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sausalito

Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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ちょっとしたスポット~芦田の山中に埋もれた「妙見社」
【 ちょっとしたスポット 】


「成田市史・近代編史料集一」(昭和47年 成田市史編さん委員会)に収録されている
明治19年の「町村誌料」には、芦田について、

「伝ニ云。中昔千葉家臣芦田五郎ト云シ者本村エ居住シ、村名ヲ芦田村ト改称セリ。」

と書かれていますが、佐倉藩や淀藩に属した後、明治になって芦田村となり、昭和29年に
成田市に編入されました。

芦田は昭和63年時点での人口が683人でしたが、平成22年には166人と急速に
過疎化が進んでいます。(「成田の地名と歴史」平成23年 成田市発行 P65)


芦田八幡ー27 芦田の八幡神社
芦田八幡ー37

芦田の「八幡神社」の脇に、山を下って行く細道があります。
鬱蒼とした森の中に続く道は薄暗く、入って行くにはちょっと勇気が要ります。
 芦田の八幡神社  ここをクリック


芦田八幡ー38

道は荒れ果てて、そこここに竹や杉の木が倒れています。
人が通ることはほとんど無い感じで、枯葉が路面を覆っています。


芦田八幡ー39

倒木をまたいだり、くぐったりして、500メートルも進んだでしょうか、突然視界が開けて、
小さなお社が現れました。
正月に飾られたのでしょうか、まだそれほど傷んでいない注連縄が飾られています。


芦田八幡ー40

消えかけた神額には「妙見社」と書かれているようです。


芦田八幡ー48
芦田八幡ー49

この一帯はその昔、千葉一族の大須賀氏の勢力圏でした。
屋根につけられた九曜紋は、その大須賀氏の紋です。
以前に訪ねた伊能の寶應寺には、堂々たる九曜紋が掲げられていました。
 寶應寺  ここをクリック


芦田八幡ー41
芦田八幡ー51
芦田八幡ー50

四隅には地味ながらしっかりとした彫刻があります。


芦田八幡ー43

前述の「成田市史・近代編史料集一」に、芦田村の「妙見社」に関する記述を見つけました。

妙見社
所在  字臺    坪數  百八坪
祭神  天御中主命(アメノミナカヌシノミコト)
社格  無格社
創建年月日  不詳
祭日  舊暦十一月八日ヲ用ユ。
氏子  芦田村
末社  ○
     祠官澤田總右衛門
雑項  ○


天御中主命は、天地開闢の時に高天原に最初に出現した造化三神の内の一神です。
造化三神とは、「天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)」、「高皇産霊神(たかみむすびの
かみ)」、「神皇産霊神(かみむすびのかみ)」を指しますが、「天御中主神」は天地開闢
以降、「古事記」にも「日本書記」にもプッツリと登場しなくなります。
自然に忘れられた神となっていましたが、鎌倉時代以降に天地を支配する「最高神」として
信仰されるようになり、江戸時代に入るとその信仰は全国津々浦々に広まって行きました。
北の空にあって常に動かない「北極星」を宇宙の中心ととらえる道教の思想が、仏教では
「妙見菩薩」となり、神道では「天御中主神」となりました。

なお、祠官澤田總右衛門とありますが、この人物は当時芦田村の全ての神社、すなわち、
八幡神社(字・臺)、妙見社(字・臺)、愛宕神社(字・海老川)、愛宕神社(字・臺)の四社の
祠官として、名前が出てきます。

また、明治19年当時の芦田村の状況については、次のような資料が残されています。
○ 戸数は、士族が2戸、平民が91戸、計93戸
○ 人口は、士族が5名(戸主2名、家族3名)、平民が470名(戸主91名、家族391名)
○ 戸主93名の内、男性は91名、女性は2名
○ 家族394名の内、男性は177名、女性は217名
20歳未満は149名で全人口の31%、50歳以上は113名で23%となっています。
少子高齢化と過疎化が進む現在とは違い、民力の伸長する時代を反映した人口構成ですね。


芦田八幡ー42
芦田八幡ー52

ここから先は道はありません。
荒れた山が続いています。
この道は「妙見社」にお参りするためだけの道のようです。


芦田八幡ー47
・・・・・・・・・・・・芦田八幡ー43・・・・・・・・・・・芦田八幡ー44

山中にひっそりと佇む「妙見社」の周りには、ただ静寂があるばかりです。
時折、上空を飛ぶ旅客機の轟音が、その静寂な空気を揺らします。

お社以外に何もない空間ですが、私のようなひねくれ者にはなかなか気持ちの良い場所です。


芦田八幡ー45


             ※ 「妙見社」 成田市芦田
                以前紹介した「芦田の八幡神社」から徒歩約5分

              


テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

寺社 | 08:22:24 | トラックバック(0) | コメント(2)
見事な鐘楼門~能満寺
今回は「浄妙寺」に続いて、多古町の「能満寺(のうまんじ)」です。

能満寺ー1

通りから長く急な石段が伸びています。
この辺りは急坂が続き、その坂のさらに上に「能満寺」はあります。


能満寺ー2

石段下に立つ正徳五年(1715年)の「題目塔」。
風化・摩耗もなく、300年も前のものとは思えません。
「南無妙法蓮華経 奉唱玄号 三万部成就」と刻まれています。

能満寺ー3

石段の途中から山門が見えてきます。
この石段は91段ありました。


能満寺ー4

石段を登ったところにある2基の題目塔。
いずれも風化が進んでいますが、左は文化十二年(1815年)のもので、「南無妙法蓮華経」
と読めます。
右は「寛永」の年号以外はほとんど読めませんが、かろうじて「部」という文字が読めますので、
奉唱供養塔なのではないでしょうか。

能満寺ー5
能満寺ー6

山門と見えたのは、堂々たる鐘楼門でした。
天保九年(1838年)の建立で、山門の上部は鐘楼となっています。
説明板には構造について詳しく書かれています。

「入母屋造り、銅板瓦棒葺の四脚門で扇棰の二軒、妻飾りは虹梁蟇股式である。
平面プランは桁行三・四八m、梁間三・四九mとし、主柱、控柱は円柱で、腰貫、
虹梁、台輪で結架し、柱上は和様の三手先斗栱をつけ、上層の回縁を支え、象鼻
を飾る。表側左右の柱を結ぶ虹梁の上部に頭貫、台輪、中央に三手先斗栱、梁蟇
を具える。上層は円柱に長押、台輪で結架し、周囲に回縁、和様の高欄がつく。
柱間には中央に双開扉、左右は格子窓とする。」(以下略)


能満寺ー20

四脚門とありますが、実際には六脚あります。
私の数え方に問題があるのでしょうか?

