
この観音堂は、もともとこの地にあった真言宗の「駒形山真乗院」の一角にありました。
「真乗院」は元禄十六年(1703年)の開山と伝えられています。
明治42年に「真乗院」は酒々井町の「東光寺」に合併となり、本堂と地蔵堂が移設されて、
「観音堂」だけがここに残されました。

目の前には田んぼが広がる、のどかな景色です。

手水鉢には寛政十二年(1800年)と刻まれています。




「千葉県近世社寺建築緊急調査報告書」(1978年 千葉県教育委員会)には、「真乗院
観音堂」として次のように記されています。
「観音堂は、沿革については明らかではないが、その本堂に馬頭観世音を祀る。建築年代
を証する棟札等の資料はないが、堂内に元文五年の掲額、寛保二年の宮殿垂幕がある。
(中略)全体の手法は、前記の潮音寺観音堂をさらに簡略化したもので、建築年代は掲額
や垂幕に記された元文、寛保年間をあまり遡らない十八世紀前期の建築ではないかと考え
られる。」
元文五年は1740年、寛保二年は1742年です。
少なくとも280年は経っているお堂ということになりますが、「真乗院」の開山とされる元禄
十六年(1703年)から時を経ずして建てられたのでしょう。



数段の石段を登った右手にある「普門品千部供養塔」は、享和三年(1803年)と読める
ような気がします。
「新坂東拜禮記念」とある碑は、昭和15年に建てられました。

左手には境内で一番大きな石碑が建っています。
「伊勢代々講 大廟參拜紀念」と刻まれ、大正6年と記されています。
この石碑と並んで5基の石碑が並んでいます。

明治26年・四宮順教先生の碑


月山 湯殿山 羽黒山 登山参拝記念


昭和50年・普門品拾萬巻供養塔と明治30年の寄附連名碑
後方にはさらに石碑が並んでいます。

文化十一年(1814年)の「奉 供養念願成就 湯殿山 羽黒山 月山」の碑。
側面には「西国 秩父 坂東 願成就」と記されています。

半分土に埋もれた、文化七年の「如意輪観音」。
今風の簡略化されたデザインのような感じがします。

境内の左奥に、「新橋観音堂の石造物群」と呼ばれる5基の石仏、板碑があります。

前列中央の「馬頭観音像」。
延享元年(1744年)の紀年銘があり、富里市内最古の馬頭観音です。

前列左の「馬頭観音」。
安永二年(1773年)の紀年銘が刻まれています。

延享四年(1747年)の「十五夜塔」。
延命地蔵菩薩が彫られ、「奉供養十五夜講成就之攸」と刻まれています。
富里市内では唯一の十五夜塔だと言われています。

文化四年(1807年)の「馬頭観音」。
この像を見た時は「馬頭観音」とは思いませんでしたが、傍らにある説明板には「馬頭観音」
と書かれています。
以前、小泉の「自性院」で見た「馬頭観音」と同じようなポーズで、表情はさらに柔和です。
小泉の自性院 ☜ こちらをクリック

後列左の板碑については、説明板に次のように書かれています。
「後列左の下総型板碑は、絹雲母片岩の一枚岩を利用した「石製塔婆」です。正面中央には
キリーク(阿弥陀如来)、その左下には(観音菩薩)、右下にはサク(勢至菩薩)の種子が刻まれ、
その右の縁辺には各五種子が刻まれています。風化が進んでいますが、向かって右側の種子
はバン(大日如来)、バイ(薬師如来)、カ(地蔵菩薩)、マン(文殊菩薩)、カーン(不動明王)と
判読されます。銘文には「孝子等敬白」の字句が見られ、亡き親の追善供養のため、遺子たちが
造立したものであることがわかります。本市以南においては下総型板碑の造立例は確認されて
おらず、下総型板碑の分布南限を示す貴重な例といえます。」

境内の左奥にはお堂があり、3体の石仏が並んでいますが、何のお堂かは分かりません。



境内には首が無くなった石仏や、杉の根元にはめ込むように置かれた石仏、ツタに覆われた
墓石などが散在しています。



明治6年にはこの「観音堂」があった「真乗院」に小学校が開校しています。
「新橋小学校の正式名称は次の通りであり、新橋、中沢、新中沢を学区とし、新橋村
真乗院で開校した。
第廿六番中学区 甲第百六拾弐番新橋小学校」
(富里村史 P798)
富里地区では「普門寺」、「円勝寺」と並んで最も早く小学校を開設した「真乗院」が、
如何なる事情から酒々井の東光寺に合併となり、本堂や地蔵堂まで移設することと
なったのかは分かりませんが、「小学校」という、いわば地域のコミュニティの中心に
あった場所の、今の姿は寂しいものがあります。

※ 「新橋観音堂」 富里市新橋809

LCC専用ターミナルとして4月8日にオープンした第3ターミナルは、本館と搭乗ブリッジの
あるサテライトからなり、延べ床面積は約66,000㎡あります。
年間発着回数を5万回、年間旅客取扱可能人数は750万人を見込んでいます。

空港の外から見える第3ターミナルのサテライトへのブリッジです。

まだ周りの整備ができていないので、この景色がこれからどうなって行くのかは分かりません。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
同じ場所からの昨年8月の景色です。
8ヶ月後にはオープンしているのですから、急ピッチの工事だったようです。


急速に拡大するLCCですが、特に成田空港ではLCCのシェアが急増していて、今年の夏の
ダイヤでは発着回数のシェアが24%を超え、国内線だけを見ると約70%にもなる予定です。
もともと国内路線の少なさが問題とされていた成田空港ですから、70%といってもまだまだ
少ないのですが、それにしても急速な伸びです。



第3ターミナルへは第2ターミナルから連絡バス、または徒歩で向かいます。
一般車両が直接第3ターミナルに行くことはできません。
連絡バスは5~12分間隔で約10分の移動です。(第3から第2へは5分)


バスを降りるとエスカレーターで2階へ。
狭い通路をちょっと進むと、第3ターミナルビルの入口です。



さすがに電光掲示板の便数も少なく、カウンター付近にたむろする人たちも少ない感じです。

ジェットスターのカウンター。
ジェトスターの成田における発着回数は、国際線が週に32回、国内線が週414回です。
国際線はオーストラリアのメルボルンに本社がある、カンタス航空系のジェットスター社が、
ケアンズ、ゴールドコースト、メルボルンへの便を飛ばしています。
国内線はカンタス、日本航空、三菱商事、センチュリーリースの出資によるジェットスター・
ジャパン社が、札幌、関西、高松、松山、福岡、大分、熊本、鹿児島、那覇と結んでいます。
なお、ジェットスター・ジャパン社は6月から香港便をスタートさせます。

バニラエアは国際線が週84回、国内線は98回となっています。
国際線は台北、高雄、香港、国内線は札幌、那覇、奄美大島と結んでいます。
設立以来、曲折がありましたが、現在はANAホールディングスが全株式を取得しています。

スプリング・ジャパンは国内線のみで、週50回です。
「春秋航空日本」が社名で、中国の春秋航空が筆頭株主。
国内線のみの運行で、広島、高松、佐賀を結んでいます。
隣に見えているのは韓国のチェジュ航空で、ソウルとの間で週28回の発着となっています。
なお、有力なLCCのひとつであるピーチ・アビエーションは、全日空が筆頭株主であり、また、
グランド・ハンドリングを全日空に委託していることから、第1ターミナルを使用しています。





