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sausalito

Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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鏡山お初が眠る峯の寺~「妙興寺」
「妙興寺」は日蓮上人の直弟子の日辨によって正安二年(1300年)に創建されました。
山号は「正峰山」で、地元では「峯の寺(みねのてら)」と呼ばれています。
多古町の山中、日本寺の近くにあります。


妙興寺ー1

狭い路地の奥に小振りな山門があります。


妙興寺ー44

この「八坂神社」と記された額束のある鳥居とお堂が無ければ、路地には気付かないでしょう。


妙興寺ー2

「南無妙法蓮華経」と刻まれた山門前の石柱は、文化十三年(1816年)の建立です。


妙興寺ー4

杉木立の参道は長く延び、その向こうに立派な山門が見えています。


妙興寺ー5

堂々とした構えの山門です。
多古町の有形文化財に指定されています。
説明板には、
「入母屋造り、トタン葺、繁棰の二軒、三間三戸の八脚楼門で、妻飾りは紅梁大瓶式で
蕪懸魚を懸けてある。・・・・・この門は、県下で残存例の少ない三間三戸の八脚門で、
両側面に仏像を納めた装置も珍しい。当寺の記録と施工の手法からみて、江戸末期
(文政年間)の建立と推定される。」

とあります。
なお、文政年間とは1818年から1830年の間を指しますが、千葉県公式観光物産サイト
や多古町のホームページには、明和二年(1765年)の建立と書かれています。


妙興寺ー7
妙興寺ー35

重厚な骨組みの中に多古藩主の定紋が見えます。
光琳梅鉢でしょうか、久松一族の家紋は梅鉢です。

この山門の両側面には多聞天像と増長天像が向き合って納められています。

妙興寺ー8
妙興寺ー9  多聞天=毘沙門天

妙興寺ー10
妙興寺ー11  増長天=毘楼勒叉

多聞天像は宝暦九年(1759年)、増長天は宝暦八年(1758年)の制作です。
多聞天は北方を、増長天は南方を守護する神将です。

驚くほどの鮮やかな彩色ですが、多分最近修復が行われたのだと思います。


妙興寺ー12
妙興寺ー14

山門をくぐり境内に入ると、左手に鐘楼が見えます。
寺伝によれば第38世の月廷が建立し、18世紀中ごろに改築されたものです。
基壇部分だけで7~8メートルある背の高い建物で、下からは鐘はほとんど見えません。


妙興寺ー37

山門左手奥の墓地で「鏡山をはつ之墓」と書かれた木柱を見つけました。
「鏡山をはつ」とはどんな人物なのでしょう?

後に調べたところ、大変興味深い人物でした。
歌舞伎の「鏡山旧錦絵」(かがみやまこきょうのにしきえ)や、「加賀見山再岩藤」(かがみやま
ごにちのいわふじ)の登場人物が「鏡山お初」です。
この「鏡山お初」は、浜田藩江戸屋敷の中老、「尾上」に仕えていた「松田さつ」がモデルです。

物語のあらすじは、「浜田藩の江戸屋敷内では、中老の「尾上」と局の「岩藤」との間に
確執があり、ある時、尾上は岩藤の策略にかかって自害に追い込まれてしまいます。
「さつ」は主人の無念を晴らすべく、岩藤を追い詰め、これを討ち取って、見事主人の仇をと
りました。後に剃髪して妙真尼となった「さつ」は、縁のある多古の妙興寺に庵を結んで尾上
や岩藤の菩提を弔った」という話です。

歌舞伎では「女忠臣蔵」と呼ばれる人気の演目になっています。
ウィキペディア「鏡山旧錦絵」 ⇒

「さつ」の墓はこの妙興寺の他に、出生地の長府の本覚寺と妙真寺にもあるようです。


妙興寺ー15

妙見大菩薩。


妙興寺ー16

この手水盤には文化四年(1807年)と刻まれています。


妙興寺ー38
妙興寺ー39

多古藩主の久松家代々の墓は境内の右手にあります。

多古藩は秀吉の小田原の役の後に関東に入った徳川家康が、保科正光に与えた
一万石が起源です。
その後、土方雄久を始めとする他の大名や幕府の直轄領になるなどの変遷を重ね、
寛永十二年(1635年)、駿河国に八千石を有していた旗本の松平勝義が移封されて
から明治4年の廃藩置県まで、松平家が治めていました。

藩主は代々松平姓を名乗っていましたが、戊辰戦争の際に旧幕府から離れることを
示すため、もともとの姓であった「久松」に戻したと伝えられています。

なお、当時の地名は多ではなく、多であったようです。


妙興寺ー18
妙興寺ー25

本堂の前にはさらに門があります。


妙興寺ー19
妙興寺ー20

3つの門をくぐってきたわりには、本堂は質素な構えでした。


妙興寺ー21

本堂脇のお堂。
壁板が剥がれ、中はがらんどうでした。


妙興寺ー22

これも荒れ果てた「正一位稲荷大明神」。


妙興寺ー23

本堂裏の宝物殿。


妙興寺ー24

「忠碑妙真法尼」と記された石板。
「通称鏡山をはつ 本名さつ女」と記され、大正3年に建てられたもので、
「さつ」(元禄十四年(1701年)~明和五年(1768年))の忠義を称えるものです。
なお、「鏡山」とは本来「加賀騒動」を指す言葉です。
 ウィキペディア「鏡山物」 ⇒
 

妙興寺ー42  西参道の階段
こちらから登る人はほとんどいません妙興寺ー43


妙興寺ー26
妙興寺ー32

山門から右に細い道があり、その先に大きな木造の建物が見えます。
中村小学校の旧校舎で、今は使われていません。


妙興寺ー33
  すぐ隣にある新校舎  妙興寺ー34

妙興寺ー40
妙興寺ー41

「妙興寺」は、すぐ近くにある「日本寺」ほどの知名度はありませんが、「鏡山おはつ」に
まつわる話や多古藩の歴史など、掘り出し物を見つけた気分になれます。


妙興寺ー50


              ※ 「正峰山妙興寺」 多古町南中344-2
                JR成田駅よりJRバス 八日市場行き 南中下車 徒歩10分
                (駐車場はありません)



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多古町の寺社 | 08:31:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
十一月の風
十一月の風は 一年で一番寂しい風

