栄町の大鷲神社を訪ねます。
大鷲と書いて「おおとり」と読むことが多いよいうですが、この神社は「おおわし」と読みます。

創建年代は不詳ですが、日本武尊が東征の際に、ここに錦旗を立てて仮の御野立所と
した場所であると言われています。
本殿は凝宝珠金具の刻銘により天保二年(1831)の造営とされています。
伝承によれば、この神社の創建は天慶二年(939)で、文化・文政年代には鷲宮(鷲賀岡
神社)と称していましたが、明治26年頃から大鷲神社と称するようになったようです。
実に千年を超える長い歴史を有していることになります。

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県道から少し入ったところに大きな鳥居があり、左右に分かれる石段の下に二基の灯籠
が立っています。
右側の年代は分かりませんが、台座には「江戸神田明神下」や「馬喰町」「下谷」などの
文字が読めます。
左側は文政十二年(1829)のものですが、柱の部分に「大正十二年九月一日大震災
破損ニ付修繕ス」と刻まれています。
柱と火袋がこの時に新しくされたようです。


鳥居からまっすぐ登るのが「男坂」、右に上るのが最近整備された「女坂」です。
「男坂」は相当な急勾配で、お年寄りにはとても無理な感じです。

「女坂」を上ったところに立つ「子授けの大樹」。



ここにある「魂生神社」(こんせいじんじゃ)。
「五穀豊穣、縁結び、子授け安産、夫婦和合」の御利益があるとされる神社で、知る人ぞ知る
スポットであるようです。
千葉県ホームページ中の「まるごとeちば」には、この神社のご神体について「大鷲神社境内
には、魂生大明神といわれる子宝・安産などに御利益のある社があります。御身体の形が
ユニークで、日本一大きく何かと話題の神社です。」と何とも微妙な言い回しで書かれていま
す。(写真の掲載はちょっと憚られますので、ご興味のある方は直接お出かけください。)


「魂生神社」の隣にある「聖徳太子堂」。
嘉永元年(1848)のものです。

「聖徳太子堂」の横を下る細い道があり、その先に赤い鳥居が見えています。


「鷲の杜稲荷」です。
狭く、急な石段を登ったところにあります。


「鷲の杜稲荷」を過ぎて長い石段を下ると鳥居があり、振り返ると大分上の方に今来た稲荷
の赤い鳥居が木の間に見えています。
こちらから上る道は「草薙参道」と呼ばれています。


「魂生神社」まで戻って、「大鷲神社」の境内へ女坂の残りの石段を上ります。
「縁結び合体椎の木」と説明板のある大木が目に入ります。
このあたりは「魂生神社」のご利益にある、「子授け安産、縁結び、夫婦和合」などの大盤振る
舞いです。

ようやく「大鷲神社」の拝殿が見えてきました。

手水盤には「文政二己卯年十一月」と刻まれています。
文政二年は西暦1819年になります。


本殿の説明板には次のように書かれています。
「建立は本殿凝宝珠金具の刻銘により天保2年(1831)と考えられる。本屋、向拝の軸部、
縁廻り、柱間等の壁板には極めて装飾的な彫刻が施されている。特に本屋と向拝を繫ぐ
ぐ海老虹梁は竜の丸彫りになっており、千葉県内では当町の駒形神社と本例のみであると
いう。入母屋造本殿は町内では珍しい貴重な建物である。」
「千葉県神社名鍳」(昭和62年)には、ご祭神は天乃日鷲命(あめのひわしのみこと)、
大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなびこなのみこと)の三柱で、由緒沿革は、
「創建年代など詳らかでないが、豊臣、徳川時代に至るまで天下泰平・国土鎮護の神として
尊敬され、殊に春日局の崇敬が深かったという。」と記載されています。





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虹梁、木鼻、脇障子など、本殿の各部は見事な彫刻で飾られていて、脇障子には琴を弾く
女性や、囲碁のような盤面遊戯を楽しむ姿が彫られています。

境内の一角にある「力石(ちからいし)」。
「力石」は、江戸時代から明治時代にかけて、鍛錬と娯楽の一つとして力試しに用いられた
石で、通常は米俵より重い60キロ以上の重量があります。

