
では止血剤として用いられる、どこでも良く見かける野草です。
きっと、この一帯の秋は、アザミが咲き乱れていたのでしょう。


明治神宮-24
*********明治神宮-25
明治神宮-30

鬱蒼とした森の中で、忘れられたように佇む「明治神宮」です。


さて、成田にはもう一カ所「明治神宮」があります。

明治神宮-31
明治神宮-32

旧大栄町の川上地区にある「明治神宮遙拝所」です。


明治神宮-43
********** 明治神宮-44

県道44号線と79号線が交わる十余三交差点の脇にあります。


明治神宮-39

平成12年(右)と昭和23年(右)の手水盤。


明治神宮-33
明治神宮-36

ここには皇室の「十六弁八重表菊」紋が掲げられています。
数多い菊花紋の中でも、この紋は皇室の他のは東京・九段の「靖国神社」など、ごく一部で
しか使われていません。


明治神宮-38
明治神宮-35
********** 明治神宮-37
明治神宮-42

流れ造りの社殿は大きな鞘堂に覆われています。

平成12年に設置された記念碑には、次のように記されています。
『明治神宮遙拝所創設の由来 十余三一区二区両地区の守護神として鎮座される明治神宮
遙拝所は大正十二年宮内省へ再三に亘る請願により許可建設されたものである 請願の内
容を記すれば「当地ハ旧御料地ニシテ皇室トモ御縁故深ク且ツ又牧ノ開墾地ニテ区民一同
崇敬スベキ神祀無之人心離敬ノ傾向有之夫等統一ヲ計ル為居住住民一同熱誠ナル希望ニ
ヨリ不肖等主唱者トナリ神宮遙拝所ヲ建設致シ度ク特別ノ御思召ヲ以テ御許可相成度ク請願
名簿図面添ヘ此ノ段奉願候」 このように熱誠なる請願が認められ大正十三年八月八日官弊
大社明治神宮社務所(第七二三号)により明治神宮遙拝所の建設許可を得て新築された歴史
的にも由緒ある守護神である その後永い間の風雪に耐え遙拝殿の破損も著しく昭和二十五
年二月二十五日新築し改めてこの年に御幣が下付されたのである その年遙拝殿の新築を
記念して四月三日を例祭と定め毎年記念行事として御祭礼が行われている』

ここは「明治神宮」から正式に認められた遙拝所なのです。


明治神宮-46

この遙拝所の隣にお住まいで、日頃から境内の管理をされている平山 博氏に、大変貴重な
書類を見せていただきました。

明治神宮からの遙拝所建設の許可状(コピー)です。
明治神宮と印刷された用箋に次のように書かれています。

 第七二三號 
 大正十三年八月九日 
  官弊大社明治神宮社務所
浅 沼 由 松 殿
市川角左衛門 殿
大正十三年八月九日願出ノ明治神宮遙拜
所左記ノ場所ニ建設ノ件當神宮ニ於テハ
何等差支無之候也
      記
千葉縣下総牧場駒之頭字夜番第二號地

明治神宮に保管されていた原本は、昭和20年4月の米軍の空襲で焼失しているので、この
副本が残された唯一の証拠となっています。

なお、代々木の「明治神宮」は正式には明治神宫と書きます。
「宮」の字は、うかんむり(宀)の下の「呂」に、二つの口を結ぶ線が入らない「宫」です。


明治神宮-26
明治神宮-40

大栄十余三の「明治神宮」には、社号に関する史料は見当たりませんが、代々木の神宮が
造営された頃に、開拓民の心の拠り所として、また皇室への崇敬の念をもって創建された
のだと思います。
遙拝所もまた、住民の心の拠り所と皇室への崇敬の念から創建されたもので、広大な開墾地
に生きる人々の様々な想いが凝縮されているように、私には思われます。


明治神宮-01

                     ※ 「明治神宮遙拝所」 成田市川上345-588
 
明治神宮-02

                     ※ 「明治神宮」 成田市大栄十余三(無番地)
        (成田にはここの他に、国道51号線沿いにもう一つ十余三の地名があります。)



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本大須賀村の寺社 | 08:15:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
千年を超える歴史~栄町の大鷲神社

栄町の大鷲神社を訪ねます。
大鷲と書いて「おおとり」と読むことが多いよいうですが、この神社は「おおわし」と読みます。

大鷲神社-1

創建年代は不詳ですが、日本武尊が東征の際に、ここに錦旗を立てて仮の御野立所と
した場所であると言われています。
本殿は凝宝珠金具の刻銘により天保二年(1831)の造営とされています。

