
山号は瑞栄山、「如意輪観音」をご本尊とする、臨済宗妙心寺派のお寺です。
『同寺の縁起によると結跏趺坐の姿をしている本尊は、奈良の稽主勲・稽文会父子が
刻んだもので鎌倉幕府第3代源実朝の夫人禅尼如実の持仏であった。1226(嘉禄2)年
禅尼の没後、像は国一禅師の手に移り、禅師がこれを笈に入れて背負って香取神宮に
参詣しようとしたとき、この地に物静かさに感動し、一宇を建てて本尊としたのが始まり
とある。』 (成田市発行 「成田の地名と歴史」P389)
なお、国一禅師を開祖とすることには違いはないのですが、建暦二年(1212年)に
開山したとする説も多くみられます。(寺伝では建暦二年となっています。)
建暦二年は鴨長明が「方丈記」を完成させた年です。

仁王門前の広場に「しもふさ七福神」の恵比寿様が迎えてくれます。

仁王門の前には子育・水子地蔵が。

この手水盤には安政五年(1858年)に奉納されました。

重厚で立派な仁王門です。


ユニークな表情の仁王様です。
今にも何か喋りそうな感じがします。

巣立ちが終わった鳥の巣でした


このお寺は千葉氏の庇護を受けて栄えていたのですが、国府台合戦に巻き込まれて
伽藍を失い、衰退してしまいました。
その後、宝永年代になって融峯祖円住職により再建されました。

仁王門を入って右手にある鐘楼。

山門から本堂へ向う左側に立つこの仏像は如意輪観音です。

こちらは釈迦如来のようです。
軽くうつむいて何をお考えなのでしょうか。


大きく扉が開かれた本堂の正面に、ご本尊の如意輪観音様が見えます。
失礼とは思いましたが、思わずシャッターを切りました。

本堂の内部に掲げられている「女人観音拝み絵馬」。

構図は少しずつ違いますが何枚も


本堂の階段脇にある「おびんずる様」です(後ろの頭巾と衣を被った像)。
お釈迦様の高弟の一人、ビンドラパーラドバージャで、この像にさわってから
自分の体の悪いところを撫でると、病が治ると言われています。

古いお社で掲額も読みにくくなっていますが、「南無大師遍照金剛」と読めます。

本堂脇には小さな菩薩像が並んでいます。


菩薩像の先、墓地に向う坂の上り口に松尾芭蕉の句碑がありました。
「ほろほろと 山吹ちるや 瀧の音」。
周りを見渡しても滝らしきものはありませんが、この句碑の後ろにわずかに水が
流れ落ちれいる個所がありました。
昔は水量が多く、小さな滝のようであったのでしょうか。


裏手に長く伸びる石段がありました。
登り口に小さな手水舎があり、手水盤には明治42年と記されています。


登り切った所には三十三観音がありました。
中央にある大きな石碑には「瑞榮山 霊感講 三十三観音 新設記念碑」と記され、
明治30年の建立です。
石段には苔が生え、一部は崩れていて、ここまで登ってくる人はいないようです。


「中里の観音様」と呼ばれて、安産子育て祈願のお寺として信仰を集めているこのお寺には
毎年3月26日から16日間にわたって数十町村の観音巡拝を行う「札打ち」や、
利根川沿岸の近隣町村を観音様の分身を背負って巡る「背負い観音」などの
珍しい行事があります。
この場所の静けさに打たれて国一禅師が開山したように、
800年後の楽満寺は今も静けさの中に佇んでいます。

※ 瑞栄山楽満寺 成田市中里309
JR滑河駅から徒歩約40分 駐車場あり

常福寺の山号は南城山(なぎさん)、真言宗智山派のお寺です。
延応元年(1239年)に湛導和尚が開山したと伝えられています。
ご本尊は「不動明王」。
火災により衰退していた寺を寛永二年(1625年)に再興したのが、
江戸深川の弥勒寺の宥鑁上人(ゆうばんしょうにん)で、
寛永三年に弥勒寺にあった不動明王をここに移して本尊としました。
この宥鑁上人は成田山新勝寺の中興の祖としても知られています。

