
浅間神社

「香取神社」から見てゆきます。

木製の鳥居は控柱の付いた両部鳥居です。

社号標は昭和51年の建立です。

鳥居の脇に二つの手水盤が置かれています。
手前は明治三十一年(1898)、奥の小さい方には「天明六丙午」と刻まれています。
天明六年は西暦1786年になります。

神 額 ***



「千葉県神社名鑑」によれば、ご祭神は「經津主命(フツヌシノミコト)」、本殿は亜鉛板葺で
流破風造の1.2坪、拝殿は亜鉛板葺入母屋造の7坪、境内は647坪で氏子は80戸です。
由緒沿革には次のように書かれています。
「創立は第五一代平城天皇の大同元年で、今の社殿は第一〇七代後陽成天皇慶長九年
庚辰九月一七日の改造になるものという。往時、本村は亀山村と称していたが、邪神駆除
の時に用いられた大神の旗を社殿に納め崇敬したる縁故により、後に幡谷村と改めたと
いわれる」
大同元年は西暦806年で、実に1200年以上前のことになります。
また、慶長九年は1604年ですから、本殿は400年以上前に改築されたことになります。
拝殿は昭和51年に改築されました。


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400年もの風雪を耐えてきたとは思えない、しっかりとした社殿です。
「千葉縣印旛郡誌」中の「久住村誌」には、こう書かれています。
「村社 香取神社 幡谷村字宮下にあり經津主命を祭る由緒不肖と雖慶長九年九月創立に
係る棟札を見る社殿間口七尺奥行七尺拜殿間口三間奥行二間神門高一丈一尺間口八尺
境内六十七坪官有地第一種あり神官は澤田總重郎にして氏子六十九戸を有し管轄廰まで九里
三十一町十一間一尺なり神社明細帳」

境内の右手には、古事記奉上文の一節を刻んだ石碑が建っています。
「明治貳拾六年八月十日」と、「正六位勲六等 岩佐為春書」とあり、次の文が刻まれています。
「議安河而平天下 論小濱而淸國土」
「古事記」は第四十代天武天皇の命によって編纂が始まり、一時期の中断を経て第四十三代
元明天皇によって作業が再開され、稗田阿礼の口述を太安万侶が筆記編纂した我が国最古
の歴史書ですが、「臣安萬侶言 夫 混元既凝 氣象未效 無名無爲 誰知其形~」と始まる
その冒頭の序文の中にこの一節があります。
【安河(高天原の河)で天下(葦原中国=地上のこと)の平定について神々が相談し、小濱
(島根県出雲市にある稲佐の浜)で建御雷神(タケミカヅチノカミ)が事代主神(コトシロヌシ
ノカミ=大國主神)を諭して国土を清めました。】

拝殿前の二基の灯籠には、「天明三癸卯六月」と記されています。
天明三年は西暦1783年で、天明の大飢饉のまっただ中にありました。
この灯籠が寄進された翌月には、死者二万人を出したと言われる浅間山の大噴火が起こり、
飢饉はさらに深刻度を増してゆきます。

境内の左手にある二基の祠は、風化が進んでいて刻まれていたはずの文字は読めません。

大正四年(1915)のこの石碑には次のように刻まれています。
「村社香取神社は平城天皇大同元年の創立にして庶人の崇敬いと厚き古社なり 今上天皇
御即位奉祝の記念として今年三月祭田九畝拾三歩山林八反参畝参歩を氏子より基本財産
に寄附し同八月六日幣帛神撰料供進の式社に列せられる因で御大典擧行の吉事を撰ひ碑
を建て由緒を刻し以て永く後年に傳ふ」
(崩し字が多く一部読み間違いがあるかもしれません。)

境内を出たところに、小さな祠がたくさん並んでいる場所があります。

およそ五十基ある祠は「道祖神」です。
風化でほとんど読めませんが、文化、元文などの元号がかろうじて読み取れます。

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小さな道祖神群に合わせたような小振りの灯籠が並んでいます。
一基には「文政九丙戊歳九月」と刻まれています。
文政九年は西暦1826年になります。
もう一基には「安永■辰」の文字が見えます。
安永年間の干支に「辰」があるのは元年(壬辰)だけですので、安永元年(1772)のもので
あることが分かります。

中央の一番大きな祠には「元文四己未」と刻まれています。
元文四年は西暦1739年、約280年前になります。

道祖神群はスダジイの大木に抱かれるようにして、その根元に並んでいます。

道を渡って「浅間神社」に向かいます。


こちらは石造の明神鳥居です。
社号標は昭和51年のものです。

年代不詳の手水盤


延享年代(1744~48)の祠


この「浅間神社」に関しては「千葉縣印旛郡誌」中の「久住村誌」に簡単に記述されています。
ご祭神は「木花開耶姫(コノハナノサクヤヒメ)」で、社殿は板造小祠であり、神官名や氏子数、
管轄廰までの距離は隣の「香取神社」と同じです。
板造小祠から石造小祠になったのは昭和50年です。
また、「千葉県神社名鑑」の「香取神社」の項に、境内神社として「浅間神社」が記載されて
いることから、この「浅間神社」はもともと「香取神社」の境内にあったものと考えられます。


両神社の間に名古屋地区方向への道路が造られ、「香取神社」の境内社であった「浅間神社」
が境外社となったようです。

両社の間の道路から見た「浅間神社」 ⇑ と「香取神社 ⇓



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境内の外れに建つ、昭和3年の「御大典記念改修道路碑」。
この時、両社の間に道路ができたのでしょうか?




