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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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ちょっとしたスポット~もしかして成田で一番新しい遷座?「押畑浅間神社」
ちょっとしたスポット~「押畑浅間神社」。

押畑浅間-20

国道408号線を、土屋交差点から宝田方面へ向かう左側、京成スカイアクセス線の高架を
くぐって直ぐに、チラリと真新しい鳥居が目に入ります。


押畑浅間-21
押畑浅間-5
押畑浅間-4

大分前になりますが、つくば市で仕事をしていて、毎日この道を往復していたのですが、
その時はこの場所には何もなかったと記憶しています。

1年ほど前、久しぶりにつくばに向かったとき、この神社の存在に気づきました。
新しい鳥居と石宮が、切り開かれた造成地のような場所に建っています。


押畑浅間-8

中央に「浅間神社」、左に「三峰神社」、右に「大山阿夫利神社」が並んでいます。


押畑浅間-9
押畑浅間-10

「浅間神社」の新しい石宮は昭和62年の建立ですが、後方にある古い石宮には「浅間神社遷座
記念の碑」に記されているとおり、「明和七庚寅」と刻まれています。
明和七年は西暦1770年、十代将軍徳川家治の治世でした。
右隣に並んでいる祠の文字はすっかり消えてしまっています。

「成田市史 近代編史料集一」中の「押畑村誌」に、この「浅間神社」が記載されています。

「村ノ南方字浅間山ニアリ。地坪四拾二坪、祭神木花咲耶姫命ヲ祀レリ。祭日三月一日。
七月一日ノ両度トス。創建年月詳ナラズ。」


「浅間神社」は、富士山を信仰対象とした神社で、木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメノミコト)
を祀る神社です。
「あさま」が本来の呼び方のようですが、「せんげん」と呼ばれることのほうが多いようです。
富士山を信仰の対象とすることから、静岡・山梨を中心に関東一円に広がっています。


押畑浅間-11
押畑浅間-30

右側の「大山阿夫利神社」。
手前の新しい石宮(建立年月日は記されていません)の後ろの石柱には、「阿夫利神社」の
社名と建立日の「明治廿九年五月」が刻まれています。

神奈川県伊勢原市にある式内社の「大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)」から分祀
されたもので、祭神は木花咲耶姫命の父である「大山祇大神」です。


押畑浅間-12
押畑浅間-13

左側は「三峰神社」です。
後ろの古い祠には「天保二年十二月吉日」の文字が見えます。
天保二年は西暦1831年、十一代将軍徳川家斉の時代です。

江戸時代に、火難・盗難除けの御利益があるとされる秩父の「三峰神社」を参詣する「三峰講」
が盛んになり、各地に三峰神社の分祀が行われました。
三峰神社の主祭神は伊弉諾尊 (イザナギノミコト)と伊弉册尊 (イザナミノミコト)で、大山祇神
はその子、そして木花咲耶姫はその孫という系譜になります。


押畑浅間-2

鳥居の脇の「浅間神社遷座記念の碑」には、以下のような碑文が綴られています。

「浅間神社は、富士信仰に基づき富士山を見晴るかす地に、火伏せの神としてのご神体を
祀ったものである。押畑浅間神社の創建年代は不明だが、古い石社には明和(一七六四~
一七七二)の年号があるので、江戸時代には既に祀られていたと思われる。押畑地区には
朝宮参りの風習があった。即ち祭礼日の七月一日に、区民は生まれた子の健全な成長を
願って朝この神社に裸足で参詣した。平成四年、境内の一部が道路用地となったので境内
と周辺地の整備を余儀なくされ、ここに合祀されている大山・三峰の二社とともに押畑稲荷
神社境内に移転仮遷座した。この度千葉県を始め関係各位の協力により境内地の整備が
完了したので併せて区民の信仰の証である鳥居を建立し、区の益々の発展と子孫の繁栄
を祈り、浅間・大山・三峰の三社を本社地へ遷座した。ここに関係各位に深謝し碑を建立し、
これを記念するものである。 平成二十五年三月吉日 押畑区 」


突然出現したように見えたのは、4年前の再遷座だったのですね。
もしかしたら、これは成田で一番新しい遷座ではないでしょうか?


押畑稲荷ー53

平成27年7月に押畑稲荷神社を訪れた際、本殿の裏側で見つけた「大山阿夫利神社」と
書かれた木札。
時期的には浅間神社とともに再遷座した痕跡だったのかも知れません。


押畑浅間-6
押畑浅間-7

鳥居から離れてぽつんと一体の石仏があります。
この石仏がなぜここにあるのかは分かりません。
神仏習合の名残か、たまたま路傍の仏をここに移設したのか・・・。

風化で像容が崩れ、何の石仏か判断ができませんが、蓮華座の上に座って左右の手には
何かを持っているようです。
下部中央に「奉納 大乘妙典■部■」とありますので、これは読誦塔です。
右に「天下泰平」、左に「國土安全」と刻み、側面には「享保十四己酉」の文字が残っています。
享保十四年は西暦1729年、八代将軍徳川吉宗の時代です。


押畑浅間-16

神社前の道路工事はまだ完成していません。


押畑浅間-32
押畑浅間-33

工事は空港アクセス線の高架の前で止まっています。
まだまだ時間はかかりそうです。
スカイライナーが空港に向かって走って行きます。
神社が以前この場所にあった時には、想像もできない景色でしょうね。


押畑浅間-15
押畑浅間-14
押畑浅間-19

上空を飛行機が飛んで行きます。
今は周りに何もない寂しい景色ですが、木々が茂って、飛行機を木の間越しに見るようになる
には、どのくらいの年月が必要なのでしょうか。


押畑浅間-0

                       ※ 「押畑浅間神社」  成田市押畑1173-2

 

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テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

寺社 | 09:08:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
西国・秩父・坂東の観音霊場をひとまとめ~「安食百観音」

「安食百観音」は、前回紹介した「大乗寺」への参道の入口にあります。

大乗寺-50

観音経では、観音菩薩は衆生救済のために人々の機根に応じた三十三の姿に変身すると
されています。(「機根=きこん」とは、仏の教えを理解したり、修行できる能力のことです。)
この三十三の変化に因んで、各地に三十三ヵ所の霊場を巡礼する風習が生まれました。
その代表的なものが、「西国三十三ヵ所」「秩父三十四ヵ所」「坂東三十三ヵ所」の霊場です。

秩父の三十四番「水潜寺」は西国・秩父・坂東各三十三ヵ所の「結願寺」となっていて、合計
百ヵ所となります。

「夫々の観音霊場を実際に歩いて廻ることは江戸時代の民衆にとっては容易なことでは
なかった。その簡便化として多くの地方に写し巡礼が生まれた。それすら出来ない人々の
ために、百観音すべてを一山一寺の一ヵ所に集め、誰でも簡単に參詣出来るミニチュア
版が考え出された。これが百観音霊場である。」
「安食村とその周辺の村々(現栄町)は古くから観音信仰が盛んな所で、正保四年(1647)
寛政七年(1795)までの間に六観音を初めとし七九体の観音像が方々に祀られていた。」
「寛政十年(1798)に安食村に百観音霊場が建立されたのは、江戸で流行った観音信仰
が地方にまで広がった証しと見られるが、ここには既にその土壌があったのである。」

(「古文書でたどる安食の歴史」(今井康之 著 平成23年 P69~70)


大乗寺-51

正面に立つ寛政十年(1798)の「阿弥陀三尊」。

「阿弥陀三尊(あみださんぞん)」は、阿弥陀如来を中尊として、その左右に左脇侍の観音菩薩
と右脇侍の勢至菩薩を配する仏像安置形式です。
観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」を現す化身、勢至菩薩は「智慧」を現す化身とされています。