11月の風ー3
                                                   (日本寺)
    木の実に吹きつけ磨いても
          残るは鳥も食わない渋柿ばかり




11月の風ー13
                                                  (赤坂公園)
11月の風ー11    (市立図書館付近)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11月の風ー12
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
             落ちた枯葉がただ吹き寄せられる



11月の風ー18
                                                 (ウィング土屋)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11月の風ー17
11月の風ー10    (甚兵衛渡し付近)

    はためく店先の幟を見れば
        書かれた文字は気の早い来月、再来月・・・




11月の風ー50  
11月の風ー51   (空港第2ターミナル)11月の風ー52
                                           
           風に乗るのはジングルベル



11月の風ー15 (赤坂公園)
11月の風ー9  (印旛沼)

                野良猫たちも 水鳥も                
                      薄い日差しを求めて
                               寒風を避ける




根木名川ー47
根木名川ー48
                                              (根木名川土手)      
              飛行機雲は 遠く高く 西へと流れ去り



11月の風ー7
11月の風-5
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11月の風ー6

          深紅に染めた夕焼けも 
               せわしなく色あせて行く



     桜舞散る春の風 新緑に吹く薫風 入道雲に潮風・・・
           季節の風にはそれぞれの代名詞
                 そして 十一月の風の代名詞は 「木枯らし」・・・
       十一月の風は 一年で一番寂しい風 





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 風  | 07:13:23 | トラックバック(0) | コメント(2)
時の彼方の姫と牛、「摩尼珠山松虫寺」(2)
前回の「松虫寺」の続きです。
今回は松虫姫を中心に紹介します。

松虫寺ー25
松虫寺ー24
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松虫寺ー26
松虫寺ー63
          
松虫寺の本堂の左奥には「松虫姫神社」があります。
こじんまりした神社ですが、鮮やかな色彩の装飾が施されています。


松虫寺ー20
松虫寺ー19

奥まった場所に「松虫皇女之御廟」があります。
石柱には文化九年(1812年)と記され、石柵の中には杉の大木の根元に積まれた
いくつかの岩に埋もれて、種字の書かれた板碑が1基立っています。


松虫寺ー21

傍らにある明治24年に建てられた「松虫姫碑」。

松蟲姫者盖貴人子也有故畧譜系唯存古稱矣天
平某年齢十四不幸有疾醫薬無効適有所夢因自
請遠至此地日夜祈七佛薬師而得瘉後留住似寶
亀五年二月十五日終焉墓而不墳有奮株是其表
也於是里民或恐後世其無以徴也乃相共謀遂樹
此碑以不朽之

と読みましたが、誤読があるかも知れません。

病が癒えて京に戻るところまでは前回に紹介しました。
その後の松虫姫について調べると、概略次のようになります。

松虫姫とは通称で、伝説の物語のころは不破内親王(ふわないしんのう)と呼ばれる
聖武天皇の皇女でした。
病が癒えた内親王は、やがて天武天皇の孫にあたる塩焼王と結婚します。
天平宝字八年(764年)には、夫の塩焼王が藤原仲麻呂の乱に加わって殺害されて
しまいますが、内親王とその息子の氷上志計志麻呂はなんとか死を免れました。
神護景雲三年(769年)、時の称徳天皇を呪詛して息子の志計志麻呂を皇位につけよう
としたと疑われ、内親王の身分を剥奪されたうえ、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)と
改名させられ、平城京内に住むことを禁じられてしまいます。
息子の志計志麻呂は土佐に流刑となってしまいました。
3年後の宝亀三年に、呪詛は冤罪であったことが判明し、内親王に復帰しましたが、
今度は延暦元年(782年)にもう一人の息子、氷上川継が謀反を起こそうとしたと疑われて
伊豆に流刑となり、内親王も淡路国に流されてしまいます。
その後、延暦十四年(795年)に和泉国に移されるなどしましたが、その後の消息は
定かではありません。

病のことと言い、その後の波乱の人生は、姫を悲運の人として語り継がれることとなります。


松虫寺ー27

松虫姫神社の参道脇には沢山の石仏が並んでいます。

松虫寺ー28
松虫寺ー65

嘉永元年(1848年)のこの仏様は、はじめは「馬頭観音」だと思いましたが、
中央の二手が馬頭観音に特有の「根本馬口印」(こんぽんばこういん)を
結んでいないので、ちょっと自信がありませんでした。

どうしても気になって後日もう一度確認のため訪れました。
頭上にあるのは馬の顔ではなく、獅子のような気がするからです。
と、すると、これは「愛染明王」ということになります。
左手に持っているのは金剛鈴に見えてきました。
どうやら「愛染明王」が正解のようです。


松虫寺ー29

出羽三山の名を記したこの石碑には、智剣印を結んだ大日如来が刻まれています。

・・・  「金比羅権現」・・・・・松虫寺ー30



松虫寺ー42
松虫寺ー60

寺を後にしようとした時、境内右手の奥の方に気になる建物を見つけました。
目を凝らして見ると「松虫姫霊」と書かれた扁額がかかっています。
門には太い竹竿が掛けられていて、人が中に入ることを拒否していますので、内部は
分かりませんが、姫にまつわる品々が収められているのでしょうか。


さて、ここで松虫姫が都に帰った後に、残されてしまった牛についても触れたいと思います。

松虫寺ー52

松虫寺、松虫姫神社から少し離れた場所に、「牛むぐり池」はありました。
寂しさと悲しさのあまり牛が身を投げた池です。
今はすっかり整備された調整池になっていて、過日の面影はありません。


松虫寺ー51
松虫寺ー53
松虫寺ー67

この辺りは千葉ニュータウンの外れ、池の向こうには西洋の城のような北総線の
「印旛日本医大駅」が見えています。
印旛日本医大駅には「松虫姫」という副駅名が付いています。


松虫寺ー54
松虫寺ー56

「牛むぐり池」の周りは広大な公園になっています。
その一角に松虫姫と牛のモニュメントがありました。
「印旛の地と松虫姫伝説」と題されたこのモニュメントは、鈴木典生氏の作品で、
平成15年にここに設置されました。