幡谷の「香取神社」と「浅間神社」。
道路に分けられはしましたが、それぞれの社殿の後ろには、まだ豊かな森が広がっています。

※「香取神社」「浅間神社」 成田市幡谷573

幡谷の「薬師堂」は何度訪ねても飽きません。
大分傷んでいますが、大きく立派なお堂で、境内には珍しい石仏や石造物がたくさんあります。

「千葉県印旛郡誌」に「薬師堂」が紹介されています。
「藥師堂 幡谷村字宮前にあり東光寺境外佛堂にして眞言宗たり藥師如来を本尊とす由緒
不詳堂宇間口三間奥行三間境内七百四十八坪官有地第四種あり住職は成毛照享にして信徒
三十三人を有し管轄廰まで九里三十一町十一間一尺佛堂明細帳」


境内の入口に大きな手水盤がありました。
ついさっき、鳥が水浴びでもしたのでしょうか、縁に水が飛び散った跡があります。
広い境内には石仏を始めとする石造物が数多く見られます。

まず、境内の右手奥にある三基が目に入ります。

側面に「寛政十二庚申霜月」と記された「庚申塔」。
「青面金剛王」と大きな文字が刻まれています。
寛政十二年は西暦1800年になります。


「奉建立庚申待成就 正徳元辛卯年十月吉亦 幡谷村善男子結衆廿七人」と刻まれたこの
青面金剛像は六臂で、正面で合掌し、法輪・矢・鉾・ショケラを持ち、左右に鶏と童子を配し、
足許には邪鬼を、台座には三猿を置く様式です。
左右に鶏だけでなく、童子を配するものは珍しいものです。
正徳元年は西暦1711年ですから、300年以上も風雨に晒されて立っているわけです。

十九夜待ちの「月待塔」。
「奉造立十九夜講中 善女等 安永二癸巳正月吉日」と記され、十九夜の守り本尊である
如意輪観音が刻まれています。
ちょっと怒ったようなお顔の観音様が建立された安永二年は、西暦1773年になります。

三基の石仏の後ろにポツンと卵塔(無縫塔)が一つ。
「宝暦四戌■ 権大僧都法印■■」とあり、位の高いお坊さんのお墓のようです。
宝暦四年は西暦1754年になります。


「奉建立拾七夜待成就之攸 正徳三癸巳年四月十七日 幡谷村善女」とある月待塔。
正徳三年は西暦1713年で、300年以上前の十七夜月待塔ですが、聖観音と思いきや、
頭上にある三つの化仏(?)、そしてうっすらと背後に見える手のようなもの・・・正面にも
宝珠のようなものを持つ手があるようにも見えて・・・。
偶然見つけた成田市教育委員会編の「成田市石造物調査報告書(Ⅰ)」(昭和57年度)に、
この月待塔の写真があり、「十一面観音」と書かれていました。
「十一面観音」は二十夜待ちの守り本尊ですが、例外もあるのでしょうか?
「十一面観音」の多くは二臂像ですが、六臂の十一面観音像も国の指定文化財になっている
三重県伊賀市の「観菩提寺」のものを始めとして、いくつかあります。
特に、群馬県沼田市の三光院にある六臂の十一面観音像の写真を見ると、手の置き方が
この月待塔の観音像と酷似しています。
さらに、芝山町の仁王尊(観音経寺)のホームページに、
「十七夜講は芝山仁王尊・観音教寺のご本尊十一面観世音大菩薩様の御縁日です。」
とあるのを見つけました。
「十七夜月待塔」に「十一面観音」が刻まれていてもおかしくないわけです。

なるほどこれは、頭頂に菩薩面の三面のみを刻んだ六臂の「十一面観音像」のようです。


薬師堂の右手に「市川團十郎先祖居住之地」と記した昭和39年建立の石碑が立っています。
「成田山中興第十八世貫首荒木照定書」、「十一世市川團十郎補之」とあります。
初代市川團十郎の祖先である堀越十郎は、北条家の家臣として小田原落城に遭い、落人と
なって幡谷村に隠れ、そのまま帰農して定着しましたが、孫の重蔵は農作業を嫌って江戸に
出て遊侠の徒となります。
この重蔵の子、海老蔵が後の初代團十郎となります。
海老蔵は十二歳で歌舞伎界に入り、市川段十郎(のち團十郎)として人気役者となりましたが、
子供には恵まれませんでした。
先祖の地の成田の不動明王に祈願したところ、ようやく子を授かることができたため、成田山
の霊験をテーマとする演目を上演し、「成田屋」の屋号が生まれました。
成田山と市川家とのつながりはここから始まります。

石碑の右のお地蔵さまの紀年銘は「寛永三■■」と読めるような気がします。
寛永三年であれば西暦1626年のものということになります。
初代団十郎は万治元年(1660)の生まれですから、幡谷に住みついた頃の堀越家の誰か
に関係があるのかかも知れません。
小さいお地蔵さまは昭和43年に建立されたものです。
ここに初代団十郎の墓があると書かれているものがありますが、どこにも見当たりません。
すぐ近くにある墓地もくまなく探しましたが、それらしき墓石はありませんでした。
どこかに移されてしまったのでしょうか?
因みに、現在は初代を含めた市川宗家の墓地は東京の青山霊園にあります。
(このあたりの事情については、「成田史談 35号」(成田史文化財保護協会 平成23年)に
掲載の兵藤俊郎氏の論文「市川團十郎墓石考」に詳しく書かれています。)


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この石碑を囲むように数十基の石仏や墓石が並んでいます。
墓石に記されている年号は、元禄、宝永、正徳、享保、延享、宝暦、寛政などです。

右は「奉造立十九夜待成就攸」と記された享保二年(1717)の十九夜月待塔。
左は「奉建立廿三夜待成就攸」と記された元禄十五年(1702)の二十三夜月待塔。
刻まれている守り本尊は、十九夜塔が「如意輪観音」、二十三夜塔は「勢至菩薩」です。

薬師堂の右手前の日陰の一角には四基の「如意輪観音」が並んでいます。
右から二番目の観音像は文政十一年(1828)のもので、上部に「十九夜」と刻まれています。



境内の三か所に、数本の幹や蘖が一体となったスダジイの巨木が立っていますが、その
存在感は圧倒的です。


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傷みが激しい薬師堂の堂内には、螺鈿のような装飾が施された立派な厨子が見えています。
この厨子には天正十八年(1590)の墨書銘があるそうです。
420年以上もの昔になります。


本堂の向拝の部分にある木鼻は正体不明です。
木鼻に彫られるのは、獅子、象、莫、龍などが一般的ですが、これは何だか分かりません。
獅子や龍ではないことは確かですが、象や莫なら牙がついているはずです。
鳥の嘴のような部分と蹄がある足が特徴のこの動物は何なのでしょうか?
回り廊下に欠落した片方の木鼻部分が放置されています。
お堂の左奥にも数基の石造物があります。

右は慶応三年(1867)八月の「読誦塔」。
この塔の造立の二か月後には大政奉還の上奏があり、さらにその二か月後には王政復古
の大号令と、徳川幕府から明治政府へ向けての歴史の大きな転換がありました。
左端の「讀誦塔」は昭和2年の造立です。