大乗寺-53
大乗寺-54
大乗寺-64

中央の阿弥陀三尊を囲むように、西国・秩父・坂東の百体の観音像が並んでいます。


百観音-40

境内の左手にある「弁財天堂」には「寬保元年酉八月」と記されています。
寛保元年は西暦1741年になります。


大乗寺-65

「奉納 明和四丁亥天 大乘妙典 日本回国 信濃善光寺三拾三度」と刻まれた石碑。
明和四年は西暦1767年です。


大乗寺-67

手水鉢は昭和63年のものです。


では、三体ずつ、全ての観音像を見てみましょう。
全て写真左からの解説です。
各観音像の側面には、像の寄進者の名前と、その親族でしょうか、一~三名の戒名と没年
が刻まれています。
風化でその多くが読めなくなっていますが、没年が読めるものは括弧内に示しました。


 西国三十三ヵ所 】

兵庫・大阪・奈良・和歌山・京都・滋賀・岐阜の二府五県に点在する観音霊場で、三十三ヵ所
の霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行です。

百観音-3

一番 「青岸渡寺」  本尊・如意輪観音  和歌山県那智勝浦町
二番 「金剛宝寺」  本尊・十一面観音  和歌山県和歌山市
三番 「粉河寺」    本尊・千手観音    和歌山県紀の川市


百観音-4

四番 「施福寺」   本尊・千手観音  大阪府和泉市
五番 「葛井寺」   本尊・千手観音  大阪府藤井寺市 (寛政四年・1792)
六番 「南法華寺」 本尊・千手観音  奈良県高取町


百観音-5

七番 「龍蓋寺」 本尊・如意輪観音    奈良県明日香村
八番 「長谷寺」 本尊・十一面観音    奈良県桜井市
九番 「興福寺」 本尊・不空羂索観音  奈良県奈良市 (宝暦十四年・1764)


百観音-6

  十番 「三室戸寺」 本尊・千手観音  京都府宇治市
十一番 「上醍醐寺」 本尊・准胝観音  京都府京都市 (天明八年・1788)
十二番 「岩間寺」   本尊・千手観音  滋賀県大津市 (明和三年・1766)


百観音-7

十三番 「石山寺」 本尊・如意輪観音  滋賀県大津市
十四番 「園城寺」 本尊・如意輪観音  滋賀県大津市
十五番 「観音寺」 本尊・十一面観音  京都府京都市 
                          (享保十六年・1731 延享四年・1747)


百観音-8

十六番 「清水寺」    本尊・千手観音   京都府京都市
                          (安永元年・1772 寛政九年・1797)
十七番 「六波羅蜜寺」 本尊・十一面観音 京都府京都市 (寛政三年・1791)
十八番 「頂法寺」    本尊・如意輪観音 京都府京都市
                          (天明七年・1787 寛政八年・1796)


百観音-9

  十九番 「行願寺」 本尊・千手観音  京都府京都市
  二十番 「善峯寺」 本尊・千手観音  京都府京都市
二十一番 「穴太寺」 本尊・聖観音    京都府亀岡市 (天明七年・1787)


百観音-10

二十二番 「総持寺」 本尊・千手観音   大阪府茨木市
              (宝暦十三年・1763 安永六年・1777 寛政二年・1790)
二十三番 「勝尾寺」 本尊・千手観音   大阪府箕面市
二十四番 「中山寺」 本尊・十一面観音 兵庫県宝塚市


百観音-11

二十五番 「清水寺」 本尊・千手観音   兵庫県加東市
二十六番 「一乗寺」 本尊・聖観音    兵庫県加西市
二十七番 「圓教寺」 本尊・如意輪観音 兵庫県姫路市  


百観音-12

二十八番 「成相寺」 本尊・聖観音   京都府宮津市 
                    (宝暦十一年・1761 安永六年・1777)
二十九番 「松尾寺」 本尊・馬頭観音 京都府舞鶴市 
                    (寛保二年・1742 宝暦二年・1752 明和六年・1769)
  三十番 「宝厳寺」 本尊・千手観音 滋賀県長浜市


百観音-13

三十一番 「長命寺」   本尊・千手観音・十一面観音・聖観音 滋賀県近江八幡市
三十二番 「観音正寺」 本尊・千手観音               滋賀県近江八幡市
三十三番 「華厳寺」   本尊・十一面観音             岐阜県揖斐川町


【 秩父三十四ヵ所 】

埼玉県秩父地方の秩父市・横瀬町・小鹿野町・皆野町の一市三町に点在する観音霊場です。
西国三十三ヵ所、坂東三十三ヵ所と併せて日本百観音と言い、秩父三十四番の「水潜寺」を
結願寺(けちがんじ)としています。
結願をした後には、長野の善光寺にお詣りするのが慣例です。

百観音-14

一番 「四萬部寺」 本尊・聖観音  秩父市
二番 「真福寺」   本尊・聖観音  秩父市
三番 「常泉寺」   本尊・聖観音  秩父市 (寛政六年・1794)


百観音-15

四番 「金昌寺」 本尊・十一面観音  秩父市
五番 「語歌堂」 本尊・准胝観音    横瀬町
六番 「卜雲寺」 本尊・聖観音     横瀬町 (安永四年・1775)


百観音-16

七番 「法長寺」 本尊・十一面観音  横瀬町
八番 「西善寺」 本尊・十一面観音  横瀬町
九番 「明智寺」 本尊・如意輪観音  横瀬町


百観音-17

  十番 「大慈寺」 本尊・聖観音     横瀬町
十一番 「常楽寺」 本尊・十一面観音  秩父市
十二番 「野坂寺」 本尊・聖観音     秩父市 (安永四年・1775 天明六年・1786)


百観音-18

十三番 「慈眼寺」 本尊・聖観音     秩父市
十四番 「今宮坊」 本尊・聖観音     秩父市
十五番 「少林寺」 本尊・十一面観音  秩父市


百観音-19

十六番 「西光寺」 本尊・千手観音    秩父市 (宝永四年・1707)
十七番 「定林寺」 本尊・十一面観音  秩父市 (寛政十二年・1800)
十八番 「神門寺」 本尊・聖観音     秩父市


百観音-20

  十九番 「龍石寺」   本尊・千手観音  秩父市
  二十番 「岩之上堂」 本尊・聖観音    秩父市 (安永四年・1707)
二十一番 「観音寺」   本尊・聖観音    秩父市 (天明八年・1788)


百観音-21

二十二番 「童子堂」 本尊・聖観音  秩父市
二十三番 「音楽寺」 本尊・聖観音  秩父市
二十四番 「法泉寺」 本尊・聖観音  秩父市 
                    (明和六年・1769 明和八年・1771 天明六年・1786)


百観音-22

二十五番 「久昌寺」 本尊・聖観音  秩父市
二十六番 「圓融寺」 本尊・聖観音  秩父市
二十七番 「大渕寺」 本尊・聖観音  秩父市


百観音-23

二十八番 「橋立堂」 本尊・馬頭観音   秩父市 (元文五年・1740)
二十九番 「長泉院」 本尊・聖観音     秩父市 (天明八年・1788)
  三十番 「法雲寺」 本尊・如意輪観音  秩父市


百観音-24

三十一番 「観音院」 本尊・聖観音  小鹿野町
三十二番 「法性寺」 本尊・聖観音  小鹿野町 (安永八年・1779 寛政元年・1789)
三十三番 「菊水寺」 本尊・聖観音  秩父市   (宝暦四年・1754 天明四年・1784)


百観音-25

三十四番 「水潜寺」 本尊・千手観音  皆野町  (百観音結願寺)


【 坂東三十三ヵ所 】

神奈川・埼玉・東京・千葉・茨城・群馬・栃木の一都六県に点在する観音霊場。
源頼朝が発願し、源実朝が西国の霊場を模して制定したと伝えられています。

(坂東三十三観音は、西国・秩父の並びとは逆になっているため、写真左の札所番号が
大きくなっています。)

百観音-26

三十三番 「那古寺」 本尊・千手観音    千葉県館山市      
三十二番 「清水寺」 本尊・千手観音    千葉県いすみ市  
三十一番 「笠森寺」 本尊・十一面観音  千葉県長南町
 

百観音-27

  三十番 「高蔵寺」 本尊・聖観音     千葉県木更津市 (元禄四年・1691)
二十九番 「千葉寺」 本尊・十一面観音  千葉県千葉市   (寛政四年・1792)
二十八番 「龍正院」 本尊・十一面観音  千葉県成田市  


