
浅間神社

「香取神社」から見てゆきます。

木製の鳥居は控柱の付いた両部鳥居です。

社号標は昭和51年の建立です。

鳥居の脇に二つの手水盤が置かれています。
手前は明治三十一年(1898)、奥の小さい方には「天明六丙午」と刻まれています。
天明六年は西暦1786年になります。

神 額 ***



「千葉県神社名鑑」によれば、ご祭神は「經津主命(フツヌシノミコト)」、本殿は亜鉛板葺で
流破風造の1.2坪、拝殿は亜鉛板葺入母屋造の7坪、境内は647坪で氏子は80戸です。
由緒沿革には次のように書かれています。
「創立は第五一代平城天皇の大同元年で、今の社殿は第一〇七代後陽成天皇慶長九年
庚辰九月一七日の改造になるものという。往時、本村は亀山村と称していたが、邪神駆除
の時に用いられた大神の旗を社殿に納め崇敬したる縁故により、後に幡谷村と改めたと
いわれる」
大同元年は西暦806年で、実に1200年以上前のことになります。
また、慶長九年は1604年ですから、本殿は400年以上前に改築されたことになります。
拝殿は昭和51年に改築されました。


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400年もの風雪を耐えてきたとは思えない、しっかりとした社殿です。
「千葉縣印旛郡誌」中の「久住村誌」には、こう書かれています。
「村社 香取神社 幡谷村字宮下にあり經津主命を祭る由緒不肖と雖慶長九年九月創立に
係る棟札を見る社殿間口七尺奥行七尺拜殿間口三間奥行二間神門高一丈一尺間口八尺
境内六十七坪官有地第一種あり神官は澤田總重郎にして氏子六十九戸を有し管轄廰まで九里
三十一町十一間一尺なり神社明細帳」

境内の右手には、古事記奉上文の一節を刻んだ石碑が建っています。
「明治貳拾六年八月十日」と、「正六位勲六等 岩佐為春書」とあり、次の文が刻まれています。
「議安河而平天下 論小濱而淸國土」
「古事記」は第四十代天武天皇の命によって編纂が始まり、一時期の中断を経て第四十三代
元明天皇によって作業が再開され、稗田阿礼の口述を太安万侶が筆記編纂した我が国最古
の歴史書ですが、「臣安萬侶言 夫 混元既凝 氣象未效 無名無爲 誰知其形~」と始まる
その冒頭の序文の中にこの一節があります。
【安河(高天原の河)で天下(葦原中国=地上のこと)の平定について神々が相談し、小濱
(島根県出雲市にある稲佐の浜)で建御雷神(タケミカヅチノカミ)が事代主神(コトシロヌシ
ノカミ=大國主神)を諭して国土を清めました。】

拝殿前の二基の灯籠には、「天明三癸卯六月」と記されています。
天明三年は西暦1783年で、天明の大飢饉のまっただ中にありました。
この灯籠が寄進された翌月には、死者二万人を出したと言われる浅間山の大噴火が起こり、
飢饉はさらに深刻度を増してゆきます。

境内の左手にある二基の祠は、風化が進んでいて刻まれていたはずの文字は読めません。

大正四年(1915)のこの石碑には次のように刻まれています。
「村社香取神社は平城天皇大同元年の創立にして庶人の崇敬いと厚き古社なり 今上天皇
御即位奉祝の記念として今年三月祭田九畝拾三歩山林八反参畝参歩を氏子より基本財産
に寄附し同八月六日幣帛神撰料供進の式社に列せられる因で御大典擧行の吉事を撰ひ碑
を建て由緒を刻し以て永く後年に傳ふ」
(崩し字が多く一部読み間違いがあるかもしれません。)

境内を出たところに、小さな祠がたくさん並んでいる場所があります。

およそ五十基ある祠は「道祖神」です。
風化でほとんど読めませんが、文化、元文などの元号がかろうじて読み取れます。

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小さな道祖神群に合わせたような小振りの灯籠が並んでいます。
一基には「文政九丙戊歳九月」と刻まれています。
文政九年は西暦1826年になります。
もう一基には「安永■辰」の文字が見えます。
安永年間の干支に「辰」があるのは元年(壬辰)だけですので、安永元年(1772)のもので
あることが分かります。

中央の一番大きな祠には「元文四己未」と刻まれています。
元文四年は西暦1739年、約280年前になります。

道祖神群はスダジイの大木に抱かれるようにして、その根元に並んでいます。

道を渡って「浅間神社」に向かいます。


こちらは石造の明神鳥居です。
社号標は昭和51年のものです。

年代不詳の手水盤


延享年代(1744~48)の祠


この「浅間神社」に関しては「千葉縣印旛郡誌」中の「久住村誌」に簡単に記述されています。
ご祭神は「木花開耶姫(コノハナノサクヤヒメ)」で、社殿は板造小祠であり、神官名や氏子数、
管轄廰までの距離は隣の「香取神社」と同じです。
板造小祠から石造小祠になったのは昭和50年です。
また、「千葉県神社名鑑」の「香取神社」の項に、境内神社として「浅間神社」が記載されて
いることから、この「浅間神社」はもともと「香取神社」の境内にあったものと考えられます。


両神社の間に名古屋地区方向への道路が造られ、「香取神社」の境内社であった「浅間神社」
が境外社となったようです。

両社の間の道路から見た「浅間神社」 ⇑ と「香取神社 ⇓



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境内の外れに建つ、昭和3年の「御大典記念改修道路碑」。
この時、両社の間に道路ができたのでしょうか?




幡谷の「香取神社」と「浅間神社」。
道路に分けられはしましたが、それぞれの社殿の後ろには、まだ豊かな森が広がっています。

※「香取神社」「浅間神社」 成田市幡谷573
香取神社に行った時に、浅間神社は完全にスルーしていました。
寄ればよかったと後悔しています。
香取神社の隣の浅間神社は目立ちませんよね。
後で調べたら、すぐそばのスポットを見逃していた・・・なんてことは
良くあります。 逆に全く知らなかったスポットに偶然出会ったりする
こともありますから、それがまた楽しいといえば楽しいことですね。
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