
「伝承では創建は奈良時代の神護景雲年間といい、また当社では助崎郷の大鎮守で、
千葉一族の助崎信濃守胤信の信仰厚く社殿を改築したという。」
「香取郡誌では『助崎城主大須賀胤信の信仰殊に厚かりしと曰ふ』とある。」
(下総町史 近世編 P414)
神護景雲年間とは西暦767年~770年の間ですから、1250年近くの昔です。

鳥居の手前に風化が進んだ石仏がありました。
杉の大木の根元に寄りかかるように立っています。
かすかに読める文字は、「西 なめか○(わ?) 東 おゝす○(が?)」のみですが、道標を
兼ねていたようです。

滌水と刻まれた手水磐。
「滌(じょう)」とはあらう、すすぐという意味です。

拝殿と本殿は参道とは直角の方向を向いて建っています。
ご祭神は「息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)」「品陀和気命(ほんだわけのみこと)」
「大鷦鷯命(おおさざきのみこと)」です。
この組み合わせ、どこかで見たことがありませんか?
そう、西大須賀の八幡神社と同じなのです。
(「品陀和気命」は古事記での表記ですが、日本書記では「誉田別命」と記されています。)


「江戸時代は宝積寺が別当寺であった。 また社地は文禄三年(一五九四)の検地で
縄除地とされた。 また社殿は三間四方で、名古屋の神社中最大であった。」
(下総町史 近世編 P414)
縄除地とは年貢を免除された土地のことです。
現在の姿からは、名古屋地区で一番大きな神社であったことは想像できません。
「名古屋字塔之前にあった。若宮山と号する天台宗の寺で等覚院の末。 天明
六年の村差出明細帳によれば、境内は除地で村内の八幡宮の別当寺であった。」
(下総町史 近世編 P408)
この宝積寺は今は廃寺となっています。

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質素ですが重厚な感じがする本殿には、沢山の「前垂れ締め」が掛けられ、何かの神事で
使われたのでしょうか、藁で造られた動物やいろいろな造り物が供えられています。


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参道の右手にある稲荷神社。
真裏には「稲荷神 菅原神」と彫られた、傾いた石板が。

稲荷神社の傍には「青面金剛」像があり、並んで立つ石碑には寛政十二年(1800年)の
紀年銘が刻まれています。
力強く彫られているので、200年以上も経っているのに遠くからでも読めます。


青面金剛は三匹の猿が支えていますが、足元には鶏のようなものが見えます。

「稲荷神社」、「石板」、「青面金剛」の位置関係は写真のようになります。

本殿の横にある「天満宮」。
小さいながらもしっかりとした造りの鳥居があり、頭を下げないとくぐれません。


このスダジイの古木は満身創痍です。
大きな穴がいくつも開いて、何かが棲み付いていそうです。
江弁須の正蔵院やJR成田駅前、西参道の埴生神社や船形の薬師寺にも、シイの古木が
ありましたが、本当に生命力の強い木です。
江弁須の虚空蔵様~正蔵院 ⇒
歌舞伎役者が舞うJR成田駅東口 ⇒
新緑の三ノ宮埴生神社 ⇒
昔の光いまいずこ-薬師寺 ⇒



良く知られた「西大須賀の八幡神社」から、忘れられたようなここ「名古屋の八幡神社」まで、
「八幡神社」は各地に存在します。
身近な場所にある「八幡神社」を訪ねれば、この「名古屋の八幡神社」で見つけたような
発見があるかも知れませんよ。

※ 「八幡神社」 成田市名古屋678
JR滑河駅から徒歩約50分
駅から循環バスがありますが本数は少ないので注意が必要

「須賀神社」は安政年間に社殿が全焼したため縁起が残っていませんが、
仁寿三年(853年)に創建されたと伝えられる歴史ある神社です。
ご祭神は「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」。

『「助崎の天王様」と呼ばれ、近隣のみならず常陸方面からも信仰を集めている。』
(成田市発行「成田の地名と歴史」P285)
この扁額もこのことを証明しています。
それにしても50年連続しての参拝とは驚きです。


