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sausalito

Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年   ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年  ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年   ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル        --------------- 

【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」

はるか昔、成田一帯には埴輪や土器を作る土師部一族が住んでいて、かつての「埴生郡」
の名前のルーツはそこにあると言われています。
郷部にある「埴生神社」は土の神である「埴山姫命」をご祭神としていますが、「土師神社」も
こうした歴史の中から創建されたものです。

土師神社ー1

「公園通り」を郷部大橋から土屋交差点へ向かう途中の左側に「土師神社」はあります。

「千葉県神社名鑑」には、
「祭神 天穂日命(あめのほひのみこと) 本殿・石宮 境内坪数 二七坪 氏子三〇戸」
とありますが、小粒ながら立派な流造の社殿が建っています。
石宮はこの社殿の中に納められているのでしょうか。


土師神社ー2
土師神社ー3
********** 土師神社ー6
土師神社ー7

社号標、鳥居、手水盤、御神燈等はいずれも新しく、平成6年に建立されたもののようです。


土師神社ー4

「千葉縣印旛郡誌」の中にある「成田町誌」には、この「土師神社」について次のように記述
されています。
「無格社 土師神社 郷部村字南台にあり天穂日命木花咲耶姫命を祭る創建不詳なれども
明治四十四年六月四日許可を得て成田町大字郷部字浅間にありし無格社浅間神社を本社
に合祀す社殿間口七寸五分奥行六寸鳥居八尺と五尺とにして境内二十七坪民有地第一種あり
神官は宮崎廣重にして氏子二十七人を有し管轄廰まで八里十五町五十三間二尺あり
毎年九月廿二日に祭典を行ふ神社明細帳



土師神社ー8
土師神社ー9
********** 土師神社ー10
土師神社ー11

細かな彫刻が随所に施されています。


土師神社ー12

「成田市史 史料集一」に収録の明治十七年(1884)の「下埴生郡郷部村誌」には、
「土師神社 村ノ中央ヨリ寅ノ方ニ当リ字南臺、境内廿七坪民有地、祭神天穂日ノ命。」
とあり、同じく大正元年(1912)の「成田町誌」には、
「土師神社(境内二十七坪)郷部の中央なる小字南台にあり、天穂日命を祀る。創建年月等
詳かならず。九月廿一日は其祭典の日なり。」

とあります。


土師神社ー13
土師神社ー14
土師神社ー15

前面には交通量の多い「公園通り」、周りは商店や駐車場といった環境の中で、窮屈そうに
佇んでいるような感じがします。


「千葉県神社名鑑」から、成田市内にもう一つの「土師神社」を見つけました。

土師神社ー16
土師神社ー17

「鎮座地 成田市上福田五七番地 祭神 野見宿禰命 主要建物 本殿・流造〇.二五坪
拝殿・九坪 境内坪数 一九〇坪 氏子 三〇戸」

なお、宮司は欠員となっていました。(現在は名前があります)

「野見宿禰命(ノミノスクネノミコト)」は「天穂日命」の子孫で、垂仁天皇の命により、力自慢の
「当麻蹴速」と角力(相撲)をとり、これを打ち負かしたことから、「相撲の神様」とも言われます。
殉死に代わる埴輪を考え出したことから、「土師」の姓を与えられました。


土師神社ー18

「成田市史 中世・近世編」の「市域の主な神社」リストには、
古社名が「土師明神宮」であること、ご祭神は「埴山姫命」で、天正二年(1574)の創建で
あることが書かれています。

成田総鎮守の「埴生神社」のご祭神でもある「埴山姫命(ハニヤスヒメノミコト)」は、土や陶器
の神様で、「野見宿禰命」の先祖でもあります。


土師神社ー19

「弘化三丙午十月吉日 當村講中」と刻まれた手水盤。
弘化三年は西暦1846年です。


土師神社ー20
土師神社ー25

拝殿から少し離れて流造の本殿があります。
手前の御神燈には「嘉永二酉四月吉日」と記されています。
嘉永二年は西暦1849年になります。


土師神社ー21

「千葉縣印旛郡誌」中の「八生村誌」に、この神社についての記述があります。

「村社土師神社 上福田村字天神谷ッ五十七番地にあり埴璽山姫命火結命相殿垣師命
貴之宮命を祀る天正二年創立其他不詳明治四十三年三月十二日許可を得て八生村
上福田字井戸手四百七番地にありし無格社愛宕神社字ノ前二百九十六番地にありし
無格社貴五宮社を本社に合祀す境内六十九坪共有地石井彌助外二十八人持あり神官は内海
永喜にして氏子二十九戸を有し管轄廰まで九里三十二町あり社内に埴輪土偶を安置す
神社明細帳


