
聖観音のように見えますが、実は「馬頭観音」です。
今回は、「気になる石仏シリーズ」の馬頭観音編で、馬に乗った観音様「馬乗り馬頭観音」です。
「馬乗り馬頭観音」は、千葉県の東総地区と上総の木更津周辺地域にのみ見られると言っても
過言ではない、とても珍しい石仏です。(他には、長野県、群馬県をはじめ、9都県に合計30基
ほどが確認されているだけのようです。)



今回は、以前に取材で何回か訪れたことがある、旧山田町(現香取市)の「観音寺」と「円満寺」、
旧小見川町(現香取市)の「血当寺」の3基を紹介します。
馬頭観音については「仏像鑑賞入門」(瓜生 中 著 幻冬舎)に次のように解説されています。
【 サンスクリット語でハヤグリーヴァといい。文字どおり「馬の頭を持つもの」という意味。天馬
のように縦横無尽に駆け巡り、困難を乗り越えて衆生を救済する。】 (P119)
馬頭観音は、観音像に見られる穏やかな表情ではなく、怒りの表情をしているため、「馬頭明王」
と呼ばれることもあります。
また「馬頭」という名前から、民間の信仰では馬の守護仏として祀られることが多く、さらには馬
に限らずあらゆる畜生類を救うとされて、「六観音」では畜生道を化益する観音とされています。
近世になってから、牛に代って馬が人の移動や荷物運びの手段として使われることが多くなる
とともに、馬の事故死も増加してきました。
慣習として地域の役馬を供養するために建てられた馬頭観音塔もあれば、愛馬の死を悲しんで
建立された馬頭観音塔もあります。
急坂の途中にある石塔は、きっと後者のものでしょう。


旧成田街道酒々井町大崎の急坂途中にある馬頭観音


旧水戸街道押畑の山中に建つ馬頭觀音(享和三年)


旧松崎街道観音堂の急坂途中にある観音堂の馬頭観音
これらは、愛馬を失った悲しみと、後悔の気持ちがこもった供養塔なのでしょう。
まずは、2016年5月に紹介したことがある、「観音寺」の「馬乗り馬頭観音」です。

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【 神生、向油田にある。本尊に馬頭観世音菩薩をまつる。下総七牧の一つ、油田牧の内にあり、
馬観音として信仰されてきた。】 (「山田町史」昭和61年 P1345)

本堂に向かって左手に「馬乗り馬頭觀音」があります。


立っている二基は刻まれた文字が読めますが、倒れている二基は枯れ草や土に埋もれ、風化も
進んでいて、「馬頭観世音」の文字のみがかろうじて読めるのみです。

この石仏は風化が余り見られず、刻まれた文字も読むことができます。
観音像の左側には「安永六丁酉」、右側には「六月吉日」と刻まれ、左下に「小見川 弥兵衛
苗谷」、右下に「宮ノ内栄■ 新田」と刻まれています。
安永六年は西暦1777年、243年も前のものです。

右手に三叉、左手に未開の蓮を持ち、馬上に趺坐しています。
普通、頭上には馬の頭があるのですが、この像は宝冠を被っていて、顔つきはとても柔和です。
馬に乗っていなければ「観音菩薩」と見分けがつかないでしょう。



本堂の扉に空いた小さな窓から、御前立ちの「木像馬乗り馬頭観音」が見えますが、馬上で趺坐
する姿は、後ろの厨子内に安置されている本尊と同じ像容と言われています。
そして、この石造馬乗り馬頭観音像も、ほぼ同じ像容に見えます。


隣の倒れかけた小さな石仏には、「元治元甲子十二月」「内山村」と刻まれています。
馬頭観音が馬に跨がっている跨座型です。
元治元年は西暦1864年、徳川家茂の時代で、新撰組の池田屋事件や禁門の変など、幕末の
騒然とした世情でした。


馬頭観音に似合わぬ柔和な表情や、観音を支える馬の表情など、他の馬乗り馬頭観音に比して
丁寧な彫りに思えます(風化が進んでいないせいもあるでしょうが)。
次は鳩山の円満寺の馬乗り馬頭観音です。
「円満寺」については、「山田町史」の以下のように紹介されています。
【 鳩山字イリグチにあり、本尊は阿弥陀如来をまつる。浄土宗に属しているが、現在の堂舎を
解体し境内に青年館を建築して、本尊仏をここに安置している。】 (P1346)


小さな子安観音堂の脇に6基の石仏が無造作に並んでいます。

左奥の1基が「馬乗り馬頭観音」です。

「安永五申七月吉日」「鳩山村中」と刻まれています。
安永五年は西暦1776年、「観音寺」の「馬乗り馬頭観音」の1年前のものです。
馬に跨がる跨座型で、馬の足が長くスッキリとした印象です。

