県道44号線の沢のバイパス沿い、「道の駅くりもと」の隣に、気になる看板があります。

「かくれ卵塔」とは何でしょう?
「卵塔」(らんとう)とは、主に僧侶の墓塔として使われる石塔のことで、無縫塔(むほうとう)
とも呼ばれます。


「日講聖人遭難之墓」と書かれた小さな手書きの案内板が道路に向かって立っています。

「安國院ト号ス字恵雄後ノ六聖人ノ一人啓蒙逑著京都於賀氏日習ニ従イ中村壇林等ニ学ビ
後ニ野呂壇林ニ学徒ヲ養成ス幕府ノ土水供養ヲ拒ミ寛文六年五月廿七日日向ノ国佐土原
ニ配流仝所ニ寂ス七十三歳」
(赤字部分は判読が難しく、一応、逑著と読みました。)
「遭難之墓」とは奇妙な表現です。
歴史上の著名な人物の墓が何カ所にもあることは珍しいことではありませんが、ここは「墓」
ではなく、「遭難之碑」といった意味でしょう。
ちなみに日講の墓は、配流の地である宮崎市佐土原町大字上田島字新山にあります。
「後ノ六聖人」とは、寛文五年(1665)から翌年にかけての法難(寛文の惣滅)で配流となった
次の六人の僧侶を言います。
平賀本土寺の日述(伊予吉田に配流)、興津妙覚寺の日堯(讃岐丸亀に配流)、雑司ケ谷
法明寺の日了(讃岐丸亀に配流)、野呂檀林の日講(日向佐土原に配流)、玉造檀林の日浣
(肥後人吉に配流)、自証寺開山の日庭(寛文の惣滅では寺を出るだけで済んだが、貞享四年
(1687)に佐渡への流罪となる。)
ちなみに、寛永七年(1630)の「寛永法難」で配流となった次の六人の僧侶を「前の六聖人」
と言います。
池上本門寺十六世・飯高檀林化主の日樹(信濃伊那に配流)、中山法華経寺・飯高檀林の
日賢(遠江横須賀に配流)、平賀本土寺の日弘(伊豆戸田に配流)、小湊誕生寺十六世・
小西檀林能化の日領(陸奥中村に配流)、中村檀林の日充(陸奥磐城平に配流)、碑文谷
法華寺の日進(信濃上田に配流)。

同じ文面の石碑が階段の上にあります。
「安國院ト号ス守恵雄後ノ六聖人ノ一人啓蒙逑者京都於賀氏日習ニ従イ中村壇林等ニ学ビ
後ニ野呂壇林ニ学徒ヲ養成ス幕府ノ土水供養ヲ拒ミ寛文六年(西暦一六六六年)五月廿七日
日向ノ國佐土原ニ配流仝所ニ寂ス七十三歳」
入口にある説明板からの引き写しでしょうが、「守」は「字」の間違いでしょう。
ここでの「字」は、「あざな」と読み、日講のあざなが恵雄であったことを示しています。
また、「逑者」となっている部分は、「逑著」よりは何となく意味が通じるような気がしますが、
日講が「啓蒙録内」「説黙日課」を著わしたことを考えると「逑著」もあり得ると思います。
「逑」と「著」で、多くの著作という意味を表しているのではないか、と勝手に解釈しました。
この石碑は、平成12年に「正覚寺沢講社」が建立したものです。
日講(にっこう)は、寛永十三年(1636)京都・妙覚寺の日習に師事し、正保二年(1645)
飯高檀林(現・匝瑳市)や中村檀林(現・多古町)で学んだ後、寛文元年(1661)野呂檀林
(現・千葉市)の講師となった日蓮宗の僧です。
寛文五年(1665)幕府は日蓮宗の寺院に対して、「幕府からの朱印地は国主が寺院に対し
供養したものと認める旨の手形」の提出を命じましたが、不受不施派はこれを拒否しました。
日講はこの政策を非難する「守正護国章」を呈上し、さらに寛文六年(1666)の幕府からの
広範囲な国主の供養についての手形の提出命令をも拒否しました。
これにより、日講は日向の佐土原藩に流罪となりましたが、藩主の島津忠高の帰依を受け、
73歳で亡くなるまでこの地で布教を続けました。

