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Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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ちょっとしたスポット~駒井野の道祖神と石仏群
成田空港のA滑走路の西側、「さくらの山」近くの森の中にポツンとある、「駒井野の道祖神と
石仏群」を訪ねます。

駒井野道祖神-1

県道44号線の「さくらの山」信号と京成空港線のガード下の間にある脇道を入って、少し進むと、
左手に鳥居と十数基の石造物が見えます。
石の鳥居は、円柱の笠木に角柱の貫が特徴の「靖国鳥居」です。


駒井野道祖神-2
駒井野道祖神-5

正面に石宮の道祖神が鎮座しています。
社号も紀年銘もありませんが、後述の「遷座記念碑」の碑文から、この石宮が「道祖神」である
ことが分かります。


駒井野道祖神-3
****駒井野道祖神-4

側面には龍の彫刻が施されています。


駒井野道祖神-8

道祖神の石宮の後には、風化が進んだ小さな道祖神が置かれています。


駒井野道祖神-30

そして、境内の右端には、嘉永元年(1848)の銘がある「道祖神」があります。
周りには小さな道祖神が二基置かれています。

この数基の道祖神が、もともと駒井野に散在していたもので、中央の石宮はこの地に遷座
したときに建立されたもののようです。


駒井野道祖神-6

道祖神の手前左側には、青面金剛像が立っています。
これは「庚申塔(こうしんとう)」と呼ばれます。
これまで何度か庚申塔について書きましたが、あらためてもう一度まとめておきましょう。

「庚申」とは「干支(えと)」の一つです。
昔の暦や方位に使われていた「干支」とは、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わ
せた60を周期とする数詞です。
十干とは[甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸]、十二支とは[子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・
酉・戌・亥]で、干支の組み合わせ周期は60回になります(10と12の最小公倍数は60)。
つまり、庚申の年は60年に1回、庚申の日は60日に1回周ってきます。

「庚申信仰」は道教の説く「三尸説(さんしせつ)」を起源とする民間信仰です。
人の体内には、生まれたときから上尸、中尸、下尸の三種の三尸虫がいて、庚申の日の夜に
眠っている人の体内から抜け出して、その人の悪行を天帝に告げ口をして寿命を縮めさせる
と言われています。
三尸虫は宿主が死ぬと自由になれるため、常にその短命を願っています。
そのため、庚申の日の夜は身を慎んで眠らないで過ごし、三尸虫が体内から出られないよう
にする、「守庚申」と言う信仰の形が生まれました。
貴族の間に始まったこの信仰が、やがて庶民の間にも広まり、念仏を唱えたり、酒を飲んで
歌い踊る宴会によって眠気を払う「講」の形になりました。
60日に1回、1年に6回ある庚申の日に人々が集まって、三尸の虫が天帝に悪口を告げない
ように夜明かしをする「庚申講」を、三年(十八回)続けると「庚申塔」を建てることができます。

庚申塔には「庚申塔」と文字が刻まれたもの、「青面金剛(王)」の文字、または「青面金剛像」
が刻まれたものの三種類があります。
「青面金剛(しょうめんこんごう)」について、「仏像鑑賞入門」(瓜生 中 著 平成16年 幻冬舎)
には次のように解説しています。
「 一般には「庚申さま」の名で親しまれている。 もともとは悪性の伝染病をはやらせる疫病神
として恐れられていた。 疫病の神にふさわしく、青い肌に蛇を巻きつけ、髑髏の装身具を身に
つけるなど、恐ろしい姿をしている。経典には四臂像が説かれているが、実際に造られるのは
六臂像が多く、また二臂のものもある。 青面金剛が庚申さまと呼ばれるようになったのは、
中国の民間信仰である道教の影響を受けたためである。」
 (P224)

六臂の像容は、法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)等を持つ忿怒相で、邪鬼を踏みつけ、
左右に童子や鶏を刻み、台座に三猿を置いています。
鶏は、鶏が鳴くまで起きていることを表しているとか、十二支の申(さる)の次の酉(とり)の日
になるまで起きていることを表しているとか言われています。
また、三猿は(諸説ありますが)庚申の申にかけて、三尸に“見ざる・言わざる・聞かざる”で
天帝に告げ口をさせないようにするためだと言われています。


駒井野道祖神-31
駒井野道祖神-33
駒井野道祖神-34 


駒井野道祖神-32

寛政十二年(1800)の紀年銘があり、側面には次のような文字が刻まれています。
「西 なりた 北 こまいの」「東 とつこう 南 はたけた」
道標を兼ねていたようですが、「とつこう」は取香、「はたけた」は「畑ケ田」だと思われます。


駒井野道祖神-10
駒井野道祖神-53

道祖神や青面金剛像の左手に、十数基の石造物がまとめられています。
中央の五輪塔には紀年銘がありませんが、道祖神の石宮と同じく、この地に遷座したときに
建立されたもののようです。


駒井野道祖神-11

「馬頭観世音」と刻まれたこの石碑には紀年銘がありません。
これも、この地に遷座したときのものでしょう。


駒井野道祖神-12
駒井野道祖神-35

右は馬頭観音の文字塔、左は馬頭観音の像塔です。
文字塔は昭和22年、像塔には「寛政三辛亥」の紀年銘が刻まれています。
寛政三年は西暦1791年、第十一代将軍・徳川家斉の治世です。

約230年前のものにしては、風化が少なく、冠の馬頭がはっきり分かる珍しい観音像です。


駒井野道祖神-14

五輪塔の左側に並んでいる石造物はいずれも墓石のようです。


駒井野道祖神-38

風化が進んでいますが、「宝永三」と読めます。
宝永三年は西暦1706年、310年も前のものです。


駒井野道祖神-39

こちらも「宝永三戊」と読めます。


駒井野道祖神-40

「・・童子」とあるので、子供の墓石のようです。
「宝曆十庚辰」と刻まれています。
宝暦十年は西暦1760年、第九代将軍徳川家重の治世です。


駒井野道祖神-50

宝暦七年(1757)の墓石。
「・・・定門 ・・・定尼 霊位」と刻まれています。

「成田市史 中世・近世編」中の「近世成田市域の寺院」表によれば、駒井野地区の寺院は
天台宗の「髙福寺」(山之作・円融寺末)と、真言宗の「法蔵寺」(吉岡・大慈恩寺末)の二寺
のみで、高福寺は新駒井野に移転して存続し、法蔵寺は明治初期に廃寺となっています。
状況から考えると、廃寺となった「法蔵寺」にあった墓石ではないでしょうか。


駒井野道祖神-36

五輪塔の右側にも三基の墓石が並んでいます。


駒井野道祖神-51

左は寛政十年(1798)のもので、・・・權律師(ごんのりっし)と読めますので、お坊さんの
墓石です。
「權律師」は僧侶の位(僧階)の最下位の名称です。
ちなみに、僧階は上位から次のようになっています(宗派によって多少の違いがあります)。
【 大僧正・権大僧正・中僧正/僧正・権中僧正・少僧正・権少僧正・大僧都・権大僧都
中僧都/僧都・権中僧都・少僧都・権少僧都・大律師・中律師/律師・権律師 】

右の墓石は享保七年のもので、風化と苔で読みにくくなっていますが、「・・・照誉道光・・」
「・・・開眼道了・・」と読めるような気がします。
享保七年は西暦1722年、八代将軍徳川吉宗の時代です。


駒井野道祖神-52

こちらの石仏は風化と欠損により、年代等は不明ですが、地蔵菩薩であると思われます。


駒井野道祖神-15

五輪塔の後方には「子安地蔵尊」があります。
明治十三年(1880)の建立です。


駒井野道祖神-17
駒井野道祖神-60

50メートル先は空港の滑走路です。


駒井野道祖神-61
******駒井野道祖神-62
***********駒井野道祖神-63
駒井野道祖神-64
******駒井野道祖神-66
***********駒井野道祖神-67

ここはちょうどA滑走路の離陸スタートポイントになるため、次々と一気にエンジンを吹かして
走り始める旅客機が現れます。
障害物の間から見ていると、機体は一瞬で走り去り、轟音だけが襲ってきます。