伝承によれば、この神社の創建は天慶二年(939)で、文化・文政年代には鷲宮(鷲賀岡
神社)と称していましたが、明治26年頃から大鷲神社と称するようになったようです。
実に千年を超える長い歴史を有していることになります。


大鷲神社-2
********** 大鷲神社-3
大鷲神社-4

県道から少し入ったところに大きな鳥居があり、左右に分かれる石段の下に二基の灯籠
が立っています。
右側の年代は分かりませんが、台座には「江戸神田明神下」や「馬喰町」「下谷」などの
文字が読めます。
左側は文政十二年(1829)のものですが、柱の部分に「大正十二年九月一日大震災
破損ニ付修繕ス」
と刻まれています。
柱と火袋がこの時に新しくされたようです。


大鷲神社-5
大鷲神社-6

鳥居からまっすぐ登るのが「男坂」、右に上るのが最近整備された「女坂」です。
「男坂」は相当な急勾配で、お年寄りにはとても無理な感じです。


大鷲神社-7

「女坂」を上ったところに立つ「子授けの大樹」。


大鷲神社-8
大鷲神社-9
大鷲神社-10

ここにある「魂生神社」(こんせいじんじゃ)。
「五穀豊穣、縁結び、子授け安産、夫婦和合」の御利益があるとされる神社で、知る人ぞ知る
スポットであるようです。
千葉県ホームページ中の「まるごとeちば」には、この神社のご神体について「大鷲神社境内
には、魂生大明神といわれる子宝・安産などに御利益のある社があります。御身体の形が
ユニークで、日本一大きく何かと話題の神社です。」
と何とも微妙な言い回しで書かれていま
す。(写真の掲載はちょっと憚られますので、ご興味のある方は直接お出かけください。)


大鷲神社-11
大鷲神社-12

「魂生神社」の隣にある「聖徳太子堂」。
嘉永元年(1848)のものです。


大鷲神社-13

「聖徳太子堂」の横を下る細い道があり、その先に赤い鳥居が見えています。


大鷲神社-14
大鷲神社-15

「鷲の杜稲荷」です。
狭く、急な石段を登ったところにあります。


大鷲神社-16
大鷲神社-17

「鷲の杜稲荷」を過ぎて長い石段を下ると鳥居があり、振り返ると大分上の方に今来た稲荷
の赤い鳥居が木の間に見えています。
こちらから上る道は「草薙参道」と呼ばれています。


大鷲神社-18
大鷲神社-0

「魂生神社」まで戻って、「大鷲神社」の境内へ女坂の残りの石段を上ります。
「縁結び合体椎の木」と説明板のある大木が目に入ります。
このあたりは「魂生神社」のご利益にある、「子授け安産、縁結び、夫婦和合」などの大盤振る
舞いです。


大鷲神社-20

ようやく「大鷲神社」の拝殿が見えてきました。


大鷲神社-21

手水盤には「文政二己卯年十一月」と刻まれています。
文政二年は西暦1819年になります。


大鷲神社-28
大鷲神社-30

本殿の説明板には次のように書かれています。
建立は本殿凝宝珠金具の刻銘により天保2年(1831)と考えられる。本屋、向拝の軸部、
縁廻り、柱間等の壁板には極めて装飾的な彫刻が施されている。特に本屋と向拝を繫ぐ
ぐ海老虹梁は竜の丸彫りになっており、千葉県内では当町の駒形神社と本例のみであると
いう。入母屋造本殿は町内では珍しい貴重な建物である。」


「千葉県神社名鍳」(昭和62年)には、ご祭神は天乃日鷲命(あめのひわしのみこと)、
大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなびこなのみこと)の三柱で、由緒沿革は、
創建年代など詳らかでないが、豊臣、徳川時代に至るまで天下泰平・国土鎮護の神として
尊敬され、殊に春日局の崇敬が深かったという。」
と記載されています。


大鷲神社-22   拝殿の掲額
大鷲神社-23   拝殿内部
大鷲神社-24 賽銭箱に彫られた大鷲

大鷲神社-32
大鷲神社-33
********** 大鷲神社-34
大鷲神社-35
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虹梁、木鼻、脇障子など、本殿の各部は見事な彫刻で飾られていて、脇障子には琴を弾く
女性や、囲碁のような盤面遊戯を楽しむ姿が彫られています。


