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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2016/5/26の「成田にもあった!~二つの「明治神宮」中にある古老の発言中に「アザミヶ里」とあるのは、「アザミガサク」の間違いでした。(2023/10/25成田市教育委員会より指摘をいただきました。) 【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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牛頭天王を祀る「根山神社」と、渡し守甚兵衛の「水神の森」
今回は北須賀の「根山神社」と「水神の森」を訪ねます。

根山神社ー1

「成田市史 中世・近世編」の「市域の主な神社」には、古社名を「牛頭天王宮」、ご祭神は
「須佐之男命」、馬場美濃守の創建、と書かれています。


根山神社ー4

「成田市史 近代編史料集一」に収録の大正四年(1915)の「公津村誌」には、

「本村北須賀字宿ニアリ、須佐之男命ヲ祭ル。古ハ牛頭天王ト称シ馬場美濃守ノ守神ナリ
ト云フ。七月廿五日神輿ノ御渡アリ。」
「因ニ曰ク馬場美濃守ハ此ノ地城山ト云フ築城セラル。宿ハ此ノ城下ナリ、其臣兵衛四郎
現今門川住居鈴木四郎兵衛宅ニハ徒歩蓑ノ古物アリト云フ。」


と記されています。

「牛頭天王(ゴズテンノウ)」については諸説ありますが、一般に「須佐之男命」や「薬師如来」
の垂迹(すいじゃく=仮の姿)であるとされています。


吾妻神社ー4
今年初めに訪ねた吾妻にある「八坂神社」の案内板には、「素戔嗚尊(牛頭天王)」と書かれていました。


根山神社ー2

「千葉県神社名鑑」(千葉県神社庁)では、この神社のご祭神を「速須佐之男命(ハヤスサノオ
ノミコト)」の他に、「水波之女命(ミズハノメノミコト)」、「市寸嶋比賣命(イチキシマヒメノミコト)」、
「惶根命(カシコネノミコト)」、「天日鷲命(アメノヒワシノミコト)」の五柱であると記しています。

「水波之女命」と「市寸嶋比賣命」は神話における代表的な水の神で、印旛沼のほとりに建つ
この神社らしい神様です。
惶根命は神代七代(かみよななよ)と呼ばれる、最初の神である国常立尊(クニノトコタチノ
ミコト)から、国を産んだ伊奘諾尊(イザナキノミコト)と伊奘冉尊(イザナミノミコト)までの七代
十一柱(日本書紀。古事記では十二柱)の内の一柱で、女神とされています。

大鷲神社ー12 
今年の8月に訪ねた北羽鳥の「大鷲神社」のご祭神は「天日鷲命」でした。


根山神社ー3

鳥居の手前にある手水盤には、天保十四年(1843)と刻まれています。


根山神社ー26

「明治四二年八月二四日、同所字宿前無格社揖波神社、同所字大坂無格社嚴島神社、
同所字南大台無格社皇産霊神社、同所無格社鷲宮神社を合祀する。これにより北須賀
宿前荒蕪地五畝一〇歩、同字大坂荒蕪地八歩、同南大台荒蕪地五畝二〇歩、同南大台
荒蕪地六畝一九歩を氏子に売却する。」


「千葉県神社名鑑」には「根山神社」の項にこう記しています。
荒蕪地(こうぶち)とは、原野、未開地という意味です。

ここにある「揖波神社」の名が、境内に入ったところにある小さな手水盤に刻まれています。

根山神社ー6
根山神社ー5

風化でほとんど読めませんが、「揖波神社」と「北須賀村」の文字がかろうじて読めます。


根山神社ー21
根山神社ー7
根山神社ー8

「北須賀村字大坂にあり速須佐之男命水波命市寸嶋比賣命惶根命天日鷲命を祀る創立
不詳なれども明治四十二年八月二十四日許可を得て北須賀字宿前にありし無格社揖波
神社仝所字大坂にありし無格社嚴島神社仝所字南大台にありし無格社皇産靈神社仝所
鷲宮神社を合祀す」
「須佐之男命を祀る古は牛頭天皇と稱し馬場美濃守の守護神なりしといふ七月廿五日神輿
の渡御あり馬場美濃守は此地の城山に築城せられ宿社の所在地は此城下なり其臣兵衛四郎
現今門川住居鈴木四郎兵衛氏の宅には徒歩蓑の古物を藏すといふ古老口碑


「印旛郡誌」には「根山神社」について、このように記しています。
なお、この文中には牛頭天皇とありますが、古い書物には牛頭天王を牛頭天皇と表記する
ものもあるようで、「新撰佐倉風土記」の中には「根山神社在北須賀村祭牛頭天皇」とあり、
「利根川圖志」には「根山神社は北須賀村門河といふ所にあり牛頭天皇を祭る」とあります。

字(あざ)については郡誌、村誌、神社名鑑のそれぞれに多少の齟齬が見られます。
また、「馬場美濃守」とは千葉氏の一族で、有名な甲州武田家の重臣「馬場美濃守信春」
とは別人です。


根山神社ー9  
根山神社ー17
根山神社ー18

社殿の裏や境内の一角に3基の祠があります。
明治時代に合祀されたという厳島、皇産霊、揖波神社でしょうか?