駒井野道祖神-9

遷座記念碑には次のような言葉が刻まれています。
「遷座記念碑
我等が先祖より、居住の地は昭和四十一年新東京国際空港の用地と決定した これに
伴ない昭和四十八年八月区民の柱の一つとして崇拝している道祖神等をこの地に合祀し
遷座祭を執り行なう ここに記念の碑を建て永く駒井野区民の加護を祈念する」



駒井野道祖神-18
駒井野道祖神-37
駒井野道祖神-16

空港の工事により、駒井野の道端や林の中に散在する道祖神や石仏、墓石等が失われ
ないよう、この地に集めて、離散する住民の心の拠り所としようとしたのでしょう。
しかし、絶え間なく航空機の離着陸の轟音が響くこの地に、人家は消えて、今は訪ねる人
もなさそうです。

過疎化で忘れ去られて草むす石仏や石碑もあれば、やむを得ない事情によって元の土地を
追われて離れた場所に移り、人と引き離されて忘れられて行く石仏や石碑もあります。


駒井野道祖神-0

                 ※ 駒井野道祖神と石仏群  成田市駒井野1393-5




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

史跡・その他 | 20:18:03 | トラックバック(0) | コメント(2)
ちょっとしたスポット~もしかして成田で一番新しい遷座?「押畑浅間神社」
ちょっとしたスポット~「押畑浅間神社」。

押畑浅間-20

国道408号線を、土屋交差点から宝田方面へ向かう左側、京成スカイアクセス線の高架を
くぐって直ぐに、チラリと真新しい鳥居が目に入ります。


押畑浅間-21
押畑浅間-5
押畑浅間-4

大分前になりますが、つくば市で仕事をしていて、毎日この道を往復していたのですが、
その時はこの場所には何もなかったと記憶しています。

1年ほど前、久しぶりにつくばに向かったとき、この神社の存在に気づきました。
新しい鳥居と石宮が、切り開かれた造成地のような場所に建っています。


押畑浅間-8

中央に「浅間神社」、左に「三峰神社」、右に「大山阿夫利神社」が並んでいます。


押畑浅間-9
押畑浅間-10

「浅間神社」の新しい石宮は昭和62年の建立ですが、後方にある古い石宮には「浅間神社遷座
記念の碑」に記されているとおり、「明和七庚寅」と刻まれています。
明和七年は西暦1770年、十代将軍徳川家治の治世でした。
右隣に並んでいる祠の文字はすっかり消えてしまっています。

「成田市史 近代編史料集一」中の「押畑村誌」に、この「浅間神社」が記載されています。

「村ノ南方字浅間山ニアリ。地坪四拾二坪、祭神木花咲耶姫命ヲ祀レリ。祭日三月一日。
七月一日ノ両度トス。創建年月詳ナラズ。」


「浅間神社」は、富士山を信仰対象とした神社で、木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメノミコト)
を祀る神社です。
「あさま」が本来の呼び方のようですが、「せんげん」と呼ばれることのほうが多いようです。
富士山を信仰の対象とすることから、静岡・山梨を中心に関東一円に広がっています。


押畑浅間-11
押畑浅間-30

右側の「大山阿夫利神社」。
手前の新しい石宮(建立年月日は記されていません)の後ろの石柱には、「阿夫利神社」の
社名と建立日の「明治廿九年五月」が刻まれています。

神奈川県伊勢原市にある式内社の「大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)」から分祀
されたもので、祭神は木花咲耶姫命の父である「大山祇大神」です。


押畑浅間-12
押畑浅間-13

左側は「三峰神社」です。
後ろの古い祠には「天保二年十二月吉日」の文字が見えます。
天保二年は西暦1831年、十一代将軍徳川家斉の時代です。

江戸時代に、火難・盗難除けの御利益があるとされる秩父の「三峰神社」を参詣する「三峰講」
が盛んになり、各地に三峰神社の分祀が行われました。
三峰神社の主祭神は伊弉諾尊 (イザナギノミコト)と伊弉册尊 (イザナミノミコト)で、大山祇神
はその子、そして木花咲耶姫はその孫という系譜になります。


押畑浅間-2

鳥居の脇の「浅間神社遷座記念の碑」には、以下のような碑文が綴られています。

「浅間神社は、富士信仰に基づき富士山を見晴るかす地に、火伏せの神としてのご神体を
祀ったものである。押畑浅間神社の創建年代は不明だが、古い石社には明和(一七六四~
一七七二)の年号があるので、江戸時代には既に祀られていたと思われる。押畑地区には
朝宮参りの風習があった。即ち祭礼日の七月一日に、区民は生まれた子の健全な成長を
願って朝この神社に裸足で参詣した。平成四年、境内の一部が道路用地となったので境内
と周辺地の整備を余儀なくされ、ここに合祀されている大山・三峰の二社とともに押畑稲荷
神社境内に移転仮遷座した。この度千葉県を始め関係各位の協力により境内地の整備が
完了したので併せて区民の信仰の証である鳥居を建立し、区の益々の発展と子孫の繁栄
を祈り、浅間・大山・三峰の三社を本社地へ遷座した。ここに関係各位に深謝し碑を建立し、
これを記念するものである。 平成二十五年三月吉日 押畑区 」


突然出現したように見えたのは、4年前の再遷座だったのですね。
もしかしたら、これは成田で一番新しい遷座ではないでしょうか?


押畑稲荷ー53

平成27年7月に押畑稲荷神社を訪れた際、本殿の裏側で見つけた「大山阿夫利神社」と
書かれた木札。
時期的には浅間神社とともに再遷座した痕跡だったのかも知れません。


押畑浅間-6
押畑浅間-7

鳥居から離れてぽつんと一体の石仏があります。
この石仏がなぜここにあるのかは分かりません。
神仏習合の名残か、たまたま路傍の仏をここに移設したのか・・・。

風化で像容が崩れ、何の石仏か判断ができませんが、蓮華座の上に座って左右の手には
何かを持っているようです。
下部中央に「奉納 大乘妙典■部■」とありますので、これは読誦塔です。
右に「天下泰平」、左に「國土安全」と刻み、側面には「享保十四己酉」の文字が残っています。
享保十四年は西暦1729年、八代将軍徳川吉宗の時代です。


押畑浅間-16

神社前の道路工事はまだ完成していません。


押畑浅間-32
押畑浅間-33

工事は空港アクセス線の高架の前で止まっています。
まだまだ時間はかかりそうです。
スカイライナーが空港に向かって走って行きます。
神社が以前この場所にあった時には、想像もできない景色でしょうね。


押畑浅間-15
押畑浅間-14
押畑浅間-19

上空を飛行機が飛んで行きます。
今は周りに何もない寂しい景色ですが、木々が茂って、飛行機を木の間越しに見るようになる
には、どのくらいの年月が必要なのでしょうか。


押畑浅間-0

                       ※ 「押畑浅間神社」  成田市押畑1173-2

 

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寺社 | 09:08:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
ちょっとしたスポット~不思議な光景の「中里道祖神」
今回は、ちょっと変わったスポットを紹介します。

中里道祖神-51

中里の「楽満寺」から七沢の八坂神社方向に抜ける旧道(今は寸断されてほとんど消えて
いますが・・・)に「中里の道祖神」と呼ばれる場所があります。

「道祖神」は、主に昔の村の境界や道の辻、三叉路などに祀られている神で、村の守り神で
あり、子孫繁栄や旅の安全を守ってくれる神様として信仰されていました。
呼び方はいろいろあって、成田近郊ではドウロクジン(道陸神)と呼ばれることが多く、他にも
賽の神または障の神(サイノカミ)と呼ぶ地方もあります。


中里道祖神-52
中里道祖神-61

ここの「道祖神」には、数え切れないほどの小さな祠がうずたかく積まれています。
「道祖神」といえば、道端にポツンと立っているイメージですが、びっくりするような景色です。


