
天台宗のお寺で、山号は金峰山、ご本尊は阿弥陀如来です。
「龍金寺 下金山村字西前にありて天台宗に屬す金龍山と號す阿彌陀佛を本尊とす由緒
不詳堂宇間口二間奥行二間寺院間口五間奥行八間半境内二百七十三坪官有地第四種にして
管轄廰まで八里十八町なり寺院明細帳」
(下線の部分で山号が「金龍山」となっているのは誤りで、正しくは「金峰山」。)
「千葉縣香取郡誌」中の「中郷村誌」に、「龍金寺」はこう記述されています。

いかにも旧道らしい、曲がりくねった「和田下金山線」沿いに「竜金寺」はあります。
入り口には四基の石造物が並んでいます。

右端の如意輪観音は全体が白苔に覆われていますが、何とか「文政三年」と読めます。
文政三年は西暦1820年、約200年前のものです。

隣の石仏は風化と破損が激しく、何の石仏か分かりません。

これは墓石でしょうか、寬保や延享などの元号と、~禅定門の文字が見えます。

左端も風化と苔で文字がほとんど読み取れませんが、奉誦塔のようで「~万巻」と読めます。

瓦葺きの方形造りの本堂は、通りから一段高い場所にあります。
明治十七年の「下總國下埴生郡下金山村誌」には、
「本村字西前ニアリ、地坪九畝三歩。天台宗・金峰山龍金寺。由緒開基詳カナラス。」
とあります。
山之作の「円融寺」の末寺ですが、なぜか成田市の宗教法人名簿にも、天台宗の寺院名簿
にも記載がありません。
「成田市史 中世・近世編」の中で、「円融寺」の末寺として寺名が載っているだけです。


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失礼して中を覗かせていただきました。
反射でよく見えませんが、木造仏が数体おられるようです。
「阿弥陀如来像」ではないか、とは思うのですが、来迎印を結んでいるようには見えないのは
両手が欠損しているからでしょうか?

山口・證明寺の阿弥陀三尊像 證明寺 ☜

神崎町・神宮寺の阿弥陀如来像 神宮寺 ☜
『阿弥陀如来は仏の領土=浄土のなかでも最も広大な西方極楽浄土にいながら、現世で
人々に無量の寿命(永遠の生命)を与えてくれる法力を持つ如来です。「人は念仏さえ唱え
れば極楽浄土に往生できる」「臨終のときには菩薩や天(神々)を連れて迎えにいく(来迎)」
ことを誓願し、人々を救ってくれる阿弥陀如来は、十世紀以降、厚く信仰されるようになり
ます。』 (「仏像の事典」 熊田由美子監修 成美堂出版 P24)
ちょっと脱線しますが、私なりに解釈した、想像を絶する「阿弥陀如来」の広大な世界を、
数字で見てみましょう。(計算違いがありましたらお許しを)
遙か昔のインドに王位を捨てて「法蔵」と名乗った修行僧がいました。
「法蔵」は五劫という永い期間の修行を経て悟りを開き、「阿弥陀如来」となりました。
「劫(こう)」とは時間の概念で、一辺が一由旬(ゆじゅん=7.2㎞)の立方体にケシの実を
ぎっしりと詰めて、その実を100年に一粒ずつ取り出し、すべてのケシの実がなくなるまで
の時間を言います。
立方体の体積は約373㎦で、ケシの実は直径5ミリ程度ですから、”気の遠くなるほどの
長い時間”という意味になります。(「未来永劫」の「劫」もこの言葉から来ています)
さて、「阿弥陀如来」の極楽浄土は、私たちの住むこの世界から十万億土もの彼方にある
と言われています。
十万億土の「十万億」とは、一億の十万倍という意味ですから、10兆ということになります。
十万億土の「土」とは、“一尊の仏が治める銀河系ほどの広さをもつ国”を指す言葉なので、
十万億土の彼方とは、銀河系を10兆回越えた先ということになります。
銀河系の直径はおよそ10万光年とされていますから、その10兆倍とは、100京光年の
距離ということになります。
気の遠くなるような距離、と言うより、想像の範囲を超えた遙か彼方という意味です。
仏教の時間や空間の概念の大きさには圧倒されますね。


本堂の右裏手にあるお堂には数枚の欠けた板碑が置かれています。

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本堂の左裏手には墓地が広がっています。
寛文、貞享、元禄、宝永、正徳、享保、延享などの元号が見えます。

墓地の向こうの景色は大きく変わりました。
成田空港への鉄道の延伸による高架の建設、大型ショッピングモールの開業は、ここ20年
ほどの間の出来事です。


比較的新しい墓石の陰に、草生す無縁墓石が多く見られます。
人が生き、死んでいった痕跡のこのような姿を見るたびに、人生の無常を感じ、以前訪ねた
野毛平の「東陽寺」の景色を思い出してしまいます。