飯高檀林(飯高寺・匝瑳市) ☜ クリックすると紹介ブログへ飛びます。
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中村檀林(日本寺・多古町) ☜ クリックすると紹介ブログへ飛びます。

数段の階段を上ると、檻のような金属の柵に覆われた石碑(?)を中心とした、数基の石碑が
見えます。

左手の説明板には次のように書かれています。
「法華経を信仰する以外の人にはすべての施しを受けず(不受)また施しもしない(不施)という
主義主張の不受不施は京都の僧日奥がはじめた日蓮宗の一派ですがその主張活動は幕府
より禁じられ三百余年の長い弾圧を受ける宗門となった。寛文五年(一六六五)同派の日講は
佐土原へ流罪となったが一萬部誌経を成就されました。この万部塔は日講の遷化後弟子の
日念等がその意志をつぎ宝永二年(一七〇五)に建てたものです。しかし寛政六年(一七九四)
当時の支配者への内通により石塔は三日三晩焼かれ そして打ちくだかれ土中に埋められま
した。その後明治九年(一八七六)その宗教活動が許され沢の信徒や堀越義昌氏が掘り出し
組み合わされました。」
「不受不施」とはどういった教義なのでしょうか。
分かりやすい説明がなかなか見つかりませんが、日講にゆかりのある多古町の町史に、簡潔
な説明を見つけました。
【 この派は日蓮直弟子の六老僧の一人、日朗の流れから派生したもので、宗祖日蓮の、世界
の主は釈迦一人であり、時の為政者であっても釈迦の導きを受けるべき人間であるという思想
を純粋に伝える手段として、他の宗旨を信じている者の供養を受けず、また他の宗旨の僧へは
供養を施さないという教義を強固に守り続けた宗旨であり、その純粋性は既成宗派に対しても
新風を吹き込んだのであった。】 (「多古町史 上巻」 昭和60年 P335)
慶長四年(1595)豊臣秀吉の「方広寺大仏殿千僧供養会への出仕」命令をめぐる日蓮宗内の
論争に端を発し、徳川家康によって日奥が対馬に流されて以来、幾度かの変遷を経て、明治
九年(1876)明治政府による再興許可が下りるまでの間、不受不施派への弾圧は続きました。

「南無妙法蓮華経」と刻まれたこの石碑には、微かに「元禄●●癸●」と読める文字が・・・。
無理して読めば「元禄十六」かもしれません。
元禄十六年(1703)の干支は癸未(みずのとひつじ)ですから、多分そうでしょう。

「南無妙法蓮華経」と大きく刻まれた下に、「日浣聖人」と記されています。
側面には、「延寶第四丙辰七月九日」とあり、裏面には「奉開眼勤唱●●四萬部」とあります。
延宝四年は西暦1676年、四代将軍徳川家綱の治世です。
日浣については、京都・妙覚寺に「日述・日講・日浣」の肖像画があること、江戸時代に多古町
の蓮華寺に開かれた「玉造檀林」(寛文六年廃檀)で講師を務めていましたが、不受不施派の
弾圧により、寛文五年(1665)に肥後の人吉へ流罪となったこと、程度しか資料が見つかりま
せんでした。

この石碑は上部が欠けており、風化もあって文字は全く読めません。

中心にある日講聖人の碑。
短冊のように切り刻まれていますが、かろうじて「南無妙法蓮華経」と刻まれた一片と、「積而
至于●萬千百餘部惣●」の文字が読めます。
その他には「●萬三千八百卅」「●月十日七十三歳●寂」等の文字がが見えます。
これが、日念らによって建立された日講の「万部塔」のようです。


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金属の檻は最近作られたもので、以前は太い針金で束ねられていました。
きれいに整理された現在の姿より、以前の針金で縛られた姿のほうが、弾圧の状況を生々しく
伝えていたような気がします。