※この件についてメールをいただきました。
門柱が二本で、控柱が左右に二本ずつ、計四本あるものを四脚門と言うことが分かりました。
すっきりしました。ありがとうございました。(4/2記)


鐘楼部分の方が大きい造りになっていますが、吊り下げられた梵鐘の重みで安定を保つ
ように設計されています。
戦争中に梵鐘が供出された後は、梵鐘と同じ重量の石が吊るされているそうです。

一見とても不安定な建造物に見えますが、関東大震災にも、東日本大震災にも耐えた
ということは、よほど綿密な設計と丁寧な施工が行われたのでしょう。
「天保九年(一八三八)九月二十六世日温の時代に建てられたもので、棟梁は村内の
及川半兵衛であると伝えられ、同家の墓石に、次のように刻まれている。『当山鐘楼門者
師龍牙院日温聖人之再建而 棟梁者父円珠院誠貞日敬也 依修復料嘉永四年三月
金子拾両納之』」
 (「多古町史 上巻 P900)

墓石に刻まれている嘉永四年は1851年、鐘楼門が建立されたのは天保九年(1839年)
ですから、半兵衛には建築後も修復の依頼があったのでしょう。
残念ながら及川半兵衛の記録は他に見当たりませんが、知られざる名工と言えるでしょう。
180年後の今も堂々と立つ鐘楼門を見たら、彼はどう思うのでしょうか。


能満寺ー7

境内左手の「稲荷神社」。

能満寺ー8
能満寺ー9

「能満寺」は山号は「勝栄山」。
日蓮宗のお寺で、天文五年(1536年)の開創とする説と、天正三年(1575年)とする
二説があります。

「多古町史 上巻」に記載されている開創に関する二説資料を紹介しておきましょう。
一つは明治初期の「寺院明細帳」で、
   
   千葉県館下下総国香取郡東松崎村字戸ノ内
      千葉県下安房国長狭郡小湊村誕生寺末
                             日蓮宗  能満寺
一、 本尊 釈迦牟尼仏 
一、 由緒 当寺開山日運聖人コトハ安房国長狭郡小湊村平民正木左近太夫舎兄、
    同国同郡同村誕生寺住職日境聖人ノ徒弟ニシテ日運ト云フ、天文五丙申年
   (一五三六)四月当地方ニ来テ旧故妙正庵ト云フ之ニ付、天文五丙申年八月
    九日一箇寺創立スト、只古老ノ口碑ヲ記載スルノミ  以上
一、 堂宇間数  本堂縦七間半横五間半、庫裡縦九間横五間
一、 境内坪数  千三百五坪持主能満寺
一、 境内仏堂  無之 建物鐘楼門縦二間横二間
一、 境内庵室  無之
一、 境外所有地  耕地段別壱町壱畝四歩
             山林段別三反三畝廿八歩
  (P899)

そしてもう一説は「過去帳」にある記述で、

「天正三年(一五七五)十一月当山開基勝栄院日運聖人、房州加茂日運寺ト当寺両寺一寺
也日運トハ房州正木大膳太夫也、正木左近太夫ノ舎兄也、御知行所松平左門殿領分加茂
日運寺ヨリ引キテ山ヲ開キシ寺号也、両山一寺ノ証文廿二世本山日明師御本尊ニ有也、同
廿四世映師ノ御証文別ニ有之、並ニ永聖ノ証文有之宝凾ニ収ム(両寺一寺ハ十代心常院
日行聖人迄続ク十一世要善院日円聖人当能満寺中興サル)」
  (P899)

これらの資料では、開創年代の違い以外に、開創してしばらくの間は、房州加茂の日運寺と
「両山一寺」の関係であったという興味ある記述が見えます。


能満寺ー10

開放的な本堂のガラス越しに、ご本尊(?)が見えます。
失礼して一枚撮らせていただきました。

能満寺ー14

この手水盤は昭和12年に奉納されたものです。

能満寺ー13
能満寺ー12

境内の左手奥に昭和63年に建てられた「水子観音」があります。


能満寺ー16

墓地には、元禄、宝永、享保、寛保、寛政、文政などと記された古い墓石に交じって、
明治以降の新しい墓石も見えます。


能満寺ー19

墓地の奥、突き当たりの場所に、「南無妙法蓮華経」と刻んだ題目塔を見つけました。
題目の左右に、「當寺 日運聖人 中興■■」「開山 日明聖人 當寺■■」とあります。
注目すべきは側面に記された「天正三亥十一月九日」の文字です。 
天正三年(1575年)は、前述した二説ある能満寺開創の年代の一つです。
どうやら「過去帳」にあった天正三年説が有力となってきました。


能満寺ー11
能満寺ー21
能満寺ー17

「日運寺」については、里見家の重臣、正木時道が出家して加茂にあった荒廃した小堂を
再興して「日運寺」とし、自らも「日運」と名乗ったと伝えられています。
そして、ここ「能満寺」は「日運」の隠居所として開かれたとも伝えられています。

立派な鐘楼門に梵鐘が無いのはいかにも残念ですが、鍾銘が「多古町史」に残っています。

「奉造立椎鐘一器勝栄山能満精舎常住
奉慎唱満一切経之惣要一千部成就所
奉自書写超八醍醐妙経十部成弁所
右白福初修志者慈父常徳院妙正日行
悲母清光院妙泉日相擬報恩謝徳者也
為妻女真如院晴月妙林日泉証右菩提
先祖一門法界有無二縁平等抜苦而己」
  (P900~901)

宝永三年(1706年)、「江戸神田住粉川丹後守作」と記されていたそうです。
鐘楼門の建立より130年も前に鋳造されたことになります。
勝栄山の文字がありますから、このお寺のために造られたことは間違いないでしょう。
鐘楼門が建立される前にあった鐘楼に吊るされていたものなのでしょうか?
とすると、棟梁の及川半兵衛は、この梵鐘の重量を計算した上で、鐘楼門を安定させる
設計をしたことになりますね。

こう考えると、この鐘が吊るされた鐘楼門を一度見てみたかったな、と思いました。


能満寺ー18


             ※ 「勝栄山能満寺」 多古町東松崎1957
                多古循環バス 常盤・中ルート 塙坂上 下車 徒歩3分
                駐車場なし(裏参道に回って急坂を登れば、かろうじて1~2台分の
                スペースがありますが、境内に直接乗り入れる形になります。) 



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多古町の寺社 | 10:43:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
多古町最古のお寺~浄妙寺
今回は多古町最古のお寺、「浄妙寺(じょうみょうじ)」を訪ねます。

浄妙寺ー1

浄妙寺の前身は「法性山東耀寺」で、「土橋山東漸寺」(現「東禅寺」)とともに鑑真を開基
として天平宝字(757~765)のころの開創と伝えられています。
「天平法字二年、下野の薬師寺と筑紫の観世音寺に戒壇が設けられ、東大寺と合わせて
三戒壇といわれているが、東耀・東漸二寺もそれにならい東大寺と合わせて三壇三東を
称していた。なお、東耀寺は聖武天皇の祈願所であったともいうが、伝えられる開創年代
には天皇はすでに亡くなっている。」
 (多古町史上巻P45)

「浄妙寺」は1250年余の歴史を有する、この地方有数の古刹です。
鑑真を開基としていますから、当初は律宗のお寺でしたが、永仁年間(1293~1299)に
真言宗に改宗し、その後正平元年(1346年)に日蓮宗に改宗しています。
「多古町史」には
「往昔七堂伽藍完備し、総国屈指の大霊場たりしも、南北朝時代に入りて荒廃に傾き、
遂に正平元年に至りて本宗に改め、山称寺号を改むと伝ふ」

と「大日本寺院総覧」(大正5年)からの引用が見えます。(P45)


浄妙寺ー30

樹齢数百年にはなろうかという、銀杏の大木が迎えてくれます。


浄妙寺ー2

門柱と並んで「南無妙法蓮華経 法性山浄妙寺」と彫られた石柱が立っています。
昭和55年の建立で、側面には「宗祖第七百遠忌報恩奉行塔」と記されています。


浄妙寺ー3
浄妙寺ー4

仁王門の右手前に朱塗りのお堂があります。
何のお堂か分かりませんが、鞘堂の内壁に沢山の十二支の絵馬が掛っています。

浄妙寺ー5
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浄妙寺ー6

仁王門の前、左右に2基の題目塔があります。
左は明治11年の「宗祖(日蓮)六百遠忌」の題目塔で、右の題目塔には天明元年(1781年)
に営まれた五百年忌法要について記されています。


浄妙寺ー7

この立派な仁王門は寛保年間(1741~43)頃に建てられたもののようです。
掲げられている扁額は、京都の宝鏡寺の本覚院宮法親王が書いたものと伝えられています。

浄妙寺ー9
浄妙寺ー28
浄妙寺ー8
浄妙寺ー27

左右に見事な仁王様が立っています。
2メートル近い堂々たるお姿で、250年以上も立ち続けています。
江戸の大仏師・法橋高山がこの二体の仁王様を納めた時の代金領収書が残っています。