中里道祖神-53

鳥居は平成7年に建てられました。


中里道祖神-54

手水盤の願主の数名の名前が読めますが、奉納の年代は読めません。


中里道祖神-55
中里道祖神-56

手水盤の脇に大正十一年(1922)の道標が立っています。
「此方 小野 大和田 滑河」と刻まれた面には、わざわざ「正面」とも刻まれています。
別の面二は、「此方 七澤 名古屋 ■■」「此方 青山 倉水 成井 本大須賀」とあります。

今では目立たない脇道ですが、元々はここが人々の行き交う旧道だったようです。


中里道祖神-57
中里道祖神-58
***********中里道祖神ー3

正面中央に周りのものより大きい、唐屋根に楓の紋が刻まれた祠があります。
明治三十二年(1899)のものです。


中里道祖神-60

中里道祖神-61

おびただしい数の小祠が並んでいる、というよりは積み上がっています。
人通りの無い小道の、それも大木の陰に・・・、この光景は怪しげですらあります。


中里道祖神-62
***********中里道祖神-63
中里道祖神-64 道祖神と刻まれたもの・・
***********中里道祖神-73
中里道祖神-74
 文字は無いが祠の形  中里道祖神-75

中里道祖神-70

お札のような形や、さらに小さな形のものまでが混在しています。


中里道祖神-65
中里道祖神-67

積み上げられた小祠で、さながら塚のようになった裏側も、この景色です。


中里道祖神-66
中里道祖神ー17

大部分は文字も刻まれていないものですが、丁寧に見て行くと、ほんのわずかですが年号が
記されているものがあります。
文化元年、文化四年、文化五年、文化十一年のものを見つけました。
ほとんどが文化年間(1804~1818)のもののようです。


中里道祖神-59

中に一つだけ、奉納された常夜燈が崩れたのでしょうか、中央の祠の脇に置かれていました。

これまでにたくさんの道祖神を見てきましたが、そのどれにも無い、強く訴えかけてくるような、
「道祖神」群です。

松崎街道ー6
幸町の三竹山道祖神(ドウロクジン)
長光寺ー27
東和田の道祖神
幡谷香取-69
幡谷・香取神社脇の道祖神群
諏訪妙見-22
前林・妙見神社前の道祖神
吾妻神社ー20
吾妻・吾妻神社側の道祖神
須崎神社ー28
堀籠・須崎神社の道祖神
新福寺ー47
押畑・新福寺下の道祖神(ドウロクジン)

中里道祖神-68
中里道祖神-69
*****中里道祖神-76
*********中里道祖神-77
************* 中里道祖神-79

道祖神はタブの巨木の根元に積まれています。
このタブの木の推定樹齢は2~300年と言われています。
旧道の三叉路にタブの木が生えた小塚があって、ここに村人が「道祖神」を置き、何かに
つけて皆が小さな祠を奉納して行く内に、タブの木も大木になり、こんな不思議な光景に
なったのでしょう。

この道祖神群について唯一見つけた記録は、「下総町の社寺と石宮」(昭和60年)にある、
次のような記述です。
「道祖神 字原大間戸(一八一) 猿田彦命 足の悪い人が参拝する。また、現在三峰講は
ここを中心に行われる。」

あっさりした記述のため、これが「中里道祖神」のこととは気づきませんでしたが、巻末にある
古い写真は間違いなくこの鳥居とタブの木、そして積み上げられた道祖神群でした。


中里道祖神-81

道祖神に刻まれた年号はほとんど文化年代(1804~1818)ですから、そのころはタブの木
もありふれた大きさの木であったはずです。
初めにここに小さな道祖神を奉納した村人は、200年後のこの景色を想像したでしょうか?


中里道祖神-85

                          ※ 「中里道祖神」 成田市中里181



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史跡・その他 | 07:38:00 | トラックバック(0) | コメント(2)
ちょっとしたスポット~参道を道路に切断された「富宮神社」
松崎郵便局から八生小学校前を抜け、県道18号線(成田安食バイパス)へ向かう道の途中に、
参道を道路に切断された神社があります。

富宮神社ー5
富宮神社ー3
富宮神社ー4

鳥居の前に立つと、20メートルほど先に見えるお社との間を道路が横切っています。
この神社は「富宮神社(とのみやじんじゃ)」で、創建年代、ご祭神、由緒沿革ともに不詳です。
「成田市史」に収録の「松崎村誌」、「千葉縣印旛郡誌」に収録の「八生村誌」にも名前は無く、
「千葉県神社名鑑」(昭和62年 千葉県神社庁)や「全国神社名鑒」(昭和52年 全国神社名鑑
刊行会)等にも記載が無く、もちろん「成田市宗教法人名簿」にも見当たりません。


富宮神社ー1
松崎街道ー52   

鳥居の手前には大師堂があり、大師像の台座には「富宮講中」と刻まれています。
昔、この一帯は「富宮」という小字(こあざ)だったので、この小字名を神社名にしたようです。


富宮神社ー6

鳥居をくぐって道路を渡り、数段の石段を上ると狭い境内に入ります。


富宮神社ー7
松崎街道ー48
********** 富宮神社ー8
富宮神社ー10

お社は大分傷んでいます。
それでも本坪鈴は比較的新しいものに見えますし、鈴紐は最近付け替えたようで(昨年6月に
訪れた時のものより新しくなっています)、お世話をしている方がおられるようです。


松崎街道ー47  昨年6月のお社


富宮神社ー9

お社の下の土留めのように使われている、欠けた手水盤。
半分土に埋まっていますが、かろうじて「文政十■亥二月吉日」と記されているのが見えます。
文政十年は西暦1827年になります。


富宮神社ー12
********** 富宮神社ー13
富宮神社ー14

傍らのお堂は「子安観音堂」です。
お堂の中には「如意輪観音像」系の「子安観音」の石像が安置されています。

石像の側面に「宝暦十二壬午二月吉日」と記されています。
宝暦十二年は西暦1762年、約250年前のことです。


富宮神社ー16
松崎街道ー50

「富宮神社」と「子安観音堂」。
今年3月と昨年6月の景色です。


富宮神社ー15 
   境内から道路を挟んで見る鳥居と大師堂。

富宮神社ー20
   鳥居から道路を挟んで見るお社。

さて、何でこの神社の参道は道路に切断されてしまったのでしょうか?

富宮神社ー19
松崎街道ー46

近所の方にお話を伺うことができました。
昔はここに道路は無く、当然一帯は神社の境内で、鳥居からお社まで参道が続いていました。
近年になって(三代前と仰っていました)二宮神社や来迎寺方面から土屋方面に抜ける道の
必要性が高まり(八生小学校にはバスが行けない状態だったようです)、氏子たちが相談して
道路を通すことを了承しました。
実際に道路が参道を横切る景色を目にすると、やはり納得できない人たちが多く出てきました。
何とか昔の姿を取り戻す手立てはないものかと思案するものの、時間が経つうちに氏子が減り、
相談に集まる氏子は数軒になってしまったそうです。


富宮神社ー17
松崎街道ー54

お社の後方には小高い丘があり、この場所を利用して鳥居等を移したいと、残った氏子の方達
は考えているようですが、権利関係や諸々の問題からなかなか話が進まないようです。


富宮神社ー11

参道を横切る道路は国道409号線や51号線への便が良く、結構交通量があります。
走り抜ける車を見ていると、地域の発展や住民の利便性と、昔から地域に根差した信仰の
場との共存の難しさを見るような気がします。


富宮神社ー21


                        ※ 「富宮神社」 成田市松崎825付近



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ちょっとしたスポット~米野の麻賀多神社
ちょっとしたスポット~米野の麻賀多神社

円應寺ー30

八生村誌には「村社 麻賀多神社」として、次のように記述されています。

「公津新田字宮下ニアリ、稚産霊命ヲ祭ル。由緒詳カナラズ。社殿間口三間、奥行三間、
境内二百五十坪アリ、神官ハ稷山久興ニシテ、氏子十二戸ヲ有ス。又境内ニ二社アリ、
一ヲ疱瘡神社ト稱ス。直日命ヲ祭ル。一ヲ三峰神社ト稱ス。伊邪那岐命ヲル。由緒共ニ
詳カナラズ。」