根山神社ー10

神社の裏山には崩れかけた狭く急な石段があります。
この石段の上に「鷲宮神社」があります。


根山神社ー11
******根山神社ー12
根山神社ー13

63段の石段は苔や枯葉や折れた枯枝が積もっていて、とても危険です。
登り切ったところに小さな台地があり、「鷲宮神社」があり、昭和四十年と記されています。


根山神社ー14

目を凝らすと、密生した木々の間からかすかに印旛沼の水面が見えました。
昔はきっと素晴らしい眺めだったと思われます。


根山神社ー15

石段の脇にある石柱には、「北須賀村女人講中」と「芝宿」の文字が刻まれています。


根山神社ー25

現在の社殿は享保十四年(1729)に建造されました。
徳川吉宗の時代です。
屋根は葺替えられていますが、建造から300年近く経っているとは思えないほどしっかり
した感じがするのは、手入れが行き届いているからでしょうか。


根山神社ー19
根山神社ー20

嘉永五年(1852)の御神燈。


根山神社ー28

「根山神社」は道路に面していますが、背の高い木々が境内と社殿を囲んでいるため、
少々薄暗い感じがします。


根山神社ー27

境内から出た道路脇に数基の祠が並んでいます。
一番大きな祠には「文政十二己丑六月」と刻まれています。
いずれも道祖神のようです。
文政十二年は西暦1829年になります。


根山神社ー30

「根山神社」から印旛沼の方向に100メートルほど進むと、「水神の森」に出ます。
広々とした敷地内に松の巨木が点在する開放的な空間です。
樹高20メートルを超え、樹齢300年以上の松もあるようです。


根山神社ー32
根山神社ー31

「水神社」には大小数基の祠がありますが、右にある細長い祠は明治四十三年(1910)
のもの、真ん中の祠は年代不詳、左は享保十一年(1726)のものです。
周りにある小さな祠にも、それぞれ「水神宮」と刻まれています。
「成田の史跡散歩」には、「弥都波能女命(ミツハメノミコト)」がご祭神と書かれています。
この神は水の神様で、「古事記」では弥都波能売神(ミヅハノメノカミ)、「日本書紀」では
罔象女神(ミツハノメノカミ)と記されます。


根山神社ー33
根山神社ー34 甚兵衛供養堂と書かれた掲額
根山神社ー36 堂中正面の甚兵衛の肖像画(?)
根山神社ー37

「水神の森」は別名「甚兵衛公園」とも呼ばれています。
「水神社」の傍に昭和39年に建立された「甚兵衛堂」があります。
ここは昔「水神の渡し」と呼ばれる渡し場があった所で、有名な「木内惣五郎(佐倉宗吾)」
が、近隣の村々への過酷な年貢の取り立てを緩和してもらおうと、藩の江戸上屋敷に願い
出たものの聞き入れられず、やむなく将軍への直訴を決意して、家族に別れを告げに村に
戻る途中、藩の役人によって繋がれていた渡し舟の鎖を切って対岸へと渡し、その後沼に
身を投じた「渡し守の甚兵衛」を讃えて「甚兵衛渡し」と呼ばれるようになりました。

もっとも、この「渡し守甚兵衛」は歌舞伎の「東山桜荘子(佐倉義民伝)」で創作された架空
の人物のようですが、大評判を呼んだ芝居の登場人物が独り歩きして、あたかも実在した
かのように扱われています。
「千葉縣香取郡誌」(大正10年)中にある「公津村誌」には、村内の名勝の一つに「甚兵衛
渡し」をあげて、次のように記しています。

「本村北須賀より六合村吉高に通する要津なり松崎停車塲より一里弱成田驛よりは二里強宗吾靈堂
よりは二十余町
木内宗吾の事蹟と共に人口に膾炎す當時宗吾江戸より歸り書伏夜行辛して
承應元年十二月上旬渡船塲に達し甚兵衛の茅屋を叩き渡船を求む當時公津より江戸に
至る各渡船塲は取締嚴にして定刻必ず毎船鎖を以て封じ一々行人を誰可し舟夫と雖猥に
渡船を許さず若し犯すものは誅戮せらるるの嚴命あり然るに甚兵衛深く宗吾の義狡に感激
し夜半降雪霏々祁寒肌を裂く時敢て斧鉞の嚴刑を犯し決然鉈を揮って鎖を斷ち勇奮棹を
操りて渡航せしめたる著名■遺跡なり今此津に臨み往時を追懐せば風䔥々として沼水寒く
松籟颯々として宛ら往時を語るの想あり」

※ 膾炎は膾炙(かいしゃ)の間違いだと思われます。

仲の町ー15
昔の「甚兵衛渡し」の風景 (成田観光館に展示)

さらに、「郡誌」には「水神の森」に関して、次のような記述もあります。

「北須賀にあり印旛湖中に突出せる半嶋にして水神を祭れる社あり樹木蓊鬱として繁茂し
對岸は即花嶋山にして北は遠く安食を臨み南は邇く中川岩橋に對す朝夕の眺望四季の
變化千態萬狀極りなく湖中絶景の地たるが故に雅人墨客の杖を曳くもの頗る夥し承應
元年八月惣五等上訴の議成り將に出發せんとするや捕卒に襲はれて進退谷り戸の森
にのがれ湖中に投じて後舟人に救はれ危く一命を助かりし所とも傳ふ」


風光明媚であった往時が思い浮かびます。
どうやら宗吾一行は江戸へ上る時にも、この渡し場で危機一髪の目にあったようです。


根山神社ー38
根山神社ー29

晩秋の沼の上空をトンビが二羽、ゆっくりと弧を描いて滑って行きます。

沼岸は遠くへ後退し、渡し舟は昭和43年の「甚兵衛大橋」の開通によって姿を消しました。
「水神の森」に一部残った松林が、わずかに往時をしのばせています。


根山神社ー39


                        ※ 「根山神社」 成田市北須賀98
                           「水神の森」 成田市北須賀1626



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公津村の寺社 | 08:37:12 | トラックバック(0) | コメント(0)
遥か印旛沼が望める、下方の「浅間神社」
下方浅間ー8

今回は、印西市と酒々井町に接する下方(したかた)の「浅間神社」を訪ねます。

「千葉県神社名鑑」によれば、ご祭神は「木花佐久夜姫命(コノハナノサクヤヒメノミコト)」。
この神様は、木花咲耶姫、木花之佐久夜毘売、木花開耶姫とも記されます。
もともとは石宮だったものを昭和54年に社殿を新築して、社殿内に奉斎しました。


下方浅間ー1
下方浅間ー2

地図を頼りに「浅間神社」の麓までくると、道端に大きな石の鳥居が建っています。
鳥居は道路に背を向けて、印旛沼の方向に開かれています。
回り込んで見上げると、額束には「麻賀多神社」とありました。
「麻賀多神社」は1キロほど離れていますが、側に「麻賀多神社神輿渡御之地」と彫られた
石柱と「鳥居河岸」と書かれた標柱が立っています。