百観音-28

二十七番 「圓福寺」 本尊・十一面観音  千葉県銚子市  
                           (宝暦十年・1760 安永七年・1778)
二十六番 「清瀧寺」 本尊・聖観音     茨城県土浦市
二十五番 「大御堂」 本尊・千手観音    茨城県つくば市


百観音-29

二十四番 「楽法寺」 本尊・延命観音      茨城県桜川市 (寛政元年・1789)
二十三番 「正福寺」 本尊・十一面千手観音 茨城県笠間市
二十二番 「佐竹寺」 本尊・十一面観音    茨城県太田市


百観音-30

二十一番 「日輪寺」 本尊・十一面観音  茨城県大子町
  二十番 「西明寺」 本尊・十一面観音  栃木県益子町
  十九番 「大谷寺」 本尊・千手観音    栃木県宇都宮市


百観音-31

十八番 「中禅寺」 本尊・千手観音  栃木県日光市
十七番 「満願寺」 本尊・千手観音  栃木県栃木市
十六番 「水澤寺」 本尊・千手観音  群馬県渋川市


百観音-32

十五番 「長谷寺」 本尊・十一面観音  群馬県高崎市   (寛政四年・1792)
十四番 「弘明寺」 本尊・十一面観音  神奈川県横浜市  (天明四年・1784)
十三番 「浅草寺」 本尊・聖観音     東京都台東区


百観音-33

十二番 「慈恩寺」 本尊・千手観音  埼玉県さいたま市
十一番 「安楽寺」 本尊・聖観音    埼玉県吉見町
  十番 「正法寺」 本尊・千手観音  埼玉県東松山市


百観音-34

九番 「慈光寺」 本尊・十一面千手千眼観音 埼玉県ときがわ町 (宝暦六年・1756)
八番 「星谷寺」 本尊・聖観音          神奈川県座間市
七番 「光明寺」 本尊・聖観音          神奈川県平塚市  
                             (寛政六年・1794 天明七年・1787)


百観音-35

六番 「長谷寺」 本尊・十一面観音  神奈川県厚木市   (天明八年・1788)
五番 「勝福寺」 本尊・十一面観音  神奈川県小田原市
四番 「長谷寺」 本尊・十一面観音  神奈川県鎌倉市


百観音-36

三番 「安養院」 本尊・千手観音    神奈川県鎌倉市
二番 「岩殿寺」 本尊・十一面観音  神奈川県逗子市
一番 「杉本寺」 本尊・十一面観音  神奈川県鎌倉市


百観音の中には、明らかに風化ではない傷跡が残されているものがあります。
各地の寺院の石仏と同様に、ここの観音像も「廃仏毀釈」の嵐に巻き込まれたようです。

百観音-62 西国 四番(施福寺・千手観音)
百観音-63 西国 七番(龍蓋寺・如意輪観音)
百観音-64 西国 十番(三室戸寺・千手観音)
百観音-65 西国十五番(観音寺・十一面観音)
百観音-66 秩父十二番(野坂寺・聖観音)
百観音-67 秩父十七番(定林寺・十一面観音)
百観音-68 秩父二十六番(圓融寺・聖観音)
百観音-69 秩父二十八番(橋立堂・馬頭観音)
百観音-70 坂東三十三番(那古寺・千手観音)
百観音-71 坂東十三番(浅草寺・聖観音)

また、西国三十二番、秩父五番・八番・九番・十一番・十三番、坂東五番・二十二番・二十五番・
二十八番の十体は新しく造られています。
補修が難しかったのかもしれません。
「古文書でたどる安食の歴史」(平成23年)には、観音像の寄進者名が記載されていますが
(P71~74)、秩父十三番を除いて上記九体は(欠)となっていますので、これらはここ数年の
間に新たに安置されたものであることが分かります。


百観音-72

そして、中央の阿弥陀三尊像もその例外ではなく、三体とも首が落とされて補修されています。
削られたり、割られたりした石仏は、その傷口からさらに風化が進んでしまいます。
「廃仏毀釈」という悲しい歴史の一コマは、風化させずにしっかりと検証しておくべきでしょう。


百観音-38

阿弥陀三尊の隣に「西国番外」として、左から花山院・藥師如来(兵庫県三田市)、元慶寺・
藥師如来(京都府京都市)、法起院・徳道上人(奈良県桜井市)が並んでいます。


百観音-41

これは何の碑か分かりません。
「觀■■■ 妙■■■」しか読めません。
紀年銘は文政とあるような気がしますが・・・。


百観音-43

前面の大乗寺参道側にもたくさんの観音像が並んでいます。


百観音-80
大乗寺-66
***********大乗寺-56
百観音-75

「安食百観音霊場」の場所は三方を池に囲まれていて、通称「弁天島」と呼ばれています。


百観音-44
百観音-2    亀ものんびり甲羅干し


百観音-37
百観音-79
百観音-73

約220年前の寛政十年に建立されてから、長い間に石仏は風化し、境内は荒廃していましたが、
昭和60年に整備されて今の姿になりました。
百ヶ所の霊場を一ヶ所にまとめてお詣りできる「安食百観音」。
お気に入りの札所や観音像を決めて、お詣りするのも良いかもしれませんね。


大乗寺-71

                           ※ 「安食百観音」 栄町安食3633(付近)



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史跡・旧跡 | 07:55:24 | トラックバック(0) | コメント(2)
ちょっとしたスポット~参道を道路に切断された「富宮神社」
松崎郵便局から八生小学校前を抜け、県道18号線(成田安食バイパス)へ向かう道の途中に、
参道を道路に切断された神社があります。

富宮神社ー5
富宮神社ー3
富宮神社ー4

鳥居の前に立つと、20メートルほど先に見えるお社との間を道路が横切っています。
この神社は「富宮神社(とのみやじんじゃ)」で、創建年代、ご祭神、由緒沿革ともに不詳です。
「成田市史」に収録の「松崎村誌」、「千葉縣印旛郡誌」に収録の「八生村誌」にも名前は無く、
「千葉県神社名鑑」(昭和62年 千葉県神社庁)や「全国神社名鑒」(昭和52年 全国神社名鑑
刊行会)等にも記載が無く、もちろん「成田市宗教法人名簿」にも見当たりません。


富宮神社ー1
松崎街道ー52   

鳥居の手前には大師堂があり、大師像の台座には「富宮講中」と刻まれています。
昔、この一帯は「富宮」という小字(こあざ)だったので、この小字名を神社名にしたようです。


富宮神社ー6

鳥居をくぐって道路を渡り、数段の石段を上ると狭い境内に入ります。


富宮神社ー7
松崎街道ー48
********** 富宮神社ー8
富宮神社ー10

お社は大分傷んでいます。
それでも本坪鈴は比較的新しいものに見えますし、鈴紐は最近付け替えたようで(昨年6月に
訪れた時のものより新しくなっています)、お世話をしている方がおられるようです。


松崎街道ー47  昨年6月のお社


富宮神社ー9

お社の下の土留めのように使われている、欠けた手水盤。
半分土に埋まっていますが、かろうじて「文政十■亥二月吉日」と記されているのが見えます。
文政十年は西暦1827年になります。


富宮神社ー12
********** 富宮神社ー13
富宮神社ー14

傍らのお堂は「子安観音堂」です。
お堂の中には「如意輪観音像」系の「子安観音」の石像が安置されています。

石像の側面に「宝暦十二壬午二月吉日」と記されています。
宝暦十二年は西暦1762年、約250年前のことです。


富宮神社ー16
松崎街道ー50

「富宮神社」と「子安観音堂」。
今年3月と昨年6月の景色です。


富宮神社ー15 
   境内から道路を挟んで見る鳥居と大師堂。

富宮神社ー20
   鳥居から道路を挟んで見るお社。

さて、何でこの神社の参道は道路に切断されてしまったのでしょうか?