香取神宮のさし石(力石)



「御嶽神社」(左)と「石上神社」(右)。
「御嶽神社」は江戸時代からここにあったと言われており、「石上神社」は旧魂生神社です。

両神社の間にある、「信開靈神」と刻まれた明治二十年(1887)建立の「霊神碑」。
木曽御嶽信仰に関わるもので、霊神とは過去の行者を神格化した存在です。

二つの神社の側に、欠けた灯籠や狛犬、石柱などが集められています。
享和三年(1803)、天保六年(1835)、嘉永四年(1851)などの年号が読めます。


本殿裏手にある「霊峰神社」。
説明板に「平成9年に神社名を命名」と書かれていますので、新しい神社のようです。

本殿の裏を回ると、小さな賽銭箱が木柵に括り付けられています。
「稲荷神社遙拝所」と書かれていて、崖下に先ほど訪ねた「鷲の杜稲荷」が見えています。
草薙参道から「鷲の杜稲荷」に登る道は、距離は短いものの相当な急坂ですので、お年寄り
や足腰に自信の無い人はここからお参りできるような配慮ですね。


屋根や蛙股には見慣れない神紋が見えます。
十六菊と何かの植物の葉が組み合わされています。
「抱き菊の葉に菊」か「青山菊」か、とも思いますが、ちょっと違うようです。


男坂の石段上に立つ社号標には「錦旗山大鷲神社」と刻まれています。
「全国神社名鍳」(昭和52年)にはこの神社について次のような記述があります。
「日本武尊が東夷征討の際、当山に錦旗を立て仮の御野立所としたことから錦旗山と称した。
明治初期村社に列した。」



「千葉縣印旛郡誌」(大正二年)には、「無格社鷲賀岡神社」として次のように記されています。
「安食村字谷前にあり天日鷲命を祭る由緒不詳社殿方五尺拝殿間口四間奥行二間社務所
間口四間奥行二間境内七百五十坪官有地第一種あり神官は大野橘麿にして氏子三百戸を有し
管轄廰まで十一里あり毎年十二月初酉の日を以て祭日とし賽客絡繹として地方極に見るの
雑踏を極む神社明細帳町誌」
「○利根川圖誌伝 安食村印旛江へ指出たる山の頂にあり別當正徳寺毎年正月十一月初酉
の日遠近の老若參詣群集す此處印旛江の下流にて長門の口と云ふ長門の渡ありこの地なり」
「○新撰佐倉風土記伝 鷲神社在安食村南岡阜山」
「○日本名勝地誌伝 鷲神社は同所安食印旛沼の下流に突起せる丘に在り元来東京下谷區
龍泉寺町に鎮する鷲神社と同体にして初め正■寺の保管せし所なりしが神佛混淆の令下る
に及び分離して純粋なる神社となれり毎年正月十一月初酉の日遠近の男女社頭に群賽して
福を祈ること猶猶東京の酉の市に異ならず雑還近村に比なしとぞ」
祭礼の日などに違いがあるものの、昔から近郷に知られた神社であったことが分かります。
なお、■の部分は印字が潰れていますが「願」となっています。
「栄町史 史料集(一)」に収録されている「天明六年下総國埴生郡安食村御差出明細帳」に
龍角寺末天台宗正徳寺が鷲ノ宮を支配している、とあるので、「正願寺」ではなく「勝福寺」が
正しいと思われます。
長い歴史を紡いできた「大鷲神社」に、初夏のような風が吹き渡っています。
山の上の境内は、今、萌えるような新緑に包まれています。

※ 「大鷲神社」 印旛郡栄町安食3620
ありがとうございます。
雰囲気が溜まらなく好きで、写真を拝見すると鷲の彫刻があるのですね。
創建が古いことにもびっくりしました!
私も「おおとり」だと思ってました(笑)
コメントをありがとうございます。
印西方面に行く途中で、ちらりと鳥居が見えていますが、
参拝したのは今回が初めてでした。
想像していたより立派な神社でした。
残念ながら社務所が閉まっていたので、そのうちもう一度
訪ねてみようと思っています。