『古代・中世においては、印旛沼周辺の低地は「香取の海」と呼ばれる霞ヶ浦から続く広大
な入り海であった。このため陸上交通より水上交通の方が発達しており、麻賀多神社に
参詣するにはこの鳥居河岸に船を着け、ここから上陸したのである。』
「鳥居はもとは印旛沼の中に建てられており、奈良時代末期の延暦二年(七八三)九月
に勅使大伴家持が建立して以来、六十一年ごとに建て替えるのを定例にしていた。最も
新しいのは地上に建てられていたが、その場所が成田市の道路計画にかかったため、
場所を少し移動して平成七年に半永久的な石造の鳥居として再建したのである。」

(「成田の史跡散歩」 P108)


下方浅間ー3

初めて鳥居が建立されてから1230年以上の時が流れ、水位の変動やその後の干拓に
よって印旛沼の水面は大きく後退しました。
今では「鳥居河岸」の名がわずかに往時を偲ばせています。


下方浅間ー4

鳥居の後ろの山に向かって細い坂道が見えます。
ここをちょっと上ると、「浅間神社」の鳥居と、「浅間神社登山口」と記された石柱があります。
鳥居は平成19年、石柱は昭和54年の建立です。


下方浅間ー5

“登山口とは大袈裟な・・・”と思って鳥居の下に立つと、なるほど登山のような急勾配の
石段が上へ伸びています。


下方浅間ー6

石段の踊り場に置かれた手水盤は平成元年に寄進されたものです。


下方浅間ー7

石段は155段ありました。
これは確かに「登山」です。


下方浅間ー9

石段を登り切ったところにある手水盤は風化のため何も読めません。
自然石をくり抜いたような形状です。


下方浅間ー10
下方浅間ー11

この神社についての記述は多くはありません。

「成田市史 近代編史料集一」に収録されている「下方邨一村限調帳」には、ただ一行、
「村社浅間神社村中字浅間山鎮座」 とあります。

また、明治二十二年(1889)に合併してできた公津村の村誌にも、
「無格社浅間神社 下方字浅間下ニ座。創祀不詳。」
とのみの記述です。
そして、「成田市史 中世・近世編」中の「成田市域の主な神社(P794~807)」にはこの
下方の「浅間神社」に関する記述は見当たりません。

一番詳しい記述は千葉県神社庁の「神社名鑑」にありました。
「由緒不詳。昭和五四年氏子・崇敬者により社殿を建立して祭儀の厳修と参詣者の便が
高められている。先年氏子の協力によって百余段の石段と鳥居、また特殊崇敬者により
石造社名標が奉納されている。当社は古来成田市台方・下方・宗吾住民を氏子とされ、
毎年七月一日に幼児が父兄家族と共に登山参詣する。近年眼下に展開する印旛沼の
景観を眺める参詣者も増加している。」



下方浅間ー20
下方浅間ー16

失礼して中を覗かせていただくと、本殿の新築前にあった石宮が見えています。
「神社名鑑」には、本殿は亜鉛板葺の流造りで建坪は5坪、境内は93坪あり、氏子は
300戸とあります。


下方浅間ー14
下方浅間ー15

境内は93坪とされているわりにはとても狭く感じます。
社殿の周りを多くの大木が取り囲み、境内を浸食している感じです。


下方浅間ー13

社殿の後方に、道のようなものがあります。
かつては人が通る道であったものが、利用されることが無くなって消えてしまったように
見え、少し進むと深い藪に阻まれて進めなくなります。


下方浅間ー17
下方浅間ー21
下方浅間ー18

木々の間から印旛沼が見えています。
かつては視界いっぱいに水面が広がっていたはずです。
江戸時代以降、数次にわたる干拓事業で、かつての半分の大きさになりましたが、それでも
千葉県内での湖沼では最大の面積を持っています。
初夏の新緑の季節にここから眺める景色は、きっと素晴らしいと思います。


下方浅間ー22

土に埋もれた板碑が1基。
梵字のようなものがかすかに残っています。


下方浅間ー23
下方浅間ー24

長い石段を下ると、沼の水面は背伸びしないと見えなくなります。


下方浅間ー25

神社のある山裾を西へ150メートルほど進むと、道端に石塔がありました。
「観世音菩薩」と刻まれ、側面に「普門品千部供養」と記され、「享和三癸亥年十二月吉日
開眼」とも記されています。
享和三年は西暦1803年にあたり、癸亥(みずのとい)は干支(えと)の組み合わせの最後
(60番目)になります。


下方浅間ー26

石塔の後ろに、山に入る道の跡のようなものがみえます。
雑木と竹に覆われて中へは進めませんが、もしかすると先ほど見た神社の裏にあった
道跡とつながっているのではないでしょうか?
と、すると、ここが石段ができる前の登山道の入口なのかも・・・。


下方浅間ー12
下方浅間ー19

境内から見える景色は大きく変わってきました。
満々と水を湛えていた沼面ははるかな先に後退し、北総線の鉄橋が水面を横切っています。

ご祭神の「木花佐久夜姫命」は、この移ろいをどのように見ておられるのでしょうか。


下方浅間ー27


                 ※ 下方の「浅間神社」 成田市下方199


テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公津村の寺社 | 08:16:20 | トラックバック(0) | コメント(2)
狛犬がいる顕本法華宗の「大経寺」と、土俵がある「五社神社」
大経寺-1

「大経寺」は顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)のお寺で、山号は「正栄山」。
ご本尊は「釈迦如来」です。

「顕本法華宗」とは私にとって聞き慣れない宗派でしたので、少し調べてみました。
文和元年(1352)に天台宗の延暦寺学頭となった玄妙は、応安五年(1372)に故郷の
会津の「羽黒山東光寺」の住職となり、康暦二年(1380)に日蓮宗に改宗し、名も日什と
改めました。
その後日什が康応元年(1389)に上洛して「妙満寺」を建立し、一派を興したのが「顕本
法華宗」の始まりとされています。
明治になってから日蓮宗妙満寺派と称しましたが、第二次大戦後になってから日蓮宗内
に残った「日蓮宗什師会」と、日蓮宗から離れて独立した「顕本法華宗」とに分裂しました。