真ん中の六臂の「如意輪観音」は造立年代は不詳ですが、像形がしっかり見えます。
右の第二・三手には宝珠と数珠、左の第二・三手には蓮の蕾と法輪、そして右の第一手は
頬にあてて思惟相をとっています。
ちょっと変わっているのは左の第一手で、蓮台に掌を着けているのが一般的なのですが、
この像は左膝に着けています。

二臂像の場合は左手は膝の上




小さな大師堂をはさんで二基の「巡拝塔」が立っています。
右は「四國第六番阿卅安樂寺」と刻まれた文化十四年(1817)のもの。(卅は州の略字)
「安楽寺」は徳島県にある第六番札所で、ご本尊は「薬師如来」です。
左は文久二年(1862)のもので、「奉巡拜四国西国秩父坂東供養塔」。

さて、この薬師堂は「東光寺の境外仏堂」だとされていますが、その「東光寺」は一体どこに
あるのでしょうか?
文禄三年(1594)の「幡谷郷御縄打水帳」に飯岡村永福寺末として「東光寺」の名があると
言われていますので、420年以上の歴史があるお寺です。
「印旛郡誌」には「東光寺」について次のように書かれています。
「幡谷村字宮前にあり、眞言宗にして永福寺末なり阿彌陀如来を本尊とす由緒不詳堂宇
間口六間奥行五間境内六百三十八坪官有地第四種あり住職は小澤照典にして檀徒三十三人
を有し管轄廰まで九里三十一町十一間一尺とす寺院明細帳」
「東光寺」と「薬師堂」とは、所在地の字(あざ)と管轄廰までの距離が同じですが、「薬師堂」
は境外仏堂ですし、住職もそれぞれに居たようです。
「成田市の文化財 第42集 仏閣編」(平成23年)には、「東光寺」の住所は幡谷1045と
なっていますが、載っている写真は「薬師堂」です。
千葉県のホームページにある「成田市宗教法人一覧」でも、「東光寺」の住所は幡谷1045
となっています。
「全国寺院大鑑」(平成3年)にも同じ住所で載っています。


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少しあたりを探し回ると、「薬師堂」の裏手の森の中に一軒の建物を見つけました。
木々に視界を遮られていますが、距離はそんなに離れていません。
これが「東光寺」なのでしょうか?
中には和室が二つ、何も置かれていません。
地図で探しても周りには何もありませんし、どうやらこれが「東光寺」のようです。
軒下にわずかに見える彫刻も、一般の家屋のものではありません。
敷地内には「大師堂」がありましたが、中にはお大師様の履物だけがありました。

「成田市史 中世・近世編」の中に、
「東光寺は阿弥陀如来を本尊とし、二二二間・二二四間の広大な境内に三間四面の薬師堂
が建つ。この薬師堂の厨子には天正十八年の墨書銘がある。」(P786)
と二行の記述を見つけました。
境外仏堂とされる「薬師堂」は、じつは東光寺境内にあったわけです。
この「成田市史」の編さんは昭和61年ですが、昭和60年の地図には「東光寺」の名前は無く、
「薬師寺」の名前が載っています。
いろいろ混乱があるようですが、どうやら「東光寺」と「薬師堂」の位置は解決したようです。


堂内の厨子の墨書銘から推測すれば、少なくとも420年以上の歴史を有する市川団十郎
ゆかりの「薬師堂」。
お堂は荒れていますが、境内には珍しい石仏や石造物などの文化財も多くあります。
大木に覆われて苔むす境内には、これからも静かに時間が流れて行くのでしょうが、このまま
朽ち果てさせてしまうには、いかにも惜しい景色です。

※ 幡谷の「薬師堂」 成田市幡谷1009付近

「羽黒神社」は水掛の山中にある神社で、ご祭神は「宇迦之御魂命(ウカノミタマノカミ)」。
元禄十一年(1698)の創建です。
「宇迦之御魂命」は穀物の神様で、女神であるとされています。
この神社に関する記述は、「成田市史 中世・近世編」にも、「近代編史料集」の「町村誌」
にも、その他めぼしい書籍にも見当たりません。
唯一「成田市史」の「成田市域の主な神社」表に1行あるだけです。

「羽黒神社」への道端に、文化五年(1808)の「馬頭観世音菩薩」と記された石碑。
神社のある小高い山の周りを半周あまりしましたが、入口がなかなか見つかりません。

ようやく神社への階段を見つけました。
折れ曲がった急な階段です。

登り切って下を見ると、相当な高低差です。

103段の石段が終わった所に、土砂に埋まった小さな石碑がありました。
寛政八年(1796)の文字だけが読めます。

木の鳥居は大分傷んでいます。

階段を登り、鳥居をくぐっても、まだお社は見えません。
尾根道のような細い道が続いています。
傍らの木の根元の小さな祠


しばらく進むと、ようやく道の先にお社が見えてきました。

小さいながらも立派な屋根がある、破風造りのお社です。

手水鉢は50センチ四方程度の小さなもので、風化と泥で文字などは見えません。

小さな奉納額がいくつかありますが、いずれも文字などはすっかり消えています。

棟鬼瓦には「羽黒山」の文字が入っています。
境内には名前の分からない祠が四つあり、その内の一つだけ年号が読めました。

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文政六年(1823)の祠


4月上旬に、この境内で神楽が奉納されるそうです。
地域の状況から、氏子は少ないと思われますが、昔からの崇敬が維持されているようです。


長い参道を戻り、石段を下ると、小さな墓地があります。
墓石はどれも古く、延宝、安永、宝暦、明和、文政などの年号が読めます。

「十九夜講」と記された「月待塔」。


これは「正寿院」の歴代住職のお墓のようです。
「正寿院」というお寺の名前は町村誌には記載されていませんが、「成田市史 中世・近世編」
の「近世成田市域の寺院」表中にただ一行、西和泉の「城固寺」の末寺で廃寺であることが
記されていました。
かつてはここに天台宗の「正寿院」というお寺があり、多分、そのお寺は「羽黒神社」の別当
であったのでしょう。
同じく「城固寺」の末寺であった芦田の「証明寺」も、廃寺となって墓地だけが残されていまし
たが、いずれも寂しい景色です。
ちょっとしたスポット~取り残された仏たち~証明寺跡 ☜ こちらをクリック

帰り道、県道161号線に出る手前の民家の庭先のような場所に、「成田山 常夜燈」と
記された天保三年(1832)の古い石灯篭がありました。
台座には「右成田道」と刻まれています。
県道から少し入った小路ですが、ここが常陸国方面から成田山に向かう旧道だったようです。
「羽黒神社」も「正寿院」もほとんど記録が残されていませんが、昔は成田山にお参りに行く
人々が、この常夜燈の前を通り、ちょっと「正寿院」や「羽黒神社」にも立寄ったのでしょうね。