コンビニや書店など、7~8軒の店が並んでいますが、第1、第2ターミナルのような高級品
を扱う店はありません。
通路が陸上トラックのような感じがします。
これは行き先を分かりやすくする工夫であると同時に、案内板を少なくする(設置費の節約)
ためだと聞きました。

鉄道やバスの発券所があります。

国内空港では最大のフードコート。
450席があり、出店しているのは7店舗で、寿司、うどん、中華、ファストフード等、一通り
は揃っています。


フードコートの先は、もう出発ゲートです。
ゲート脇にあるお土産店も、地方空港のような名産品やお菓子類がほとんどです。


天井は配管が剥き出しです。
これも建設費を抑えて、航空会社の利用料を安くするための苦肉の策なのですが、これは
これで、なかなか味があるデザインだとも思えます。

アナウンスがあり、乗客が出発ゲートへと向かいます。
見ていると、思ったより中高年の方や外国人が多いようです。

通路に置かれているベンチは普通のものより幅が広く、ここで時間待ちの旅客が横になれる
ような配慮をしています。



帰りは第2ターミナルまで歩いてみます。
通路は曲がりくねっています。
歩くと15分はかかりますので、途中に何ヵ所か休憩用のベンチが置かれています。

第2ターミナルのすぐそばにある第3ターミナルですが、既存の建物や施設の間を縫って
通路が設けられてるため、大きな荷物を持っての移動はちょっとしんどいようです。
LCCが安い航空運賃の実現を狙うために行う工夫と同様に、施設を提供する側の成田空港
も智恵をめぐらせていることが良く分かります。
羽田の国際化が進む中、成田の地盤沈下が心配されていますが、この第3ターミナルが
旅客であふれるようになり、成田空港の再飛躍の起爆剤となることが期待されています。
ここは、もともとは「来迎寺」の境内でしたが、いまでは民家や道路で分断されています。


石段の下、左右に石柱が立っています。
左側の石柱には、「印旛沼出現 善導大師 文政十三年庚寅」と刻まれています。
文政十三年は西暦1830年になります。
右側の石柱は「南無阿弥陀佛」と刻まれた、天保五年(1834年)のものです。

石段の脇には「六地蔵」があります。
人は生前の行いの善悪によって、その死後に、地獄・畜生・餓鬼・修羅・人・天という六道を
輪廻・転生すると言われ、その六道それぞれに衆生救済のために檀陀・宝印・宝珠・持地・
除蓋障・日光の六地蔵が配されているという信仰から、墓地の入口などに六体のお地蔵様
を並べ建てることが行われています。

「下總國下埴生郡松崎村誌」には、「善導大師堂」について
善導大師堂、字備後ニアリ。境内百九十二歩ヲ有ス。松葉山来迎寺ノ別當ナリ。
と記しています。(「成田市史 中世・近世編」 P219)
松葉山来迎寺 ☜ こちらをクリック
また、由来については以下のような説明があります。
抑々善導大師ノ由来ヲ探求スルニ、往古唐ノ長安、修南山ノ瀧壺ヨリ出現シ、四百餘年ノ
星霜ヲ経テ、日本洛陽ノ真葛ガ原ニ顕ハレ、其後、建暦元年ノ春人皇八拾四代順徳帝ノ
御宇ニ大師ノ尊像筑州博多ノ津ニ着キタルヲ里人奉迎シテ、草庵ヘ安置シケルトナリ。
長安の修南山の滝壷から発見されたとされる、「善導大師像」は、400年以上の年月を
経て建暦元年(1211年)に筑州博多の地に渡り、小さな庵に安置されました。
其後安貞元年八月十四日夜當國ノ城主千葉六郎太夫入道、法阿沙弥善導大師ノ靈夢ヲ
蒙リ、印旛湖ノ湄リ埴生ノ郡松崎ト云里ヲ尋ネ給フニ浦辺近キ芦間ヨリ光明赫々、其容貌
半バ金色ニテ、腰ヨリ上ハ黒染ノ木像壱軀ト水難除ノ守船板名号ヲ発見シ、大ニ警キ再拜
崇敬シ、則チ松崎村ヘ草堂ヲ建設アリ。
安貞元年(1227年)に、夢のお告げで千葉六郎が印旛沼から引き揚げた木像は、かつて
筑州博多にあって長らく行方知らずとなっていた「善導大師像」であったというわけです。
其頃当村ニ善心坊ト云フ道心者ヲ呼出サレテ大師ヲ預ケシトナリ。是レ當寺古代ノ開基
ナリト云。既ニ千葉家モ断絶シ世モ縡ニ移リ変リテ寛永元年、當住廿八世純誉法印ノ
時代トカヤ、謂アリテ天台宗ニ改メラレシトナリ。 以上善導大師ノ縁起 今猶印旛湖中ニ
善導堀ト称シ、湧水ノ深淵ヲ残存ス。
これにより開基は安貞元年、寛永元年(1624年)に天台宗に改宗したことが分かります。
790年近くもの歴史のあるお堂だということになります。
現在のお堂は嘉永五年(1852年)に再建され、平成10年に改修されたものです。
ご本尊は「善導大師」。
木像は、カヤ材の寄木造りで1.6メートルの大きな立像です。
善導大師(613~681)は、「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立した唐の名僧で、
曇鸞・道綽・懐感・少康とともに浄土五祖の一人とされています。

天保(?)と読める狛犬

天保九年(1838)の常夜燈



一部が欠けて打ち捨てられたような手水鉢。
寛延四年(1751年)と記されています。

こちらは平成11年の新しい手水鉢。
側面には古い手水鉢にあった「寛延四年辛未天閏六月良日」が転記されています。


「下總國下埴生郡松崎村誌」に出てくる、善導大師像を印旛沼から引き揚げた「千葉六郎太夫
入道」とは、千葉介常胤の六男の東胤頼(とう たねより)のことです(六郎は通称)。
久寿二年(1155年)に生まれ、安貞二年(1228年)に没しました。
下総国東庄に父・常胤から所領を与えられて東六郎を名乗り、東氏の初代当主となりました。
官途は父より上位の従五位下です。
五位は俗に「大夫」と称されるため、千葉六郎大夫と呼ばれたようです。
晩年は上洛して法然上人の弟子となって法阿弥陀仏と号し、源頼朝朝から絶大な信頼を
得ていました。
旧小見川町(現・香取市)の芳泰寺に胤頼夫妻の墓と伝えられる供養塔があるそうなので、
いつか訪ねてみたいと思います。

本堂の軒下にある掲額には、「善導大師 願ひの利益 松ヶ崎 闇夜を照らす 法の月影」
と歌が書かれています。

正面の龍の彫刻。
迫力満点です。
裏手の墓地には古く、立派な墓石が並んでいます。

寛文十二年(2基対)



この墓石には「夢幻童子」と刻まれています。
“夢幻、ゆめまぼろし”とは、天保十一年(1840年)に幼くしてこの世を去った子どもに、
親はどんな思いでこの戒名を付けたのでしょうか。

天和二年(1682年)の如意輪観音像が刻まれた墓石。
この年は世に言う「お七火事」の天和の大火が起きた年です。

寛延二年(1749年)の墓石。
この如意輪観音像は珍しく厳しい表情です。

普門品一千巻供養の碑。

享保二年(1717年)の「十九夜塔」。

境内の右手に建つ「不動堂」。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


本堂の左手に建つ2つのお堂の名前は分かりません。

樹周り5メートル以上はあるシイの大木。
長い年月にわたってこの場所に立ち、来迎寺の境内の一角にあって、大梵鐘の音を聞き、
時代の流れから、道路や民家によって境内が分断される日々を眺めてきたのでしょう。