大経寺ー2
大経寺ー3
大経寺-10

境内の入口にそびえ立つ銀杏は、樹周りが4メートル以上はあろうかという大木です。


大経寺-4
大経寺-5

「大袋村字金堀にあり日蓮宗妙満派にして輕胤寺末なり釈迦如来を本尊とす創立年月
中興等焼付に付不詳西京妙満寺より小本寺格許可せられる堂宇間口五間奥行四間半
境内一千百二十一坪官有地第四種あり」


大正二年(1913)編さんの「印旛郡誌」にはこのように記されています。
この頃はまだ日蓮宗妙満寺派であったわけです。


大経寺-6
大経寺-7
大経寺-8

インドから唐を経由し、朝鮮から伝わった狛犬は、今では神社の守護獣となっていますが、
日本に伝わってきた頃には神仏習合の時代でしたから、この「大経寺」のようにお寺にある
ことも珍しくありませんでした。
古いお寺には今でも狛犬が残っているようですが、この狛犬は平成12年の寄進ですから、
とても珍しく思えます。


大経寺ー12

「元祖日蓮大菩薩」「開山日什大正師」と刻まれた石碑。
天明九年(1789)と記されています。


大経寺-13

墓地には明治、大正の比較的新しい墓石に交じって、貞享、享保、寛保、文化、文政など
の古い墓石が並んでいます。


大経寺ー15

「成田市史」には「大経寺」に関する記述がほとんど無く、「成田市史 中世・近世編」中の
「近世成田市域の寺院表」に寺名・山号・本寺・開山の1行と、
「大袋村の正栄山大経寺は、印旛郡本佐倉村(印旛郡酒々井町)経胤寺の末寺で、創建
年代は不明だが、経胤寺八世日貞によって開山されている。」
 (P790)
との2行のみが記されています。
なお、宗派は「日蓮宗」とされています。
市史の編さんは昭和61年ですから、これは間違いですね。
千葉県の宗教法人名簿には「顕本法華宗」と記載されています。


大経寺-19

参道の入り口には髭文字で「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目塔が建っています。
明和二年(1765)と記されています。


大経寺-20
大経寺ー36

題目塔から後ろを振り返ると、土俵が見え、その先に神社が見えています。

「石塔のそばに相撲の土俵が作られている。毎年八月二十四日、盂蘭盆(うらぼん)の早朝
にここで子どもたちによる相撲が行われるのである。三百年以上の伝統をもつ行事で、もと
は県神社の朝相撲といわれていた。県神社は、丸氏が大袋に移住する際に、一族の氏神
として土気にある県神社の分霊を移して安置したものと伝えられ、その県神社へ奉納する
神事相撲であった。だが県神社が台方の麻賀多神社に合祀されたので、現在では大経寺
の朝相撲になっている。」
 (「成田の史跡散歩 P112)

丸氏とは、古くから上総地方に根を張っていた豪族です。


大経寺ー23
大経寺ー24
大経寺ー25

この神社は「五社神社」と呼ばれています。
「千葉県神社名鑑」(昭和62年)には、
「本殿・亜鉛板葺流造〇.八坪 境内一七〇坪 氏子三十戸」
と記されています。


大経寺ー33

「大袋村字椎塚田にあり天照大神少彦名命大巳貴命倉稲魂命安媛命を祭る創立不詳
と雖五穀豊穣の爲舊領主に於て施行せられし春秋两度社日を以て于今祭典を執行す
社殿は五方面三寸の石宮にして境内百七十坪官有地第一種あり神官は鈴木氏にして
氏子二十五戸二十五戸を有し管轄廰まで七里十三町あり神社明細帳」


「印旛郡誌」にはこの神社についてこう記しています。

また、「千葉県神社名鑑」には、
「現在の本殿は昭和二八年の新築で、それまでの石宮(五角形柱)は本殿内に遷宮された。」
と記されています。

天照大神(アマテラスオオミカミ)・少彦名命(スクナビコナノミコト)・大巳貴命(オオナムチ
ニミコト)・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)・安媛命(埴安媛命ハニヤスヒメノミコト)をご祭神
とする五角形柱の石宮といえば、八代の稲荷神社の境内にある「地神碑」と同じようなもの
だと思われます。

善勝院ー28 八代・稲荷神社の地神碑


大経寺ー27 名前は分からない小社
大経寺ー26 稲荷大明神・馬頭観世音
                                          (文政十三年=1830)    

大経寺ー29

明和六年(1769)の手水盤には寄進者の名前がびっしりと刻まれています。


大経寺-31

「五社神社」の境内からは土俵の向こうに「大経寺」参道入口の題目塔が見えています。


大経寺-34
大経寺-18

顕本法華宗のホームページには、「法華経」と日蓮の遺した「御書」から直接教えを乞うとし、
“他宗派の神仏の信仰や秘儀秘伝と称する教義は一切認めない”と書かれています。 
きれいに整備された境内の雰囲気は、この宗派の姿勢を現しているような気がします。


大経寺ー39


                      ※ 「正栄山大経寺」 成田市大袋421
                         「五社神社」    成田市大袋383



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公津村の寺社 | 07:32:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
早朝と夜間は無人駅~印旛沼が見える「下総松崎駅」
松崎駅ー39

「下総松崎駅」はJR成田線我孫子支線の駅で、成田の隣の駅です。

明治三十四年(1901)に当時の成田鉄道の「松崎駅」として開業し、大正九年(1920)
に日本国有鉄道となって「下総松崎駅」に改称されました。


松崎駅ー27
松崎駅ー30
松崎駅ー32

ホームは2本、1番線は成田行き、2番線は我孫子方面行きで、跨線橋で連絡しています。
1番線の表示は、成田の他に乗り換えで行ける千葉と佐原とが書かれて、2番線の表示は、
隣駅の安食の他に、我孫子から一部直通で行ける上野やその先の品川、さらに反対方向
の水戸までが書かれています。