     覚
一、 仁王  御長六尺三寸  弐躰
    代金弐拾六両三分相定
    右之通不残慥請取相済申候所実証也  為念如此候 
    宝暦十二年午九月十五日
    江戸下谷池之端仲町
       御大仏師 法橋高山 ㊞
    浄妙寺  日透聖人様    
         (「多古町史下巻」 P212)


浄妙寺ー10

「南無妙法蓮華経 有無両縁萬霊供養塔」と刻まれた石塔の周りには、沢山の古い板碑や
墓碑が積み上げられています。


浄妙寺ー11

「慈母観音」ならぬ「悲母観音」。
「悲母観音」は狩野芳崖の画が有名ですが、観音像としては私は初めて目にしました。


浄妙寺ー13
浄妙寺ー12

手水盤の脇に観音様を置いた手水舎。
手水盤には明和七年(1770年)の紀年銘が記され、江戸堺町(現人形町)の文字も見えます。


浄妙寺ー14

ご本尊は「釈迦牟尼仏」です。
このお寺は当初、現在より北方の高台である法性台にありましたが、応永二十年(1413年)
に大風によって倒壊し、現在地に移転しました。

天正十八年(1590年)には徳川家康によって十二石の朱印地が寄進されましたが、その時
の記録が残っています。

寄進  浄妙寺
     下総国匝瑳郡
     中村郷之内
  拾弐石事
右令寄附証
殊寺中可為不
入者也扔如件
  天正十九年辛卯十一月日 (御朱印) 
 (多古町史 下巻P198)


浄妙寺ー16
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浄妙寺ー17
境内脇の墓地には、古い墓石が並んでいます。
寛文、正徳、元文、明和、天明、文化、天保などの年号が読めます。


本堂の屋根を見上げると、何やら不思議なものが見えます。
金網で覆われているため良くは見えませんが、成田山の「釈迦堂」の「火伏の鬼」のように
棟木を支えている力士像のようです。
東西に一体ずつあり、境内から少し離れるとはっきり分かります。
釈迦堂の火伏の鬼 ⇒

浄妙寺ー20
浄妙寺ー19   東の力士
浄妙寺ー21
浄妙寺ー22
浄妙寺ー23   西の力士

多くの記録が残る「浄妙寺」ですが、この力士像に関する資料は「多古町史」にも収録
されていません。
応永二十年の移転の時に造られたものなのでしょうか?
良く見るとあちこちが大分傷んでいるようです。
長い間この大屋根を支えているのは大変でしょうと、思わず同情してしまいます。


浄妙寺ー24

このお寺は山の裏側を回り込むように下る坂の下にあります。
お寺の前には谷津が広がっています。

浄妙寺ー25
浄妙寺ー29

1250年という歴史を有する「浄妙寺」は、多古町最古のお寺です。
享保六年(1721年)の文書には、
「惣境内  長六町 横四町半
        此内ニ松杉等林御座候」
 (「多古町史 下巻 P206)
とあります。
かつては広大な境内を有していた「浄妙寺」。
今ではその十分の一にも満たない広さですが、しっかりと記録が残され、歴史的に大きな
価値を持つ存在になっています。


浄妙寺ー31

              ※ 「法性山浄妙寺」 多古町北中2214
                 多古新町・道の駅多古等から循環バス 常盤・中ルート
                 六所神社下車 徒歩約10分    駐車場あり


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多古町の寺社 | 08:24:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
千葉氏の月星紋が光る~臨済宗の円通寺
円通寺ー1

「円通寺」は臨済宗妙心寺派のお寺で、ご本尊は「千手観音菩薩」。
山号は「豊饒山」です。
ご本尊に関しては「久住村郷土誌」(明治44年編 成田市史近代資料集一に収録)に
こう書かれています。

「當寺本尊閻浮檀金千手観音菩薩
由来 開山開成大師安置し給ふ尊軀にして、身の長七寸、往昔より秘蔵なり。若三十三年に
當て一回宝扉を開きなば、六月と雖も必氷雪降る。霊験の厳なること世の知る所なり。宝龕
方形高さ一尺三寸、四扉に二十八部衆風神雷神を彩画す。謳摩法眼栄賀の筆なり。」


七寸(約21センチ)とはずいぶん小さなご本尊ですね。


円通寺ー2

参道の先に山門と脇門が並んでいます。
この二つの門は、かつて落城した助崎城にあった門だと言われています。


円通寺ー3

山門は太い木材で組み上げられ、朱色の屋根には「豊饒山」の山号と有名な千葉氏の
家紋、「月星紋」が輝いています。
この門は普段は閉められているようです。

円通寺ー4

脇門もしっかりとした造りです。

円通寺ー5

参道の左手脇にある「観音堂」。
すっきりとしたお姿の如意輪観音の左には、「十三夜 十五夜 十九夜講中」と記されています。
ずいぶんと欲張った月待塔ですね。
安永六年(1777年)の建立です。

 観音様の前には大きなお地蔵様  円通寺ー6
円通寺ー7
お地蔵さまは寛政二年(1790年)、足下右には寛政六年(1794年)の「心経十萬供養塔」、
そして、その後ろに天保十四年(1843年)の「青面金剛明王」と彫られた庚申塔、左には
寛政五年(1793年)の「十三佛供養塔」が並んでいます。
お地蔵さまの台座には、正面に「願王尊」、側面に「念佛塚」と彫られています。


円通寺ー9

一瞬スズメかと思いましたが、一回り大きいホオジロです。
山門の前でのんびり日向ぼっこです。

※リンクをいただいている「地誌のはざまに」のkanageohis1964様から、この鳥はツグミでは?
  とのご指摘をいただきました。なるほど、そのようです。kanageohis1964様からは以前にも
  野鳥の名前についての情報をいただいています。ありがとうございます。(3/22)

円通寺ー10

「円通寺」は京都の「妙心寺」の末寺で、もともとは建長寺派に属していましたが、近世に
入り美濃の北野大智寺広厳禅師の弟子の宗真を住職として、妙心寺派になりました。

成田市内の臨済宗の寺院は、ここ「円通寺」の他は円通寺の末寺である大室村の「栽松院」
(廃寺)と土室村の「福善寺」(廃寺)のみでしたが、平成18年の合併で旧大栄町の「長泉寺」
と「耕田寺」、旧下総町の「東光寺」と「楽満寺」が加わりました。
いずれも妙心寺派に属しています。

「久住村郷土誌」には、「円通寺」の由来について以下のように記載されています。

「人皇第四十九代光仁天皇之皇子攝州勝尾山第二世関成大師開闢之道場也。大師東遊之
日晦迹於當山中有年終達、天聴勅賜山園方三十六丁及良田数百頃創建藍舎為皇基祈願
之地。即號豊饒山円通寺傳言扶桑国以円通牓寺院之最初也。径数有歳後為兵起故国中
騒乱僧徒逃散寺門亦癈壊助崎城主千葉某再建諸堂便請鎌倉建長寺國一禅師住持當山、
其後千葉一子旭菴和尚住院之時、房州里見内膳家臣狼藉之時奪取御朱印之綸旨等古来
五百貫寺領令没取尓後、寺門遂日下襄幸暦。東照神君被一統天下之日、住持實岫頻趨
幕府数陳前件告許数面、雖未無降下先領之。官許辱承山林境内不違先規台中命中興於
當寺屬於妙心派下台來有両四欝収災此故開山以来漆器什物悉皈灰燼只開成大師所安置
閻浮檀金本尊千手観音一尊幷千葉氏大長刀一柄家臣白石外記尾大槍一柄千葉之鞍幷鐙
其外画幅等存。」


