今回は松虫姫を中心に紹介します。


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松虫寺の本堂の左奥には「松虫姫神社」があります。
こじんまりした神社ですが、鮮やかな色彩の装飾が施されています。


奥まった場所に「松虫皇女之御廟」があります。
石柱には文化九年(1812年)と記され、石柵の中には杉の大木の根元に積まれた
いくつかの岩に埋もれて、種字の書かれた板碑が1基立っています。

傍らにある明治24年に建てられた「松虫姫碑」。
松蟲姫者盖貴人子也有故畧譜系唯存古稱矣天
平某年齢十四不幸有疾醫薬無効適有所夢因自
請遠至此地日夜祈七佛薬師而得瘉後留住似寶
亀五年二月十五日終焉墓而不墳有奮株是其表
也於是里民或恐後世其無以徴也乃相共謀遂樹
此碑以不朽之
と読みましたが、誤読があるかも知れません。
病が癒えて京に戻るところまでは前回に紹介しました。
その後の松虫姫について調べると、概略次のようになります。
松虫姫とは通称で、伝説の物語のころは不破内親王(ふわないしんのう)と呼ばれる
聖武天皇の皇女でした。
病が癒えた内親王は、やがて天武天皇の孫にあたる塩焼王と結婚します。
天平宝字八年(764年)には、夫の塩焼王が藤原仲麻呂の乱に加わって殺害されて
しまいますが、内親王とその息子の氷上志計志麻呂はなんとか死を免れました。
神護景雲三年(769年)、時の称徳天皇を呪詛して息子の志計志麻呂を皇位につけよう
としたと疑われ、内親王の身分を剥奪されたうえ、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)と
改名させられ、平城京内に住むことを禁じられてしまいます。
息子の志計志麻呂は土佐に流刑となってしまいました。
3年後の宝亀三年に、呪詛は冤罪であったことが判明し、内親王に復帰しましたが、
今度は延暦元年(782年)にもう一人の息子、氷上川継が謀反を起こそうとしたと疑われて
伊豆に流刑となり、内親王も淡路国に流されてしまいます。
その後、延暦十四年(795年)に和泉国に移されるなどしましたが、その後の消息は
定かではありません。
病のことと言い、その後の波乱の人生は、姫を悲運の人として語り継がれることとなります。

松虫姫神社の参道脇には沢山の石仏が並んでいます。


嘉永元年(1848年)のこの仏様は、はじめは「馬頭観音」だと思いましたが、
中央の二手が馬頭観音に特有の「根本馬口印」(こんぽんばこういん)を
結んでいないので、ちょっと自信がありませんでした。
どうしても気になって後日もう一度確認のため訪れました。
頭上にあるのは馬の顔ではなく、獅子のような気がするからです。
と、すると、これは「愛染明王」ということになります。
左手に持っているのは金剛鈴に見えてきました。
どうやら「愛染明王」が正解のようです。

出羽三山の名を記したこの石碑には、智剣印を結んだ大日如来が刻まれています。
・・・ 「金比羅権現」・・・・・



寺を後にしようとした時、境内右手の奥の方に気になる建物を見つけました。
目を凝らして見ると「松虫姫霊」と書かれた扁額がかかっています。
門には太い竹竿が掛けられていて、人が中に入ることを拒否していますので、内部は
分かりませんが、姫にまつわる品々が収められているのでしょうか。
さて、ここで松虫姫が都に帰った後に、残されてしまった牛についても触れたいと思います。

松虫寺、松虫姫神社から少し離れた場所に、「牛むぐり池」はありました。
寂しさと悲しさのあまり牛が身を投げた池です。
今はすっかり整備された調整池になっていて、過日の面影はありません。



この辺りは千葉ニュータウンの外れ、池の向こうには西洋の城のような北総線の
「印旛日本医大駅」が見えています。
印旛日本医大駅には「松虫姫」という副駅名が付いています。


「牛むぐり池」の周りは広大な公園になっています。
その一角に松虫姫と牛のモニュメントがありました。
「印旛の地と松虫姫伝説」と題されたこのモニュメントは、鈴木典生氏の作品で、
平成15年にここに設置されました。

悲しくも哀れな物語を知ってか知らずか、子供たちが元気に走り回っています。
私は松虫姫の物語より、なぜかこの牛に気持ちを移入してしまいます。
なにか哀れでしかたありません。
もう一度神社に戻り、姫とともに牛にも手を合わせました。


