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Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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大須賀一族の夢の跡、寶應寺
宝応寺ー1

「寶應寺」は曹洞宗のお寺で、山号は「如意山」。
ご本尊は14世紀の作とされる「地蔵菩薩」です。

『寺伝によれば大須賀川対岸の松子城初代城主大須賀胤信が、1202(建仁2)年に
僧古雲朴をもって創建したとされ、同家代々の菩提寺となっている。』

(成田市発行「成田の地名と歴史」P367)

800年以上の歴史があるお寺です。
四文字名が普通の禅宗の僧侶名としては、「古雲朴」という三文字名は珍しいものですが、
一字を欠字にして偉大な僧という尊敬の念を表すことがあるようです。

この寺は幾度か宗派の改宗を行ってきました。
前掲の「成田の地名と歴史」によれば、当初は浄土信仰や天台密教の寺院で、その後
臨済宗に、そして大永年間(1521~1527)に曹洞宗に改宗したそうです。
お寺が改宗することなど考えてもみませんでしたが、結構あることのようです。


宝応寺ー2

細い道から入ると左に明和六年(1769年)と記された宝塔があります。


宝応寺ー3

右側にあるどっしりとしたお地蔵さまの制作年代は分かりません。


宝応寺ー9

慈母観音。


宝応寺ー5
宝応寺ー4

この板碑には線描の観音様が彫られています。
裏面にはびっしりと漢文が・・・難しくて良く分かりませんが、大正6年に76歳で亡くなった
恩師を慕う弟子たちが建立したもののようです。


宝応寺ー6

「奉 讀誦観音経貮萬巻供養塔」。
大正13年に建てられたものですが、これまで壱萬巻は多くのお寺で目にしましたが、
貮萬巻は初めてです。


宝応寺ー7

山門の先にもう一つの山門(?)があり、その先に本堂が見えています。


宝応寺ー8

山門の右手前には、曹洞宗のお寺には必ず見られる結界石。
寛政十年(1798年)と記され、4人の戒名が刻まれています。


宝応寺ー19

左手前には天保四年(1833年)と記された「奉 順禮西國三拾三所観世音菩薩」の石柱。


宝応寺ー11
宝応寺ー12
宝応寺ー13

二つ目の山門です。
立派な山号の「如意山」の扁額です。
なぜ山門が二つもあるのでしょう?
開放的な造りは一見、鐘楼のようにも見える門です。


宝応寺ー14
宝応寺ー15

裏手の山には墓地があり、墓石には元禄や宝永などの年号が刻まれています。
傾き、半分埋まったこの観音像には延宝八年(1680年)と記されていました。
340年もの間、この場所にお座りになっていたのでしょうか。


宝応寺ー24
宝応寺ー25

墓地の一角にこの地の豪族、大須賀一族の墓を見つけました。
比較的新しく見える「大須賀家累世之墓」とある墓石を除くと、どれも風化が激しく、
刻まれた文字は読めません。
大須賀氏は天正十八年(1590年)の秀吉と北条氏との戦で北条方に与し、
敗れて滅亡しました。
この地で権勢を誇った大須賀氏の今は、朽ち果てた墓石しか無いのでしょうか?


宝応寺ー16
宝応寺ー21

本堂の横や裏手、そして山門の前など、あちこちに水が浸み出しています。
裏山に浸みこんだ雨水なのでしょう、湧水とまでは言えない形で流れ出ています。


宝応寺ー17

本堂の屋根には曹洞宗のお寺に共通する桐と竜胆車の門が見えます。
そして本堂正面には大須賀家の家紋である九曜紋が掲げられています。


宝応寺ー18

『大須賀氏の滅亡により一時荒廃したが、1761(宝暦11)年に現在の本堂や
山門などが再建されている。』

(成田市発行「成田の地名と歴史」P367)


宝応寺-19


お寺と地域との結びつきは、昔は今より非常に強いものがありました。
この寶應寺も明治8年に開校した伊能小学校に敷地を貸していました。
境内に子供たちの歓声が響いていたことでしょう。
(後に小学校は別の場所に移り、明治41年大須賀小学校の第一分教場となりましたが、
大正8年に廃校となりました。)


宝応寺ー26
宝応寺-17
宝応寺ー20

境内には芙蓉の株がたくさん植えられています。

大須賀一族の夢の跡、寶應寺。
秋の陽に色づき始めた山門前の大銀杏が、ギンナンの実を落とし始めています。


宝応寺ー27


           ※ 妙見院寶應寺 成田市伊能2619
              京成成田駅より千葉交通バス 佐原粉名口車庫行き
              伊能二区下車 徒歩15分   駐車場あり





テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

大須賀村の寺社 | 21:57:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
石の仁王様が守る廃寺~田中山宝蔵院
今回は秋の景色を探して車を走らせていた時に偶然見つけた廃寺です。
山間(やまあい)の細い道をしばらく走って、ぱっと視界が開けたところに
この寺はありました。

廃寺であることは後で調べて分かったことです。

田中山ー26

まず目に入ってきたのがこの景色です。
仁王像ですが、屋外に立っていてしかも石像です。


田中山ー1
田中山ー2
田中山ー33田中山ー34
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やや小柄で一見愛嬌のある丸顔ですが、なかなか厳しい表情の仁王様です。
寛保三年(1743年)の建立です(後述)。

