
栗源町(現香取市)「沢」にある「真淨寺」は日蓮宗のお寺で、山号は「蓮寿山」です。
奈良時代に唐僧・鑑真によって開かれたと伝えられる古刹です。
伝承通りであれば1260年以上の歴史を有することになりますが、享徳三年(1454)に
日蓮宗に改宗したとの記録が残っていますので、少なくとも560年以上の歴史が刻まれ
ているお寺です。

参道の入り口に建つ、日蓮宗のお寺では良く見かけるひげ文字の「題目塔」。

立派な門柱は昭和51年に建てられました。


門柱の先に境内へ上る階段が見えています。
階段の両脇にはまるで巨大な仁王像のような杉の巨木がそびえています。

境内に入るとすぐに「房総の魅力500選」と書かれた金属パネルが目に入ります。
「奈良時代に中国の鑑真和尚がひらいたと伝えられています。天正年間に至り、国分氏が
この寺を陣屋としたため、兵火にあって伽藍は焼失してしまいました。現在の本堂は、元文
5年(1740)に造営されたものです。」
「房総の魅力500選」とは、昭和58年に千葉県の人口が500万人を突破したことを記念して、ふるさとを再発見
しようと選定された名所や名物などです。


「蓮寿山真淨寺 日蓮宗 本尊、釈迦牟尼仏、日蓮大菩薩。 創建、奈良時代唐僧鑑真が
開いたといわれている。享徳三年二月一三日、真言宗より日蓮宗に改宗、寺号を改める。
天正一八年矢作城落城直後、国分氏当寺を陣屋としたため兵火で焼失、現本堂は元文
五年四月の造営。」 (「栗源町史」 P154~5)
鑑真が開いたとするお寺は成田地区にも多くありますが、史実としては疑問が残ります。
ただ、それほど古いお寺だということなのでしょう。
改宗したとされる享徳三年(1454)から数えて560年、兵火で焼失した天正十八年(1590)
からは425年、現本堂が造営された元文五年(1740)からでも275年が経っています。



本堂の軒下には見事な彫刻がありますが、その中に「七曜紋」が見えます。
一方、屋根の鬼瓦には「九曜紋」があります。
「九曜紋」は、かつてこの地域の領主であり、秀吉の小田原攻めの際に北条方に与して
真淨寺焼失の因をつくった「国分氏」の紋です。
「七曜紋」も、国分氏が属する千葉氏一族の紋章の一つですから、ここにあってもおかしく
はないのですが、江戸時代に法華経の守護神とされる「七面大明神」信仰と「七曜紋」が
結びついたことから、掲げられているのではないかと思います。
この本堂の「七曜紋」とは直接の関係は無いと思いますが、「七面大明神」と「七曜紋」との
関わりの一例としては、こんなことが挙げられます。
真淨寺の本堂が再建された元文五年は八代将軍吉宗の時代ですが、吉宗の側近である
田沼意行は長い間子に恵まれないため「七面大明神」に願掛けをしたところ、後に老中と
なる田沼意次が生まれたので、家紋を「七曜紋」に替えたと伝えられています。

昭和61年に寄進された天水桶にも「九曜紋」が・・・。
裏側には「如蓮華在水」と刻まれています。



境内の一角に並ぶ3基の題目塔。
「南無妙法蓮華経」の文字の他には、写真の右にあるような文字が・・・。

明治41年の題目塔(左)と聖観音菩薩像(右)。
題目塔の側面には「奉唱御題目六萬部供養塔」「一天四海皆帰妙法」と刻まれています。


この慈母観音像の背後には、たくさんの水子供養の板塔婆が立っています。
観音様の表情と、抱かれている赤子の顔がリアルで、ちょっとドキッとします。

ずんぐりした灯篭は平成3年に奉納されました。

何の説明もありませんが、境内のほぼ中央に建つこの像は大黒様でしょうか?