ご祭神に関する記述が史料によって異なったり、史料にないローカル(?)な神様であること
は珍しいことではありません。
埴璽山姫命が「埴山姫命(ハニヤマヒメノミコト)」のことであることは想像できますし、火結命
(ホムスビノミコト)もご祭神として時々登場しますが、相殿とされる「垣師命」と「貴之宮命」に
ついては、いろいろ調べましたが全く手掛かりがありません。


土師神社ー23
土師神社ー24

本殿の裏にお堂があり、その中に古いお社が納まっています。
正面に卍の彫刻が施されているのが不思議です。
神仏習合の一つの形なのでしょうが、明治に入って神仏分離令が出されるまではそれほど
珍しいことではなかったようです。(今でも東京の「根津神社」は卍を神紋にしています。)


土師神社ー27

裏山に向かってケモノ道らしきものが伸びています。
そこに細い竹と藁で作られた「結界」を示すようなものがありました。


土師神社ー28
*********土師神社ー29
***************土師神社ー30

ポツンポツンと離れた場所に名前も分からない小さな祠が三基ありました。


土師神社ー31
土師神社ー32
土師神社ー33
土師神社ー34

拝殿の右手に、それぞれ少しずつ離れて、三つのお堂が建っています。
それぞれ鞘堂の中に壊れかけた古いお社が置かれています。

一つのお堂の中に、首の無い木像が見えていますが、その形から道真公のようですので、
「天満宮」ではないかと思われます。


土師神社ー35
土師神社ー36
********** 土師神社ー37
土師神社ー38

天正二年の創建から数えて440年余り。
長い歴史を有する古社が、上福田の森の中にひっそりと鎮座しています。

郷部の「土師神社」は、開発が進む市街地の喧騒の中にありました。
そして、上福田の「土師神社」は開発とは縁遠い森の静寂の中にあります。

古のこの地方を象徴する名前を持つ二つの神社は、それぞれの姿で地域を見守っています。


土師神社ー40
土師神社ー39


                          ※ 郷部「土師神社」    成田市郷部241
                             上福田「土師神社」  成田市上福田57



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二町村以上の寺社 | 11:16:26 | トラックバック(0) | コメント(6)
時の彼方の姫と牛、「摩尼珠山松虫寺」(2)
前回の「松虫寺」の続きです。
今回は松虫姫を中心に紹介します。

松虫寺ー25
松虫寺ー24
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松虫寺ー26
松虫寺ー63
          
松虫寺の本堂の左奥には「松虫姫神社」があります。
こじんまりした神社ですが、鮮やかな色彩の装飾が施されています。


松虫寺ー20
松虫寺ー19

奥まった場所に「松虫皇女之御廟」があります。
石柱には文化九年(1812年)と記され、石柵の中には杉の大木の根元に積まれた
いくつかの岩に埋もれて、種字の書かれた板碑が1基立っています。


松虫寺ー21

傍らにある明治24年に建てられた「松虫姫碑」。

松蟲姫者盖貴人子也有故畧譜系唯存古稱矣天
平某年齢十四不幸有疾醫薬無効適有所夢因自
請遠至此地日夜祈七佛薬師而得瘉後留住似寶
亀五年二月十五日終焉墓而不墳有奮株是其表
也於是里民或恐後世其無以徴也乃相共謀遂樹
此碑以不朽之

と読みましたが、誤読があるかも知れません。

病が癒えて京に戻るところまでは前回に紹介しました。
その後の松虫姫について調べると、概略次のようになります。

松虫姫とは通称で、伝説の物語のころは不破内親王(ふわないしんのう)と呼ばれる
聖武天皇の皇女でした。
病が癒えた内親王は、やがて天武天皇の孫にあたる塩焼王と結婚します。
天平宝字八年(764年)には、夫の塩焼王が藤原仲麻呂の乱に加わって殺害されて
しまいますが、内親王とその息子の氷上志計志麻呂はなんとか死を免れました。
神護景雲三年(769年)、時の称徳天皇を呪詛して息子の志計志麻呂を皇位につけよう
としたと疑われ、内親王の身分を剥奪されたうえ、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)と
改名させられ、平城京内に住むことを禁じられてしまいます。
息子の志計志麻呂は土佐に流刑となってしまいました。
3年後の宝亀三年に、呪詛は冤罪であったことが判明し、内親王に復帰しましたが、
今度は延暦元年(782年)にもう一人の息子、氷上川継が謀反を起こそうとしたと疑われて
伊豆に流刑となり、内親王も淡路国に流されてしまいます。
その後、延暦十四年(795年)に和泉国に移されるなどしましたが、その後の消息は
定かではありません。

