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Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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延長二年(924)創建の「一ノ宮神社」と「長見寺」跡

栄町の利根川河畔に鎮座する「一ノ宮神社」を訪ねます。

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「一之宮神社   祭神 経津主命(ふつぬしのみこと) 
本殿・亜鉛板葺流造二.二五坪、拝殿・亜鉛板葺寄棟造九坪 
境内神社 浅間神社  境内坪数 九二〇坪  氏子 五五戸
由緒沿革 延長二年九月十九日に奉斎」
  (「千葉県神社名鑑」 昭和62年)

延長二年は西暦924年、ほぼ1100年前になります。

ご祭神の「経津主之命(フツヌシノミコト)」は香取神宮に祀られている神として知られ、剣神、
または武神・軍神とされています。


さて、境内を見渡しても鳥居が見当たりません。

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境内の周りを歩き回ると、風に落とされた木の枝が散乱し、枯れ葉に覆われた、人の通る
気配のない細道の奥に、鳥居がチラリと見えていました。
これがかつての参道なのでしょう。


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境内からは300メートルほど離れた場所に建つ鳥居は、平成4年の建立。
「一宮大明神」と刻まれた石の扁額の周りには腐った注連縄が残っていて、少なくとも1年
以上は放置されていたような感じです。
この鳥居や参道の荒れ具合から考えると、今では参道としての役割は失っているようです。


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鳥居の先に「矢口区共同墓地」があり、参道の先を 遮る感じになっています。
脇の無縁塚には、宝永・享保・元文・宝暦・寛政などの元号が刻まれた墓石が並んでいます。

ここは以前「花輪堂」と呼ばれるお堂があったところで、毎年4月に神社に奉納される獅子舞
(オコト)が、この共同墓地の前から出発します。
この獅子舞が鳥居をくぐり、社殿へと進む日だけが、参道として蘇る唯一の時なのでしょう。


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鳥居をくぐって、参道を神社の境内へと戻ります。


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大正二年(1913)編纂の「千葉縣印旛郡誌」は、一宮神社について次のように記述しています。

「村社一ノ宮神社 矢口村字花輪にあり由緒不詳社殿間口一間三尺奥行一間三尺拜殿間口
四間三尺奥行二間境内九百二十坪官有地第一種あり神官は大野橘磨にして氏子八十五戸を
有し管轄廳まで十一里二十町なり五月初旬御田植の式ありて賽客多し」



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境内に入った右手に、円筒と手水盤が並んでいます。
円筒形の石造物には、「一宮本地堂」と刻まれ、「文化六己巳年十一月吉日」「當山現住舜海」
と記されています。
ちょっと不思議な形ですが、「千葉県印旛郡栄町神社棟札集成」(平成4年)には、

「中間が膨んだ円筒形に造られた上端は、丁寧な仕上げが施されていないため、この上に
笠石状のものが乗っていたとも考えられ、或いは石灯籠の竿石であった可能性もある。
翌七年の棟札には、この年の八月に大風により大破したため、組物から上方を組直したこと
が記されていて、文化二年(一八〇五)に修造が行われた本殿の再建祈念といえよう。」

と書かれています。(P168)

そして、翌七年の棟札には、次のように記されています。

「文化六己巳年八月廿三日大風裏大杉木 本社江折懸大破舛ヨリ組直修復造営成就
翌文化七年六月朔日吉辰」


手水盤には「明和九辰」の文字が見えます。
明和九年は西暦1772年、「明暦の大火(振袖火事)」、「文化の大火(車町火事)」とともに
江戸三大大火の一つと言われる「明和の大火(目黒行人坂大火)」のあった年です。


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常夜燈には、「天保八丁酉秋九月吉日」と刻まれています。
天保八年は西暦1837年、この年には大坂(現大阪)で「大塩平八郎の乱」が起こりました。


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ご神木の杉。
「栄町の自然シリーズ 第一集」(平成2年)には、樹高約28メートル、根回り6.8メートル、
樹齢は推定300年と記されています。


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ご神木の他にも、境内には見上げるような大木がたくさんあります。


一宮神社-75   
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本殿には見事な彫刻が施されています。

「本殿は、一間社流れ造りで、屋根は銅板葺、向拝の虹梁上の柱間に見える竜、その柱上
には獅子鼻、その左右に象鼻そして海老虹梁、前廻り縁の左右にある脇障子の彫刻など、
実に見事である。」
  (「栄町觀光ガイドブック」 P16)


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瑞垣の隙間から見える脇障子も、確かに見事な彫りです。


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拝殿にも凝った彫刻が施されています。
拝殿は明治四十五年(1912)に建造されました。


