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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

■訂正一覧

掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2016/5/26の「成田にもあった!~二つの「明治神宮」中にある古老の発言中に「アザミヶ里」とあるのは、「アザミガサク」の間違いでした。(2023/10/25成田市教育委員会より指摘をいただきました。) 【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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住人がいない町、赤坂1~3丁目
「赤坂」は成田ニュータウンの一角を占める町で、
1丁目から3丁目まであります。
この町には住民がいません。
人口はゼロなのです。

面積は27.3ヘクタールですから、市内の中心部にある町としては
とりたてて小さい町ではありません。
今回はこの赤坂を隅々まで歩いてみましょう。

赤坂ー1

出発点は近隣唯一の“デパート”、「ボンベルタ」です。
デパートと言うよりも、現在はショッピング・モールと言った方が良いかもしれません。
イオングループですが、現在は大きくイオンの看板が前面に出ています。


赤坂ー12

ボンベルタには2つの別棟がありますが、本館以上に集客に難があるようで、
いつも閑散としています。
本館からのコンコースは子供たちにとって絶好の自転車乗り場です。


赤坂ー2

駐車場から見る景色です。
中央に見えるのが成田郵便局(本局)、右側のストライプの建物は東京電力です。


赤坂ー3

通りに下りてきました。
成田郵便局は明治5年に開局し、仲町、田町と移転をした後、
昭和56年に現在地に移転してきました。
成田空港の第1、第2ターミナルに、それぞれ分室があります。
本局ですから窓口も広く、外国人、特に東南アジアの方が多く訪れています。


赤坂ー4

周りは手つかずの空き地です。
このあたりには古墳が点在しているので、開発がしにくいのでしょうか。


赤坂ー5

空き地の奥に進むと古墳が現れます。
公津原古墳群の中の「瓢塚古墳群・6号墳」です。
方墳で、直径は34メートル、高さ2メートルです。


赤坂ー6

向いにあるのは5号墳で、直径35メートル、高さ2メートルの方墳です。


赤坂ー9
赤坂ー8

この地区は主要な建物や施設を結ぶ遊歩道が張り巡らされています。
周辺の住宅地から道路を横断することなく、郵便局、ショッピングモール、図書館、
公民館、公園などに行くことができます。
道路をまたぐ橋の上から見える住宅地には、しゃれたお店が並んでいます。



赤坂ー11
赤坂ー10

遊歩道を進み、西口大通りに出ました。
市立図書館が見えます。
昭和59年の開館で、現在の所蔵図書は分館等を含めて55万冊、
平成25年度の総利用者数は約31万4千人、総貸出点数は約124万5千点です。
あいにく今日は休館日で、館内に人影は見えませんが、いつも大勢の方が利用しています。
私もこのブログを書くにあたっては、頻繁にお世話になっています。

図書館のある通りの向い側は1丁目、これまで歩いてきた所は2丁目です。


赤坂ー14

西口大通りは、JR成田駅西口からまっすぐ伸びた広い道路です。
並木の美しい通りの南側には銀行が並び、北側は図書館と公園です。


赤坂ー15

遊歩道から続く歩道橋を渡って「赤坂公園」に入ります。
6.8ヘクタールもある自然豊かな公園です。
子供の遊具もあり、市民の憩いの場になっています。


赤坂ー16
赤坂ー17

大きな池を迂回するように細く急な坂道が続きます。


赤坂ー18

突然視界が開けると、古墳が見えました。
ここは公津原古墳群の中の「船塚古墳群」になります。


赤坂ー19明るい芝生の広場
赤坂ー23この古墳は円墳です


赤坂ー21

公園を抜けて湯川方面に延びる広い通りに出ると、木造平屋の建物群が目に入ります。
「成田市保健福祉館」です。


赤坂ー22

急病診療所をはじめ、住民健診・乳幼児健診施設、在宅介護支援センター、
障害のある方たちの社会参加を計る授産施設、子育て支援施設等々
素晴らしい施設が整っています。
市外に住む住民にとって、この景色は地域格差を痛感させられます。


赤坂ー24

ボンベルタのある交差点まで戻ってきました。
消防署とNTTの建物が見えています。
NTTの鉄塔は市内の広い範囲から見えます。


赤坂ー25

交差点を挟んで消防署の向いには食品スーパーや大型書店、レストラン等の
商業施設になっています。
この商業施設や消防署のある一角が3丁目になります。

確かにこの町には人家がありません。
人が集まる施設が多くありますが、一戸建ての住宅やマンションは見当たりません。
人口ゼロという市役所の統計を見た時は疑問を感じましたが、
間違いなく住民はいないようです。


          大型のドラッグストア赤坂ー27
赤坂ー29フォルクスワーゲンとトヨタ

歩道橋を渡って消防署側に来ました。
こちら側にも大型のドラッグストアや自動車のディーラーが並び、生活感はありません。


赤坂ー30

突然サイレンが鳴り、消防署の前が騒がしくなりました。

                       救急車が出て行きます 
赤坂ー31
            消防車も出動です赤坂ー32
赤坂ー33  
赤坂ー34

人の住まない町から人の住む町へ、救急車と消防車が急ぎます。

赤坂消防署は成田市の南西部を管轄としています。
ニュータウンや美郷台、公津の杜等、人口の多い地区で、
管内の人口は市全体の50%にも上ります。


赤坂1丁目から2、3丁目と歩いてきました。

公共施設に大型商業施設、公園と古墳群・・・
ここは“住む”町ではなく、“集まる”町なのですね。


赤坂マップ3




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まち、町 | 08:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
吉岡の名刹「大慈恩寺」
今回は吉岡の名刹「大慈恩寺」を訪ねます。