病のことと言い、その後の波乱の人生は、姫を悲運の人として語り継がれることとなります。


松虫寺ー27

松虫姫神社の参道脇には沢山の石仏が並んでいます。

松虫寺ー28
松虫寺ー65

嘉永元年(1848年)のこの仏様は、はじめは「馬頭観音」だと思いましたが、
中央の二手が馬頭観音に特有の「根本馬口印」(こんぽんばこういん)を
結んでいないので、ちょっと自信がありませんでした。

どうしても気になって後日もう一度確認のため訪れました。
頭上にあるのは馬の顔ではなく、獅子のような気がするからです。
と、すると、これは「愛染明王」ということになります。
左手に持っているのは金剛鈴に見えてきました。
どうやら「愛染明王」が正解のようです。


松虫寺ー29

出羽三山の名を記したこの石碑には、智剣印を結んだ大日如来が刻まれています。

・・・  「金比羅権現」・・・・・松虫寺ー30



松虫寺ー42
松虫寺ー60

寺を後にしようとした時、境内右手の奥の方に気になる建物を見つけました。
目を凝らして見ると「松虫姫霊」と書かれた扁額がかかっています。
門には太い竹竿が掛けられていて、人が中に入ることを拒否していますので、内部は
分かりませんが、姫にまつわる品々が収められているのでしょうか。


さて、ここで松虫姫が都に帰った後に、残されてしまった牛についても触れたいと思います。

松虫寺ー52

松虫寺、松虫姫神社から少し離れた場所に、「牛むぐり池」はありました。
寂しさと悲しさのあまり牛が身を投げた池です。
今はすっかり整備された調整池になっていて、過日の面影はありません。


松虫寺ー51
松虫寺ー53
松虫寺ー67

この辺りは千葉ニュータウンの外れ、池の向こうには西洋の城のような北総線の
「印旛日本医大駅」が見えています。
印旛日本医大駅には「松虫姫」という副駅名が付いています。


松虫寺ー54
松虫寺ー56

「牛むぐり池」の周りは広大な公園になっています。
その一角に松虫姫と牛のモニュメントがありました。
「印旛の地と松虫姫伝説」と題されたこのモニュメントは、鈴木典生氏の作品で、
平成15年にここに設置されました。


松虫寺ー57

悲しくも哀れな物語を知ってか知らずか、子供たちが元気に走り回っています。

私は松虫姫の物語より、なぜかこの牛に気持ちを移入してしまいます。
なにか哀れでしかたありません。

もう一度神社に戻り、姫とともに牛にも手を合わせました。

松虫寺ー35

松虫寺ー66

松虫寺は周辺の開発が進む中、細道の奥で、静かに伝説を抱えて建っています。


松虫寺ー58


              ※ 松虫寺  印西市松虫 7
                 北総線 印旛日本医大(松虫姫)駅 徒歩25分



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印西市の寺社 | 08:04:17 | トラックバック(0) | コメント(4)
松虫姫伝説の寺、「摩尼珠山松虫寺」(1)
松虫姫伝説の松虫寺(まつむしでら)は細い道の奥にひっそりと佇んでいました。

松虫寺ー8

「松虫寺」の山号は「摩尼珠山」、真言宗豊山派のお寺です。
天平十七年(745年)行基の開創で、開創時は三輪宗、後に天台宗に改宗し、
さらに現在の真言宗に改宗されました。

1270年の歴史と伝説を秘めた古刹です。

「三論宗(さんろんしゅう)は、仏教の宗派の1つで、インドの龍樹の中論・十二門論、
その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、
論を所依とする)である。空を唱える事から、空宗とも言う。その他、無相宗・中観宗・
無相大乗宗の呼び方もある。」
           (ウィキペディア 三輪宗より)