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「現在の社殿は、安和元年に建造され、安和8年には宮様が訪れていることが石碑などから
うかがわれる。 なお、現在の拝殿は明治45年3月に作られたもので、祭日には獅子舞が
奉納されていた。」
 (「栄町觀光ガイドブック」 P16)

安和元年は西暦968年で、約1050年もの昔になります。
ここで、疑問が湧きます。
千年もの歴史を持つ建造物が、国や県の文化財指定を受けず、さらに地元自治体からも
指定を受けていないのはなぜなのでしょう?
棟札等で見る限り、度々修造が行われているようで、さすがに安和元年の社殿が現存して
いるとは考えにくいのですが・・・。
・ 天明五年(1785)    本殿の建立(再建?) (※1)
・ 文化二年(1805)    修造工事
・ 文化七年(1810)    修造工事
・ 慶應二年(1866)    修造工事
・ 明治三十八年(1905) 修造工事
・ 昭和二十六年(1951) 修築工事
火災による焼失の記録はありませんが、何度かの修繕・修造を繰り返し、昭和26年に大幅
な改築を行ったため、安和元年の社殿はもとより、天明五年の社殿の部分すらほとんど残さ
れていない状態となり、文化財の指定には至らないと判定された、と推測したのですが・・・。
栄町に照会したところ、ニュアンス的には”伝承による神社の歴史の古さはあるものの、建造
物としての社殿には文化財に指定するほどの価値はそれほど見い出せない”とのことでした。
栄町には、古刹の「龍角寺」に関連する国や県の指定文化財がありますが、町の指定文化財
としては一宮神社本殿より新しいものもあり、それぞれ建築技法の珍しさや歴史的価値、美術
的価値などを評価しての指定となっています(※2)。
残念ながら一宮神社本殿には、建造物としての古さ以外に、際立った特徴がないのでしょう。

(※1)天明五年の棟札(これにより天明五年に社殿が建立されたことが分かります)
                    旹天明五乙巳年   遷宮大導師天竺山
    聖衆天中天迦陵頻伽聲                    龍角寺竪者法印春捍
                    天下泰平四海静謐                                    
   奉      建立一宮大明神社頭一宇棟札所
                    國郡安全万民快樂       
    哀愍衆生者我等今敬禮                    別當 長見寺法印智道
                    十一月吉祥日
                                 下総國埴生郡矢口村七箇村氏子中


(※2)日枝神社本殿(寛文十二年・1672)、布鎌神社水神社本殿(宝暦七年・1757)、駒形
神社本殿・文化四年(1807)、大鷲神社本殿・天保二年(1831)、雙林寺大師堂(明治九年・
1876)

なお、「安和8年」は存在しない年号で、「安永八年(1779)」の間違いだと思われます。
「千葉県印旛郡栄町神社棟札集成補遺」(平成9年)に収録されている一宮神社の墨書中に、
小さく  「安永八年亥年宮様御下リ良宮奉称候」 と書かれている部分があります。


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拝殿の左側に二基の祠が立っています。
左側の祠は大正十五年(1926)の「出世稲荷神社」。
右は風化で社号、年号ともに不明です。


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一ノ宮-28

本殿の裏には小高い塚があり、その上に祠が一つ立っています。
社号は見えませんが、側面には「天下泰平五穀成就」と「安政五午二月」と刻まれています。
状況から、「浅間神社」であろうと思われます。
安政五年は西暦1858年、大老井伊直弼による「安政の大獄」が始まった年です。


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塚の下に並ぶ数基の石造物。
左端の一番大きな石柱には、「奉納 御寶前 文化元年甲子九月吉日 當山現住舜海」
刻まれています。
文化元年は西暦1804年になります。
左から二番目の祠には「天保八酉年」、三番目の祠には「明治十四年」、四番目は二つに
割れて判別不能、そして右端の祠には「万延元申」の文字が読めますが、いずれも社号は
分かりません。
天保八年は西暦1837年、明治十四年は1881年、万延元年は1860年になります。


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塚の裏には、100段以上もある裏参道の急勾配な石段があります。


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境内の一角にある、明治三十九年(1906)の「戦捷紀年碑」。


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葉の裏に文字を書いて文通したと伝えられる「タラヨウの木」。
タラヨウは多羅葉と書き、昔は葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したり、
文字を書いたりしたことから、神社やお寺に植えられるようになりました。

タラヨウとは「もちのき」のことで、樹皮から鳥や昆虫などを捕まえるために使う「鳥もち」を作る
ことができることから、この名前が付きましたが、今では鳥もちなど忘れられた存在です。


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一ノ宮神社の隣には「矢口青年館」と駐車場がありますが、神社の境内との境界を示すように、
たくさんの石仏・石造物が並んでいます。