松虫寺ー57

悲しくも哀れな物語を知ってか知らずか、子供たちが元気に走り回っています。

私は松虫姫の物語より、なぜかこの牛に気持ちを移入してしまいます。
なにか哀れでしかたありません。

もう一度神社に戻り、姫とともに牛にも手を合わせました。

松虫寺ー35

松虫寺ー66

松虫寺は周辺の開発が進む中、細道の奥で、静かに伝説を抱えて建っています。


松虫寺ー58


              ※ 松虫寺  印西市松虫 7
                 北総線 印旛日本医大(松虫姫)駅 徒歩25分



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印西市の寺社 | 08:04:17 | トラックバック(0) | コメント(4)
松虫姫伝説の寺、「摩尼珠山松虫寺」(1)
松虫姫伝説の松虫寺(まつむしでら)は細い道の奥にひっそりと佇んでいました。

松虫寺ー8

「松虫寺」の山号は「摩尼珠山」、真言宗豊山派のお寺です。
天平十七年(745年)行基の開創で、開創時は三輪宗、後に天台宗に改宗し、
さらに現在の真言宗に改宗されました。

1270年の歴史と伝説を秘めた古刹です。

「三論宗(さんろんしゅう)は、仏教の宗派の1つで、インドの龍樹の中論・十二門論、
その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、
論を所依とする)である。空を唱える事から、空宗とも言う。その他、無相宗・中観宗・
無相大乗宗の呼び方もある。」
           (ウィキペディア 三輪宗より)


松虫寺ー1

松虫寺は松虫姫伝説で知られています。
あちこちに紹介されている松虫姫伝説は、それぞれ少しずつ内容が異なっていますが、
要約すると次のようになります。

奈良時代、時の聖武天皇の第三皇女、松虫姫(不破内親王)が重い病にかかり、天皇は
あらゆる手を尽くして治療を施しましたが、病は重くなるばかりです。
ある夜、姫の枕元に下総萩原郷の薬師仏が現れ、我にすがれと告げました。
万策尽きていた天皇は、藁をもつかむ思いで松虫姫を下総に向かわせましたが、牛の背に
揺られながら行く道中には数々の難儀が待ち受け、従者の多くは逃げ去って、一行が
萩原郷にたどり着いた時には、乳母の杉自と数人の従者だけになっていました。
姫は見つけた小さな薬師堂のかたわらに庵を結び、病の快癒をひたすら祈る日々を数年
過ごした後、ついに祈りが通じて難病が全快するという奇跡が起こりました。
ようやく都に帰ることになった姫は、一刻も早く帰るために馬で帰ることにし、すでに年老いた
乳母と牛をこの地に残して、村人たちに見送られて都へ帰って行きました。
乳母はその後も村人たちにいろいろな技術を教えて、この地に馴染んでいましたが、
姫と一緒に帰りたかった牛は悲しみのあまり自ら近くの池に身を投じてしまいました。
村人はその牛の心情を憐れんで、牛が身を投げた池を「牛むぐりの池」と呼んだそうです。
姫の快癒を喜んだ聖武天皇は、僧行基に命じてこの地に「松虫寺」を建立させました。
その後、松虫姫は運命に翻弄された不遇な人生を送りましたが、遺言によって松虫寺に
遺骨が分骨されました。


松虫寺ー2

手水盤には寛保元年(1741年)と記されています。
徳川吉宗の時代です。


松虫寺ー3

仁王門は享保三年(1718年)に改築されたと記録にあります。
どっしりとした質感のある建物です。


松虫寺ー4
松虫寺ー5
松虫寺ー6
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松虫寺ー7

左右に立つ仁王様は大きく、筋骨隆々です。
(金網の目が細かくてうまく写せないので、下に空いている小さな穴から写しました)


松虫寺ー9 延享四年献納の常夜燈

松虫寺ー10
松虫寺ー11

鐘楼は境内の端の目立たぬ位置にあり、自由に撞くことができます。
「南無七仏 薬師如来」
「一打鐘聲當願衆生」
「脱三界苦得見菩堤」等の文字が記され、
撞木の反対側に「摩尼珠山松蟲寺」と記されています。


松虫寺ー31

この本堂は寛政十一年(1799年)に建立されました。

ご本尊の薬師如来像はカヤ材の一本彫で、平安時代末期の作と考えられています。
国の重要文化財に指定されていて、中尊に薬師如来の座像を、両脇に三体ずつの
立像を配する七体からなっており、他には滋賀の「鶏足寺」(現在は廃寺)にのみあるという、
大変珍しいものです。
中尊座像は54.3センチ、六体の立像は78センチという小振りな仏様です。
木造薬師如来座像と薬師如来立像(千葉県教育委員会ホームページ) ⇒


松虫寺ー13

本堂の寺額には「瑠璃閣」とありました。


松虫寺ー61

絵馬には松虫姫と牛の絵が・・・


松虫寺ー14

本堂に掲げられているこの奉納額は、彩色が剥げてよく見えませんが、松虫姫が
下総へ向かう道中の出来事を描いたもののようです。
遠州で姫の一行を襲った山賊に、姫を乗せてきた牛が猛然と襲いかかって姫を
助けたという伝説を題材にしたのではないでしょうか?


松虫寺ー23本堂右奥にある瑠璃光殿


松虫寺12

六柱の神々を祀る六所神社。
その昔、国司はそれぞれの国内の神社を一宮から順に巡拝していましたが、
国府近くに国内の神を合祀した総社を設けてまとめて御参りを行えるように
したものが六所神社であると言われています。
千葉県内には市川と舘山に六所神社という名前の神社があるようです。


松虫寺ー36

風化が進んでいるこのお地蔵さまに記された年号は、宝暦七年(1757年)と読めました。


松虫寺ー33

墓地の入り口に立つこの宝塔に刻まれた年号は、安永九年(1780年)と読めます。


松虫寺ー34
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松虫寺ー45

墓地には、元和、寛文、宝永、元文、宝暦、天保などの年号が刻まれた古い墓石が・・・。


松虫寺ー35
松虫寺ー64

本堂の隣には松虫姫神社があります。
小振りなお社ですが、華やかな色彩に彩られています。


松虫寺ー38


千葉ニュータウンの開発に取り残されたような地域の一角に松虫寺はありました。
次回は松虫姫伝説を中心に紹介します。




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

印西市の寺社 | 07:03:59 | トラックバック(0) | コメント(4)
穏やかな時間が流れる無人駅~久住駅
久住駅の開業は明治35年、成田鉄道株式会社により明治30年に成田滑河間が開通
した5年後のことです。