階段を登り切った所に立つ「護摩木山」の碑。
昭和3年と記されています。


善導大師像は全国各地に見られますが、特に京都の知恩院や善導院の立像、奈良の来迎寺
の座像などは良く知られています。
ここ、善導大師堂の善導大師像については、画像を見つけることができませんでした。
前述した東胤頼(東六郎太夫)が、善導大師像を印旛沼から拾い上げたとされる安貞元年
(1227年)には、京都である事件が起こっています。
東胤頼が師事した法然は、建暦二年(1212年)に没していますが、その死後15年目に
あたる嘉禄三年(1227年・同年安貞に改元)に、天台宗からの圧力によって弟子であった
隆寛、幸西らが流罪となり、僧兵に廟所を破壊されるという事件が発生しました。
法阿と名乗っていた胤頼らは、法然の遺骸を掘り起こして嵯峨の二尊院に隠したものの、
天台宗からの攻撃は続き、太秦の来迎院(現・西光寺)へ、さらに西山の三昧院(現・光明寺)
へと転々とせざるを得ませんでした。
十七回忌となる安貞二年(1228年)1月になって、弟子たちの手でようやく荼毘に付され、
その遺骨は知恩院などに分骨されました。
善導大師像が拾い上げられた時期と、この事件の時期は重なっています。
京にいた胤頼が印旛沼で大師像を拾い上げることなど・・・、と野暮は言わぬこととしましょう。
法然に心酔していた胤頼の想いが、この伝承となったのでしょうから。
それにしても、創建から400年あまり経った寛永元年(1624年)になって、恩師・法然の遺骸
を必死に守った自分を攻撃した、天台宗に改宗となる皮肉な運命をどう思っているのか、聞い
てみたい気がします。

※ 「善導大師堂」 成田市松崎247-7
JR成田線下総松崎駅から徒歩約20分
北総鉄道成田湯川駅から徒歩約15分

「来迎寺」の創建年代は不詳とされています。
天台宗のお寺で、山号は「松葉山」。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。
門柱には「宗祖大師御遠忌記念」と記されており、大正9年に建てられたものです。

明治16年に千葉県令船越衛の通達によって編さんされた町村誌には、
「来迎寺、村ノ中央字備後ニアリ。境内五百四十六坪。天台宗松葉山ト號ス。下埴生郡
龍角寺村天竺山龍角寺ノ末派ナリ。其開基ノ年月ニ至テハ今詳明スベカラズ。」
とあります。(成田市史 近代編史料集一 P218)
また、後に近隣の村が合併してできた八生村の村誌(大正3年頃の作成)には、
「松崎字備後ニアリ。天台宗ニシテ安食町天竺山竜角寺ノ末寺ナリ。本尊ヲ阿彌陀如来
トス。開基詳カナラズ。鐘楼ニハ天録十四年十二月ト刻セル大梵鐘アリ。法要ハ毎十三日
ノ待夜ト十四日ノ縁日トナリ。」
とあります。(同P247)
今は鐘楼も梵鐘も姿がありませんが、大正初期まではそれなりに立派なお寺だったようです。
記録が見当たりませんが、後述の「本堂再建の碑」が大正14年と記されていることから、
火事で焼失してしまったのではないかと想像されます。
なお、梵鐘に刻まれていたとされる「天禄十四年」とは何かの間違いでしょう。
天禄年間は西暦970年から973年までの4年間しかなく、天禄十四年は存在しません。
梵鐘にこのような間違いが刻まれることは考えられませんから、記録ミスだと思います。
まず考えられるのは天禄四年(973年)を十四年と誤記した、ということですが、この年代
に制作された梵鐘であれば間違いなく重要文化財級のものですから、もっとしっかりとした
記録が残っているはずです。
また、年号を間違えて刻んであったとすれば、記録を取る時にその間違いには当然気付く
はずでしょうから、それについての記述があってしかるべきでしょう。
次に考えられるのは「天禄」ではなく「元禄」の記録間違いではないか、ということです。
とすると、その梵鐘は元禄十四年(1701年)の制作となります。
どうやらこちらの方が現実的ですね。
現在の本堂は一見民家風で、寺額もありません。

境内にある成田市指定天然記念物の榧(カヤ)の大木です。
説明板によると、
「この“カヤ”は、わが国において、学術上価値があり、植物学上においても、このような
大樹は記録的なもので、貴重なものといえます。」
樹齢は不明ですが、目通り樹周り3.9メートルと書かれています。
この説明板は昭和55年に立てられたものですが、それ以降も成長は続いているようで、
4.3メートルと落書きがされています。


「八生村誌」にこのカヤの木に関する記述があります。
日暮ノ榧
松崎来迎寺境内ニアリ。周圍二間。丈高カラズシテ其枝八方二垂レ、殆ント一反歩餘ヲ壓ス。
夏季此ノ下ニアルヤ涼気自ラ来リ去ル能ハズ。遂ニ日ノ暮ルゝヲ覚ヘズト。因リテ此名アリ。
(成田市史 近代編史料集一 P244)

大正14年の「本堂再建寄附芳名の碑」。
見たところ、現在の本堂はその後にさらに建て直されています。


境内の左手にあるお堂。
中の石仏は風化してお顔も平たくなっています。


「二十三夜塔」。
弘化四年(1847年)の紀年銘があります。
室町時代から;始まった月待講」は、江戸時代に入って急激に全国に広まりました。
特定の月齢の夜に「講中」と称する仲間が集まって、飲み食いをしながら、経などを唱えて
月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。
その際に供養のために建てた石碑が「月待塔」です。
地方によっていろいろな月待講がありますが、月齢によってもお祭りする仏様が違います。
十三夜待 虚空蔵菩薩
十五夜待 大日如来、聖観音など
十六夜待 大日如来、阿弥陀如来など
十七夜待 千手観音、聖観音など
十八夜待 千手観音、聖観音など
十九夜待 如意輪観音、馬頭観音など
二十夜待 如意輪観音、十一面観音など
二十一夜待 如意輪観音、准胝観音など
二十二夜待 如意輪観音
二十三夜待 勢至菩薩
二十六夜待 愛染明王、阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)
(参考:Yahoo!知恵袋)
なかでも、月が勢至菩薩の化身であると信じられていたことから、二十三夜講が最も
盛んに行われるようになりました。


「子育大明神」の掲額があるお堂。

掲額の文字が消えてしまって、何のお堂か分かりませんが、斜めから見ると「天神社」と
読めるような気がします。
後述する資料から推測すると、「太子堂」かもしれません。

裏手にある墓地には、比較的新しい墓石が目立ちます。
墓地の外れの一角にわずかに数基の古い墓石があり、文久とか慶應の年号が読めました。


「成田市史 中世・近世編」に、来迎寺について触れている文章がありました。
「来迎寺は山号を松葉山と号し、阿弥陀如来を本尊としている。 創建など明らかでないが、
文禄三年の「松崎村御縄打水帳」に寺名がみえるので中世にさかのぼる。 除地に認可
された東西六十五間・南北八〇間の境内に、五間・六間の本堂をはじめ善導大師堂、
阿弥陀堂、鐘楼堂、聖徳太子堂などがあり、また浅間宮・香取宮などを支配している。」
(P784)
かつてここに、東西約118メートル、南北約145メートルという広い境内があったとは思え
ない現状ですが、文禄年間にその名が出てくるのであれば、少なくとも420年以上の歴史
を有するお寺ということになります。
今は民家や道路で隔てられた場所にある「善導大師堂」も、もともとは境内であったわけです。