市内の台方と船形にある「麻賀多神社」は、「延喜式」に記載されている由緒ある神社で、
史書によれば、応神天皇の時代に印波国造の伊都許利命が創始した神社です。
麻賀多神社のホームページによれば、「麻賀多」という珍しい名前の由来は、古来より
この地方が麻の産地であったこと、そしてこの神社を創建した国造・伊都許利命が多氏
一族の出であることから、「麻の国で多氏が賀す神の社」という意味の「麻賀多神社」と
なったとされています。

珍しい名前の麻賀多神社 ☜ ここをクリック
船形の麻賀多神社(奥宮) ☜ ここをクリック


この神社はちょっと分かりにくい場所にあります。

円應寺ー52

赤坂の郵便局(本局)から西口大通りを突っ切り、中央公民館・図書館脇を抜けて中台中学
の前を通る「郵便局通り」に面していますが、通りからは「米野集会所」の建物に遮られて、
植木の間からチラリと見えるだけです。


円應寺ー53

目線より高い位置にありますので、気をつけて見ないと見落とします。


円應寺ー29

米野方面からは急坂を登った場所になり、左手に鳥居が見えます。

成田市の「宗教法人一覧」や、千葉県神社庁の「神社名鑑」、その他の資料にも所在地が
“米野121”となっていますが、地図で調べると神社の位置は中台になります。
「麻賀多神社」の辺りの郵便局通りの西側は、道にへばりつくように僅かな幅の字・中台が
あり、崖のような傾斜地から先は米野の田んぼが広がっています。
資料にある“米野121”は、下の写真の辺りだと思われます。

円應寺ー28


円應寺ー31

「千葉縣印旛郡誌」には、「村社 麻賀多神社」として、次のように記されています。

「公津新田村字宮下にありて稚産靈命を祭る由緒不詳或伝寶永甲申正月の觀請にかかると社殿
間口三間奥行三間境内二百五十坪官有地第一種あり神官は稷山久興にして氏子十二戸を
有し管轄廰まで七里六町四十九間とす按るに此地は昔公津村の一部なりしが稷山の麻賀多神社を奉遷
せしものか
境内二社あり即
一、疱瘡神社 直日命を祭る由緒不詳建物三尺四方あり
二、三峰神社 伊邪那岐命を祭る明治九年六月十五日觀請建物二尺四方あり神社明細帳村誌


伝承にある「寶永甲申正月の觀請」とは、宝永元年(1704)のことですから、この神社は
310年を超える歴史があることになります。
また、「公津村誌」に由緒不詳とあった「三峰神社」は、明治九年(1876)に勧請されたこと
が分かります。
なお、現在の社殿の大きさも書かれているものとは違いますし、「疱瘡神社」、「三峰神社」
ともに今では境内には見当たりません。

※ 稷山の麻賀多神社とは、成田市内には二社ある内の台方の総社を指します(稷山は
昔の”字”です)。


円應寺ー50

境内の奥に九基の祠や石柱が並んでいます。
左から、大正七年(1918)の「浅間神社」、慶応元年(1865)の「馬頭観世音」、明和七年
(1770)の「二十三夜塔」、享保十三年(1728)の「青面金剛」、大正八年(1919)の祠、
安永八年(1779)の祠、文化六年(1809)の祠、年代不詳の祠、年代不詳の「地神碑」。


円應寺ー48

この五角柱は「地神碑」と呼ばれるもので、神々に五穀豊穣を祈願するためのものです。
それぞれの面に、「大己貴命(オオムナチノミコト)、少彦名命(スクナヒコノミコト)、植安媛命
(ハニヤスヒメノミコト)、倉稲神命(ウカノミタマノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)と、
何れも農業に深い関わりを持つ神々が刻まれています。

善勝院ー28  八代の稲荷神社の地神碑


円應寺ー49

この「青面金剛」像は、290年近く経っているとは思えないほど保存状態が良いものです。
「講中拾三人 印旛郡公津新田村」と記されています。
六臂の像で上右手には三叉、下右手には仏具の棒、上左手には法輪、下左手にショケラ
(三尸虫=サンシのムシを象徴する半裸の女人像)を持ち、中央の二臂は合掌して、足許
の左右に鶏、邪鬼を踏みつけ、台座には三猿が配されている、正統な(?)像形です。


円應寺ー55

「二十三夜講中十二人」とあるこの月待塔には、「勢至菩薩」が刻まれています。


円應寺ー34

鰹木は3本、千木は垂直切り

神社名鑑には、
「祭神 稚産霊神(わかむすびのかみ)、本殿・流造〇.二五坪、境内坪数二六〇坪、氏子
一五戸、 宮司 欠員」
と記載されています。
稚産霊神の「ワク」または「ワカ」は若々しいことを表し、「ムスビ」は生成の意味を持つので、
穀物の育成を司る神ということになります。


円應寺ー35
円應寺ー33
円應寺ー51

古い地図で米野の「麻賀多神社」を探してみました。
1967(昭和42年)の手書きの地図(「成田市動態図鑑」)には、「麻賀多神社」は現在の
場所より大分西方に書かれていました。
手書きのため位置関係が曖昧ですが、明らかに違う場所です。
そして、1985(昭和60年)のゼンリン地図には、現在の場所に神社名は無いものの神社
マークが書き込まれ、「成田市動態図鑑」にあった場所には神社は見当たりませんでした。
神社マークの周辺は「造成中」と書かれていて、「郵便局通り」は完成していません。
どうやら、米野にあった「麻賀多神社」は、昭和60年より少し前に、米野から隣の中台へ
移転したようです。

隣接地とは言え、境内にある「米野集会所」とともに、「中台」に鎮座する「稚産霊命」の
居心地は、いかがなものなのでしょうか?


円應寺ー56


                 ※ 米野の「麻賀多神社」  成田市中台4-26



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ちょっとしたスポット~430年以上前の建立「下福田稲荷」
【ちょっとしたスポット】

今回は下福田の山道で偶然見つけた「下福田稲荷神社」です。

下福田稲荷ー25
下福田稲荷ー1

大正二年(1913)に編さんされた「印旛郡誌」中にある「八生村誌」には、村内の神社に
ついてのの記述がありますが、その最後に「其の他の神社」として列記された数社の中に
この「稲荷神社」はありました。

「稲荷神社 下福田村字稲荷原 祭神・保食神 明治二年一一月一日再建 社殿・間口
三尺奥行三尺 境内坪数・五六一 氏子・三九戸」


「成田市史 中世・近世編」にある「成田市域の主な神社表」にも、下福田の「稲荷神社」の
ご祭神は「保食神」とあります。

「保食神(ウケモチノカミ)」は食物の神様で、長沼にある稲荷神社と成毛の稲荷神社が同じ
「保食神」をご祭神としています。


下福田稲荷ー19
下福田稲荷ー5
*********** 下福田稲荷ー6
下福田稲荷ー7
*********** 下福田稲荷ー8

4基の御神燈の奥に流造りの社殿があります。
御神燈はいずれも平成19年の寄進です。


下福田稲荷ー4

この手水盤には「文化十一年甲戌正月吉日」と記されています。
文化十一年は西暦1814年ですから、200年前のものです。

「京屋」の文字が見えます。
その下に刻まれている文字は、「店商賣繁盛」「宰領道中安全」と読めます。
また、「願主 大野太郎左ェ門」とも記されています。
何の商いかは分かりませんが、「京屋」の主人の太郎左ェ門が、商売繁盛と商品の輸送の
安全を祈願して寄進したのでしょうか。


下福田稲荷ー9

平成19年7月に建立の「下福田稲荷神社 由来」の石碑。

『神体は「正一位稲荷大明神」もとは白い木製の狐であったが、戦後紛失し現在は幣束と
なっている。祭神は倉稲魂命(保食神)で由緒は未詳だが、数百年前村人が伊勢参りの
際、外宮の豊受大神宮にて倉稲魂命を参拝し、大神宮の神礼と帰途京都の伏見稲荷で
神体を受け、持ち帰って神社を建立したと伝承される。・・・』