田中山ー14

帰ってからこのお寺に関する資料を探しましたが、殆ど見つかりませんでした。
千葉県の宗教法人名簿にも記載が無く、見つけた唯一の資料が成田市発行の
「成田の地名と歴史」にあるこの一文です。
『一坪田の小高い丘陵上に観音堂がある。ここはもと田中山宝蔵院という真言宗のお寺で
あったが、明治初期に廃寺となり、十一面観音を本尊とするこの観音堂だけが残された。
入口の石段の左右に像高約145cmの仁王像が建っている。木造の仁王像は各地にあるが、
このような石造の仁王像は珍しい。千葉県内でもこれを含めて3例が知られるだけである。
銘文を見ると、1743(寛保3)年に一坪田の北崎氏が建立したことが知られる。』

(2011年成田市発行「成田の地名と歴史」P175)


田中山ー4

この石段の上にあるのは観音堂だったのですね。


田中山ー5
田中山ー6
田中山ー7
田中山ー8

階段の両脇には三十三観音でしょうか、ずらりと観音像が並んでいます。


田中山ー30階段の脇にいた2mの蛇(このお堂の主?)


田中山ー9

階段を上りさして広くない境内に出ると、まず目に入ったのが多くの寺に見られる
「奉 讀誦普門品一萬巻」の石柱です。
明治26年の建立です。


田中山ー10
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中山ー11
田中山ー12
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中山ー13

そして所狭しと並ぶ板碑を読むと、どれも「田中山三十三年開扉記念碑」です。
大正4年、昭和22年、昭和55年、平成25年と33年おきの4つの板碑があり、
廃寺になって以降も近隣の人々がこの観音堂を守ってきたことが分かります。


田中山ー18

観音堂の裏手にある「奉納 日本廻国」の碑は享保七年(1722年)と刻まれています。
廻国とは諸国を巡礼して廻ることを指すようです。


田中山ー19

「奉納 大乗妙典六十六部日本廻国」と刻まれたこの碑は正徳五年(1715年)のものです。


田中山ー20

「奉納 六十六部供養塔 天下泰平 国土安全」のこの碑は
延享三年(1746年)のものです。


田中山ー25

お堂の中を覗かせていただきましたが、厨子の中に十一面観音が安置されているようで、
内部はきれいに保存されています。


田中山ー21

この石灯籠には寛保二年(1742年)と刻まれています。


田中山ー22
田中山ー24

境内にひっそりと立つ二体の如意輪観音。
写真上の観音様は明治23年と刻まれていました。
写真下の観音様は制作年代は分かりませんが、穏やかで気品のあるお顔です。


田中山ー39

境内の端に子供を抱いた観音像がありました。
抱かれた子供が合掌しています。
文化元年(1804年)と刻まれています。


田中山ー32

平成25年の33年御開扉に際して500万円かけて改修を行った記念碑。
観世音の文字が左からということが今風ですね。


田中山ー27
田中山ー28

開墾のために周りを少しずつ削られてきたのでしょうか、この観音堂は
畑や田んぼの中にポコンと小さな丘が残ったような景色です。
参道の階段と境内の周りは15メートルくらいの崖になっています。


田中山ー41

崖の下に回ると、斜面にもたくさんの観音像が立っています。
これは馬頭観音です。


田中山ー42
・・・・・・・・・・・・・・・田中山ー43
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中山ー44
田中山ー45

この如意輪観音様はお昼寝中でしょうか。
気持ち良さそうに目を閉じておられます。


田中山ー35

廃寺になったとはいえ貴重な歴史的文化財が残る田中山宝蔵寺。
かろうじて残った観音堂は、地元の人々に大切に守られているようです。


田中山ー37


            ※ 一坪田の観音堂(田中山宝蔵院) 成田市一坪田460
               京成成田駅よりコミュニティバス津冨浦ルート 
               前林坂下下車 徒歩約40分(ひたすら登り坂です)
               駐車場なし(スペースはあります)



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本大須賀村の寺社 | 07:12:35 | トラックバック(0) | コメント(4)
十月の風


十月の風は紅(あか)と黄色


十月の風ー2
十月の風ー1・・・・・・・・・・紅はアキアカネの風 
  (長興院 山門) 


十月の風ー3
十月の風ー4・・・・・・・・・・黄色はギンナンの風
  (寶應寺 境内) 


十月の風ー5
  (伊能の農道脇)                                        
                                         紅はピラカンサスの風


十月の風ー12
 (多古 一鍬田)
                                            黄色は小菊の風


十月の風ー15十月の風ー16風に揺れる赤提灯に明かりが灯り
  (京成成田駅前) 


・・・  月は欠けて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・十月の風ー8
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・十月の風ー7   明かりを隠す
十月の風ー6 
  (10月8日の皆既月食)


十月の風ー10
十月の風ー11  すべるように流れる風は
                                     朝霧を大地に塗りつけて行き


十月の風ー13

                              まだ秋の気配を抑えた木の葉を
                                 風がかすかに揺らしながら
                                    紅と黄色を少しずつ削り出す





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 風  | 07:19:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
山門は国の文化財~長興院
長興禅寺ー10



長興院(ちょうこういん)は国道51号線沿いの伊能にある曹洞宗のお寺で、
山号は「亀鶴山」(きかくさん)、ご本尊は「十一面観音」です。
創建の年代は残念ながら分かりません。
昔は少し離れた横山村にありましたが、火災に会ってこの地に移ってきたようです。
天正十九年(1591年)には幕府から20石の朱印地を賜るなど、格式のあるお寺です。