大鷲神社-25

境内の一角にある「力石(ちからいし)」。
「力石」は、江戸時代から明治時代にかけて、鍛錬と娯楽の一つとして力試しに用いられた
石で、通常は米俵より重い60キロ以上の重量があります。

竜台六所ー33  竜台・六所神社の力石
香取神宮のさし石(力石) 香取神宮ー57
皇神社ー4   野毛平・皇神社の力石


大鷲神社-26

「御嶽神社」(左)と「石上神社」(右)。
「御嶽神社」は江戸時代からここにあったと言われており、「石上神社」は旧魂生神社です。


大鷲神社-27

両神社の間にある、「信開靈神」と刻まれた明治二十年(1887)建立の「霊神碑」。
木曽御嶽信仰に関わるもので、霊神とは過去の行者を神格化した存在です。


大鷲神社-44

二つの神社の側に、欠けた灯籠や狛犬、石柱などが集められています。
享和三年(1803)、天保六年(1835)、嘉永四年(1851)などの年号が読めます。


大鷲神社-281
大鷲神社-29

本殿裏手にある「霊峰神社」。
説明板に「平成9年に神社名を命名」と書かれていますので、新しい神社のようです。


大鷲神社-31

本殿の裏を回ると、小さな賽銭箱が木柵に括り付けられています。
「稲荷神社遙拝所」と書かれていて、崖下に先ほど訪ねた「鷲の杜稲荷」が見えています。
草薙参道から「鷲の杜稲荷」に登る道は、距離は短いものの相当な急坂ですので、お年寄り
や足腰に自信の無い人はここからお参りできるような配慮ですね。



大鷲神社-43

屋根や蛙股には見慣れない神紋が見えます。
十六菊と何かの植物の葉が組み合わされています。
「抱き菊の葉に菊」か「青山菊」か、とも思いますが、ちょっと違うようです。


大鷲神社-41


男坂の石段上に立つ社号標には「錦旗山大鷲神社」と刻まれています。
「全国神社名鍳」(昭和52年)にはこの神社について次のような記述があります。
「日本武尊が東夷征討の際、当山に錦旗を立て仮の御野立所としたことから錦旗山と称した。
明治初期村社に列した。」



大鷲神社-42
大鷲神社-46
大鷲神社-39

「千葉縣印旛郡誌」(大正二年)には、「無格社鷲賀岡神社」として次のように記されています。
「安食村字谷前にあり天日鷲命を祭る由緒不詳社殿方五尺拝殿間口四間奥行二間社務所
間口四間奥行二間境内七百五十坪官有地第一種あり神官は大野橘麿にして氏子三百戸を有し
管轄廰まで十一里あり毎年十二月初酉の日を以て祭日とし賽客絡繹として地方極に見るの
雑踏を極む神社明細帳町誌

「○利根川圖誌伝 安食村印旛江へ指出たる山の頂にあり別當正徳寺毎年正月十一月初酉
の日遠近の老若參詣群集す此處印旛江の下流にて長門の口と云ふ長門の渡ありこの地なり」

「○新撰佐倉風土記伝 鷲神社在安食村南岡阜山」
「○日本名勝地誌伝 鷲神社は同所安食印旛沼の下流に突起せる丘に在り元来東京下谷區
龍泉寺町に鎮する鷲神社と同体にして初め正■寺の保管せし所なりしが神佛混淆の令下る
に及び分離して純粋なる神社となれり毎年正月十一月初酉の日遠近の男女社頭に群賽して
福を祈ること猶猶東京の酉の市に異ならず雑還近村に比なしとぞ」


祭礼の日などに違いがあるものの、昔から近郷に知られた神社であったことが分かります。
なお、■の部分は印字が潰れていますが「願」となっています。
「栄町史 史料集(一)」に収録されている「天明六年下総國埴生郡安食村御差出明細帳」に
龍角寺末天台宗正徳寺が鷲ノ宮を支配している、とあるので、「正願寺」ではなく「勝福寺」が
正しいと思われます。

長い歴史を紡いできた「大鷲神社」に、初夏のような風が吹き渡っています。
山の上の境内は、今、萌えるような新緑に包まれています。


大鷲神社-50

                        ※ 「大鷲神社」 印旛郡栄町安食3620


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栄町の寺社 | 09:54:10 | トラックバック(0) | コメント(2)
ちょっとしたスポット~参道を道路に切断された「富宮神社」
松崎郵便局から八生小学校前を抜け、県道18号線(成田安食バイパス)へ向かう道の途中に、
参道を道路に切断された神社があります。