一ノ宮-34

この如意輪観音には「寛文九己酉年」の紀年銘が刻まれています。
寛文九年は西暦1669年になりますので、一宮神社が再建された天明五年(1785)より
110年以上前のものです。
ここは、一宮神社の別当寺の「長見寺」があった場所です。

「千葉縣印旛郡誌」(大正2年)に、「長見寺」に関する記述がありました。
「矢口村字花輪にあり天台宗にして龍角寺末なり如意輪觀世音にして由緒不詳庫裏間口
八間奥行五間境内一千六十坪官有地第四種あり住職は觀音寺住職は弘海尭潤にして檀徒
五十二人を有し管轄廳まで十一里二十町なり寺院明細帳


「印旛郡栄町寺院棟札集成」(平成6年)に、次のような記述があります。
「長見寺(天台宗) 如意輪観世音 本堂七間×五間半 庫裏八間×五間 由緒不詳。
明治三十九年本堂大破に付き取崩し願い出。現在建物はなく、長見寺は廃寺となっている。」



一ノ宮-35     右の大師堂
      左の大師堂    一ノ宮-36

寺の境内入口だったであろう場所の左右に「大師堂」があります。
向かって右の大師像には、「文化■■甲戌■」と読める紀年銘が刻まれています。
文化年代で干支が甲戌となるのは十一年(1814)です。
左の大師像の台座には、「万人講」と読める文字が見えます。


一宮神社-100

右の大師堂の隣には、「新 四國八十三番 一ノ宮山■■寺」と刻まれた石柱があります。
■の部分は「長」の異体字と「見」のように思えます。
四国八十八か所霊場の八十三番は「神毫山(しんごうざん)一宮寺」ですが、一ノ宮にかけて
「一ノ宮山長見寺」としたのでしょうか?(■の部分に疑問が残りますが・・・)
右側面には「讃刕一ノ宮 写」とあります(刕は州の異体字なので「讃刕」とは讃岐地方のこと)。
左側面には「南無大師遍照金剛」、裏面には「文政四辛巳年三月造立」と刻まれています。
文政四年は西暦1821年です。


一ノ宮-38
一ノ宮-39

石柱の隣には「子安堂」があります。
赤子を抱いた子安観音は文化三年(1806)のもので、「十九夜講」と刻まれています。
これは「月待講」と呼ばれるもので、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの
月齢の夜に、村の仲間(講)が集まって飲食を共にし、お経をあげたり、月を拝んだりして
悪霊を払うという宗教行事ですが、「庚申講」と同様に娯楽的色彩を強くもった行事です。


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子安堂の向いには風化で年号が読めない地蔵菩薩像と、「權大僧都竪者法印舜海大和尚位」
と刻まれた文政七年(1824)の石碑が並んでいます。
この「舜海」という名前は、境内の多くの石造物に刻まれていて、寺の維持管理に大いに貢献
した方のようです。


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右端は天保七年(1836)の読誦塔、その隣は文政二年(1819)の読誦塔です。


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安永、寛政年間の供養塔。
「竪者法印秀榮」「竪者法印智觀」などの高僧の名前が読み取れます。


一宮神社-102   如意輪観音の十九夜塔
      子 安 観 音     一宮神社-101

一ノ宮-46

左は「法眼宮本豐水之墓」と刻まれた明治十七年(1884)の碑ですが、台座に「文雅堂塾中」
とあるので、墓石ではなく筆子塚だと思われます。
右は三人の戒名が刻まれた慰霊碑のようです。


一宮神社-105
一宮神社-85  

神社境内と小道を挟んで金属柵に囲まれた、「金比羅大権現」があります。
中央の鞘堂の扉が半開きになっていて、中の祠がみえています。


一ノ宮-50

手前の祠は安政四年(1857)のもので、後ろの細長い石碑は「江川延命所 多賀大明神」
と刻まれた文久二年(1862)のものです。
「多賀大明神」とは滋賀県にある式内社の「多賀大社」のことです。


一宮神社-84

「栄町観光ガイドブック」には、
「矢口の一ノ宮神社は、延長2年(今から1023年前)に創建したと伝えられているが、一説
では、現成田市松崎に鎮座する二ノ宮神社は一ノ宮神社よりも110年前に創建されている。
しかし、一ノ宮神社の神官外記という人が二ノ宮神社を相続していることから、一ノ宮神社は、
二ノ宮神社よりも前の創建と考えるのが自然である。 伊藤義一氏説」
 (P16)
と紹介されています。

「神社由緒禄」に神職外記が二ノ宮神社を相続したとあるのは、斎衝三年(856)のことです
ので、二ノ宮神社を相続した外記と一ノ宮神社の外記が同一人物だとすると、少なくとも神職
としては68年以上現役でいたことになり、(神職になるまでの年齢なども考慮すると)平均寿命
が30歳程度であった時代であることから、この説には少々無理があるように思えます。
いずれにしろ、一ノ宮神社が1100年近い歴史を持つ古社であることは間違いありません。