拝殿と周辺は荒れた感じです。
木は朽ち、防火桶には大きなひびが、境内も雑草が・・・。



本殿は重厚な感じのする造りで、屋根に千木や堅魚木(鰹木)はありません。

物置でしょうか、これも大分傷んだ建物です。


本殿の裏に窪地があり、小さな祠があります。
観音堂のようです。
周りは雑草が生えて、最近人が通った形跡はありません。


境内には数本の大木が、太い根を張って立っています。

7月の祭例は「助崎の祇園」と呼ばれ、薙刀を先頭に御輿が練り歩きます。
(成田市ウェブサイト リンク 助崎の祇園」 ⇒)

鳥居は明治44年建立されました。
歴史ある神社の荒れた姿は寂しい限りですが、ここにも少子高齢化の波が
押し寄せ、地域住民と神社仏閣との絆を細くしているような気がします。

道を挟んで細い路地がありました。
奥に何やら柱のようなものが見えます。

「妙光山清龍寺」と浮き彫りされた木柱が立っていました。
通りからは見えませんが、お寺です。

南妙法蓮華経と記された石碑。
元文四年(1739年)の建立です。


「清龍寺」は弘治二年(1556年)に建立された日蓮宗のお寺で、山号は「妙光山」。
「助崎大須賀氏の一族である大須賀胤朝(法号は常顕日道または日清幽儀)が日蓮宗に
帰依し、「大須賀家蔵大須賀系図」によれば1556(弘治2)年、助崎城跡に下に建立した。」
(成田市発行 「成田の地名と歴史 P287)

境内の一角に古い墓石が並んでいます。
宝永、享保、宝暦、安永、寛政など、古い年号が刻まれています。

無住のお寺のようです。
境内はがらんとしています。

本堂脇の墓地に並ぶ墓石には、享保、安永、嘉永などの年号が記されています。

頭部が落ちた石塔の台座には「奉 蓮華経」の文字だけが読めました。
たまたま通りがかっただけですが、須賀神社や、この450年以上の歴史あるお寺の現状は、
いろいろと考えさせられるものがあります。

※ 須賀神社 成田市名古屋564
JR滑河駅より徒歩約50分
循環バスがありますが、本数が少ないので注意が必要です
弘仁三年(812年)弘法大師の開山と伝えられる歴史あるお寺です。

『当寺の創建は古く、たび重なる火災により確たる記録を失なっているが、古来より
阿弥陀信仰の霊場として広く知られ、天台・真言・浄土宗兼学の道場として隆盛した
大伽藍であった。
寺伝によれば、弘仁3年(812)弘法大師弘通のため、大和国法隆寺に御参籠せしとき、
夢に高僧紫雲に乗じて現われ、聖徳太子彫刻せらる三尊の仏を守護して東国に下降し、
広く衆生済度せよとの霊告あり。
大師ただちに東国に降り、下総の並木城下に着いたおり、城主神崎多五郎入道政吉、
夢告により大師に拝することを得る。政吉、大師の請いにより大檀主となり、一三の霊水
ある当山に根本多宝七堂伽藍を創建し、太子彫刻せる三尊を本尊とする。』
(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)冬父山迎接寺 三世院または淨光院03.03.10より)
大伽藍があったとは思えないこじんまりとしたお寺です。
御本尊は千葉県指定文化財の「阿弥陀如来及び両脇侍像」。

リンク ⇒千葉県ホームページ・文化財紹介ページ 迎接寺「阿弥陀如来及び両脇侍像」
木造の仏様で、「阿弥陀如来」を中尊として左脇侍が「観音菩薩」、右脇侍が「勢至菩薩」。
その特徴から、平安時代末期または鎌倉時代初期の作とされています。
寺伝による聖徳太子が彫った三尊仏だとすると年代が合いませんが、
800年以上前の制作です。

『良喜上人住すると帰依する者多く、新たに洪鐘を納めるにより浄土宗の道場となるも、
後に兵火にあい伽藍衰微する。
天文2年(1533)村人に請われ、良迦上人の弟良晃上人が中興となり、浄光院と改号する。
良晃上人のあと良興上人・良賢上人・良勤上人住し、宗風大いに振るい寺門栄える。
塔頭7ヶ院あり、明治6年(1873)に廃された。
当時域内に六堂・五木・十三井あった、と伝えられている。』
(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)冬父山迎接寺 三世院または淨光院03.03.10より)
歴史ある寺ですが、度重なる火災や兵火にあって盛衰を重ねてきました。