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「栗源町文化財資料目録」(平成5年)に、「日講墓石 元禄十一年(1698)」として次のよう
な記述を見つけました。
【 沢 西部山林内
寛文六年(一六六六)日蓮宗不受不施派の法難で日講上人九州佐土原へ流罪。 宝永二年
(一七〇五)日念は同上人のために佐土原の石(栗山川は信者の村送りで運んだ)で万部
成就の塔を建て供養した。 これも寛政六年(一七九四)三日三晩鯨油をかけて焼き砕かれ
現在は鉄線で束ねてある。】
「千葉県の歴史 通史編 近世2」(平成20年)には
、
【 また、日向国佐土原(宮崎県佐土原町)に流されていた日講の死後一七〇五(宝永二)年、
沢村(栗源町<香取市>)に、日講の万部石塔(経典一万部の読誦を記念した石塔)が建立
されていた。 一七九四年の弾圧事件では、沢村の石塔が破壊された。】 (P803)
との記述があります。
古い地図を見ると、細い農道のような道端に「かくれ卵塔」が記入されています。
この場所は、現在は県道44号線のバイパスが走り、「道の駅くりもと」が建っていますが、
卵塔の位置は変わっていないようです。

「南無妙法蓮華経」の下に、「寛永八●未五月十九日 日樹聖人」「寛永七庚午三月十日 日奥
聖人」「延宝九辛酉九月朔日示寂 日述聖人」と刻まれています。
寛永七・八年(1630・1631)は三代将軍家光の時代、延宝九年(1681)は五代将軍綱吉の
時代です。(朔日(さくじつ)は一日のこと、示寂(じじゃく)とは菩薩や高僧が死ぬこと。)
日樹(にちじゅ)は、池上本門寺十六世。
飯高檀林・中村檀林で修行を積み、飯高檀林七世の化主(管長)となりました。
元和五年(1619)に池上本門寺に入り、妙覚寺の日奥に同調して受布施派と対立し、寛永七
年(1630)信濃国伊那郡飯田(現長野県飯田市)へ流罪となりました。
日奥(にちおう)は妙覚寺一九世、号は仏性院・安国院。
不受不施派の祖とされています。
文禄四年(1595)の豊臣秀吉による方広寺大仏殿千僧供養会への出仕命令にただ一人不受
不施の教義に反するとして反対し、丹波(京都府)小泉に隠棲しました。
慶長四年(1599)徳川家康が主宰する供養会も拒否して、元和九年(1623)まで13年間の
流罪となました。
慶長十七年(1612)許されて京都に戻ったものの、寛永七年(1630)受・不受の論争が再燃し、
幕府は日樹・日賢・日弘・日領・日進・日充の六上人を流罪とし、その直前に没した日奥も死後
にもかかわらず再度の対馬流罪となりました。
日述(にちじゅつ)は平賀生知院二十一世。
日浣と同様に資料が少なく、平賀生知院二十一世であったとき、寛文六年(1666)の法難で
伊予の吉田に追放されたこと、追放先の吉田藩では厚遇されたこと、寛政十三年(1801)に
完成した「租書綱要刪略」の編纂に初期段階で携わったこと、程度しか分かりませんでした。

この仏塔は、風化で文字は全く読めません。

「南無妙法蓮華経」「安住●日念聖人」「享保十七壬子」と読めます。
享保十七年(1732)は八代将軍吉宗の治世で、西日本を中心に長期にわたる悪天候による
凶作(享保の大飢饉)が発生しました。
日念(にちねん)の号は成就院。
市原の四天王山法光寺の開基とされています。

昭和49年に編纂された「栗源町史」にも、大正十年編纂の「千葉縣香取郡誌」にも、全くと
言って良いほどこの卵等に関する記述が見つかりません。
風雨に晒されてほとんど文字が消えているこの説明板で、「日念」、「日浣」の名前のほかに、
「日東聖人」の名前が読めますが、石塔のどれが日東聖人のものかは分かりません。
日東聖人は池上本門寺の十七世で、蓮乗院と号し、慶安元年(1648)に没しました。


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すぐ隣には「道の駅くりもと」がありますが、この「かくれ卵塔」に気付く人は少ないようです。

