昔、この一帯は「牧(まき)」と呼ばれる幕府直轄の野馬の放牧地がありました。
毎年のように「牧」を囲む土手が崩れて野馬が畑に入り込み、作物に大きな被害が出る
ため、村人達が年貢の減免と土手の補修を何度も役人に願い出ましたが、聞き入れられ
ませんでした。
名主であった「治右衛門」が死を賭して藩主に直訴し、検分となりましたが、「牧」の役人が
自分たちの手落ちを隠すために検分前に土手を修復し、畑を荒れ地に変えてしまいました。
“土手は崩れておらず、周りは畑など無い土地ではないか”と、ありもしないことで直訴をし
た不届き者として、治右衛門は捕えられて死罪となり、家族もろとも処刑されてしまいます。
しかし、処刑後に真実が明らかとなり、年貢は減免され、村人は大いに助かりました。
明治の半ばになって、道路工事中に刑場跡と思われる場所から人骨が出て、治右衛門
一家のものだということになり、村人が多門院の境内に手厚く改葬したということです。
“これは行かねばなりますまい・・・”と、多門院(たもんいん)を訪ねました。

「多門院」は天台宗のお寺で、山号は「説法山」、山之作の円融寺の末寺です。



曲がりくねった急坂を登ったところに「多門院」はあります。
「西吉倉村の多聞院も円融寺の末寺で、境内は南北二八間・東西三五間である。
阿弥陀如来が本尊であるが、その台座裏に「奉再興阿弥陀如来尊像 正徳五乙未天八月日
下総国埴生郡西吉倉村 多聞院伝誉 大仏師江戸浅草三間町七兵衛」の墨書銘があり、
正徳五年の再建であるのがわかる。境内に観音堂をもち、稲荷神社・熊野権現・薬師堂など
を支配している。」 (「成田市史 中世・近世編 P781)
ここでは寺名を「多聞院」としています。
現在の成田市の地図や千葉県の宗教法人名簿、さらに大正二年の「千葉縣印旛郡誌」にも
「多門院」とあって、この成田市史のみが「多聞院」としています。
墨書銘に「多聞院」とあるので、間違いではないのでしょうが、近世になって「多門院」と書か
れるようになったということでしょうか。
正徳五年は西暦1715年ですから、再興してから300年ということになりますので、このお寺
の歴史は相当古いものであることが分かります。

「大師堂」(左)と「観音堂」(右)。


大師像は文政十一年(1828)のものです。

「薬師堂」の隣に、老人から聞いた名主の「治右衛門」の墓がありました。
中央の大きな石碑は慰霊碑で、右側の小さい石碑が墓石です。
治右衛門とともに処刑された妻と娘の戒名が記されていて、遺骨が発見されてここに改葬
された明治三十一年の紀年銘が入っています。

「治右衛門」についての資料はほとんど残っていないようです。
探してみると、「成田ゆかりの人々」(小川国彦 著 2002年 平原社)と、「成田 寺と町まち
の歴史」(小倉博 著 1988年 聚海書林)に、治右衛門についての話が出ていました。
治右衛門とは「甲田治右衛門」であり、万治二年(1659)に処刑されたことが分かりました。
郷土史家の滝口昭二氏によれば、「佐倉宗吾」を世に出したのは歌舞伎役者の市川小団次
で、成田山を訪れた時に地元の有力者から借りた「地蔵堂通夜物語」をもとに「東山桜荘子」
を上演して大当たりをとり、木内惣五郎(佐倉宗吾)は一躍義民として有名になりました。
同じように村人の窮状を救おうと直訴して処刑された名主なのですが、地元の人々には尊敬
されているものの、「治右衛門」は世間には知られざる義民のままです。
惣五郎の処刑から6年後に治右衛門の処刑がありました。
かたや将軍に直訴、こなた藩主に直訴との違いはあるものの、もし、小団次が治右衛門の話
を聞いていたら・・・、世間の耳目はこちらに集まり、この吉倉に「治右衛門霊堂」ができていた
かも知れませんね。


治右衛門一家の墓石の隣に立つ、二基の墓石と月待塔。
月待塔には十三夜待と十七夜待の文字が見えます。
十三夜待の本尊は虚空蔵菩薩、十七夜待の本尊は千手観音になります。
風化と苔ではっきりとは分かりませんが、刻まれているのは虚空蔵菩薩でしょうか?
右手が与願印(よがんいん)で左手に如意宝珠を持っているように見えます。
墓石は弘化四年(1847)と文久元年(1861)のものです。

薬師堂の裏には十数基の古い墓石が並んでいます。
寛永、元文、寛延、宝暦、文化などの年号が読めます。


境内の周りには南天の木が目立ちます。
”災いを転じて福となす”の難転に通じることから、縁起木として植えられたのでしょうか。

山を下る途中から、微かに成田山の「平和大塔」が見えます。
望遠で撮りましたので大分近く見えますが、実際は直線で2キロ以上はあります。


「吉倉字臺下口にあり天台宗山門派にして圓融寺末なり阿彌陀如来を本尊とす由緒不詳
堂宇間口六間半奥行五間半境内四百七十八坪官有地第四種あり住職は林豪海にして信徒
百五十六人を有し管轄廰まで八里三十五町五十四間一尺なり境内佛堂二宇あり即
一、観音堂 觀世音菩薩を本尊とす由緒不詳建物間口三間奥行二間
二、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行四尺寺院明細帳」
「千葉縣印旛郡誌」中の「遠山村誌」には、「多門院」についてこのように記述されています。
多門院の山を下りて、裾をぐるっと回ると、向かいの山の上に稲荷神社があります。

「稲荷神社 村社 吉倉村字台下口 祭神 倉稲魂命 由緒不詳 間口五尺奥行五尺
境内坪数 一四四 氏子 一三戸」
この稲荷神社については、「印旛郡誌」にこう簡単に記載されています。
「倉稲魂命(ウカノミタマニミコト)」は穀物の神様で、古くから女神であるとされています。

石段は100段近くあります




小さいながらも流造りの立派な社殿です。
鰹木が3本で千木が垂直に切られているのは、男神を表していますが、例外もあるようです。
鬼瓦の部分には、金色の宝珠が見えます。