富宮神社ー5
富宮神社ー3
富宮神社ー4

鳥居の前に立つと、20メートルほど先に見えるお社との間を道路が横切っています。
この神社は「富宮神社(とのみやじんじゃ)」で、創建年代、ご祭神、由緒沿革ともに不詳です。
「成田市史」に収録の「松崎村誌」、「千葉縣印旛郡誌」に収録の「八生村誌」にも名前は無く、
「千葉県神社名鑑」(昭和62年 千葉県神社庁)や「全国神社名鑒」(昭和52年 全国神社名鑑
刊行会)等にも記載が無く、もちろん「成田市宗教法人名簿」にも見当たりません。


富宮神社ー1
松崎街道ー52   

鳥居の手前には大師堂があり、大師像の台座には「富宮講中」と刻まれています。
昔、この一帯は「富宮」という小字(こあざ)だったので、この小字名を神社名にしたようです。


富宮神社ー6

鳥居をくぐって道路を渡り、数段の石段を上ると狭い境内に入ります。


富宮神社ー7
松崎街道ー48
********** 富宮神社ー8
富宮神社ー10

お社は大分傷んでいます。
それでも本坪鈴は比較的新しいものに見えますし、鈴紐は最近付け替えたようで(昨年6月に
訪れた時のものより新しくなっています)、お世話をしている方がおられるようです。


松崎街道ー47  昨年6月のお社


富宮神社ー9

お社の下の土留めのように使われている、欠けた手水盤。
半分土に埋まっていますが、かろうじて「文政十■亥二月吉日」と記されているのが見えます。
文政十年は西暦1827年になります。


富宮神社ー12
********** 富宮神社ー13
富宮神社ー14

傍らのお堂は「子安観音堂」です。
お堂の中には「如意輪観音像」系の「子安観音」の石像が安置されています。

石像の側面に「宝暦十二壬午二月吉日」と記されています。
宝暦十二年は西暦1762年、約250年前のことです。


富宮神社ー16
松崎街道ー50

「富宮神社」と「子安観音堂」。
今年3月と昨年6月の景色です。


富宮神社ー15 
   境内から道路を挟んで見る鳥居と大師堂。

富宮神社ー20
   鳥居から道路を挟んで見るお社。

さて、何でこの神社の参道は道路に切断されてしまったのでしょうか?

富宮神社ー19
松崎街道ー46

近所の方にお話を伺うことができました。
昔はここに道路は無く、当然一帯は神社の境内で、鳥居からお社まで参道が続いていました。
近年になって(三代前と仰っていました)二宮神社や来迎寺方面から土屋方面に抜ける道の
必要性が高まり(八生小学校にはバスが行けない状態だったようです)、氏子たちが相談して
道路を通すことを了承しました。
実際に道路が参道を横切る景色を目にすると、やはり納得できない人たちが多く出てきました。
何とか昔の姿を取り戻す手立てはないものかと思案するものの、時間が経つうちに氏子が減り、
相談に集まる氏子は数軒になってしまったそうです。


富宮神社ー17
松崎街道ー54

お社の後方には小高い丘があり、この場所を利用して鳥居等を移したいと、残った氏子の方達
は考えているようですが、権利関係や諸々の問題からなかなか話が進まないようです。


富宮神社ー11

参道を横切る道路は国道409号線や51号線への便が良く、結構交通量があります。
走り抜ける車を見ていると、地域の発展や住民の利便性と、昔から地域に根差した信仰の
場との共存の難しさを見るような気がします。


富宮神社ー21


                        ※ 「富宮神社」 成田市松崎825付近



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寺社 | 08:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
馬乗り馬頭観音と虚空蔵菩薩(旧山田町)
前回の「正等院」の謎の石仏を調べる過程で訪問した、旧山田町(現・香取市)の「観音寺」
にあらためて取材に訪れました。

山田馬頭ー21

「観音寺」は珍しい「馬乗り馬頭観音」で知られています。


山田馬頭ー1

天台宗のお寺ですが、ほとんど資料がありません。
天台宗のホームページにも寺名と住所しか載っていません。


山田馬頭ー34

「香取郡誌」には、その他寺院の項にただ一行、「観音寺 天台宗 本尊・馬頭観音」とのみ
記載されています。
「山田町史」(昭和61年編さん)にも、簡単な説明があるだけです。
「観音寺 神生、向油田にある。本尊に馬頭観世音菩薩をまつる。下総七牧の一つ、油田牧
の内にあり、馬観音として信仰されてきた。」 
(P1345)