攝州の勝尾山で修業した光仁天皇の皇子である開成(かいじょう)大師が東国に下り、この
地に「円通寺」を開き、天皇から豊かな田畑山林を賜って山号を豊饒山としたこと、その後
兵乱で荒廃した寺を助崎城主により再建され、鎌倉の建長寺の國一禅師を招いたこと、
以降、多々紆余曲折があって、妙心寺派となったこと、などが書かれています。
ここにある「大長刀=薙刀」は「常胤四男胤信を愛して之を與ふ」と「久住村郷土誌」に記され
ているものです。
「大槍」は「胤信の忠臣白石外記が納る所なり」とあり、白石外記は大長刀と共にこの槍を
納めたと記され、また、「鞍」は「往年天下無双の鞍工上総国望陀郡大坪村に住みし大坪
直貞が作なり」
と書かれています。


円通寺ー11

脇門をくぐった正面に立つ昭和3年の「妙心興祖徴妙大師 五百五十年」の記念碑。
「徴妙大師」は朝廷から贈られる大師という謚(おくりな)を持つ22人の中の一人で、臨済宗
では他に開成大師のみです。

円通寺ー12

記念碑の後ろには銀杏の木があります。
「千葉氏の一族大須賀氏の外護を受けていた円通寺の境内にあり、幹回り7.1Mの大樹
です。落雷のため、現在は樹勢の回復を待っています。」
 と案内柱に書いてあります。
以前は成田市の天然記念物に指定されていたそうです。

円通寺ー15
円通寺ー13円通寺ー14
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
境内の左手に二つの祠が並んでいます。
誰かは分かりませんが、高僧の像でしょうか、それぞれに一体ずつ安置されています。


円通寺ー16

明暦四年の紀年銘があるこの石碑には、四面に「博桑國總州路香取郡助崎郷大室邑
豊饒山圓通禪寺開山開成大師・・・」から始まる漢文がびっしり彫られています。
最上部には「豐山圓通禪寺」と刻まれています。


円通寺ー17

隣に立っている石柱には、「大師者光仁帝皇子桓武帝皇兄」と刻み、側面にはそれぞれ
「大般若石經墳 開山開成大師祈謄」「京都妙心寺末豊饒山円通禪寺」などと刻まれています。

円通寺ー18

この十五夜塔には「慈眼視衆生」と彫られていて享和二年(1802年)の紀年銘があります。

円通寺ー19

このお堂には四方に板張りがされていて、何のお堂かも分かりません。

円通寺ー20
本堂の屋根にある月星紋 円通寺ー21
円通寺ー22

本堂の屋根や瓦にある「月星紋」は、三日月が上を向いています。
千葉氏の家紋である月星紋の三日月が、斜め左に向くようになったのは江戸中期からで、
それまでは上向きでした。(山門の月星紋の三日月は斜めでしたね)


円通寺ー23

境内の一角にある「子安地蔵」。
後ろに見えるのは保育園です。

円通寺ー25
円通寺ー26

脇道にはみ出すように建つ鐘楼。
屋根は最近葺き替えられたようです。

円通寺ー27

墓地には貞享、元禄、享保、宝暦、寛政、文化などの年号の古い墓石が並んでいます。

円通寺ー24
円通寺ー28


満開の梅にフキノトウ。
まだ風は冷たいですが、春ですね。

円通寺ー29

脇道に熊笹に覆われた石段があることに気付きました。

円通寺ー31
円通寺ー32円通寺ー33

何も書かれていないお堂の中におられるのは、どなたなのでしょうか?
石段の状態からすると、お参りする人はいないようです。

円通寺ー34
円通寺ー35

大きな本堂に立派な山門、広い境内に鐘楼、手入れの行き届いた境内・・・。
静かに春を待つお寺です。


円通寺ー36


                 ※ 「豊饒山円通寺」 成田市大室766
                   JR久住駅から徒歩約50分
                   成田コミュニティバス大室・小泉ルート 大室青年館下車1分
                   駐車場あり


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久住村の寺社 | 08:05:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
山裾から清水が湧き出る~「大泉山城固寺」
城固寺ー1

「城固寺(じょうこじ)」は元亨二年(1322年)に創建された天台宗のお寺です。
山号は「大泉山」、ご本尊は「阿弥陀如来」です。


城固寺ー2

山門の手前に一体の石仏が坐っています。
文化十一年(1814年)と記されていますが、何の仏様かは分かりません。


城固寺ー3城固寺ー4
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「戦捷(せんしょう)=戦いに勝つ」と「紀念(記念と同意ですがもう少し深い“想い”のような
ものが込められていると私は思っています)」と刻まれた門柱。


城固寺ー5
城固寺ー6

境内にある平成8年の「本堂新築記念碑」に記されたところによれば、
「大泉山城固寺は天台宗に属し、その創建は後醍醐天皇の御宇元享二年(一三二二年)
良範僧正によると伝えられ、天正十年、元禄八年、享保十七年に夫々修繕されたが、
明治十二年七月の火災によって全院と古文書類焼失明治十六年(一八八三年)僧英純が
再建、本堂四十七坪、庫裡三十坪長屋十二坪の地方有数の伽藍となったが昭和十九年
末の米軍機本土空襲の際その犠牲となり全棟が灰燼に帰した。爾後度々再建の議が
興ったが戦後人心混乱期に当り延引したが去る平成四年住職の発願、法類諸寺院住職
の推奨と檀徒内有識者の懇願によって、再建新築の議興り同五年頭初建設委員会が
結成され委員各位の懸命な努力と檀徒の強力な支援のもとに・・・」

平成8年に新本堂が完成しました。

米軍機による爆弾投下が、こんな山中に行われるわけは無く、東京に落としそこなった
爆弾を適当に捨てたものが、たまたまこの寺を直撃したのでしょう。
余談ですが、当時の爆撃機は(今でも同じかも知れませんが)、目標の周りを旋回して
爆弾投下をするのではなく、目標上空を一直線に飛行して投下し、そのまま帰投します。
目標を通過しても投下し切れなかった爆弾は帰投途中で放棄するのが常でした。


城固寺ー7
城固寺ー8

本堂の左手には池があり、池に注ぐ水路が本堂の裏手へと延びています。


城固寺ー9
城固寺ー10

水路を辿って行くと、裏山の斜面から水が落ちています。
少量ですが、糸のように流れ落ちているのが見えます。
この寺の「大泉山」の山号はここから来ているのでしょうか。

城固寺ー11

湧水の多い土地のようで、すぐ傍にももう一か所水が浸み出している場所がありました。


城固寺ー12

本堂の陰になって見えない場所で、梅が満開になっています。


城固寺ー13

池の縁や周りには趣のある置き石や灯篭が配され、とても落ち着いた雰囲気です。


城固寺ー15

境内の外、小高い場所に墓地があります。
享保、寛政、弘化、嘉永、天保などの墓石の中に、竪者(りっしゃ)や大阿闍梨(だいあじゃり)
などの文字が見えます。
いずれも激しい修行を修めた高僧のお墓で、同じ天台宗の「薬王寺」にも多くの同様なお墓
がありました。
薬王寺 ⇒


城固寺ー16

山門に続く道端に小さな塚があり、百日紅の大木の下に小さな祠がありました。
近づいてみましたが、文字らしきものは見えません。


城固寺ー17

山門から50メートルほど手前のT字路に「一石一字塔」と刻まれた石塔があります。
これは「一字一石塔」とも呼ばれるもので、小石に経文の一字ずつを書写して地中に埋め、
その上に石塔を建てたものです。
埋経(まいきょう)と言われるもので、前述の土屋の「薬王寺」にもありました。