太子堂の二体の太子像は年代が分かりません。
頭は欠損し、近年になって付け直されたものです。

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寺の裏山は寺台城主であった馬場氏の一族が居城としていた「下金山城址」です。
急斜面は木々に覆われ、登り口は見当たりません。


山裾を切り開いた台地にある境内は、南側に開けて、前方には遮るものも無いためか、
とても明るい空間になっています。

「下金山城址」の手掛かりを探して少し近所を歩いてみました。
民家の庭先の向こうにチラリと鳥居が見えました。


鳥居の神額には「七星神社」と記されています。

しばらくの間は石段がありましたが、途中からこんな様子になりました。
45度以上の急斜面で、飛び出している木の根やツルを掴んで登るしかありません。
足を滑らせたら大怪我は間違いありません。

二十メートルほど、這いつくばるように登った先に小さなお社がありました。
狭い台地にはお社以外何もありません。

十メートルくらい先のがけ下に祠が見えています。
側面に何やら神紋のようなものが付いていますが、とても近づくことはできません。
急斜面を降ることばかりが気になって、早々にこの場所を離れましたが、道に戻ってふと
頭をよぎったのは、馬場氏が千葉一族であるなら、城跡であろう場所にあったあのお社は、
“「七星神社」となっているが、実は「妙見社」ではないだろうか?”ということでした。
「千葉縣印旛郡誌」に収録の「中郷村誌」に、「七星神社」の名前を見つけました。
「七星神社 下金山村字東前 無格社 祭神 天御中主命 由緒不詳 社殿間口二尺奥行
二尺 境内二五坪 氏子二七人 管轄廰まで八里十八町」
天御中主命(=天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ))は、天地開闢に関わった別天津神
(コトアマツカミ)の一柱で、高天原の中央に座する主宰神という意味があります。
「天之御中主命」をご祭神とする神社としては、「千葉神社」・「秩父神社」・「東京大神宮」等
がありますが、全国的には「妙見社」がご祭神としています。
特に下総地方一帯は、千葉氏の影響下にあった関係から、多くの城跡には「妙見社」が
セットのように見られます。
また、「成田市史 中世近世編」の「成田市域の主な神社」の項に、
「七星神社 古社名 七星権現 祭神 妙見菩薩」
とあるのを見つけました。
ご祭神の「天之御中主命」と「妙見菩薩」との混乱は、明治新政府の神仏分離令により、
妙見社では仏教世界の「菩薩」を祀れなくなり、天之御中主神を、妙見菩薩をと同一視
してご祭神としたことによります。(千葉神社や秩父神社もこの理由により天之御中主神
をご祭神としました。)
これで、この「七星神社」とは、妙見信仰からの北斗七星から来た社名で、実は「妙見社」
であることが分かりました。

馬頭観音堂の七曜紋

源頼朝を支えたことで勢力を拡大した千葉氏は、「妙見菩薩」を深く信仰し、領地内に多く
の妙見社を建立しました。
「妙見」とは北極星や北斗七星を神格化したもので、千葉家の家紋とした月星紋や九曜・
七曜紋などはこの信仰に根差しています。
さて、前述の「中郷村誌」には下金山村にもう一つ「天神社」があると書かれています。
「天神社 下金山村字北ノ内 祭神不詳 由緒不詳 間口一尺奥行二尺 境内一六坪
氏子二七人 管轄廰まで八里十八町」
氏子の人数や管轄廰への距離が全く同じですから、「字」は違っていても、「七星神社」の
下方に見えた小祠は「天神社」の可能性があります。
ぼやけて見えた紋のようなものは、梅鉢紋(平隅切り梅鉢紋(?))だったのかもしれません。
(確認のためいつものように再訪問したいところですが、あの崖をまた登る勇気は出ません)
それにしても「七星神社」とは珍しい社名です。
ネットでいろいろ調べてみましたが、二社しか見つかりませんでした。
秋田県山本郡三種町の「七星神社」と、山形県西置賜郡白鷹町の「立岩・七星神社」です。
三種町の「七星神社」のご祭神は「天御中主神」ほか六柱、白鷹町の「七星(しちょう)神社」
のご祭神は「金山比古命」「金山姫命」「倉稲魂命」の三柱です。
いずれも由緒不詳ですが、三種町の方はご祭神から考えて「妙見社」系かもしれません。


明るい台地に鎮座する「龍金寺」と、崖の上に取り残された形の「七星神社」との関係は、
今後千葉氏の盛衰を追って行くうちに、いずれもっと明らかになってくると思われます。

※ 「龍金寺」 成田市下金山520