松虫寺ー1

松虫寺は松虫姫伝説で知られています。
あちこちに紹介されている松虫姫伝説は、それぞれ少しずつ内容が異なっていますが、
要約すると次のようになります。

奈良時代、時の聖武天皇の第三皇女、松虫姫(不破内親王)が重い病にかかり、天皇は
あらゆる手を尽くして治療を施しましたが、病は重くなるばかりです。
ある夜、姫の枕元に下総萩原郷の薬師仏が現れ、我にすがれと告げました。
万策尽きていた天皇は、藁をもつかむ思いで松虫姫を下総に向かわせましたが、牛の背に
揺られながら行く道中には数々の難儀が待ち受け、従者の多くは逃げ去って、一行が
萩原郷にたどり着いた時には、乳母の杉自と数人の従者だけになっていました。
姫は見つけた小さな薬師堂のかたわらに庵を結び、病の快癒をひたすら祈る日々を数年
過ごした後、ついに祈りが通じて難病が全快するという奇跡が起こりました。
ようやく都に帰ることになった姫は、一刻も早く帰るために馬で帰ることにし、すでに年老いた
乳母と牛をこの地に残して、村人たちに見送られて都へ帰って行きました。
乳母はその後も村人たちにいろいろな技術を教えて、この地に馴染んでいましたが、
姫と一緒に帰りたかった牛は悲しみのあまり自ら近くの池に身を投じてしまいました。
村人はその牛の心情を憐れんで、牛が身を投げた池を「牛むぐりの池」と呼んだそうです。
姫の快癒を喜んだ聖武天皇は、僧行基に命じてこの地に「松虫寺」を建立させました。
その後、松虫姫は運命に翻弄された不遇な人生を送りましたが、遺言によって松虫寺に
遺骨が分骨されました。


松虫寺ー2

手水盤には寛保元年(1741年)と記されています。
徳川吉宗の時代です。


松虫寺ー3

仁王門は享保三年(1718年)に改築されたと記録にあります。
どっしりとした質感のある建物です。


松虫寺ー4
松虫寺ー5
松虫寺ー6
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松虫寺ー7

左右に立つ仁王様は大きく、筋骨隆々です。
(金網の目が細かくてうまく写せないので、下に空いている小さな穴から写しました)


松虫寺ー9 延享四年献納の常夜燈

松虫寺ー10
松虫寺ー11

鐘楼は境内の端の目立たぬ位置にあり、自由に撞くことができます。
「南無七仏 薬師如来」
「一打鐘聲當願衆生」
「脱三界苦得見菩堤」等の文字が記され、
撞木の反対側に「摩尼珠山松蟲寺」と記されています。


松虫寺ー31

この本堂は寛政十一年(1799年)に建立されました。

ご本尊の薬師如来像はカヤ材の一本彫で、平安時代末期の作と考えられています。
国の重要文化財に指定されていて、中尊に薬師如来の座像を、両脇に三体ずつの
立像を配する七体からなっており、他には滋賀の「鶏足寺」(現在は廃寺)にのみあるという、
大変珍しいものです。
中尊座像は54.3センチ、六体の立像は78センチという小振りな仏様です。
木造薬師如来座像と薬師如来立像(千葉県教育委員会ホームページ) ⇒


松虫寺ー13

本堂の寺額には「瑠璃閣」とありました。


松虫寺ー61

絵馬には松虫姫と牛の絵が・・・


松虫寺ー14

本堂に掲げられているこの奉納額は、彩色が剥げてよく見えませんが、松虫姫が
下総へ向かう道中の出来事を描いたもののようです。
遠州で姫の一行を襲った山賊に、姫を乗せてきた牛が猛然と襲いかかって姫を
助けたという伝説を題材にしたのではないでしょうか?


松虫寺ー23本堂右奥にある瑠璃光殿


松虫寺12

六柱の神々を祀る六所神社。
その昔、国司はそれぞれの国内の神社を一宮から順に巡拝していましたが、
国府近くに国内の神を合祀した総社を設けてまとめて御参りを行えるように
したものが六所神社であると言われています。
千葉県内には市川と舘山に六所神社という名前の神社があるようです。


松虫寺ー36

風化が進んでいるこのお地蔵さまに記された年号は、宝暦七年(1757年)と読めました。


松虫寺ー33

墓地の入り口に立つこの宝塔に刻まれた年号は、安永九年(1780年)と読めます。


松虫寺ー34
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松虫寺ー45

墓地には、元和、寛文、宝永、元文、宝暦、天保などの年号が刻まれた古い墓石が・・・。


松虫寺ー35
松虫寺ー64

本堂の隣には松虫姫神社があります。
小振りなお社ですが、華やかな色彩に彩られています。


松虫寺ー38


千葉ニュータウンの開発に取り残されたような地域の一角に松虫寺はありました。
次回は松虫姫伝説を中心に紹介します。




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印西市の寺社 | 07:03:59 | トラックバック(0) | コメント(4)
小さな龍の伝説が結ぶ三つの寺(2)「龍腹寺」
伝説の寺「龍腹寺」を探して印西市(旧本埜村)にやってきました。