城固寺ー19
城固寺ー20
城固寺ー21

城固寺とは山を挟んで背中合わせの場所に「住吉神社」があります。
社殿に向かうには、「一石一字塔」の先の畦道から回り込まなければなりません。
せっかくですから86段の石段を登ってお参りしましたが、狭い境内には社殿の他には
何もありませんでした。


城固寺ー14
城固寺ー18

茨城の稲敷にある「逢善寺」を本山とする「城固寺」は、江戸時代には多くの末寺を持って
いましたが、そのほとんどのお寺が廃寺となり、今では赤荻の善福寺のみが残っています。
「成田市史 中世・近世編」中の「近世成田市域の寺院表」には、「城固寺」の末寺として
西和泉の「守泉寺」、赤荻の「善福寺」、同じく「吉祥院」、水掛の「正寿院」、芦田の「安養寺」
同じく「証明寺」の6寺が記載され、「吉祥院」が弘化四年の火災による焼失以降再建されず
に廃寺となったものを始め、「善福寺」以外には全て廃寺と記されていました。

裏山の山裾から清水が湧きだす「城固寺」。
前面に広がる山里と織りなす風景は、心休まるものがあります。


城固寺ー22

                 
                ※ 「城固寺」 成田市西和泉41-2
                  JR久住駅より徒歩約30分
                  成田市コミュニティバス 大室循環コース 赤荻経由で
                  東和泉青年館下車 徒歩2分  駐車場なし



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中郷村の寺社 | 06:50:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
ちょっとしたスポット~取り残された仏たち~証明寺跡
【 ちょっとしたスポット 】

前回訪ねた「自性院」で見た「十三仏」のつながりで、「芦田の十三仏」を探しました。

証明寺跡ー1

土室街道の「芦田入口」バス停の傍に「芦田入口」と書かれた標識が立っています。
芦田の「八幡神社」を過ぎ、さらに曲がりくねった芦田の細い山道を進むと突然右手に
石仏群が現れます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・証明寺跡ー20
証明寺跡ー21
頭の欠けた石仏には、新たにどこかで見たようなお顔が乗っています。

証明寺跡ー25

ここは芦田の共同利用施設になっています。
道から見えた石仏群は、施設への階段に沿って並んでいます。

証明寺跡ー6

共同利用施設の左手に祠が2つ。

   埃にまみれた仏様   証明寺跡ー2証明寺跡-24如意輪観世音菩薩の石板
祠の中には新旧入り混じっていろいろなものが入っています。

証明寺跡ー4

傍にはたくさんの石仏が無造作に置かれています。

証明寺跡ー22

寛政十二年(1800年)の子安観音。
十五夜講と刻まれています。

証明寺跡ー23

この石仏は風化と損傷が激しく、上部が欠損しているため紀年銘が読み取れません。
なんとか「●暦(?)三癸酉七月」と読めたような気がします。
とすると、年号は明暦か宝暦だと考えられます。
明暦三年(1657年)は丁酉、宝暦三年(1753年)は癸酉ですから、読み方を間違えて
いなければこの石仏は宝暦三年のもの、ということになります。

証明寺跡ー7

この板碑には種子のようなものが彫られているように見えますが、風化ではっきりとは
分かりません。

証明寺跡ー10
証明寺跡ー8
証明寺跡ー9

一番奥にある祠には、古い仏像や奉納物が詰め込まれ、物置のような状態です。


証明寺跡ー11

共同利用施設の裏手に回ると、置き忘れられたような小さな墓地があります。
ここは昔、天台宗の「証明寺」というお寺があった場所で、明治の初めにお寺が廃寺に
なった後、お墓だけが取り残されたのでしょう。
宝永、明和、文化、文政などの古い墓石の中に、比較的新しい昭和2年の墓石がある
ので、墓地としてはしばらくの間利用されていたようです。


証明寺跡ー19

墓石の中に紛れるように十三仏がありました。

証明寺跡ー12
証明寺跡ー13

「西国」「秩父」「坂東」「百番」などと刻まれた中に、「先祖代々供羪塔」の文字も見えます。
寛政四年(1792年)の紀年銘があります。
一番上には、他の像より一段大きい「如意輪観音」が彫られています。

「芦田の十三仏」と呼ばれてはいますが、「十三仏」は前回の「自性院」の項にあるように、
不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・ 地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観音菩薩・
勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閦如来・大日如来・虚空蔵菩薩ですから、明らかに違いますね。
小泉の自性院と十三仏 ⇒


証明寺跡ー14 一列目の観音像
証明寺跡ー15 二列目の観音像
証明寺跡ー16 三列目の地蔵像
証明寺跡ー17 四列目の地蔵像

これは「十三仏」ではなく、富里市の高野にあるものと同じ「六観音六地蔵」ですね。

六観音は、千手観音、聖観音、馬頭観音、十一面観音、如意輪観音、准提観音(天台宗
では不空羂索)で、六地蔵は、檀陀菩薩、宝珠菩薩、宝印菩薩、持地菩薩、除蓋障菩薩、
日光菩薩となります。
それぞれの像は簡略化されていますので、分かりにくいのですが、一列目の「馬頭観音」
や「十一面観音」などは分かります。
人々がその「業(ごう)」によって六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)
を輪廻する苦しみから救済するために、六道に六観音と六地蔵を配したものです。

「成田の史跡散歩」の小倉 博氏は、ここが天台宗の寺院の跡であることから、「六観音に
不空羂索観音を加えて七観音にしたのではないか」と推測されています。
つまり、この石塔は「七観音六地蔵」と言うわけです。


証明寺跡ー18

ここに「証明寺」があったのでしょうか。
墓地の先には草地が広がっています。
「成田市史 中世・近世編」の「近世成田市域の寺院表」に、「天台宗 芦田村 証明寺 
本寺は西和泉村城固寺 明治初年廃寺」の一行がありました。

寺が無くなってからそろそろ150年、取り残された石仏や墓石はどんな思いでこの時間を
過ごしてきたのでしょうか・・・。

証明寺跡ー27


              ※ 「証明寺跡(七観音六地蔵)」 成田市芦田1562
                成田市コミュニティバス大室循環コース(赤萩経由)
                芦田入口下車徒歩約 30分  駐車スペース有
                (道が狭いため車は注意して走行してください)
                 

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史跡・その他 | 07:41:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
小泉の自性院と十三仏
今回は小泉にある「泉涌寺(せんゆうじ)」を訪ねます。

自性院ー1

「泉涌寺」は真言宗智山派のお寺で、山号は「泉護山」、院号を「自性院(じしょういん)」
と称しますが、「自性院」の名前が一番通りが良いようです。
山門前の階段下に、平成9年に建立された「真言宗智山派 泉護山自性院泉涌寺」と
記された石柱が立っています。

自性院ー2

その脇には、明治26年の「奉讀普門品三萬部供養塔」があります。

自性院ー3

簡素な山門の先には、きれいに掃き清められた境内と本堂が見えています。

自性院ー4手水盤は平成20年奉納

自性院ー6

本堂前の「泉護山自性院略縁起」は、文字が消えかけていてほとんど読めません。
ここは「成田の史跡散歩」(小倉 博著 崙書房)にある説明を引用します。
「室町時代に千葉一族大須賀氏の末裔になる小泉弥六成吉がこの地に居館を築き、以後代々
北総の豪族として重きをなしてきた。しかし、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原城攻め
のとき、小泉氏は本家の大須賀氏とともに北条氏に味方して敗れ滅亡したという。
そして縁類の者が、一族の菩提を弔うため小泉氏の守り本尊であった釈迦如来像を祀り、一寺
を建立した。寛永三年(一六二六)九月のことで、これが自性院の開山となっている。もちろん
ご本尊は釈迦如来である。ちなみに山号の泉護山は、小泉地区を守護するために命名された
ものとしている。」
 (P231)