手水盤には天明八年(1788年)と刻まれています。


仁王門には立派な仁王様がおられます。
これほど迫力のある表情はめったにお目にかかれません。

しもふさ七福神の大黒天です。
笑い声が聞こえそうなお顔です。


本堂正面の「南城山」の掲額を囲みこむように極彩色の龍が配されています。

何かストーリーが浮かんでくるような絵です。



色あせてはいますが天女の扁額と、天井には墨絵の龍が描かれています。


朱塗りの本堂は見事な彫刻で飾られています。
この本堂は享保十二年(1727年)に再建されたもので、
平成22年に大改修が行われました。

本堂の右手にある天満宮。

この仏様は天和二年(1682年)の作です。
この年には江戸でいわゆる「八百屋お七の大火」がありました。

仁王門の右奥にある墓石群。
明暦、寛政などの年号が読めます。



境内の左手には立派な鐘楼があります。



山門に戻って上を見上げると、ここにも天女が描かれていました。
このお寺と天女との因縁はどんなものなのでしょう。
お釈迦さまが亡くなられた時、空から天女たちの歌声と音楽が聞こえてきたという
言い伝えがあることと、関連があるのでしょうか?

白山神社。

山門脇にポツンとある石の祠には嘉永五年(1852年)と記されていました。
この年はサグラダ・ファミリアで知られる建築家のガウディが生まれた年です。
日本では後の明治天皇がお生まれになっています。


すっきりした境内に、初秋の風が吹いています。

※ 常福寺 成田市名木953
JR下総神埼駅から徒歩約45分
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お知らせ:
パソコンの修理のため、1週間ほど更新をお休みします。
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成田市内では大竹の円光寺とここの二つしかない時宗のお寺です
円光寺 ⇒


乗願寺は延慶三年(1310年)に三世遊行上人智得によって開山されました。
ご本尊は阿弥陀如来座像。
山号は助崎山、院号は不断光院です。
以前は現在の成田市幡谷にありましたが、弘治年間にこの地に移りました。

参道の入り口に「聖徳太子」の石碑があります。
慶應三年(1867年)と刻まれています。


杉木立の両側に4体のお地蔵さまが並んでいます。
享保十三年(1728年)と宝暦三年(1753年)の建立です。


山門は石柱のみとなっていますが、周辺には石垣が残っています。
なお、失われたかつての山門は、助崎城の大手門でもありました。
このお寺から助崎城祉までは500メートルはありますから、
相当広い城域を持ったお城だったようです。
助崎城祉 ⇒ (祥鳳院の項の最後に写真があります)



乗願寺は板割の浅太郎ゆかりの寺としても知られています。
浅太郎は国定忠治の子分で、芝居や映画、歌にも歌われた「赤城の子守唄」で
登場する侠客です。
どうした因縁か、この寺に位牌が安置されているそうです。
浅太郎については獄死説の他にいくつかの俗説がありますが、
「赤城山騒動の後に信州に逃れて時宗の金台寺で仏門に入り、後に藤沢の遊行寺の
堂守となった」という説があります。
時宗の本山である遊行寺に浅太郎の墓があることから、この説が有力です。
乗願寺も時宗のお寺ですから、何らかのつながりがあったのでしょう。
境内の脇に布袋像と石碑、二つの祠が並んでいます。



「しもふさ七福神」の一つ、子供を肩に乗せている布袋様です。
珍しい構図です。

説明板がないので分かりませんが、これがお参りすると子供の夜泣きが治るという
「夜泣き地蔵」でしょうか。

布袋様の隣りにある石板には、「南無大開遍照金剛」と刻まれています。

比較的新しい灯篭ですが、鹿を彫ったこの灯篭はあちこちの寺で目にします。

無縁仏がまとめられている一角がありました。
新しいお地蔵さまの台座には「無縁仏の安からんことを」と祈る言葉がありました。
墓地の片隅に打ち捨てられている無縁仏を見ることが多い中、ホッとする景色です。
墓石には享保、明和、文化などの年号が読めます。
300年も経ってもこうして供養してもらえるのなら、幸せなことですね。


さて、この仏様は誰なのでしょう?
裏口の墓地の入り口に立っています。
小さいうえに風化が激しく、素人には判別が難しいのですが、
じっと見ていると足元に「見ざる、言わざる、聞かざる」の三匹のサルがいるようです。
とすると、熊野神社にもあった「青面金剛」ではないでしょうか?
制作年代などは読めませんでした。
熊野神社の青面金剛 ⇒