大慈恩寺ー16

「大慈恩寺」は真言宗の寺院で、山号は雲富山。
ご本尊は「清涼寺式木造釈迦如来立像」で、明応四年(1495年)の銘があります。

天平宝字五年(761年)に唐よりの帰化僧、大律師・鑑真が開いたと伝えられています。
大伴家持が万葉集を編纂したのが天平宝字三年ですから、
実に長い歴史を重ねてきたお寺です。

当時は「慈恩寺」と称していましたが、鎌倉時代に荒れ果てたこの寺を
地元の豪族・大須賀氏が復興しました。

『南北朝時代の1341(暦応4)年、足利直義は慈恩寺を祈願所とし、
下総国の利生塔を置き、寺領とは別に料所を寄進した。1391(明徳2)年には
後小松天皇から「大」の字を賜り、以後、慈恩寺から大慈恩寺と称するように
なったとされる。』『1590(天正18)年に大須賀氏は滅んだが、翌年には
徳川家康から朱印地20石の土地を与えられ、以後、幕末まで朱印地として
継続した。』( 「成田の地名と歴史」 2011年成田市発行より)


大慈恩寺ー1

質素ですが、しっかりした山門です。


大慈恩寺ー2
大慈恩寺ー3

山門の手前左に「観世音菩薩」の石碑と小さな仏様の石碑が並んでいました。
小さな仏様は夏草に埋もれていますが、寛政七年(1795年)と記されています。


石碑の横に地蔵堂が建っています。大慈恩寺ー5

大慈恩寺ー4 丸顔の愛嬌あるお地蔵さまです。


大慈恩寺ー8

勅使門です。
天皇の使者のみがこの山門をくぐることができます。
雲富山と書かれた掲額が見えます。


大慈恩寺ー6
大慈恩寺ー7

勅使門の下には小さな池があり、中の島には弁財天が祀られていました。
石橋を渡るとき、驚いた大きなカエルが茂みから飛び込み、泥の中に潜るのがみえました。


大慈恩寺ー10

山門から境内に入り、閉まった勅使門の内側に立つと、
本堂へまっすぐに石段と石畳の道が延びています。


大慈恩寺ー11
大慈恩寺ー12

道の左側には利生塔跡があるのですが、残念ながら夏草に覆われて見えません。
利生塔は足利尊氏・直義の兄弟が、元弘以降の戦死者の冥福を祈って暦応四年(1341年)
に建立したものですが、明治35年の暴風雨で倒壊してしまいました。


大慈恩寺ー14
  綺麗な蓮の花が咲いています。  大慈恩寺ー29


大慈恩寺ー17

本堂の前には空海(弘法大師)の像が建っています。


大慈恩寺ー18
大慈恩寺ー19

板碑が並んでいます。
近隣からも集められた板碑の中で最も古いものは、元徳二年(1330年)のもので、
暦応、貞和の年号がかろうじて読むことができました。


大慈恩寺ー26
大慈恩寺ー21

本堂の裏手の崖から清水が湧き出しています。
池には見事な鯉が悠然と泳いでいます。

池の対岸に石仏がたくさん並んでいるのが見えます。

大慈恩寺ー22秩父札所の名前が記されています
 四国札所の名前が記されてます 大慈恩寺ー25


大慈恩寺ー27

一隅に古い墓石が並ぶ墓地があります。
正徳、宝永、天明、弘化、寛政、享保などの年号が読めました。


大慈恩寺-23
大慈恩寺-24

不思議な洞窟を見つけました。
5メートルほど先を左に折れて彫られているようです。
何やら祭壇のようなものが見えるのですが、足元には水が溜っていて入れません。


大慈恩寺ー30
大慈恩寺ー31

境内の右奥にある鐘楼です。
鐘は青銅製で、延慶三年(1310年)の銘が入っています。

『銘文の2行目には「開山往持比丘真源書」とあり、大慈恩寺は鑑真によって
開かれたという寺伝を有するものの、実際は律宗僧の真源を開山として
鎌倉時代に創建された寺院であったことを明らかにしている。』(「成田の地名と歴史)

ここでは鑑真により開かれたというロマンは否定されましたが、
この寺院が歴史に彩られた名刹であることには変わりありません。
歴史上の事実は事実として、伝説としてのロマンは残しておきたいものです。
千数百年も前のことなのですから、どんなに資料を精査しても、
本当のことは分かりませんよね。


大慈恩寺ー32
大慈恩寺ー33
大慈恩寺ー28

寺の周りは鬱蒼とした森です。
幹線道路からは外れた山中にあるこの寺を訪ねる人はほとんどいません。
歴史を抱えて静かに佇む「大慈恩寺」には、
探ればまだまだ歴史の不思議が隠れているような気がします。


               ※ 大慈恩寺  成田市吉岡183-1
                  京成成田駅より千葉交通バス 吉岡・佐原線 
                  吉岡大慈恩寺前下車 徒歩5分