富宮神社ー19
松崎街道ー46

近所の方にお話を伺うことができました。
昔はここに道路は無く、当然一帯は神社の境内で、鳥居からお社まで参道が続いていました。
近年になって(三代前と仰っていました)二宮神社や来迎寺方面から土屋方面に抜ける道の
必要性が高まり(八生小学校にはバスが行けない状態だったようです)、氏子たちが相談して
道路を通すことを了承しました。
実際に道路が参道を横切る景色を目にすると、やはり納得できない人たちが多く出てきました。
何とか昔の姿を取り戻す手立てはないものかと思案するものの、時間が経つうちに氏子が減り、
相談に集まる氏子は数軒になってしまったそうです。


富宮神社ー17
松崎街道ー54

お社の後方には小高い丘があり、この場所を利用して鳥居等を移したいと、残った氏子の方達
は考えているようですが、権利関係や諸々の問題からなかなか話が進まないようです。


富宮神社ー11

参道を横切る道路は国道409号線や51号線への便が良く、結構交通量があります。
走り抜ける車を見ていると、地域の発展や住民の利便性と、昔から地域に根差した信仰の
場との共存の難しさを見るような気がします。


富宮神社ー21


                        ※ 「富宮神社」 成田市松崎825付近



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寺社 | 08:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
成田の「百庚申」~後、桜谷津、西和泉、竜台
前回の竜台の百庚申(ひゃくこうしん)に続いて、今回は市内の「百庚申」をご紹介しましょう。
「百庚申」とは、(「百」という数にはこだわらず)多くの庚申塔が集められた場所を指します。
市内には、西和泉、宝田・桜谷津、宝田・後、竜台の四ヶ所にあります。

百庚申ー38  庚申塔の文字塔
竜台稲荷ー17  青面金剛の文字塔
百庚申ー61   青面金剛像


「庚申塔」や「青面金剛」、そして「庚申信仰」については、これまで何回か触れていますが、
あらためてもう一度紹介しておきましょう。

「庚申信仰」は道教の説く「三尸説(さんしせつ)」を起源とする民間信仰です。
「三尸説」では、庚申の日の夜には、眠っている人の体内から「三尸(さんし)」と呼ばれる虫
が抜け出して、その人の悪行を天帝に告げ口をして寿命を縮めるとされています。
三尸虫は宿主が死ぬと自由になれるため、常にその短命を願っています。
そのため、庚申の日の夜は身を慎んで眠らないで過ごし、三尸虫が体内から出られないよう
にする、「守庚申」と言う信仰の形が生まれました。
貴族の間に始まったこの信仰が、やがて庶民の間にも広まり、念仏を唱えたり、酒を飲んで
歌い踊る宴会によって眠気を払う「講」の形になりました。
庚申塔は、この庚申講を三年間、十八回続けた記念に建立されることが多いとされています。

「庚申」とは「干支(えと)」の一つです。
昔の暦や方位に使われていた「干支」とは、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わ
せた60を周期とする数詞です。
十干とは[甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸]、十二支とは[子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・
酉・戌・亥]で、干支の組み合わせ周期は60回になります(10と12の最小公倍数は60)。
つまり、庚申の年は60年に1回、庚申の日は60日に1回周ってきます。

庚申塔には「庚申塔」と文字が刻まれたもの、「青面金剛(王)」の文字、または「青面金剛像」
が刻まれたものの三種類があります。
「青面金剛(しょうめんこんごう)」について、「仏像鑑賞入門」(瓜生 中 著 平成16年 幻冬舎)
には次のように解説しています。
『 一般には「庚申さま」の名で親しまれている。 もともとは悪性の伝染病をはやらせる疫病神
として恐れられていた。 疫病の神にふさわしく、青い肌に蛇を巻きつけ、髑髏の装身具を身に
つけるなど、恐ろしい姿をしている。経典には四臂像が説かれているが、実際に造られるのは
六臂像が多く、また二臂のものもある。 青面金剛が庚申さまと呼ばれるようになったのは、
中国の民間信仰である道教の影響を受けたためである。』
 (P224)

多く見かける像容は六臂で、法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)等を持つ忿怒相で、邪鬼
を踏みつけ、左右に童子や鶏を刻み、台座に三猿を置いています。
鶏は、鶏が鳴くまで起きていることを表しているとか、十二支の申(さる)の次の酉(とり)の日
になるまで起きていることを表しているとか言われています。
また、三猿は(諸説ありますが)庚申の申にかけて、三尸に“見ざる・言わざる・聞かざる”で
天帝に告げ口をさせないようにするためだと言われています。


四ヶ所のうち、最初に訪ねるのは宝田の後(うしろ)にある「百庚申」です。

百庚申ー46
百庚申ー55

ここは国道408号線に面していますが、庚申塔が道路に背を向けていることと、工場の敷地
に見えることから、見過ごされがちです。


百庚申ー65

正面奥にある「青面金剛像」は合掌する二臂像に見えますが、良く見ると法輪や鉾を持つ
手が線描されていました。
線描された部分はほとんど消えていますが、六臂の青面金剛です。
「安政七庚申六月吉日」と記されています。
安政七年は西暦1860年、大老井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」があった年です。

百庚申ー48

明治二十二年(1889)に建立の「庚申塔」。


百庚申ー49

風化で読みにくいのですが、「文久二壬戌」と記されたものが多いようです。


百庚申ー50

顔が削られたこの「青面金剛像」には、「安■七庚申六月吉日」と、先ほどの青面金剛像と
同じ紀年銘が記されています。


百庚申ー54
百庚申ー51

お堂の中にも「青面金剛像」があります。


百庚申ー52

右上に日を、左上に月を刻み、「明和四丁亥天十一月吉日」と記されています。
明和四年は、今から250年前の西暦1767になります。


百庚申ー63

像は六臂で、二手で合掌し、右上手に鉾、左上手に法輪を、右下手に矢、左下手に弓を持ち、
左右に鶏を置いて邪鬼を踏みつけ、台座に三猿を刻んでいます。


百庚申ー56

庚申塔は二列に並べられ、前列に13基(内、金剛像は1基)、後列に14基(3基)、後部に
像が1基と堂内に像が1基の、合計29基あります。

終日背中を車が行き交う環境では、もう「庚申講」もできませんね。


次は同じ宝田の桜谷津にある「百庚申」です。

百庚申ー41

桜谷津の百庚申は国道408号線から細い道をちょっと入った所にあります。
庚申塔群は道のさらに奥にあり、木々が視界を遮っているため見過ごしてしまいそうです。


百庚申ー42
百庚申ー25

道路際に小さな塚があり、杉の大木の根元にある祠が「百庚申」への目印になります。
祠の屋根は落ちていますが、天明八年(1788)と記されています。


百庚申ー30

小塚の陰にお堂と石仏があります。


百庚申ー26**百庚申ー27

長い間風雨に晒されていたのでしょうか、薄暗いお堂の中の石仏は判別ができません。
真ん中から折れたようで、補修痕が見えます。


百庚申ー28

この石仏は年代不詳ですが、「十五夜講」の文字が読めますので、「大日如来」のようです。
よく見る「大日如来」は装身具を付け、智剣印を結ぶ姿ですが、この像は装身具を付けず、
法界定印を結んでいる胎藏界の「大日如来」と思われます。
左側面には「南 なりた道」と記されています。