松崎駅ー31
松崎駅ー29
松崎駅ー28

「下総松崎」と書いて「しもうさまんざき」と読みます。
でも、ローマ字表示では「しもーさまんざき」ですね。

ところで、成田線の我孫子支線にはこの下総松崎の他に、我孫子(あびこ)、安食(あじき)
などの難読駅があります。
この他支線には10の駅がありますが、新木(あらき)、布佐(ふさ)、木下(きおろし)などは
難読駅ではないものの、よく間違えられて呼ばれます。


松崎駅ー35
松崎駅ー33

ホームは12両編成が停車できるだけの長さがありますが、実際は10両編成までしか
運用されていませんので、停車位置表示は10両用のみです。


松崎駅ー34

長いホームを安食方面の端まで行くと踏切が見えました。
駅舎を出て、付近を散策してみましょう。


松崎駅ー4
松崎駅ー3
松崎駅ー45

駅舎を出ると、構内にはたくさんの実を付けた柿の木や、今や街中では見かけなくなった
公衆電話ボックスが目に入ります。


松崎駅ー5

これが駅前のメインストリート(?)で、小さな商店が2軒あるだけです。


松崎駅ー6

駅前の山は紅葉が始まっています。


松崎駅ー9

ホームから見えた踏切に着きました。
「大竹踏切」と書かれています。


松崎駅ー7  踏切から見た成田方面
松崎駅ー8  踏切から見た安食方面  

我孫子支線は駅の構内だけが複線で、あとは単線です。


松崎駅ー10

踏切を渡るとすぐに墓地がありました。
柵も何も無く、細い道に沿って広がっています。


松崎駅ー11 二又の道端に建つ地蔵像
松崎駅ー12 板碑には南無阿弥陀佛と…
松崎駅ー14 不動明王が彫られた墓石


松崎駅ー15

墓地から見える駅の跨線橋。


松崎駅ー19
松崎駅ー18

墓地の反対側を行くと、知る人ぞ知る和菓子の名店「大竹堂」があります。
周りに何もない、分かりにくい細道の奥という立地条件の悪い場所ですが、地元の人達
の他にも多くのファンがいるお店です。


松崎駅ー20
松崎駅ー21

目線の先に見えているのは、「松崎街道」の項で紹介した「成田街道踏切」です。


松崎駅ー22
松崎駅ー23

駅に向かって帰る道は「松崎街道」です。
左に上って行く道は「坂田ヶ池総合公園」や「房総のむら」へ向かっています。


松崎駅ー25
松崎駅ー43
松崎駅ー46

木造平屋の駅舎は、こじんまりとして温かみが感じられ、最近めっきり数が減ってきた燕が
毎年巣を作るための場所をしっかり用意していたりします。


松崎駅ー47
松崎駅ー48

出札口には「営業時間 7:05~18:20」と書かれています。

この駅は、「JR千葉鉄道サービス株式会社」が駅の業務を受託している業務委託駅に
なっていますが、駅員は午前7時5分から午後6時20分の間のみ駐在し、それ以外の
時間は無人駅になります。
無人駅となる時間帯にこの駅から乗車する人は、「乗車証明書発行機」から乗車証明書
を取って入場する必要があります。
この「乗車証明書発行機」は、無人駅の「久住駅」にもありました。

久住駅ー3 久住駅の乗車駅証明書発行機

穏やかな時間が流れる無人駅~「久住駅」 ☜ ここをクリック


松崎駅ー26

遠くに北総線の高架が見えています。
成田線は北総線の成田湯川駅のホーム下をくぐって成田に向かいます。

成田で一番新しい駅、成田湯川駅 ☜ ここをクリック


松崎駅ー36
松崎駅ー1

我孫子行きの電車が2番線に入るとすぐに1番線に成田行きの電車が入ってきます。
我孫子支線には、日中は1時間に2本、通勤・通学時には3本の電車が走ります。


松崎駅ー37
松崎駅ー38

跨線橋の上からは、遠く印旛沼が望めます。


松崎駅ー40
松崎駅ー44

電車が行ってしまうと、ホームにも改札口にも人影が見えなくなります。
1990年から2003年までは900人以上あった一日平均の乗車人数(降車は含まず)は、
その後徐々に減少し、2014年の一日平均の乗車人数は722人となっています。


松崎駅ー41

秋の日差しが暖かい、のんびりした「下総松崎駅」です。


松崎駅ー50


                      ※ 「下総松崎駅」 成田市大竹340



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鉄道・駅 | 07:24:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
枝垂桜と山桜、珍しい造りの本堂が残る名刹~栗源の「真淨寺」
真浄寺ー4

栗源町(現香取市)「沢」にある「真淨寺」は日蓮宗のお寺で、山号は「蓮寿山」です。
奈良時代に唐僧・鑑真によって開かれたと伝えられる古刹です。
伝承通りであれば1260年以上の歴史を有することになりますが、享徳三年(1454)に
日蓮宗に改宗したとの記録が残っていますので、少なくとも560年以上の歴史が刻まれ
ているお寺です。


真浄寺ー2

参道の入り口に建つ、日蓮宗のお寺では良く見かけるひげ文字の「題目塔」。


真浄寺ー1

立派な門柱は昭和51年に建てられました。


真浄寺ー42
真浄寺ー41

門柱の先に境内へ上る階段が見えています。
階段の両脇にはまるで巨大な仁王像のような杉の巨木がそびえています。


真浄寺ー5

境内に入るとすぐに「房総の魅力500選」と書かれた金属パネルが目に入ります。
「奈良時代に中国の鑑真和尚がひらいたと伝えられています。天正年間に至り、国分氏が
この寺を陣屋としたため、兵火にあって伽藍は焼失してしまいました。現在の本堂は、元文
5年(1740)に造営されたものです。」