ゼンリン地図には「観音寺」ではなく、「馬頭観音」と表記されています。


山田馬頭ー3

平成21年に掲げられた寺額には「馬頭観世音」と書かれています。


山田馬頭ー5

本堂の扉に空いた小さな窓から、御前立ちの「木像馬乗り馬頭観音」が見えます。
馬上で趺坐する姿は、後ろの厨子内に安置されている本尊と同じ像容と言われています。


山田馬頭ー8
********** 山田馬頭ー7

石段を登り、境内に入る場所に享和二年(1802)の石灯籠が立っています。

石灯籠の脇にある記念碑(平成二十一年三月の「馬頭観世音本堂修繕事業落慶譜」)には
次のように刻まれています。

『当山馬頭観世音は千数百年前(奈良、平安)の行基菩薩の作である。脇の貝塚は、早稲田
大学の調査チームにより三千五百年前の人骨が発掘され、旧茅場には実際に狩をした塚十
数ケ所あり、古代人の生活の営みがあった証である。 「向油田の馬頭観音」は馬体安全、
商売繁盛、家内安全の観世音として篤く信仰されて来ました。本堂は嘉永二年一月二十三日
の油田村の大火災で全焼し運び出された本尊は十七年間仮殿に安置される。明治五年三月
七日より九日迄、入仏供養の式が執行される。今も本堂展示物、二点に当時の焼けあとが
ある。本堂は慶応三年十一月二十八日大工上棟 明治元年三月十二日茅ぶき屋根上棟され
た。百五十年の月日による本堂の傷みも激しくなりよってここに本堂屋根と、本堂内の修繕、
仏具修復工事を奉賛し、以って馬頭観世音の壮大なる御慈悲を末永く仰がんとする。』


行基菩薩(ぎょうきぼさつ)とは、奈良時代の僧で、我国最初の「大僧正」となった行基のこと。
死後に朝廷より菩薩の諡号を授けられたため、「行基菩薩」とも言われています。
本尊の馬頭観音像が行基の作とすれば、実に約1300年前のものということになり、大変
貴重な文化財ですが、千葉県や香取市の文化財の指定ありません。
いわゆる「寺伝」だということなのでしょうか。


山田馬頭ー9
山田馬頭ー10

手水盤には天明三年と刻まれています。
天明三年は西暦1783年になります。


山田馬頭ー12
山田馬頭ー11
山田馬頭ー33

虹梁、木鼻等、どれも細かい部分にまでこだわった見事な彫刻です。


山田馬頭ー13
山田馬頭ー30
山田馬頭ー31

本堂の側面に郡馬の掲額があります。
右端には「馬乗り馬頭観音」が描かれていますが、本尊や御前立ちのように馬上に趺坐する
観音像とは異なり、馬に跨っています。
はっきりとは分かりませんが、肌は青く、三面六臂の忿怒相のような気がします。

「仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つであり、
いわゆる「六観音」の一尊にも数えられている。柔和相と憤怒相の二つの相をもち、日本では
柔和相の姿はあまり知られておらず作例も少ない。そのため、観音としては珍しい忿怒の姿
をとるとも言われ、通例として憤怒相の姿に対しても観音と呼ぶことが多いが、密教では、
憤怒相の姿を区別して馬頭明王とも呼び、『大妙金剛経』に説かれる「八大明王」の一尊にも
数える。」
 (ウィキペディア 馬頭観音の項より)


山田馬頭ー15
山田馬頭ー17
山田馬頭ー16

馬の掲額は裏側の壁面上部にまで続いています。


山田馬頭ー32

境内の裏手斜面に四基の石造物が見えます。


山田馬頭ー22

左端の倒れかけた「馬乗り馬頭観音」。
風化が進み、紀年銘等は判読できませんが、馬に乗っていることは分かります。


山田馬頭ー20
山田馬頭ー25

隣に立つ「馬乗り馬頭観音」は右手に三叉、左手に未開の蓮を持ち、馬上に趺坐しています。
宝冠を被り、馬頭観音とは思えない柔和な顔つきです。
「安永六丁酉六月吉日」 と刻まれ、240年も風雨に晒されていたとは思えないほど風化が
少ない貴重な文化財です。(安永六年は西暦1777年)