百庚申ー29

お堂の裏でヤツデに覆われている石碑は、「奉読誦普門品一千巻供養塔」と刻まれている
明治三十三年(1900)建立の「讀誦塔」です。


百庚申ー31

桜谷津の百庚申の全景ですが、正面の庚申塚は垂れ下がった木の枝で見えません。


百庚申ー32
百庚申ー33
********** 百庚申ー34

ここの庚申塔は見たことのない形をしています。
直方体の石を縦線で七分割し、それぞれに「庚申塔」と刻んでいます。
これが左右に5基ずつ、計10基が並んでいます。


百庚申ー35

正面にある「庚申塚」。
中央上部に明和元年(1764)の「青面金剛像」を置き、その周辺を「庚申塔」や「青面金剛王」
と刻んだ塔が囲んでいます。


百庚申ー36
********** 百庚申ー37
百庚申ー38
********** 百庚申ー39

ここにも七分割型の庚申塔があり、分割されたものを一つ一つ数えれば、塚に建つ庚申塔
を加えて、ほぼ「百庚申」になります。

訪れる人も無く、木々に陽を遮られて塔は苔蒸しています。


次は西和泉の「百庚申」です。

百庚申ー19
百庚申ー2

これらの庚申塔は、かつて野毛平との村境にありましたが、道路整備に伴ってここに移設
されたものです。


百庚申ー3
百庚申ー4

二列の庚申塔のほとんどは小型の文字塔ですが、良く見ると「庚申塔」ではなく、「孝心塔」と
刻まれたものが五基、「庚心塔」と刻まれたものが十基あります。


百庚申ー8

普通に「庚申塔」と刻まれたものは三基あり、後列には「青面金剛」と刻まれたものが二基、
そして「青面金剛像」が五基となっています。

ここの「百庚申」には、合計25基の庚申塔があります。


百庚申ー5
百庚申ー23
********** 百庚申ー6
百庚申ー22

「青面金剛像」はいずれも六臂で邪鬼を踏みつけていますが、三猿はありません。
移設した時に台座部分が失われてしまったのでしょうか?
五基の金剛像は、いずれも上部に日月を配し、剣・弓・矢・法輪・鉾・ショケラを持っています
が、表情は微妙に違っています。


百庚申ー10

不思議なことにここにある庚申塔には紀年銘がありません。
ただ、建立した人の名前はほとんどのものに記されていますのて、“その名前から推測すると
江戸時代後期のものだろう”と標柱には書かれています。


百庚申ー11
百庚申ー12

「奉讀誦普門品一万巻稱號四百万遍供養塔」と刻まれている「讀誦塔」。
脇に「正面ハ たこ 八日いちば」とあり、右側面には「此方 助崎 神崎道」、左側面には
「此方 芦田 滑川道」とあって、裏面には「享和三癸亥六月吉日 総州埴生郡西和泉村」と
記されています。(州は異体字)
享和三年は西暦1803年になります。
道標を兼ねた讀誦塔ですが、これも移設されたもののようで、方角が合っていません。


百庚申ー18
百庚申ー15
百庚申ー16

百庚申の後ろに鳥居があり、奥に「香取大神」と刻まれた石碑と、「古老傳曰往昔經津主神之
東征~」で始まる難しい旧漢字がビッシリの由緒らしき石碑が並んでいます。
香取大神の碑は明治二年(1869)、由緒の石碑には嘉永七年(1854)と記されています。


百庚申ー17 

明治17年(1884)の祠と、年代不詳の石碑。
石碑は風化で何も読めません。


百庚申ー24
百庚申ー20
********** 百庚申ー62

「百庚申」のすぐ後ろは「総成カントリークラブ」のティーグラウンドです。
庚申塔群の中を、ティーショットの音が響く・・・ちょっと変わった風景です。


そして最後は竜台の「百庚申」です。
ここは前回の『竜台の「おはつ稲荷」と「百庚申」』で紹介しました。

竜台稲荷ー22

ここは宝田の後や桜谷津、西和泉の「百庚申」とは違い、まさに百基の庚申塔が並んでいます。


竜台稲荷ー11
********** 竜台稲荷ー21

整然と並んだ庚申塔は大小の文字塔と像塔が混在し、文字塔85基、像塔15基の構成です。


竜台稲荷ー17

「青面金剛尊」の文字が深く刻まれたこの庚申塔は寛政十二年(1800)のもので、百基の
中で一番古いものです。


竜台稲荷ー31   天保九年(1838)
竜台稲荷ー34    年代不詳
竜台稲荷ー20   安政六年(1859)


竜台稲荷ー18
竜台稲荷ー25

真ん中の「青面金剛」と刻まれた庚申塔の台座には、御神楽を舞う三猿が彫られています。
信仰も何も笑い飛ばす、江戸時代の庶民の柔軟なユーモアを垣間見る気がします。

「おはつ稲荷」と御神楽を踊る猿がいる「百庚申」(竜台) ☜ ここをクリック


百庚申ー55    宝田・後
   百庚申ー57
百庚申ー42    宝田・桜谷津
   百庚申ー58
百庚申ー24    西和泉
   百庚申ー59
竜台稲荷ー41     竜台
   竜台稲荷ー27
                                  

後の百庚申は国道べりに背を向けて、桜谷津は細道の奥、西和泉はゴルフ場の脇、竜台は
路地の突き当たりと、どこもちょっと見つけにくいところにありますが、孝心や庚心、御神楽猿
や様々な像容の金剛など、じっくり見ると発見の多い「百庚申」です。



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ちょっとしたスポット~430年以上前の建立「下福田稲荷」
【ちょっとしたスポット】

今回は下福田の山道で偶然見つけた「下福田稲荷神社」です。

下福田稲荷ー25
下福田稲荷ー1

大正二年(1913)に編さんされた「印旛郡誌」中にある「八生村誌」には、村内の神社に
ついてのの記述がありますが、その最後に「其の他の神社」として列記された数社の中に
この「稲荷神社」はありました。

「稲荷神社 下福田村字稲荷原 祭神・保食神 明治二年一一月一日再建 社殿・間口
三尺奥行三尺 境内坪数・五六一 氏子・三九戸」


「成田市史 中世・近世編」にある「成田市域の主な神社表」にも、下福田の「稲荷神社」の
ご祭神は「保食神」とあります。

「保食神(ウケモチノカミ)」は食物の神様で、長沼にある稲荷神社と成毛の稲荷神社が同じ
「保食神」をご祭神としています。


下福田稲荷ー19
下福田稲荷ー5
*********** 下福田稲荷ー6
下福田稲荷ー7
*********** 下福田稲荷ー8

4基の御神燈の奥に流造りの社殿があります。
御神燈はいずれも平成19年の寄進です。


下福田稲荷ー4

この手水盤には「文化十一年甲戌正月吉日」と記されています。
文化十一年は西暦1814年ですから、200年前のものです。

「京屋」の文字が見えます。
その下に刻まれている文字は、「店商賣繁盛」「宰領道中安全」と読めます。
また、「願主 大野太郎左ェ門」とも記されています。
何の商いかは分かりませんが、「京屋」の主人の太郎左ェ門が、商売繁盛と商品の輸送の
安全を祈願して寄進したのでしょうか。


下福田稲荷ー9

平成19年7月に建立の「下福田稲荷神社 由来」の石碑。

『神体は「正一位稲荷大明神」もとは白い木製の狐であったが、戦後紛失し現在は幣束と
なっている。祭神は倉稲魂命(保食神)で由緒は未詳だが、数百年前村人が伊勢参りの
際、外宮の豊受大神宮にて倉稲魂命を参拝し、大神宮の神礼と帰途京都の伏見稲荷で
神体を受け、持ち帰って神社を建立したと伝承される。・・・』


文化二年(1805)、明治二年(1869)と再建が行われ、以降数回の改築を経て、平成
19年の社殿等の改築が行われました。


下福田稲荷ー10
下福田稲荷ー12
下福田稲荷ー21

「千葉県神社名鑑」(千葉県神社庁)には、ご祭神は「豐受姫大神(トヨウケヒメノオオカミ)」
と「倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)」と記載されています。
「印旛郡誌」にある「保食神」と、神社名鑑にある「倉稲魂神」、そして「豊受姫」は、いずれも
穀物・食物の神です。


下福田稲荷ー13
下福田稲荷ー14

社殿の奥にあるこの祠は、何の神様をお祭りしているのかは分かりませんが、比較的
新しいもののようです。


下福田稲荷ー15
下福田稲荷ー22
下福田稲荷ー23

社殿の裏側から境内を見ています。
長い参道があって、その奥に社殿がある狭い境内があります。


下福田稲荷ー24
下福田稲荷ー16
下福田稲荷ー18

こじんまりした境内と細長い参道は、鬱蒼とした鎮守の森に守られています。
昔はこんな風景が日本中のどこにでもあったのでしょう。


下福田稲荷ー17
下福田稲荷ー27

「古老の伝承によれば、伊勢の外宮様より御分霊を奉斎。天正九年兵火のため社宇を
焼失、稲葉藩主の寄進によって再建されたが、慶応年間再び野火により焼失、現在の
社殿は明治二年一一月一日創建された。往古は稲荷原に広大な社地を有した。」