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本大須賀村の寺社 | 16:47:23 | トラックバック(0) | コメント(2)
成田山東参道を歩く
東参道は寺台から成田山の東門に至る道です。

参道はこの景色から始まります。

東参道-29

寺台の吾妻橋の袂に、夏草に覆われてわずかに顔を出している石碑がありました。
今までいくら探しても見つからなかった「寺台河岸」の碑です。
説明板がなければ見つけることは難しい場所です。

東参道-30 寺台河岸の説明板
 吾妻橋から根木名川下流を望む   三里塚街道ー75

「寺台河岸」とは、「黒川河岸」「山小河(やまこが)河岸」「山六河岸」の総称で、
「黒川河岸」は吾妻橋の上流側、橋の下流側に「山小河河岸」、さらに下流の関戸橋際に
「山六河岸」がありました。
川幅は現在よりも広く、水深もあった昔は、利根川からの水運の起点であったようです。
石碑は「黒川河岸」のみにあり、往時を偲ばせるものは何もありません。


東参道ー24

吾妻橋から東参道に入ると右に入る細道があります。
ちょっと登ると民家の軒先が迫り、このまま進んで良いものか迷うほどの道です。
途中にちょっと舗装された部分がありますが、大部分は「けもの道」のような様子です。


東参道ー25

片側は崖の急斜面をしばらく登ると視界が開けます。
ここが寺台城址です。
15世紀ごろには千葉氏の支城がこの地にあったと言われています。
室町時代の城主は土屋の大宮神社の項で登場した馬場伊勢守勝政。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めの際に、この城主だった
海保甲斐守三吉は北条方について敗れ、この城も落城しました。


東参道ー26

「寺台城主海保甲斐守遺跡」と刻まれた石碑と傾いた祠のみが、
訪ねる人も無い林の中に建っています。
石碑は昭和31年に建てられたもので、そこには要旨次のように書かれています。

「後に徳川に帰参した海保三吉は、打ち捨てられたように公津ヶ原にあった不動明王を
成田に移し、本堂の建立に尽力するなど、領民の信望も厚かったが、粗暴な振る舞いも
多かったため、元和三年(1617年)に寺台橋畔にて徳川の刺客によって殺害された。」


東参道ー27

傾いた祠の中にはいくつかのお地蔵さまが置かれていますが、どこにも説明はありません。
失礼ながらお地蔵さまの背中を覗かせていただきましたが、読める文字は書かれていません。


足元に気をつけながら坂を下り、東参道に戻ります。

東参道ー21

参道の右側に「保目(ほうめ)神社」があります。
7月末に行われる祭例では、御輿を担いで根木名川を渡る「お浜下り」が行われます。


東参道ー23東参道-22

本殿には鞘堂がかけられていますが、見事な彫刻で飾られています。


東参道ー20

説明板にある成田市指定文化財の「懸仏」です。
直径17.5センチの青銅製で、中央に千手観音像があります。

下部が欠け、ひびも入っていますが、これは「喧嘩御輿」と呼ばれた「お浜下り」の際に
何度も御輿を放り投げたために壊れたものです。(今は危険なので投げないそうです)


東参道ー9

以前に紹介した裏参道と同じく、ありふれた生活道路が続きます。


東参道ー16

保目神社からしばらく進むと、「永興寺(ようこうじ)」が見えてきます。
永興寺は曹洞宗のお寺で、ご本尊は「延命地蔵尊」です。

「室町時代の1398(応永5)年に、寺台城主の馬場伊勢守勝政の室である藤松女こと
藤原松女の開祖で、1426年に勝政が七堂伽藍を整備し、丹波国(京都府)の永沢寺3世の
陳庭顕淋を招き開山したという。」(「成田の地名と歴史」成田市発行)
なお、永興寺が所蔵する「木造聖観音菩薩坐像」は鎌倉時代の作とされていますが、
背面に「成田郷安養寺本尊」と記されていることから、成田の地名を確認できる
金石文(金属や石などに記された文字資料)としては最古のものと言われています。


東参道ー15

山門横には「不許葷酒入山門」と彫られた石柱が建っています。
これは“臭いの強い野菜を食べたり酒を飲んだ者は入山してはならない”という意味です。


東参道ー17

境内は保育園になっていて、かわいい遊具がたくさん並んでいます。
安全でとても素晴らしい環境ですね。


東参道ー14

山門の手前左側に「大日如来」の掲額があるお堂が建っています。
享保十五年(1730年)の銘がある石仏で、寺台村の護神として信仰を集めていたものです。
昭和55年にこのお堂を再建して祀った、と書かれた木札が掛っていました。