 
山田馬頭ー23

右側の倒れた二基は「馬頭観世音」の文字のみが刻まれています。
地中に埋まっているため、紀年名は読めません。


山田馬頭ー24

この明治二十六年の読誦塔には側面に建立の経緯が記されています。
「維時明治廿五年八月於當山普門品読誦講ヲ創設シ二十六年九月ニ至満願成就ス依之
同十月廿七日是ノ大供養ヲ執行シ記名信徒ノ篤志ヲ■■■


山田馬頭ー29
山田馬頭ー28

屋根には千葉氏の紋章、月星紋が光っています。
斜め左の上向きの三日月に一つ星の紋は、江戸時代中期以降に用いられたもので、それ
以前には上向きの三日月に一つ星でした。

円通寺ー22 円通寺の月星紋

ただ、寺社にある千葉氏の紋は九曜紋が圧倒的に多く、月星紋はあまり見かけません。

和泉熊野ー13  西和泉の熊野神社
 旧栗源町の真淨寺  真浄寺ー11
宝応寺ー26   松子の寶應寺


山田馬頭ー38
山田馬頭ー39

「観音寺」からちょっと下った三叉路に小さなお堂が見えます。
近づいてみると「虚空蔵菩薩」と書かれています。

「虚空とは、どこまでも広がる空間の意味で、広大無辺な仏の智慧と慈悲を象徴し、それが
母胎の中にあるかように優しく包み込まれている。虚空が決して破壊されないように、この
菩薩の智慧と慈悲も永遠不滅である。」
 (「仏像鑑賞入門」 瓜生中 著 P104)


山田馬頭ー40
山田馬頭ー46

堂内には右手に宝剣を持ち、左手に如意宝珠を持つ立像の虚空蔵菩薩が安置されています。

ここに虚空蔵菩薩が祀られている理由は分かりませんが、お堂の周りはきちんと整理されて
いて、地元の人々に大切に守られている様子がうかがえます。


山田馬頭ー41

お堂の傍らに数基の石仏が並んでいます。


山田馬頭ー44
山田馬頭ー42
山田馬頭ー43

一基を除いていずれも「慈母観音」のようですが、ちょっと変わっているのが赤子に乳を飲ませ
ているポーズです。
慈母観音にはいろいろな像容がありますが、このような慈母観音は初めて目にしました。


山田馬頭ー45

一基だけ場違いのように立っているお地蔵様。
「奉 供養諸願成就」「寛政九巳十月吉日」 と刻まれています。
寛政九年は西暦1797年です。


山田馬頭ー37
山田馬頭ー21

東総地区に集中してある「馬乗り馬頭観音」は、他には木更津地区にしか無く、全国的にも
房総地方にしか見られないとされている珍しい石仏です。
山田町(現・香取市)は初めての取材でしたが、まだまだおもしろい石仏が隠れていそうです。


山田馬頭ー01

                  ※ 「観音寺」(馬頭観音) 香取市神生1473-1



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香取市の寺社 | 08:12:54 | トラックバック(0) | コメント(2)
「正等院」の謎の石仏と「荒神社」~桜田の細道に息づく歴史
正等院ー48

「荒神社(こうじんじゃ)」と「正等院(しょうとういん)」は細道の行き止まりに並んでいます。


正等院ー1
正等院ー2  平成17年建立の鳥居

この「荒神社」については、「千葉縣香取郡誌」や「千葉県神社名鑑」、「全国神社名鑒」の
いずれにも記載がありません。
荒神社は「荒神信仰」の盛んだった西日本に多い神社で、中部地方から東ではあまり見か
けない神社のようです。


正等院ー3
正等院ー4

手水盤は弘化四年(1847)のもので、正面に「荒」の字が刻まれています。


正等院ー5
正等院ー8
***** 正等院ー9
********** 正等院ー10
***** 正等院ー11
正等院ー12

流造の社殿はしっかりとした造りで、随所に凝った彫刻が施されています。


正等院ー6

社殿前の石段の脇に立つ小さな石柱には、正面に「此方 香取御宮 さはら 小見川」と刻み、
左側面に「此方 なり田 さくら きちおか」、右側面には「此方 さくみち」と刻まれています。
道標だったようですが、方角が合いませんので、どこからか移設されたもののようです。


正等院ー14

本殿裏にある二基の祠。
左は天保十二年(1841)のもので、右は年代不詳です。


正等院ー15

同じく裏手に並んでいる三基の祠。
右の祠は「石尊大権現」と刻まれた天明二年(1782)のもので、真ん中は年代不詳、左には
「安永四■未年六月吉日」「月山 湯殿山 羽黒山 奉眞願子孫長久之処」と刻まれています。