境内には二つの手水鉢があります。
昭和18年に奉納されたものと、一部が崩れて「宝暦(?)」と読めるものです。
宝暦年間は、西暦1751~1764年ですから、約260年前のものになります。

この祠の側面の文字は、安永八年(1779)と読めます。

何も無い境内ですが、常に手が入っている感じで、山中にあっても荒れた感じはありません。
「多門院」には、前回訪ねた「観音堂」のほかに、「薬師堂」という境外佛堂があります。

多門院から400メートルほど観音堂方向に戻った道端に「薬師堂」はあります。
「吉倉村字台下口にあり多門院境外佛堂にして藥師如来を本尊とす由緒不詳堂宇間口
三間奥行二間境内五十一坪官有地第三種あり住職は上野晃海にして信徒百五十六人を
有し管轄廰まで八里三十五町五十四間一尺なり佛堂明細帳」
「千葉縣印旛郡誌」にはこの薬師堂について、こう記述しています。(信徒数・管轄廰までの
距離が前回の「観音堂」と同じであることが気になりますが・・・。)



境内の端に十基余りの石仏が並んでいます。

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屋根の下に並ぶ三基の石仏は、左が慈母観音、中が如意輪観音、右が慈母観音です。
右の像は如意輪観音のように見えますが、良く見ると膝に赤子を乗せています。
安永六年(1777)と記されています。

年代不詳の「薬師如来」と「読誦塔」。
薬師如来は左手に持った薬壺が欠落しています。
読誦塔には「奉誦普門品一千部供養塔」と刻まれています。



訪ねたのは12月10日。
小さな境内ですが、燃えるような紅葉が印象的でした。

一週間後に再訪した時には、すっかり色褪せて、冬が駆け足でやってきた感がします。

多門院から薬師堂へ向かう途中に三叉路があり、道標が立っていました。
「奉誦講」と読め、寛政の文字が見えます。
200年以上前のもので、側面に「右ハてらだいみち」「左ハなりた道」と読めます。
ここから寺台へはどうやって抜けて行くのでしょうか?
ちょっと先へ進んでみます。


なだらかな登り坂が続きます。
周りには人家も何も無い、寂しい道です。

突然視界が開けて、墓地が現れました。
手前には六地蔵が並んでいます。
元文、宝暦、文化などの墓石の中に、意外に新しい墓石も見受けられます。

「奉納 西國三拾三ケ所供養塔」と記された、文化七年(1810)の石塔。

側面にも文字が彫られていて、「此方 なり田 道」とだけ読めました。
道標になっているということは、この道が昔は結構往来があったということなのでしょう。

しばらく先に進んでみましたが、だんだん道は細くなり、荒れた感じになってきました。
今ではこの道はほとんど使われていないようです。
ゼンリン地図で「てらだいみち」をなぞってみましたが、途中で切れていました。
歩く人が無くなって、雑木や竹に覆われて消えてしまったのでしょう。
切れた道の先は「資材道路」の「ガーデンホテル」の辺りに向かっていました。

全く人気のない、心細い道を歩きましたが、見事な紅葉に慰められる山道でした。

※ 「説法山多門院」 成田市吉倉414
「稲荷神社」 成田市吉倉444
「薬師堂」 成田市吉倉467-2

昔の軽便鉄道の三里塚・多古線が走っていた通称「資材道路」を、空港方面から成田市街
へ向かうと、東関道をくぐるトンネルの入口が二つあり、左側のトンネルを出た先が旧古内
地区になります。
トンネルから山道を150メートルほど進むと、右側の一段高いところに「観音堂」があります。

斜面の小道を登る人を迎えるかのような「如意輪観音」。


風化が進んでいますが、享保五年(1720)の文字が見えます。
300年の風雪に耐えてきた観音像も、廃仏毀釈の嵐にお顔を削られたのでしょうか?


「吉倉村字古内にあり多門院境外佛堂にして歡世音菩薩を本尊とす由緒不詳堂宇間口
三間半奥行二間境内三十九坪官有地第三種あり住職は上野晃海にして信徒百五十六人を
有し管轄廰まで八里三十五町五十四間一尺なり境内一宇あり即
一、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行四尺なり佛堂明細帳」
大正二年(1913)編さんの「千葉縣印旛郡誌」にある「遠山村誌」には、「観音堂」について
このように記されています。
お堂は近年に改築されたようです。


大師堂には石造の大師像が安置されています。



大師堂の裏には享保、宝暦、文化、天保などの二十数基の墓石や石仏が並んでいます。
刻まれた石仏には慈母観音が多く、■■童子のような文字が見えます。
幼くして逝った我が子を想う親の心情が伝わってきます。


お堂の中は薄暗く、微かに扉が開いた厨子の中に観音菩薩のお顔が見えています。
目を閉じて、わずかに首を傾けているようです。


道を挟んで「摩利支天宮」があります。



「サンスクリット語のマリーチーの音写で、末利支天とも書く。陽炎の神格化といわれ、インド
では除災増益の神として古くから民間で信仰されている。」
「日本では鎌倉時代ごろから武士の護り本尊として信仰された。像容については二種類あり、
天女形で二臂、うちわ(天扇)を持つものと、三面六臂で猪の上の三日月上に立つものなど
がある。」 (「仏像鑑賞入門」 瓜生 中 著 P185)
毛利元就や前田利家、山本勘助などがこの「摩利支天」の信仰者として知られています。
平成5年と記された石の鳥居と木の鳥居が2基、計3基の鳥居が並んでいます。

脇にはたくさんの絵馬を奉納するような感じで白襷が掛っています。
どのような意味があるものなのかは分かりませんが、近隣では、失しものがある時に
ここにお参りすると、良く見つかると言い伝えられているようです。