「香取民衆史 7」(香取歴史教育者協議会 1994年)に、「信仰を守るたたかい-不受不施
派の法難」(野口政和氏)の論文が掲載されています。
【 法難遺跡
地下活動のため、あまり史料や遺跡が残ってはいないが、今わかっているものを紹介して
みたい。 多古法難のときに砕かれた日講の石塔が栗源町沢に現存している。 日講は、
寛文の法難により一六六六(寛文六)年、九州の日向佐土原へ流された野呂檀林(千葉市
野呂)出身の僧。 石塔は。日講の一万部読経完成を記念して、流された日向佐土原・大坂
高津衆妙庵・沢村(栗源沢)と三基たてられた。 沢村では一七〇五(宝永二)年にたてられ
ている。 高さは約一、五メートル、台石の高さは約三〇センチ。 多古法難では鯨油をかけ
て三日三晩焼き水をかけて砕いたと伝えられている。 また、焼いた三人の人夫は、一人は
火傷、一人は杵にあたり、一人は風呂釜で腹を焼いて、それぞれ死んだと伝えられている。
信者の弾圧に対する憎悪、なお信仰を守ろうという強固な意志がよみとれる。 石塔は砕い
て埋められたが、沢の信者である堀越義昌氏が生涯をかけてさがし、掘りだされ現存してい
る。】 (P49~50)

「かくれ卵塔」(道の駅くりもと) 香取市沢1372-1
石仏群」を訪ねます。

県道44号線の「さくらの山」信号と京成空港線のガード下の間にある脇道を入って、少し進むと、
左手に鳥居と十数基の石造物が見えます。
石の鳥居は、円柱の笠木に角柱の貫が特徴の「靖国鳥居」です。


正面に石宮の道祖神が鎮座しています。
社号も紀年銘もありませんが、後述の「遷座記念碑」の碑文から、この石宮が「道祖神」である
ことが分かります。

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側面には龍の彫刻が施されています。

道祖神の石宮の後には、風化が進んだ小さな道祖神が置かれています。

そして、境内の右端には、嘉永元年(1848)の銘がある「道祖神」があります。
周りには小さな道祖神が二基置かれています。
この数基の道祖神が、もともと駒井野に散在していたもので、中央の石宮はこの地に遷座
したときに建立されたもののようです。

道祖神の手前左側には、青面金剛像が立っています。
これは「庚申塔(こうしんとう)」と呼ばれます。
これまで何度か庚申塔について書きましたが、あらためてもう一度まとめておきましょう。
「庚申」とは「干支(えと)」の一つです。
昔の暦や方位に使われていた「干支」とは、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わ
せた60を周期とする数詞です。
十干とは[甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸]、十二支とは[子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・
酉・戌・亥]で、干支の組み合わせ周期は60回になります(10と12の最小公倍数は60)。
つまり、庚申の年は60年に1回、庚申の日は60日に1回周ってきます。
「庚申信仰」は道教の説く「三尸説(さんしせつ)」を起源とする民間信仰です。
人の体内には、生まれたときから上尸、中尸、下尸の三種の三尸虫がいて、庚申の日の夜に
眠っている人の体内から抜け出して、その人の悪行を天帝に告げ口をして寿命を縮めさせる
と言われています。
三尸虫は宿主が死ぬと自由になれるため、常にその短命を願っています。
そのため、庚申の日の夜は身を慎んで眠らないで過ごし、三尸虫が体内から出られないよう
にする、「守庚申」と言う信仰の形が生まれました。
貴族の間に始まったこの信仰が、やがて庶民の間にも広まり、念仏を唱えたり、酒を飲んで
歌い踊る宴会によって眠気を払う「講」の形になりました。
60日に1回、1年に6回ある庚申の日に人々が集まって、三尸の虫が天帝に悪口を告げない
ように夜明かしをする「庚申講」を、三年(十八回)続けると「庚申塔」を建てることができます。
庚申塔には「庚申塔」と文字が刻まれたもの、「青面金剛(王)」の文字、または「青面金剛像」
が刻まれたものの三種類があります。
「青面金剛(しょうめんこんごう)」について、「仏像鑑賞入門」(瓜生 中 著 平成16年 幻冬舎)
には次のように解説しています。
「 一般には「庚申さま」の名で親しまれている。 もともとは悪性の伝染病をはやらせる疫病神
として恐れられていた。 疫病の神にふさわしく、青い肌に蛇を巻きつけ、髑髏の装身具を身に
つけるなど、恐ろしい姿をしている。経典には四臂像が説かれているが、実際に造られるのは
六臂像が多く、また二臂のものもある。 青面金剛が庚申さまと呼ばれるようになったのは、
中国の民間信仰である道教の影響を受けたためである。」 (P224)
六臂の像容は、法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)等を持つ忿怒相で、邪鬼を踏みつけ、
左右に童子や鶏を刻み、台座に三猿を置いています。
鶏は、鶏が鳴くまで起きていることを表しているとか、十二支の申(さる)の次の酉(とり)の日
になるまで起きていることを表しているとか言われています。
また、三猿は(諸説ありますが)庚申の申にかけて、三尸に“見ざる・言わざる・聞かざる”で
天帝に告げ口をさせないようにするためだと言われています。