山門は傷みが激しく、風化により木が痩せて隙間が目立ちます。

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特に派手な装飾は施されていませんが、中央には虎と思われる彫刻がありました。

山門から本堂へ向かう細い参道は左は山、右は杉並木で100メートルはありそうです。

参道脇に色あせて傾きかけた鬼舞面の説明板がありました。
迎接寺には長徳年間(995年~999年)から伝わる鬼舞の民俗芸能がありましたが、
昭和22年を最後に今は鬼舞は行われず、舞に使われる面が収蔵されているそうです。
当寺「鬼面判談法会」の記録は、永禄7年(1564)より弘化5年(1848)の間に10回、
33年に1度宛欠さず修行している。
法会修行日数は晴天10日間、江戸末期になり7日間になっている。この間、
延享3年(1746)、明和5年(1768)、寛政11年(1799)に火災にあう。
この3度の火災により伽藍・旧記等ことごとく焼失するも、本寺大沢山円通寺に有った
冬父山本尊並鬼面略縁起・判談法会次第等の記録を書写し、これにより判談法会を
上演したという。尚、最近では、大正5年(1916)、昭和22年(1947)に修行されている。
(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)冬父山迎接寺 三世院または淨光院03.03.10より)
板面が汚れていて見にくいのですが・・・





千葉県のホームページの中でこの鬼舞面の1つを見つけました(赤鬼面)。

リンク ⇒ 千葉県ホームページ・文化財紹介ページ 迎接寺「鬼舞面」
この鬼舞の発祥年代は不明ですが、言い伝えによれば、この地に住んでいた僧・源信が
死の淵をさまよった際に見た地獄や極楽の様子や阿弥陀如来による救いと悟りの世界を、
人々に伝えるため長徳四年(998年)に面を彫ったのが始まりです。

本堂手前の蓮池には大きな鯉が泳いでいましたが、背ビレが水面上に出てしまうほど
水量が少なく、泳ぎにくそうでした。

本堂前にある菩薩像。

本堂の横にあるこの石碑は風化が激しく、「門人建立」の文字だけが読み取れました。

本堂の裏手は熊笹や竹が密生する山です。


屋根に大きく「水」の文字が書かれています。
どんな意味があるのでしょうか?
弘法大師には水に関わる伝説が多く残っていますが、これに関係あるのでしょうか。
それとも冒頭の千葉県浄土宗寺院誌からの引用にある「一三の霊水」に絡むのでしょうか。
※ 懸魚(けぎょ)の一種で火伏せのまじないだろうとのご指摘をいただきました。
なるほどです。 ありがとうございました。 10.05)


境内の片隅にひっそりと咲くホトトギスと曼珠沙華。



山門の脇の斜面を登るとたくさんの古い墓石が並んでいます。
いくつかの墓石から宝暦とか寛政とかの年号が見えますが、ここまで登ってくる人は
今ではいないようで、雑草の生い茂る斜面には道はありません。


この寺のある冬父(とぶ)は平成22年の統計で世帯数はわずかに7世帯、
人口24人しかいないさびしい山間地です。
『1844(弘化元)年の家数6軒、人数28人、馬3頭。1856(安政3)年の家数6軒、
人数28人、馬5頭。1865(慶応元)年の家数7軒、人数32人、馬5頭。』
『1882(明治15)年の「冬父村沿革歴史」には、「天保ノ晩年、殆ト衰却シテ、当今六戸ヲ
現存セリ・・・県下無比ノ一小村」と記されており、小さい村であった。』
(成田市発行「成田の地名と歴史」(2011年)」143P)
という記録にあるとおり、この地はもともと小さい村であったようです。
鬼舞の伝統も途絶えて久しい迎接寺。
かつては大伽藍があったと言われても、今は想像もできない景色です。
昔のお寺の場所は別のところだったのでしょうか。
それとも、狭い山道の片側にあるわずかばかりの田畑が、もとは境内であったのでしょうか。
歴史が埋もれている迎接寺。
時間の流れが人々の記憶からこのお寺を消してしまいそうです。

※ 「冬父山 迎接寺」 成田市冬父86
滑河駅より徒歩約50分
分かりにくい場所なので良く地図で調べてからお訪ねください
(道が狭く、車はお勧めできません)