「石尊大権現」とは、神奈川県伊勢原市にある「大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)」
のことで、「石尊」の名は、大山(別名・雨降山〈あふりやま))山頂の岩に神々が降りると信じ
られていたため付けられたと言われています。
江戸時代には関東の全域から大山詣をする人々が集まり、各地の村に石尊宮を勧請する
ことが盛んに行われました。


正等院ー17
********** 正等院ー18

境内右手にある寛政九年(1797)の祠と、年代不詳の二基の祠。
いずれも社号は分かりません。


正等院ー19
正等院ー16

小粒ながら細かな表現の彫刻を多く配した、流造の社殿です。

「荒神社」の境内から隣の「正等院」は見えていますが、一旦鳥居まで引き返して「正等院」に
向かいます。

正等院ー20

門柱の右には「眞言宗智山派」、左には「桜田山正等院」と刻まれています。

このお寺に関する資料は少なく、「千葉縣香取郡誌」の「寺院誌」中にその他寺院として一行、
「眞言宗 本尊大日如来」とのみ記されています。
また、「成田市の文化財 第42集 仏閣編」には、
「宝暦10年(1760)には、この地にあったことが知られていますが、その他は不詳です。」
とあり、神崎の妙楽寺の末寺であると書かれています。

なお、現・成田市立大須賀小学校についての史料中に、明治九年(1876)に桜田小学校が
この正等院を借用する形で設立され、男子のみ49名の児童と教員1名であったこと、借用料
が月41銭6厘であったことなどが記されています。 


正等院ー55
正等院ー21

門柱の脇に、首をスパッと落された数体の石仏が並ぶ異様な風景が目に入ります。
廃仏毀釈の名残でしょうか・・・、多くの場合は何とかセメント等で補修を試みた跡があるもの
ですが、ここでは無言の抗議を示すように生々しい痕跡をそのままに見せています。


正等院ー26

本堂は比較的新しく、一見公民館風の造りですが、中を覗くと仏壇や仏具が見えます。


正等院ー22
正等院ー23
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境内にある「観音堂」は昭和58年に改築されました。


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正等院ー40

本堂裏には多数の石造物が並んでいます。


正等院ー58

真ん中から折れて修復してあるため、遍照金剛(大日如来)以外は推読できません。
左右の側面に寛延や宝暦の元号が入った戒名が刻まれていますので、約250年前のもの
と推測できます。


正等院ー59

「奉建立 廿■夜成就」「天明■年丁未年」と刻まれた月待塔。
刻まれているのは「勢至菩薩」のようですのでこれは二十三夜塔。
天明年中で干支が丁未なのは天明七年(1787)です。


正等院ー30
正等院ー60
********* 正等院ー61
正等院ー62

この三基は「大乘妙典読誦塔」。


正等院ー63

傷みが激しく風化も進んでいて、何の像かは分かりませんが、半跏倚座で金剛杖のような
ものを持っています。
普賢菩薩か文殊菩薩のような気もしますが、破壊されている部分に象や獅子があったように
は見えませんので、判断できません。
三度目の訪問で、側面に刻まれた文字を無理やり「■政十一■子四月」と読んでみました。
「政」が付く元号は、寛政・文政・安政のみで、「安政」は七年しかなく、しかも「子」が付く年は
ありませんので除外できます。
「寛政」は十三年まであって「子」の付く年は四年(壬子)になり、「文政」も十三年まであって、
「子」の付く年は十一年(戊子)になります。
ここは(自分の目を信じて)「文政十一戊子四月」と読みたいと思います。
文政十一年は西暦1828年です。
そしてうっすらと「十九夜講中」という文字も見つけました。
「十九夜待ち」の守り本尊は「如意輪観音」と「馬頭観音」ですから、これは「馬頭観音」の
可能性が出てきました。
調べてみると、如意輪観音のように右膝を立てる「輪王座」の「馬頭観音像」は、日光・輪王寺
や福井の馬居寺、京都舞鶴・松尾寺などの本尊にありますが、この石仏のように半跏倚座の
ものは見たことがありません。
また行き詰まってしまいましたが、ふと“千葉県、とりわけ東総地区には「馬乗り馬頭観音」が
多い”と言われていることを思い出しました。
これまで「馬乗り馬頭観音」を見たことはありませんが、この像は半跏倚座を組んでいるので
はなく、(左足が欠損しているが)馬に乗っているのでは?
破損が激しく確認はできませんが、もしこれが「馬乗り馬頭観音」だとしたら、楽しい発見です。