「房総の魅力500選」とは、昭和58年に千葉県の人口が500万人を突破したことを記念して、ふるさとを再発見
しようと選定された名所や名物などです。



真浄寺ー6
真浄寺ー7

「蓮寿山真淨寺 日蓮宗 本尊、釈迦牟尼仏、日蓮大菩薩。 創建、奈良時代唐僧鑑真が
開いたといわれている。享徳三年二月一三日、真言宗より日蓮宗に改宗、寺号を改める。
天正一八年矢作城落城直後、国分氏当寺を陣屋としたため兵火で焼失、現本堂は元文
五年四月の造営。」
 (「栗源町史」 P154~5)

鑑真が開いたとするお寺は成田地区にも多くありますが、史実としては疑問が残ります。
ただ、それほど古いお寺だということなのでしょう。
改宗したとされる享徳三年(1454)から数えて560年、兵火で焼失した天正十八年(1590)
からは425年、現本堂が造営された元文五年(1740)からでも275年が経っています。


真浄寺ー10
真浄寺ー9
真浄寺ー11

本堂の軒下には見事な彫刻がありますが、その中に「七曜紋」が見えます。
一方、屋根の鬼瓦には「九曜紋」があります。
「九曜紋」は、かつてこの地域の領主であり、秀吉の小田原攻めの際に北条方に与して
真淨寺焼失の因をつくった「国分氏」の紋です。
「七曜紋」も、国分氏が属する千葉氏一族の紋章の一つですから、ここにあってもおかしく
はないのですが、江戸時代に法華経の守護神とされる「七面大明神」信仰と「七曜紋」が
結びついたことから、掲げられているのではないかと思います。

この本堂の「七曜紋」とは直接の関係は無いと思いますが、「七面大明神」と「七曜紋」との
関わりの一例としては、こんなことが挙げられます。
真淨寺の本堂が再建された元文五年は八代将軍吉宗の時代ですが、吉宗の側近である
田沼意行は長い間子に恵まれないため「七面大明神」に願掛けをしたところ、後に老中と
なる田沼意次が生まれたので、家紋を「七曜紋」に替えたと伝えられています。


真浄寺ー12

昭和61年に寄進された天水桶にも「九曜紋」が・・・。
裏側には「如蓮華在水」と刻まれています。


真浄寺ー13身延七十九世大僧正日慈
真浄寺ー14  身延山参拝記念碑
真浄寺ー15  一天四海皆歸妙㳒

境内の一角に並ぶ3基の題目塔。
「南無妙法蓮華経」の文字の他には、写真の右にあるような文字が・・・。


真浄寺ー17

明治41年の題目塔(左)と聖観音菩薩像(右)。
題目塔の側面には「奉唱御題目六萬部供養塔」「一天四海皆帰妙法」と刻まれています。


真浄寺ー18
真浄寺ー19

この慈母観音像の背後には、たくさんの水子供養の板塔婆が立っています。
観音様の表情と、抱かれている赤子の顔がリアルで、ちょっとドキッとします。


真浄寺ー20

ずんぐりした灯篭は平成3年に奉納されました。


真浄寺ー43

何の説明もありませんが、境内のほぼ中央に建つこの像は大黒様でしょうか?


真浄寺ー22
真浄寺ー30

「芲下大朙神碑(はなのしただいみょうじん)」と彫られた碑には、
「木のもとに 汁も膾も さくらかな」
の句が刻まれています。
これは松尾芭蕉が元禄三年(1690)に伊賀上野で詠んだ句です。
明治二年(1869)の建立ですが、傍にある枝垂れ桜にかけて建立したのでしょう。

「同村澤字寺谷眞淨寺域内に在り埀絲櫻にして圍一丈四五尺に埀んとす開花の候殊に奇觀
を極め澤櫻の名遠邇に聞ゑ騒人雅客の杖を曳くもの多かりしか近時幹枝の枯損するを以て
舊時の如くならず樹下碑石あり俳句等を刻す村の俳人髙橋如水の門人が建つるものなり如水
通稱を甚兵衛と曰ひ吉祥庵と號す往年其側に稚櫻を培植せしが今や漸く成長し往時の觀を
復せしむとす」
 (「千葉縣香取郡誌」 大正10年 P577~578)


真浄寺ー39
真浄寺ー25
*********** 真浄寺ー24
真浄寺ー29

元文五年に再建された現在の本堂は、香取市の指定文化財となっています。
説明板には次のように記されています。

「当山は蓮寿山真淨寺と称し、日蓮宗に属する。一説には唐僧鑑真大和上の開山とも
伝わるが、永徳元年(一三八一)平賀本土寺(松戸市)第九世妙高院日意上人を中興
開山とする。天正十八年(一五九〇)徳川氏が関東入府の際、矢作落城と共に、一山
ことごとく灰燼に帰し、その後再興された。本堂は、間口柱間三間・奥行同四間で、正面
に間口一間の向拝を付している。宝形造、銅板葺(元茅葺)の屋根で、建築年代は小屋
柱の墨書により、元文五年(一七四〇)とされる。正面寄り一間に「三方吹き放ち」とも
呼ばれる構造を設けていることが特徴的である。旧庫裡は宝暦八年(一七五八)の建立
であったが平成七年五月に解体され、平成九年に現在の庫裡が完成した。延享年間
(一七四四~四八)には末寺二四ヶ寺を有する名刹であった。古くから枝垂桜の名所と
して知られ、昭和六十三年には千葉県「房総名勝五百選」にも選ばれている。」



真浄寺ー26 斎藤翁碑(斎藤源吾・明治二年)
真浄寺ー27 澤地区戦没者慰霊碑(平成4年)
真浄寺ー28 題目塔(平成第九之春とある)


真浄寺ー31

裏山の中腹にある墓地から眺める本堂。


真浄寺ー33

墓地には明暦、寛文、宝暦などの古い墓石が並んでいます。


真浄寺ー35
真浄寺ー37
真浄寺ー38
真浄寺ー36

境内から少し下った場所に、たくさんの板碑が並んでいます。
いずれも境内の整備に伴ってここに集められたもののようです。
風化により板面の梵字や文様は見えませんが、お寺の歴史を語る貴重な文化財です。


