下金山の「若王神社」(じゃくおうじんじゃ)を訪ねます。

前回に訪問した「七星神社」と同じく珍しい社号のようで、ネットでやっと二社を見つけました。
岐阜県中津川市と、岡山県津山市の「若王神社」は、「にゃくおうじんじゃ」と呼ばれています。
有名な京都市左京区の「熊野若王子神社」も「にゃくおうじ」と呼ばれますが、ここ成田市の
「若王神社」は「じゃくおうじんじゃ」と呼ぶようです。

平成八年に建立の明神鳥居は、通りから路地をちょっと入ってさらに右へ曲がったところに
あるため、注意して歩かないと見逃してしまいそうです。

鳥居の脇には十数基の墓石が並んでいますが、古いものは倒れています。

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なだらかな石段が続いています。


「千葉県神社名鑑」には次のように紹介されています。
「祭神 事解男命(ことさかのおのみこと) 本殿・流造一坪、弊殿・二坪、拝殿・四坪 境内
坪数三〇坪 氏子四〇戸」
亡き伊弉冉尊(イザナミニミコト)を黄泉国にまで追った伊弉諾尊(イザナギノミコト)は、醜悪
な姿となった伊弉冉を見て驚き、現世に逃げ帰ります。
途中で追いついた伊弉冉と離縁することを決め、吐いた唾から速玉男命(ハヤタマオノミコト)
とともに生まれたのが事解男命です。
唾を吐くことは約束を確認するために行われる行為のようです。
「コトサカ」は「コト」を「サク」の意味で、縁切りと浄化を表していると言われています。
「事解男命」は全国の熊野神社に多く祀られていることから、この「若王神社」も熊野神社の
流れをくむ神社でしょう。
桜田の「熊野大神」や南羽鳥の「熊野神社」のご祭神も「事解男命」でした。

南羽鳥・熊野神社

「成田市史 近代編史料集一」に収録の「下總國下埴生郡下金山村誌」には、
「若王神社 本村字北之内台ニアリ。地坪壱畝歩。祭神ハ伊弉諾尊。創建詳カナラス。」
と記述されています。
一畝は30坪になりますから、「千葉県神社名鑑」の記述と整合がとれていますが、ご祭神は
事解男命の親神の伊弉諾尊とされています。
神社のご祭神に関してはよくあることで、伊弉諾尊と御子神の事解男命の二柱が祀られて
いるということで良いのではないでしょうか。

手水盤には安政四年(1857)と記されています。
(政の字は異体字で、偏(へん)を上に、旁(つくり)を下にしています)


拝殿の小窓から覗くと、薄暗い中に本殿が見えています。
蟇股の彫刻は鳳凰でしょうか。


本殿は大きな鞘堂の中にあるため、その全容を見ることができません。


本殿と鞘堂との間に1メートルほどの隙間があり、そこから本殿の周りを見ることができます。


鞘堂の内壁に、いくつかの掲額が掛かっています。
「昭和拾四年 富士浅間神社 霊峰参拜記念」(上)、「大正七年 伊勢神宮参拜紀念」(下)。

鞘堂ができるまで長い間風雨に晒されていたのでしょうか、大分傷みが目立ちます。
本殿の裏には小さな流造のお社が点在しています。

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何のお社かは分かりませんが、いずれも土台を多くの丸石で固めたしっかりした造りです。

明治三十年(1897)建立の「出羽三山参拝記念碑」。

傾いた祠の前には力石のような二つの石が置かれています。

大木の根元に寄りかかっている石碑があります。
風化と、表面が削られたような痕があり、刻まれた文字はほとんど判別できません。
中央上部に「天」の文字が見え、右端に「植」、左端に「少」の文字が読めます。
「天」は「天照大神(アマテラスオオミカミ)」、「植」は「植安媛命(ハニヤスヒメノミコト)」、
「少」は「少彦名命(スクナヒコノミコト)」と刻まれていたと推測すれば、他には「大己貴命
(オオムナチノミコト)」と「倉稲神命(ウカノミタマノミコト)」の名前が刻まれていたはずです。
これは、五穀豊穣を祈願する「地神塔」で間違いないと思います。
側面に「文政」の元号が読み取れますので、200年近い昔のものです。
「地神塔」は五角の石柱に五柱の神名を刻むものが多く、このブログでもこれまでに江弁須
の「皇産霊神社」、米野の「麻賀多神社」、八代の「稲荷神社」の三基を紹介しています。