※ 「羽黒神社」(正寿院跡) 成田市水掛40

「延命院」は真言宗智山派の寺院で、山号は「幡谷山」、ご本尊は「不動明王」。
前回紹介した飯岡の「永福寺」の末寺で、創建年代は不詳です。


県道115号線から「延命院」に向かって入る道端に、数基の祠が並んでいます。
風化が激しく、わずかにその内の1基に文化三年(1806)の文字が読めるのみです。

「延命院」の手前に庚申塚があります。
道路からは2~3メートル高い場所にあり、「延命院」とは深い竹薮で切り離されていますが、
地形から見て、昔は境内だったのではないかと思われます。
「青面金剛」と刻まれた庚申塔は、寛政十二年(1800)のものです。
隣の金剛像は倒れています。


倒れた「青面金剛像」には、うっすらと宝暦六年(1756)と記されているように見えます。
六臂で、足下には3匹の猿が配されている、最も多くみられる形です。


『延命院は不動明王を本尊とし、六〇間・五八間の境内に二間四面の地蔵堂と妙見社が
建てられており、村内の香取大明神と山王権現を支配していた。』
(成田市史 中世・近世編 P786)
この広さがあったのなら、先ほどの庚申塚は昔は境内だったと考えて間違いないようです。
この本堂は昭和61年に建立されたもので、かつて境内にあった地蔵堂に納められていた
「木造地蔵菩薩立像」も安置されています。
「木造地蔵菩薩立像」については、説明板に次のように記されています。
『この像は、延命院の本尊です。像高75㎝、寄木造りで、左手に宝珠、右手に錫杖を取り、
沓をはいて直立している姿にあらわされています。地蔵菩薩は、釈迦の入滅後、弥勒菩薩
が出現し、この世を救ってくれるまでの長い無仏時代にあらわれ、一切の衆生を教化救済
してくれる菩薩です。この像は衣文を流れるように刻み出したおだやかな作風で、様式は
やゝ形式化していますが、鎌倉時代の造像と考えられます。なお、右足下の台座のさしこみ
ほぞの内面に「施主永範」という墨書銘がみられます。』
「成田市史 中世・近世編」にも、ほぼ同様の記述があります。(P267)

裏手にある小さな墓地。



貞享、享保、宝暦、文化、萬延などの年号が読めます。

少し離れた草むらの中に、享保と刻まれた墓石がひとつ、ポツンと立っています。
花を手向ける人が絶えてからどのくらい経っているのでしょう。
他の墓石には動かされた跡がありますが、傾斜地にあるこの墓石は、約300年間ずっと
ここにあったようです。

「阿波國地蔵尊寫」と刻まれた石塔がありました。
文化十二年(1815)と記されています。
永福寺の阿波國~の石碑

もしかすると、前回訪れた永福寺(この「延命院」の本寺)にあった“(私には)読めない石碑”
にも、こう刻まれていたのでしょうか?


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

狭い境内の一角にあるお堂。
何も手掛かりはありませんが、前述の「成田市史」にあった「妙見社」かも知れません。


見上げると、上空を成田空港に向かう旅客機が飛んでゆきます。

ふと、成田山の表参道脇にある同じ寺名の「延命院旧跡」との関連が気になりました。
成田山新勝寺の中興八世・照胤(1775~1829)は、安永四年(1775)に千葉権之助宗胤
の子として生まれ(※1)、天明六年(1786)12歳のときに新勝寺で得度して「照胤」と号し、
その後京都の智積院で修行して、享和四年(1804)に幡谷の延命院の住職となりました。
文政二年(1819)に、師の照誉上人の隠居に伴い成田山の中興八世となり、仁王門の修復
や阿弥陀堂の再興、七代目市川団十郎が寄進した額堂(※2)の上棟式なとを行い、成田山
の隆盛に寄与しました。
額堂を寄進した団十郎が、天保の改革のあおりを受けて「江戸十里四方処払い」の処分を
受けると、境内近くの延命院に住まわせ、厚遇しました。
※1 宗胤の父の千葉権之助紀胤の子とする説もあります。
※2 文政四年(1821)に寄進されましたが、残念ながらこの額堂は昭和四十年(1965)に
不審火で焼失してしまいました。現在残っている額堂は、文久元年(1861)の建立です。
照胤が幡谷村の延命院の住職をしていたこと、新勝寺の貫主となって七代目団十郎との親交
があったこと、不遇の団十郎を一時住まわせたのが成田村の延命院であること、さらに初代
団十郎の曾祖父、祖父、父親が、幡谷村に住んでいたことなどを考えると、二つの「延命院」
には何らかのつながりがあるように思えます。
明治十九年(1886)の「下総國下埴生郡成田村誌」には、
『村ノ北方字仲之町ニ在、境内四百廿五坪、真言宗日影山ト呼フ。本村新勝寺末寺ニシテ、
開基創立沿革トモ詳ナラス。』 (成田市史 近世編史料集一 P77)
とありますが、幡谷の「延命院」には何も触れていません。


同じ真言宗であっても、一方は「新勝寺」、もう一方は「永福寺」と、本寺が異なり、関連を
示す資料も見当たらないので、これは単なる偶然であったのでしょうか。
後日、図書館の史料室で見つけた成田山新勝寺編の「成田山史」の中に、仲之町の
「延命院」についての記述を見つけました。
『日陰山延命院と称す。由緒深い寺院で「成田名所図会」(安政五年刊)の巻五に「本尊
地蔵なり。元台にありて薬師の別当を勤め日陰山と称せり」とある。これによると往時は、
現在の上町の薬師堂の裏手にあって後に現在の中の町に移ったことが知られる。
延享三年の調書によると、「寺内御年貢地二畝二五歩」を有していたと記されている。
本尊は智證大師作の地蔵尊である。開創の年月は不明であるが、すでに正徳・享保の頃
には照貞師が住職となって居り、次いで照海師が任じ延享三年の頃は照峯上人が住し
嘉永年間には照岳上人が住して新勝寺の寺務を執行していたのである。
明治三六年に至って院号を出張所横浜野毛山不動堂に移して成田山別院とした。
昔の堂宇の一部は現在も仲の町に保存されている。かつて七代目市川海老蔵(団十郎)が
天保の改革の際に暫く住居したゆかりのある寺である。』
残念ながら、二つの「延命院」には「成田屋・市川団十郎」にまつわる因縁はあっても、お寺と
しての関連はなかったようです。