さて、「真淨寺」から旧道を「道の駅くりもと」に向かってしばらく歩くと見えてくる「澤大櫻」
についてもちょっと触れましょう。

澤大櫻ー2
澤大櫻ー1

この大櫻は樹周りが5.4メートル、樹高は約10メートルあります。

記念碑には、元禄のころ真淨寺の日櫻聖人がここに山桜を植えて、真淨寺の境内にある
枝垂桜とこの山桜との間を信仰の浄土の地とした、と記されています。
この桜の木が「真淨寺」への参道入り口だったわけです。

澤大櫻ー5

正面に「南無妙法蓮華経」と刻まれたこの小さな石塔の側面には「ひした(菱田?)江戸」
の文字が見えますので、道標を兼ねていたようです。

澤大櫻ー6

元禄のころにここに植えられたとすれば、この桜は樹齢320年以上ということになります。


真浄寺ー40

「蓮壽山眞淨寺 同村大字澤字寺谷に在り域内千百八十三坪日蓮宗にして釋迦如來を本尊
とし多寶佛を配す開創年月詳ならず寺傳に曰く矢作城の陥るや城主國分大膳太夫大膳世系不詳
走て本寺に入る敵兵窮追して火を放ち堂塔悉く灰燼と為り古記随て烏有に歸せり後ち國分氏
の室蓮壽院之を再興し以て父の冥福を祈り今の山號を付すと寺門に數株の巨杉樹相並べり」

(「千葉縣香取郡誌」 大正10年 P449)

“戦に敗れて死んだ城主の霊を、遺された姫が弔うために建てた寺”としては、東和泉の
「養泉寺」があります。
討死した父と家臣を弔う姫~東和泉の「養泉寺」 ☜ ここをクリック

県道44号線のバイパスができてから、旧道の交通量はめっきり減りました。
そのぶん、静かな山村の空気が「真淨寺」の歴史を包んでいるような気がします。


真浄寺ー44
真浄寺ー45


                     ※ 「蓮寿山真淨寺」 香取市沢1811



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香取市の寺社 | 07:39:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
大杉が見守る古刹、栗源の「東光山安興寺」
今回は香取市岩部(旧栗源町)の「安興寺」を訪ねます。

安興寺-48

「安興寺」は日蓮宗のお寺で、山号は「東光山」。
正式には、山号を「東方光明山」、寺号を「安圀長興寺」と称しますが、「東光山安興寺」と
略されて呼ばれています。
ご本尊は「釈迦如来」です。


安興寺ー1

参道の入口に建つ「題目塔」。
正面には「南無妙法蓮華経」の題目が刻まれ、側面には「東光山安興寺」、「當山丗七世
嗣法」と読める文字が刻まれています。
紀年銘は「享和三癸■」とあります。
享和三年は西暦1803年になります。


安興寺ー2
安興寺ー3

すっきりした、それでいて風格のある山門です。
山門脇の説明板に「安興寺縁起」が書かれています。

『当山は、山号を「東方光明山」、寺号を「安圀長興寺」と命名。通称は「東光山」「安興寺」
を名称とする。淵源は、大同二年(八〇七年)、岩部城地に創建された戒律勅許の「律宗・
大円院」で、当地方の行政機関を兼ねた拠点として戒律相伝の律師(官許の僧侶)により、
鑑真和上(奈良・唐招提寺開祖)を開基に仰いで創建されたと伝えられる。
その後、貞応元年(一二二二年)、千葉氏の一族岩部五郎常基が岩部城築城にあたり、
現在地に移設し、名称も「千葉山」「釈尊勧請寺」として整備し創建した。
時は下って元徳二年(一三三〇年)、大円阿闍梨日伝上人(平賀・本土寺第三世)に
よって日蓮宗に改宗され、名称も現在のものとなった。
第二世日義上人の代には、千葉家から供養料として田畑、寺領地が寄進され「境内地
二千七百五十坪、供米二十石」とある。
第三世日憲上人の代には、時の将軍足利義満公との有縁の誼をもって奥方懐妊の際、
当山勧請の釈迦尊像に祈祷を修し男子誕生の慶事をもって二十石の御朱印地を受領。
そして「塔中三十七坊、末寺七ヶ寺を擁し、檀家岩部一円に及ぶ」とある。
第二十世中興日秀上人の代には、徳川三代将軍家光公からも十一石五斗の御朱印地
が下付された。寛文五年(一六六五年)以降、不受不施派に属した為、幕府の弾圧を受け、
二十余年間無住職状態が続き、末寺、支配寺坊の離脱、火災による堂宇焼失等が相次ぎ
本来の偉容から衰微した。
然るに、歴代上人の名跡によって、濫觴以来実に千二百年、現在地での法灯連綿七八〇
年余、有数の古刹にして、現在の第五十四世に継承されている。』


なんと、1200年余の歴史を有し、現在地に移転してからでも790年余、日蓮宗に改宗して
から680年余という古刹なのです。

現在地に寺を移した「岩部五郎常基(いわべごろうつねもと)とは、下総の豪族・千葉常房の
子で、後に戦国末期までの約500年間にわたって小見川一帯を支配した粟飯原(あいはら)
氏の祖となる人物です。


安興寺-40

「栗源村大字岩部字西崎に在り域内四百五十坪日蓮宗にして釋迦如来を本尊とす寺傳に
曰く貞應元年之を開基して千葉山勸淨寺と稱し眞言宗たりしが元徳二年三月之を再建し
今の宗に改め僧日義開山たり日義は日傳の弟子なり初め鎌倉妙本寺に在り之に師事し
後ち本寺を開く千葉氏爲めに寺地を寄附す亞て日憲なるもの之を中興し足利義満亦寺地
若干を寄す昔時は古記古寶等極めて多かりしが大永中寺主なく寺藏を助澤村長榮寺に
藏し火災に罹りしを以て之を失ひしと天正中鳥居氏此地を領せしとき悉く寺領を没し慶安
二年十一月徳川家光更に朱印地十一石五斗を給す境内巨杉數株あり大なるもの圍二丈
に埀んとせり」 