山号は瑞栄山、「如意輪観音」をご本尊とする、臨済宗妙心寺派のお寺です。
『同寺の縁起によると結跏趺坐の姿をしている本尊は、奈良の稽主勲・稽文会父子が
刻んだもので鎌倉幕府第3代源実朝の夫人禅尼如実の持仏であった。1226(嘉禄2)年
禅尼の没後、像は国一禅師の手に移り、禅師がこれを笈に入れて背負って香取神宮に
参詣しようとしたとき、この地に物静かさに感動し、一宇を建てて本尊としたのが始まり
とある。』 (成田市発行 「成田の地名と歴史」P389)
なお、国一禅師を開祖とすることには違いはないのですが、建暦二年(1212年)に
開山したとする説も多くみられます。(寺伝では建暦二年となっています。)
建暦二年は鴨長明が「方丈記」を完成させた年です。

仁王門前の広場に「しもふさ七福神」の恵比寿様が迎えてくれます。

仁王門の前には子育・水子地蔵が。

この手水盤には安政五年(1858年)に奉納されました。

重厚で立派な仁王門です。


ユニークな表情の仁王様です。
今にも何か喋りそうな感じがします。

巣立ちが終わった鳥の巣でした


このお寺は千葉氏の庇護を受けて栄えていたのですが、国府台合戦に巻き込まれて
伽藍を失い、衰退してしまいました。
その後、宝永年代になって融峯祖円住職により再建されました。

仁王門を入って右手にある鐘楼。

山門から本堂へ向う左側に立つこの仏像は如意輪観音です。

こちらは釈迦如来のようです。
軽くうつむいて何をお考えなのでしょうか。


大きく扉が開かれた本堂の正面に、ご本尊の如意輪観音様が見えます。
失礼とは思いましたが、思わずシャッターを切りました。

本堂の内部に掲げられている「女人観音拝み絵馬」。

構図は少しずつ違いますが何枚も


本堂の階段脇にある「おびんずる様」です(後ろの頭巾と衣を被った像)。
お釈迦様の高弟の一人、ビンドラパーラドバージャで、この像にさわってから
自分の体の悪いところを撫でると、病が治ると言われています。

古いお社で掲額も読みにくくなっていますが、「南無大師遍照金剛」と読めます。

本堂脇には小さな菩薩像が並んでいます。


菩薩像の先、墓地に向う坂の上り口に松尾芭蕉の句碑がありました。
「ほろほろと 山吹ちるや 瀧の音」。
周りを見渡しても滝らしきものはありませんが、この句碑の後ろにわずかに水が
流れ落ちれいる個所がありました。
昔は水量が多く、小さな滝のようであったのでしょうか。


裏手に長く伸びる石段がありました。
登り口に小さな手水舎があり、手水盤には明治42年と記されています。


登り切った所には三十三観音がありました。
中央にある大きな石碑には「瑞榮山 霊感講 三十三観音 新設記念碑」と記され、
明治30年の建立です。
石段には苔が生え、一部は崩れていて、ここまで登ってくる人はいないようです。


「中里の観音様」と呼ばれて、安産子育て祈願のお寺として信仰を集めているこのお寺には
毎年3月26日から16日間にわたって数十町村の観音巡拝を行う「札打ち」や、
利根川沿岸の近隣町村を観音様の分身を背負って巡る「背負い観音」などの
珍しい行事があります。
この場所の静けさに打たれて国一禅師が開山したように、
800年後の楽満寺は今も静けさの中に佇んでいます。

※ 瑞栄山楽満寺 成田市中里309
JR滑河駅から徒歩約40分 駐車場あり

常福寺の山号は南城山(なぎさん)、真言宗智山派のお寺です。
延応元年(1239年)に湛導和尚が開山したと伝えられています。
ご本尊は「不動明王」。
火災により衰退していた寺を寛永二年(1625年)に再興したのが、
江戸深川の弥勒寺の宥鑁上人(ゆうばんしょうにん)で、
寛永三年に弥勒寺にあった不動明王をここに移して本尊としました。
この宥鑁上人は成田山新勝寺の中興の祖としても知られています。