寛政十二年(1800)の紀年銘があり、側面には次のような文字が刻まれています。
「西 なりた 北 こまいの」「東 とつこう 南 はたけた」
道標を兼ねていたようですが、「とつこう」は取香、「はたけた」は「畑ケ田」だと思われます。


道祖神や青面金剛像の左手に、十数基の石造物がまとめられています。
中央の五輪塔には紀年銘がありませんが、道祖神の石宮と同じく、この地に遷座したときに
建立されたもののようです。

「馬頭観世音」と刻まれたこの石碑には紀年銘がありません。
これも、この地に遷座したときのものでしょう。


右は馬頭観音の文字塔、左は馬頭観音の像塔です。
文字塔は昭和22年、像塔には「寛政三辛亥」の紀年銘が刻まれています。
寛政三年は西暦1791年、第十一代将軍・徳川家斉の治世です。
約230年前のものにしては、風化が少なく、冠の馬頭がはっきり分かる珍しい観音像です。

五輪塔の左側に並んでいる石造物はいずれも墓石のようです。

風化が進んでいますが、「宝永三」と読めます。
宝永三年は西暦1706年、310年も前のものです。

こちらも「宝永三戊」と読めます。

「・・童子」とあるので、子供の墓石のようです。
「宝曆十庚辰」と刻まれています。
宝暦十年は西暦1760年、第九代将軍徳川家重の治世です。

宝暦七年(1757)の墓石。
「・・・定門 ・・・定尼 霊位」と刻まれています。
「成田市史 中世・近世編」中の「近世成田市域の寺院」表によれば、駒井野地区の寺院は
天台宗の「髙福寺」(山之作・円融寺末)と、真言宗の「法蔵寺」(吉岡・大慈恩寺末)の二寺
のみで、高福寺は新駒井野に移転して存続し、法蔵寺は明治初期に廃寺となっています。
状況から考えると、廃寺となった「法蔵寺」にあった墓石ではないでしょうか。

五輪塔の右側にも三基の墓石が並んでいます。

左は寛政十年(1798)のもので、・・・權律師(ごんのりっし)と読めますので、お坊さんの
墓石です。
「權律師」は僧侶の位(僧階)の最下位の名称です。
ちなみに、僧階は上位から次のようになっています(宗派によって多少の違いがあります)。
【 大僧正・権大僧正・中僧正/僧正・権中僧正・少僧正・権少僧正・大僧都・権大僧都
中僧都/僧都・権中僧都・少僧都・権少僧都・大律師・中律師/律師・権律師 】
右の墓石は享保七年のもので、風化と苔で読みにくくなっていますが、「・・・照誉道光・・」
「・・・開眼道了・・」と読めるような気がします。
享保七年は西暦1722年、八代将軍徳川吉宗の時代です。

こちらの石仏は風化と欠損により、年代等は不明ですが、地蔵菩薩であると思われます。

五輪塔の後方には「子安地蔵尊」があります。
明治十三年(1880)の建立です。


50メートル先は空港の滑走路です。

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ここはちょうどA滑走路の離陸スタートポイントになるため、次々と一気にエンジンを吹かして
走り始める旅客機が現れます。
障害物の間から見ていると、機体は一瞬で走り去り、轟音だけが襲ってきます。

遷座記念碑には次のような言葉が刻まれています。
「遷座記念碑
我等が先祖より、居住の地は昭和四十一年新東京国際空港の用地と決定した これに
伴ない昭和四十八年八月区民の柱の一つとして崇拝している道祖神等をこの地に合祀し
遷座祭を執り行なう ここに記念の碑を建て永く駒井野区民の加護を祈念する」