「神社名鑑」には「下福田稲荷神社」についてこのように記されています。
天正九年は西暦1581年、織田信長が破竹の勢いであったころです。
430年以上も前に兵火によって焼失したとすれば、この神社が村人によって建立された
のはそれよりも前ということになります。

この神社は、成田安食バイパスを「房総のむら」に向かって進み、「八生大橋」バス停の
そばの細道を右に少し入ったところにあります。
鳥居が細道からさらに引っ込んだ場所にあり、まわりは鬱蒼とした森ですから、バイパス
からはこの「稲荷神社」は見えません。

目立たない小さな神社ですが、ここには長い歴史が漂っています。


下福田稲荷ー28


                ※ 「下福田稲荷神社」 成田市下福田1520




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寺社 | 09:32:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
琴平神社と道端の六地蔵~佐原街道沿いの松子・馬洗
【ちょっとしたスポット】
旧大栄町の松子・馬洗地区は、大栄支所や公民館などの裏に隠れていますが、
旧佐原街道沿いの歴史ある地域です。

まずは「琴平神社」を訪ねます。

琴平神社ー1

街道に面して建つ、昭和52年に建立の明神鳥居。


琴平神社ー2

鳥居の脇の手水盤(?)。
手造り感満点ですが、水は出ていません。


琴平神社ー3

急な階段は65段あります。


琴平神社ー4

途中に立っているスリムな灯篭は大正十一年(1922)の寄進です。


琴平神社ー5

灯篭の反対側にある「石段勧進寄付者」と刻まれた小さな石碑。
明治二十四年(1891)と記されています。
並んで2基の石碑がありますが、風化で文字等の判別は難しそうです。


琴平神社ー14

身体を横向きにして下りないと転がり落ちそうな急勾配です。


琴平神社ー10

階段の上は20坪ほどの境内ですが、お堂の他には何もありません。
お堂は平成元年に新築されました。


琴平神社ー6

お堂の内部。

この神社に関する情報は今のところ全く見つかりません。
「成田の地名と歴史」(平成23年 成田市発行)には、この神社のある松子には「八幡神社」と
「天満神社」の2社しか記載されていません。
千葉県神社庁の「神社名鑑」には、上記2社の他に「宇迦神社」が掲載されていますが、「琴平
神社」の名前は見当たらず、念のため「金比羅宮」「金毘羅神社」で探してみましたが、やはり
該当する神社はありませんでした。
ゼンリン地図には載っているのですが・・・。
残念ながら現時点では、創建・ご祭神・由緒については不詳と言うことになります。


琴平神社ー8
琴平神社ー9

倒木にハグロトンボが止まっています。(取材は8月上旬でした)
ひらひらと羽根を蝶のように動かして飛ぶこのトンボは、子供のころに田舎の小川で群舞する
姿を見て以来、大好きになりました。
今でもたまに見つけると、懐かしさと、何か幸運が舞い込むような気がして、うれしくなります。


琴平神社ー11
琴平神社ー12
琴平神社ー13

手造りの梯子が裏の斜面に立てかけてあります。
斜面の上には何もありませんが、成田市の大栄支所(旧大栄町役場)や近隣ののどかな
風景が見渡せます。

チラリと公園のような場所が見えたので、ちょっと回り道をしてみます。

琴平神社ー32

国道51号線に面した「旧大栄町役場」、現在の「成田市役所大栄支所」です。

「大栄町史 通史編下巻」に大栄村、そして大栄町役場についての記述があります。

「昭和三十年三月二十三日に両村の議会は合併案を審議、昭栄村議会は満場一致、
大須賀村議会は賛成一五、反対四でそれぞれ議決された。新町の名称は大須賀村の
「大」と昭栄村の「栄」とを併せて大栄町と決定、新庁舎は新町のほぼ中央にあたり、
且つ交通の便利な大須賀川沿岸の大須賀村地先に建設することに決定したが、それ
までの間は昭栄村役場庁舎を新町役場庁舎として使用することになった。」 
(P518)

この新庁舎の場所は伊能2326番地で、昭和46年6月に写真にある現在の庁舎に
移転するまで使われていました。
現在の庁舎から国道51号線を佐原方向に少し進んだ、伊能交差点の手前あたりです。

支所の庁舎は町役場時代のものですが、「大栄公民館」や「保健福祉館大栄分館」
など、新しい立派な建物が集中しています。

琴平神社ー29 学校給食センター
琴平神社ー30  保健福祉館
琴平神社ー31  大栄公民館


琴平神社ー21
琴平神社ー22

支所の裏側に回ると、「松子街区公園」という立派な公園がありました。


琴平神社ー25

左側に見える杜が「琴平神社」ですが、こちら側から行くことはできません。

この辺りにはかつて「馬洗城」があったことが分かっています。
この公園や大栄支所の辺りの地形は、大分開発の手が入っていますが、確かに台地
がせり出した、「城」を築くには適した地形に見えます。

「馬洗城」に関しては「大栄町史 通史編 中世補選」に次のように書かれています。

「大須賀川中流の左岸、松子城跡のある半独立状台地の南端にあった。台地北端に
あった松子城跡fが標高三五メートルほどであるのに対し、こちらは四二メートルほどと
いくぶん高い。台地の南側を半周するように、千葉と佐原・香取を結ぶ古道が巻いて
いる。」
  (P92)

この古道とは、旧佐原街道のことです。
また、発掘調査で出土品が少なかったことから、この城がすぐ近くにあった「松子城」と
一体となって機能する「支城」であったと推測しています。

「本城は大須賀川の渡河点(「馬洗」という字は渡河点を示す)と古道を監視するため
と、国分氏勢力に直接松子城をさらさせないために、外郭に置かれた支城である。その
ため、生活拠点的な性格は薄かったのであろう。」
  (同P94)


琴平神社ー27 公園下の馬洗池
琴平神社ー28

琴平神社ー26

公園の下にある小さな墓地は、
「火葬施設や墓壙、地下式抗、宋銭、宝篋印塔などが出土していることから、城の存在
時期より以前は墓域であったことがわかっている。」  
(前出町史 P94)
とあることから、開発にあたって、昔からあった墓地をまとめたものなのでしょう。

周辺に何か歴史的に興味あるものが無いか探してみました。

琴平神社ー33
琴平神社ー34
琴平神社ー35

公園から神社の方向へ戻る途中に、道端の草むらに隠れた石塔がありました。
苔に覆われ、下部は草が密生していて全体像が見にくい状態です。
正面に地蔵菩薩が彫られていて、その下と左右、裏面に文字が刻まれています。

「大栄町史 通史編中巻」にこの石塔のスケッチがあるので、そこから何とか文字を拾うと、
表面の下部は戒名が、左側面には「東 いのう(伊能) さら(佐原)」とあり、右側面には
「西 きちをか(吉岡)り田(成田)」、裏面には「南 うすくり(臼作) ひとつぼた(一坪田)
 まいやし(前林) 道」と記され、「文政十亥八月」とあります。(太字は変体仮名)
これは道標を兼ねた供養塔のようです。
文政十年は西暦1827年になります。


琴平神社ー15
琴平神社ー17
琴平神社ー18

さらに神社下から「馬洗橋」に向かうと、もう一つの石塔が立っていました。
この石塔も道標を兼ねた供養塔ですが、三面の上部には二体ずつ、計六体の地蔵像
(六地蔵)が刻まれている珍しいもので、裏側には寛政・安永等の年号と複数の戒名
らしきものが記されています。
「願主 宮野藤兵衛」と先ほどの供養塔と同じ願主名が記されています。

三面の下部には、正面に「なりた(成田)・きちおか(吉岡)」、左側面に「うさ(神埼)・
(奈土)・(不明)」、裏面に「いの(伊能)・さわら(佐原)」と刻まれています。