一宮神社-107

さて、一ノ宮神社の解説には必ずと言って良いほど、成田市松崎の「二ノ宮神社」、同郷部の
「三ノ宮神社(埴生神社)」との関連が出てきます。
「二ノ宮神社」の解説にも、そして「三ノ宮神社」の解説にも、(確証はないものの)三社には
何らかのつながりがあるかのように書かれています。

「成田市史中世・近世編」に、安政年間に書かれた「利根川図志」にある、一ノ宮・二ノ宮・
三ノ宮の三社についての記述が紹介されています。
「一ノ宮大明神 下総埴生郡矢口村にあり佐倉風土記伝、伝延長二年九月十九日祭ルト
二ノ宮大明神 同松崎村にあり年記詳ならず、経津主命を祭と伝
三ノ宮大明神 同成田より二三町西の方郷部にあり、祭神詳かならず、相馬日記に郷部村
に埴生大明神の社ありて、鳥居に当国三ノ宮といふ額をかく、こ神明帳に見えぬ神なり」
  
(P801 なお、郷部村は成田村の間違い)

「三ノ宮・埴生神社」のホームページには、
当神社は通称三ノ宮といわれ、その昔物資が利根川流域より運び込まれ、栄町矢口の一ノ宮、
成田市松崎の二ノ宮、そして終点の三ノ宮と順になったとされています。その名残か現在当神社
の向きは真西にむいており、一ノ宮・二ノ宮の方を向いております。」

と書かれています。

旧埴生郡内にある三社は、もともと一ノ宮埴生神社・二ノ宮埴生神社・三ノ宮埴生神社と呼ばれ
ていたのかも知れません。(二ノ宮神社は近年まで「二ノ宮埴生神社」と呼ばれていました)

「二ノ宮神社」 ☜ ここをクリック
三ノ宮神社」 ☜ ここをクリック


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千年の時を刻む境内には、ほのかに梅の香りがただよい、微かな春の足音が聞こえています。


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                        ※ 「一ノ宮神社」  印旛郡栄町矢口1




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

栄町の寺社 | 16:51:16 | トラックバック(0) | コメント(6)
慶安五年の創建~安食の名刹「大乗寺」
今回は栄町の「大乗寺」を訪ねます。

大乗寺-1

「大乗寺」は天台宗のお寺で、山号は「安榮山」、院号は「實相院」。


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大乗寺-2

左に「照一隅」、右に「宝道心」と刻まれた山門前の灯籠は昭和46年に設置されました。


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この立派な山門については、後述の「千葉縣印旛郡誌」に記載がありませんが、江戸時代
末期の建立と伝えられています。
屋根には鯱が乗った四脚門です。


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山門をくぐった正面に池を挟んで大きな本堂が見えています。

「千葉縣印旛郡誌」は、「大乗寺」について次のように記しています。
「安食村字谷前にあり天台宗にして龍前寺末なり彌陀如来を本尊とす由緒不詳本堂間口
四間半奥行二間半庫裏間口七間三尺奥行八間三尺境内一千二百二十六坪官有地第四種あり
住職は弘海高順にして檀徒一千八百一人を有し管轄廰まで十一里なり持院明細帳

(アンダーラインの龍前寺は龍角寺の間違い)

「大乗寺」の創建は慶安五年(途中改元で承応元年・1652)と伝えられていますので、360年
以上の歴史を有しています。
明治六年(1873)には安食小学校の前身の鶯谷学校が境内に開校しています。


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本堂の左にあるのは旧本堂です。
扉の上に天台宗の宗紋である「三諦星」が掲げられています。
旧本堂の脇には「根本伝教大師尊像」と記された、天台宗の宗祖である最澄の像があります。


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「一隅を照らそう」と記された石碑。
これは最澄の記した「山家学生式」にある有名な一節です。

土屋の「薬王寺」にもこの一節の碑がありました。
『帰路、山門から下る石段の途中にある石板には「照于一隅此則国宝」と記されています。
「比叡山開創一千二百年記念」として建立されたとありますが、この最澄の言葉には「照
一隅此則国宝」と読むか、「照一隅則国宝」と読むかの二説があり、とても興味深いもの
です。伝教大師最澄が弘仁九年(818年)に天台宗の修行規定として書いた「山家学生式」
(さんげがくしょうしき)にある言葉で、「照一隅此則国宝」(一隅を照らすこれすなわち国宝
なり)が一般に広く知られている言葉と意味ですが、最近の学説では「照一隅此則国宝」
(一隅を守り千里を照らす、これすなわち国宝なり)が正しいとされています。最澄の時代の
背景を考えると「照一隅~」なのでしょうが、「照一隅~」が長年人々の心に響いてきた
言葉と意味なので、この方が良いと判断されたのでしょう、薬王寺のこの碑にはと彫られて
います。』
 (14/10/11 「薬王寺」の項より)