飯岡の「永福寺」の末寺の総代となるなどしましたが、その後一時荒廃し、文化元年(1804年)
に中興開山の照峰上人によって再興されました。


自性院ー7
自性院ー8

この本堂は平成4年に再建されたものです。

開山から390年も経っているのに、このお寺に関する資料の少なさは不思議なくらいです。
まず、明治17年の町村誌に「泉涌寺」または「自性院」の名前が出てきません。
旧小泉村は明治22年に久住村に編入されましたが、この久住村の村誌にも、そして、近隣
の村の町村誌を見ても、一行の記載も見つかりません。

「成田市史 中世・近世編」(成田市史編さん委員会 昭和61年)の中にある「6-1表 近世
成田市域の寺院」に、ただ一行、「真言宗 小泉村 自性院 本寺飯岡村永福寺」とあるのを
見つけましたが、私にはこの他に小倉氏の著書中にしか見つけることができませんでした。

「泉涌寺」といえば、京都の「泉涌寺」を総本山とする「真言宗泉涌寺派」を思い起こしますが、
ここ「自性院・泉涌寺」は「真言宗智山派」です。
このことと、史料・記述の少なさとは関係ないとは思いますが、少し気になります。(本項の
終りにもう一度触れたいと思います。)


自性院ー9

平地ではもうすっかり咲いている梅が、この山中ではまだほころび始めたばかりです。
(2月25日の撮影)

  本堂左手の薬師堂  自性院ー11
自性院ー12 厨子の中に如来様が・・・

自性院ー13

本堂に正対して、2つの祠と石仏が立っています。
後ろは急な崖で、下の道路との高低差は15メートルはありそうです。


自性院ー14

文化元年(1804年)と記されたこの石仏は、「馬頭観音」のようです。
光背も無く、二臂で、お顔も忿怒形とは言えない表情ですが、頭上の馬頭(らしきもの)と、
胸の前で結ぶ根本馬口印から「馬頭観音像」と判断しました。


自性院ー15
自性院ー16
自性院ー17

薬師堂の後ろを登ると、小さな墓地が開けています。
その入口に十三仏が並んでいます。

「十三仏」とは、冥界の審理に関わる、不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・ 地蔵菩薩・
弥勒菩薩・薬師如来・観音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閦如来・大日如来・虚空蔵菩薩
の十三の如来、菩薩、明王を言い、十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ
司る仏様でもあります。
例えば、初七日は「不動明王」、一回忌は「勢至菩薩」、十三回忌は「大日如来」、三十三回忌
は「虚空蔵菩薩」となります。
通常十三仏は掛軸などに描かれますが、一体ずつ石仏にしているものは珍しいようです。

「ただ惜しむらくはここにある石像は十二体で、観音菩薩が見えないことである。」
(「成田の史跡散歩」 P232)
数えてみましたが、確かに十二体でした。


自性院ー18

墓地にはズラリと古い墓石や月待ち塔が並んでいます。
延宝、元禄、宝永、正徳、享保、元文、寛延、宝暦、明和、天明など、古いものばかりです。

自性院ー22
自性院ー20自性院ー21・・・・・
自性院ー23自性院ー24・・・・・
自性院ー25自性院ー26・・・・・

自性院ー28

自性院ー34


「泉涌寺」と言えば、「真言宗泉涌寺派」の本山である京都の「泉涌寺(せんにゅうじ)」が思い
浮かびます。
長い間皇室の御陵所として、また「四宗兼学」(密・禅・律・淨)の道場の寺として隆盛を誇り、
「御寺(みてら)」とも呼ばれるほどの隆盛でしたが、明治5年に四宗兼学が廃され、真言宗に
組み入れられました。
明治40年に泉涌寺派を公称した後、昭和27年に「真言宗泉涌寺派」としての宗教法人認証
を得て、現在65の末寺を有しています。
末寺のリストを調べましたが、「自性院・泉涌寺」は記載されていませんでした。
同じ真言宗でお寺の名前も同じですが、関係は無いようです。
たまたま地形からくる名前が、京都の「御寺・泉涌寺」と同じになったということでしょうか。
何か因縁があるのでは・・・と、ちょっとワクワクして調べたのですが、空振りだったようです。

静かな山中に佇む「自性院・泉涌寺」。
人の気配は感じられないものの、掃き清められた境内が、住民の厚い信仰に支えられている
ことを示しているように思えます。


自性院ー35

                 ※ 「自性院・泉涌寺」 成田市小泉1
                    成田市コミュニティバス 大室循環小泉ルート 
                    小泉共同利用施設下車 徒歩3分
                    JR久住駅から徒歩約50分  駐車場なし(スペースあり)



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久住村の寺社 | 07:52:16 | トラックバック(0) | コメント(2)
天暦八年の勧請~芦田の八幡神社
芦田八幡ー1

この「八幡神社」は天暦八年(954年)の勧請と伝えられています。
ご祭神は「誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇」です。


芦田八幡ー3

「奉納御寶前」と彫られた手水盤は、天明八年(1788年)と記されています。


芦田八幡ー4
芦田八幡ー5

シンプルな神明鳥居の脇に「郷社 八幡神社」と記された石柱が立っています。
「郷社」とは、それまでの延喜式に代わるものとして明治になってから新たに制定された、
近代社格制度による社格の一つで、無格社、村社より上の格を持つ、成田市内でも
数少ない神社です。
新制度では、官国幣社218社、府社・県社・藩社1148社、郷社3633社、村社44934社、
その下に無格社約65万社が並ぶ形になっています。(ウィキペディア 社格の項)


芦田八幡ー6

「甲子需講中」と刻まれたこの石碑は、嘉永六年(1853年)のものです。
「甲子講」とは、干支で甲子(きのえね)は60日に一度回ってきますが、この日に人々が
集まって大黒様に五穀豊穣を願うものです。
庚申塔はどこにでも見られるものですが、甲子塔はあまり見かけません。

因みに、十干とは、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸で、十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・
午・未・申・酉・戌・亥)と組み合わされて干支(えと)となります。
甲子は十干の一番最初に来ることから、縁起が良いとされています。


芦田八幡ー7

「成田の地名と歴史」(平成23年成田市発行)には次のような記述があります。 
「建仁年間(1201~04)に千葉一族の和泉城主の大須賀加賀守が武運長久を祈願し、
その霊験があったことから社殿を建立したという。」
 (P358)
建立したとされる天暦年間から250年近く経っていますので、これは再建ということでしょう。

   素朴な神額です   芦田八幡ー8

芦田八幡ー9
芦田八幡ー10
芦田八幡ー11

壁面に掛けられた奉納額は色あせてはっきりとは見えませんが、何やら僧侶のような人物が
お祈りをしている姿のようです。
地元の民話でも描いているのでしょうか?