空港の工事により、駒井野の道端や林の中に散在する道祖神や石仏、墓石等が失われ
ないよう、この地に集めて、離散する住民の心の拠り所としようとしたのでしょう。
しかし、絶え間なく航空機の離着陸の轟音が響くこの地に、人家は消えて、今は訪ねる人
もなさそうです。
過疎化で忘れ去られて草むす石仏や石碑もあれば、やむを得ない事情によって元の土地を
追われて離れた場所に移り、人と引き離されて忘れられて行く石仏や石碑もあります。

※ 駒井野道祖神と石仏群 成田市駒井野1393-5

中里の「楽満寺」から七沢の八坂神社方向に抜ける旧道(今は寸断されてほとんど消えて
いますが・・・)に「中里の道祖神」と呼ばれる場所があります。
「道祖神」は、主に昔の村の境界や道の辻、三叉路などに祀られている神で、村の守り神で
あり、子孫繁栄や旅の安全を守ってくれる神様として信仰されていました。
呼び方はいろいろあって、成田近郊ではドウロクジン(道陸神)と呼ばれることが多く、他にも
賽の神または障の神(サイノカミ)と呼ぶ地方もあります。


ここの「道祖神」には、数え切れないほどの小さな祠がうずたかく積まれています。
「道祖神」といえば、道端にポツンと立っているイメージですが、びっくりするような景色です。

鳥居は平成7年に建てられました。

手水盤の願主の数名の名前が読めますが、奉納の年代は読めません。


手水盤の脇に大正十一年(1922)の道標が立っています。
「此方 小野 大和田 滑河」と刻まれた面には、わざわざ「正面」とも刻まれています。
別の面二は、「此方 七澤 名古屋 ■■」、「此方 青山 倉水 成井 本大須賀」とあります。
今では目立たない脇道ですが、元々はここが人々の行き交う旧道だったようです。


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正面中央に周りのものより大きい、唐屋根に楓の紋が刻まれた祠があります。
明治三十二年(1899)のものです。


おびただしい数の小祠が並んでいる、というよりは積み上がっています。
人通りの無い小道の、それも大木の陰に・・・、この光景は怪しげですらあります。

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文字は無いが祠の形


お札のような形や、さらに小さな形のものまでが混在しています。


積み上げられた小祠で、さながら塚のようになった裏側も、この景色です。


大部分は文字も刻まれていないものですが、丁寧に見て行くと、ほんのわずかですが年号が
記されているものがあります。
文化元年、文化四年、文化五年、文化十一年のものを見つけました。
ほとんどが文化年間(1804~1818)のもののようです。

中に一つだけ、奉納された常夜燈が崩れたのでしょうか、中央の祠の脇に置かれていました。
これまでにたくさんの道祖神を見てきましたが、そのどれにも無い、強く訴えかけてくるような、
「道祖神」群です。

幸町の三竹山道祖神(ドウロクジン)

東和田の道祖神

幡谷・香取神社脇の道祖神群

前林・妙見神社前の道祖神

吾妻・吾妻神社側の道祖神

堀籠・須崎神社の道祖神

押畑・新福寺下の道祖神(ドウロクジン)


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道祖神はタブの巨木の根元に積まれています。
このタブの木の推定樹齢は2~300年と言われています。
旧道の三叉路にタブの木が生えた小塚があって、ここに村人が「道祖神」を置き、何かに
つけて皆が小さな祠を奉納して行く内に、タブの木も大木になり、こんな不思議な光景に
なったのでしょう。
この道祖神群について唯一見つけた記録は、「下総町の社寺と石宮」(昭和60年)にある、
次のような記述です。
「道祖神 字原大間戸(一八一) 猿田彦命 足の悪い人が参拝する。また、現在三峰講は
ここを中心に行われる。」
あっさりした記述のため、これが「中里道祖神」のこととは気づきませんでしたが、巻末にある
古い写真は間違いなくこの鳥居とタブの木、そして積み上げられた道祖神群でした。

道祖神に刻まれた年号はほとんど文化年代(1804~1818)ですから、そのころはタブの木
もありふれた大きさの木であったはずです。
初めにここに小さな道祖神を奉納した村人は、200年後のこの景色を想像したでしょうか?

※ 「中里道祖神」 成田市中里181