文化二年(1805)、明治二年(1869)と再建が行われ、以降数回の改築を経て、平成
19年の社殿等の改築が行われました。


下福田稲荷ー10
下福田稲荷ー12
下福田稲荷ー21

「千葉県神社名鑑」(千葉県神社庁)には、ご祭神は「豐受姫大神(トヨウケヒメノオオカミ)」
と「倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)」と記載されています。
「印旛郡誌」にある「保食神」と、神社名鑑にある「倉稲魂神」、そして「豊受姫」は、いずれも
穀物・食物の神です。


下福田稲荷ー13
下福田稲荷ー14

社殿の奥にあるこの祠は、何の神様をお祭りしているのかは分かりませんが、比較的
新しいもののようです。


下福田稲荷ー15
下福田稲荷ー22
下福田稲荷ー23

社殿の裏側から境内を見ています。
長い参道があって、その奥に社殿がある狭い境内があります。


下福田稲荷ー24
下福田稲荷ー16
下福田稲荷ー18

こじんまりした境内と細長い参道は、鬱蒼とした鎮守の森に守られています。
昔はこんな風景が日本中のどこにでもあったのでしょう。


下福田稲荷ー17
下福田稲荷ー27

「古老の伝承によれば、伊勢の外宮様より御分霊を奉斎。天正九年兵火のため社宇を
焼失、稲葉藩主の寄進によって再建されたが、慶応年間再び野火により焼失、現在の
社殿は明治二年一一月一日創建された。往古は稲荷原に広大な社地を有した。」


「神社名鑑」には「下福田稲荷神社」についてこのように記されています。
天正九年は西暦1581年、織田信長が破竹の勢いであったころです。
430年以上も前に兵火によって焼失したとすれば、この神社が村人によって建立された
のはそれよりも前ということになります。

この神社は、成田安食バイパスを「房総のむら」に向かって進み、「八生大橋」バス停の
そばの細道を右に少し入ったところにあります。
鳥居が細道からさらに引っ込んだ場所にあり、まわりは鬱蒼とした森ですから、バイパス
からはこの「稲荷神社」は見えません。

目立たない小さな神社ですが、ここには長い歴史が漂っています。


下福田稲荷ー28


                ※ 「下福田稲荷神社」 成田市下福田1520




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寺社 | 09:32:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
琴平神社と道端の六地蔵~佐原街道沿いの松子・馬洗
【ちょっとしたスポット】
旧大栄町の松子・馬洗地区は、大栄支所や公民館などの裏に隠れていますが、
旧佐原街道沿いの歴史ある地域です。

まずは「琴平神社」を訪ねます。

琴平神社ー1

街道に面して建つ、昭和52年に建立の明神鳥居。


琴平神社ー2

鳥居の脇の手水盤(?)。
手造り感満点ですが、水は出ていません。


琴平神社ー3

急な階段は65段あります。


琴平神社ー4

途中に立っているスリムな灯篭は大正十一年(1922)の寄進です。


琴平神社ー5

灯篭の反対側にある「石段勧進寄付者」と刻まれた小さな石碑。
明治二十四年(1891)と記されています。
並んで2基の石碑がありますが、風化で文字等の判別は難しそうです。


琴平神社ー14

身体を横向きにして下りないと転がり落ちそうな急勾配です。


琴平神社ー10

階段の上は20坪ほどの境内ですが、お堂の他には何もありません。
お堂は平成元年に新築されました。


琴平神社ー6

お堂の内部。

この神社に関する情報は今のところ全く見つかりません。
「成田の地名と歴史」(平成23年 成田市発行)には、この神社のある松子には「八幡神社」と
「天満神社」の2社しか記載されていません。
千葉県神社庁の「神社名鑑」には、上記2社の他に「宇迦神社」が掲載されていますが、「琴平
神社」の名前は見当たらず、念のため「金比羅宮」「金毘羅神社」で探してみましたが、やはり
該当する神社はありませんでした。
ゼンリン地図には載っているのですが・・・。
残念ながら現時点では、創建・ご祭神・由緒については不詳と言うことになります。


琴平神社ー8
琴平神社ー9

倒木にハグロトンボが止まっています。(取材は8月上旬でした)
ひらひらと羽根を蝶のように動かして飛ぶこのトンボは、子供のころに田舎の小川で群舞する
姿を見て以来、大好きになりました。
今でもたまに見つけると、懐かしさと、何か幸運が舞い込むような気がして、うれしくなります。


琴平神社ー11
琴平神社ー12
琴平神社ー13

手造りの梯子が裏の斜面に立てかけてあります。
斜面の上には何もありませんが、成田市の大栄支所(旧大栄町役場)や近隣ののどかな
風景が見渡せます。

チラリと公園のような場所が見えたので、ちょっと回り道をしてみます。

琴平神社ー32

国道51号線に面した「旧大栄町役場」、現在の「成田市役所大栄支所」です。

「大栄町史 通史編下巻」に大栄村、そして大栄町役場についての記述があります。

「昭和三十年三月二十三日に両村の議会は合併案を審議、昭栄村議会は満場一致、
大須賀村議会は賛成一五、反対四でそれぞれ議決された。新町の名称は大須賀村の
「大」と昭栄村の「栄」とを併せて大栄町と決定、新庁舎は新町のほぼ中央にあたり、
且つ交通の便利な大須賀川沿岸の大須賀村地先に建設することに決定したが、それ
までの間は昭栄村役場庁舎を新町役場庁舎として使用することになった。」 
(P518)

この新庁舎の場所は伊能2326番地で、昭和46年6月に写真にある現在の庁舎に
移転するまで使われていました。
現在の庁舎から国道51号線を佐原方向に少し進んだ、伊能交差点の手前あたりです。

支所の庁舎は町役場時代のものですが、「大栄公民館」や「保健福祉館大栄分館」
など、新しい立派な建物が集中しています。

琴平神社ー29 学校給食センター
琴平神社ー30  保健福祉館
琴平神社ー31  大栄公民館


琴平神社ー21
琴平神社ー22

支所の裏側に回ると、「松子街区公園」という立派な公園がありました。


琴平神社ー25

左側に見える杜が「琴平神社」ですが、こちら側から行くことはできません。

この辺りにはかつて「馬洗城」があったことが分かっています。
この公園や大栄支所の辺りの地形は、大分開発の手が入っていますが、確かに台地
がせり出した、「城」を築くには適した地形に見えます。

「馬洗城」に関しては「大栄町史 通史編 中世補選」に次のように書かれています。

「大須賀川中流の左岸、松子城跡のある半独立状台地の南端にあった。台地北端に
あった松子城跡fが標高三五メートルほどであるのに対し、こちらは四二メートルほどと
いくぶん高い。台地の南側を半周するように、千葉と佐原・香取を結ぶ古道が巻いて
いる。」
  (P92)

この古道とは、旧佐原街道のことです。
また、発掘調査で出土品が少なかったことから、この城がすぐ近くにあった「松子城」と
一体となって機能する「支城」であったと推測しています。

「本城は大須賀川の渡河点(「馬洗」という字は渡河点を示す)と古道を監視するため
と、国分氏勢力に直接松子城をさらさせないために、外郭に置かれた支城である。その
ため、生活拠点的な性格は薄かったのであろう。」
  (同P94)


琴平神社ー27 公園下の馬洗池
琴平神社ー28

琴平神社ー26

公園の下にある小さな墓地は、
「火葬施設や墓壙、地下式抗、宋銭、宝篋印塔などが出土していることから、城の存在
時期より以前は墓域であったことがわかっている。」  
(前出町史 P94)
とあることから、開発にあたって、昔からあった墓地をまとめたものなのでしょう。