民家の庭に食い込むように建っていて、電柱の陰にもなっているため、注意して見ないと
見落としてしまいそうです。


琴平神社ー19

「六地蔵」から見た「琴平神社」の鳥居です。

ところで、この「六地蔵」を調べていて、突然「琴平神社」の名前が出てきて驚きました。
「大栄消防団第二分団第四班機具庫」を右に見ながら進むと、道は左右に分かれる。
旧道は琴平神社の祀られている高台の下の道を行き、・・・」
 
(「大栄町史 通史編中巻 P476)
私の調べた限りでは、「琴平神社」の名前が出ているのはこれだけです。

大正十年(1921)編さんの「香取郡誌」にも現われず、平成14年に編さんされた「大栄
町史」の神社の項目にも名前が無く、ただ一ヶ所チラッと出ているだけの「琴平神社」。
「六地蔵」ともう一つの道標はここが昔の「佐原街道」であることを示しています。
さらにここには「馬洗城」があったことなどを考えると、松子のこの一帯にはまだまだ知ら
れざる歴史が埋もれているように思われます。

旧佐原街道は「六地蔵」を過ぎ、大須賀川に架かる「馬洗橋」を渡り、伊能の台地上の
「秋葉神社」を通り、「大須賀神社」へと向かっていました。
現在は国道によりこの街道は分断されてしまいましたが、所々には道標や祠が残って
いて、昔の面影を残しているようです。


琴平神社ー36

                     

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寺社 | 08:57:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」
大鷲神社ー1

「大鷲神社」の鳥居は、ちょっと変形ですが、木製でシンプルな八幡鳥居です。


大鷲神社ー2

急な石段の途中に踊り場があり、手水盤や庚申塔があります。


大鷲神社ー3

慶応元年(1865)と記された手水盤。


大鷲神社ー4
大鷲神社ー5
大鷲神社ー6

右側に立つ青面金剛像が刻まれた庚申塔。
天保二年(1831)のもので、踏みつけられている鬼や、下部に並ぶ見ザル・聞かザル・
言ワザルの3匹のサルもはっきりと分かる、保存状態の良い庚申塔です。


大鷲神社ー7
大鷲神社ー10

左側に立つ庚申塔も保存状態が大変良いものですが、台座の大部分が埋まっていて、
建立年代を正確には読み取れません。
何とか寛政五年(1793)と読むことができました。
こちらは金剛の足許の鶏もしっかり残っています。

これは庚申講が、ニワトリの声が聞こえる朝まで、徹夜で念仏等を唱えることからきた、
と言われています。


大鷲神社ー23

この踊り場に新しい祠が置かれていますが、台座にも何も書かれていません。
鰹木は3本、千木は垂直に切られていますので、男神が祀られているようです。


大鷲神社ー12

小さなお社は荒れ果てています。


大鷲神社ー13
***********大鷲神社ー15
大鷲神社ー14
大鷲神社ー20

「成田市史」にはこの神社についての記述は見られません。

千葉県神社庁の「神社名鑑」中には、ご祭神が「天日鷲之命(アメノヒワシノミコト)」であること、
本殿は亜鉛板葺で0.5坪、境内は30坪であること、氏子は20戸であると記載されています。

天岩戸に入られてしまった天照大神を呼び出すため、岩戸の前で神々が踊っていると、奏でた
弦楽器の弦の先に鷲が止まったので、これを吉祥とした神々が楽器を奏でた神を「天日鷲命」
としたとされています。
「天日鷲命」は、一般に紡績や製紙の神様として知られていますが、「お酉様」としても知られ、
開運、殖産、商売繁盛の神様として信仰されています。


大鷲神社ー16
大鷲神社ー21

4基の祠が並んでいます。
右端の祠には「保食命(ウケモチノミコト)」と刻まれています。

「保食命」は食物の神とされ、同じ食物の神である。宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ=
古事記 )や倉稲魂命(ウカノミタマノミコト=日本書紀)と同一視されることがあります。

「天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊
が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から
魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。
月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。
それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。
それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。」(ウィキペディア「保食神」)


「月夜見尊」に殺された「保食神」の頭からは牛や馬が生まれ、体からは稲や麦、大豆、小豆、
粟などの穀物が生まれたことから、食物の神とされました。
さらに「頭から馬」が生まれたことから、「馬頭観音」とも同一視されることがあります。


大鷲神社ー17

境内の奥には荒れた雑木林が続いています。


大鷲神社ー19

眼下に広がる北羽鳥の田園風景。


大鷲神社ー22

狭く急な石段は、枯葉で覆われていて慎重に足を運ばないと滑り落ちそうです。


大鷲神社ー24
大鷲神社ー25

石段の下から見上げる「大鷲神社」の森。
最近の土砂崩れの痕が残っていて、何らかの手当てが必要な状況です。


大鷲神社ー18

大正三年の「千葉縣印旛郡史」に「大鷲神社」について一行だけ記載があるのを見つけました。
無格社であること、「天日鷲之命」が祭神であるとの記述の次に、

「延■元癸丑三月勧請」 (P754)  とありました。(■は印字潰れ)

先に「延」のある年号は、平安時代初期の延暦から始まって、延喜・延長・延久・延応・延慶・
延文・延徳・延宝、江戸時代中期の延享と10回ありますが、それぞれの元年の干支が癸丑
(ミズノトウシ)であるのは延宝元年(1673)だけですので、「大鷲神社」は延宝元年に勧請
された、340年あまりの歴史を有している神社ということになります。
(※ はじめの文章で420年と書きました。計算ミスですので訂正します。)

小さなお社と、祠が4基並ぶだけの境内ですが、酷暑が続く中、ここだけは涼しい風が吹き
抜けていました。


大鷲神社ー27
大鷲神社ー28


                        ※ 「大鷲神社」 成田市北羽鳥1721



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ちょっとしたスポット~山口の稲荷神社
【ちょっとしたスポット】 

前回訪問した「證明寺」の裏山に「稲荷神社」があります。

山口稲荷ー5

「成田市史近代編史料集一」に収録の「下総國下埴生郡山口村誌」には、この「稲荷神社」に
ついて次のように記しています。

『稲荷神社 字宮田ニアリ。地坪六百八拾坪。宇迦魂神ヲ祭ル。傳者元弘年間千葉貞胤ノ
家臣山田周防ナル者、山城国稲荷ノ四社ヲ勧請シ祭ル。』
『次テ慶長九年郡官天羽氏再ヒ之ヲ建立ス。』  
(P214)

「宇迦魂(ウカノミタマ)」は、古事記では「宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)」、日本書紀では
「倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)」として登場します。
「須佐之男命(スサノオノミコト)」と、「大山津見神(オオヤマツミノカミ)」の娘の「神大市比売
(カムオオイチヒメ)」との間に生まれた神です。
穀物の神で、古くから女神とされてきました。
伏見稲荷大社の主祭神で、お稲荷さんとして広く信仰されています。


山口稲荷ー28
山口稲荷ー29

「稲荷神社」には、「證明寺」への階段下の細い急坂を登ります。
すぐ下に「證明寺」の本堂の屋根が見えています。


山口稲荷ー1
山口稲荷ー2

登り坂の途中には古木、巨木が何本も立っています。


山口稲荷ー3

立派な明神鳥居です。


山口稲荷ー4

風雪に削られた手水盤に刻まれていたはずの文字は、すっかり消えてしまいました。


山口稲荷-6
山口稲荷ー7

この神社は、元弘年間の創設ですから、690年近くの歴史がある神社ということになります。
再建されたという慶長九年(1604)は、豊臣・徳川の決戦が迫っている時でした。

『享保五年(一七二○)の「稲荷社及証明寺縁起」(山口区有文書)では、その後千葉勝胤の
夫人が難産で苦しんでいたとき、同神社のことを聞き勝胤が詣でたところ、夫人の痛みは消え
無事出産できた。深く感激した勝胤は社殿を修造し、かつ神田三○石を寄進したという。』
『だが戦乱によって荒廃し、慶長九年(一六○四)に天羽忠兵衛なる武士が再建した。』
『明治四十二年村内の道祖神社・愛宕神社・大鷲神社などを合祀している。』

(「成田市史 中世・近世編」 P804)