一面二臂で根本馬口印を結んでいます。
ややうつむき加減の表情は、眉がつり上げた忿怒相にも見え、柔和な表情にも見えます。

頭上には宝冠のようなものを被っていますが、もともとは馬頭が彫ってあったものが風化して
しまったのかもしれません。

馬の表情もしっかり彫ってある印象です。


風化とともにウメノキゴケがつき、劣化が進んでいます。
如意輪観音像や青面金剛像など、境内を整理したときに寄せ集めたのでしょうが、もう少し
保護が欲しいところです。
次は、血当寺の「馬乗り馬頭観音」です。
【 東光院血当寺 小見川町下小川に在り、境内七三二・六平方メートル、天台宗東叡山派で
薬師如来を本尊とする。永禄十年(一五六七)成毛宗正父宗親戦死の地に英霊を弔うために
東光院血当寺と称した。間口六間奥行四間半であったが腐朽し、現今これを改造した。】
(「小見川町史通史編」 平成3年 P1146~7)

参道の左側にずらりと石仏が並んでいます。
手前から二基目が「馬乗り馬頭観音」です。

残念ながら全体の3分の1程度がコンクリーで固められ、像容の全体を見ることができません。
跨座型の一面二臂で、頭上に宝冠を被っています。

「廿三□待」(□は夜の異体字)、「安永五丙申吉日」、「小川村」と刻まれています。
安永五年は西暦1776年、円満寺の馬乗り馬頭観音と同じ年、観音寺の1年前です。
旧山田町・旧小見川町近辺の馬乗り馬頭観音は、安永年間に集中的に建立されたようです。


4年の間にウメノキゴケの範囲は広がっています。
古い写真を見ると、この像の馬には四本の足が刻まれている、とても珍しい像容でした。
コンクリートを剥がしての復元は難しいでしょうが、せめて、円満寺の馬乗り馬頭観音同様、
ちょっとした保護活動が欲しいものです。