東参道ー11

大日如来のお堂の隣り、参道から見ると正面に「延命地蔵菩薩」のお堂があります。
お堂のそばにはたくさんの石碑が並び、宝暦、文化、弘化などの年号が読めます。


東参道ー10

東参道の標識は、私の知る限りこれだけだと思います。

※ 後日、田町を取材していて、公民館の横にもう一つあるのを見つけました。


東参道ー18

火の見櫓です。
何か懐かしい風景です。


東参道ー2

ちらりと広いグランドが見えました。
成田高校のグランドです。
ここで室伏広治や増田明美が育ったのですね。


東参道ー1

成田高校の正門が右手に見えてきます。
成田山新勝寺が運営する私立高校で、中学校、小学校も併設されています。


高校の手前の急坂を少し登ると狭く急な階段が上へ延びています。

東参道ー4  草に覆われ、顔に蜘蛛の巣がかかります。
             相当きつい階段です。  東参道ー5
東参道ー7

登り切った平地に、小野派一刀流で有名な「小野次郎右衛門」父子のお墓が
ポツンと建っています。

小野次郎右衛門忠明は房州御子神村(現南房州市)の出で、小野次郎右衛門となる前は
神子上典膳と名乗っていました。
小野派一刀流のホームページには、
「伊藤一刀斎景久を一刀流元祖とし、流祖小野次郎右衛門忠明が一刀斎直伝の一刀流の
正統を継ぐ。他の分派・支流と区別するためこの正統に小野派を冠す。忠明は将軍家徳川
秀忠の指南役となる。小野次郎右衛門忠常は忠明の三男。初め忠勝と称す。父に学びその
統を継ぎ次郎右衛門を襲名す。忠常は徳川家並びに多数の門人を指南した。」とあります。
忠明は柳生新陰流の柳生宗矩とともに徳川家指南役となった剣豪です。
ちなみに、北辰一刀流はこの小野派一刀流の分派になります。


東参道ー8

忠明の墓石には「妙法蓮華経 清岸院妙○霊」と刻まれ、
寛永五年(1628年)の日付が読めます。
また、忠常の墓石には「妙法蓮華経 清海院日岸居士」と刻まれ、
寛文五年(1665年)の日付があります。
     (※ ご指摘をいただいて修正を加えました → 最下部取材後記をご覧下さい)
墓石の後ろから撮ってみました。
これが父子が見ている景色です。
優しい木漏れ日に包まれて、二人は静かに眠っています。
忠明は元和三年(1617年)に寺台の地頭となっていることから、
この地に埋葬されているのでしょう。


東参道ー32
東参道-34

東門が近づいてきました。
参道の右上方に「子安観世音菩薩」の木札が掛ったお堂が見えます。
左側には「水子地蔵」があり、毛糸の帽子に涎掛け、かざぐるまを持った
お地蔵さまが並んでいます。
二つのお堂の間にはいくつかの石仏があり、文化、元禄、享保などの年号が刻まれています。


東参道-33

このちょっと変わった観音様には明和四年(1767年)と刻まれています。


東参道-36

東門の手前を右に登ると「成田山仏教図書館」があります。
明治35年の開館で、貴重な資料を大量に所蔵しています。
名前に似つかぬモダンな建物です。


東参道ー35

図書館脇の階段から仰ぎ見る三重塔と一切経堂です。


門前4町ー5

東門に着きました。

東参道は裏参道と同様に、脇道に興味をそそられる歴史がたくさん隠れています。




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参 道 | 07:00:00 | トラックバック(0) | コメント(6)
七月の風
7月の風ー11

7月の朝は朝顔から始まります。


7月の風ー12
     埴生神社 朝顔ほおずき市 7月の風ー13

7月の風ー14

ほおずきも色づいています。


7月の風ー15

早朝の成田山の境内を流れる風も、間違いなく夏の風です。

それは、そよとも吹かぬ凪のようで、
それでもかすかに動く風。
風がじわりとまとわりつく7月の朝。


7月の風ー3
                                           東参道保目神社付近
7月の風ー27月の風ー1

ムクドリも涼を求めて寺台の林と根木名川を往復しています。


7月の風ー5
                                            寺台城址への山道で
羽黒トンボが蝶のような羽ばたきで飛んでいます。


7月の風ー7
                                                寺台河岸付近

蝶も忙しく蜜を求めて飛び回ります。


7月の風ー10
7月の風-9
7月の風-8
                                                成田公民館
ツバメは巣離れの時を迎えています。
親鳥は巣の周りを飛び回るだけで、子ツバメには近づきません。
軽快な身のこなしで飛ぶ親ツバメの、羽根が切る風の音が聞こえそうな気がします。

焦る子ツバメはだんだん身を乗り出し巣から落ちそうです。
明日にはこの巣から子ツバメの姿は消えていることでしょう。


7月の風ー16

ゴーヤも実を付け始めました。
生い茂る葉の作る日陰には、涼しい風が流れます。


7月の風ー17

強い日差しが射すまでのはかない命ですが、
7月の風が吹く場所には朝顔が似合います。




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 風  | 06:46:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
東勝寺と佐倉宗吾(宗吾霊堂)
宗吾霊堂ー25

「東勝寺」は真言宗豊山派の寺院で、正式名称は鳴鐘山東勝寺、
ご本尊は「大日如来」です。
この東勝寺は「宗吾霊堂」と呼ばれることが多いようです。
平安時代に坂上田村麻呂が東国を平定した際、戦死者の供養のためのお堂を建てたのが
始まりと言われ、“東国に勝利した”という意味で「東勝寺」となりました。

『中興第1世澄祐が1662(寛文2)年から境内の整備を行い、1668年までに
本堂などの諸堂伽藍を建立した。1767(明治14)年に大和国の長谷寺と京都の
智積院から、常法談所の寺格を与えられている。談所(檀林)とは法談を催すことが
できる有力寺院のことである。』(「成田の地名と歴史」2011年成田市発行)