芦田八幡ー12

大きな美しい屋根が特徴の流れ造りの本殿は、宝永六年(1709年)に再建されました。

芦田八幡ー13   壁面の彫刻
芦田八幡ー14

芦田八幡ー16

「成田市史・近代編史料集一」(昭和47年 成田市史編さん委員会)の芦田村町村誌料の
項に、「八幡神社」はこう記載されています。(P275~276)

八幡神社
所在  字臺     坪數  貮百七拾三坪
祭神  應神天皇  
社格  明治五年八幡神社ト稱シ郷社ニ列セラル。
創建年月日  不詳
祭日  舊暦八月十五日ヲ用ユ。
氏子  芦田村外十貮ヶ村郷社
末社  一座 三峯神社并遥拝所
   祠宮澤田總右衛門
雑項  本社ハ南向六尺四面、創建不詳。拝殿ハ破損ニ付
     明治元年中四間三間建立玉垣等アリ。千葉縣大
     書記官岩佐為春書額面其他額面多数之アリ。境内
     古松数十本アリ。祭禮ハ陰暦正月十五日、八月十五
     日、競馬其多参詣人群集セリ。其他御札守等ヲ授ク。


これにより、拝殿は明治元年に再建されたことが分かります。

芦田八幡ー36

上記の記述にある競馬とは、祭礼の時に行われたもので、「成田の歴史散歩」(小倉 博著)に
「神社の前の道はまっすぐで、「八幡様の馬場」と称していた。もとは一月十五日の大祭に
なるとこの馬場で草競馬が行なわれ、多数の見物人で賑わったというが、東和泉城時代の
軍馬訓練の名残の可能性もある。」
 (242)と書かれています。

芦田八幡ー17
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・芦田八幡ー18
芦田八幡ー19
本殿の周りにはいくつかの小さなお社や祠が建っていますが、(知識のある方が見たら
すぐに分かるのでしょうが)残念ながら私にはどこかに名前が書かれていなければ
分かりません。


芦田八幡ー26

本殿の右側、林の中に数基の庚申塔(こうしんとう)が見えます。

芦田八幡ー20
芦田八幡ー21

風雪に晒されて、お顔がはっきりしない青面金剛像が多い中、この金剛様のお顔の憤怒の
表情ははっきり分かります。
天保二年(1831年)と記されています。

芦田八幡ー22

こちらは文政二年(1819年)のもので、「青面金剛王」と刻まれています。

芦田八幡ー23
芦田八幡ー25

こちらの金剛様は、六臂の内の二臂が胸の前で合掌しています。
ちょっと珍しいポーズのような気がします。

庚申は「かのえさる」の日で、前述した甲子と同じく60日に一度巡ってきます。
人間の頭と腹と足には上尸・中尸・下尸という三尸(さんし)の虫が棲んでいて、日頃から
その人の悪事を監視しており、庚申の日に眠った人の体内から抜け出し、天に昇って天帝に
報告すると信じられてきました。
このことから、庚申の夜には三尸虫が天に昇れないように、近隣の人たちが集まって酒盛り
などをして夜明かしすることを庚申待ちと言います。
庚申待ちを3年間・18回続けたことを祈念して建立されるのが庚申塔(塚)です。

庚申の本尊は仏教では「青面金剛」または「帝釈天」であり、神道では「猿田彦神」となります。
ここは神社の境内ですが、神社の境内に仏教の石仏や板碑があったり、お寺の境内に小さな
神社が同居していたりすることは良くあることで、神仏習合が日本人のおおらかな宗教観に
根差すものである以上、明治政府による神仏分離令が出されて以降も、何かにつけて神様・
仏様とすがる心は変わることがありません。

芦田八幡ー24

金剛像のさらに奥にある3基の祠には、やはり何の説明もありません。
前面を木板で塞がれた姿は寂しげに見えます。

境内には多くの記念碑がありますが、それらを見ると、この神社が地域生活の中心に
あったことが良く分かります。

芦田八幡ー28「御即位御大典記念碑」(昭和3年)
 「道路改修記念碑」(昭和12年) 芦田八幡ー29
芦田八幡ー30 「社務所建設之碑」(昭和15年)
「貯水池新設記念碑」(昭和10年) 芦田八幡ー31

芦田八幡ー34
芦田八幡ー35

境内からは少し離れた場所にある、二対の大正天皇の即位記念碑。
この記念碑の周りは即位記念林になっています。


芦田八幡ー2
芦田八幡ー27

1060年の歴史を有する「八幡神社」。
今、飛行機の轟音の下で、芦田の「八幡神社」は新たな時を刻んでいます。


芦田八幡ー46


             ※ 芦田の「八幡神社」 成田市芦田1468
                成田市コミュニティバス大室循環コース(赤荻経由)
                芦田入口下車 徒歩約5分  駐車スペース有


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中郷村の寺社 | 08:21:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
1180年の歴史~六所大神
今回は多古町の北中にある「六所大神(ろくしょおおかみ)」を訪ねます。

六所大神ー1

昭和10年建立の大きな台輪鳥居が参拝者を迎えます。

ご祭神は、「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」「天照皇大神
(あまてらすすめおおかみ)」「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」「月読尊(つくよみのみこと)」
「蛭子尊(ひるこのみこと)」の六神です。
「蛭子命」はあまり聞かない名前なのですが、「えびす様」と言えばお分かりになるでしょう。
(蛭子=戎、恵比寿とする説には異論も多くあります)

ちょっと脱線しますが、「蛭子命」とは、「伊弉諾」と「伊弉冉」の間に生まれた最初の子で
ありながら、3歳になっても立てなかったために葦の舟に乗せられて「オノゴロ島」に流されて、
二神の子にも数えられていないという、可哀そうな生い立ちが伝えられている神です。
神話の世界とは言え、ここでは二神と一緒に祀られているのは何かホッとしますね。

流された「オノゴロ島」には単に神話の世界だとする説と、実在するとする説があります。
実在すると言う説にも、沼島、絵島、友ヶ島などの諸説がありますが、いずれも淡路島の
近辺であることは一致しています。

六所大神ー2

鳥居の脇に「延喜式内」と記された大正2年の石柱がありますが、この神社が延喜式内の
社格であるという記録は残念ながら見当たりません。

延喜式とは、平安時代に編纂された律令の細則(格式)で、延喜五年(905年)に醍醐天皇
の命により編纂が始められ、延長五年(927年)に一旦完成を見た後、改定を重ねて康保
四年(967年)に施行されたものです。
その中の延喜式神名帳に記載されている神社は2800社余りがあり、それらは「式内社」と
呼ばれて格式が高いとされています。
下総地方では式内社の中でも最も格の高い「香取神宮」が有名ですが、成田市内では台方
と船形の麻賀多神社が式内社です。
台方の痲賀多神社 ⇒
船形の痲賀多神社 ⇒


平日なのに日章旗を掲揚 六所大神ー3
六所大神ー4  祭礼用の大幟立て
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六所大神ー6
六所大神ー39
鳥居をくぐった左右には大きな石碑が・・・。
元陸軍大将の荒木貞夫の筆になる「大東亜戰記念碑」と大正13年の「表忠碑」。

六所大神ー7六所大神ー8
これは何が載っていたものでしょうか?
年代不詳ですが、見事な麒麟(?)が彫られています。

六所大神ー11

式内社ではなくても、この杉の大木が並ぶ参道は、「格」を感じさせるに十分な貫禄です。

六所大神ー12

「南無妙法蓮華経」と彫られたこの板碑には紀年銘が見当たりませんが、裏面には、
「天下泰平五穀成就」「一天四海皆逼妙法」の他に「御領主御武運長久」とも記されている
ので、それなりに古いものだと思われます。

六所大神ー15

少し奥に入った場所にある、同じく「南無妙法蓮華経」と彫られたこちらの板碑には、左右に
「大教流行神威倍 雨賜和適百穀豐」「風化美郷穩 葘消福臻萬家隆」との題目が記され、
安政四年(1857年)の紀年銘があります。


六所大神ー16

「多古町史 下巻」(昭和60年 多古町史編さん委員会)には、「昭和になってからではあるが
故波木栄之助宮司がまとめ記された『村社六所大神御記』があり・・・」として、この神社の
由来についてその一部を転載しています。(P181~182)

「仁賢・武烈の昔、物部の小事大連・節刀を錫(ママ)はり東征して功有り、邑を下総に賜はられ
因て改め匝瑳連と称し、其の裔中村の郷に居り、世々陸奥鎮守将軍に補せらる。
人皇第五十二代嵯峨天皇の弘仁二年(八一一)紀に陸奥鎮守副将軍物部の匝瑳連足継
なるものあり。又人皇第五十四代仁明天皇承和二年(八三五)紀に下総の人鎮守将軍物部
匝瑳連熊猪、姓宿禰を賜はられ改め左京を貫す。其子匝瑳連末守之を継で鎮守将軍たり。
当六所大神は、実に仁明天皇の御宇承和中(八三四~八四七)鎮守将軍物部匝瑳連中村
の郷の郷社として創祀せし所の祠なりしなり。
因に又総社伝記に曰く、「人皇十二代景行天皇の朝(七四~一二七)に当り、国府毎に必ず
六大神を祀る。故に常武二毛諸国府の址に皆其の祠あり」と。蓋し中村の郷は匝瑳の中央
に位し、匝瑳連の居所にして郡要衙の所在地たりしを以て、国府に倣ふて之れを祀れるもの
なりといふ。」