境内は手入れが行き届いている感じがします。
ここには文化十一年(1814年)から明治時代の始めまで寺小屋があったそうです。

街灯を兼ねたお寺の看板です。
「浄土門」とは阿弥陀仏を信仰し、極楽浄土に往生するという教えです。
浄土信仰は多くの宗派に見られますが、このお寺では阿弥陀如来をご本尊として
いますから、浄土門を掲げているのでしょう。

宝永四年(1707年)に鋳造された梵鐘は大東亜戦争のさなかに供出され、
残念ながら今は残っていません。
同じ時宗の大竹にある円光寺もそうでしたが、市内に二つしかない時宗のお寺には、
何か独特の空気が感じられます。

※ 乗願寺 成田市名古屋234
JR成田線 久住駅または滑河駅から徒歩約50分
小高い丘を背にした祥鳳院(しょうほういん)があります。

山門前の石碑には、「奉 讀誦大乗妙典一千部」と刻まれています。
その下に「蘭香自秀庵主」「智照妙○○尼」と記され、
最下部には寄進者であろうと思われる「小倉氏」と記されています。
横には「不許葷酒入山門」と刻まれています。
これは結界石と呼ばれるもので、酒気を帯びたり、ニラのような臭いものを食べた者は
入山することを許さないという意味です。
同じ曹洞宗のお寺で、成田山の東参道にある永興寺にも同じ文字の石碑がありました。
⇒ 永興寺の結界石
山門の手前、左右にお地蔵様が立っています。
向って右のお地蔵様には三界萬靈と刻まれていて、
はっきりとはしませんが、文政十年(1827年)と読めます。
台座には「さくら」「なめ川」の文字がみえます。

左のお地蔵様には法華経一千部供養塔と刻まれていて、
台座には、「北なめ河」「西なり田」の文字がみえます。
道標を兼ねていたのでしょうか。
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大きくはありませんが、しっかりとした山門です。
屋根には鯱鉾と葵の紋が見えます。


見上げると柱の上に立派な彫刻が・・・龍かと思いましたが、獅子のようです。

右側の獅子は毬を抱えています。
細かい網目まで彫られています。

祥鳳院の山号は竹縣山、曹洞宗のお寺で、ご本尊は薬師如来です。
「寺伝によれば、寛平年間(889~897)に平良将が密岩を開山として創建した真言宗寺院
であったが、1498(明応7)年に助崎城主大須賀信濃守が堂宇を再建し、明堂盛哲を招いて
曹洞宗に改宗したとされる。」 (成田市発行 「成田の地名と歴史」P277より)
平良将(たいらのよしまさ)は平安時代の武将。
桓武平氏の基礎を作った人物で、平将門の父です。
江戸時代には幕府から朱印地十石を賜った格式の高いお寺なので、
山門の葵の紋の理由はここにあるのでしょう。

境内にさりげなくあるこの木造の建造物には何の説明もありませんが、
形からして多分宝篋印塔ではないかと思います。
滑川の「龍正院」にある「銅造宝篋印塔」に良く似ているからです。
⇒ 龍正院の宝篋印塔

この宝塔は寛政十二年(1800年)のものです。

鐘楼は見当たりませんでしたが、この寺が所蔵する梵鐘は県の指定文化財で、
乾元二年(1303年)に船橋の二宮神社の鐘として鋳造されたものが、
後にここに移されたと説明板にあります。

本堂の裏手は小高い丘になっていて、その丘の一角に墓地があります。


古い墓石には天和三年(1683年)、寛政六年(1794年)などの年号が読めます。

質素な佇まいの本堂ですが、屋根にはめ込まれた紋章が気になりました。
桐の紋はすぐ分かりましたが、遠くからなのでもう一つが分かりません。
麻のような、桔梗のような・・・。
帰ってから調べたところ、曹洞宗の寺紋が竜胆(りんどう)であるので、
多分、竜胆車紋だろうと思います。

「普門品供羪塔」「観音講」と記された石板。
普門品とは観世音菩薩の略称です。

明治25年に建てられた「羽黒山 湯殿山 月山、秩父・西国・阪東百番供養塔」。

手前の仏様の台座には「供養塔」とあり、安永五年(1776年)と記されています。


前には広がる田園を、後ろには小高い丘を配する祥鳳院は、
土室の地にしっかりと根を張っているようです。
田んぼの先に見える小高い丘は、このお寺の堂宇を再建した
大須賀信濃守の居城があった助崎城祉です。
ついでに足を延ばしてみました。


今や鬱蒼とした森で何もありません


※ 竹縣山祥鳳院 成田市土室522
JR久住駅から徒歩40分
久住駅から赤萩経由大室循環バス祥鳳院下車(本数注意)