手水盤には天明八年(1788年)と刻まれています。


仁王門には立派な仁王様がおられます。
これほど迫力のある表情はめったにお目にかかれません。

しもふさ七福神の大黒天です。
笑い声が聞こえそうなお顔です。


本堂正面の「南城山」の掲額を囲みこむように極彩色の龍が配されています。

何かストーリーが浮かんでくるような絵です。



色あせてはいますが天女の扁額と、天井には墨絵の龍が描かれています。


朱塗りの本堂は見事な彫刻で飾られています。
この本堂は享保十二年(1727年)に再建されたもので、
平成22年に大改修が行われました。

本堂の右手にある天満宮。

この仏様は天和二年(1682年)の作です。
この年には江戸でいわゆる「八百屋お七の大火」がありました。

仁王門の右奥にある墓石群。
明暦、寛政などの年号が読めます。



境内の左手には立派な鐘楼があります。



山門に戻って上を見上げると、ここにも天女が描かれていました。
このお寺と天女との因縁はどんなものなのでしょう。
お釈迦さまが亡くなられた時、空から天女たちの歌声と音楽が聞こえてきたという
言い伝えがあることと、関連があるのでしょうか?

白山神社。

山門脇にポツンとある石の祠には嘉永五年(1852年)と記されていました。
この年はサグラダ・ファミリアで知られる建築家のガウディが生まれた年です。
日本では後の明治天皇がお生まれになっています。


すっきりした境内に、初秋の風が吹いています。

※ 常福寺 成田市名木953
JR下総神埼駅から徒歩約45分
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お知らせ:
パソコンの修理のため、1週間ほど更新をお休みします。
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成田市内では大竹の円光寺とここの二つしかない時宗のお寺です
円光寺 ⇒


乗願寺は延慶三年(1310年)に三世遊行上人智得によって開山されました。
ご本尊は阿弥陀如来座像。
山号は助崎山、院号は不断光院です。
以前は現在の成田市幡谷にありましたが、弘治年間にこの地に移りました。

参道の入り口に「聖徳太子」の石碑があります。
慶應三年(1867年)と刻まれています。


杉木立の両側に4体のお地蔵さまが並んでいます。
享保十三年(1728年)と宝暦三年(1753年)の建立です。


山門は石柱のみとなっていますが、周辺には石垣が残っています。
なお、失われたかつての山門は、助崎城の大手門でもありました。
このお寺から助崎城祉までは500メートルはありますから、
相当広い城域を持ったお城だったようです。
助崎城祉 ⇒ (祥鳳院の項の最後に写真があります)



乗願寺は板割の浅太郎ゆかりの寺としても知られています。
浅太郎は国定忠治の子分で、芝居や映画、歌にも歌われた「赤城の子守唄」で
登場する侠客です。
どうした因縁か、この寺に位牌が安置されているそうです。
浅太郎については獄死説の他にいくつかの俗説がありますが、
「赤城山騒動の後に信州に逃れて時宗の金台寺で仏門に入り、後に藤沢の遊行寺の
堂守となった」という説があります。
時宗の本山である遊行寺に浅太郎の墓があることから、この説が有力です。
乗願寺も時宗のお寺ですから、何らかのつながりがあったのでしょう。
境内の脇に布袋像と石碑、二つの祠が並んでいます。



「しもふさ七福神」の一つ、子供を肩に乗せている布袋様です。
珍しい構図です。

説明板がないので分かりませんが、これがお参りすると子供の夜泣きが治るという
「夜泣き地蔵」でしょうか。

布袋様の隣りにある石板には、「南無大開遍照金剛」と刻まれています。

比較的新しい灯篭ですが、鹿を彫ったこの灯篭はあちこちの寺で目にします。

無縁仏がまとめられている一角がありました。
新しいお地蔵さまの台座には「無縁仏の安からんことを」と祈る言葉がありました。
墓地の片隅に打ち捨てられている無縁仏を見ることが多い中、ホッとする景色です。
墓石には享保、明和、文化などの年号が読めます。
300年も経ってもこうして供養してもらえるのなら、幸せなことですね。


さて、この仏様は誰なのでしょう?
裏口の墓地の入り口に立っています。
小さいうえに風化が激しく、素人には判別が難しいのですが、
じっと見ていると足元に「見ざる、言わざる、聞かざる」の三匹のサルがいるようです。
とすると、熊野神社にもあった「青面金剛」ではないでしょうか?
制作年代などは読めませんでした。
熊野神社の青面金剛 ⇒