昨年、一昨年と続いた台風の影響でしょうか、堂宇は傾き、「崩壊危険」の立て札がありました。
東日本大震災以来、どこも文化財の復旧・保護が進んでいないようです。
「観音寺」 香取市神生1473-1
「円満寺」 香取市鳩山502-1
「血当寺」 香取市下小川1584
【 取材後雑感 】
東日本大震災以降、度々襲う自然災害は、貴重な文化財の荒廃を早めています。
それでなくても核家族化や生活様式の変化等から、仏教・神道離れは加速しています。
少々大げさのようですが、今は明治初期の廃仏毀釈の嵐以来の、信仰文化の危機のよう
な気がしています。
何かを信仰することが絶対に必要だとは言いませんが、長い長い年月を経て培われてきた
信仰の文化は、日本人の精神の核となってきたものです。
その信仰の文化がただ消えてゆくのは、とても寂しいことです。
せめて、信仰の対象となってきた文化財だけでも保護してゆく活動が広がって欲しいと思います。
国宝や重要文化財だけで無く、昔の人々が折につけ手を合わせたであろう、路傍の石仏や
草生す石仏、小さな祠に気持ちを向けることは、きっと日本人の精神文化の奥深さ、豊かさ、
大らかさに気付くきっかけになるはずです。
荒廃しているから余計に長い年月を経た「祈り」を感じるのかも知れないのですが、朽ちるのは寂しい限りです。 何とか維持することは出来ないかと思うばかりです。
更新、良かったです!
いつも待っていますよ!
結局、地元の人達の善意に頼るしかないのでしょうか。
このブログの紹介で、名も無い石仏や石造物、祠などに、ちょっとでも
注目してもらえれば、少しずつでも保存・保護の機運が生まれてくるの
では・・・と、ささやかな希望をもってこれからも書いてゆくつもりです。
ところで、成田市松崎に「木のぬくもりカフェ 丘の上珈琲」というお店があり、近くの信号のT字路の突き当りを進んで、すぐ左から上がっていく、土の道があります。
そこを進み、電波塔の右横をさらに進むと、お堂が有るのです。
地元の方の、お堂と思われますが、なにかご存知ないでしょうか。
コメントをありがとうございます。
ご質問のお堂については、申し訳ございませんがすぐに思い当たりません。
もしかしたら、「富宮神社」のことではないでしょうか?
http://narita-kaze.jp/blog-entry-174.html で「富宮神社」を取り上げて
いますので、ご覧になってください。
違うようでしたら、後日あらためて調べさせていただき、ご報告いたします。
もう少し大きいというか、社、といったほうがいいかもしれません。
本当に山の中なので、車では行けない所です。
地元の御祭神などで、触れない方がいいのかもしれません(¯―¯٥)
いつになるか分かりませんが、なるべく早く探してみようと思います。
確認ですが、丘の上カフェのある信号(成田安食バイパス)を、土屋方向から
見ると右側(カフェの反対側)に入れば良いのですか?
ここからもう、歩きになり、しばらく行くと道が分岐し、右に進むと、送電線の鉄塔があります。
その右横をさらに行くと、二股があり、そこも右に行くと、お社があったと記憶しています。
マウンテンバイクで走れそうな山道を探していて、見つけました。
足がお悪いそうですし、山中なので、行かれるのは少し危険かと思います。
車も、T字路からは停めるところがありません。
情報をありがとうございました。
ちょっと現場に行けるかどうか、不安はありますが、私なりの方法で
調べてみようと思います。
久しぶりに好奇心がムクムクと湧いています。
何か分かったらお知らせします。
そこから先は、少し厳しそうな感じでした。
鉄塔の先の分岐は、左に降りると倒木がひどく、田んぼの脇に出るため、右側の道が正解です。
社は、今でもあるとは思いますが…
行かれる際は、どうかお気を付けください。
ありがとうございます。足の調子と相談しながら、近々訪問にチャレンジしてみます。
我慢できずに今日行ってきました。
が・・・、道が草に覆われていて私には進めませんでした。
信号から入って数メートルでギブアップです。
仕方なく、図書館で可能な限り調べましたが、見つかりませんでした。
地図では確かに鉄塔がありますが、その先には何もありません。
一帯をくまなく探しましたが、祠や石碑等のマークもありません。
昔の小字(コアザ)で場所が特定できないか追ってみましたが、現在の
地図と小字を結ぶ資料がありません。
松崎村には38の小字がありましたが、私の知る限りで可能性のない
小字を除くと、山ノ台と白子という小字が有力候補に残りました。
ここには松崎白子遺跡があり、昭和59年に鉄塔建設の際に発掘調査が
行われたという記録があります。山ノ台をキーワードに大正二年の
印旛郡誌、明治十七年の松崎村誌等で調べましたが、近辺に神社や寺、
史跡等は記録されていませんでした。
ただ。このあたりには中世の城があったことが分かっていますので、
何かがあってもおかしくないはずです。
いけまさ様が見られた社を私も是非見たいと思います。
冬になって草が枯れたら、もう一度チャレンジしようと考えています。
以上、とりあえず中間報告ということでご勘弁ください。
見つけたらこのブログにアップしてご報告いたします。
鉄塔までは、メンテナンス用に車が通れる程度だったのですが…
おおよその位置の画像をアップさせていただきます。
https://d.kuku.lu/3f78024dd1
自分も、行けたら行ってみます。
昔からある社ではないのかもしれません。
小屋程度でしたので。
歩く距離は短いですが。
田んぼの中の道を山に突き当たると、土の坂道があります。
ありがとうございます。地図で当りを付けた場所に間違いないようです。
今は私の足では行けませんが、草が枯れたらもう一度チャレンジします。
本日、行って来ました。
草で覆われているのは、初めの数メートルほどでした。
ただ、土が柔らかく、落ち枝等もあり、歩きやすくはありません。
鉄塔までは、軽トラが通れる程度で、轍がありました。
鉄塔のフェンスのすぐ右手に、細い道があります。
そこを入って、すぐに右に折れる道がありますが、折れずに直進します。
軽い下り坂を少し行くと分岐があるので、右手に進みます。
しばらく行くと、赤い鳥居があり、1メーター四方程度のお社があります。
片道、30分程度を見込まれたほうが、良いかもしれません。
行かれる際は、どうぞお気を付けください。
投稿した画像よりも、一つ先の丘の上のようです。
ありがとうございます。細かい案内をいただきましたので、
天候や足の具合をみて近いうちに挑戦してみます。
コメントをありがとうございます。実は石像や墓石などに貼り付く白っぽい苔についてはずっと疑問に思っていたのですが、その正体が何であるか確信が持てないでいます。写真でいろいろ見る限り「ウメノキゴケ」が一番近いようなので、ウメノキゴケと書いていますが、ウメノキゴケには沢山の種類があって、「これだ!」というものにあたったことはありません。
よく見る地衣類の「イシクラゲ」は見て直ぐわかるのですが、私が「ウメノキゴケ」と書いているものには微妙に形状が異なるものが多く、もう少しきちんと観察する必要がありそうですね。今度機会があったら接写してきちんと調べようと考えています。その時は黄田様にご連絡を差し上げたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。