照于か照千か・・・土屋の薬王寺 ☜ ここをクリック


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鐘堂の屋根にも、山門と同じく鯱が乗っています。
この鐘堂は明治四十年(1907)に完成しました。


大乗寺-10
大乗寺-11
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撞座の上には「南無藥師如来」の文字が記され、左右には天女が描かれています。
左側面にはやはり天女を挟んで「南無釈迦如来」、右側面には「安栄山実相院大乗寺」、
そして裏面には「南無阿弥陀如来」の文字が記され、天女は四面に描かれています。


旧本堂の脇の繁みにひっそりと「六地蔵」が建っています。

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「六地蔵」は角柱の四面中の三面に二体ずつ彫られている珍しいもので、正徳五年(1715)
の銘があり、二人の戒名が刻まれています。


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大乗寺-23
大乗寺-24

新旧本堂の裏には墓地が広がり、裏山の上まで続いています。
享保、寛政、文政、安政、万延、文久などの年号が読めます。
山の上の墓石は明治、大正など、新しい墓石が目立ちます。


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裏山の斜面に鞘堂に守られた祠がありますが、何の祠かは分かりません。


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中腹の台地には歴代高僧の墓石や読誦塔が並びます。


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***** 大乗寺-33

享保、寛政、宝暦などの年号と、「法印権大僧都」や「竪者法印」などの高い僧位が読めます。


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この立派な宝篋印塔は文化四年(1807)のものです。


大乗寺-35

見事にスマートな地蔵菩薩。
左袖の部分に文字が並んでいますが、風化と剥落で読めません。
「寛■十」とだけ読めましたが・・・。

後日、栄町の図書室で見つけた「文化財シリーズ第二集 栄町の地蔵・観音」(昭和63年)と
いう小冊子の中に、この像に刻まれた銘文が載っていました。
「奉造立地蔵菩薩尊仏為逆修菩提也」「寛文十庚戌天十月吉日」 とあるそうです。
寛文十年は西暦1670年ですから、約350年前のものになります。


大乗寺-36

参道から墓地に入る場所には、子安観音が並んでいます。


大乗寺-102  明治十九年(1886)
大乗寺-104   昭和24年
大乗寺-105   年代不明
大乗寺-106   明治三十年(1897)
大乗寺-107   大正十二年(1923)

大乗寺-103 

子安観音の後ろにある線描された「月讀大神」。
「月讀大神」は、月を神格化した夜支配する神で、天照大神の弟神、須佐之男命の兄神です。
ちょっと場違いな感がしますが、なぜここにあるのかは分かりません。


大乗寺-115

鐘堂の裏側には六基の石仏が並んでいます。

大乗寺-44
大乗寺-108

左側面に「寛政十一己未」(1799)と記されています。
右側面にも欠損した文字があり、「寛永三■■」(1626)と読めるような気がします。


大乗寺-45
大乗寺-109

「奉造立十九夜」と読める六臂の如意輪観音(年代不明)。


大乗寺-46
大乗寺-110

「奉造立十九夜」と刻まれた二臂の如意輪観音。
元文三年(1738)のものです。


大乗寺-47
大乗寺-111

六臂の如意輪観音。
「寛文」の元号のみが読めます。


大乗寺-48

右端の二基は原型を留めていません。
他の像と同じ月待塔だとは思いますが・・・。


大乗寺-50
大乗寺-49

参道の入口の左右には、「安食百観音」と「無縁墓地」があります。
(「安食百観音」は別項で紹介する予定です。)


大乗寺-120
大乗寺-57
大乗寺-123

「本堂 由緒不詳。 旧本堂は、明治四〇年に四間半×二間半の規模で再建。 現本堂は、
昭和四六年に竣工した。」
「庫裏 明治二五年に仮本堂とともに竣工したが、現存せず、昭和四六年に現庫裏が落成。」


「栄町史調査報告書第2集 千葉県印旛郡栄町寺院棟札集成」(平成6年)には、こうあります。
手入れが行き届いているためか、旧本堂は100年以上、新本堂も築後45年も経っているとは
思えない佇まいです。
裏山全体が墓地となっていることもあり、周辺の騒音が届かない、静かな空間です。


大乗寺-71

                         ※ 「安栄山大乗寺」 印旛郡栄町安食3633



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栄町の寺社 | 07:23:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
千年を超える歴史~栄町の大鷲神社