「摩利支天宮」から20メートルくらい戻ると三叉路になっています。
民家への道のように見える急坂があり、ここを登って行くと「熊野神社」に辿りつきます。

道はすぐに舗装が途切れ、林道のような感じになってきます。


行き止まりに控柱が付き、立派な額束の鳥居が建っています。

鳥居の下に立つと、石段の先に社殿がみえます。



「千葉縣印旛郡誌」中の「遠山村誌」には、この神社が簡単に記されています。
「熊野神社 村社 吉倉村字古内 伊弉冉命 由緒不詳
間口五尺奥行五尺 境内坪数四一八 氏子一六戸」
また、「千葉県神社名鑑」には、
「熊野神社 伊弉冉尊 本殿・流造一坪 境内坪数五〇〇坪 氏子三〇戸」
と書かれています。
大正二年(1913)の「郡誌」と昭和62年(1987)の「名鑑」との70年あまりの間に、氏子が
倍増していますが、その理由は何なのでしょうか?
詳しいデータが手許にありませんが、古内地区が属する旧遠山村の大正9年(1920)時点
の人口は5360人、成田市に合併前の昭和25年(1950)には9336人と着実に増加傾向
を示しています。
市の中心部は人口が急増する一方、周辺部の過疎化が進んでいますが、この氏子の増加
は地区の人口増が理由なのでしょう。

小さな手水盤は昭和2年の寄進です。

天満宮 →



初冬の境内には物音一つ聞こえません。

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深い山あいの小さな集落に、観音堂と摩利支天宮、そして熊野神社。
昔の人々の神仏に寄せる信仰が、今も残る古内の三叉路です。

※ 「観音堂」 成田市吉倉544
「摩利支天宮」 成田市吉倉561
「熊野神社」 成田市吉倉537


「成田街道」は一本松通りから表参道に入ります。
「歌舞伎役者の像」が駅から成田山に向かう参詣客を迎えます。


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街道の左側のJR成田駅前は大きく変貌しています。
成田市の「JR成田駅東口第二種市街地再開発事業」によって誕生した共同住宅や商業施設・
公益施設等の複合ビル、「スカイタウン成田」が今年の春に完成し、今は駅前広場の整備が
急ピッチで進められています。
駅前の「不動の椎」はどうやら無事に生き延びたようです。
昨年4月にはこの「不動の椎」の運命を心配した記事を書いたのですが・・・。
以下、その時の記事の引用です。
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駅舎を出て京成成田駅に向かう通路(現在は工事中で通行止め)の脇に不動明王
の分身と伝わる「不動の椎」が立っています。
樹齢700年の老大木ですが、今は工事現場のフェンスに囲まれて根元は隠れて
しまっています。
まさか切り倒されるようなことはないと思いますが、ダンプが出入りし、重機がうなる
中で、どんなに住み辛く思っていることでしょう。
工事が終わってフェンスが外された時には高層ビルが立ちふさがり、日当たりが
めっきり悪くなるだろうと心配です。
開発は必要でしょうが、どうか、自然に優しい開発であって欲しいと願うばかりです。
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右側に見える京成成田駅前は、相変わらずの景色です。
現在は駅構内での耐震工事やエレベーター・エスカレーター等の設置工事が行われています。

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JR成田駅前、駅前交番の後ろに「権現山」と呼ばれる一角があります。
この一帯は鉄道が通るまでは鬱蒼とした森で、「不動の椎」もその中の一本でした。
この森の中に「湯殿権現神社」があったので、一帯を「権現山」と呼ぶようになったようです。


通りは門前町らしい店構えが多くなってきました。

まだ新しい蔵造り風の建物があります。
これはなんと!銀行なのです。




歌舞伎とのつながりが強い成田らしい看板も目につきます。

江戸時代から続く地元の酒蔵、長命泉です。

昔の道は曲りも厳しいですね。

平日の夕方でも、参道の人通りは途切れることがありません。



沿道の両脇には干支の石像が一定間隔で並んでいます。

こちらは来年の干支の申です。

参道に並んでいる建物は、新しくなっても、極力昔ながらの雰囲気を守る造りにしています。

米屋総本店。
成田を代表する和菓子の製造・販売の会社で、明治三十二年(1899)の創業です。

米屋の前にはなぜか干支には無い亀がいます。



店の裏側には工場があり、その敷地の一角に「お不動様旧跡庭園」があります。
前回立寄った「不動塚」付近にあった当初の「新勝寺」は、長引く戦乱等のため荒れ果てて
しまい、見かねた名主たちが相談した結果、成田村の諸岡三郎左衛門が不動像を自分の
敷地内に遷座して、井戸水をお供えして大切にお祀りしたのがこの場所です。
諸岡三郎左衛門は、米屋の創業者の遠縁にあたります。


江戸時代から続く「後藤だんご屋」。

やがて街道は三叉路となり、右は「台の坂」と呼ばれる参道のメインストリートとなり、左は
西参道となって、三宮埴生神社を経て郷部へと向かいます。
この三叉路に面して「薬師堂」があります。
明暦元年(1655)の建立で、もともとは新勝寺の本堂でした。


新勝寺の本堂はこれまでに三度建て直され、それぞれ建て直された年号から元禄の本堂
(現・光明堂)、安政の本堂(現・釈迦堂)と呼ばれ、この薬師堂は明暦の本堂と呼ばれました。
この薬師堂(旧本堂)には、水戸光圀公や初代市川団十郎も参拝したと言われています。
新たに本堂が建設される度に移設が繰り返され、今では境内からは離れた場所にあります
が、近年何度か整備が行われて、狭いながらもきれいな境内になっています。
石灯篭は文政二年(1819)、手水盤は宝暦十二年(1762)に寄進されたものです。

「薬師堂」の境内から台の坂を見ています。
遠くに成田山が見えています。

薬師堂の石垣の下にある「成田町道路元標」。
大正八年(1919)に設置されたもので、成田から各地への距離を計測するときの起点
としたものです。
大正元年(1912)の「成田町誌」に、この薬師堂からの道路の状況が書かれています。
「縣道は成田町の殆ど中心点たる成田區横町の薬師堂前より各方面に通ず。即ち南する
ものは成田區の上町花崎町等を経て佐倉に至り、北するものは土屋區の境に至りて二つ
に分れ、一方は郷部區より八生村を経て安食町に至るべく、一方は土屋區を横ぎりて
八生村に入り滑川佐原方面に至るべし。又東するものは成田區の中の町、本町、田町
を経て寺台區に出て、遠山村を経多古方面に通ず。」
ここが、今回歩いてきた成田街道のほか、松崎街道、佐原街道、三里塚街道などに通じる
交通の要だったことが分かります。