「千葉縣香取郡誌」には「安興寺」についてこのように記述されています。
岩部五郎常基によって移設された時を開基としている他は、山門脇の説明板とほぼ同じ
内容です。

なお、「安興寺」のご本尊を「一塔両尊四菩薩」としている資料がありますが、門前にある「安興寺縁起」には、
釈迦如来像を「千葉山以来の最古の勧請仏」と記されていますので、「香取郡誌」にあるとおり「釈迦如来」が
ご本尊で良いのではないでしょうか。
日蓮宗の「本尊」の考え方は難しいもので、自信はありませんが、「一塔両尊四菩薩」とは、中央の宝塔に
南無妙法蓮華経と書き、向かって左に釈迦如来、右に多宝如来が一つの蓮台の上に乗り、さらに左に
浄行菩薩、安立行菩薩を、右に上行菩薩と無辺行菩薩を置くもので、「釈迦三尊」や「薬師三尊」と同じような
安置の形式なのではないでしょうか。



安興寺ー8

この立派な題目塔は平成5年に建立され、「庫裡新築落慶記念 東光山五十四世日園」
と記されています。


安興寺ー10

こちらの題目塔には、裏面に「昭和貮年四月五日建立」の文字と身延山参拝団体人名が
記されています。


安興寺ー11

昭和3年の「畔蒜佐市君碑銘」。
畔蒜佐市(1858~1926)は、岩部村外六ヶ村連合役場の書記を務め、後には栗源村の
村議収入役や助役を務めた人物です。


安興寺ー13
安興寺ー12
安興寺-45

香取市指定天然記念物の大杉。
寺の縁起書には、樹高は約50メートル、周囲目通り約6メートルと書かれています。
中興二十世日秀上人の時代に植樹されたとありますので、樹齢は約400年になります。


安興寺ー14

山門をくぐった左手にある「慈母観音像」。
説明板には『子供を思う親ごさん達の喜捨によって建立されたので「かあさんかんのん」と
名乗られました』と書かれています。


安興寺-47
安興寺ー26
安興寺ー25

手水舎の中の手水盤には、「文化元甲子年三月吉祥日」と刻まれています。
文化元年は西暦1804年にあたります。


安興寺ー27
安興寺ー28

手水舎の後ろにある小さなお社は名前が分かりませんが、隣に古い井戸ポンプがあるので、
「水神様」ではないでしょうか。


安興寺ー30
安興寺ー31
安興寺ー32

「安興寺」が所蔵する、狩野派・勝運の筆になる「涅槃図」は、香取市の有形文化財に
指定されていて、毎年二月十五日の「涅槃会」に公開されます。
縦415cm、横287cmの大幅で、享保十六年(1731)の作です。

また、寺宝となっている「日蓮上人の真筆」は、法華経譬諭品の断簡で、「栗源町史」に
掲載されている写真を見ると、
「・・ 舎利弗 汝於未来世 過無量無辺 不可思議劫 供養若干 千万億仏 奉持正法
具足菩薩 所行能道 当得作仏 号日華光如来 ・・」

の部分が書かれています。


安興寺ー29

本堂脇に建つ大きな題目塔。
「南無妙法蓮華経」の脇に「一天太平 四海静謐」、反対側に「身延山参拝記念碑」、下に
「身延山七十九世 日慈」と記されています。


安興寺ー33

境内の一角にひっそりと建つお堂。
少々荒れていて、名前も分からないお堂ですが、このお寺が律宗であったころの名残りで、
「大師堂」ではないかと勝手に推測しました。


安興寺ー22
安興寺ー20
*********** 安興寺ー21

裏手には墓地があり、その先にはのどかな田園風景が広がっています。
古い墓石には、延宝、宝永、宝暦、安永、享和、文化、天保などの年号が見えます。


安興寺ー34
安興寺-35

本堂の裏にある柿の木には熟した実がたわわに実っています。
遠くの空を成田を飛び立った旅客機が横切って行きます。


安興寺-39
安興寺-41

本堂の鬼瓦には千葉氏一族に見られる多曜紋の一つ、「十曜紋」が見えます。
これが岩部氏の家紋だったのでしょうか。
大棟には日蓮宗の宗紋の「井筒に橘」が並んでいます。

昭和49年に編さんされた「栗山町史」には、「安興寺」の苦難の歴史には触れず、簡潔に
次のように記しています。

「寺宝に日蓮の真筆(断片)外古文書多し、大同二年九月唐僧鑑真和尚の創建、貞応元年
(一二二〇)岩部五郎常基の菩提寺となり、真言宗、千葉山勧請寺と称した。
元徳二年(一三三〇)日蓮宗に改宗、寺名改称、足利義満将軍の奥方の安産祈願寺となり
以来同氏より二〇石五斗、徳川家康より十石五斗の朱印地を寄進された。」 
(P152)


安興寺-50

大正七年(1918)の「玉姫明神記」。
「安興寺住持観了が村内外の養蚕家と謀り養蚕守護の霊神として玉姫明神を祀った記念碑」
(栗源町史 P115)


安興寺-43
安興寺-42
安興寺-46

どこから眺めても、大杉が目に入ります。
平成26年5月15日の「広報かとり」に、この大杉のことが書かれています。
「近年、樹木医による専門調査を行った結果、樹高は28m、胸高の周囲は5.65mを計測
しました。また、枝下の高さは6.7mで、枝張りは北へ12.8m、南へ13.9m、東へ10.2m、
西へ11.8mです。」

「まっすぐに伸びた幹と、そこから四方に張り出した湾曲した太い枝、縦に深く刻まれた樹皮
が、古木の力強さを感じさせます。遠望すると周囲の樹木よりも頭一つ抜き出ていることが
わかります。」


正確な計測も良いですが、この大杉の根元に立って見上げる時に感じる迫力は、案内板にある
公称の「樹高約50メートル」の方がしっくりします。

広い境内は手入れが行き届いています。
ちらりと見えた本堂の内部では、大勢の檀徒が集まって法話を聞き入っていました。
この古刹には長い年月にわたって続いてきた檀徒とのつながりが、大杉のように今もしっかりと
根付いているようです。


安興寺ー54


                       ※ 「東光山安興寺」 香取市岩部1306


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