延徳二年(1490年)に江戸崎城主・土岐原景成により創建された茨城県江戸崎の
管天寺の末寺になります。


長興禅寺ー1

国の重要文化財に指定されている山門です。

脇に成田市教育委員会の解説が書かれた柱が立っています。
『正面三間、側面二間の禅宗様の山門です。十二脚楼門で、屋根は入母屋銅板葺、
二層構造の階上部には高欄が巡ります。正面南北の虹梁には唐草の透かし彫りが
施され、主要部は欅材で、素朴な中にも重厚な門となっています。建築年代は
宝暦年代(十八世紀)と推定されています。』



長興禅寺ー3

小さな鐘が吊るされていました。


長興禅寺ー24長興禅寺ー25
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
詰組という工法で建てられていて、とても頑丈そうです。


長興禅寺ー2

以前は山門内に十六羅漢を祀っていましたが、今は本堂内に安置されています。


長興禅寺ー4
 山門の右奥にある鐘楼  長興禅寺ー18


長興禅寺ー6

山門をくぐると左に観音堂があります。
文字が消えかかっていて良く読めませんが、「大須賀神社本地仏」とあり、
「明治十八年新造」と書かれています。
脇にある常夜燈は文政五年(1822年)に作られました。


長興禅寺ー21
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長興禅寺ー22
長興禅寺ー5

このお地蔵さまは端が欠けていて年代が分かりません。


長興禅寺ー7

平成21年の建立です。


長興禅寺ー9
長興禅寺ー8

このお地蔵さまは腫れぼったい目をしています。
どこかで見たような気がするお顔です。


長興禅寺ー11
長興禅寺ー23

屋根には曹洞宗の寺院で必ず見る竜胆車の紋が光っています。


長興禅寺ー14

山号の亀鶴山。


長興禅寺ー12
長興禅寺ー13

本堂の裏手の墓地には古い墓石が並んでいました。
延宝、貞享、元禄、宝永、宝暦、明和、安永などの年号が読めます。


長興禅寺ー15

境内は手入れが行き届いている感じです。


長興禅寺ー16

国道51号線からの参道の入り口に小さな結界石がありました。
曹洞宗のお寺には必ずと言って良いほどあるもので、戒壇石とも呼ばれます。
「不許葷酒入山門」と刻まれているので、曹洞宗のお寺を訪ねる時には
昼食にラーメン・餃子は禁止です。
 祥鳳院の結界石 ⇒


長興禅寺ー26
長興禅寺ー27

けいだいに向かって大須賀小学校の門があります。
普段は使われていないようですが、以前はこちらが正門だったのでしょうか、
懐かしい二宮金次郎の石像がありました。


長興禅寺ー19
長興禅寺ー17

国道をほんの少し入っただけですが、境内は静かな空気が流れています。


長興禅寺ー28


               ※  亀鶴山長興院  成田市伊能556
                  京成成田駅から千葉交通バス「佐原粉名口車庫」行き
                  伊能学校下下車 2分



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大須賀村の寺社 | 07:53:24 | トラックバック(0) | コメント(2)
門前四か町の「田町」には宵待草のロマンが・・・

本町、上町、仲町、田町の4町は成田村時代からの門前四か町です。

今回はその田町をぶらついてみます。

田町ー1

スタートは成田山の東門です。
東参道を歩いてきた人たちはこの門から境内に入ります。


田町ー2

東門の脇に「洲之崎稲荷」があります。
周りの建物に隠れて見落としがちな場所です。


田町ー3

人一人が立つといっぱいになってしまう境内に、唯一あった石碑です。
「昭和十六年石坂修繕 三須重五郎」と記されています。


田町ー4

祠の中のキツネは怖いくらいの眼力です。


田町ー5

東門から東参道方向を見ています。
左側にあるのは「旅館 はま屋」です。
きっとこの場所で昔から参拝客を泊めていたのでしょう。


田町ー7

東門の少し先の細い路地を入ると「成田山仏教図書館」があります。
名前からは想像できないモダンな建物です。


田町ー6

仏教図書館脇の階段から見上げる三重塔は、傍で見るときより一層華麗な姿です。


門前4町ー6門前4町-7

仏教図書館への路地の一本先の路地を上ると成田小学校があります。
小学校の裏手への草むした細道の先に忘れられたような小さな墓地がありました。
かろうじて元禄、享保、文化等の年号が読めました。


田町ー8

東参道に戻ると「詩仙香房」というお香の店がありました。
いかにも門前町らしいお店です。
民芸品や細工を施したロウソクなども並んでいます。


田町ー9

公民館です。
成田図書館の分館や客席200程度の市民ホールなどがあります。


田町ー10

公民館の前で東参道の標識を見つけました。
以前に「成田山東参道を歩く」の項で東参道の標識は一つしか無いと書きましたが、
見落としていたことに気づきました。
成田山東参道を歩く ⇒


門前らしいお店が続きます。

門前4町-10     武道具屋さん
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・門前4町-9
田町ー11  祭り用品の専門店
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田町ー12


門前4町ー11

田町の山車蔵です。
田町の山車は人形がせり上がる二層式で、前面には唐破風の踊り屋台がついている
伝統的な様式です。
人形は素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。


田町ー13
田町ー14

東参道をしばらく進むと、左側の道路から少し高い所に水子地蔵と子安地蔵が見えます。
3メートルほどの高さにありますので、車で通ると目には入りません。


田町ー15
田町ー16

水子地蔵と子安地蔵との間に数基の石仏が並んでいます。
写真上の石仏は「准胝観音(じゅんていかんのん―准堤観音と書かれることもあります)で、
6本の手の内、中央で合掌し、右手に蓮を左手に羂索(けんじゃく)を持っています。
明和四年(1767年)の建立で、何気なく立っていますが、大変珍しいもののようです。