久住駅ー1

久住駅は成田市内で唯一の無人駅です。

以前は現在地より200メートルほど成田駅寄りにありましたが、昭和52年に移転しました。
最近のデータはありませんが、2006年の乗車数は238人でした。
周辺の状況から、現在もそれほど変化はないように思えます。


久住駅ー2

改札口前の待合室。
ベンチがあるだけの殺風景な景色です。


久住駅ー4

2009年にSuicaが設置されました。

久住駅ー3
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久住駅ー34
Suicaのとなりにあった「乗車駅証明発行機」です。
Suicaを持っていない人は、この発行機から切符の形をした「乗車駅証明書」を取り出し、
降車駅で精算するわけです。
裏面は磁気化されていませんから、下車駅の窓口で直接精算することになります。


久住駅ー5

2つあるホームは跨線橋で結ばれていますが、番線の表示はありません。


久住駅ー6
久住駅ー7

銚子行きの電車が入ってきます。
ホームに人影は無く、この電車に乗る人はいません。
降りた人が一人、迎えに来た車に乗って走去ると、また駅前には人影が無くなりました。


久住駅ー8

次の駅は滑河駅です。
左に分かれて行くように見えるポイントがありますが、昔の引き込み線だったのでしょう、
今はすぐにレールは消えてしまいます。
 滑河駅 ⇒


久住駅ー10

向かいのホームは上りのホームです。
小さな待合室がありますが、成田行きの電車が来るまでは20分近くありますので、
ホームにはまだ誰も見えません。


久住駅ー11

見えている踏切は「飯岡踏切」。
成田方向は線路が単線になるまでの距離が長くとられています。
貨物列車がすれ違うために必要な長さだそうです。


久住駅ー13

この駅から成田空港に向かう外人観光客がいるとは思えませんが、ご親切にも英語での
乗換案内が貼られていました。
成田駅で乗り間違えて、この駅に来てしまう外人観光客がいるのかもしれません(?)ね。


久住駅ー15
久住駅ー16

跨線橋の上から下り方面を見ると、遠くにちらりと人影が見えました。
カメラの望遠で見ると、ゴルフ場の一角が見えていました。
紅葉のコースを、ここでものんびりとゴルファーがプレイしています、


駅前は宅地造成地が広がっていますが、住宅はほとんど建っていません。
ちょっと歩いてみました。

久住駅ー25

10分ほど歩き回って、「永福寺」に辿りつきました。
真言宗智山派のお寺で、山号は「飯岡山」、ご本尊は「薬師如来」です。


久住駅ー26

らしくない本堂ですが、脇にある木彫りの仏様が素晴らしい迫力でした。

久住駅ー27
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久住駅ー28
風化が進み、虫に食われた無数の小穴、ひび割れた額・・・
でも、お顔は穏やかに笑っておられるように見えます。

久住駅ー31

小振りな板碑は相当な年月を経ているような趣があり、中央の板碑には
種字らしきものが刻まれています。

 延宝、天和、宝永、寛政等の文字が・・・久住駅ー29
久住駅ー30
久住駅ー33

帰宅後に調べたところ、寺伝ではこの「永福寺」は天平宝字七年(763年)に鑑真和上に
よって創建されたとされているようです。(成田の歴史散歩 倫書房 小倉博著 P260)
以前紹介した吉岡の大慈恩寺も鑑真和上が天平宝字五年(761年)に創建したという
説があり、その真偽はともかく、時間的にも地理的にも話はつながってきます。
もっとも、鑑真和上が亡くなったのは763年と伝えられていますので、ちょっと無理が
あるかも知れませんね。
 大慈恩寺 ⇒

そろそろ上りの成田行き電車が来るころです。
急いで久住駅に戻ります。

久住駅ー12
久住駅ー14

ホームには乗客が3人、のんびりと電車を待っていました。


久住駅ー17
久住駅ー18

乗車したのは3人、下車した人が1人。
通勤・通学時以外はいつもこんな感じなのでしょう。


久住駅ー23

近所の人が世話をしているのでしょう、駅舎の入り口に寄せ植えの鉢がひとつ・・・


久住駅ー19
久住駅ー20
久住駅ー22
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久住駅ー21

ホームにベンチでもあれば、ちょっと日向ぼっこでもしたい気分です。

柔らかな日差しが注ぐ久住駅には、穏やかな時間が流れています。


久住駅ー35


                   ※ 久住駅  成田市飯岡19-1
                      上りの隣駅は成田、下りの隣駅は滑河



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鉄道・駅 | 07:45:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
何の因果か塀の中、「東峰神社」
東峯神社ー31

側高神社のある空港の第2ゲートを出て、一般道を佐原方面に向かう県道44号線に入る
抜け道の途中に「東峰神社」はあります。
取香の側高神社 ⇒

この抜け道に面して空港反対派の土地が残っており、一時は空港反対闘争の象徴的な
場所となっていたこともあって、常に機動隊の監視下にあります。
利用するのは地元住民や空港関係者に限られているので、あまり交通量はありません。
この道は第2滑走路への誘導路の真下をくぐるので、警備上の問題から道の両脇には
高い塀が続いています。


東峯神社ー30

この塀に囲まれた一角に「東峰神社」と書かれた小さな標識が立っています。
「この先行止まり」とも書かれていて、入って行く狭い道にも高い塀が・・・
興味はあるものの、いつも素通りしていました。


東峯神社ー1

今回は思い切って「東峰神社」を訪ねます。

神社への道は曲がっていて先が見えません。
見えるのは威圧感のある塀のみで、奥には機動隊が待っているかも知れません。
入って行くにはちょっと勇気が要ります。


東峯神社ー2

圧迫感のある塀の道を100メートルほど進むと、「東峰神社」はありました。


東峯神社ー3

「東峰神社(とうほうじんじゃ)」のご祭神はちょっと珍しい「二宮尊徳」。
以前、津田沼町(現習志野市)にあった「航空神社」を昭和28年に遷座したもので、この
「航空神社」は民間航空のパイオニア、伊藤音次郎氏が昭和12年に伊藤飛行機研究所内
に空難者を祀るために建立した神社です。
戦後伊藤氏は成田市の東峰地区に入植、航空神社も移設されて「東峰神社」となりました。
戦後になってから入植が行なわれた東峰地区には神社がなかったため、ここが住民たちの
祈りの場所となってきました。


