
これが多古町との境の「大栄十余三」にある「明治神宮」です。
明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする、あの東京・代々木の「明治神宮」と同じ社号です。

毎年初詣の人出が日本一で、境内は約21万坪の「本家」(?)とは比較にならない規模と
知名度ですが、間違いなくここは「明治神宮」と呼ばれています。


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社殿には菊の神紋が掲げられています。
どうやら十五弁菊のようです。
明治になって皇室の御紋である菊の紋章は一般には使用することが禁止されていましたが、
明治12年5月の太政官達第23号によって、神殿・仏堂の装飾としての菊紋使用は(皇室の
十六弁以外は)許されるようになりました。
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流れ造りの社殿には目立った装飾はなく、極めて質素な造りです。


境内の一角にある梅鉢紋が付いた「天満天神宮」。
梅鉢紋と言えば、「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」(拾遺和歌集)の
菅原道真公ですが、この祠の側面には「奉納 開拓五十周年 昭和三十五年五月」(1960)と
刻まれています。
ここの字(あざ)の十余三(とよみ)とは、かつての矢作牧であった地域を明治政府が窮民対策
のための開墾事業の対象とし、十三番目に開墾されたことから付けられたものです。
事業は明治初期の頃から行われていましたが、なかなか思うようには進まず、この神社の一帯
の開墾は明治43年(1910)頃に始まったということでしょうか。


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手水盤は昭和九年九月のもので、「奉納 御大典記念」と刻まれています。
この御大典とは、昭和3年(1928)に行われた昭和天皇のご即位を指すものです。
少し離れた場所にあるもう一つの手水盤は年代不詳です。

山あいにわずかに広がる畑の中に参道があり、遠くに鳥居が見えています。

鳥居は痛みが激しく、一部が剥落しています。

鳥居側から「明治神宮」を見ています。
参道と言うより農道の向こうに僅かに社殿が見えます。

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辿り着くまでは、畑や藪の間を抜けて行きます。
地図には載っているような、いないような・・・、道のような、畑のような・・・、進むには結構
気合いが要る道です。


境内には社殿のほかには手水舎と「天満天神宮」の石祠があるだけです。


社殿に神額はなく、鳥居の額束にも「明治神宮」の文字はありません。
でも、ここは間違いなく「明治神宮」です。
成田市の宗教法人名簿や「千葉県神社名鑑」、「全国神社名鍳」のいずれにも記載は無く、
「千葉県香取郡誌」にも名前は見当たりませんが、詳細な地図なら、周辺に何もないような
場所に、小さな⛩の地図記号と「明治神宮」の表示を見つけることができます。
近所の農道を歩いていた92歳だというお婆さんに聞くと、
『ああ、あそこは「明治神宮」って呼ばれているよ。 毎年10月には地区の役員が東京の明治
神宮にお参りしてお札を持ち帰って納めているよ。私らの子供の頃はあそこでよく遊んだもん
もんだ。 今は大栄十余三なんて地名になってしまったけれど、昔は「アザミヶ里」と呼ばれた
良い所だよ。』
とのことでした。
「アザミ」は、草丈50~70センチの、初秋に淡い紅紫色の花を付ける棘のある植物で、漢方
では止血剤として用いられる、どこでも良く見かける野草です。
きっと、この一帯の秋は、アザミが咲き乱れていたのでしょう。

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鬱蒼とした森の中で、忘れられたように佇む「明治神宮」です。
さて、成田にはもう一カ所「明治神宮」があります。


旧大栄町の川上地区にある「明治神宮遙拝所」です。

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県道44号線と79号線が交わる十余三交差点の脇にあります。

平成12年(右)と昭和23年(右)の手水盤。


ここには皇室の「十六弁八重表菊」紋が掲げられています。
数多い菊花紋の中でも、この紋は皇室の他のは東京・九段の「靖国神社」など、ごく一部で
しか使われていません。


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流れ造りの社殿は大きな鞘堂に覆われています。
平成12年に設置された記念碑には、次のように記されています。
『明治神宮遙拝所創設の由来 十余三一区二区両地区の守護神として鎮座される明治神宮
遙拝所は大正十二年宮内省へ再三に亘る請願により許可建設されたものである 請願の内
容を記すれば「当地ハ旧御料地ニシテ皇室トモ御縁故深ク且ツ又牧ノ開墾地ニテ区民一同
崇敬スベキ神祀無之人心離敬ノ傾向有之夫等統一ヲ計ル為居住住民一同熱誠ナル希望ニ
ヨリ不肖等主唱者トナリ神宮遙拝所ヲ建設致シ度ク特別ノ御思召ヲ以テ御許可相成度ク請願
名簿図面添ヘ此ノ段奉願候」 このように熱誠なる請願が認められ大正十三年八月八日官弊
大社明治神宮社務所(第七二三号)により明治神宮遙拝所の建設許可を得て新築された歴史
的にも由緒ある守護神である その後永い間の風雪に耐え遙拝殿の破損も著しく昭和二十五
年二月二十五日新築し改めてこの年に御幣が下付されたのである その年遙拝殿の新築を
記念して四月三日を例祭と定め毎年記念行事として御祭礼が行われている』
ここは「明治神宮」から正式に認められた遙拝所なのです。

この遙拝所の隣にお住まいで、日頃から境内の管理をされている平山 博氏に、大変貴重な
書類を見せていただきました。
明治神宮からの遙拝所建設の許可状(コピー)です。
明治神宮と印刷された用箋に次のように書かれています。
第七二三號
大正十三年八月九日
官弊大社明治神宮社務所
浅 沼 由 松 殿
市川角左衛門 殿
大正十三年八月九日願出ノ明治神宮遙拜
所左記ノ場所ニ建設ノ件當神宮ニ於テハ
何等差支無之候也
記
千葉縣下総牧場駒之頭字夜番第二號地
明治神宮に保管されていた原本は、昭和20年4月の米軍の空襲で焼失しているので、この
副本が残された唯一の証拠となっています。
なお、代々木の「明治神宮」は正式には明治神宫と書きます。
「宮」の字は、うかんむり(宀)の下の「呂」に、二つの口を結ぶ線が入らない「宫」です。


大栄十余三の「明治神宮」には、社号に関する史料は見当たりませんが、代々木の神宮が
造営された頃に、開拓民の心の拠り所として、また皇室への崇敬の念をもって創建された
のだと思います。
遙拝所もまた、住民の心の拠り所と皇室への崇敬の念から創建されたもので、広大な開墾地
に生きる人々の様々な想いが凝縮されているように、私には思われます。

※ 「明治神宮遙拝所」 成田市川上345-588

※ 「明治神宮」 成田市大栄十余三(無番地)
(成田にはここの他に、国道51号線沿いにもう一つ十余三の地名があります。)