大正10年に「宗吾供養堂」を再建することになった時、この地に東勝寺も移転してきました。


宗吾霊堂ー15

「宗吾霊堂」は義民・佐倉宗吾(木内惣五郎)を祀るお堂で、
宗吾の霊像をご本尊としています。
明治8年に再建されたお堂が焼失した後、現在のお堂は大正2年に再建されました。



http://www1.ocn.ne.jp/~einosuke/sub109.htm (中田英之助氏HPより)
原典:写真誌「NARITA」 1993年成田市発行

佐倉惣五郎
                     ウィキペディア 佐倉惣五郎の項より転載

佐倉宗吾は慶長十年(1605年)生まれと伝えられています。
公津村の名主であった木内惣五郎は、厳しい年貢に苦しむ農民を救うべく
佐倉藩主に直訴しましたが聞き入れられず、止むなく時の四代将軍家綱が
上野寛永寺に参詣した折に直訴しました。
その訴えは聞き入れられましたが、直訴という大罪を犯した惣五郎は死罪となり、
承応二年(1653年)公津ヶ原の刑場で子供とともに処刑されました。
ただ、事の経緯についてはあまり資料が残っていないため、詳しいことは分かりません。
宝暦二年(1752年)の百回忌に藩主・堀田正亮より「宗吾道閑居士」の法号を与えられ、
以後「佐倉宗吾」と呼ばれるようになりました。
江戸時代中期になってこの話が芝居になって上演されると、「義民・佐倉宗吾」の名は
一気に有名になりました。


宗吾霊堂ー3

手水舎の屋根には桜に宗の字が描かれた小さな飾りが付いていました。


宗吾霊堂ー4

仁王門の手前、右側に立派な宗吾親子のお墓があります。
宗吾とともに処刑された4人の子供が合葬されています。
時代とは言え、子供まで処刑されるとは何んとも痛ましいことです。


宗吾霊堂ー5
宗吾霊堂ー7宗吾霊堂ー6


立派な仁王門です。
昭和53年に再建されたものです。
説明板には仁王門ではなく、「大山門」と書かれていました。


宗吾霊堂ー2

仁王門の左手に「慈眼閣」があり、その先に東勝寺の大本堂があります。
(画面右にちょっと屋根が見えています)


宗吾霊堂ー9
宗吾霊堂ー8

仁王門の先、右奥に池を挟んで鐘楼があります。
細い道を辿ると直ぐ下まで行くことができます。
鐘楼は昭和27年に建立されたものですが、鐘には応長元年(1311年)の銘があり、
「全国百鐘」の一つに数えられています。


宗吾霊堂ー11
宗吾霊堂ー13

境内の右奥には明治44年に建立された「薬師瑠璃光如来」を祀る「薬師堂」があり、
その隣には「歓喜天」を祀る「聖天堂」があります。


宗吾霊堂ー14

宗吾霊堂ー24宗吾霊堂ー23

仁王門の正面に建つ霊堂の左右には「天下泰平萬民豊楽」
「慈眼視衆生福聚海無量」と書かれています。

宗吾霊堂ー29宗吾霊堂ー28

狛犬も“阿・吽”としっかり睨みを効かせています。


宗吾霊堂ー17
宗吾霊堂ー16

霊堂の左手にある「霊宝殿」の前に2つの板石塔婆があります。
左の板石は明徳二年(1391年)、右の板石には康永元年(1342年)のものです。
阿弥陀の種子(キリーク)と、願文、願主が記されています。
酒々井の山中にあったものを移設したもので、市の指定文化財になっています。

霊宝殿の奥には佐倉宗吾の生涯について説明・展示している記念館もあります。


宗吾霊堂ー20

「宗吾顕彰碑」です。
福沢諭吉の発意により建てられたものです。
諭吉は「学問のススメ」の中で、佐倉宗吾の生き様を絶賛しています。


宗吾霊堂ー21

霊堂の右、一番奥に「奥之院」があります。
平成14年の建立で、十一面観世音菩薩がご本尊です。


宗吾霊堂ー30

門前にあるお蕎麦屋さん、その名も「甚兵衛そば」。
宗吾が直訴のためこっそり村を離れる時に、
印旛沼を渡る舟を出した甚兵衛に因んだ名前です。
この甚兵衛はその後周りに累が及ぶことを避けるため、
自ら印旛沼に入水したと伝えられています。
(「佐倉宗吾」については、いずれ「人とその歴史」の項で採り上げて見ようと思います。)


宗吾霊堂ー31

仁王門の脇では学校帰りの小学生達がゲームに夢中です。
昔はお寺の境内での遊びと言えば「鬼ごっこ」「かくれんぼ」が主流でしたが、
これも時代の移り変わり、側に立つ仁王様はこんな子供たちをどう思っているのでしょう。


宗吾霊堂ー10

六時の鐘が撞き終わるころ、境内には誰もいなくなりました。


             ※ 東勝寺・宗吾霊堂  成田市宗吾1-558
                京成宗吾参道駅 徒歩約10分



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公津村の寺社 | 06:55:07 | トラックバック(1) | コメント(0)
知られざる川、取香川(源流発見!?)
取香川をご存知ですか?
全長4860メートルの短い川です。