栄町の大鷲神社を訪ねます。
大鷲と書いて「おおとり」と読むことが多いよいうですが、この神社は「おおわし」と読みます。

大鷲神社-1

創建年代は不詳ですが、日本武尊が東征の際に、ここに錦旗を立てて仮の御野立所と
した場所であると言われています。
本殿は凝宝珠金具の刻銘により天保二年(1831)の造営とされています。

伝承によれば、この神社の創建は天慶二年(939)で、文化・文政年代には鷲宮(鷲賀岡
神社)と称していましたが、明治26年頃から大鷲神社と称するようになったようです。
実に千年を超える長い歴史を有していることになります。


大鷲神社-2
********** 大鷲神社-3
大鷲神社-4

県道から少し入ったところに大きな鳥居があり、左右に分かれる石段の下に二基の灯籠
が立っています。
右側の年代は分かりませんが、台座には「江戸神田明神下」や「馬喰町」「下谷」などの
文字が読めます。
左側は文政十二年(1829)のものですが、柱の部分に「大正十二年九月一日大震災
破損ニ付修繕ス」
と刻まれています。
柱と火袋がこの時に新しくされたようです。


大鷲神社-5
大鷲神社-6

鳥居からまっすぐ登るのが「男坂」、右に上るのが最近整備された「女坂」です。
「男坂」は相当な急勾配で、お年寄りにはとても無理な感じです。


大鷲神社-7

「女坂」を上ったところに立つ「子授けの大樹」。


大鷲神社-8
大鷲神社-9
大鷲神社-10

ここにある「魂生神社」(こんせいじんじゃ)。
「五穀豊穣、縁結び、子授け安産、夫婦和合」の御利益があるとされる神社で、知る人ぞ知る
スポットであるようです。
千葉県ホームページ中の「まるごとeちば」には、この神社のご神体について「大鷲神社境内
には、魂生大明神といわれる子宝・安産などに御利益のある社があります。御身体の形が
ユニークで、日本一大きく何かと話題の神社です。」
と何とも微妙な言い回しで書かれていま
す。(写真の掲載はちょっと憚られますので、ご興味のある方は直接お出かけください。)


大鷲神社-11
大鷲神社-12

「魂生神社」の隣にある「聖徳太子堂」。
嘉永元年(1848)のものです。


大鷲神社-13

「聖徳太子堂」の横を下る細い道があり、その先に赤い鳥居が見えています。


大鷲神社-14
大鷲神社-15

「鷲の杜稲荷」です。
狭く、急な石段を登ったところにあります。


大鷲神社-16
大鷲神社-17

「鷲の杜稲荷」を過ぎて長い石段を下ると鳥居があり、振り返ると大分上の方に今来た稲荷
の赤い鳥居が木の間に見えています。
こちらから上る道は「草薙参道」と呼ばれています。


大鷲神社-18
大鷲神社-0

「魂生神社」まで戻って、「大鷲神社」の境内へ女坂の残りの石段を上ります。
「縁結び合体椎の木」と説明板のある大木が目に入ります。
このあたりは「魂生神社」のご利益にある、「子授け安産、縁結び、夫婦和合」などの大盤振る
舞いです。


大鷲神社-20

ようやく「大鷲神社」の拝殿が見えてきました。


大鷲神社-21

手水盤には「文政二己卯年十一月」と刻まれています。
文政二年は西暦1819年になります。


大鷲神社-28
大鷲神社-30

本殿の説明板には次のように書かれています。
建立は本殿凝宝珠金具の刻銘により天保2年(1831)と考えられる。本屋、向拝の軸部、
縁廻り、柱間等の壁板には極めて装飾的な彫刻が施されている。特に本屋と向拝を繫ぐ
ぐ海老虹梁は竜の丸彫りになっており、千葉県内では当町の駒形神社と本例のみであると
いう。入母屋造本殿は町内では珍しい貴重な建物である。」


「千葉県神社名鍳」(昭和62年)には、ご祭神は天乃日鷲命(あめのひわしのみこと)、
大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなびこなのみこと)の三柱で、由緒沿革は、
創建年代など詳らかでないが、豊臣、徳川時代に至るまで天下泰平・国土鎮護の神として
尊敬され、殊に春日局の崇敬が深かったという。」
と記載されています。


大鷲神社-22   拝殿の掲額
大鷲神社-23   拝殿内部
大鷲神社-24 賽銭箱に彫られた大鷲

大鷲神社-32
大鷲神社-33
********** 大鷲神社-34
大鷲神社-35
大鷲神社-36

虹梁、木鼻、脇障子など、本殿の各部は見事な彫刻で飾られていて、脇障子には琴を弾く
女性や、囲碁のような盤面遊戯を楽しむ姿が彫られています。


大鷲神社-25

境内の一角にある「力石(ちからいし)」。
「力石」は、江戸時代から明治時代にかけて、鍛錬と娯楽の一つとして力試しに用いられた
石で、通常は米俵より重い60キロ以上の重量があります。