周辺に何か歴史的に興味あるものが無いか探してみました。

琴平神社ー33
琴平神社ー34
琴平神社ー35

公園から神社の方向へ戻る途中に、道端の草むらに隠れた石塔がありました。
苔に覆われ、下部は草が密生していて全体像が見にくい状態です。
正面に地蔵菩薩が彫られていて、その下と左右、裏面に文字が刻まれています。

「大栄町史 通史編中巻」にこの石塔のスケッチがあるので、そこから何とか文字を拾うと、
表面の下部は戒名が、左側面には「東 いのう(伊能) さら(佐原)」とあり、右側面には
「西 きちをか(吉岡)り田(成田)」、裏面には「南 うすくり(臼作) ひとつぼた(一坪田)
 まいやし(前林) 道」と記され、「文政十亥八月」とあります。(太字は変体仮名)
これは道標を兼ねた供養塔のようです。
文政十年は西暦1827年になります。


琴平神社ー15
琴平神社ー17
琴平神社ー18

さらに神社下から「馬洗橋」に向かうと、もう一つの石塔が立っていました。
この石塔も道標を兼ねた供養塔ですが、三面の上部には二体ずつ、計六体の地蔵像
(六地蔵)が刻まれている珍しいもので、裏側には寛政・安永等の年号と複数の戒名
らしきものが記されています。
「願主 宮野藤兵衛」と先ほどの供養塔と同じ願主名が記されています。

三面の下部には、正面に「なりた(成田)・きちおか(吉岡)」、左側面に「うさ(神埼)・
(奈土)・(不明)」、裏面に「いの(伊能)・さわら(佐原)」と刻まれています。

民家の庭に食い込むように建っていて、電柱の陰にもなっているため、注意して見ないと
見落としてしまいそうです。


琴平神社ー19

「六地蔵」から見た「琴平神社」の鳥居です。

ところで、この「六地蔵」を調べていて、突然「琴平神社」の名前が出てきて驚きました。
「大栄消防団第二分団第四班機具庫」を右に見ながら進むと、道は左右に分かれる。
旧道は琴平神社の祀られている高台の下の道を行き、・・・」
 
(「大栄町史 通史編中巻 P476)
私の調べた限りでは、「琴平神社」の名前が出ているのはこれだけです。

大正十年(1921)編さんの「香取郡誌」にも現われず、平成14年に編さんされた「大栄
町史」の神社の項目にも名前が無く、ただ一ヶ所チラッと出ているだけの「琴平神社」。
「六地蔵」ともう一つの道標はここが昔の「佐原街道」であることを示しています。
さらにここには「馬洗城」があったことなどを考えると、松子のこの一帯にはまだまだ知ら
れざる歴史が埋もれているように思われます。

旧佐原街道は「六地蔵」を過ぎ、大須賀川に架かる「馬洗橋」を渡り、伊能の台地上の
「秋葉神社」を通り、「大須賀神社」へと向かっていました。
現在は国道によりこの街道は分断されてしまいましたが、所々には道標や祠が残って
いて、昔の面影を残しているようです。


琴平神社ー36

                     

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寺社 | 08:57:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」
大鷲神社ー1

「大鷲神社」の鳥居は、ちょっと変形ですが、木製でシンプルな八幡鳥居です。


大鷲神社ー2

急な石段の途中に踊り場があり、手水盤や庚申塔があります。


大鷲神社ー3

慶応元年(1865)と記された手水盤。


大鷲神社ー4
大鷲神社ー5
大鷲神社ー6

右側に立つ青面金剛像が刻まれた庚申塔。
天保二年(1831)のもので、踏みつけられている鬼や、下部に並ぶ見ザル・聞かザル・
言ワザルの3匹のサルもはっきりと分かる、保存状態の良い庚申塔です。


大鷲神社ー7
大鷲神社ー10

左側に立つ庚申塔も保存状態が大変良いものですが、台座の大部分が埋まっていて、
建立年代を正確には読み取れません。
何とか寛政五年(1793)と読むことができました。
こちらは金剛の足許の鶏もしっかり残っています。

これは庚申講が、ニワトリの声が聞こえる朝まで、徹夜で念仏等を唱えることからきた、
と言われています。


大鷲神社ー23

この踊り場に新しい祠が置かれていますが、台座にも何も書かれていません。
鰹木は3本、千木は垂直に切られていますので、男神が祀られているようです。


大鷲神社ー12

小さなお社は荒れ果てています。


大鷲神社ー13
***********大鷲神社ー15
大鷲神社ー14
大鷲神社ー20

「成田市史」にはこの神社についての記述は見られません。

千葉県神社庁の「神社名鑑」中には、ご祭神が「天日鷲之命(アメノヒワシノミコト)」であること、
本殿は亜鉛板葺で0.5坪、境内は30坪であること、氏子は20戸であると記載されています。

天岩戸に入られてしまった天照大神を呼び出すため、岩戸の前で神々が踊っていると、奏でた
弦楽器の弦の先に鷲が止まったので、これを吉祥とした神々が楽器を奏でた神を「天日鷲命」
としたとされています。
「天日鷲命」は、一般に紡績や製紙の神様として知られていますが、「お酉様」としても知られ、
開運、殖産、商売繁盛の神様として信仰されています。


大鷲神社ー16
大鷲神社ー21

4基の祠が並んでいます。
右端の祠には「保食命(ウケモチノミコト)」と刻まれています。

「保食命」は食物の神とされ、同じ食物の神である。宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ=
古事記 )や倉稲魂命(ウカノミタマノミコト=日本書紀)と同一視されることがあります。

「天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊
が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から
魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。
月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。
それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。
それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。」(ウィキペディア「保食神」)


「月夜見尊」に殺された「保食神」の頭からは牛や馬が生まれ、体からは稲や麦、大豆、小豆、
粟などの穀物が生まれたことから、食物の神とされました。
さらに「頭から馬」が生まれたことから、「馬頭観音」とも同一視されることがあります。


大鷲神社ー17

境内の奥には荒れた雑木林が続いています。


大鷲神社ー19

眼下に広がる北羽鳥の田園風景。


大鷲神社ー22

狭く急な石段は、枯葉で覆われていて慎重に足を運ばないと滑り落ちそうです。


大鷲神社ー24
大鷲神社ー25

石段の下から見上げる「大鷲神社」の森。
最近の土砂崩れの痕が残っていて、何らかの手当てが必要な状況です。


大鷲神社ー18

大正三年の「千葉縣印旛郡史」に「大鷲神社」について一行だけ記載があるのを見つけました。
無格社であること、「天日鷲之命」が祭神であるとの記述の次に、

「延■元癸丑三月勧請」 (P754)  とありました。(■は印字潰れ)

先に「延」のある年号は、平安時代初期の延暦から始まって、延喜・延長・延久・延応・延慶・
延文・延徳・延宝、江戸時代中期の延享と10回ありますが、それぞれの元年の干支が癸丑
(ミズノトウシ)であるのは延宝元年(1673)だけですので、「大鷲神社」は延宝元年に勧請
された、340年あまりの歴史を有している神社ということになります。
(※ はじめの文章で420年と書きました。計算ミスですので訂正します。)

小さなお社と、祠が4基並ぶだけの境内ですが、酷暑が続く中、ここだけは涼しい風が吹き
抜けていました。


大鷲神社ー27
大鷲神社ー28


                        ※ 「大鷲神社」 成田市北羽鳥1721



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寺社 | 07:48:57 | トラックバック(0) | コメント(6)
ちょっとしたスポット~郷部の「妻恋稲荷神社」
ちょっとしたスポット~郷部の「妻恋稲荷神社」

妻恋稲荷ー1

「妻恋稲荷神社」は郷部大橋から成田市体育館に向かう道筋にあります。


妻恋稲荷ー4
妻恋稲荷ー3

鳥居と社号標は昭和59年に奉納されたものです。
鳥居は柱、笠木、貫の全てが円柱形のシンプルな神明鳥居です。


妻恋稲荷ー2
妻恋稲荷ー5

この「妻恋稲荷神社」については、「成田市宗教法人名簿」にも記載がなく、ネット上の
神社リストにも名前が見つかりません。
試しに「妻恋」を外して「稲荷神社」で調べても、郷部にある神社としては、「埴生神社」と
「土師神社」の二社のみで、「稲荷神社」はありません。