境内は手入れが行き届いている感じがします。
ここには文化十一年(1814年)から明治時代の始めまで寺小屋があったそうです。

街灯を兼ねたお寺の看板です。
「浄土門」とは阿弥陀仏を信仰し、極楽浄土に往生するという教えです。
浄土信仰は多くの宗派に見られますが、このお寺では阿弥陀如来をご本尊として
いますから、浄土門を掲げているのでしょう。

宝永四年(1707年)に鋳造された梵鐘は大東亜戦争のさなかに供出され、
残念ながら今は残っていません。
同じ時宗の大竹にある円光寺もそうでしたが、市内に二つしかない時宗のお寺には、
何か独特の空気が感じられます。

※ 乗願寺 成田市名古屋234
JR成田線 久住駅または滑河駅から徒歩約50分

「小御門神社」は明治15年に創建された、比較的新しい神社です。
そして、ご祭神を実在の人物である藤原師賢(ふじわらのもろかた)とする珍しい神社です。
師賢は正安三年(1301年)生れで、大納言として後醍醐天皇に仕えていましたが、
元弘元年(1331年)に天皇と時の執権・北条高時とが対立して起った「元弘の乱」で敗れ、
元弘二年五月に遠くこの地に配流されて、十月に亡くなることになります。
元弘三年、楠木正成らの挙兵により鎌倉幕府が滅びると、天皇は師賢に太政大臣の官位と
「文貞公」の謚号(しごう-贈り名)を贈り、その忠義を称えました。
後に明治天皇がこの忠臣を称えて、国の守り神として「小御門神社」を創建し、
「別格官弊社」に列しました。

鳥居の手前に建つ大きな石柱には公爵・近衛文麿の筆で、
「別格官弊社 小御門神社」と刻まれています。
昭和15年の建立です。

境内とその周辺の鬱蒼とした森は、県指定の天然記念物「小御門神社の森」です。
タブノキを中心にクスノキ、トチノキ、シラカシ、ヒガンザクラ、スギなどが生い茂っています。
もともとのタブの自然林に神社造営時の人工林が一体化して森を形成しています。

拝殿は明治17年の建立です。

手水舎は明治17年に設置され、山岡鉄舟の筆による揮毫で「清素」と刻まれています。

手水舎の奥に石碑が3つ並んでいます。
手前が「小御門神社敷石寄附人名」と記された明治24年のもの、
真ん中の細い石碑は昭和36年の「生垣補修工事」、
奥が「杉苗百十五本」と記された明治16年のものです。


大柄な立派な狛犬です。

菊の紋章の付いた水桶は明治33年に造られたものです。


明治15年に建立された本殿は、拝殿から少し奥まった場所にあります。
いろいろ場所を代え、裏側にも回ってみましたが、中を窺うことはできません。

裏手に回る途中の草むらの中に、小さな石碑がありました。
「文貞公御庿道」とあり、明治4年と記されています。
文貞公とはご祭神の藤原師賢のことですから、この先にお墓があるようです。

小御門神社ホームページより 文貞公 像 ⇒

大木の生い茂る大きな塚があります。
柵に囲まれていて、頂上に何やら石碑が建っています。
説明板にあった「公家塚」です。
これが文貞公のお墓ですが、“畏れ多い”と昔から誰も立ち入らなかったと言われて
いますから、荒れた感じがするのも仕方ないのでしょう。

公家塚の周りは深い森です。


まだ新しい祈祷殿の脇には「館内眞名井社」と木札が付けられた井戸があります。


4月29日に行われる「ブンテコさん」と呼ばれる祭例での舞
(小御門神社ホームページより 祭例の舞 ⇒ )
配流されてわずか数カ月後に亡くなってしまった師賢ですが、地元の人々には尊敬され、
大事に祀られてきたことが分かります。


神社としては130年ほどの歴史しかない「小御門神社」ですが、
その由来を知ると、680年余りの歴史が流れるロマン溢れる神社です。

※ 「小御門神社」 成田市名古屋898
JR滑川駅より徒歩約30分 または、しもふさ循環バス小御門神社前下車