『准胝観音は・・・・・墓地などの六観音像のその姿を見かけるが、准胝観音だけを独立して
一基とするのは少ない。沖本博氏も「房総の石仏百選」の中で本像を取り上げ、「准胝観音
は真言宗系の六観音のひとつとして造立される(天台宗では不空羂索観音となる)。単体
としての造立は少なく、千葉県下でも他に例がない。全国的にみても造立例は少ない石仏
の一つである」と述べられている。』
(「成田の史跡散歩」崙書房 小倉博 著 P30)
『ヒンドゥー教の女神チュンディーの音号。初期の経典では准堤仏母などと呼ばれ、
観音の名がない。このため、准堤は観音ではないという説もあるが、日本では六観音の
一尊に数えられている。仏母は仏の母親の意味で、この観音が衆生を救済するために、
多くの仏を生み出したことを表す。』
(「仏像鑑賞入門」幻冬舎 瓜生中 著 P120)


田町ー18

お地蔵さまの脇の階段を上ると、白髪毛(しらばっけ)と呼ばれる墓地があります。


田町ー17

墓地の奥には成田が生んだ女流俳人、三橋鷹女の墓と句碑があります。
「鴨翔たば われ白髪の 媼とならむ」の鷹女の句が記されています。


田町ー19

墓地を登り切ったところは成田山公園でした。
何度も歩いた成田山公園ですが、こんな風につながっているとは知りませんでした。


田町ー20

墓地と公園の境目に珍しい石碑が立っていました。
「奉納 下田耕地 三反壹畝拾歩 嘉永三年戌十月」と刻まれています。
耕作地を奉納することもあったのですね。


田町ー22

再び参道に戻って寺台方向に進むと左手に成田高校・中学の正門があります。
成田高校の住所は成田市成田になります。


田町ー23

高校の正門前はロータリーになっています。
先にちょっと進むと道路を挟んで田町側にちらっと成田高校の陸上グランドが覗けます。
ハンマー投げの室伏やマラソンの増田が汗を流した場所です。


田町ー27
田町ー24

参道を離れて根木名川方向に入って行くと、そこは住宅街でした。
「田町街区公園」がありましたが、滑り台が1つあるだけであとは雑草だけでした。
いまどきの子供たちは公園で駆け回ることなどしないのでしょうか。


田町ー25

根木名川にかかる「てらみばし」です。
今ではほとんど見えませんが、昔はここから成田山が一望できたのでしょう。


田町ー26

ぐるっと回って総門の近くに出てきました。
東門の傍と同じように、たぶん昔からあっただろうと思われる旅館が2軒並んでいます。


東門の近くに戻ってきました。
公民館を挟んで田町にゆかりのある2人の有名な女性の居住跡地があり、
説明板もかかっています。

田町ー28
田町ー29

三橋鷹女(1899~1972)は昭和の時代に中村汀女、星野立子、橋本多佳子とともに
4Tと呼ばれた女流俳人で、その表現の激しさで知られています。
代表的な句は、
鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪うべし
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり                
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
などです。
鷹女の像は表参道の薬師堂の向かいにある公園に立っています。 
成田山表参道を歩く(2)⇒

長谷川カタ(1890~1967)は竹久夢二の「宵待草」のヒロインとして知られています。

明治43年、夢二は前年に離婚した岸たまきとよりを戻して、2歳の息子を連れて銚子の
近くの海鹿島(あしかじま)の宮下旅館に避暑のため滞在していました。
カタの一家は秋田から宮下旅館の隣に引っ越してきていて、成田の高等女学校の教師
である姉のところに身を寄せていたカタ(当時19歳)が、たまたま訪ねて来ていたのです。
出会った二人は惹かれあい、いつしか近隣住民の噂になるほどになりましたが、夢二は
夏の終わりとともに家族と帰京することになります。
夏休みで実家に戻っていたカタも成田へ戻りましたが、その後も何度か夢二は成田に
カタを訪ねてきます。
家族のある夢二との交際を心配した父親が、急いで結婚話をまとめ、翌年夢二が成田を
訪れたときには、カタは嫁いで鹿児島に去った後でした。
悲しみの中、思い出の海辺でカタを想い、マツヨイグサに気持ちを寄せて書いた詩が
「宵待草」です。

宵待草は高峰三枝子が歌ってヒットしましたが、短い期間ではあってもほんの近くに
暮らしていたカタと鷹女の二人が言葉を交わしたことはあったのでしょうか。

宵待草は正しくは待宵草(マツヨイグサ)ですが、夢二が詩の流れの良さから、宵待草と
したと言われています。

田町ー30
「ナンでも図鑑」ヨイマツグサ ⇒

門前4町ー2
門前4町ー1

どこからか懐かしい「♪ト~フ~」のラッパが聞こえます。
野菜や惣菜、食品などを売る移動販売車です。
田町の住宅地には、こうした生活感のある風景がありました。


田町ー31




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まち、町 | 07:43:30 | トラックバック(0) | コメント(4)
須賀神社と清龍寺、道を挟んだ神社とお寺
たまたま通りかかった道筋で、「須賀神社」を見つけました。

須賀神社ー1

「須賀神社」は安政年間に社殿が全焼したため縁起が残っていませんが、
仁寿三年(853年)に創建されたと伝えられる歴史ある神社です。
ご祭神は「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)」。


須賀神社ー2

『「助崎の天王様」と呼ばれ、近隣のみならず常陸方面からも信仰を集めている。』
(成田市発行「成田の地名と歴史」P285)
この扁額もこのことを証明しています。
それにしても50年連続しての参拝とは驚きです。