薬師堂の前の小公園に立つ、成田出身の俳人、「三橋鷹女(みはし たかじょ)」の像。
成田高等女学校を出た鷹女は若山牧水や与謝野晶子に師事した女流俳人で、
夏痩せて 嫌ひなものは 嫌ひなり
鞦韆(しゅうせん)は 漕ぐべし 愛は 奪うべし
等の激しい句で知られています。


台の坂は右に左に曲がりながら下って行きます。
成田山がだんだん近くに見えてきます。
時々雨がパラつき始めました。



「成田観光館」には昔の成田の資料が展示されています。
目で見る昔の成田~成田観光館 ☜ ここをクリックしてください。

昨年6月に撮影

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三芳屋の手前の目立たない細い路地の奥には、しゃれた甘味処があります。
両側のお店のひさしの間を抜けて入って行くような感じで、ついつい見過ごしてしまいます。
あまり知られていない店なので、ちょっとした隠れ家のような雰囲気です。


うなぎで有名な「川豊本店」です。
店先でうなぎをさばき、おいしそうな匂いの煙を参道に流しながら焼いています。
休日には行列が絶えない名店です。
大正6年に建てられた店は、かつては旅館だったものだそうです。


いろんなお店がありますが、漬物屋さん、うなぎ屋さん、薬屋さんが目立ちます。

老舗の「大野屋旅館」。
木造三階建てで、上部に望楼が付いているユニークな外見の建て物は、平成17年に国の
有形文化財に指定されました。
「大野屋」の創業は江戸中期ですが、この建物は昭和10年に建てられたものです。

大野屋の先にベンチのある小さな休憩スペースがあり、「延命院旧跡」と彫られた石碑が
立っています。
天保の改革で、贅沢なものの象徴として、歌舞伎の七代目市川団十郎が狙い撃ちにされ
ましたが、縁の深かった新勝寺が手を差し延べて、一時ここに住まわせた跡です。



木戸の隙間から中を覗くと、真新しい感じの家が見えます。
以前は雑木が茂り、朽ち果てたようなあばら家が見えていたのですが、最近になって手が
入れられたようです。

振り返ってみると、けっこうな坂道です。

創業280年の「一粒丸三橋薬局」。
店舗は明治時代初期のもので、土蔵造りの二階建。
国の登録有形文化財になっています。
血止めと切り傷の薬で有名な「成田山一粒丸」の製造元です。

ようやくゴールの総門に着きました。
この総門は平成19年に建てられました。


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文化十一年(1814)に寄進された狛犬。
「靈巖島南新堀貮町目」と記されています。
丁目が町目となっていますが、昔はそうなっていたのかもしれません。
(今でも福島県いわき市の平地区などには「町目」が使われています。)

陽も傾き、空模様も怪しくなってきました。
仁王門には上らずに、ここで「成田街道」の終点としましょう。


大きな猫が総門裏の大木の根元にいました。
近づいても目線を外さず、じっとこちらを見ています。
今日は誰とも話さず、ただひたすら歩いてきたので、少し彼と話してから帰ろうと思います。


成田山の向かい側の「神明山」の紅葉もそろそろ終わりです。


①権現山 ②長命泉 ③米屋総本店 ④お不動様旧跡庭園 ⑤薬師堂 ⑥成田町道路元標
⑦延命院旧跡 ⑧成田山総門

今回は、前回のこのお地蔵様の景色からのスタートです。


お地蔵様を過ぎると、街道は緩やかに右に曲がりながら上って行き、再び国道と合流します。
ここからしばらくは国道を進むことになります。
酒々井町から成田市に入りました。







国道から入った道は、一旦下ってからすぐに上りになります。
左にはトイザラスや教会が見えています。

トイザラスの手前に右に下っている気になる細道がありますので、ちょっと戻ってみます。

雰囲気的には間違いなく旧街道です。
右に行く道がありますが、後で紹介する「不動塚」へ通じる道です。

200メートルも歩くと上り坂になり、トイザラスの先に出ました。
この道は国道を整備する時に取り残されたようです。
ここでちょっと先ほどの旧道を右に入る道から、成田山にゆかりの旧跡に立寄りましょう。

「不動塚」と呼ばれる成田山発祥の地です。
ここは東国で反乱を起こした平将門を調伏すべく、朱雀天皇の命により京都神護寺の不動
明王を奉持した寛朝大僧正が天慶三年(940)に調伏の祈祷を行った場所とされています。
21日間の祈祷が終わった頃、平将門は討伐軍の平貞盛と藤原秀郷の軍によって討取られ
「将門の乱」と呼ばれた大乱は鎮まりました。


お堂の中には不動明王の石像が置かれています。
石像には昭和16年の紀年銘が刻まれています。

「成田山舊跡 不動塚之碑」と刻まれたこの石碑は明治17年(1884)の建立です。
乱が平定され、寛朝大僧正が都へ帰還する際に、神護寺より奉持してきた不動明王像
がなぜか全く動かなくなりました。
その時の様子を「新修成田山史」(成田山新勝寺編 P15)にはこう書かれています。
「兵乱既に治まりしを以て、僧正再び尊像を俸持して都に還らんとせしに、重きこと盤石の
如く、僧正未曾有の想をなし、合掌瞑目至心に黙禱せしに明王髣髴として告げ給わく、
『夫れ衆生は無辺にして、我が願も亦尽くることなし。儻し深信機熟の者あらば、処として
応ぜざるなし、我復び京師に還るを願はず、永く此の地に留りて東国の逆徒を鎮押し
渇仰の輩を利益せん』と。」
この話を聞いた天皇は大いに感動し、「新たに勝った」という意味を込めて、「神護新勝寺」の
寺号を与えてこの地に堂宇を建て、不動明王を祀りました。
これが成田山新勝寺の始まりとされています。
成田山発祥の地「不動塚」~お不動様の旅(2) ☜ ここをクリック