取香川ー23

国道295号線が51号線を挟んで408号線と名前が変わる「教育会館前」交差点を
右に入ると「関戸橋」があります。
以前から気になっていたのですが、この橋の下を流れる根木名川のとなりに
もう一本の川があります。


取香川ー27
取香川ー26

橋脚の手前で合流しているのですが、川の名前は根木名川としかありません。
上流を見ると、明らかに流れてくる方向が違い、この二本の流れは別の川です。


取香川ー25

土手の上に遊歩道が続いています。
ちょっと上流に向かって歩いてみることにしました。


取香川ー24

橋の袂から遊歩道に入ると道路と橋梁の修復記念碑がありました。
工事は明治24年に竣工とあります。
二つの川の合流点は昔から水害の出やすいところだったのでしょう。


取香川ー29

しばらく歩くと51号線の先で遊歩道は途切れます。


取香川ー30

橋桁をくぐってみましたが、一面の葦でこのまま進むのには勇気が要ります。
川面も見えないほと生い茂った葦の上空を、着陸態勢に入った旅客機が飛んで行きます。
ここで探検は一旦断念しました。

家に戻って地図を開くと、どうやらこの川は「取香(とっこう)川」と言うようです。
それで思い出しました。
295号線沿いのANAクラウンホテルの前を流れている小さな川のことです。


取香川ー13
取香川ー15取香川ー19

この場所は度々通っている所です。
ホテルの脇を九十九折りに登る道は東峰方向に抜ける道で、けっこうな急カーブです。
私は密かにこの急坂を“成田のランバート”と呼んでいます。
(成田の次に大好きな街、サンフランシスコにある花壇に囲まれた急坂です。スケールも
景色も比較になりませんが、近くに行くと回り道してもここを登り降りしています。)

魚がいないかと堀之内橋から川面を覗いてみました。

取香川ー20
取香川ー22取香川ー21

いました!
大きな鯉が数匹、悠然と泳いでいます。
川幅の狭い、水量の少ない、しかも葦に覆われた川に、
こんな大きな魚がいるとは驚きです。


取香川ー14
取香川ー18

遊歩道は上流に向かって続いています。
もう少し先に進んでみましょう。
でも、この先は空港になってしまうと思うのですが・・・。
とすると、この川の源流はどうなっているのでしょう?



取香の交差点まで295号線を進み、(こんな所に源流があるはずはないと思いつつ)
取香橋を渡って空港の敷地近くまで坂を下りてみました。

取香ー36
取香ー37

水門のようなものが見え、マロウドホテルが見えます。
京成電車が走っています。
この辺の地形は良く分かりませんが、電車の走ってきた左側が「さくらの山」のようです。


取香川ー1

名も無い小さな橋から空港方向を見ると、
何やら排水溝の出口のようなものが見えました。


取香川ー2

この先は空港です。
水の流れは地下に潜ってしまいます。
とすると、ここが源流?
でも源流のイメージではありません。


取香川ー8

相当の水量が流れ出しています。
空港内の排水施設から流れ出ているのでしょう。
もう先には進めませんので、ここを源流と勝手に認定(?)しました。

後で地図を良く調べましたが、やはりこの場所から取香川が始まっていました。
空港ができる前の地図を見ることができれば、昔の源流がどういう状態であったか、
分かると思うのですが、何んとか調べてみたいものです。


取香川ー3

堀之内橋の辺りよりもさらに川幅は狭く、小川のような景色です。


取香ー38

この先川は緩やかに蛇行しながら、聖マリア記念病院の下を流れて、
堀之内橋方向へと流れて行きます。


取香川ー17
取香川ー28

もう一度関戸橋の合流点に戻ってみました。
遠くに平和大塔が霞んで見えます。
上流は空港施設に埋もれ、中流にはほとんど人家は無く、根木名川との合流点近くで
田んぼを潤している取香川は、人の目に触れることが少ない川です。

しかし、東関東高速道路の建設時に、この川縁から縄文時代の土器や動物の骨や、
平安時代の須恵器等が発見されているそうなので(「成田の地名と歴史」 2011年
成田市発行)、古代から人の営みはあったようです。
 
5キロ弱の全流域が成田市内という取香川。
この先で取香川は根木名川に合流し、その名前が消えて行きます。

                   



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 川  | 07:12:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
元禄の本堂―光明堂とその周辺
光明堂ー1

「光明堂」は元禄十四年(1701年)に当時の本堂として建立されたもので、
別名「元禄の本堂」と呼ばれ、大本堂の裏手の小高い場所に額堂や開山堂、
清瀧権現堂などとともに建っています。