松虫寺は周辺の開発が進む中、細道の奥で、静かに伝説を抱えて建っています。

※ 松虫寺 印西市松虫 7
北総線 印旛日本医大(松虫姫)駅 徒歩25分

「松虫寺」の山号は「摩尼珠山」、真言宗豊山派のお寺です。
天平十七年(745年)行基の開創で、開創時は三輪宗、後に天台宗に改宗し、
さらに現在の真言宗に改宗されました。
1270年の歴史と伝説を秘めた古刹です。
「三論宗(さんろんしゅう)は、仏教の宗派の1つで、インドの龍樹の中論・十二門論、
その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、
論を所依とする)である。空を唱える事から、空宗とも言う。その他、無相宗・中観宗・
無相大乗宗の呼び方もある。」 (ウィキペディア 三輪宗より)

松虫寺は松虫姫伝説で知られています。
あちこちに紹介されている松虫姫伝説は、それぞれ少しずつ内容が異なっていますが、
要約すると次のようになります。
奈良時代、時の聖武天皇の第三皇女、松虫姫(不破内親王)が重い病にかかり、天皇は
あらゆる手を尽くして治療を施しましたが、病は重くなるばかりです。
ある夜、姫の枕元に下総萩原郷の薬師仏が現れ、我にすがれと告げました。
万策尽きていた天皇は、藁をもつかむ思いで松虫姫を下総に向かわせましたが、牛の背に
揺られながら行く道中には数々の難儀が待ち受け、従者の多くは逃げ去って、一行が
萩原郷にたどり着いた時には、乳母の杉自と数人の従者だけになっていました。
姫は見つけた小さな薬師堂のかたわらに庵を結び、病の快癒をひたすら祈る日々を数年
過ごした後、ついに祈りが通じて難病が全快するという奇跡が起こりました。
ようやく都に帰ることになった姫は、一刻も早く帰るために馬で帰ることにし、すでに年老いた
乳母と牛をこの地に残して、村人たちに見送られて都へ帰って行きました。
乳母はその後も村人たちにいろいろな技術を教えて、この地に馴染んでいましたが、
姫と一緒に帰りたかった牛は悲しみのあまり自ら近くの池に身を投じてしまいました。
村人はその牛の心情を憐れんで、牛が身を投げた池を「牛むぐりの池」と呼んだそうです。
姫の快癒を喜んだ聖武天皇は、僧行基に命じてこの地に「松虫寺」を建立させました。
その後、松虫姫は運命に翻弄された不遇な人生を送りましたが、遺言によって松虫寺に
遺骨が分骨されました。

手水盤には寛保元年(1741年)と記されています。
徳川吉宗の時代です。

仁王門は享保三年(1718年)に改築されたと記録にあります。
どっしりとした質感のある建物です。



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左右に立つ仁王様は大きく、筋骨隆々です。
(金網の目が細かくてうまく写せないので、下に空いている小さな穴から写しました)



鐘楼は境内の端の目立たぬ位置にあり、自由に撞くことができます。
「南無七仏 薬師如来」
「一打鐘聲當願衆生」
「脱三界苦得見菩堤」等の文字が記され、
撞木の反対側に「摩尼珠山松蟲寺」と記されています。

この本堂は寛政十一年(1799年)に建立されました。
ご本尊の薬師如来像はカヤ材の一本彫で、平安時代末期の作と考えられています。
国の重要文化財に指定されていて、中尊に薬師如来の座像を、両脇に三体ずつの
立像を配する七体からなっており、他には滋賀の「鶏足寺」(現在は廃寺)にのみあるという、
大変珍しいものです。
中尊座像は54.3センチ、六体の立像は78センチという小振りな仏様です。
木造薬師如来座像と薬師如来立像(千葉県教育委員会ホームページ) ⇒

本堂の寺額には「瑠璃閣」とありました。

絵馬には松虫姫と牛の絵が・・・

本堂に掲げられているこの奉納額は、彩色が剥げてよく見えませんが、松虫姫が
下総へ向かう道中の出来事を描いたもののようです。
遠州で姫の一行を襲った山賊に、姫を乗せてきた牛が猛然と襲いかかって姫を
助けたという伝説を題材にしたのではないでしょうか?


