青面金剛(しょうめんこんごう)は、青面金剛明王とも呼ばれ、中国の道教思想に由来し、
日本の民間信仰である庚申信仰に結びつきました。
像容は、三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟、棒、法輪、羂索を持ち、足下
に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う姿で現されます。
実際に目にする像は、邪鬼を踏みつけ、六臂(二臂・四臂・八臂の場合もあります)で、
法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多いようです。
彩色される時は、その名の通り青い肌に塗られます。

前回の「首無し地蔵」があった神光寺から、ほんの50メートルほど行くと、道端の小高い場所
に二基の青面金剛像が立っています。


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左側の大きい金剛像は六臂で、下部には猿を配しており、「奉侍諸願成就処」「同行十九人」
と記されています。
享保六年(1721)の紀年銘があります。
前年の享保五年(1720)に江戸で大火があり、それを機に江戸火消しが組織されたり、翌年
の享保七年には小石川養生所が設置されたりした、八代将軍徳川吉宗の時代です。
江戸町奉行の大岡越前守や赤ひげ小川 笙船など、時代劇で多く取り上げられる人物が活躍
していました。
右側の金剛像は四臂で、紀年銘は無く、「長命長運」「区内安全」の文字が刻まれています。

こちらの青面金剛像は六臂のうち、中央で二臂が合掌し、左手上腕には法輪、下腕には弓を
持ち、右手上腕には三叉戟を、下腕には矢を持っています。
足許の両脇に鶏を配し、邪鬼を踏みつけています。


さらに、「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を刻む形で、額には第三の眼があります。
この第三の眼と鼻の周りは無残に削り取られていますが、残された部分から、削られる前は
キリッとした三眼の忿怒相であったことが想像できます。

こちらは比較的新しい時代のものに思われます。
「区内安全」の文字や、「野毛平区 沢田○平 八十七才」などの文字から、明治二十二年の
町村制施行によって、この地区が下埴生郡中郷村野毛平となって以降の建立であろうと推測
することができます。

四臂像で、左手上腕に月輪、下腕には錫杖を持ち、右手上腕には金剛杵を、下腕には羂索
を持っています。
珍しい組み合わせですが、いずれも青面金剛の持物としてたまに見ることがあるものです。
月輪は、庚申講が夜を徹して行われることから、日輪と共に刻まれることがあります(この像
の隣の金剛像には、頭上の左右に日輪・月輪が刻まれています)。
右手上腕は経巻のようにも見えますが、刻まれた紋様から金剛杵であろうと推理しました。
錫杖、羂索は比較的良く見られますが、この四つの組み合わせは見たことがありません。

第三の眼も確認でき、顔面を削られた痕もないことからも、この像は、廃仏毀釈の被害を
受けたと思われる隣の像よりずっと後の時代に建立されたものであることが分かります。
二基の青面金剛の背後には空き地が広がっています。
ここにはかつて「東陽寺」というお寺がありました。

初めて訪ねた4年前には、すでに荒れ果てた寺でした。

(2015年5月 撮影)
「東陽寺」は日蓮宗のお寺で、山号は「妙照山」。
小菅の「妙福寺」の末寺で、創建は永禄九年(1566)になります。
【一ヲ東陽寺ト云フ。位置村の中央ニアリ地坪五百廿坪、日蓮宗妙照山ト号ス。同郡小菅村
妙福寺ノ末寺ナリ。永禄九年丙寅九月廿五日、中道院日善開基創建スル所ナリ。】
(「下総國下埴生郡野毛平村誌」 明治十九年)
永禄三年に織田信長が桶狭間で今川義元を討ち、同四年には上杉・武田の川中島合戦が
繰り広げられ、同八年には「永禄の変」で将軍・足利義輝が暗殺されるなど、血なまぐさい
戦国時代の真っただ中に東陽寺は開山されました。
その、450年もの歴史を有するお寺が、荒れ果てていました。

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そして今、崩れかけていた東陽寺は消えてしまいました。
崩壊の危険があるので、取り壊されたのでしょう。
雑草もあまり生えていないので、つい最近更地にされたようです。

境内の奥の墓地は竹と雑木の中に沈んで行きます。

成田空港の開港はここ野毛平地区の住民の生活を一変させました。
昭和46年に騒音地域となって、集団移転地区に指定され、新たに造成された米塚団地や
近隣地域に多くの人々が移転して行きました。


人々の往来がなくなった山道。
背後にあった450年の歴史あるお寺も消えてしまった山道で、二基の青面金剛は、いま
三つの眼で何を見ているのでしょうか。

「妙照山東陽寺」 成田市野毛平614-2