これによれば、5世紀末に東征に功を挙げて匝瑳地方を賜った物部小事(もののべのおごと)
の子孫で、陸奥鎮守将軍に任ぜられていた物部匝瑳連熊猪(もののべのそうさのくまい)が、
仁明承和年代にこの神社を創建した、としています。
実に1180年もの昔になります。
また、六所神社とは、六つの神社を合祀しているので「六所神社」と呼ばれることもあるよう
ですが、ここは六大神を祀ることからくる名前であることが分かります。

六所大神ー17

手水舎と手水盤。
手水盤には文久元年(1861年)と記されています。

嘉永六年(1853)の石灯籠 六所大神ー18六所大神ー19
昭和32年に寄進された狛犬六所大神ー20
六所大神ー21

六所大神ー22
六所大神ー23 拝殿正面の龍の彫刻
六所大神ー24  「六所宮」の神額

六所大神ー26
六所大神ー27

本殿も拝殿と同様に、余計な装飾を排した重厚な造りです。

元亀三年(1572年)に兵火によって以前の社殿や文書はことごとく焼失してしまいました。
後に再建された現在の本殿には、嘉永六年(1853年)及び文久元年(1861年)に改築
したとの棟札が残っています。

六所大神ー28

本殿右手にある末社の「宇賀神社」。
手前の石灯籠は寛政九年(1797年)のものです。

六所大神ー29
六所大神ー31

同じく右手にある摂社の「雄健神社(おたけびじんじゃ)」。
この神社は軍事に関わる神社で、戦前から軍の駐屯地などに祀られているものです。
手前の鳥居は「軍人会一同」の奉納で、灯篭にも「遺族会」とあります。

六所大神ー32

「雄健神社」を囲む石柵の下に積まれた石に何やら文字が刻まれています。
「東 八日市場 銚子 飯高」「西 多古 佐倉 江戸」「南 中村壇林」「北 松崎 佐原」と
読めますので、道標だったものでしょう。
江戸とはありますが、ひらがなが無いところを見ると、比較的新しいもののようです。

六所大神ー37

御神木の杉の木は、樹周りが7~8メートルはあろうかという大木です。

六所大神ー35
六所大神ー38

「多古町史下巻」には、地元出身の硯学者「村岡良弼」の著書「日本地理志料」から、以下の
ような伝承が紹介されています。

「古老の口碑に依れば『此地喬樹蓊欝にして鴻の鳥常に巣籠り棲ひ、或時何処よりか
珍石を銜ひ来り、此れの所に落せり』と。以て瑞地となし六大神を祠ると。 現今社宝として
其の珍石を存せり。」
 (P183)

こうした伝承があるだけでも、この「六所大神」が遠い昔よりこの地に在って、人々の信仰を
集めていたことが分かります。


六所大神ー40


         ※ 「六所大神」 多古町北中4
           多古新町または道の駅多古から循環バス「常盤・中ルート」六社神社下車
           多古新町まではJR成田駅からJRバス「多古行き」または「八日市場行き」



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多古町の寺社 | 08:04:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
ちょっとしたスポット~ついに発見! 染井の一里塚
【 ちょっとしたスポット 】

この一年間、多古の中村にある「日本寺」を基点として江戸まで続く里程標の一番目、
「染井の一里塚」を探していました。
地図には載っていませんし、折につけ染井のあたりを探していましたが見つかりません。
半ばあきらめかけていたところ、偶然多古コミュニティプラザ内の図書室の奥で見つけた
「多古町史」の中に、僅かな記載があることに気づきました。

去年の5月に偶然見つけた「三里塚」も忘れられた存在でした。

三里塚街道ー20
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三里塚街道ー21
三里塚街道ー53

「三里塚」は幹線道路から外れた住宅地の中で辛うじて生き残っていましたが、それでも
遠くから見える二本の大木がその存在を主張するように立っていました。
三里塚街道を往く(その参 三里塚交差点界隈) ⇒


一里塚ー4

これがやっと見つけた「一里塚」です。
小さな木の鳥居があり、小石が積まれています。


一里塚ー5
一里塚ー6

50センチほどの今にも崩れそうな小さな祠です。
これがかつて道往く人々に行程を知らせていた「一里塚」とはとても思えません。
「多古町史上巻」(昭和60年多古町史編さん委員会)の329ページにこんな記述があります。

「佐倉を経て江戸へ至る江戸道に沿って、染井に一里塚、芝山町白枡に二里塚、成田
に三里塚があった。四里目は四の字を避けて法華塚といい遠山村(成田市)にあった。
染井の一里塚は現在、その名残の道祖神が国道二九六号線交差点付近の畑の中に
祀られている。このあたり元は台地縁辺部であって、道路工事のため掘り崩し原状を
とどめていないが、一里塚はその縁辺部にあったのである。
この一里塚の基点は南中の日本寺であるとか、松崎神社であるともいわれている。
里程からいえば日本寺説が有力であるが、なぜ日本寺を基点としたか、だれがそれを
制定したのかは明らかでない。」


  基点とされる日本寺  日本寺ー54
日本寺ー10
関東三大檀林日本寺 ⇒


一里塚ー3
一里塚ー8

すぐ上を国道296号線が走っていますが、この位置と場所では気づく人はいません。


一里塚ー9

「多古町史下巻」にも一里塚に関わる資料を見つけました。(P746)
文化三年(1806年)に俳人の飛鳥園一叟が記した文です。(■は判読不能個所)

「染井なる里に醇醤を販て、風雅の店舎あり。さながら猩々も待ねば遷■をも畜はず、前には
纓濯ふ難き流を構へ、三笑の徒も渡るべき橋を懸て、更に欲界にそまらず、只恵みを天に
まかせて、福いを私に願はざりけり。
さて武蔵野や■に名高き花の都へ往き来る■の旅客は、貴となく賎となく僧俗風人酒中の
仙も此処に憩ふて飽く迠に楽み、春は遠山の枕なし雲に雨運ぶかと■き、秋は洗染の紅葉
に■き目を疑ふ。遙に七村八村の山邑の美景は、いづれの工も刻りなしがたく。画工も筆を
投難しと眺望して麻の脚半に刻を移すとかや。
されば彼村々あるが中に東台てふ処の水月庵のあるじ俳地の利を考て、此酒家に月毎文台
の席を設、遠近の風君群参して終日滑稽を詠吟す。幸なるかな酒舎の傍にさくらを栽し一塚
あり。いにしむかしより往還の一里塚にして一と木の花今に春を忘れず。斯栄の久しければ、
其まゝに酒軒を名付て一櫻舎と呼事になりけらし。」


今では想像できない、なかなか景色の良い所であったようです。
多分、昔の「一里塚」はもう少し大きく、目印の木なども植えられた「塚」であったのでしょう。
春には近隣の住民が桜の下で酒宴をひらくような、風流な場所でもあったようです。
田畑の開墾や道路の整備によってこの場所に追いやられ、やがて忘れられて行ったのだと
思います。


一里塚ー2

やっと見つけた嬉しさと、この景色の寂しさに複雑な思いが交差する「染井の一里塚」でした。


一里塚ー11



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史跡・その他 | 07:53:00 | トラックバック(0) | コメント(0)