航空科学博物館は1989年の開館で、成田空港の南端に隣接しています。



博物館前の広場にはたくさんの飛行機が展示されています。


展示されている機内に入ることもできます。

頭上を轟音をたてて旅客機が飛び立って行きます。


機首部分だけですが、ジャンボ機も展示され、レーダーや空港車両も並んでいます。

駐車場脇にある「航空神社」。


館内に入ると大きな旅客機の模型が目に飛び込んできます。
ボーイング747で、翼を振ったりすることができる可動式の模型です。
エンジンやタイヤ、客室、コクピット等も展示されています。

名機ダグラスDC-8です。
世界で初めて超音速飛行をした旅客機です。


実際の機内が再現されています。




マニアにはこたえられない展示です。



大きな空港のジオラマ
空港内の施設名が書かれたボタンを押すと、その場所のランプが点きます。
子供たちがやみくもにボタンを押しながら、ランプのついた場所を探しています。

航空管制室も再現されています。

(航空博物館ホームページより) リンク:航空科学博物館
フライトシュミレーターによるシュミレーション飛行を体験することもできます。

4階まで来ると空港の滑走路が直ぐ目の前に広がっています。
屋外展示場では年に数回空港関連のイベントが開催されます。
5月に開催された空港車両の展示会の様子を紹介しましょう。


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・・・・・・・・・・・・・燃料車

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・投光車

何んと言っても人気の中心はスーパー消防車。です


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体験試乗する子供とタイヤの大きさを比べてみると、この消防車の大きさが分かります。


イベントはほかにもパイロットによる飛行機の話や、空港の話、
航空ジャンク市などが行われます。
館内にはレストランや資料・図書室、売店があり、
子供はもちろん、大人も楽しめる空港と飛行機の博物館です。

※ 航空科学博物館 芝山町岩山111-3
芝山鉄道芝山千代田駅より「AMB南三里塚」行きバス
航空博物館下車(空港第1、第2ターミナルからも乗車できます)
入館料:大人 500円 中高生 300円 4歳以上の子供200円
月曜休館(月曜が祝日の場合は翌日) 開館時間:10時~5時
参道を挟んで路地が入り組む上町。
路地の先には新たな発見がありました。

上町の散策はこのトンネルから始めます。
このトンネルはかつての成宗電車が通った跡で、レンガで覆われた姿は
なかなか趣があります。

トンネルは二つあり、このトンネルの先には市役所や京成成田駅があります。
このトンネルは第2トンネルです。

第1トンネルの先は成田山の総門に向います。
この道は「電車道」と呼ばれています。
成宗電車は明治43年に開通した路面電車ですが、参拝客が素通りしてしまうことを
恐れた門前街の反対で、参道の東側を通るルートになりました。
昭和19年に廃線となった後はバス道路として利用されていました。

第1トンネルの前を右に坂を下ると、成田山交通安全祈願殿に突き当たりました。
ここは成田市成田なので、この手前までが上町です。


トンネルまで戻って階段を上ると子安地蔵があり、市中では比較的広い墓地があります。
この墓地はちょうどトンネルの真上になります。

墓地を先に進んで急坂を下ると機関車のある公園が見えました。
花崎町の栗山近隣公園です。

さっき上ってきた階段近くまで戻ったところに、祇園祭で活躍する上町の屋台蔵がありました。
上町の屋台は、江戸時代後期に造られた彫刻踊り屋台です。

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路地を進むと突然視界が開け、表参道に出ました。
ここは参道が緩やかに左に曲がる場所で、正面に山田刃物店、手前は長命泉です。

路地を引き返すと前方に成田山の本堂の屋根が見えます。
上町は電車道をはさんで大きく高低差がある町です。

ちょっと路地を曲がると直ぐに参道に出てしまいます。
今度は米屋本店の前にでました。
参道については以前に紹介していますので、今回は路地から路地へと歩きます。

気になる標識を見つけました。
「神明山通り」とあります。
神明山はお不動様が米屋裏の遷座の地(※1)から移り、
本堂も建てられて寺院としての様式を整えた場所です。
永禄九年(1566年)に本堂が現在の場所に移され、神明山は忘れられて行きました。
前から気にはなっていたのですが、場所がどうしても分からなかったので、
今日こそは場所を突き止めようと路地を進みます。
やがて路地は路地とも言えないトタン塀に囲まれた細道になりました。
曲がりくねって視界を遮られ、人一人が歩けるだけの道(?)をさらに進むと、
下り坂となり、視界が少し開けます。