東峯神社ー4

手水盤に水はありません。


東峯神社ー5

「皇紀二千六百年記念」と記された板碑。
「皇紀」とは神武天皇の即位紀元で、2600年は昭和15年でした。
社友會とも記されていますから、多分伊藤飛行機時代に建立されたものを移設
したのでしょう。


東峯神社ー22

いつのころに載せられたのか、10枚ばかりの1円玉が頭上で錆びついている狛犬は
困ったような、怒っているような表情です。

東峯神社ー6
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東峯神社ー7
左の狛犬はこんな場所に嫌気がさして逃げ出したのでしょうか・・・。

東峯神社ー9
東峯神社ー21

「東神社」と記された石柱の裏側には、セメントが埋め込まれた
「航空神社」の文字が・・・
津田沼町から持ってきて、裏側に新しく「東神社」と彫ったのでしょうか?
それにしては石柱が新しいような気がします。
ここに遷座した時は「航空神社」のままで、しばらくしてから入植者たちの拠りどころと
なるよう、地名をとって「東峯神社」に変えたのかもしれません。

東峯神社ー14

「東神社」か「東神社」か・・・
「峯」とあるのはこの石柱のみで、この辺りの地名は「東峰」、鳥居の額束も「東峰」です。


航空博物館ー21

ちなみに、こちらは航空科学博物館の敷地内にある「航空神社」です。
航空科学博物館 ⇒


東峯神社ー10
東峯神社ー11

質素な社殿には神額もありません。
千木は水平に切られ、堅魚木は三本です。
二宮尊徳は男性ですが、千木は水平に切られて女性神を表しています。
例外もあるようですし、堅魚木は男性神の奇数なので、まあ、堅いことは言わない、言わない。


東峯神社ー13
東峯神社ー17

2基の常夜燈の間はコンクリートで舗装してあります。
2004.4.15と棒で落書きしたような日付が残っています。


東峯神社ー24

ぐるりと神社を囲む塀のあちこちに、金網を張った覗き窓のような場所があります。
狭い神社への道に入らずに、空港の敷地側から監視できるような工夫です。


東峯神社ー18
東峯神社ー15
東峯神社ー25

神社の屋根をかすめるように第2滑走路に着陸する旅客機が飛んでいます。
轟音が小さな社殿を襲います。

東峯神社ー27
・・・・・・・・・・・・・・・東峯神社ー28
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東峯神社ー29
明け方に神社の入り口に立つと、九十九里浜側から飛んでくる旅客機が、この角度で
数分おきに侵入してきます。


東峯神社ー26
東峯神社ー23
東峯神社ー19

本来ならば空の安全を祈願する象徴的な神社として、人々の信仰を集めたであろうに、
何の因果か、空港敷地内にポツンと取り残され、訪ねる人もいない「東峰神社」。
境内に咲く山茶花の花が健気に咲いています。


東峯神社ー32


             ※ 東峰神社 成田市東峰
                空港第2ビルから千葉交バス 栗源行き 新田下車徒歩2分
                空港第2ビルから徒歩約45分
                バスは本数が少なく、徒歩では歩道が整備されていないので、
                車で行かれることをお勧めします。  特に駐車スペースは
                ありませんが、何とか2台程度は止まれます。



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遠山村の寺社 | 08:51:06 | トラックバック(0) | コメント(4)
根木名川 ~水源から成田橋まで
今回は成田市内を流れる根木名川(ねこながわ)を、源流から国道51号線沿いの
中流域に向かって辿ってみます。

根木名川は富里市の根木名から成田市内を流れ利根川に注ぐ、長さ17.7Km、
流域面積は86.8平方キロの1級河川です。


根木名川ー1

根木名川の水源地は富里市の根木名にあります。
地図を見ると富里中央公園あたりから流れ始めています。


根木名川ー2
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・根木名川ー3

富里中央公園は、野球場や四季の森と名付けられた森、湿性植物園などがある
広い公園で、富里市役所に隣接しています。


根木名川ー4

湿性植物園の奥まで進むと、大きな岩を組み上げた場所があり、
岩の間からかすかに水が湧き出しています。


根木名川ー5

どうやらここが水源地のようですが、水源を示す説明板などはありません。


根木名川ー6

この岩組みの先は土地が高くなっており、住宅が並んでいます。
上の住宅地や林の下を流れた雨水が、この岩組みの下から湧き出しているようです。


根木名川ー7

水量はわずかですが、かすかに流れは感じられます。


根木名川ー8

誘導された水が溜まる池には沢山の鯉やメダカが泳いでいました。


根木名川ー9

根木名川ー10根木名川ー11
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
湿性植物園を水路に沿って進むと、湿原が広がっています。
一面の葦原で、水面はほとんど見えません。

この湿原の先は高い土手になっていて、その上は国道296号線です。
国道に上って土手の反対側を覗きましたが、川は見えません。
地図にもこの辺りには川を示すものが見当たらず、数百メートル離れた旭が丘ニュータウン
のあたりから姿を現わします。


根木名川ー49

ニュータウンの下にある遊水地です。


根木名川ー50
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・根木名川ー52
足下を流れているはずなのですが・・・


根木名川ー53

下流に向かってしばらく同じような景色が続きます。
根木名川は田んぼの向こうの丘の下を流れているはずです。


根木名川ー12
根木名川ー13
根木名川ー14

浅間神社の近くまで下ってくると、川幅は狭いものの、流れはしっかりとあり、
川らしい景色になってきました。
傍らにお地蔵さまが立っています。
「子育延命衹願地蔵尊」と書かれています。


根木名川ー32
根木名川ー31

根木名ニュータウンを過ぎ、しばらく進むと「ほたる橋」がありました。
このあたりには初夏にホタルが舞うのでしょうか?
最近は農薬や河川の護岸工事の影響で、めったにホタルを見ることがなくなりました。


根木名川ー33

この川の景色を見ると、まだホタルはいるかもしれませんね。


根木名川ー26

さらに下流に向かって進むと、「潮音寺(ちょうおんじ)」があります。
潮音寺は日蓮宗のお寺で、寺伝によれば大同年間(806~810)の創建という
大変古いお寺です。