須賀神社ー3
須賀神社ー13

拝殿と周辺は荒れた感じです。
木は朽ち、防火桶には大きなひびが、境内も雑草が・・・。


須賀神社ー19
須賀神社ー4須賀神社ー5
本殿は重厚な感じのする造りで、屋根に千木や堅魚木(鰹木)はありません。


須賀神社ー16

物置でしょうか、これも大分傷んだ建物です。


須賀神社ー6
須賀神社ー7

本殿の裏に窪地があり、小さな祠があります。
観音堂のようです。
周りは雑草が生えて、最近人が通った形跡はありません。


須賀神社ー9
須賀神社ー10

境内には数本の大木が、太い根を張って立っています。


須賀神社ー14

7月の祭例は「助崎の祇園」と呼ばれ、薙刀を先頭に御輿が練り歩きます。
(成田市ウェブサイト リンク 助崎の祇園」 ⇒

須賀神社ー15

鳥居は明治44年建立されました。
歴史ある神社の荒れた姿は寂しい限りですが、ここにも少子高齢化の波が
押し寄せ、地域住民と神社仏閣との絆を細くしているような気がします。


清龍寺ー9

道を挟んで細い路地がありました。
奥に何やら柱のようなものが見えます。


清龍寺ー1

「妙光山清龍寺」と浮き彫りされた木柱が立っていました。
通りからは見えませんが、お寺です。


清龍寺ー11

南妙法蓮華経と記された石碑。
元文四年(1739年)の建立です。


清龍寺ー3
清龍寺ー4

「清龍寺」は弘治二年(1556年)に建立された日蓮宗のお寺で、山号は「妙光山」。

「助崎大須賀氏の一族である大須賀胤朝(法号は常顕日道または日清幽儀)が日蓮宗に
帰依し、「大須賀家蔵大須賀系図」によれば1556(弘治2)年、助崎城跡に下に建立した。」

(成田市発行 「成田の地名と歴史 P287)


清龍寺ー5

境内の一角に古い墓石が並んでいます。
宝永、享保、宝暦、安永、寛政など、古い年号が刻まれています。


清龍寺ー12

無住のお寺のようです。
境内はがらんとしています。


清龍寺ー7

本堂脇の墓地に並ぶ墓石には、享保、安永、嘉永などの年号が記されています。


清龍寺ー8

頭部が落ちた石塔の台座には「奉 蓮華経」の文字だけが読めました。

たまたま通りがかっただけですが、須賀神社や、この450年以上の歴史あるお寺の現状は、
いろいろと考えさせられるものがあります。


須賀神社ー21


               ※ 須賀神社 成田市名古屋564
                  JR滑河駅より徒歩約50分
                  循環バスがありますが、本数が少ないので注意が必要です








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小御門村の寺社 | 15:31:29 | トラックバック(0) | コメント(3)
照于か照千か・・・土屋の薬王寺

「薬王寺」は以前に「裏参道を歩く」の項で紹介しましたが、今回あらためて訪ねてみました。

薬王寺ー1

「薬王寺」(やくおうじ)は天台宗のお寺で、山号は「仏法山」。
ご本尊は平安時代後期の作である「木造阿弥陀如来座像」で、
成田市の指定文化財です。
もともとは土屋にあった殿台城の城主、馬場伊勢守勝政の持仏で、
平安時代後期の作とされています。


薬王寺ー2

裏参道から細い路地を入った石段の上に立派な山門があります。


薬王寺ー3
薬王寺ー4

火災により記録が消失したため、創建の年代は不明ですが、天正八年(1580年)に
中興したと伝えられていますから、長い歴史を持ったお寺です。
天正八年とは、NHKの大河ドラマの「軍師官兵衛」に出てくる三木城主・別所長治が
秀吉に攻められ、毛利からの援軍を得られずについに自刃した年です。


薬王寺ー5

装飾の少ないすっきりとした本堂です。


薬王寺ー6

「関東百八地蔵尊霊場第六十九番札所」の木柱。
埼玉県川越にある瑤光山最明寺を一番とし、東京・巣鴨の萬頂山高岩寺を結願寺とする、
関東の1都6県にまたがる札所です。
以前に紹介した東勝寺・宗吾霊堂は七十番になります。 
 ⇒ 東勝寺


薬王寺ー9

見事な多重塔です。


薬王寺ー10

客殿。


薬王寺ー12
薬王寺ー11

井戸の奥に立つ石板には中央に「奉 讀誦普門品五萬巻供養塔」と刻み、
左右に「国家安穏」「天下泰平」と記されています。
天保六年(1835年)に建立されました。
普門品(ふもんぼん)とは観音経のことです。


薬王寺ー13
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・薬王寺ー8

境内に住みついた二匹の猫がここは自分の縄張りだとばかりに睨みつけています。


薬王寺ー14

この新しい建物は永代供養塔です。
半年ほど前にここを訪ねたときには無かったものです。


薬王寺ー16

本堂に向かって右側の階段を上ると墓地になります。
ふと振り返って本堂を眺めた時、大変なものを見つけました。


薬王寺ー19
薬王寺ー18

本堂正面の軒下にスズメバチの巣が見えました。
カメラをズームして見ると、たくさんのスズメバチが出入りしています。
先ほどお参りしたときには気がつきませんでしたが、参拝者が襲われたら大変です。
(今週あらためて訪ねた時には巣は取り除かれていました)