再び街道に戻ってきました。
並木坂上の交差点からちょっと進むと、また国道51号線と交差します。
この辺りは昔は「成木新田」といわれ、明治十七年の「下総國下埴生郡成木新田誌」には、
この道を「銚子街道」として次のように記しています。
等級 縣道
長 南方印旛郡伊篠ヨリ来リ成田町ニ達ス。延長七百七拾五間
幅 四間
並木 本道ハ首尾悉並木ニシテ、古松両側ニアリ。鬱蒼陰ヲナス。
形状 平坦
伊篠の松並木がずっと続いていたことから、この辺りの町名が現在の「並木町」となった
のだそうです。


国道を横切って100メートルほど行くと、右側に小さな墓地があり、その脇には「和算家
飯嶋武雄の墓」の標柱が立っています。
飯嶋武雄は安永三年(1774)に下総国金江津村(現・茨城県河内町)の生まれで、若く
して算法に長け、江戸に出て算法の私塾を開いていましたが、不幸にも失明して帰国し、
近郷を巡回して算法を教えていました。
並木町の大坂家が寺子屋を開き師として迎えた縁で、ここにお墓があるようです。
「算法理解教初編」の著作があります。


「デニーズ」「和みの米屋」の先の信号からは、黄葉した銀杏並木と「日本赤十字成田病院」
が見えています。
街道はこの信号を渡って進みます。


JR成田駅方面に向かうこの通りは、「一本松通り」と名付けられています。

しばらく進むと、丁字路の手前に「一本松跡」が現れます。
ここは前回に出てきた「伊篠の松並木」が続いていた所で、立派な松の古木が生えていた
のですが、残念ながら枯死寸前となったため、昭和51年に伐採されてしまいました。


一本松跡の碑の横に2基の石塔があります。
一つは馬頭観音で、安政五年(1858)のものです。
側面には「宗吾靈神」の文字が見えます。
「当時はまだ宗吾霊堂はなく、佐倉宗吾(木内惣五郎)の墓地に祠があったことから、宗吾
霊神としたのであろう。」 (「成田の史跡散歩」 P93)
もう一つの石碑は風化のため全く読めません。
「成田街道を通ってきた旅人はここまで来るとホッと一息ついたのである。成田に着いた
安堵感から松並木の木陰で一服し、旅の疲れを癒したことであろう。明治時代になると、
成田の旅館は参詣人の奪い合いから、旅館名を半纏に染めた番頭たちが、小旗を持って
ここまで出迎えにきたという。」 (「成田の史跡散歩」 P93~94)



街道は緩やかなカーブを描きながら続きます。
やがてJRの踏切が見えてきます。
この「成木県道踏切」の遮断機は途中で折り畳む、「屈折形遮断桿」が採用されています。
多くの場合踏切は、道の両側または片側から踏切道を長い棹で遮断する「腕木式」ですが、
道幅が広かったり変形道路の場合にはこの「屈折形遮断桿」が使われます。

上下線の線路に段差があり、線路が少し離れていますので、踏切の真ん中に安全地帯の
ような場所があります。(もちろん、危険ですからここで立ち止まることはできませんが・・・)
昔のこの踏切には「踏切番」がいて、ワイヤーに踏切の表示板をぶら下げた「昇開式」だっ
たのではないでしょうか。


だいぶ進んできました。
街道の下を京成電鉄の線路がくぐっています。
京成とJRはここで交差していて、前方に成木踏切を渡ってきたJRの線路が見えます。
線路をまたぐ橋は、難しい仏教用語の『「阿利耶」橋』といいます。


「阿利耶橋」を渡ると、「不動尊旧跡」の標識が立ち、地蔵堂が見えます。

ここは安政五年(1858年)に新勝寺の新本堂(現釈迦堂)が完成した時、その入仏供養の
行列が出発した場所です。
元禄十四年(1701年)の新本堂(現光明堂)の入仏供養の際は、先ほど寄り道した不動塚
から出発しましたが、その後この地が幕府直轄領となったため、約1.7キロ離れたこの地
に仮の安置所を設け、ここから出発したのが始まりです。


ここにも護摩木山の碑が並んでいます。

お堂の中は「道祖神」です。


左手にはニュータウンの一角が、正面には成田駅前の景色です。



成田駅に向かって進むと、左に大きくUターンのように曲がりながら、下る道があります。
ここは、「成宗電車」の線路跡です。
曲がり口には大師堂があり、「摩尼山国分寺 第二十九番 不動ヶ岡 苅分」と書かれた
木札が架かっています。(不動ヶ岡とは、この一帯の地名です。)
「成宗電車」は明治四十三年(1910)に成田山の山門前から成田駅まで、翌年には宗吾
門前までを結んだ電車です。
成田駅から成田街道を進み、この坂を下って現在の日赤病院の傍を通り、宗吾霊堂まで
伸びていましたが、昭和19年に廃線となりました。


もうちょっとで成田駅です。
この先は次回に。(15日にアップの予定です。)



①酒々井町と成田市の境界 ②国道と街道の別れ道 ③取り残された旧道 ④不動塚 ⑤飯嶋武雄の墓
⑥一本松跡 ⑦成木踏切 ⑧不動尊旧跡 ⑨成宗電車道



前回の、倒れかかった道標の先をさらに登って行くと、途中に見過ごしてしまいそうな石段が
あり、その上に小さなお堂が見えてきます。
ここは「大崎の馬頭観音」と呼ばれています。

お堂の右側置かれた2基の板碑状の馬頭観音。
手前は明治二十九年(1896)、後方は明治二十七年(1894)のものです。
こちらには「馬車連中」と読める文字が刻まれています。
観音像を刻まない、文字だけの馬頭観音の多くは、愛馬の供養のために建てられることが
多いと言われていますので、急坂を馬で越えることが多かったであろうこの場所のような所
の独特な供養塔なのかも知れません。


昔はこんな風景がこの辺りで見られたのではないでしょうか?