根木名川ー27
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・根木名川ー29
潮音寺ー24
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・根木名川ー30

手入れの行き届いた境内には「ボケ封じの観音様」や「慈母観音」「水子地蔵」、
そしてペット霊園などがあり、「ぼけ封じ関東三十三観音霊場第一番札所」になっています。
ボケ封じにも関東三十三観音霊場があるなんて、初めて知りました。
調べてみると、千葉県に8ヶ所、東京都に2ヶ所、埼玉県に10ヶ所、茨城県に3か所、
群馬県に2ヶ所、栃木県に8ヶ所と、確かに33ヵ所ありました。
結願寺は茨城県稲敷市の「無量寿院逢善寺」です。


根木名川ー21
根木名川ー22

志茂橋を渡った対岸は成田市です。
まだ流れは小さく、長沼や荒海地区を流れる根木名川は想像できません。


根木名川ー15

志茂橋を渡って少し坂を登ると「茲眼寺」があります。
無住のお寺で、県の宗教法人名簿や成田市のリストにもその名は載っていません。


根木名川ー16
根木名川ー17

寺額には「東照峯」とあり、本堂の内部には埃まみれの厨子がありました。


根木名川ー19
根木名川ー20
草と苔に埋もれた仏石からは、かろうじて寛文、元禄、享保、嘉永などの年号が読めます。
350年近い歴史が埋もれているということでしょうか・・・


根木名川ー23
根木名川ー24

再び志茂橋に戻りましたが、ここからは成田市側を進みます。


根木名川ー39

志茂橋から見えていた東関道はずっと後ろになりました。


根木名川ー38

小さな支流の合流もあります。


根木名川ー40

空港に向かう京成電車が根木名川を渡って行きます。


根木名川ー35
根木名川ー36

成東橋のたもとには2体のお地蔵さま。
文化十四年(1817年)と記されています。

この辺りから根木名川の両岸に遊歩道が整備されています。


根木名川ー42

今では想像もつかない流れですが、かつてこの根木名川は度々氾濫して、流域に大きな
被害をもたらしていました。
昭和7年に本格的な改修工事が行われましたが、9年間にわたる工事は十分な成果を
上げられず、昭和16年にも改修工事を行ったものの、戦時中であったため物資不足から
これもうまく行きませんでした。
『1957年6月、台風5号により根木名川が決壊した。1958年建設省から準用河川の
指定を受け、3億6000万円の国費投入が決定、翌年には根木名川用水対策協議会が
発足したものの、中小河川改修事業のため整備は遅れていた。その後、新東京国際空港
(成田国際空港)が設置されることになると、1968年より社会基盤整備の一環となる
空港関連事業として、根木名川と支流の荒海川・取香川・小橋川の改修が行われた。
その結果、許容量は30年前の約10倍となり、氾濫する流域が大幅に減少した。』

(「成田の地名と歴史」 成田市発行 P352)


根木名川ー41
・・・・・・・・・・・・・根木名川ー44
 魚道が設けられています 根木名川ー43



根木名川ー45

遊歩道の傍らには四阿(あずまや)が設けられています。




清心橋の向こうに国道51号線の成田橋が見えます。
この辺りから下流の吾妻橋へは3月末に「根木名川の春」で散策しました。
根木名川の春 ⇒


根木名川ー46

昼前に源流を離れたのですが、もう夕闇が迫ってきました。
川幅が広くなった川面も黒く沈んで見えます。
根木名川の上空を、彗星のような飛行機雲が夕焼けに向かって流れて行きました。





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 川  | 09:03:50 | トラックバック(1) | コメント(0)
国道脇に千年の歴史が眠る、円融寺
円融寺ー1

「円融寺」は寺台インターのすぐそば、交通量の多い国道51号線沿いにあります。
天台宗のお寺で、山号は長栄山。
ご本尊は「釈迦如来」です。


円融寺ー4

『「千葉県印旛郡誌」では永禄十一年(1568)の開祖としているが、「佐倉風土記」には
「永観中、顗栄法印開基」とあり、このことから、平安時代中期の永観年間(九八三~八五)
に、顗栄なる僧によって開基されたが、一時衰微し、永禄十一年に中興開山となったものと
考えられる。』

(「成田 寺と町まちの歴史」 聚海書林 小倉 博 著 P267)

古いお寺はたくさんありますが、千年の歴史があるお寺となるとなかなかありません。
江戸時代には近隣に多くの末寺を有していたようで、土屋の薬王寺もこの寺の末寺です。
 薬王寺 ⇒


円融寺ー2

門前に並ぶ墓石や石仏群。


円融寺ー3

この如意輪観音様はお顔がありません。
削られたのか、風化で欠落したのか・・・。
元禄十一年(1698年)と記されています。


円融寺ー5

境内に入ってすぐ左に建っている宝塔。
相当古いもののようですが、残念ながら文字は読めません。


円融寺ー6

この手水盤も古そうですが、年代は分かりません。


円融寺ー7

この「讀誦普門品供養塔」には一萬巻とか六十六巻とかの巻数がありません。


円融寺ー10
円融寺ー9

小さな板碑が並んでいます。
私には読めませんが、種字が刻まれていて、何やら由緒ありそうなので帰宅後調べました。

『本堂の手前左側に、元徳三年(1331)銘と暦応四年(1341)銘の下総板碑が建っている。
元徳三年のものは、阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の弥陀三尊(「阿」を入れないで読む
ことが多い)の種字を刻んでいることから、弥陀三尊種字板碑と呼ばれる。一方、暦応四年
のものは阿弥陀如来の種字だけなので、弥陀種字板碑となる。』

(「成田の史跡散歩」 崙書房出版 小倉 博 著 P267)


円融寺ー11

2基の板碑の奥には「奉讀誦普門品一萬巻」の石碑が建っています。


円融寺ー17

板碑に並んで立っているこの仏様は宝永年間(1704~10)に造られたものです。


円融寺ー8

板碑の裏側の木陰にはひっそりと立つ菩薩像がありました。


円融寺ー12

板碑の向かい側にある小さな池。


円融寺ー14
円融寺ー24

本堂には目立った装飾はありません。
この本堂に納められているご本尊の「地蔵菩薩像」に関して、興味ある記述を見つけました。
『「年代日記」という古書に、同寺の地蔵菩薩像は江戸の真田采女の守り本尊で、
宝永年間(一七〇四~一一)に采女逝去のとき、円融寺住職定順が有縁の衆なるに
より同寺に収まったもの、といった記載がある。』
『この真田采女とは、一〇〇〇石の旗本真田信音で、真田幸村の兄で関ヶ原の合戦
の折に徳川方についた真田信之の、曾孫にあたる人物である。』