薬王寺ー17

墓地の奥、客殿の屋根に隠れるように、狭くて急な「福聚観世音」に通じる石段があります。
分かりにくい場所ですし、今は登る人もいない様子です。
「福聚観世音」は「裏参道を歩く」の項にも写真があります。
 ⇒ 裏参道を歩く


薬王寺ー37

薬王寺観音堂「福聚観世音」。
このお堂を抜ければ、成田山の平和大塔や光明堂が目の前です。
 ⇒ 光明堂


薬王寺ー38
薬王寺ー36


観音堂から戻る階段を下って行くと、急斜面の先に小さな祠が見えました。
息を切らして登ってみましたが、傾いた祠には何もありません。


薬王寺ー31

墓地に戻ると一段高い場所に6基の墓石が並んでいます。
難しい字ばかりですが、一番奥から「竪者 法印俊峯大和尚位」天保十四年(1843年)、
「大乗妙典供羪塔」文化二年(1805年)、「不退心院大阿闍梨 竪者法印豪海位」
大正10年、「法印俊慶塔」明和二年(1765年)、「竪者 法印尊城和尚位」(年代不明)、
「自浄院大阿闍梨 大律師豪観和尚位」昭和十一年、と読めます。
「竪者(りっしゃ)」とは聞きなれない言葉ですが、仏法論議での質問に答える僧のことで、
要するに仏法を極めた偉いお坊さんということでしょうか。

「大乗妙典供羪塔」の側面には「一石一字書寫」と刻まれています。
これは、お経を一つの石に一文字ずつ写し、それを埋めたもので、埋経(まいきょう)と
呼ばれるものの一種です。
私が好きなお寺の一つ、秩父の札所三十四番・水潜寺(日本百観音結願寺)では、
お経の文字が一字ずつ出てくる札を見て、その文字を小石に書き写して祠の下に
滑り落とすことができますが、同じ行(ぎょう)ですね。


薬王寺ー25

風化が進んでいますが、珍しい石造りの「阿弥陀三尊像」です。
かろうじて正徳六年(1716年)と読めます。


墓地内には多くの石仏が・・薬王寺ー28
薬王寺ー29


薬王寺ー30

墓地の入り口近くに目立つ石碑が立っています。
「春水柳田行義之墓」と刻まれた石碑には難しい漢文が記されています。
何やら故人の業績を称え、その死を悼む文のようです。
天保六年(1835年)に建立されたものです。


薬王寺ー22

帰路、山門から下る石段の途中にある石板には「照于一隅此則国宝」と記されています。
「比叡山開創一千二百年記念」として建立されたとありますが、この最澄の言葉には
「照一隅此則国宝」と読むか「照一隅則国宝」と読むかの二説があり、
とても興味深いものです。
伝教大師最澄が弘仁九年(818年)に天台宗の修行規定として書いた「山家学生式」
(さんげがくしょうしき)にある言葉で、「照于一隅此則国宝」(一隅を照らす、これすなわち国宝
なり)が一般に広く知られている言葉と意味ですが、最近の学説では「照千一隅此則国宝」
(一隅を守り千里を照らす、これすなわち国宝なり)が正しいとされています。
最澄の時代の背景を考えると「照千一隅~」なのでしょうが、「照于一隅~」が長年人々の心に
響いてきた言葉と意味なので、この方が良いと判断されたのでしょう、薬王寺のこの碑には
于と彫られています。


薬王寺ー23
薬王寺ー15

地形的には成田山の真下ですが、木立に視界を阻まれて気づかれることはありません。
裏参道からも少し入ったところですので、訪れる人は少ないようです。
さして広くはない境内ですが、訪れるたびに新たな発見があるお寺です。


薬王寺ー40


               ※ 仏法山薬王寺 成田市土屋8
                  JR成田駅から徒歩約25分



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成田町の寺社 | 07:08:25 | トラックバック(0) | コメント(2)
成田山の火渡り修行(紫灯大護摩供)
成田山新勝寺では5月、9月、12月に野外で行う御護摩祈願の紫灯大護摩供
(さいとうおおごまく)が行われます。
今回は9月28日に行われた紫灯大護摩供と火渡り修行の様子をお伝えします。
東日本大震災以来、成田山では事あるごとに震災復興祈願を行ってきましたが、
今回も陸前高田市の高田松原の松をお焚きあげして、物故者の供養と被災地の
復興を祈願しました。

火渡り修行ー1
火渡り修行ー5

大本堂と釈迦堂の間の広場に祭壇が設けられ、果物と野菜、お餅などが
供えられています。


火渡り修行ー2
火渡り修行ー4

火を使う行事ですから、万一に備えて消防車が待機しています。


火渡り修行ー3

見物客が続々と集まってきます。
集まり方を見ていると、この修行を見物するために成田山に来たというより、
たまたま参拝しに来たら幸運にもこの修行に出会った、という人の方が多い感じです。


火渡り修行ー9

お坊さんが、この修行についての解説を始めます。


火渡り修行ー11
火渡り修行ー12
火渡り修行ー13

修行が始まりました。
修験者が四方に向かって弓を引き、刀をかざしたりしています。


火渡り修行ー14

お坊さんの右手には護摩札が積まれています。
この後この護摩札のお焚き上げが行われます。


火渡り修行ー15

高く積まれたヒバの枝に火が点けられます。


火渡り修行ー16火渡り修行ー17
火渡り修行ー18

燃え上がる炎に向かって見物客が合掌していますが、風向きによっては
それどころではなくなります。

私は少し離れた大本堂の回廊から見ていますので、煙にまかれることはありません。


火渡り修行ー19
火渡り修行ー21

ある程度炎が回ると煙は少なくなり、護摩木の投げ入れが始まります。


火渡り修行ー22

見物客の手荷物を修験者が預かって炎にかざし、厄除け祈願をします。


火渡り修行ー24

火勢が弱まると、燃えカスを叩いてならし、火渡りの準備をしています。


火渡り修行ー25

風が吹くと消えたはずの炎がまた上がり、なかなか鎮まりません。


火渡り修行ー26

いよいよ火渡りの始まりです。
最初にわたる修験者が精神を集中させています。
火渡り修行は正式には火生三昧耶法(かしょうさんまやほう)と言い、心を静めて集中し、
お不動様と一体となる修行です。