隣のお堂には慈母観音像があります。
赤い布で隠れていますが、赤子をしっかり抱いています。


二つのお堂の間にたくさんの馬頭観音が集められています。
その中に ☞ が描かれた成田山への道標が隠れています。
俳句のような文字が見えますが、“あゝ楽・・・御利益・・・”以外は欠けていて読めません。
酒々井町のホームページによれば、裏面に天保十一年(1840)と記されているようです。

この ☞ マークは成田湯川駅の傍にある善導大師堂への道標にもありました。
ずいぶん昔から使われていた絵記号なのですね。

旧道の登り坂はまだ続きます。

坂を登り切ると再び街道は国道と合流しますが、すぐに右に別れて進みます。


国道と接する場所に「成田道伊篠の松並木跡」の説明板と、風化した木柱があります。
説明板にはこうあります。
「伊篠の松並木は、国道五一号線に沿った旧成田街道約八〇〇メートルの地域の松並木
であった。 通称杢之進並木といわれ、享保年中(一七一六~三五)佐倉七牧を支配した
代官小宮山杢之進が植樹したと伝えられていたが、樹齢三〇〇~三五〇であることから、
年代が合わず、おそらくこれより早い時期に道中者の便を図って植えられたものと思われる。
昭和四十三年四月に県の史跡として指定された当時は、巨松三十六本が松並木を形成して、
街道の美観を誇っていたが、昭和五十年代になって、松喰虫の被害を受けて次々と枯れ、
昭和五十七年七月には県の指定が解除となり、昭和五十九年七月に町史跡指定に変更
された。昭和六十年十一月、最後まで残った二本も枯損し、その後町史跡指定も解除され、
今は史跡としての名称だけが残されている。」
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ところどころに植え替えられた松の木がありますが、本数もわずかで、桜の木の方ずっと
多く目立ちます。
街道をゆく旅人が腰をおろして一服した景色は、もう戻ることはありません。

朽ちかけた木柱の陰に、年代不詳の「宗吾道」と刻まれた道標があります。
上部にうっすらと ☜ マークが見えます。
成田街道は国道に合流することはなく、このまま並行して進みますが、この道標がある場所
から国道を横切る細道があり、その道を辿ると宗吾霊堂に行けたのかも知れません。
ここまで歩いてきた行程を、「千葉縣印旛郡誌」に収録された各村誌中に見える「成田街道」の
部分を、以下に抜き書きしてみます。
「香取は成田道と言ふ南方酒々井町より村の中央を貫き上岩橋村に至る長三町四十間幅四間」
(中川村誌)
「香取路成田街道と言うふは南中川村より本村西部字岩橋に至り安食道を分ち西北部を貫き
伊篠村の境に至る長十町十五間幅四間」
(上岩橋村誌)
「香取道一に成田道と言ふは南上岩橋村より村の中央を貫き成木新田に至る長十六町三十五間
幅四間」
(伊篠村誌)
これにより、「成田街道」は周辺の村々の中心的な道路で、7メートル以上の幅のある街道
であったことが分かります。

街道は、「伊篠の松並木跡」を過ぎ、国道に並行して近づいたり離れたりしながら成田に
向かって続いています。
やがて左側に5基の成田山護摩木山の石碑群が見えてきます。
この板碑型の碑には、「成田山 永代護摩木山 深川末廣講社」とあり、明治二十一年に
建立されました。
護摩木山とは護摩木になる杉を切り出す山のことで、山ごと寄進されるものです。


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この石塔は道標で、正面に「東 成田山 宗吾社 道」とあり、側面には「西 佐くら 酒々井 道」、
「左 しすゐ 停車塲 道」とある道標です。
ただ、裏面に「元禄元年 起■丸■講」と記された横に「明治三十二年建立」と記されている
ことの意味が分かりません。
明治二十二年は西暦1899年になり、これが建立された年であることは間違いないと思い
ますが、元禄~の部分は私の読み間違いなのでしょうか?
※ 後日酒々井町のホームページで調べたところ、この部分は「元禄元年起立丸万講」と
記されていことが分かりました。
明治三十二年にこの道標を建立した「丸万講」は、元禄元年(1688)に結成された講
のようで、この道標は「丸万講」ができてから178年後に「講」を引き継いでいる人たち
によって建てられたというわけです。
また、この道標は以前は「築山」の下に建てられていたそうです。
「停車塲」と彫られていることはこれで納得ですが、なぜ、わざわざここに移設したのか?
という疑問が新たに湧いてきます。

しばらくは平坦な道が続きます。


また護摩木山の石碑が建っています。
「奉獻 成田山永代護摩木山」と刻み、「東京巣鴨町二丁目 保坂徳右衛門長男 保坂
源太郎」と記されています。
碑の裏側の藪がぬかるんでいて、建立年を調べることはできませんでしたが、住所表示
から考えて、それほど古いものではないようです。
保坂家は、巣鴨村で長く名主を勤めた名家で、家長は代々徳右衛門を名乗っています。



護摩木山の碑を過ぎると、やがて国道51号線に出ます。
向かい側に細い道が見えています。
もともと街道はその道に続いていて、国道に分断されたようです。

国道を横切ると、道は緩やかに右にカーブしながら下って行きます。


道の左側には田んぼが広がり、小高い丘の上には農家らしき家が数軒見えています。



小川のほとりに、頭が欠けて、セメントで補修されたお地蔵さまがポツンと立っています。
台座には「三界萬靈」「當村女人講中」と刻まれ、「文政四辛巳年四月」と記されています。
文政四年は西暦1821年ですから、約200年近くもこの道端に立ち続けているのですね。
今回はこののんびりした街道風景で終り、続きは12日にアップする予定てす。