(成田の史跡散歩 小倉 博 著 倫書房出版 P266)

歴史は意外な人物や事件を結び付けてくれます。


円融寺ー15

墓地の一角に「竪者~」と刻まれた墓石群がありました。
この「竪者」(りっしゃ)という呼称は土屋の薬王寺にもありました。


円融寺ー18

右の仏様の制作年代は分かりません。
左の「馬頭観世音菩薩」は享和二年(1802年)の制作です。


円融寺ー22
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・円融寺ー23
国道に面していますので車が引っ切り無しに通ります。
寺台インターを佐原方面に向かう下り口のすぐそばにあり、何本もの道が交差する
場所のため、歩くには注意が必要です。


円融寺ー20
円融寺ー21

国道の騒音が届かない本堂奥の墓地には赤トンボが群舞しています。
千年以上の長い歴史が眠っている円融寺ですが、その歴史を感じさせるものが
意外に少ないお寺でした。


円融寺ー25



             ※ 「長栄山円融寺」 成田市山ノ作1091
               京成成田駅より千葉交通バス 佐原粉名口行き 山ノ作下車2分



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遠山村の寺社 | 07:19:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
関東三大檀林~日本寺(2)
日本寺ー27

前回に続いて日本寺を紹介します。
関東三大檀林~日本寺(1) ⇒


日本寺ー30
日本寺ー33日本寺ー34
・・・                 ・・・
本堂の奥を左に進むと多くの鳥居とともに三つのお社が見えます。
中央にあるのが「妙見七面宮」で、この地方の豪族・千葉家の守護神です。
檀林に学ぶ学僧にとっての学業成就の神様でもあったようです。
仏教を学ぶ僧侶の卵が、学問を修められるよう神様にお願いする・・・
日本人の宗教観のおおらかさが表れているようです。

明治42年の「境内全景図」によれば、妙見宮は「當山鎮守」と書かれています。


日本寺ー31 享保九年(1724年)の常夜燈
  寛文十年(1670年)の常夜燈 日本寺ー32


日本寺ー35

妙見宮の鳥居の脇にある小さなお社。
鰐口も小さいものですがとても良い音がしました。
手前の常夜燈に七面大明神と刻まれています。


日本寺ー36

右手にも新しいお社がありました。


日本寺ー37
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本寺ー44

妙見宮を挟んで左右に二つの神社が並んでいます。
豊田稲荷と岡田稲荷で、夫婦稲荷と呼ばれ、家内安全・五穀豊穣・商売繁盛、
除災得幸の神様です。

右側にある豊田稲荷の石の鳥居は手前から平成23年、昭和7年、大正10年に
寄進されたと記されています。
左側の岡田稲荷の石の鳥居は平成13年、昭和7年、大正10年と記されています。


日本寺ー39
日本寺ー40

豊田稲荷の前のキツネの足元には子キツネがいました。


日本寺ー45
日本寺ー46

岡田稲荷のキツネは毬にじゃれているようなポーズです。
大正5年と刻まれています。


日本寺ー47

空の祠には寛政元年(1789年)と刻まれています。


日本寺ー41

豊田稲荷と岡田稲荷の間(妙見宮の裏手)には、数えきれないほどの
小さなキツネの置物が納められています。


日本寺ー49
日本寺ー52
日本寺ー53

境内に隣接して公園が整備されています。
けっこうな広さがあり、格好の散策場所です。


日本寺ー50

この一帯は「フクロウの森」と名付けられていて、フクロウをはじめ、キジ、ヒヨドリ、
コジュケイ、ホオジロ、など、たくさんの野鳥を観察することができます。


後日、日本寺の入り口に大きな顕彰碑があった渋谷嘉助の旧宅を探してみました。
国の指定文化財だということを知ったからです。

日本寺ー56
日本寺ー57
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本寺ー58

日本寺からは少し離れた場所に旧宅はありました。
重厚な煉瓦造りで、個人の住まいとしては異色の建物でした。
説明板などはなく、保存状態も良くないようで心配です。
渋谷嘉助旧宅(千葉県教育委員会ホームページ) ⇒

渋谷嘉助については「多古町まちづくりテラスの会」のブログに書かれているものを
見つけましたので引用します。
『大正14年、渋谷財団法人を設立。基金10万円の利子は疲弊している村財政予算に
組み入れられ、村民税の軽減に役立ったし、村出身の青少年育英資金としても多額の
寄付をする。嘉助は実業家であったが、社会公共に事業も忘れなかった。
岩手県の石灰石採石事業をすすめたころのことで、大船渡湾に珊琥島(さんごじま)
という風光明媚な島があり、この島を嘉助は早くから手に入れていたが、水産物の宝庫で
ある水域が島の周囲にあるところから、この島を挟む両岸の大船渡と赤崎両村の漁民は
長い間島を挟んでの争いが絶えなかった。かねてよりこれを心痛していた嘉助は珊琥島を
両村の共有物として活用するように寄付しようと村民の代表者に提案した。狂喜感激した
両村民。こうして長い間の争いは解消され、明るい漁業の場が生まれたのである。』


珊琥島は無人島ですが、国指定の名勝となっています。


日本寺ー62

もしやと思って日本寺に向かい、気になっていた参道入り口の閉ざされたお墓を
覗いてみました。
渋谷嘉助のお墓が日本寺のどこかにあるはずだからです。


日本寺ー63
日本寺ー64

何とか中を確認したくて、顕彰碑側から裏に回ると生垣の切れ目があり、
そこからは中が良く見えます。
立派な墓石に「従六位 渋谷嘉助」とありました。
地元に尽くした嘉助は特別な場所に葬られていたのですね。


日本寺ー15
日本寺ー54

学問の場、研鑽の場として栄えた日本寺。
境内に佇んで目を閉じると、森の奥から学僧達の読経や議論する声が
かすかに聞こえてくるような気がします。


日本寺ー61



            ※ 正東山日本寺  香取郡多古町南中1820-1
               JR成田駅より JRバス八日市場行き 南中下車 徒歩10分
               東関東自動車道成田インターより30分 駐車場有