成田山の本堂の歴史は建立と移転の歴史です。
成田山新勝寺は、朱雀天皇から平将門の乱を平定せよとの勅命を受けた寛朝大僧正が、
護摩祈祷の法でこれを平定した天慶三年(940年)の開山ですが、
その後長く忘れられたお寺でした。
幾度かの変遷を経て現在の地に遷座した後に、建立された本堂としては、
現存する最古のものが明暦元年(1655年)に建立された現在の「薬師堂」です。
その後江戸深川での出開帳を成功させて成田山を有名にした、名僧照範上人によって
建て替えられた本堂が、この光明堂です。
約一世紀半の間にさらに参詣客が増え、手狭になったこの本堂は、
安政五年(1858年)に建て替えることとなり、現在の場所に移転となりました。
新しく建立された本堂は、昭和42年に現在の大本堂が建立されるまでの110年間、
本堂としての務めを果たし、移転して「釈迦堂」となりました。
「釈迦堂」が「安政の本堂」、「光明堂」が「元禄の本堂」、「薬師堂」が「明暦の本堂」と
呼ばれるのは、こうした歴史があるからです。


光明堂ー3
光明堂ー4
                            光明堂ー12

本堂の中央に大日如来、左に不動明王、右に愛染明王が並んでいます。
愛染明王には縁結びのご利益があると言われていて、
成田山の中ではここは若い男女の御参りが目立ちます。


光明堂ー21

絵馬には愛染明王像が描かれ、思いを込めた札がびっしりと掛けられています。


光明堂ー22
光明堂ー6
                             光明堂ー23
光明堂ー26

色あせてはいますが、往時は華麗な装飾に人々は目を奪われたことでしょう。                       


光明堂ー11
光明堂ー27
光明堂ー25

お不動様を象徴する剣の扁額が目立ちます。
かろうじて読めるものには、享和二年(1802年)、嘉永元年(1848年)、
嘉永三年(1850年)などの年号があります。


光明堂ー24

右の壁面にはひときわ大きな奉納額がはめ込まれています。
「佛説聖不動経」とあり、安政三年(1856年)と書かれています。


光明堂ー16
光明堂ー17
                             光明堂ー18

光明堂の向って右側には「清瀧権現堂」(せいりゅうごんげん)があります。
享保十七年(1732年)に建立され、清瀧権現と地主妙見が祀られています。

右側の白い建物は祇園祭で活躍した御神輿が納められている御神輿蔵です。


光明堂ー31

裏手に回ってみると、拝殿・本殿ともに華麗な装飾です。
天明八年(1788年)、安政五年(1858年)に大幅な補修が行われました。


光明堂ー19

風雪に削られた狛犬はなかなかリアルです。


光明堂ー15

光明堂の手前左側には金毘羅大権現を中心として、
左右に今宮神社、白山神社の「三社」があります。


光明堂ー14

三社の隣には制多迦(せいたか)童子と矜羯羅(こんから)童子の像が立っています。
制多迦童子は強さを、矜羯羅童子は優しさを表しています。
真ん中の剣が不動明王を表していますが、二人の童子は不動明王の持つ二つの面、
“強さと優しさ”を表現しています。


光明堂ー10

「奥之院」は光明堂の裏にあります。
年に数日の開扉を除いて、常に暗い洞窟の中に大日如来がおられます。


光明堂ー13
光明堂ー8光明堂ー2

縁結びで有名になるのは、本意なのか、不本意なのか。
成田山の一角に建つ光明堂は貫禄充分な佇まいです。
さすが約一世紀半にわたって本堂として使われてきたお堂です。




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成田山 | 07:35:38 | トラックバック(0) | コメント(2)
成田山祇園祭(後宮―2)
祇園ー83

祭りもそろそろ終わりです。
屋根の上の若衆の表情にも安堵の色が浮かんでいます。


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3日目の後宮は薄日が差す祭りにとっては絶好の天候に恵まれました。
山車の上に立つ人形を見ることができて、本当に良かったと思います。


祇園ー86

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祭りの初めに集合した大本堂前に再集合して総おどりを行った後、
それぞれの町内へと山車や屋台は帰って行きます。


祇園ー88
祇園ー95祇園ー89

皆さん、3日間お疲れ様です。


祇園ー92

祇園ー93
                             祇園ー94

総門前に戻った山車の人形も、心なしかホッとしているように見えます。


祇園ー98

境内に戻って大本堂から見下ろすと、香閣の位置が何か違うことに気付きました。
いつもは仁王門の階段を上った正面、境内の真ん中近くにあるのに、
三重塔の横まで移動されています。
大きな山車や屋台が集合するために、一時的に動かしたのですね。


祇園ー97

境内もほとんど人影が見えなくなってきました。
何んとなく祭りの後の寂しさが感じられます。


祇園ー99

3日間賑やかに各町内を練り歩いた御神輿は
静かに清瀧権現社の前で休んでいます。


祇園ー103

今晩は午後9時まで奥之院の扉は開いています。
訪れる人もほとんどいなくなりましたが、
二人のお坊さんはもう少しここに座っていなければなりません。


祇園ー100

賑やかな祇園祭は終わりましたが、静かな奥之院の祇園会はあと3日続きます。




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祭り・イベント | 08:00:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
成田山祇園祭(後宮―1)
成田山祇園祭も最終日、後宮となりました。

祇園ー55
祇園ー58

2日間、雨模様の天気が続きましたが、今日はようやく晴れました。
元気よく各町内から山車や屋台が出発します。


祇園ー61
祇園ー62

今日は山車の人形も顔を見せています。
2日間、雨に濡れないようにしまわれていて、窮屈な思いをしていたことでしょう。


祇園ー63

怪しい雲が出てきましたが、天気予報を信じて人形はしまわずに進みます。


祇園ー56

ふだんはあまり気にしていなかった参道のお店の看板は、
このところ歌舞伎をモチーフにしたものが増えてきました。
山車の人形を見上げていて、あらためて気が付きました。