「延命院」の創建年代は不詳ですが、文禄三年(1594)の「幡谷郷御縄打水帳」に名前が
見えることから、少なくともそれ以前の創建であることが分かります。
小さな本堂とお堂が一つ、20基程度の墓石が残るのみの「延命院」ですが、その歴史は
成田の歴史に深く関わっています。

※ 「幡谷山延命院」 成田市幡谷1306

「永福寺」は真言宗智山派のお寺で、山号は「飯岡山」、ご本尊は「薬師如来」。
天正十九年(1591年)に徳川家康から五石の朱印地を贈られた格式のあるお寺です。

小振りですが、なかなか立派な山門です。
境内に入るにはやや端に位置しているので、移設されたものと思われます。


木組みのしっかりした四脚門で、扉はいつも大きく開かれています。
去年の11月に訪ねた時も、この門は開かれていました。
(六脚に見えて四脚門であることは、多古町の「能満寺」を訪ねた時に学習しました。)
去年11月の永福寺山門

多古町能満寺の四脚門

見事な鐘楼門~能満寺 ☜ ここをクリック

『孝謙天皇の御宇天平宝字年中、唐鑑真和尚入朝の後、嘗て當山を創立す。中古火災に
罹り、現在の伽藍は同寺中興第廿三世法印照善師の時、安永九庚子五月の建設せしもの
なり。』 (明治44年編「久住村郷土誌」より・「成田市史近代編史料集一」 P296に収録)
『寺伝によれば、奈良時代の天平宝字七年(七六三)に、唐の学僧鑑真和上によって創建
されたという。鑑真は日本に律宗を伝えた人物で、奈良の唐招提寺を創建したことでも知ら
れる。』 (「成田の史跡散歩」 小倉 博 著 P261)
吉岡の「大慈恩寺」も鑑真和上によって天平宝字五年に創建されたと伝えられていますので、
きわめて近い時期に、「永福寺」も同じ鑑真和上によって創建されたということになります。
もっとも、「大慈恩寺」の項で記したように、鑑真和上創建説には無理がありますので、同様に
「永福寺」の鑑真和上による創建説にも疑問が残ります。
ただ、「永福寺」が「大慈恩寺」と同じように、長い歴史を有した名刹であることには間違いが
ありません。
吉岡の名刹~大慈恩寺 ☜ ここをクリック
「成田 寺と町まちの歴史」(小倉 博 著)にも、こんな記述が見えます。
『鑑真創建の真否はともかくとして、隣区の荒海には唐鑑房とか唐竹谷といった鑑真に因む
場所が残っている。唐鑑房は鑑真が居住し僧を集めて経行したところ、唐竹谷は鑑真が来朝
のときに持ってきた唐の竹を植えたところといわれる。こうした伝承を考えるに、鑑真ではない
にしても、唐の高僧がこの地を訪れ、永福寺を創建したのであろう。』 (P240)

「成田市史 中世・近世編」は、この「永福寺」について次のように記しています。
『寛平五年(八九三)伽藍残らず焼失、二四年後の延喜十七年(九一七)に範良が再建
している。鎌倉時代に入ると大須賀氏の一族荒見氏の外護を受け教線を拡大した。
「佐倉風土記」には「有鐘、刻、元徳元年(一三二九)字、彫鋳画仏像甚多」と、元徳元年
銘の梵鐘があることを記して、その繁栄さを物語っているが、惜しいことにこの梵鐘は
今日に伝わっていない。』
『その後法脈が絶えたりして衰微したが、由緒ある寺の荒廃を嘆いた照尊が弘治三年
(一五五七)に本堂を再建し旧に復したのである。鑑真開山説はともかく、この寺は近くに
荒海城、大生城、幡谷城など大須賀一族の城址があり、その付近より立派な板碑が出土
する点より見て、荒海郷や飯岡郷などの豊かな農村地帯で、中世には地頭の外護と住民
の信仰により繁栄していたことがうかがわれる。』 (P254~255)
「久住村誌」には、本堂が安永九年(1780年)に再建されたとありますが、その後、平成
元年に改築されたことが、境内に建つ「中興記念之碑」で分かります。


本堂に向かって右手前にあるお堂に鎮座する木仏はどなたなのでしょうか?
ひび割れて虫食いも多数ありますが、何とも楽しげなお顔に見えます。

本堂正面の両脇には比較的新しいお地蔵さまが立っていますが、台座だけは古いもので、
文化四年(1807年)の文字がかろうじて読めます。

境内の一角に8基の下総板碑が並んでいます。
板碑は鎌倉時代から室町時代にかけて建てられたものが多く、その分布は全国にまたがり
ますが、特に関東地方の、それも鎌倉武士の領地に圧倒的に多く見られます。
大きく「武蔵型板碑」と「下総型板碑」に分けられますが、「武蔵型板碑」は主に秩父地方から
出る、やや青みがかった緑泥片岩で造られるものを指し、「下総型板碑」は主に筑波山から
出る黒雲母片岩で造られるものを指します。
前列一番左の板碑 →

前列左から二番目 →


風化で平面化している中で、前列の中央にあるこの板碑には蓮の花が刻まれていることが
分かります。
『その中央の板碑には、蓮の花の上に同じ梵字が二つ刻まれている。梵字は阿弥陀如来
の種字「キリーク」である。同じ梵字が二つ対比して並べてあることから双式板碑と呼び、
この場合は弥陀種字双式板碑となる。市内では双式板碑は少ないので貴重な存在である。』
(「成田の史跡散歩」P261)


後列の左端 →

後列の中央 →

後列の右端 →


裏側から見た板碑群。

境内の左手に、木々に隠れるようにして建っている「奉納 大乘妙典六十六部成就供養
導師永福寺照鑁敬白」と刻まれた石塔があります。
右に「天下泰平 宝永四丁亥 日本廻國」、左に「國土安穏 今月吉日 願主照運」と記され
ています。(今は異字体で、𠆢の下にテ)
宝永四年は西暦1707年で、富士山の宝永大噴火があった年です。