            ※ 渋谷嘉助旧宅  香取郡多古町北中91
               JR成田駅より JRバス八日市場行き 南中下車 徒歩約30分
                                      日本寺より徒歩約20分


               
  

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多古町の寺社 | 07:10:16 | トラックバック(0) | コメント(2)
関東三大檀林~日本寺(1)
「日本寺(にちほんじ)」は多古町にある名刹です。

日本寺ー51

元応元年(1319年)に中山法華経寺(現・市川市)の日祐上人によって開山され、
「高祐山東福寺」と称していましたが、約270年後の天正十九年(1591年)に
「正東山日本寺」に改められました。

慶長四年(1599年)には僧侶の養成機関である中村檀林が開かれ、
最盛期には36の学坊に千人近くの学僧が学ぶという全国有数の学問所となり、
小西檀林(現・大網白里市正法寺)、飯高檀林(現・匝瑳市飯高寺)と並んで
関東三大壇林と称されました。
学坊を東西に分け、勉学を競い合い、毎年春と秋には宗教論議を戦わせて
多くの聴衆を集めたそうです。
檀林は明治5年の学制発布によって廃檀となるまで、270年以上続きました。


日本寺ー1

日本寺の入り口には、曲がりくねった県道に面して「南無妙法蓮華経と刻まれた
大きな石柱が建っています。


日本寺ー2

石柱に並んで大きな石板があり、「徳育風振」と大きく刻まれた下にびっしりと
文字が記されています。
雑木や篠竹に覆われて近づけず良く読めませんが、地元出身の実業家で
地域振興に尽くした渋谷嘉助(1849~1930)の顕彰碑のようです。
昭和3年9月の建立です。


日本寺ー3

顕彰碑の後方の林の中は墓地になっていて、木々の間に点々と墓石が連なっています。


日本寺ー5
日本寺ー4

整然と墓石が並んでいる一角は、歴代の住職のお墓のようです。
それぞれ第○代と記され、慶長、万治、延宝、元禄、享保、元文、寛保、延享、宝暦、明和、
安永、天明、寛政、享和、文化、天保、慶応、・・・と、ずいぶんと昔の年代が刻まれています。
その歴史の流れ、重みに圧倒される思いです。


日本寺ー6
日本寺ー7

入り口の石柱まで戻って、参道に入ると、何やら山門のような建物が見えます。
塀に囲まれて近づくことができません。
ぐるりと回って裏側から覗くと、木々の間から立派な墓石や宝塔のようなものが見えます。
偉いお坊さんのお墓なのでしょうか?


日本寺ー8

参道の途中に数基の古い墓石が建っていました。
左はこの寺を中興した第13世「賢聖院日俒聖人」のもので、説明札には
日俒は中山法華経寺より宗宝の三尊像を奉持して入山したと書かれています。
右は中村檀林の廃檀後に現在の本堂等を再建した第331世「龍妙院日慶聖人」のもので、
中村檀林の廃檀後に現在の本堂等を再建しました。
特に物理的に功績のあった聖人と言うことなのでしょうか。
他に234世日紀上人、332世日壽上人、335世日専上人の墓石が並んでいます。


日本寺ー9

参道の両脇にはアジサイが植えられています。
その数、8千本と紹介されていますから、シーズンには素晴らしい眺めでしょうね。
あじさい寺と言われていることも納得できます。


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参道を大きく左に曲がると山門が見えてきました。
この山門は多古町の指定文化財になっています。

説明板にはこう書かれています。
『切妻造り、トタン葺(もと茅葺)の四脚門。軒は二軒の疎棰で妻飾りに三ッ花懸魚を
つけている。』
『木割が雄大で角柱の面取りも大きく、構架も簡潔で、装飾も少なく、柱上につけた
頭貫鼻の角度、その曲線、礎盤と柱経との比率関係や、藁座の施工等に桃山時代から
江戸初期の手法がみられ、注目すべき建造物の一棟といえよう。』


山門から本堂まではまっすぐな道が150メートル位続いていて、両側は杉並木です。


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山門の扁額は本阿弥光悦の筆になるもので、日本三額の一つと言われています。
本阿弥光悦(1558~1637)は、近衛信尹、松花堂昭乗と並んで「寛永の三筆」と
言われた名筆家です。
本阿弥光悦 ウィキペディア ⇒

実は、この扁額はレプリカで、本物は本堂に納められています。


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手水盤は明治38年に寄進されたもので、中央に身代わり観音が置かれています。


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鐘楼は享和三年(1803年)の建立で、町の指定文化財になっています。
『入母屋造り、銅板瓦棒葺、扇棰の二軒で妻構架は紅梁蚕股式に組み、蕪懸魚をつけ、
下層に袴腰をつけた鐘楼』
 (説明板より)


日本寺ー20

この多層宝塔の建立年代は不明ですが、土台部分は昭和59年に改修した
記録が記されています。


日本寺ー23

一切経堂は説明板によれば𣴎応三年(承応のことと思われます・1654年)に建立され、
最近大幅な改修が加えられました。
約6千巻の経書がおさめられていましたが、今はわずかしか残っていないと書かれています。


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日本寺ー25  
本堂の昇り口左右に置かれている木製の狛犬。
檀林時代の講堂の壁面に掛けられていたものだそうです。


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「正東学庠」と書かれたこの扁額は本堂の正面に掲げられています。
庠はまなびやという意味です。


日本寺ー28

この石柱には「奮 中村檀林正東山日本寺」と刻まれています。
奮は羽ばたくという意で使われているのでしょうか。
中村壇林には「観月庵」「寂光庵」「鳳林庵」「浄心庵」「真如庵」「精進庵」「摂心庵」等、
東西36の学坊のほか多くの付属施設が点在し、境内は学究の僧であふれていた
様子が想像できます。


日本寺ー27

廃檀とともに消えた多くの学坊の跡は、いまは深い森となり、学僧達の声は消えて
本堂の周りには静かな時間が漂っています。


          ※ 日本寺には紹介したいものがまだまだあります。
             次回はこの続きを書きます。






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多古町の寺社 | 07:30:32 | トラックバック(1) | コメント(2)
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