竜台六所ー33  竜台・六所神社の力石
香取神宮のさし石(力石) 香取神宮ー57
皇神社ー4   野毛平・皇神社の力石


大鷲神社-26

「御嶽神社」(左)と「石上神社」(右)。
「御嶽神社」は江戸時代からここにあったと言われており、「石上神社」は旧魂生神社です。


大鷲神社-27

両神社の間にある、「信開靈神」と刻まれた明治二十年(1887)建立の「霊神碑」。
木曽御嶽信仰に関わるもので、霊神とは過去の行者を神格化した存在です。


大鷲神社-44

二つの神社の側に、欠けた灯籠や狛犬、石柱などが集められています。
享和三年(1803)、天保六年(1835)、嘉永四年(1851)などの年号が読めます。


大鷲神社-281
大鷲神社-29

本殿裏手にある「霊峰神社」。
説明板に「平成9年に神社名を命名」と書かれていますので、新しい神社のようです。


大鷲神社-31

本殿の裏を回ると、小さな賽銭箱が木柵に括り付けられています。
「稲荷神社遙拝所」と書かれていて、崖下に先ほど訪ねた「鷲の杜稲荷」が見えています。
草薙参道から「鷲の杜稲荷」に登る道は、距離は短いものの相当な急坂ですので、お年寄り
や足腰に自信の無い人はここからお参りできるような配慮ですね。



大鷲神社-43

屋根や蛙股には見慣れない神紋が見えます。
十六菊と何かの植物の葉が組み合わされています。
「抱き菊の葉に菊」か「青山菊」か、とも思いますが、ちょっと違うようです。


大鷲神社-41


男坂の石段上に立つ社号標には「錦旗山大鷲神社」と刻まれています。
「全国神社名鍳」(昭和52年)にはこの神社について次のような記述があります。
「日本武尊が東夷征討の際、当山に錦旗を立て仮の御野立所としたことから錦旗山と称した。
明治初期村社に列した。」



大鷲神社-42
大鷲神社-46
大鷲神社-39

「千葉縣印旛郡誌」(大正二年)には、「無格社鷲賀岡神社」として次のように記されています。
「安食村字谷前にあり天日鷲命を祭る由緒不詳社殿方五尺拝殿間口四間奥行二間社務所
間口四間奥行二間境内七百五十坪官有地第一種あり神官は大野橘麿にして氏子三百戸を有し
管轄廰まで十一里あり毎年十二月初酉の日を以て祭日とし賽客絡繹として地方極に見るの
雑踏を極む神社明細帳町誌

「○利根川圖誌伝 安食村印旛江へ指出たる山の頂にあり別當正徳寺毎年正月十一月初酉
の日遠近の老若參詣群集す此處印旛江の下流にて長門の口と云ふ長門の渡ありこの地なり」

「○新撰佐倉風土記伝 鷲神社在安食村南岡阜山」
「○日本名勝地誌伝 鷲神社は同所安食印旛沼の下流に突起せる丘に在り元来東京下谷區
龍泉寺町に鎮する鷲神社と同体にして初め正■寺の保管せし所なりしが神佛混淆の令下る
に及び分離して純粋なる神社となれり毎年正月十一月初酉の日遠近の男女社頭に群賽して
福を祈ること猶猶東京の酉の市に異ならず雑還近村に比なしとぞ」


祭礼の日などに違いがあるものの、昔から近郷に知られた神社であったことが分かります。
なお、■の部分は印字が潰れていますが「願」となっています。
「栄町史 史料集(一)」に収録されている「天明六年下総國埴生郡安食村御差出明細帳」に
龍角寺末天台宗正徳寺が鷲ノ宮を支配している、とあるので、「正願寺」ではなく「勝福寺」が
正しいと思われます。

長い歴史を紡いできた「大鷲神社」に、初夏のような風が吹き渡っています。
山の上の境内は、今、萌えるような新緑に包まれています。


大鷲神社-50

                        ※ 「大鷲神社」 印旛郡栄町安食3620


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栄町の寺社 | 09:54:10 | トラックバック(0) | コメント(2)
小さな龍の伝説が結ぶ三つの寺(1)「龍角寺」
栄町の「龍角寺」を訪ねます。

伝説の寺ー28

言い伝えによれば、和銅二年(709年)に竜女が現れて薬師如来像を祀ったことを
起源として、天平二年(730年)釈命上人により「龍閣寺」として開かれたという
関東屈指の歴史ある寺です。


伝説の寺ー25

天台宗のお寺で、天竺山寂光院龍角寺が正式名です。
ご本尊は薬師如来で、銅造薬師如来坐像は国の重要文化財に指定されています。


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常夜塔には文化二年(1805年)と刻まれています。
(弘化二年とも読め、自信がありません。弘化なら40年後です)