本堂裏の墓地に向かう場所に「無縁仏供養塔」があります。



延宝、天和、元禄、享保、元文、宝暦などの年号が刻まれた墓石が積み上げられています。
ツタに絡まれて傷みも激しいのですが、どれもとても優しいお顔です。


供養塔の隣にあるお堂の中には、上段に木造の仏像が、下段には石造5体、木造1体の
仏像が見えます。
上段の仏像は手首から先が欠け、首も傾いて今にも落ちそうです。

この石碑には苔がびっしりと付いていて、刻んである文字が読めません。
字も崩し文字で難しく、かろうじて阿波國と読めるような気がします。
紀年銘も文化五年(1808年)か文政五年(1822年)のどちらか、判別できません。

上記の石塔の後方の草むらの中には、寛政十年(1798年)の「南無観世音」と刻まれた
石塔があります。
上部には「廻國」とあり、脇には「三月十廿夜同行二人」と記されていますが、十廿夜など
は(私の読み間違いかも知れませんが)、残念ながら意味が分かりません。
側面には「南なりたミち」「北なめかわ道」と刻まれています。
方角が合いませんので、別の場所に置かれていて道標を兼ねていたのでしょう。

裏手の墓地には新旧の墓石が入り混じっています。
ひときわ立派なこの石塔には、○○居士、○○信女と、びっしりと近郷の人々の戒名が
刻まれ、「法界萬靈」と「迴向菩提」の文字が大きく記されています。

本堂と墓地との間にある小さな池。

佐原出身の儒者・久保木竹窓(1762~1829)が「巷談偶記」に記した「永福寺」に伝わる
不思議な話を、「成田 寺と町まちの歴史」から拾ってみます。
『昔、一人の僧がやって来て永福寺に宿泊した。その僧が深夜になっても起きている様子
なので、住職は不審に思い、そっと部屋の中をのぞいてみた。すると一人ではなく、数人の
僧がなにか書きものをしていたのである。だが、住職がのぞいているのを知り、すぐに灯が
消され、物音一つしなくなった。翌朝、その部屋に行ってみると誰れもいなく、ただ、墨も
新しい大般若経が散らばっていたのであった。拾い集めたところ、全巻揃いではなく一部
欠本があり、住職は自分がのぞき見などしなければ、全部書き上がったであろうと反省し、
不足分を版本で買い足したという。』 (P241)
「成田市史 中世・近世編」にある「近世成田市域の寺院」表には、「永福寺」の末寺として
17もの寺が記載されていますが、今ではそのほとんどが廃寺となり、現在残っているのは
6寺のみになっています。
「永福寺」は1250年もの歴史を有するお寺ですが、鐘楼・梵鐘などは失われ、わずかに
残る板碑群や石塔が、このお寺が古刹であることを教えてくれます。

※ 「飯岡山 永福寺」 成田市飯岡95

「円通寺」は臨済宗妙心寺派のお寺で、ご本尊は「千手観音菩薩」。
山号は「豊饒山」です。
ご本尊に関しては「久住村郷土誌」(明治44年編 成田市史近代資料集一に収録)に
こう書かれています。
「當寺本尊閻浮檀金千手観音菩薩
由来 開山開成大師安置し給ふ尊軀にして、身の長七寸、往昔より秘蔵なり。若三十三年に
當て一回宝扉を開きなば、六月と雖も必氷雪降る。霊験の厳なること世の知る所なり。宝龕
方形高さ一尺三寸、四扉に二十八部衆風神雷神を彩画す。謳摩法眼栄賀の筆なり。」
七寸(約21センチ)とはずいぶん小さなご本尊ですね。

参道の先に山門と脇門が並んでいます。
この二つの門は、かつて落城した助崎城にあった門だと言われています。

山門は太い木材で組み上げられ、朱色の屋根には「豊饒山」の山号と有名な千葉氏の
家紋、「月星紋」が輝いています。
この門は普段は閉められているようです。

脇門もしっかりとした造りです。

参道の左手脇にある「観音堂」。
すっきりとしたお姿の如意輪観音の左には、「十三夜 十五夜 十九夜講中」と記されています。
ずいぶんと欲張った月待塔ですね。
安永六年(1777年)の建立です。
観音様の前には大きなお地蔵様


お地蔵さまは寛政二年(1790年)、足下右には寛政六年(1794年)の「心経十萬供養塔」、
そして、その後ろに天保十四年(1843年)の「青面金剛明王」と彫られた庚申塔、左には
寛政五年(1793年)の「十三佛供養塔」が並んでいます。
お地蔵さまの台座には、正面に「願王尊」、側面に「念佛塚」と彫られています。

一瞬スズメかと思いましたが、一回り大きいホオジロです。
山門の前でのんびり日向ぼっこです。
※リンクをいただいている「地誌のはざまに」のkanageohis1964様から、この鳥はツグミでは?
とのご指摘をいただきました。なるほど、そのようです。kanageohis1964様からは以前にも
野鳥の名前についての情報をいただいています。ありがとうございます。(3/22)

「円通寺」は京都の「妙心寺」の末寺で、もともとは建長寺派に属していましたが、近世に
入り美濃の北野大智寺広厳禅師の弟子の宗真を住職として、妙心寺派になりました。
成田市内の臨済宗の寺院は、ここ「円通寺」の他は円通寺の末寺である大室村の「栽松院」
(廃寺)と土室村の「福善寺」(廃寺)のみでしたが、平成18年の合併で旧大栄町の「長泉寺」
と「耕田寺」、旧下総町の「東光寺」と「楽満寺」が加わりました。
いずれも妙心寺派に属しています。
「久住村郷土誌」には、「円通寺」の由来について以下のように記載されています。
「人皇第四十九代光仁天皇之皇子攝州勝尾山第二世関成大師開闢之道場也。大師東遊之
日晦迹於當山中有年終達、天聴勅賜山園方三十六丁及良田数百頃創建藍舎為皇基祈願
之地。即號豊饒山円通寺傳言扶桑国以円通牓寺院之最初也。径数有歳後為兵起故国中
騒乱僧徒逃散寺門亦癈壊助崎城主千葉某再建諸堂便請鎌倉建長寺國一禅師住持當山、
其後千葉一子旭菴和尚住院之時、房州里見内膳家臣狼藉之時奪取御朱印之綸旨等古来
五百貫寺領令没取尓後、寺門遂日下襄幸暦。東照神君被一統天下之日、住持實岫頻趨
幕府数陳前件告許数面、雖未無降下先領之。官許辱承山林境内不違先規台中命中興於
當寺屬於妙心派下台來有両四欝収災此故開山以来漆器什物悉皈灰燼只開成大師所安置
閻浮檀金本尊千手観音一尊幷千葉氏大長刀一柄家臣白石外記尾大槍一柄千葉之鞍幷鐙
其外画幅等存。」
攝州の勝尾山で修業した光仁天皇の皇子である開成(かいじょう)大師が東国に下り、この
地に「円通寺」を開き、天皇から豊かな田畑山林を賜って山号を豊饒山としたこと、その後
兵乱で荒廃した寺を助崎城主により再建され、鎌倉の建長寺の國一禅師を招いたこと、
以降、多々紆余曲折があって、妙心寺派となったこと、などが書かれています。
ここにある「大長刀=薙刀」は「常胤四男胤信を愛して之を與ふ」と「久住村郷土誌」に記され
ているものです。
「大槍」は「胤信の忠臣白石外記が納る所なり」とあり、白石外記は大長刀と共にこの槍を
納めたと記され、また、「鞍」は「往年天下無双の鞍工上総国望陀郡大坪村に住みし大坪
直貞が作なり」と書かれています。