※ どんどん脱線しそうなので、この続きは巻末にもう一度。(結局、分かりませんでしたが…)


正等院ー32
********** 正等院ー33
正等院ー36

月待塔や読誦塔、回国塔、庚申塔などが混在しています。


正等院ー34

真ん中の石塔には「大日如来」「文化九壬申年霜月吉日」と刻まれています。
文化九年は西暦1812年になります。
左の庚申塔は万延元年(1860)のものです。
右は六臂の青面金剛で、合掌する手以外は線描されていて、邪鬼や三猿もかろうじて判別
することができます。
側面の文字は「延享■■子」と読めそうですが、延享年間の干支に子があるのは元年のみ
ですので(甲子)、延享元年(1744)のものだと思われます。


正等院ー64
正等院ー37

「奉建立 子安観音」と刻まれた寛延二年(1749)の石仏。
両手で支え持つ赤子には補修された痕跡があります。

「荒神社」と「正等院」は入り組んだ細道の奥にありますが、ここから国道51号線へ向かう道が
三叉路になる場所に、「高札場」があります。

正等院ー53
正等院ー49

『桜田の薬師堂の三叉路に昔風の高札場がある。地元の人も「コウサツバ」といっている。
高札場とは、法令や禁令などを板札に墨書して、往来など人目につきやすい場所に掲示
して民衆に周知させる方法で、制札ともいう。 古代から行われたが全盛期を迎えたのは
近世である。その高札を掲示する場所が高札場で、人通りの多い場所や関所・港など全国
いたる所に設けられた。だが1873(明治6)年に時勢に適さないなどの理由で高札は廃止
となった。高札がなくなったことから各地の高札場も撤去されたが桜田では現在でも回覧板
やポスターなどをはり出すのに使われている。』
 (「成田の地名と歴史」 P265)


正等院ー51

さすがに最近は掲示板としても使われていないようで、だいぶ傷みが激しくなっています。
時代劇では高札の前に人々が集まって、ああだこうだと語り合うシーンが良く出てきますが、
昔はこの道が村のメインストリートだったのでしょうか。


正等院ー69
正等院ー70
********** 正等院ー72

高札場の向かいには「薬師堂」があり、大きな「薬師如来像」が立っています。
如来像の首には補修痕が残っています。
周辺は小高い丘になっていて、新旧の墓石が並ぶ小さな墓地になっています。


正等院ー7
正等院ー44
正等院ー66

「荒神社」に「正等院」、そして「高札場」。
車がすれ違えないような細道の奥には、静かに歴史が息づいていました。


正等院ー73


                        ※ 「荒神社」・「正等院」  成田市桜田586
※ 正体不明の石仏(続き)
「馬乗り馬頭観音」の可能性を探るため、この観音像が多く見られる小見川町(現・香取市)
でいくつかの「馬乗り馬頭観音」を見てみました。

正等院ー74 旧山田町・馬頭観音堂
旧山田町・馬頭観音堂  正等院ー76
正等院ー77  旧小見川町・血当寺

「房総の馬乗り馬頭観音」(町田 茂著 2004年 たけしま出版)によれば、「馬乗り馬頭観音」
は房総地方に特有の石像で、他の地方にはほとんど見られないものです。
しかも、上総地方は三面六臂、下総地方は一面二臂とはっきり区分され、下総地方でも東総
地区に限られている、非常に興味深いものです。(成田では発見されていません。)
今回見た像は全て馬口印を結んでいて、手に何かを持っているものはありませんでした。
あらためて正等院に戻り、問題の石仏を見ましたが、これが「馬乗り馬頭観音」である確信は
持てませんでした。
さて、十九夜待ちの守り本尊の中には「慈母観音」もありますので一応調べてみると、松戸の
「徳蔵院」のご本尊が、半跏像で左手に赤子を抱き、右手に未開の蓮華を持っていることが
分かりました。
顔と左半身が大きく削られていますので想像するしかありませんが、左手は赤子を抱いていて
右手は修復されたものの、蓮華が錫杖に見えるのかもしれません。
「馬乗り馬頭観音」であって欲しいのですが、「慈母観音」である可能性が大きくなりました。
馬頭観音と思ったのは勇み足だったようですが、いずれにしろ珍しい像容の石仏です。
今後、何かのきっかけで正体が判る時が来ることを期待しています。



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大須賀村の寺社 | 08:29:42 | トラックバック(0) | コメント(2)