通りに出るとそこは「善導大師堂」の裏手にある墓地の外れです。

この通りが、かつての境内を分断しています。
郵便局もある生活道路になっています。

「来迎寺」の境内からは、わずかに「善導大師堂」の屋根が望めるだけです。

カヤの大木の枝が、境内の3分の1ほどを覆っています。
なるほど、村誌にあった通り、夏はこの木の下はとても涼しいことでしょう。

※ 「来迎寺」 成田市松崎254
JR成田線下総松崎駅から徒歩約20分
北総鉄道成田湯川駅から徒歩約15分
境内に戻ってきました。

本殿の東側にある明治42年建造の「神庫」は、校倉造の本格的な木造建築です。
平成6年に市の文化財に指定されました。

「香取文庫」は「神庫」の裏にあります。
平成6年に竣功したもので、1階は参拝者の休憩室と写真室で、2階に古文書が収納
されています。
この建物は昭和11年の大改修事業の一環として企画されながら、唯一取り残されて
いたもので、58年ぶりに完成を見たわけです。

「宝庫」裏にひっそりと立つ板碑。
何やら種字のようなものや、文様が彫られていますが、風化もあり、私には読めません。



「祈祷殿」の前にそびえ立つ「御神木」。
樹齢千年と伝えられる大木で、幹回りは7.4メートルもあるそうです。



御神木の前、拝殿の東側には、神札授与所と祈祷参拝受付、そして「宝物館」があります。
この三つは一つの建物になっていて、昭和42年の竣功です。
「宝物館」には、国宝の「海獣葡萄鏡」、重要文化財の「古瀬戸黄釉狛犬」「双龍文鏡」を
始め、数々の貴重な宝物が陳列されています。
個人的には明治初年の「香取神宮境内繪圖」に興味を惹かれました。
現在の各社殿や摂社・末社などの位置と比べると、相当大きく変わっていることが分かります。
表参道は奥宮側にあり、二の鳥居をくぐって「花薗神社」を過ぎ、楼門前の一の鳥居へ。
鳥居の右にある手水舎で清めてから楼門をくぐり・・・と、なっています。
この絵図にある二の鳥居、一の鳥居は現在は無く、花薗神社はずっと奥の「六所神社」に
合祀されていて、絵図の位置には現在手水舎が建っています。
「香取郡史」にある大正10年の境内の写真には、楼門の前の鳥居が写っています。
また、現在は楼門の前にある「諏訪神社」は、東に大きく離れた場所に描かれています。

「宝物館」の前には「さし石」が転がっています。
「さし石」とは、昔から若者たちの間で行われていた力比べに用いた石で、勝者が自分の
名前を刻んで奉納したものです。

祈祷殿の裏にある「社務所」。
境内の外れにありますが、さすがに大きく立派な建物です。


祈祷殿。
元禄十三年に本殿、楼門などと同時に造営された拝殿です。
昭和11年から15年にかけて行われて大修築の際、新たに拝殿が造営されたことに
伴って、祈祷殿として改築のうえ、現在地に移設されました。
入母屋造りで銅板葺き屋根、壁や柱は丹塗です。

「楼門」をくぐらずに「祈祷殿」の横から外に出ると、「御神井道」と刻まれた石柱がありました。
天保十四年(1843年)と記されています。
細い道が長く下っています。


「弓道場」がありました。
大神社らしい設備です。


道幅が狭くなり、急な石段(崩れかかっています)が続いています。
降りて行くには少々勇気が要ります。

明治42年の「御手洗坂修路記」と書かれた記念碑がありました。
急斜面のため近づけないので、碑銘以外は読めません。
この急坂は「御手洗坂」ということだけは分かりました。

「末社 狐座山神社(こざやまじんじゃ)」と書かれた木札が立っています。
木札の先は今度は急な登り坂です。
ここまで来たら行くしかありません。
どんなお社が待っているのか・・・、一部崩れた急坂を必死で上りました。


頂上には小さな鳥居とお社。
ご祭神は「命婦神(みょうぶのかみ)」です。
「命婦」とは、従五位下以上の位階を持つ女性、または稲荷狐の異名なので、
ここはお稲荷さんですね。


まだまだ訪ねたい場所が神殿の周りにありますが、またいずれ・・・にしましょう。



「香取神宮小史」には、神宮の創立に関してこう記述しています。
「宮柱の御創立は、神武天皇の御代と傳へる。正和五年(一三一六)の香取古文書によって
明かである。謹みて案ずれば、輕津主・武甕槌二柱の大神は、先づ荒振神達を驅除して一旦
は皇祖天神に復命され、その子孫の神々が、東國を平定して海路より進み、今の銚子港口の
邊より軍船を乘り入れて、一は香取に、一は鹿島に根據地を定め、更に東夷を征討し、其の
根據地に祖神輕津主神を祭り香取神宮、祖神武甕槌神を祭って鹿島神宮と稱した。」
また、造営に関しては、次のように記述しています。
「當神宮の御造營の事が始めて書物に記されたのは、弘仁三年(八一二)六月に「住吉・香取・
鹿島三社は、二十年を隔てゝ皆改造れ」と云ひ(日本後紀)、又元慶六年(八八二)十二月九日
の勅に「下總國の神税五千八百五十五把を、正一位勳一等香取神宮雑舎を造る料に充てよ」
とある(文徳實録)。」
これを読むと、少なくとも弘仁年間より以前に本格的な社殿が造営されていたことが分かります。
神話の時代に現れ、千年、二千年と、この地にあって崇敬を集め続けてきた「香取神宮」。
これからの千年、二千年も変わらぬ崇敬が寄せられるのでしょうか・・・。
境内を含むその周辺は、まさに「神域」と呼べる雰囲気に満ちています。


※ 「香取神宮」 香取市香取1697
JR香取駅から徒歩約30分 佐原駅からタクシー10分
東京駅から高速バスが3社出ています
車の場合は佐原・香取インターから3分
こちらにもいくつかのお社が祀られています。

境内の左手一番奥には、摂社の「匝瑳神社(そうさじんじゃ)」があります。
ご祭神は「磐筒男神(いわつつおのかみ)」と「磐筒女神(いわつつめのかみ)」。
香取大神の親神との説明板があります。
香取大神の親神とはどういうことでしょうか?
神話の世界では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)の
死因となった軻遇突智(かぐつち)を斬ったとき、十束剣から滴る血が天の川のほとりの岩を
染めたため、そこから岩裂神・根裂神(いわさくのかみ・ねさくのかみ)が生まれ、その御子の
磐筒男神・磐筒女神(いわつつおのかみ・いわつつめのかみ)の両神を親として経津主神が
生まれたとしているのです。

お社の奥にあるこの石灯篭は寛政十二年(1800年)のものです。

本殿裏の「桜馬場」へと抜ける場所にある、末社「桜大刀自神社(さくらおおとじじんじゃ)」。
ご祭神は「木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」です。