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これが本堂か?と一瞬意外な感じがしました。
由緒ある古刹の本堂とは見えなかったからです。


伝説の寺ー29

中を覗いてみましたが、ご本尊の写真と、
境内から出土した瓦などが飾られていています。
薬師如来像は頭部と胴体部が別作のものですが、
頭部は白鳳時代のもので、竜女伝説と一致します。

(竜女伝説と今回の表題の龍にまつわる伝説とは違うものです。
“龍の伝説”は最後にお話しします。)


伝説の寺ー24
伝説の寺ー30

ご本尊や大切なものは後ろに続く倉のような建物に保管されているようですが、
それにしても、大分傷んでいます。


伝説の寺ー1
伝説の寺ー2

奥にある三重塔跡も石柱が倒れたままで、荒れ果てた感じです。

塔の礎石は「不増不滅の石」と呼ばれ、中心にある主柱をはめた穴には、
日照り続きであっても、雨が降り続いても、常に一定の水が溜っていると伝えられています。


伝説の寺ー3

三重塔跡のとなりには、出土した古瓦を埋めた塚があります。


伝説の寺ー5

さらに右奥には小さなお社があり、消えかけた掲額には
「金毘羅大権現」の文字がかろうじて読めます。


伝説の寺ー8

校倉造りの資料庫で、明治初期の建物です。
三里塚御料牧場にあったものをここに移設しました。


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一番奥まったところには古いお墓が並んでいます。
安永、宝暦、享和、文化などの年号が読めます。


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資料庫の左奥にある「二荒神社」です。


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資料庫脇の坂道を下ると代々の住職達のお墓が並んでいました。
天保、文政、享保。文久、安永などの年号が刻まれています。
さすがにどれも立派な石塔です。


伝説の寺ー22
伝説の寺ー21

本堂の左側には立派な石塔が八つ並んでいます。
どれも年代を感じさせるもので享和、延宝、文政等の年号が刻まれています。


伝説の寺ー32
伝説の寺ー33

境内のあちこちに古い石塔が立ち並んでいます。


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伝説の寺ー36

金堂跡です。
本堂と資料庫の間にあります。

発掘調査によってこの場所には三重塔と並んで金堂がある
「法隆寺式伽藍配置」であったことが分かっています。
今はいくつかの石が転がる塚にしか見えませんが、往時は人々の信仰を集める
立派な金堂が建っていたのでしょう。


伝説の寺ー26

仁王門の建っていた跡にも、いくつかの礎石が並んでいるだけです。

繰り返される火災で古い建造物は一つも残っていません。
歴史のある名刹が、どこか荒れた感じがするのは寂しいことです。
分かりにくい場所ですが、案内板を立て整備を加えれば、
また多くの人々が訪れる賑わいを取り戻せると思うのですが・・・。

さて、この龍角寺には興味ある伝説が残っています。

大昔から印旛沼には龍が棲んでいると言い伝えられてきました。
そう言えば、印旛沼は龍の形に似ています。

印旛沼地図
(水土里ネット印旛沼 http://www.inbanuma-lid.jp/ より転載)      

ある年長く続く日照りに田畑は荒れ果て、この地の住民は困窮を極めていました。
龍閣寺の釈命上人が印旛沼に舟を漕ぎ出し、雨乞いの祈祷をしたところ、
沼に棲んでいた小さな龍が人々の苦しみを哀れに思い、龍王の教えに背いて
天に昇って地上に七日七晩雨を降らせ、乾いた田畑を蘇らせてくれました。
しかし、この小さな龍は龍王の怒りに触れ、雷鳴とともに体を三つに切り裂かれて
地上に落ちてきました。
その身を犠牲にして自分たちを救ってくれた小さな龍を哀れに思った住民たちは、
落ちた龍を探しまわり、頭を安食村で、胴体を本埜村で、尻尾を匝瑳の大寺で見つけ、
それぞれの地に手厚く葬ったそうです。
その時、頭を葬った龍閣寺を龍角寺とあらため、
胴体を葬った本埜村の地蔵堂に龍腹寺を建て、
尻尾を葬った大寺にあった寺を龍尾寺としたそうです。

伝説の頃の人々の距離感からすると、そうとうスケールの大きいファンタジーです。

龍角寺から龍腹寺までは車で約30分、龍尾寺までは1時間半程度かかります。
次回は龍腹寺を、そして龍尾寺を訪ねてみようと思います。


             ※龍角寺   印旛郡栄町龍角寺239
               JR成田線安食(あじき)駅から徒歩30分、バスは「竜角台車庫」行き、
               または「安食循環」で「酒直坂上」下車徒歩10分。



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