八代・稲荷神社

ちょっとしたスポット~米野の麻賀多神社 ☜ ここをクリック
寺社が並立する信仰の場~八代の「善勝院」と「稲荷神社」 ☜ ここをクリック


境内の裏の竹林に道のようなものが見えています。
尾根のような地形で緩やかに上っています。



100メートルほど登ると突然社殿が現れました。
神額も社号標もありません。
社殿の後ろに鳥居があり、その先にお社が見えています。
社殿の形状と鳥居の位置などから考えると、これは神楽殿かもしれません。



神額の文字はすっかり消えてしまっています。
後で調べたところ、ここは「三王神社」のようです。
「千葉県神社名鑑」その他の資料にもこの神社の名前は出てきません。


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屋根には徳川家の紋章である三葉葵が見えます。
「下金山村誌」に「山王神社」として次のような記述がありました。
「字北之内ニアリ。泉城ノ出城ニテ寺台海保守ノ城、押畑千葉家ノ出城ヲ目前ニ望ムコト
ヲ得。祭神ハ大山咋命ヲ祀ル。其後素盞嗚尊ヲ合祀シ三王神社ト改ム。」
「大山咋神」の別名は「山王」で、山の地主神です。
「山王神社」は山王信仰に基づいて滋賀県大津市の「日吉大社」より勧請を受けた神社で、
広く全国に分布し、大山咋神(オオヤマクイノカミ)と大物主神(オオモノヌシノカミ)を祭神
としています。
この二柱に素戔嗚尊が加わって「三王神社」となったわけです。

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昭和57年に寄進された御神燈。
片方は宝珠・傘・火袋の部分が崩れ落ちています。

手水盤には安政四年(1857)と刻まれています。
側には割れた手水盤と同じ安政四年と記された板碑が置かれています。

境内の片隅には、壊れた板碑や石碑が積み上げられています。

昭和61年建立の鳥居を挟んで見た 神楽殿(?) ↑ と三王神社 ↓


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木々の合間からはのどかな田園風景と、空港へ向かう鉄道の高架線が見えています。
その向こうに見えるのは吉倉にある「インターナショナルガーデンホテル」です。



狭い境内の全景を撮ろうと苦戦中に、視線をを感じました。
いつの間にか社殿の横に猫が一匹、じっとこちらを見つめています。
こんな人気のない山中で何をしているのでしょう?
(向こうも同じことを思っているか・・・)
「北之内北方ノ台ニ隆起ス。地形馬ノ背ノ如シ。高サ五丈ニ余レリ。南方耕地ヲ隔テ成田山
アリ。北方ニ新妻、押畑其他数村ノ耕地及長沼及利根川ノ風帆漁船ヲ見ル。又晴天ノ日ニ
極目遠望スレハ常陸ノ筑波、足尾ノ諸山風景ヲ見ルコトヲ得。」
「下金山村誌」には「山岳」と題した、こんな記述も見られます。
これは「若王神社」と「三王神社」のある高台のことを指していると思われます。


南方には鉄道の高架線が横切り、大型のショッピングモールができて、往時の景色とは
一変していますが、かろうじて成田山の一角は見えています。
北方は竹と雑木に覆われて、何も見えません。


深い森の中の「若王神社」と「三王神社」。
かつての見晴らしの良さは半減してしまいましたが、秋の紅葉の時期はきっと鮮やかな
色彩に彩られることでしょう。

※ 「若王神社」 成田市下金山589