本殿の向かって右奥にある、摂社「鹿島新宮」。
ご祭神は「武甕槌大神」、「天隠山命(あまのかくやまのみこと)」。
半周しただけですが、拝殿から本殿に至るこの社殿は、本当に大きな建造物です。

幾多の変遷を経て、慶長十二年(1607年)に大造営が行われ、さらに元禄十三年(1700年)
に再度造営が行われて今日に至っています。
慶長の大造営の前、永正十三年(1516年)の「香取神宮神幸祭絵巻」に描かれている境内の
様子を、「佐原市史」が次のように解説しています。
「白壁・朱柱の楼門の前には左右に褐色の仁王像が立つ。楼門を入ると御幣棚があって
御留守役の控える建物があり 中門があって正神殿へとつながっている。」 (P274)
また、正神殿の注目点として以下の5点を挙げています。
①行五間に妻三間、檜皮葺切妻造り、前面に一間の階隠がある。
②珍しいのは正面中央の白壁で、その左右に丹塗りの扉がある。
③屋根には瓦木の上に山形の堅魚木四本を置いて、二羽の鳳凰を載せる。
④瓦木の端には鬼板を飾り、破風板には雲形が描かれている。
⑤目をひくのは丹塗りの柱ごとに龍頭が取り付けられていることである。 (P274)
現在とは大分異なるようですが、それでも堂々たる社殿であった様子がうかがえます。
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千葉県神社庁の「千葉県神社名鑑」には、「境内坪数4万坪、氏子2万戸」とあります。
香取郡という神郡を持つ「香取神宮」は、財政的にも恵まれた存在でしたが、中世以降は
地方豪族に度々神域を侵され、寛元年代(1243~1246)には神領が十余村にまで
狭められてしまいました。
徳川の時代になって天正十九年(1591年)に一千石の朱印地が与えられて、隆盛を
取り戻し、慶長、元禄の大造営とつながって行きます。
この間の状況を、大正10年刊行の「香取郡誌」からひろうと、
「然れども武門の權威益盛んなるに從ひ神領往々其の侵略を受け或は社田の租税を
抑留するに至る 朝廷より鎌倉府をして之を正さしもるも舊に復せざるものあり」
「天正十八年五月豐臣秀吉浅野長政木村重茲の二人をして香取十二ヶ村大戸六ヶ村
云云の制札を建て社地を犯すこと勿らしむ」
「十九年十一月徳川家康香取郷の地千石を寄附し神領と爲し後世違ふ勿らしむ」
(P344~345)
とあります。
「鹿島新宮」と「桜大刀自神社」の間を北に向かって抜けて行く道があります。



「桜馬場」に出て行く所に置かれた手水盤。
元禄十三年(1700年)と刻まれていますから、本殿や拝殿、楼門が造営された時のもの
だと思われます。
あまり人の通らない道の片隅に置いておくのは、惜しいと思える歴史的な手水鉢です。

「桜馬場」に出た所に茶店が一軒あり、その横に「下総国式内社の碑」があります。
「延喜式」記載の下総国の式内社十一社と「三代実録」の子松神社の所在地を、清宮秀堅
(1809~1879)が調査して碑としたもので、文久元年(1861年)の紀年銘があります。
「桜馬場」はかつて流鏑馬式が行われた所で、「香取神宮小史」には、
「神苑北側にある。櫻樹が多く、もと六月五日流鏑馬式を行った所。この地は眺望もよく、
香取ヶ浦を見下し、對岸に潮来、牛堀の町々連り、遥か浪逆の浦、鹿島山等を望み、
西方は筑波嶺、蘆穂、加波の連山を見渡すことも出来る。」
と書かれています。
今はいくつかの記念碑と、鹿園があるだけです。



いずれも明治時代のもので、「武徳崇千古 威霊震萬年」とか、「祈征清 軍大勝 陸海軍
人健康」といった勇ましい文字が刻まれています。



一番奥に「鹿園」があります。
鹿は神の使いとして神社では大切にされますが、この場所は見通しが悪く、参拝客が
訪れることはほとんど無さそうです。
私が近づくと一斉に駆け寄ってきました。
餌は餌箱にたっぷり入っていましたので、淋しいのか、退屈なのか・・・。
先ほどの手水盤の所まで戻って、今度は右手に進みます。

木々の枝に覆われて薄暗い場所に「六所神社(ろくしょじんじゃ)」があります。
木札にはご祭神として「須佐之男命」「大国主命」「岐神(ふなどのかみ)」「雷神二座」と
書かれています。
岐神とは道の分岐点などに祀られる神で、悪霊の侵入を防ぎ、旅人を守ります。
「道祖神」とも言われます。
六所ならば、もうお一人神様が足りませんが、「香取神宮小史」には、上記のご祭神の後に、
「或伝、靇雷神六座」 と記しています。
ここには「花薗神社」が合祀されています。
こちらのご祭神は「靇神(おかみのかみ)」で、水神のようです。

さらに進むと、広場の奥に木造二階建ての「香雲閣」が現れます。
「神苑東北隅の一樓を香雲閣と云ふ。明治二十九年(1896)、有志の醵出に依って
建設す。閣に登って眺瞰すれば、常總二州の勝景、一目の中に快然たる風致は羽化
登仙の感がある。大正天皇東宮殿下の御時、神宮御蔘拜の節、當閣に御休憩遊ばさ
れた。其の後、各宮殿下の當神宮御蔘拜の折の休憩所に充てられた。平成十二年
(2002)二月十五日登録有形文化財に指定。」 (「香取神宮小史」 P55)
今は全く使われていないようで、障子が破れるなど内部は少々荒れています。

東日本大震災で損傷した社号標がここにありました。
高さが半分ほどになっています。
昭和34年と記されています。


社号標の近くに2基の「髪塚」が立っています。
戦地に赴いた兵士の武運長久を祈って、女性が髪を切ってここに埋めたのだそうです。
この前に立つと複雑な思いが交差します。

辺りは深い森です。
静かな午後の陽ざしの中で、鹿の鳴く声が響いています。
【 番 外 編 】

何回目かの取材中に、偶然テレビドラマの撮影にぶつかりました。
境内の拝殿前に大勢のスタッフや、エキストラ(出演希望の野次馬参拝客?)がいます。



興味が無いわけではありませんが、元来へそ曲がりな性格で、ちょっと覗いただけで
取材を続けるためにその場を離れました。
後日放映された「香取神宮」のシーンは、さすが鮮明な画面でした。
(スタッフの呼びかけに応じて、(参拝客A)として大勢のエキストラに紛れ、そっとVサイン
でもしてみたかった~ などとは思いませんでしたョ、ハイ。)
(次回で一通りの紹介が終わります)
「総門」をくぐって、「楼門」の前に来ています。

楼門の右側に立つ「黄門桜」。
「木母杉」と名付けた同じ貞享元年(1684年)に、水戸光圀公の手植えと伝えられる桜です。
ただし、この桜は成長したひこばえのようです。(3月3日撮影)

3月25日の時点ではまだ蕾ですが、この記事のアップ時には満開になっているでしょう。

黄門桜の斜め前の目立たぬ場所に末社の「諏訪神社」があります。
ご祭神は「建御名方神(たけみなかたのかみ)」で、軍神として知られています。
鹿島神宮のご祭神である「武甕槌大神 (たけみかつちのおおかみ)」と戦い、敗れて服従
した神で、香取神宮のご祭神である経津主大神とも因縁浅からぬ神です。
昔は境内東方の森の中で、前回に紹介した「天降神社」と並んで建っていました。