後述のように、この神社の鳥居、社号標、手水盤等に昭和59年の銘が入っています。
この年は道路を挟んで建つ「成田市体育館」が完成し、周辺の運動公園が整備されました。

妻恋稲荷ー13
妻恋稲荷ー16

裏手は小橋川の河川敷とJRの線路で、相当な高低差があり、周りに人家はありません。
この場所にわざわざ新しく神社を造るのは、何となく不自然に思えます。

妻恋稲荷ー12


創建、由来等、何も分からないので、手掛かりを探してみました。
わずかに以下の2ヶ所で郷部の「稲荷神社」についての記述を見つかりました。

「稲荷神社 中央ヨリ未ノ方字加良部ニ有リ、境内百十坪、祭神倉稲魂命。」
 (「成田市史 近代編史料集一」中の明治十七年編「下埴生郡郷部村誌」 P43)

「五穀の神といわれる稲荷神社を祀る村は数多く、八代・飯仲・山口・押畑・下福田・長沼・
成毛・赤荻・西吉倉の九か村が鎮守とし、それ以外に取香・長田・郷部・成田・荒海・成木
新田・寺台など十数か村にも祀られている。」
 (「成田市史 中世・近世編」 P804)

このことから、「郷部村」には「妻恋稲荷神社」は無いが、「稲荷神社」は存在していたことが
分かります。

次に、図書館で閲覧することができる成田市の地図で、一番古い「千葉県成田市動態図鑑」
(昭和42年)を調べてみましたが、郷部地区に稲荷神社は記載されていませでした。
一方、「ゼンリン地図・成田」の一番古い昭和59年版には、「妻恋稲荷」として現在地に記載
がありました。

妻恋稲荷ー10

気になるのは、明治十七年の「郷部村誌」にあった、 「中央ヨリ未ノ方字加良部ニ有リ」
の部分です。
加良部は郷部からは中台を挟んだ西方にあります。
ニュータウンの開発に伴い、この地区一帯が整備された時期に加良部から現在地へ移されて
きたのではないか、と想像しました。
しかし、「郷部村誌」には、村内の「加良部」に神社があると書いています。

成田の字(あざ)を詳しく調べると、次のようなことが分かりました。
現在の「加良部」は昭和46年に、郷部、米野、台方、江弁須、成田、飯田、江弁須のそれぞれ
の一部を統合して作られた字で、地名は郷部の字であった加良部から採用したようです。
明治十七年の時点では、現在の加良部のどこかに「稲荷神社」があり、そこは当時の郷部村
の小字だったということなのではないでしょうか。

そして、こんなことも見つけました。
「成田市の文化財 第34集(平成14年版)」に「消えた小字」の項があり、そこに郷部の消えた
小字として「加良部」の名前が載っていました。
昭和46年に、ニュータウンの区域・字名の変更を行った時のことでした。

五穀豊穣を祈願する稲荷神社は地域に密着した存在ですから、神社があった場所が他の字に
編入されるとなれば、もともとの残った字に移すのが自然です。
昭和46年頃に、郷部の小字・加良部にあった「稲荷神社」が、現在地に移設されたというのが、
私の勝手な推測です。

妻恋稲荷ー11

それでも、“なぜ「妻恋稲荷神社」となったのか”については分かりません。
(推測が的外れで、全く違う事実が見つかるかもしれませんが、その時はお知らせします。)


妻恋稲荷ー7
妻恋稲荷ー6

手水鉢も昭和59年のものです。


妻恋稲荷ー8
妻恋稲荷ー9
妻恋稲荷ー17

キツネの台座にも昭和59年と記されていますが、上に坐るキツネの像はちょっと古そうです。
補修の跡も目立ちますので、このキツネは元の稲荷神社から持ってきたものでしょう。


妻恋稲荷ー14
妻恋稲荷ー19

昭和62年の「千葉県神社名鑑」(千葉県神社庁)に、
「稲荷神社 成田市郷部七九〇 祭神・倉稲魂之命 境内坪数二〇〇坪」
とあるのを見つけました。
地図で調べてもこの地番は出てきませんが、周りの地番からほぼ現在地だと思われます。

さらにネット上の情報に、中台5の3に稲荷神社があるとするリストも見つけました。
中台には神社はありませんが、該当する地番は郷部790との境界線あたりになります。
郷部790も中台5-3も地図上には表示がなく、だいたいこの辺りと推測するだけです。

図書館のレファレンス・サービスでも、この神社に関する疑問は解けませんでした。

とりあえず、「稲荷神社」としては消化不良ながらも推論を立てることができましたが、「妻恋」
については不明のままです。
東京・湯島にある「妻恋稲荷神社」のご祭神は、「弟橘姫命」と「日本武尊」で、「倉稲魂之命」
が合祀されています。
もし、この「妻恋稲荷神社」からの分祀であるとすれば、境内に何か説明があっても良いので
は、と思うのですが・・・。

「妻恋」などとロマンチックな名前が付いている由来を何とか知りたいものです。
何かご存知の方がいらっしゃいましたら、是非ともご一報いただきたいと思います。


妻恋稲荷-17

                        ※ 「妻恋稲荷神社」  成田市郷部790



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寺社 | 07:50:25 | トラックバック(0) | コメント(2)
ちょっとしたスポット~山口の稲荷神社
【ちょっとしたスポット】 

前回訪問した「證明寺」の裏山に「稲荷神社」があります。

山口稲荷ー5

「成田市史近代編史料集一」に収録の「下総國下埴生郡山口村誌」には、この「稲荷神社」に
ついて次のように記しています。

『稲荷神社 字宮田ニアリ。地坪六百八拾坪。宇迦魂神ヲ祭ル。傳者元弘年間千葉貞胤ノ
家臣山田周防ナル者、山城国稲荷ノ四社ヲ勧請シ祭ル。』
『次テ慶長九年郡官天羽氏再ヒ之ヲ建立ス。』  
(P214)

「宇迦魂(ウカノミタマ)」は、古事記では「宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)」、日本書紀では
「倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)」として登場します。
「須佐之男命(スサノオノミコト)」と、「大山津見神(オオヤマツミノカミ)」の娘の「神大市比売
(カムオオイチヒメ)」との間に生まれた神です。
穀物の神で、古くから女神とされてきました。
伏見稲荷大社の主祭神で、お稲荷さんとして広く信仰されています。


山口稲荷ー28
山口稲荷ー29

「稲荷神社」には、「證明寺」への階段下の細い急坂を登ります。
すぐ下に「證明寺」の本堂の屋根が見えています。


山口稲荷ー1
山口稲荷ー2

登り坂の途中には古木、巨木が何本も立っています。


山口稲荷ー3

立派な明神鳥居です。


山口稲荷ー4

風雪に削られた手水盤に刻まれていたはずの文字は、すっかり消えてしまいました。


山口稲荷-6
山口稲荷ー7

この神社は、元弘年間の創設ですから、690年近くの歴史がある神社ということになります。
再建されたという慶長九年(1604)は、豊臣・徳川の決戦が迫っている時でした。

『享保五年(一七二○)の「稲荷社及証明寺縁起」(山口区有文書)では、その後千葉勝胤の
夫人が難産で苦しんでいたとき、同神社のことを聞き勝胤が詣でたところ、夫人の痛みは消え
無事出産できた。深く感激した勝胤は社殿を修造し、かつ神田三○石を寄進したという。』
『だが戦乱によって荒廃し、慶長九年(一六○四)に天羽忠兵衛なる武士が再建した。』
『明治四十二年村内の道祖神社・愛宕神社・大鷲神社などを合祀している。』

(「成田市史 中世・近世編」 P804)