①大崎の馬頭観音 ②伊篠の松並木跡 ③護摩木山の碑と道標 ④護摩木山の碑 ⑤伊篠のお地蔵様
「現在、その道筋は、市川・海神間は国道一四号、船橋市前原・酒々井間は国道二九六号、
酒々井から成田を経て佐倉までは国道五一号の路線にほぼ踏襲され、前原・成田間の旧道
道筋は今も成田街道の通称で呼ばれている。現在では道幅も拡張され、屈曲部が直線化
されて旧街道の面影を留める所はきわめて少ないが、新たにバイパスを通じた部分では
旧道の雰囲気を残している。」 (P14)
(「千葉県歴史の道調査報告書二 成田街道」 1987年 千葉県教育庁)
開発が進み、往時の面影があまり残されていないようですが、“まだ一部には旧道の雰囲気が
残っている”というこの文章に後押しされて、「佐倉街道」から「成田街道」に入る酒々井町から
成田に向かって歩くことにします。

今回の「成田街道を往く」は、この景色から始まります。
京成酒々井駅を出て国道51号線に向かうと、右手に小高い丘が見えます。
遠く筑波山を望むここは、「築山」と呼ばれる酒々井町の名勝です。

国道に出る一つ前の信号を右に曲がるとすぐに「宗吾入口」の信号があります。
右側の階段を登ると、まもなく絶景が開けます。

途中で振り返ると、既になかなかの景色が広がっています。

遠くに見えているのが筑波山です。

筑波山は標高877メートルで、女体山(877m)と男体山(871m)からなり、その美しい
山容は万葉集にも詠まれ、「紫峰(しほう)」とも呼ばれています。
日本百名山の一つで、百名山の中では最も標高の低い山です。


反対側は見渡す限りの田園風景。

昭和3年に建立された「明治天皇御駐蹕記念碑」。
裏面に、ここで明治天皇が四度にわたってお休みになられたことと、ここがかつて中川村
の木内常右衛門邸の築庭であったことが記されています。
「目で見る千葉県の明治時代 千葉県博覧図(上)」(明治27年に制作された銅版画集の
復刻版・1986年)に、「木内常右衛門邸宅の図」が載っていますが、近江八景を模して
造られたと伝えられる大邸宅の庭には、築山があり、灯篭や数々の石柱が立ち、小川が
流れ、背後に印旛沼が広がり、遠く筑波山も見えています。
そして、その絵の中には次のような文章が書き込まれています。
「明治十四年七月一日習志野原演習天覧并成田行幸ノ際及明治十五年五月廿三日
三里塚競馬天覧御幸ノ際往返共天皇陛下行在所」
街道歩きの出発点としてはなかなか良い場所だと思います。

右下にこれから歩く「成田街道」が見えています。

築山を下りて街道を進みます。
「成田街道」は、ほぼ国道51号線に沿うかたちで左右に交差を繰り返しながら進みます。
この「成田街道」は、実は「佐倉街道」が「多古街道」へと続く分岐点から派生する、小さな
街道でしかありませんでした。
成田山新勝寺が有名になり、参詣客が増えるに従って、いつしか「佐倉街道」を含めて
江戸から成田までの道を「成田街道」と呼ぶようになりました。
『船橋市郷土資料館編の「道標」によると、船橋市古和釜の元禄十四年(一七〇一)の
念仏塔や、同市宮本の東光寺境内に保存されている宝永六年(一七〇九)の廻国塔、
それに八千代市大和田の寛延二年(一七四九)の庚申塔には「さくら道」と記されている
が、船橋市前原の安永六年(一七七七)の道標には「なりた道」、同所、明治十一年と
十二年の道標には「成田山道」と刻まれており、次第に成田道の名称が人々の間に浸透
していった様子を窺うことができる。』 (P23)
(「房総の道 成田街道」 昭和62年 山本光正著)
6~700メートルほど進むと、街道は一旦国道51号線と合流します。

ここはやや変則な交差点ですが、写真の手前には2軒のラーメン屋、向かい側には2軒の
ファミリーレストランがあります。
街道はこの交差点へ斜めに入って行く形になります。


街道はほんのちょっと国道を進みます。
前方に「水戸104Km、鹿嶋47Km、成田7Km」の標識が見え、その先の信号を右へ入る
のが街道です。
信号の手前に“「酒々井ちびっこ天国」は左に入る”との案内板が立っています。

国道から再び旧街道に入る景色が目の前に見えていますが、ここでちょっと気にかかる
ことがあります。
私が見た資料では、今来た道が「成田街道」になっていますが、スタートした築山からの
道は旧道らしくない「直線的」であることです。
一旦戻ってそれらしき道が無いか探してみます。

築山から一つ目の信号まで戻り、京成酒々井駅寄りの一つ目の路地に入ってみます。

それらしき景色になってきました。



200メートルほど進むと、丁字路になりますが、その手前に大師堂と、「富士登山参拾二度
大願成就」と刻まれた、明治三十四年(1901)の石碑がありました。
上部には富士山が線描されています。
大師像の隣にある四角柱状の石には、文政十丁亥と文政九丙戌の年号と男女の戒名が
記されています。
文政九年と十年は西暦1826年・27年です。

さらに大師堂の先、丁字路に面して8体のお地蔵様(1体は欠損)の地蔵堂があり、元禄二年
(1689)や明和七年(1770)の年号が読めます。


地蔵堂の向かいある2基の石柱。
左は「二王ミち」と刻まれ、「成田・岩名道蜀山人道標」と呼ばれています。
酒々井町のホームページによれば、江戸後期の国学者、高田与清が文化十四年(1817)
に千葉を旅した時の「相馬日記」に、この石碑のことを「銘は太田南畝、脇に北川眞顔の歌
あり」と記している、とありました。
太田南畝は「蜀山人」と号した狂歌の名人です。
200年以上前の、なかなか貴重なもののようですが、今は風化で読むことはできません。
「二王みち」とは、「岩名の仁王様」として知られる佐倉の玉泉寺毘沙門堂の仁王門への
道を指していると言われているようですが、もともとの場所からここへ移されたようです。
右の石碑には「此方酒々井停車塲道」と刻まれていますので、明治以降のものです。
もう、こちらが旧道の「成田街道」で間違いないようです。

丁字路を右に曲がり、振り返ると、大師堂と地蔵堂の後ろに「火の見櫓」が見えました。
下ばかり見て歩いていたので気が付きませんでした。


さらに200メートルほど進むと、また丁字路が現れます。
ここにも道標が立っています。
正面には「成田 佐原 道 宗吾 安喰 道」とあり、側面にはそれぞれ「酒々井停車場 佐倉
千葉 道」、「酒々井停車場 佐倉 東京 道」とあって、裏面に「上岩橋青年■■」とありました。