「楼門」は壁や柱が丹塗りで、鮮やかな朱色が映える建造物です。
丹塗りは、原料が金属であることから腐食しにくく、虫害からも守れるという理由の他、
朱色が不変を表すという宗教的な意味もあり、宗教建築に多く用いられています。
元禄十三年(1700年)に本殿と同時に造営されました。
楼門内には「左大臣・右大臣」の随身像が外に向かって置かれ、内側には木彫りながら
重量感のある狛犬が置かれています。






元禄十三年(1700年)に造営され、昭和15年に大修築が行われたこの楼門は、国の
重要文化財に指定されています。
楼上の掲額は東郷平八郎の筆になるものです。

「楼門」をくぐると、左手に回廊が続いています。
柱や壁は鮮やかな朱色です。

ここで、あらためてご祭神の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)について調べておきましょう。
経津主神は日本の神話に登場する神です。
「日本書紀」にのみ現れ、「古事記」には現れない神で、 別名、斎主神(いわいぬしのかみ)、
または伊波比主神(いわいぬしのかみ)とも呼ばれます。
少し長くなりますが、経津主神について香取神宮のホームページから引用します。
「はるか昔、天照大神(伊勢神宮・内宮の御祭神)が日本の国を治めようとしましたが、
荒ぶる神々が争い、乱れていました。
大御神は八百万神に相談すると、天穂日命(あめのほひのみこと)がすぐれた神である
ということで遣わされましたが、出雲国の大国主神(おおくにぬ しのかみ)に従ってしまった
ので、次に天稚彦(あめのわかひこ)が遣わされました。 天稚彦もまた忠誠の心なく、
顯國玉神(うつしくにたまのかみ)の娘の下照姫(したてるひめ)を妻として、自ずから国を
乗っ取ろうとしましたが、亡くなってしまいました。
このようなことが二度つづいたので、大御神が八百万神に慎重に相談させると、神々が
口を揃えて、経津主神こそふさわしいと申し上げました。そこへ武甕槌大神(たけみかづち
のかみ・鹿島神宮の御祭神)が申し出られたので、 共に出雲に派遣されることになりました。
経津主、武甕槌の二神は出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着いて十握剣(とつか
のつるぎ)を抜いて逆さに突き立て、武威を示されると 大国主神は大御神の御命令に全く
異議はありませんということで、平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取り、二神は日本
の国を平定して、大御神の元へ復命されたのです。」
これで経津主神が武甕槌神と共に「武神」とされる理由が分かりましたが、では、香取、
鹿島というごく近い距離の内に、二社が祀られることになった理由は何なのでしょうか?
経津主神を祀る香取神宮と、武甕槌神を祀る鹿島神宮とは、利根川を挟むようにして建って
いますが、これは両宮のあるこの地方が、大和朝廷の蝦夷地征伐の最前線であったことが
大きく影響していると考えられます。
私たちは蝦夷地というと北海道を思い浮かべますが、当時の蝦夷地とは、関東から東北に
かけての一帯を指していたようで、日本武尊の東征の物語などもそのことを裏付けています。
「『日本書紀』には、卷7景行天皇40年10月の条に、「爰に日本武尊、即ち上総より転じて
陸奥国に入りたまふ。時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を
横切って蝦夷の境に至る。」とあり、倭武の天皇とは日本武尊のこととされている。」
(ウィキペディア 日本武尊より)
古代のこの地域には、「香取海」という霞ヶ浦から手賀沼、印旛沼がつながった広大な内海
が広がっていて、大和朝廷の蝦夷地攻略のためには、戦略的に見ても現在の香取・鹿島
両宮の位置する場所が非常に重要な拠点でした。
その拠点に「軍神」を祀る香取・鹿島の両宮を配することによって、その神威を背景にして
大和朝廷の勢力の北上を狙ったと考えられます。

藤原氏は、氏社として創建した奈良の春日大社に、鹿島神を第一殿、香取神を第二殿に
勧請して、第三殿に祀られた藤原氏の氏神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)
より上位に位置づけました。
また、源頼朝を始め足利、徳川将軍家からも強い崇敬を寄せられるなど、武神を祀る両宮
は武家からの崇敬を集めてきました。
「佐原市史」には、武家とのつながりを示す一例として、文永の役、弘安の役に関連する
次のような記述があります。
「公武一体の戦の成果とともに神仏への祈祷が強く作用したと信じられることから、全国の
寺社に於て異国降伏国土安泰の祈祷がとり行われた。香取神宮にあっては、現在牧野の
観福寺に所蔵されている四体の銅造仏像の中、釈迦・十一面観音の二像がこれに関係
している(観福寺の四体の仏像はもと香取神宮にあった)。すなわち、その光背の銘文に、
右志者為天長地久當社繁昌異國降伏心願成就造立如件 弘安五年午壬八月一日
とあることから、これは弘安の役の後、異国降伏祈願の報賽として、わが国屈指の大社で
あり、軍神の経津主命をまつる香取神宮に奉納されるものであることがわかるのである。」
(P 101)
時代劇の剣道場のシーンでは、決まって「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた二幅の
掛軸が出てきますが、武神としての崇敬が広く武家に浸透していたことを表しています。
現在の本殿、拝殿、楼門等の主な社殿は元禄十三年(1700年)に、五代将軍・徳川綱吉の
命により造営されました。
楼門をくぐって正面に見える拝殿は昭和11年から15年にかけて行われた大修築時に造営
されました(その前にあった拝殿は現在祈祷殿になっています)。
檜皮葺きで正面に千鳥破風が見えます。
旧拝殿(現祈祷殿)は楼門と同じ丹塗でしたが、新たな造営では柚部に黒漆塗を施し、組物・
蟇股は極彩色に仕上げられました。


本殿と幣殿、拝殿が一体となった造りで、昭和の大修築以前からこの「権現造」です。
「本殿は、元禄13年(1700年)の造営。三間社流造、檜皮葺で、南面している。この形式の
社殿としては最大級の規模である。前面の庇(ひさし)部分を室内に取り込んでおり、背面
にも短い庇を有している。」
「壁や柱は黒漆塗で、黒を基調とした特徴的な外観である。屋根は現在檜皮葺であるが、
かつては柿葺であったとされる。」 (ウィキペディア 香取神宮)
確かに、この社殿を初めてみた人は、その黒さに少々驚くようです。
神社の社殿の色は朱色という先入観念があるためでしょう。
鰹木は9本、千木は垂直切りの本殿は、国の重要文化財に指定されています。

金色や極彩色の装飾が、黒を基調とする社殿に良く映えています。
拝殿・本殿の見事な装飾を、時計回りに見て行きましょう。
拝殿正面


本殿西面


本殿北面


本殿東面



本殿の向かって左手にある「神饌殿」。
神事の際に供える供物を納めておく所です。

「神饌殿」の横には「練習艦かとり」の錨が置かれています。
「かとり」は昭和42年の建造され、平成10年に除籍となるまで、地球と月の間を2往復半
する距離を航海しました。
江田島で解体後、この錨が命名の由来となった「香取神宮」に奉献されることになったのです。