祇園ー83
祇園ー82

表参道には電柱がありません。
以前は山車の若衆の役割は、屋上での踊りで曳き手を鼓舞するだけでなく、
道をまたぐ電線から人形を守ることでした。
電柱と電線が見えなくなって、普段の景観も一変し、
山車の引き回しもずいぶんと楽になったことでしょう。


祇園ー65

でも、脇道に入ったとたん、電線を注意しなければなりません。


さあ、いよいよ引き回しのメインイベント、仲町の坂の駆け上がりです。

祇園ー71 
祇園ー69祇園ー70
祇園ー68  

大勢が全力で綱を引き走ります。
登りきったところで方向転換が必要なため、
左右の2本の綱は一見逆方向に引かれているように見えます。


祇園ー73

ようやく山車が坂を登り切りました。


祇園ー74

続々と山車や屋台が登ってきます。


祇園ー75

嵯峨天皇の人形も前かがみになって後押ししているように見えます。


祇園ー76

登り切っても安心はできません。
約90度曲がって西参道から土屋方向に向い、大本堂前に入らなければなりません。


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曲がり角のお蕎麦屋さんの二階は特等席です。


祇園ー80

お囃子も屋根の上の若衆も、最後の盛り上がりを見せてくれます。


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御神輿も続きます。

だんだん祭りの終りが近づいてきました。



                      ※ 明日は祭りの終わりをお伝えします。


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祭り・イベント | 08:26:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
成田山祇園祭(本祭り)
祇園ー50

多くの見物客の見守る中、2日目の本祭りが始まりました。
表参道では見物客が各町内の山車や屋台を追いかけて右往左往しています。


祇園ー47
山車を小さな女の子達が先導します。     祇園ー48
手古舞(てこまい)と呼ばれ、錫杖で地面を叩きながら歩きます。


祇園ー51
祇園ー52

昨日からの雨空がまだ続き、時々小雨がぱらつくあいにくの天気ですが、
威勢の良い掛け声とお囃子で山車が参道を進みます。
屋根の上の若衆は、提灯に代えて赤い番傘を差しました。
これはこれでなかなか決まっています。


祇園ー49

以前紹介した、参道名物「甘太郎焼」です。
10×8列の焼器が通りに向って2つ、奥に2つあり、
一人で右に左にと踊るように焼いて行きます。
手前に行列ができていて、この行列が途絶えることがありません。
いつもは窓の外から覗きこむ人がいっぱいいて、シャッターを切るのは気が引けるのですが、
山車が通り過ぎた一瞬の奇跡的瞬間でした。


祇園ー57
祇園ー60

次々と山車や屋台が通過して行きます。
参道はもう身動きが取れないほどの見物客です。
浴衣にたっつけ袴、パナマ帽姿は町内の「だんな衆」と呼ばれる役員です。


祇園ー54

時々雲が切れて晴れ間がのぞきます。
でも、山車の人形はいつ降りだすか分からない雨のため、今日も顔を出せません。


祇園ー59

見物客に気をつけながら角を曲がり、進んで行くのは大変な作業です。
お酒が効いてきたのか、それとも朝からの重労働のせいなのか?、
力いっぱい綱を引いても、足元がふらつき始めて(?)います。


祇園ー66
祇園ー67

いつまでも雲行きが怪しく、シートは外したものの、どうやら今日も一日山車の人形を
立てることはできそうもありません。
お囃子もイマイチ盛り上がりません。


祇園ー79

御神輿の担ぎ手の背中にも疲労感が漂っています。
「エイサッ、エイサッ」の掛け声も枯れてきました。


祇園ー80

引き手や屋上の踊り手が疲れ気味なのに、屋台の中のお囃子連は
どうやらこの時間になって調子が出てきた様子です。
お囃子は仲之町、本町、交道会(成田山)の3台が江戸囃子、田町、土屋、花崎町、囲護台、
幸町、上町、東町の7台が佐原囃子です。
二種類のお囃子があるのは全国的にもめずらしいと言われています。


祇園ー102

鐘楼が6時の鐘を鳴らす頃、奥之院にはまだポツポツと御参りする人がいます。
出口から覗いてみると、皆小さなロウソクを大日如来様に献灯し、
拝んだ後にそのロウソクを持ち帰ってきます。
ご利益を家まで運べるというわけですね。


祇園ー85
祇園ー91

夕闇のなか、山車や屋台が引き上げても、子供たちにとってはこちらの“夜店屋台”が主役です。
今はどの夜店屋台も携帯発電機で電灯を点けていますが、
私の小さい頃は、夜店・屋台はカーバイトでの薄暗い明かりでした。
カーバイトの匂いがする屋台を、夜更けまで大っぴらに遊べるお祭りが大好きでした。
今も昔も子供たちにとってお祭りとは、夜店・屋台の間を駆け回る“夜遊び”なのですね。


祇園ー53

夜も更けて人通りも少なくなってきました。
「暫」と得意の見得を切って通りを睨んでいる市川海老蔵さんもお疲れ様です。


                 ※ 明日は3日目の後宮の様子です。



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