脇門をくぐった正面に立つ昭和3年の「妙心興祖徴妙大師 五百五十年」の記念碑。
「徴妙大師」は朝廷から贈られる大師という謚(おくりな)を持つ22人の中の一人で、臨済宗
では他に開成大師のみです。

記念碑の後ろには銀杏の木があります。
「千葉氏の一族大須賀氏の外護を受けていた円通寺の境内にあり、幹回り7.1Mの大樹
です。落雷のため、現在は樹勢の回復を待っています。」 と案内柱に書いてあります。
以前は成田市の天然記念物に指定されていたそうです。



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境内の左手に二つの祠が並んでいます。
誰かは分かりませんが、高僧の像でしょうか、それぞれに一体ずつ安置されています。

明暦四年の紀年銘があるこの石碑には、四面に「博桑國總州路香取郡助崎郷大室邑
豊饒山圓通禪寺開山開成大師・・・」から始まる漢文がびっしり彫られています。
最上部には「豐山圓通禪寺」と刻まれています。

隣に立っている石柱には、「大師者光仁帝皇子桓武帝皇兄」と刻み、側面にはそれぞれ
「大般若石經墳 開山開成大師祈謄」「京都妙心寺末豊饒山円通禪寺」などと刻まれています。

この十五夜塔には「慈眼視衆生」と彫られていて享和二年(1802年)の紀年銘があります。

このお堂には四方に板張りがされていて、何のお堂かも分かりません。

本堂の屋根にある月星紋


本堂の屋根や瓦にある「月星紋」は、三日月が上を向いています。
千葉氏の家紋である月星紋の三日月が、斜め左に向くようになったのは江戸中期からで、
それまでは上向きでした。(山門の月星紋の三日月は斜めでしたね)

境内の一角にある「子安地蔵」。
後ろに見えるのは保育園です。


脇道にはみ出すように建つ鐘楼。
屋根は最近葺き替えられたようです。

墓地には貞享、元禄、享保、宝暦、寛政、文化などの年号の古い墓石が並んでいます。


満開の梅にフキノトウ。
まだ風は冷たいですが、春ですね。

脇道に熊笹に覆われた石段があることに気付きました。



何も書かれていないお堂の中におられるのは、どなたなのでしょうか?
石段の状態からすると、お参りする人はいないようです。


大きな本堂に立派な山門、広い境内に鐘楼、手入れの行き届いた境内・・・。
静かに春を待つお寺です。

※ 「豊饒山円通寺」 成田市大室766
JR久住駅から徒歩約50分
成田コミュニティバス大室・小泉ルート 大室青年館下車1分
駐車場あり

「泉涌寺」は真言宗智山派のお寺で、山号は「泉護山」、院号を「自性院(じしょういん)」
と称しますが、「自性院」の名前が一番通りが良いようです。
山門前の階段下に、平成9年に建立された「真言宗智山派 泉護山自性院泉涌寺」と
記された石柱が立っています。

その脇には、明治26年の「奉讀普門品三萬部供養塔」があります。

簡素な山門の先には、きれいに掃き清められた境内と本堂が見えています。


本堂前の「泉護山自性院略縁起」は、文字が消えかけていてほとんど読めません。
ここは「成田の史跡散歩」(小倉 博著 崙書房)にある説明を引用します。
「室町時代に千葉一族大須賀氏の末裔になる小泉弥六成吉がこの地に居館を築き、以後代々
北総の豪族として重きをなしてきた。しかし、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原城攻め
のとき、小泉氏は本家の大須賀氏とともに北条氏に味方して敗れ滅亡したという。
そして縁類の者が、一族の菩提を弔うため小泉氏の守り本尊であった釈迦如来像を祀り、一寺
を建立した。寛永三年(一六二六)九月のことで、これが自性院の開山となっている。もちろん
ご本尊は釈迦如来である。ちなみに山号の泉護山は、小泉地区を守護するために命名された
ものとしている。」 (P231)
飯岡の「永福寺」の末寺の総代となるなどしましたが、その後一時荒廃し、文化元年(1804年)
に中興開山の照峰上人によって再興されました。


この本堂は平成4年に再建されたものです。
開山から390年も経っているのに、このお寺に関する資料の少なさは不思議なくらいです。
まず、明治17年の町村誌に「泉涌寺」または「自性院」の名前が出てきません。
旧小泉村は明治22年に久住村に編入されましたが、この久住村の村誌にも、そして、近隣
の村の町村誌を見ても、一行の記載も見つかりません。
「成田市史 中世・近世編」(成田市史編さん委員会 昭和61年)の中にある「6-1表 近世
成田市域の寺院」に、ただ一行、「真言宗 小泉村 自性院 本寺飯岡村永福寺」とあるのを
見つけましたが、私にはこの他に小倉氏の著書中にしか見つけることができませんでした。
「泉涌寺」といえば、京都の「泉涌寺」を総本山とする「真言宗泉涌寺派」を思い起こしますが、
ここ「自性院・泉涌寺」は「真言宗智山派」です。
このことと、史料・記述の少なさとは関係ないとは思いますが、少し気になります。(本項の
終りにもう一度触れたいと思います。)

平地ではもうすっかり咲いている梅が、この山中ではまだほころび始めたばかりです。
(2月25日の撮影)
本堂左手の薬師堂



本堂に正対して、2つの祠と石仏が立っています。
後ろは急な崖で、下の道路との高低差は15メートルはありそうです。

文化元年(1804年)と記されたこの石仏は、「馬頭観音」のようです。
光背も無く、二臂で、お顔も忿怒形とは言えない表情ですが、頭上の馬頭(らしきもの)と、
胸の前で結ぶ根本馬口印から「馬頭観音像」と判断しました。