千葉勝胤が寄進した神田は、その後の戦乱の中、幕府に没収されましたが、この一帯の
字(あざ)の宮田(きゅうでん)という名前が、その名残りとなっています。


平成5年には、合祀されている全ての神社の社号標が建立されました。
古い祠が残っているもの、祠の一部が残っているもの、新しい社号標のみのものなど
いろいろですが、木々の間に点在する全ての社号標と祠を見てみましょう。

古峯神社(ヤマトタケルノミコト)   山口稲荷ー8

古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」と書かれます。
その蛮勇ぶりが父の景行天皇から疎まれ、西征に、そして東征へと向かわされ、大和への
帰途に現在の三重県北部で没したと伝えられる、古代史最大の英雄です。

ニュータウンの吾妻にある「吾妻神社」は、ご祭神が「日本武尊」です。
日本武尊と弟橘姫~吾妻神社 ☜ ここをクリック

三峯神社(イザナギノミコト)      山口稲荷ー9

古事記では「伊邪那岐命」、日本書紀では「伊弉諾神」と書かれます。
神世七代の最後に生まれた神で、妻の「伊邪那美命(イザナミノミコト)」とともに多くの神や
国造りを行いました。

多古町の「六所大神」には、「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」と「伊弉冉尊(イザナミノミコト)」
が他の四柱とともに祀られています。
1180年の歴史~六所大神 ☜ ここをクリック

大山阿夫利神社(オオヤマツミノカミ)山口稲荷ー10

古事記では「大山津見神」、日本書紀では「大山祇神」と書かれます。
「伊弉諾尊」と「伊弉冉尊」との間に生まれた神で、山の神とされています。

 不  明 (社号標がありません)  山口稲荷ー11

享保十二年(1727)の紀年銘が読めます。 

雷神社(オオイカヅチノカミ)      山口稲荷ー12

「伊弉冉尊」の死体の頭より生まれた神で、八種の雷神(やくさのいかづちかみ)の一柱。
ひと山越えてJRの線路と小橋川を越えた所に「雷神社(らいじんじゃ)」があります。
1400年前の雷鳴~雷神社 ☜ ここをクリック

愛宕神社(カグツチノミコト)      山口稲荷ー13

古事記では「火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)」または「加具土命(カグツチノミコト)」
と書かれ、日本書紀では「火産霊(ホムスビ)」と書かれます。
「伊弉諾尊」と「伊弉冉尊」との間に生まれた神ですが、火の神であったため、母の
「伊弉冉尊」が出産時に大火傷を負って亡くなってしまいます。
悲しんだ「伊弉諾尊」によって、「加具土命」は十拳剣で殺されてしまいました。
「加具土命」の血からは八柱の神が、死体からも八柱の神が生まれています。

浅間神社(コノハナノサクヤヒメ)   山口稲荷ー14

古事記では「木花之佐久夜毘売」、日本書紀では「木花開耶姫」と書きます。
先ほど見た、大山阿夫利神社の「大山津見神(オオヤマツミノカミ)」の娘で、「天照大神」
(アマテラスオオミカミ)の孫の「邇邇芸命(ニニギノミコト)」の妻です。
全国の多くの浅間神社のご祭神として祀られています。

 不  明 (社号標がありません)   山口稲荷ー15

南無阿弥陀仏・・・と刻まれているようですが、判読が難しい状態です。
元文四年(1739)の記年銘が見えます。
このころは時代劇でお馴染の、八代将軍徳川吉宗と、南町奉行・大岡忠相(越前)が活躍
した時代です。

大鷲神社(ヤマトタケルノミコト)    山口稲荷ー16

栄町にある「大鷲神社(おおわしじんじゃ)」も同じ「日本武尊」をご祭神にしています。

金毘羅神社再建碑 年代不詳     山口稲荷ー17
金毘羅神社(オオクニヌシノミコト)   山口稲荷ー18

「大国主(オオクニヌシ)」は、国津神の代表的な神で、古事記や日本書紀にも記されている
天孫降臨の物語で、天津神に国土を献上したことから、「国譲りの神」とも呼ばれています。
国譲りの際に、大きな宮殿を建てて欲しいと願い出て、出雲大社の祭神となりました。
因幡の白兎の話は良く知られています。

鹿島神社(タケミカヅチノカミ)      山口稲荷ー20

「鹿島神宮」のご祭神として知られています。
剣の神、また雷神でもあり、相撲の元祖ともされています。
古事記では「建御雷之男神」または「建御雷神」と書かれ、日本書紀では「武甕槌」または
「武甕雷男神」と書かれます。
「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」が「加具土命(カグツチノミコト)」の首を切り落とした際に、
剣についた血が岩に飛び散って生まれた三神のうちの一柱です。

香取神社(フツヌシノミコト)        山口稲荷ー21

「経津主神(フツヌシノカミ)」は日本書紀のみに登場し、古事記には登場しません。
「香取神宮」のご祭神として知られています。
利根川を挟んで香取・鹿嶋の両神宮が相対する位置にあるように、「鹿島神宮」の「武甕槌神
(タケミカヅチノカミ)」と対で扱われることが多くあります。

天満宮(スガワラノミチザネ)       山口稲荷ー22

「菅原道真」(845~903)は平安時代の貴族で、学者・詩人・政治家として活躍しました。
宇多天皇に重用され、順調に出世の階段を昇ったものの、讒訴によって大宰府に流され、
不遇のうちに没しましたが、没後天変地異が続発し、道真の祟りだとの噂が広まり、怨念を
鎮めるために天満天神として祀られることになりました。
死後にも正一位・太政大臣の官位を贈られるなど、出世の階段を昇りつめたことや、優れた
学者・詩人であったことから、現在は学問の神様として知られるようになっています。

子安神社(コノハナノサクヤヒメ)     山口稲荷ー23

「木花之佐久夜毘売」は子安神社のご祭神として祀られることも多い神様です。

道祖神社(サルタヒコノミコト)       山口稲荷ー24

古事記では「猿田毘古神」、または「猿田毘古之男神」、日本書紀では「猿田彦命」と書かれます。
天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた「邇邇芸命(ニニギノミコト)」を道案内した国津神です。
中世には庚申信仰や道祖神と結びつき、信仰を集めました。
また、鼻長七咫、背長七尺、目は八咫鏡のようで、顔が鬼灯のように照り輝いているという姿
から、天狗の原型であるとも言われています。
  ※ 「咫(あた)」は手を開いたときの中指の先から親指の先までの長さ。


古い祠の一部が残されていても、傷みが激しく、年号が読めるものはありませんが、
点在するたくさんの祠と社号標を見つけながら境内を歩くのも、けっこう楽しいものです。

「下總國下埴生郡山口村誌」に、「稲荷神社」に接する場所に「穴八幡」があったとの記述
を見つけました。

『穴八幡 宮田ニアリ、稲荷神社ト接地ス。一ノ洞窟アリ、中ニ一個石アリ。文字塗抹シテ
弁識スルニ由ナシ。又骸骨両三本アリ、土人之ヲ穴八幡ト称ス。』

(「成田市史 近世編史料集一 P215)

村人がお堂を建て、近隣の人々が頻繁にお詣りしていたようですが、何故か幕府によって
来詣を禁じられ、洞窟は埋められてしまったようです。


山口稲荷ー26
山口稲荷ー27


この神社が創建された元弘年間(1331~1333)は、元弘の乱によって鎌倉幕府が滅亡
するという激動の時でした。
この神社を創建した「山田周防」の主君・千葉貞胤は、千葉氏第11代の当主で、元弘の乱
では当初鎌倉方に与し、後に新田義貞に与して鎌倉を攻めたり、その後も南北朝を行き来
するなど、綱渡りの処世をした人物です。
そうした貞胤の家臣でありながら、しかも時代の騒乱のさなかに、この稲荷神社を創建した
山田周防という人物は如何なる人物だったのでしょうか?
残念ながら、「山田周防」に関する資料を探し出すことができませんでしたが、とても興味
ある人物なので、いつか彼の痕跡を見つけたいものです。


山口稲荷ー30


                   ※ 「稲荷神社」 成田市山口71


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寺社 | 07:37:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
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