「神饌殿」から奥に進むと「三本杉」があります。
「後冷泉天皇御宇源頼義公が参拝し「天下太平社頭繁栄子孫長久の三つの願成就せば
此の杉自ら三岐に別れん」と祈願したところ一株の杉が三岐に別れた 以来これを三本杉
と云う」 説明板にはこう書かれています。
三つに別れてから千年も経っているのですから、樹齢は相当なものですね。
残念ながら三本の内真ん中の杉は枯れてしまっています。
まだ境内の半分も見ていませんが、ここから先は次回に譲ります。
前回訪ねた「奥宮」や「祖霊社」がある道は旧表参道ですが、今回は旧参道を利根川方向に
寄り道してみましょう。

さて、この大きな木製の大鳥居は何でしょう?
向こう側は利根川、手前は堤防です。
あたりに神社は見当たりません。

この辺りは津宮河岸(つのみやかし)と呼ばれています。
この「常夜燈」は明和六年(1769年)の紀年銘があり、水運が盛んだった頃に一種の燈台
のような役目をはたしていたようです。

「常夜燈」の隣にある与謝野晶子の句碑。
「かきつはた 香取の神の 津の宮の 宿屋に上る 板の仮橋」
晶子が明治44年にこの地を訪れた時に詠んだ句で、平成2年にここに設置されました。


目の前には利根川下流のゆったりした流れが広がっています。

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利根川に向かって建つ「浜鳥居」。
この鳥居はご祭神がここから上陸したことに由来すると伝えられていて、朝廷からの奉幣使
が鹿島神宮から香取神宮に向かう時、海を渡ってここに上陸して香取神宮へと向かうのが
習わしであったそうです。
鳥居は高い土手の河原側に建っていて、土手の内陸側を走る利根水郷ライン(国道356号)
からは、その上部がチラリと見えるだけです。
平成14年に香取神宮のご用材を使って建て直されたものです。
ここでは12年に一度、式年神幸祭が行われます。
神幸祭を始め香取神宮は非常に祭事の多い神社としても知られています。
その祭事を追いかけていると、どんどん脇道にそれて行きそうなので、いずれ機会があったら
紹介したいと思います。

「香取神宮」は延喜式の式内社で、下総の一の宮です。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社となっています。
また、全国に16社しかない「勅祭社」(祭礼に際して天皇より勅使が遣わされる神社)
でもあります。
ここからが前回の続きです。
大きな石灯籠の続く参道をしばらく進むと、左手に神池が見えてきます。
この池は昭和53年に式年大祭の記念事業として造られ、昭和55年10月に完成しました。


この日は雨あがりだったので水面は濁っていました。
小さな滝がこの池に水を流し込んでいます。


滝の上に登ってみると、壊れた石灯籠が無造作に積み上げられていました。
後方に見える道は、前回紹介した津宮の「浜鳥居」から「奥宮」や「祖霊社」を通ってくる
昔の表参道です。


三の鳥居の右手前には「神徳館」があります。
旧宮司邸跡に昭和36年に建てられましたが、その茅葺の門は天明元年(1781年)に
造営されたもので、勅使門でした。(現在補修中)
この「神徳館」の敷地内には、末社の「壐神社(おしでじんじゃ)」と、「大山衹神社(おおやま
づみじんじゃ)」があります。
二社とも急斜面にあって、側まで行くのは大変です。
「壐」とは、御印(みしるし)という意味で、国王の印のことを指す言葉です。
また、三種の神器の一つである八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を指す言葉でもあります。
ご祭神に関する記述が見当たりませんが、この神社の持つ意味は何となく分かります。
「大山衹神社」のご祭神は「大山衹命(おおやまづみのみこと)です。
壐神社


壐神社から見た神徳館


目の前にコンクリート製の「三の鳥居」と「総門」が見えてきました。
鳥居は平成10年の建立で、「天皇陛下御即位拾年」と記されています。
手前には堂々たる狛犬が・・・。





大きく立派な「総門」をくぐると、いよいよ本宮の境内です。

総門をくぐると左手に大きな手水舎があります。
参拝に際しては、まずここで手、口を清めて本殿へと向かいます。

手水舎の脇にある「海抜百三十尺」の碑。
大正12年に「大阪探勝わらぢ會建立」と記されています。
130尺は約39メートルということになりますが、調べるとこの辺りの標高は38メートル
ですので、ほぼ正確な値ですね。
手水舎のさらに左側に木柵に囲まれた一角が見えます。

末社の「市神社(いちがみしゃ)」と「天降神社(あまくだりじんじゃ)」。
ご祭神は「市神社」が「事代主神(ことしろぬしのかみ)」です。
合祀されている「天降神社」のご祭神は、「伊伎志爾保神(いきしにほのかみ)」と鑰守神
(かぎもりのかみ)」です。
「天降神社」は以前は境内の東側の外れで、「諏訪神社」と並んでいました。

隣に並んで建っているのは、同じく末社の「馬場殿神社(ばばどのじんじゃ)」で、ご祭神は
「建速須佐之命(たけはやすさのおのみこと)」です。

「木母杉」。
「貞享元年水戸光圀参宮の折四丈五尺余の老杉であるのを見て此の宮地の数多の杉の
母であろうと名付た 此の杉は今は枯れて寄生した椎樹のみが残る」
説明の木札にはこう書かれています。
さらに、「香取神宮小史」には、この木母杉の項で、黄門さまが参詣する以前の様子を、
「太古宮地は皆槻の木であったが、その後竹林となり、更に杉林となったと云ふ。」
と書いています。
なかなか拝殿・本殿まで進めません。
次回は香取神宮の象徴的な建造物である「楼門」をくぐり、拝殿・本殿へと進みます。
江戸時代以前には「伊勢神宮」、「鹿島神宮」と、この「香取神宮」の三社のみが「神宮」と
称されていた有名な大神社です。
(見るべきものが非常に多いので、数回に分けてご紹介する予定です。)

社伝では初代神武天皇十八年(紀元前642年?)の創建と伝えられている「香取神宮」。
ご祭神は「経律主大神(ふつぬしのおおかみ)」。
古来より下総国の一宮として、広く人々の崇敬を集めてきました。
「全国でも有数の古社として知られ、古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏
から氏神の一社として崇敬された。その神威は中世から武家の世となって以後も続き、歴代
の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道分野からの信仰が篤い神社である。」
(香取神宮ホームページより)
神話の時代から続く「香取神宮」ですが、明確にその存在が記録されている最初のものは、
元明天皇の命により和銅六年(713年)に編さんされ、養老五年(721年)に成立した常陸国
の地誌、「常陸国風土記」に、香取神宮から分祀した社の記載があることです。
したがって、少なくともこれ以前に「香取神宮」は存在したことになります。
旧佐原市街(現香取市)を香取神宮に向けて県道55号線を進むと、県道56号線との交差点
に巨大なコンクリート製の明神鳥居が目に入ります。


これが「香取神宮」の「一の鳥居」です。
島木に皇室の十六花弁菊紋を3つ付けた堂々たる鳥居です。
これを一の鳥居とせず、津宮にある「浜鳥居」を「一の鳥居」とする解説が多く見られます。
確かに、昔は浜鳥居を一の鳥居とする表参道が、本宮の楼門横に続いていたのですが、
現在はこちらを一の鳥居として新たな表参道が約1.6キロ続いています。
(「浜鳥居」は次回に訪ねます)


表参道と言うものの、「一の鳥居」をくぐっても何の変哲もない生活道路が続きます。
成田山のそれとは違い、茶店や土産物屋の並ぶ景色はわずか百数十メートル。
すぐ先に朱塗りの「二の鳥居」が見えています。