伝説の寺ー37

細い道路の脇に仁王門を見つけました。
道路から少し高いところにあり、木々に遮られて見落としそうです。


伝説の寺ー38
伝説の寺ー39
伝説の寺ー40

左右に仁王様がおられるのですが、前面のガラスが埃でくもり、中が見えません。
横に貼られていたポスターを写して我慢しました。
右(上)が丹慶の作、左(下)が慈覚大師の作と伝えられています。


伝説の寺ー41
伝説の寺ー42

仁王門には所狭しと五穀豊穣を願う草鞋や木槌が括り付けられています。
高い場所にあるので、書かれている文字は読めませんが、
さぞかし古いものだろうと思われます。

永正五年(1505年)、千葉・北条の戦で灰燼に帰し、
天文十九年(1550年)に千葉氏によって再興、
文政元年(1818年)失火により全焼、当時の領主の稲葉公が再建するも、
またも火災により焼失・・・という災禍の繰り返しだった仁王門は、
嘉永六年(1853年)に近郷からの浄財を集めて再興されました。
その後長い間荒廃していましたが、昭和59年に修復が行われ、現在に至っています。


伝説の寺ー43

仁王門の先に見えるのが本堂でしょうか?


伝説の寺ー56
伝説の寺ー54

近づいて見ると「延命地蔵尊」という掲額があります。
地蔵堂でした。
この地蔵堂に龍の胴体が祀られているわけです。


伝説の寺ー44
伝説の寺ー46

地蔵堂の手前に大きな梵鐘がありました。
南北朝の頃の鋳造だと説明板に書かれています。


伝説の寺ー47
伝説の寺ー52

梵鐘の右奥には日枝神社がありました。


伝説の寺ー48
伝説の寺ー49伝説の寺ー51

神社の裏手には小さな祠がたくさん並んでいます。
出雲大社、三峰山、浅間神社、諏訪神社、八阪神社などなど、所狭しといった状態です。


伝説の寺ー53

地蔵堂の裏手には墓地が広がっていました。
古い墓石に交じって比較的新しい墓石もあります。


伝説の寺ー55

大きな灯篭には天保七年(1836年)と刻まれています。

それにしても本堂が見当たりません。
龍腹寺の文字もどこにもありません。


伝説の寺ー62

諦めて帰りかけた時、仁王門と地蔵堂から100メートルほど離れたところに
狭い急坂があり、石柱がちらりと見えました。
民家の庭先に出てしまうかもしれませんが、思い切って登ってみます。

石柱には「龍腹寺」と刻まれています。


伝説の寺ー58

ここに本堂がありました。

「玄林山龍腹寺」は延喜十七年(917年)に創建された歴史あるお寺です。
(一説には大同二年(807年)とも)
ご本尊は「薬師如来」で、もともとは「勝光院延命寺」と称していましたが、
例の龍の胴体をここに葬った時に、「龍腹寺」に改めたと言われています。


伝説の寺ー60

ご本尊が安置されているとなりの部屋では、説法会が行われていました。


伝説の寺-59
伝説の寺ー61

仁王門や地蔵堂のある一角に比べると、素っ気ない境内です。

龍角寺と同じく、龍の伝説にまつわるものは見当たりません。
龍腹寺という少し変わった名前に興味をひかれる人は少なくないでしょう。
ちょっと伝説に触れる説明板でもあれば楽しいのに・・・と思ってしまいます。
(お寺は楽しむところではありません、と怒られてしまいますかね)

文久三年(1863年)に創建された龍腹寺の本堂は、
昭和20年の東京大空襲で焼失した「成田山東京別院深川不動尊」の
本堂再建のため、昭和25年に移築されました。
現在の本堂はその後に建てられたもので、詳しい事情は分かりませんが、
その時仁王門や地蔵堂から離れたこの場所に移ったのではないでしょうか。


伝説の寺ー63
伝説の寺ー64
伝説の寺ー65

見つけました!
これぞ、龍の伝説のモニュメント。
お寺の近くの北総線の跨線橋に、龍のオブジェです。
やっと伝説の地にいる実感が湧いてきました。

ここまで来たら、匝瑳(そうさ)にあるという「龍尾寺」を探さないではいられません。
次回は「龍尾寺」を訪ね、小さな龍の伝説を完結させたいと思います。


             ※ 龍腹寺  印西市竜腹寺626 (住所では“竜”になっています)
               北総線印西牧の原駅より循環バス 印旛支所ルートで約8分
               龍腹寺東または龍腹寺西下車




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印西市の寺社 | 07:34:11 | トラックバック(1) | コメント(0)