薬師堂の後ろを登ると、小さな墓地が開けています。
その入口に十三仏が並んでいます。
「十三仏」とは、冥界の審理に関わる、不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・ 地蔵菩薩・
弥勒菩薩・薬師如来・観音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閦如来・大日如来・虚空蔵菩薩
の十三の如来、菩薩、明王を言い、十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ
司る仏様でもあります。
例えば、初七日は「不動明王」、一回忌は「勢至菩薩」、十三回忌は「大日如来」、三十三回忌
は「虚空蔵菩薩」となります。
通常十三仏は掛軸などに描かれますが、一体ずつ石仏にしているものは珍しいようです。
「ただ惜しむらくはここにある石像は十二体で、観音菩薩が見えないことである。」
(「成田の史跡散歩」 P232)
数えてみましたが、確かに十二体でした。

墓地にはズラリと古い墓石や月待ち塔が並んでいます。
延宝、元禄、宝永、正徳、享保、元文、寛延、宝暦、明和、天明など、古いものばかりです。









「泉涌寺」と言えば、「真言宗泉涌寺派」の本山である京都の「泉涌寺(せんにゅうじ)」が思い
浮かびます。
長い間皇室の御陵所として、また「四宗兼学」(密・禅・律・淨)の道場の寺として隆盛を誇り、
「御寺(みてら)」とも呼ばれるほどの隆盛でしたが、明治5年に四宗兼学が廃され、真言宗に
組み入れられました。
明治40年に泉涌寺派を公称した後、昭和27年に「真言宗泉涌寺派」としての宗教法人認証
を得て、現在65の末寺を有しています。
末寺のリストを調べましたが、「自性院・泉涌寺」は記載されていませんでした。
同じ真言宗でお寺の名前も同じですが、関係は無いようです。
たまたま地形からくる名前が、京都の「御寺・泉涌寺」と同じになったということでしょうか。
何か因縁があるのでは・・・と、ちょっとワクワクして調べたのですが、空振りだったようです。
静かな山中に佇む「自性院・泉涌寺」。
人の気配は感じられないものの、掃き清められた境内が、住民の厚い信仰に支えられている
ことを示しているように思えます。

※ 「自性院・泉涌寺」 成田市小泉1
成田市コミュニティバス 大室循環小泉ルート
小泉共同利用施設下車 徒歩3分
JR久住駅から徒歩約50分 駐車場なし(スペースあり)
小高い丘を背にした祥鳳院(しょうほういん)があります。

山門前の石碑には、「奉 讀誦大乗妙典一千部」と刻まれています。
その下に「蘭香自秀庵主」「智照妙○○尼」と記され、
最下部には寄進者であろうと思われる「小倉氏」と記されています。
横には「不許葷酒入山門」と刻まれています。
これは結界石と呼ばれるもので、酒気を帯びたり、ニラのような臭いものを食べた者は
入山することを許さないという意味です。
同じ曹洞宗のお寺で、成田山の東参道にある永興寺にも同じ文字の石碑がありました。
⇒ 永興寺の結界石
山門の手前、左右にお地蔵様が立っています。
向って右のお地蔵様には三界萬靈と刻まれていて、
はっきりとはしませんが、文政十年(1827年)と読めます。
台座には「さくら」「なめ川」の文字がみえます。

左のお地蔵様には法華経一千部供養塔と刻まれていて、
台座には、「北なめ河」「西なり田」の文字がみえます。
道標を兼ねていたのでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




大きくはありませんが、しっかりとした山門です。
屋根には鯱鉾と葵の紋が見えます。


見上げると柱の上に立派な彫刻が・・・龍かと思いましたが、獅子のようです。

右側の獅子は毬を抱えています。
細かい網目まで彫られています。

祥鳳院の山号は竹縣山、曹洞宗のお寺で、ご本尊は薬師如来です。
「寺伝によれば、寛平年間(889~897)に平良将が密岩を開山として創建した真言宗寺院
であったが、1498(明応7)年に助崎城主大須賀信濃守が堂宇を再建し、明堂盛哲を招いて
曹洞宗に改宗したとされる。」 (成田市発行 「成田の地名と歴史」P277より)
平良将(たいらのよしまさ)は平安時代の武将。
桓武平氏の基礎を作った人物で、平将門の父です。
江戸時代には幕府から朱印地十石を賜った格式の高いお寺なので、
山門の葵の紋の理由はここにあるのでしょう。

境内にさりげなくあるこの木造の建造物には何の説明もありませんが、
形からして多分宝篋印塔ではないかと思います。
滑川の「龍正院」にある「銅造宝篋印塔」に良く似ているからです。
⇒ 龍正院の宝篋印塔

この宝塔は寛政十二年(1800年)のものです。

鐘楼は見当たりませんでしたが、この寺が所蔵する梵鐘は県の指定文化財で、
乾元二年(1303年)に船橋の二宮神社の鐘として鋳造されたものが、
後にここに移されたと説明板にあります。

本堂の裏手は小高い丘になっていて、その丘の一角に墓地があります。


古い墓石には天和三年(1683年)、寛政六年(1794年)などの年号が読めます。

質素な佇まいの本堂ですが、屋根にはめ込まれた紋章が気になりました。
桐の紋はすぐ分かりましたが、遠くからなのでもう一つが分かりません。
麻のような、桔梗のような・・・。
帰ってから調べたところ、曹洞宗の寺紋が竜胆(りんどう)であるので、
多分、竜胆車紋だろうと思います。

「普門品供羪塔」「観音講」と記された石板。
普門品とは観世音菩薩の略称です。

明治25年に建てられた「羽黒山 湯殿山 月山、秩父・西国・阪東百番供養塔」。

手前の仏様の台座には「供養塔」とあり、安永五年(1776年)と記されています。


前には広がる田園を、後ろには小高い丘を配する祥鳳院は、
土室の地にしっかりと根を張っているようです。
田んぼの先に見える小高い丘は、このお寺の堂宇を再建した
大須賀信濃守の居城があった助崎城祉です。
ついでに足を延ばしてみました。


今や鬱蒼とした森で何もありません


※ 竹縣山祥鳳院 成田市土室522
JR久住駅から徒歩40分
久住駅から赤萩経由大室循環バス祥鳳院下車(本数注意)