千葉勝胤が寄進した神田は、その後の戦乱の中、幕府に没収されましたが、この一帯の
字(あざ)の宮田(きゅうでん)という名前が、その名残りとなっています。


平成5年には、合祀されている全ての神社の社号標が建立されました。
古い祠が残っているもの、祠の一部が残っているもの、新しい社号標のみのものなど
いろいろですが、木々の間に点在する全ての社号標と祠を見てみましょう。

古峯神社(ヤマトタケルノミコト)   山口稲荷ー8

古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」と書かれます。
その蛮勇ぶりが父の景行天皇から疎まれ、西征に、そして東征へと向かわされ、大和への
帰途に現在の三重県北部で没したと伝えられる、古代史最大の英雄です。

ニュータウンの吾妻にある「吾妻神社」は、ご祭神が「日本武尊」です。
日本武尊と弟橘姫~吾妻神社 ☜ ここをクリック

三峯神社(イザナギノミコト)      山口稲荷ー9

古事記では「伊邪那岐命」、日本書紀では「伊弉諾神」と書かれます。
神世七代の最後に生まれた神で、妻の「伊邪那美命(イザナミノミコト)」とともに多くの神や
国造りを行いました。

多古町の「六所大神」には、「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」と「伊弉冉尊(イザナミノミコト)」
が他の四柱とともに祀られています。
1180年の歴史~六所大神 ☜ ここをクリック

大山阿夫利神社(オオヤマツミノカミ)山口稲荷ー10

古事記では「大山津見神」、日本書紀では「大山祇神」と書かれます。
「伊弉諾尊」と「伊弉冉尊」との間に生まれた神で、山の神とされています。

 不  明 (社号標がありません)  山口稲荷ー11

享保十二年(1727)の紀年銘が読めます。 

雷神社(オオイカヅチノカミ)      山口稲荷ー12

「伊弉冉尊」の死体の頭より生まれた神で、八種の雷神(やくさのいかづちかみ)の一柱。
ひと山越えてJRの線路と小橋川を越えた所に「雷神社(らいじんじゃ)」があります。
1400年前の雷鳴~雷神社 ☜ ここをクリック

愛宕神社(カグツチノミコト)      山口稲荷ー13

古事記では「火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)」または「加具土命(カグツチノミコト)」
と書かれ、日本書紀では「火産霊(ホムスビ)」と書かれます。
「伊弉諾尊」と「伊弉冉尊」との間に生まれた神ですが、火の神であったため、母の
「伊弉冉尊」が出産時に大火傷を負って亡くなってしまいます。
悲しんだ「伊弉諾尊」によって、「加具土命」は十拳剣で殺されてしまいました。
「加具土命」の血からは八柱の神が、死体からも八柱の神が生まれています。

浅間神社(コノハナノサクヤヒメ)   山口稲荷ー14

古事記では「木花之佐久夜毘売」、日本書紀では「木花開耶姫」と書きます。
先ほど見た、大山阿夫利神社の「大山津見神(オオヤマツミノカミ)」の娘で、「天照大神」
(アマテラスオオミカミ)の孫の「邇邇芸命(ニニギノミコト)」の妻です。
全国の多くの浅間神社のご祭神として祀られています。

 不  明 (社号標がありません)   山口稲荷ー15

南無阿弥陀仏・・・と刻まれているようですが、判読が難しい状態です。
元文四年(1739)の記年銘が見えます。
このころは時代劇でお馴染の、八代将軍徳川吉宗と、南町奉行・大岡忠相(越前)が活躍
した時代です。

大鷲神社(ヤマトタケルノミコト)    山口稲荷ー16

栄町にある「大鷲神社(おおわしじんじゃ)」も同じ「日本武尊」をご祭神にしています。

金毘羅神社再建碑 年代不詳     山口稲荷ー17
金毘羅神社(オオクニヌシノミコト)   山口稲荷ー18

「大国主(オオクニヌシ)」は、国津神の代表的な神で、古事記や日本書紀にも記されている
天孫降臨の物語で、天津神に国土を献上したことから、「国譲りの神」とも呼ばれています。
国譲りの際に、大きな宮殿を建てて欲しいと願い出て、出雲大社の祭神となりました。
因幡の白兎の話は良く知られています。

鹿島神社(タケミカヅチノカミ)      山口稲荷ー20

「鹿島神宮」のご祭神として知られています。
剣の神、また雷神でもあり、相撲の元祖ともされています。
古事記では「建御雷之男神」または「建御雷神」と書かれ、日本書紀では「武甕槌」または
「武甕雷男神」と書かれます。
「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」が「加具土命(カグツチノミコト)」の首を切り落とした際に、
剣についた血が岩に飛び散って生まれた三神のうちの一柱です。

香取神社(フツヌシノミコト)        山口稲荷ー21

「経津主神(フツヌシノカミ)」は日本書紀のみに登場し、古事記には登場しません。
「香取神宮」のご祭神として知られています。
利根川を挟んで香取・鹿嶋の両神宮が相対する位置にあるように、「鹿島神宮」の「武甕槌神
(タケミカヅチノカミ)」と対で扱われることが多くあります。

天満宮(スガワラノミチザネ)       山口稲荷ー22

「菅原道真」(845~903)は平安時代の貴族で、学者・詩人・政治家として活躍しました。
宇多天皇に重用され、順調に出世の階段を昇ったものの、讒訴によって大宰府に流され、
不遇のうちに没しましたが、没後天変地異が続発し、道真の祟りだとの噂が広まり、怨念を
鎮めるために天満天神として祀られることになりました。
死後にも正一位・太政大臣の官位を贈られるなど、出世の階段を昇りつめたことや、優れた
学者・詩人であったことから、現在は学問の神様として知られるようになっています。

子安神社(コノハナノサクヤヒメ)     山口稲荷ー23

「木花之佐久夜毘売」は子安神社のご祭神として祀られることも多い神様です。

道祖神社(サルタヒコノミコト)       山口稲荷ー24

古事記では「猿田毘古神」、または「猿田毘古之男神」、日本書紀では「猿田彦命」と書かれます。
天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた「邇邇芸命(ニニギノミコト)」を道案内した国津神です。
中世には庚申信仰や道祖神と結びつき、信仰を集めました。
また、鼻長七咫、背長七尺、目は八咫鏡のようで、顔が鬼灯のように照り輝いているという姿
から、天狗の原型であるとも言われています。
  ※ 「咫(あた)」は手を開いたときの中指の先から親指の先までの長さ。


古い祠の一部が残されていても、傷みが激しく、年号が読めるものはありませんが、
点在するたくさんの祠と社号標を見つけながら境内を歩くのも、けっこう楽しいものです。

「下總國下埴生郡山口村誌」に、「稲荷神社」に接する場所に「穴八幡」があったとの記述
を見つけました。

『穴八幡 宮田ニアリ、稲荷神社ト接地ス。一ノ洞窟アリ、中ニ一個石アリ。文字塗抹シテ
弁識スルニ由ナシ。又骸骨両三本アリ、土人之ヲ穴八幡ト称ス。』

(「成田市史 近世編史料集一 P215)

村人がお堂を建て、近隣の人々が頻繁にお詣りしていたようですが、何故か幕府によって
来詣を禁じられ、洞窟は埋められてしまったようです。


山口稲荷ー26
山口稲荷ー27


この神社が創建された元弘年間(1331~1333)は、元弘の乱によって鎌倉幕府が滅亡
するという激動の時でした。
この神社を創建した「山田周防」の主君・千葉貞胤は、千葉氏第11代の当主で、元弘の乱
では当初鎌倉方に与し、後に新田義貞に与して鎌倉を攻めたり、その後も南北朝を行き来
するなど、綱渡りの処世をした人物です。
そうした貞胤の家臣でありながら、しかも時代の騒乱のさなかに、この稲荷神社を創建した
山田周防という人物は如何なる人物だったのでしょうか?
残念ながら、「山田周防」に関する資料を探し出すことができませんでしたが、とても興味
ある人物なので、いつか彼の痕跡を見つけたいものです。


山口稲荷ー30


                   ※ 「稲荷神社」 成田市山口71


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