これも道標です。
正面に「佐倉 千葉 成田 佐原 道」、側面には「七榮 三里塚 道」と刻まれています。
七栄や三里塚と記された道標は初めて見ました。





小公園があり、そこに「酒々井町立酒々井小学校岩橋分校跡」と刻まれた昭和58年建立の
大きな石碑が建っています。
明治六年(1873)に妙楽寺に仮校舎を建てて開校して以来、昭和54年の閉校まで、106
年間に約1900名の卒業生を送り出したと記されています。

小公園を過ぎると道は右に大きく曲がり、前方に国道がチラリと見えてきます。


国道に出た所の草むらに、傾いて電柱に寄りかかった道標がありました。
風化が進んでいますが、かろうじて「奉納 仁王尊」と読めるような気がします。
寛政二年(1790)のもので、「東 なりた」と刻まれています。
交通量の多い国道の脇で、遮るものも無く風雨にさらされ・・・、このままではやがて文字も
読めなくなって忘れ去られるのでしょう。

国道を渡った先が、前にファミリーレストランのある交差点から見た街道の続きです。



国道を渡って先に進むと、しばらくはいかにも旧道らしい道が続きます。


道端にチラリと倒れた石塔が見えます。
歩いている目線よりやや高い斜面の草むらに隠れていますので、よほど注意して見ないと
見逃してしまいそうです。
「成田山」の文字が大きく彫られ、脇に「酒々井■三拾町」とあります。
酒々井宿から三拾町ではちょっと長すぎますし、成田山へ三拾町では短すぎます。
成田街道の道標であることは間違いないのですが・・・。


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やがて道は大きく左へカーブして長い登り坂となります。
この辺りは木々に囲まれて薄暗く、人家もまばらで、廃屋もいくつか見られます。
ゴールの成田山はまだまだ先ですが、ここから先は次回にしましょう。
(9日に更新の予定です。)


①築山 ②大師堂・道蜀山人道標 ③酒々井停車場道標 ④七栄・三里塚道標 ⑤岩橋小学校跡
⑥倒れた道標 ⑦上岩橋道標

北須賀の「勝福寺」は真言宗智山派のお寺で、山号は「大台山」、院号は「龍岸院」。
ご本尊は「聖観音菩薩」です。

石段の下に建つ寺号標と石仏は、最近寄進されたものです。




石段の上には、決して大きくはありませんがしっかりした立派な山門が建っています。

山門脇に数基の石塔がありました。
風化で文字が読みにくくなっていますが、読誦塔のようです。
一つは文化二年(1805)、もう一つは天保十年(1839)と読みましたが・・・。

これは板碑でしょうか?
細長い形は珍しいと思います。

「千葉縣印旛郡誌」には「勝福寺」について次のように書かれています。
「北須賀村字和田にあり眞言宗にして東照寺末なり正觀世音菩薩を本尊とす由緒不詳
堂宇間口七間奥行五間庫裡間口七間奥行四間半門間口二間通間九尺境内三百五十
三坪官有地第四種あり住職は鈴木運照にして檀徒三百六十五人を有し管轄廰まで八里八町
十間なり寺院明細帳」
※ 東照寺は東勝寺(宗吾霊堂)の間違いと思われます。
「成田市史」に収められた「公津村誌」(大正四年)には、この「勝福寺」についての記述
は見当たりません。


ご本尊の「聖観世音菩薩」です。
「聖観音」は「正観音」とも言い、一面二臂の像で阿弥陀如来の化仏の付いた宝冠をかぶり、
蓮華を持って蓮台に立つのが一般的ですが、こちらの観音様は座っておられます。
六観音(聖観音・十一面観音・千手観音・馬頭観音・如意輪観音・准胝観音)の中では地獄道
を化益します。
※ご住職のお許しを得て、撮影させていただきました。


本堂の右手にある大師堂。

境内の一角にある二基の石仏は享保年間(1716~1735)のものです。




墓地はやや荒れていますが、寛文、元禄、宝暦、安永、天明などの年号が見えます。


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石段を下りて周りを散策してみました。

印旛沼方向に少し行くと、道端に「六地蔵」がありました。
「六地蔵」については何度か紹介していますが、あらためて簡単に紹介すると、
六体の地蔵菩薩を並べて祀ったもので、全ての生命は地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、
人道、天道を輪廻する(六道輪廻)とする思想に基づいて、六道のそれぞれを六種の地蔵
が救うとする説から生まれたものです。
その六地蔵とは、一般に、檀陀地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障地蔵、日光
地蔵とされています。




ここは地元では「和田のろくじょう」と呼ばれています。
「和田」はこの地の小字(こあざ)で、「ろくじょう」は「六地蔵が訛ったものです。


ブリキの説明板が置いてあります。
それによると、前列左が「勢至菩薩」、中央は「三界萬霊塔」、その右が「大日如来」、右端
が「如意輪観音」、そして後列左にある二基は「地蔵菩薩」、中央の背の高い石塔は「光明
真言塔」、右の二基は「地蔵菩薩」となっています。
「光明真言塔」には享保十三年(1728)の紀年銘があります。
「光明真言」はわずか23文字のお経です。
「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」
と唱えますが、「“進むべき道を無量の光をもって遍く照らし御導きください”と、大日如来に
お願いする」という意味です。
さて、ここには「地蔵菩薩」は四体しかありません。


実は、「六地蔵」は脇に立つ灯篭にありました。
六角形の火袋のそれぞれの角に一体ずつの地蔵菩薩が彫られています。
「六地蔵」とは、こちらのことのようです。
陽も傾いてきました。
もう一度「勝福寺」に戻って、観音様にお参りしてから帰ることにします。

晩秋の夕暮れ、山中の寺を訪れる人はありませんが、開け放たれた本堂は温かい光に
満たされていました。

※ 「龍岸院勝福寺」 成田市北須賀426-1