火渡り修行ー27

修験者が火渡りを始めると見物客からどよめきが上がりました。


火渡り修行ー29
・・・・・・・・・・・・・・・・火渡り修行ー30
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・火渡り修行ー31

精神を集中し真ん中をゆっくりと歩けば、それほど熱くはないそうです。
ただ、あせって早足になると真ん中を外れてまだ熱い部分を踏むことになり、足の裏が地面に
平行に出せないため燃えカスを掘り返してしまい、結局熱い思いをしてしまいます。


火渡り修行ー32

でも、どうしても途中から走ってしまいます。


火渡り修行ー28

修行が足りないとこうなります。


火渡り修行ー34
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・火渡り修行ー33

ただ一人の女性修験者は合掌を崩さず見事に渡りきりました。


火渡り修行ー35
火渡り修行ー36

希望すれば一般の方も火渡りを行えます。
しっかり渡る人も少なくありませんが、時間が経っているので、修験者が渡った時よりは
熱さもさほどではないようです。
それにしても見事な渡りっぷりでした。


火渡り修行ー37

火渡りの一般参加者は女性の方男性よりも多いように見えます。


火渡り修行ー38

渡り終わった人たちは水で足を洗ったり、冷やしたりしています。


火渡り修行ー39

勇気ある小学生の渡り。


火渡り修行ー40

こんな見物客もまじっていました。


火渡り修行ー7

釈迦堂の火伏せの鬼もじっと見守っています。


火渡り修行ー41

火渡りの希望者は長い列を作って順番を待っています。
その列は釈迦堂の前を通り過ぎて、裏門の方まで続いていました。


火渡り修行ー23

9月は成田山のお参り月、そして毎月28日はご縁日です。
普段は格子の間から拝む本堂裏の大日如来像も御開帳になっています。


火渡り修行ー42

火渡り修行が行われている間にも、お参りの人が途切れることはありません。




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成田山 | 07:26:37 | トラックバック(0) | コメント(4)
迎接寺~歴史に埋もれた寺
「迎接寺(こうしょうじ)は浄土宗のお寺で、山号は「冬父山」。
弘仁三年(812年)弘法大師の開山と伝えられる歴史あるお寺です。

迎接寺-13

『当寺の創建は古く、たび重なる火災により確たる記録を失なっているが、古来より
阿弥陀信仰の霊場として広く知られ、天台・真言・浄土宗兼学の道場として隆盛した
大伽藍であった。
寺伝によれば、弘仁3年(812)弘法大師弘通のため、大和国法隆寺に御参籠せしとき、
夢に高僧紫雲に乗じて現われ、聖徳太子彫刻せらる三尊の仏を守護して東国に下降し、
広く衆生済度せよとの霊告あり。
大師ただちに東国に降り、下総の並木城下に着いたおり、城主神崎多五郎入道政吉、
夢告により大師に拝することを得る。政吉、大師の請いにより大檀主となり、一三の霊水
ある当山に根本多宝七堂伽藍を創建し、太子彫刻せる三尊を本尊とする。』

(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)冬父山迎接寺 三世院または淨光院03.03.10より)

大伽藍があったとは思えないこじんまりとしたお寺です。
御本尊は千葉県指定文化財の「阿弥陀如来及び両脇侍像」。

迎接寺ー34
リンク ⇒千葉県ホームページ・文化財紹介ページ 迎接寺「阿弥陀如来及び両脇侍像」

木造の仏様で、「阿弥陀如来」を中尊として左脇侍が「観音菩薩」、右脇侍が「勢至菩薩」。
その特徴から、平安時代末期または鎌倉時代初期の作とされています。
寺伝による聖徳太子が彫った三尊仏だとすると年代が合いませんが、
800年以上前の制作です。

迎接寺ー1


『良喜上人住すると帰依する者多く、新たに洪鐘を納めるにより浄土宗の道場となるも、
後に兵火にあい伽藍衰微する。
天文2年(1533)村人に請われ、良迦上人の弟良晃上人が中興となり、浄光院と改号する。
良晃上人のあと良興上人・良賢上人・良勤上人住し、宗風大いに振るい寺門栄える。
塔頭7ヶ院あり、明治6年(1873)に廃された。
当時域内に六堂・五木・十三井あった、と伝えられている。』

(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)冬父山迎接寺 三世院または淨光院03.03.10より)

歴史ある寺ですが、度重なる火災や兵火にあって盛衰を重ねてきました。


迎接寺ー2

山門は傷みが激しく、風化により木が痩せて隙間が目立ちます。


迎接寺-27
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・迎接寺-26

特に派手な装飾は施されていませんが、中央には虎と思われる彫刻がありました。


迎接寺-3

山門から本堂へ向かう細い参道は左は山、右は杉並木で100メートルはありそうです。


迎接寺ー5

参道脇に色あせて傾きかけた鬼舞面の説明板がありました。
迎接寺には長徳年間(995年~999年)から伝わる鬼舞の民俗芸能がありましたが、
昭和22年を最後に今は鬼舞は行われず、舞に使われる面が収蔵されているそうです。