「芲下大朙神碑(はなのしただいみょうじん)」と彫られた碑には、
「木のもとに 汁も膾も さくらかな」
の句が刻まれています。
これは松尾芭蕉が元禄三年(1690)に伊賀上野で詠んだ句です。
明治二年(1869)の建立ですが、傍にある枝垂れ桜にかけて建立したのでしょう。
「同村澤字寺谷眞淨寺域内に在り埀絲櫻にして圍一丈四五尺に埀んとす開花の候殊に奇觀
を極め澤櫻の名遠邇に聞ゑ騒人雅客の杖を曳くもの多かりしか近時幹枝の枯損するを以て
舊時の如くならず樹下碑石あり俳句等を刻す村の俳人髙橋如水の門人が建つるものなり如水
通稱を甚兵衛と曰ひ吉祥庵と號す往年其側に稚櫻を培植せしが今や漸く成長し往時の觀を
復せしむとす」 (「千葉縣香取郡誌」 大正10年 P577~578)


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元文五年に再建された現在の本堂は、香取市の指定文化財となっています。
説明板には次のように記されています。
「当山は蓮寿山真淨寺と称し、日蓮宗に属する。一説には唐僧鑑真大和上の開山とも
伝わるが、永徳元年(一三八一)平賀本土寺(松戸市)第九世妙高院日意上人を中興
開山とする。天正十八年(一五九〇)徳川氏が関東入府の際、矢作落城と共に、一山
ことごとく灰燼に帰し、その後再興された。本堂は、間口柱間三間・奥行同四間で、正面
に間口一間の向拝を付している。宝形造、銅板葺(元茅葺)の屋根で、建築年代は小屋
柱の墨書により、元文五年(一七四〇)とされる。正面寄り一間に「三方吹き放ち」とも
呼ばれる構造を設けていることが特徴的である。旧庫裡は宝暦八年(一七五八)の建立
であったが平成七年五月に解体され、平成九年に現在の庫裡が完成した。延享年間
(一七四四~四八)には末寺二四ヶ寺を有する名刹であった。古くから枝垂桜の名所と
して知られ、昭和六十三年には千葉県「房総名勝五百選」にも選ばれている。」




裏山の中腹にある墓地から眺める本堂。

墓地には明暦、寛文、宝暦などの古い墓石が並んでいます。




境内から少し下った場所に、たくさんの板碑が並んでいます。
いずれも境内の整備に伴ってここに集められたもののようです。
風化により板面の梵字や文様は見えませんが、お寺の歴史を語る貴重な文化財です。
さて、「真淨寺」から旧道を「道の駅くりもと」に向かってしばらく歩くと見えてくる「澤大櫻」
についてもちょっと触れましょう。


この大櫻は樹周りが5.4メートル、樹高は約10メートルあります。
記念碑には、元禄のころ真淨寺の日櫻聖人がここに山桜を植えて、真淨寺の境内にある
枝垂桜とこの山桜との間を信仰の浄土の地とした、と記されています。
この桜の木が「真淨寺」への参道入り口だったわけです。

正面に「南無妙法蓮華経」と刻まれたこの小さな石塔の側面には「ひした(菱田?)江戸」
の文字が見えますので、道標を兼ねていたようです。

元禄のころにここに植えられたとすれば、この桜は樹齢320年以上ということになります。

「蓮壽山眞淨寺 同村大字澤字寺谷に在り域内千百八十三坪日蓮宗にして釋迦如來を本尊
とし多寶佛を配す開創年月詳ならず寺傳に曰く矢作城の陥るや城主國分大膳太夫大膳世系不詳
走て本寺に入る敵兵窮追して火を放ち堂塔悉く灰燼と為り古記随て烏有に歸せり後ち國分氏
の室蓮壽院之を再興し以て父の冥福を祈り今の山號を付すと寺門に數株の巨杉樹相並べり」
(「千葉縣香取郡誌」 大正10年 P449)
“戦に敗れて死んだ城主の霊を、遺された姫が弔うために建てた寺”としては、東和泉の
「養泉寺」があります。
討死した父と家臣を弔う姫~東和泉の「養泉寺」 ☜ ここをクリック
県道44号線のバイパスができてから、旧道の交通量はめっきり減りました。
そのぶん、静かな山村の空気が「真淨寺」の歴史を包んでいるような気がします。


※ 「蓮寿山真淨寺」 香取市沢1811