如意輪観音像の多くは六臂の坐像または半跏像で、六本の手のうちの二本の手に如意
宝珠と法輪とを持っています。右第一手は頬に当てて思惟相を示し、第二手は胸前で如意
宝珠を持ち、第三手は外方に垂らして数珠を持ちます。左第一手は掌を広げて地に触れ、
第二手には蓮の蕾を持ち、第三手は指先で法輪を持ちます。
なお、立像はとても珍しく、福岡県小郡市・如意輪寺の「木造如意輪観音立像」や茨城県
那珂市の「木造如意輪観音立像」などが知られています。
石仏としては、そのほとんどが二臂の半跏像で、右手で思惟の形をとり、左手は左膝に置
いていて、宝珠や法輪などは持っていません。
そして、石造如意輪観音像は、十九夜講の本尊として造立されたものが多いようです。

廃寺「長見寺」跡の如意輪觀音像
印旛郡栄町の利根川べりに、延長二年(924)創建の「一ノ宮神社」があります。

【一之宮神社 祭神 経津主命(ふつぬしのみこと)
本殿・亜鉛板葺流造二.二五坪、拝殿・亜鉛板葺寄棟造九坪
境内神社 浅間神社 境内坪数 九二〇坪 氏子 五五戸
由緒沿革 延長二年九月十九日に奉斎】 (「千葉県神社名鑑」 昭和62年)
実に約1100年もの歴史を有する古社に隣接して、廃寺となった「長見寺」はありました。
その「長見寺跡」に立つスダジイの根元に、この「如意輪観音像」は佇んでいます。

「妙●禪定門霊位」「寛文九巳酉正月廿日」の文字が読めます。
寛文九年は西暦1669年、四代将軍徳川家綱の治世です。
禅定門と刻まれていますから、350年前に亡くなったどなたかの墓石であったのでしょう。


廃寺となった長見寺の跡地には、十数基の石仏や墓石が取り残されています。
「千葉縣印旛郡誌」(大正2年)に、「長見寺」に関する記述がありました。
【矢口村字花輪にあり天台宗にして龍角寺末なり如意輪觀世音にして由緒不詳庫裏間口
八間奥行五間境内一千六十坪官有地第四種あり住職は觀音寺住職は弘海尭潤にして檀徒
五十二人を有し管轄廳まで十一里二十町なり寺院明細帳】
「印旛郡栄町寺院棟札集成」(平成6年)には次のような記述があります。
【長見寺(天台宗) 如意輪観世音 本堂七間×五間半 庫裏八間×五間 由緒不詳。
明治三十九年本堂大破に付き取崩し願い出。現在建物はなく、長見寺は廃寺となっている。】



穏やかな優しい表情です。


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「禪定門」の戒名を持つこの墓石の主は、そこそこの地位にあった人物だったと思われます。
墓石の立っている位置と向きからは、もともとこの場所に葬られたのではなさそうです。
寺が取り壊されたとき、墓石だけが木の根元に移され、時が経ち、木が成長するにつれて、
側面を押されて徐々に傾いてきたのでしょう。


右手を右頬にあて、左手を左膝において、輪王座を組む。
長い、長い時の流れのなかで、静かに物思いにふけっているような、そっと何かに聞き耳を
たてているような・・・。


この如意輪観音像は二年半前に見かけたのですが、特に珍しい像容でもなく、言ってみれば
”ありふれた”石仏なのに、何故か心に残る姿でした。
二年半前の記事 (ここをクリック) → 一ノ宮神社と長見寺跡

「長見寺跡」 印旛郡栄町矢口1
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