「二の鳥居」。
こちらも一の鳥居と同様の神明鳥居です。
脇に建つ社号標は平成23年11月の建立、と言うより再建です。
平成23年3月の東日本大震災で損傷を受け、8ヶ月後に再建されました。
「香取神宮」の文字は、日露戦争でバルチック艦隊を破った「軍神・東郷平八郎」のものです。

昭和5年の石灯篭。

鳥居をくぐると砂利を敷き詰めた広い参道と、両脇に林立する石灯篭が奥へと続いています。

参道の左手に山の上に向かう道が見えます。
「要石道」と刻まれた石柱が立ち、説明板があります。
奥 宮 (おくのみや)
当宮の旧参道脇に御鎮座。
御本殿に経津主大神の和御魂を御祀りするのに対し、奥宮は荒御魂を御祀りする。
これは大神の大いなる御働きのひとつで「心願成就」に霊験あらたかである。
現在の社殿は、昭和四十八年伊勢神宮御遷宮の折の古材に依るものである。
要 石 (かなめいし)
古伝によればその昔、香取・鹿島の二柱の大神は天照大神の大命を受け、芦原の中つ国
を平定し、香取ヶ浦付近に至った。
しかし、この地方はなおただよえる国であり、地震が頻発し、人々はいたく恐れていた。
これは地中に大きな鯰魚が住みつき、荒れさわいでいると言われていた。
大神たちは地中に深く石棒をさし込み、鯰魚の頭尾を押さえ地震を鎮めたと伝わっている。
当宮は凸形、鹿島は凹形で地上に一部だけをあらわし、深さ幾十尺とされている。
貞享元年(一六六四)三月、徳川光圀公が当宮に参拝の折、これを掘らせたが根元を見る
ことが出来なかったと伝わる。


少し登ると「護国神社」の社号標(昭和46年)と鳥居があり、趣のある古道が続いています。

上り坂の途中にちょっとした平地があり、鹿島神宮でよく見かける鹿の角を彫った手水鉢が
置かれています。
寛文十年(1670年)と記してあります。



この「護国神社」は昭和21年の建立で、明治以降の国難に殉じた香取郡出身の御霊を
ご祭神としています。
思ったより広い境内には、他に何もありませんが、ここで春秋2回の例祭が行われます。

漬物石のような(失礼)要石


「要石」は「護国神社」の左を入った突き当たりにあります。
石柵の中には小銭がたくさん投げ入れられていました。
説明板にあった通り、凸型の頭を出しています。
以前訪れた鹿島神宮の要石は凹型(と言うより平面)でした。
黄門様ならずとも、ちょっと根元を掘ってみたくなりますね。
向かい側にある小さな祠は末社の「押手神社」です。
ご祭神は「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」で、伏見稲荷大社の主祭神でもあります。
下にキツネが見えるのも、そうしたつながりからですね。
さて、「奥宮」はどこなのでしょう?
それらしき建物は見当たりません。

あちこち探し回ってやっと見つけました。
要石の先を左に折れて、一般道をさらに左に50メートルほど歩くと「奥宮」はありました。
社号標は平成24年のものです。



社号標の左手前に「天真正伝神道流始祖 飯篠長威斎墓」があります。
「飯篠長威斎」は旧飯笹村(現多古町)出身で、室町時代に形成された我国最古の権威ある
流儀の始祖とされています。
この流儀を修めた人物の中には、塚原卜伝、雲林院 松軒を始め、竹中半兵衛等、多くの
歴史上の人物がいますが、リストの最後に「山崎丞」の名前を見つけました。
少々脱線しますが、「山崎丞(やまざきすすむ)」は摂津出身の新撰組隊士で、その卓越した
能力を近藤勇に認められ、諸士調役兼監察役を任せられていました。
池田屋騒動では浪士達の密会を探り当てたのがこの人物です。
鳥羽伏見の戦いで負傷、江戸に戻る富士山丸の船上で死亡し、紀州沖で水葬されました。
個人的に大好きな新撰組の中でも、裏方に徹して黙々と仕事をこなす、一番好きな人物です。
長威斎は飯篠家直という名前でしたが、60歳になって入道し長威斎を名乗りました。
多古町飯笹の地福寺(長威斎が創建したと伝えられる)にも墓があるとの記録もあります。

「奥宮」のご祭神は経津主神の荒御魂(あらみたま)です。
「本宮」のご祭神は経津主神の和御魂(にぎみたま)ですが、この二者の関係はどういう
ものなのでしょうか?
これは神道の概念で、神の霊魂は、荒御魂と和御魂の二面を持つとされています。
荒御魂は荒ぶる魂を意味し、災害や流行り病などを起こして人々の心を荒廃させ、和御魂
は陽の光や雨などの恵みをもたらします。
「神の祟り」は荒御魂の表れであり、「神のご加護」は和御魂の表れとされます。
この二つは同じ神でありながらその相反する性格から、別々に祀られることも多くあります。
人々は荒御魂の怒りを鎮め、荒御魂を和御魂に変えようとして、いろいろな供物を捧げたり、
儀式や祭を行ってきたのです。
また、荒御魂は荒々しいだけでなく、破壊の中から新しいものを生み出す存在でもあります。


高い板塀に囲まれて中を良く見ることはできません。
千木が水平切りで鰹木が4本ということはご祭神が女神であることを表しますが、経津主神
は男神のはずなので疑問が残ります。
資料を探しましたが、この件に関する記述は見つかりませんでした。
千木・鰹木には例外もあるようなので、時間をかけて調べようと思います。

質素なお社ですが、現在の社殿が昭和48年の伊勢神宮遷宮の際の古材を使用して建て
られたこともあるのでしょう、周りの深い森の空気と共に厳かな雰囲気が漂ってきます。

飯篠長威斎の墓と道路を挟んで向かいあう、小高い丘の上に「祖霊社」があります。




金剛宝寺の名残りでしょうか、如意輪観音と種字のようなものがうっすらと見える石板が
取り残されたようにポツンと置かれています。

椿の枝が茂り、篠竹が伸び放題で社殿には近づけません。
現在は香取神宮の末社リストにも並んでいない忘れられたお社ですが、神仏混淆の時代
にはここに香取神宮に属し、「十一面観音菩薩」を御本尊とする「金剛宝寺」がありました。
明治に入り、神仏分離令によって廃寺となりましたが、摂末社にも残されていないとは
どういう経緯があったのでしょうか?

風雪に晒されて、紀年銘も、お顔もはっきりしませんが、歴史に翻弄された日々を静かに思い
起こされているようなポーズです。
どの資料を見ても、香取神宮の摂末社の中には「祖霊社」の名前はありません。
歴史ある大神社の「香取神宮」を歩き回れば、先ほどの「奥宮」の千木・鰹木を始め、この
「祖霊社」など、これからも数々の疑問が湧いてくるのでしょうが、いずれ突然謎が解ける
ことを期待して、参道に戻ることにします。

参道に戻ってきました。
本宮への道は石灯籠の林です。
両側はスギ、スダジイ、シラカシ、シロタモなどの深い森です。
遠くから眺めると、神社のある丘と森が亀の甲羅のように見えることから、地元では
ここを「亀甲山」と呼んでいます。
次回は「浜鳥居」に寄り道をしてから、参道を進んで、「三の鳥居」「総門」へと進みます。