「旧蹟聖地 神明山」と記された小さな石碑が足元にありました。
どうやらこの坂の上が神明山のようです。

さらに坂を下ると左に上る石段と祠が見えました。


石段を登るとフェンスに囲まれた小さな台地のなかにお堂が一つ、ポツンと建っています。
ここが昔、本堂があった神明山でした。
立ち入り禁止となっているため、お堂の中は良く見えません。
現在の成田山の始まりの地としては寂しい景色です。


木々の間に現在の成田山が、そして参道の大野屋の望楼が見えます。

参道に戻るとそこは明暦の本堂・薬師堂(※2)の前です。

総門に向って参道が下って行きます。
右側の数軒だけが上町になります。


薬師堂の裏の路地を進み、米屋の裏に出ました。


「表参道」の項で紹介した「羊羹博物館と」「お不動様旧蹟小公園」(※4)。

さらに路地を進むとJRの線路脇に出ました。
「成田七ヶ町 三界萬靈 供養塔」と記された石碑がありました。
先に見える地下道からは、線路をくぐって新町方向に抜ける「なかよしトンネル」に
出ることができます。
ここは以前は踏み切りだったようです。
(厳密に言うとこの石碑の場所は花崎町か新町になるのかもしれません。
ちょうどこのあたりが3つの町の境界線になっています。)


町内のちょっとした路地にも名前がついています。


参道を横切って、再び電車道のトンネルの上に戻りました。
高低差のある地形を縦横に路地が横切り、電車道、トンネル、神明山、参道・・・
いろいろな顔を見せる上町には、まだおもしろい路地が隠れていそうです。

(※1)「成田山の表参道を歩く(1)」
(※2)「明暦の本堂はひっそりと薬師堂に」
(※3)「成田山の表参道を歩く(2)」
(※4)「成田山の表参道を歩く(1)」

295号線を空港に向って走ると、高速の入り口近くにチラリと神社らしきものが見えます。
モダンな建物の「大山神社」です。

立派な石の鳥居は昭和56年に建てられたものです。

大山神社は貞観二年(860年)に創建され、その後焼失したものの
万治二年(1699年)に再建されました。
昭和46年に東関東高速道の空港線工事のため移転となり、
この社殿は昭和47年に竣工しました。


狛犬の表情も何んとなく現代風?

この石灯籠は文化五年(1808年)のもので、境内では年代を感じさせる
数少ないものの一つです。
文化五年は、間宮林蔵が間宮海峡を発見した年です。

境内の右端に並ぶ「愛宕神社」「疱瘡神社」「子安神社」「天神神社」「熊野神社」。
大正3年に合祀されたものです。
石灯籠とともに、旧神社から移設されたようです。

手水盤には安永八年(1779年)と刻まれています。
石灯籠とこの手水盤が歴史を感じさせてくれます。


社殿はコンクリート製で、天窓がついていたりして、およそ神社とは思えない造りです。


厚いガラス戸に仕切られて、中は良く見えません。
奥に見えているのが本殿なのでしょうか?
ご祭神は「高産靈命(たかみむすびのかみ)」です。
この神様は「創造」を司る神様です。

30坪程度の境内には数本の木が植えられています。
これは平安枝垂桜です。

一番大きな木がこのシイノキです。

鳥居の直ぐ下は高速の空港道料金所です。
相当の高低差がありますので、車の音はほとんど聞こえません。

料金所の向こうは「ゲートウェイ・ホテル」です。

石灯籠の先にチラッと見えるのが「成田ビューホテル」。
空港の開港前から営業している大型ホテルです。

社殿の先に見えるのが「ヒルトンホテル」。

鳥居越しに見えるのは「エクセルホテル・東急」です。
ここは大型ホテル銀座の真っただ中です。

大山神社の周辺には人家はありません。
ここも空港建設の影響で、住民との絆が切られてしまったようです。
らしからぬ社殿は、狭い土地を有効に利用する知恵だけではなく、
開発に追い立てられる氏子の抵抗のような気もします。

※ 「大山神社」 成田市大山1-1
JR成田駅よりJRバス三里塚行き、八日市場行きで
法華塚下車 徒歩約10分
車では東関東自動車道成田インターを出て直ぐ左折