六柱の神々を祀る六所神社。
その昔、国司はそれぞれの国内の神社を一宮から順に巡拝していましたが、
国府近くに国内の神を合祀した総社を設けてまとめて御参りを行えるように
したものが六所神社であると言われています。
千葉県内には市川と舘山に六所神社という名前の神社があるようです。

風化が進んでいるこのお地蔵さまに記された年号は、宝暦七年(1757年)と読めました。

墓地の入り口に立つこの宝塔に刻まれた年号は、安永九年(1780年)と読めます。

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墓地には、元和、寛文、宝永、元文、宝暦、天保などの年号が刻まれた古い墓石が・・・。


本堂の隣には松虫姫神社があります。
小振りなお社ですが、華やかな色彩に彩られています。

千葉ニュータウンの開発に取り残されたような地域の一角に松虫寺はありました。
次回は松虫姫伝説を中心に紹介します。

細い道路の脇に仁王門を見つけました。
道路から少し高いところにあり、木々に遮られて見落としそうです。



左右に仁王様がおられるのですが、前面のガラスが埃でくもり、中が見えません。
横に貼られていたポスターを写して我慢しました。
右(上)が丹慶の作、左(下)が慈覚大師の作と伝えられています。


仁王門には所狭しと五穀豊穣を願う草鞋や木槌が括り付けられています。
高い場所にあるので、書かれている文字は読めませんが、
さぞかし古いものだろうと思われます。
永正五年(1505年)、千葉・北条の戦で灰燼に帰し、
天文十九年(1550年)に千葉氏によって再興、
文政元年(1818年)失火により全焼、当時の領主の稲葉公が再建するも、
またも火災により焼失・・・という災禍の繰り返しだった仁王門は、
嘉永六年(1853年)に近郷からの浄財を集めて再興されました。
その後長い間荒廃していましたが、昭和59年に修復が行われ、現在に至っています。

仁王門の先に見えるのが本堂でしょうか?


近づいて見ると「延命地蔵尊」という掲額があります。
地蔵堂でした。
この地蔵堂に龍の胴体が祀られているわけです。


地蔵堂の手前に大きな梵鐘がありました。
南北朝の頃の鋳造だと説明板に書かれています。


梵鐘の右奥には日枝神社がありました。



神社の裏手には小さな祠がたくさん並んでいます。
出雲大社、三峰山、浅間神社、諏訪神社、八阪神社などなど、所狭しといった状態です。

地蔵堂の裏手には墓地が広がっていました。
古い墓石に交じって比較的新しい墓石もあります。

大きな灯篭には天保七年(1836年)と刻まれています。
それにしても本堂が見当たりません。
龍腹寺の文字もどこにもありません。

諦めて帰りかけた時、仁王門と地蔵堂から100メートルほど離れたところに
狭い急坂があり、石柱がちらりと見えました。
民家の庭先に出てしまうかもしれませんが、思い切って登ってみます。
石柱には「龍腹寺」と刻まれています。

ここに本堂がありました。
「玄林山龍腹寺」は延喜十七年(917年)に創建された歴史あるお寺です。
(一説には大同二年(807年)とも)
ご本尊は「薬師如来」で、もともとは「勝光院延命寺」と称していましたが、
例の龍の胴体をここに葬った時に、「龍腹寺」に改めたと言われています。

ご本尊が安置されているとなりの部屋では、説法会が行われていました。


仁王門や地蔵堂のある一角に比べると、素っ気ない境内です。
龍角寺と同じく、龍の伝説にまつわるものは見当たりません。
龍腹寺という少し変わった名前に興味をひかれる人は少なくないでしょう。
ちょっと伝説に触れる説明板でもあれば楽しいのに・・・と思ってしまいます。
(お寺は楽しむところではありません、と怒られてしまいますかね)
文久三年(1863年)に創建された龍腹寺の本堂は、
昭和20年の東京大空襲で焼失した「成田山東京別院深川不動尊」の
本堂再建のため、昭和25年に移築されました。
現在の本堂はその後に建てられたもので、詳しい事情は分かりませんが、
その時仁王門や地蔵堂から離れたこの場所に移ったのではないでしょうか。



見つけました!
これぞ、龍の伝説のモニュメント。
お寺の近くの北総線の跨線橋に、龍のオブジェです。
やっと伝説の地にいる実感が湧いてきました。
ここまで来たら、匝瑳(そうさ)にあるという「龍尾寺」を探さないではいられません。
次回は「龍尾寺」を訪ね、小さな龍の伝説を完結させたいと思います。
※ 龍腹寺 印西市竜腹寺626 (住所では“竜”になっています)
北総線印西牧の原駅より循環バス 印旛支所ルートで約8分
龍腹寺東または龍腹寺西下車