当寺「鬼面判談法会」の記録は、永禄7年(1564)より弘化5年(1848)の間に10回、
33年に1度宛欠さず修行している。
法会修行日数は晴天10日間、江戸末期になり7日間になっている。この間、
延享3年(1746)、明和5年(1768)、寛政11年(1799)に火災にあう。
この3度の火災により伽藍・旧記等ことごとく焼失するも、本寺大沢山円通寺に有った
冬父山本尊並鬼面略縁起・判談法会次第等の記録を書写し、これにより判談法会を
上演したという。尚、最近では、大正5年(1916)、昭和22年(1947)に修行されている。

(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)冬父山迎接寺 三世院または淨光院03.03.10より)

板面が汚れていて見にくいのですが・・・
迎接寺ー8 閻魔大王・赤鬼・青鬼
迎接寺ー9 黒鬼・黄鬼・白鬼
迎接寺ー10 三途河姥・幽霊・伎楽面
迎接寺ー11 悪童子・善童子・影向の観世音
迎接寺ー12 酒水観世音


千葉県のホームページの中でこの鬼舞面の1つを見つけました(赤鬼面)。

迎接寺ー33
リンク ⇒ 千葉県ホームページ・文化財紹介ページ 迎接寺「鬼舞面」

この鬼舞の発祥年代は不明ですが、言い伝えによれば、この地に住んでいた僧・源信が
死の淵をさまよった際に見た地獄や極楽の様子や阿弥陀如来による救いと悟りの世界を、
人々に伝えるため長徳四年(998年)に面を彫ったのが始まりです。


迎接寺-14

本堂手前の蓮池には大きな鯉が泳いでいましたが、背ビレが水面上に出てしまうほど
水量が少なく、泳ぎにくそうでした。


迎接寺-15

本堂前にある菩薩像。


迎接寺-18

本堂の横にあるこの石碑は風化が激しく、「門人建立」の文字だけが読み取れました。


迎接寺-16

本堂の裏手は熊笹や竹が密生する山です。


迎接寺-23
迎接寺-20

屋根に大きく「水」の文字が書かれています。
どんな意味があるのでしょうか?
弘法大師には水に関わる伝説が多く残っていますが、これに関係あるのでしょうか。
それとも冒頭の千葉県浄土宗寺院誌からの引用にある「一三の霊水」に絡むのでしょうか。
      ※ 懸魚(けぎょ)の一種で火伏せのまじないだろうとのご指摘をいただきました。
         なるほどです。 ありがとうございました。 10.05)


迎接寺-21
迎接寺-22

境内の片隅にひっそりと咲くホトトギスと曼珠沙華。


迎接寺-28
迎接寺-29迎接寺-31
山門の脇の斜面を登るとたくさんの古い墓石が並んでいます。
いくつかの墓石から宝暦とか寛政とかの年号が見えますが、ここまで登ってくる人は
今ではいないようで、雑草の生い茂る斜面には道はありません。


迎接寺-32
迎接寺-25

この寺のある冬父(とぶ)は平成22年の統計で世帯数はわずかに7世帯、
人口24人しかいないさびしい山間地です。

『1844(弘化元)年の家数6軒、人数28人、馬3頭。1856(安政3)年の家数6軒、
人数28人、馬5頭。1865(慶応元)年の家数7軒、人数32人、馬5頭。』
『1882(明治15)年の「冬父村沿革歴史」には、「天保ノ晩年、殆ト衰却シテ、当今六戸ヲ
現存セリ・・・県下無比ノ一小村」と記されており、小さい村であった。』

(成田市発行「成田の地名と歴史」(2011年)」143P)
という記録にあるとおり、この地はもともと小さい村であったようです。

鬼舞の伝統も途絶えて久しい迎接寺。
かつては大伽藍があったと言われても、今は想像もできない景色です。
昔のお寺の場所は別のところだったのでしょうか。
それとも、狭い山道の片側にあるわずかばかりの田畑が、もとは境内であったのでしょうか。

歴史が埋もれている迎接寺。
時間の流れが人々の記憶からこのお寺を消してしまいそうです。


迎接寺ー35


               ※ 「冬父山 迎接寺」 成田市冬父86
                滑河駅より徒歩約50分
                分かりにくい場所なので良く地図で調べてからお訪ねください
                (道が狭く、車はお勧めできません)



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小御門村の寺社 | 07:51:03 | トラックバック(0) | コメント(2)
開業100年を越える滑河駅
滑河駅ー1

滑河(なめがわ)駅はJR成田線の駅で成田から佐原、銚子、香取神宮に
向う途中の駅で、明治30年に成田鉄道の貨物・旅客駅として開業した、
歴史ある駅です。
大正9年に建てられた木造の駅舎は平成17年に改築されました。


滑河駅ー5
滑河駅-20

日中は1時間に1~2本、通勤・通学時間でも2~3本の電車しか通りません。
1日の平均乗降者数は約1000人です。


滑河駅ー4

駅舎のある右側が2番線、跨線橋を渡った左が1番線です。
上下線とも行き違いがある場合を除いて2番線を使います。


滑河駅ー3
滑河駅ー6

編成の短い電車ばかりですから、ホームの端は雑草でいっぱいです。


滑河駅ー7
滑河駅ー8

銚子行きの電車が入ってきました。


滑河駅ー9
滑河駅ー10

降りた人は10人あまり、佐原・銚子方面に乗って行った人は2人でした。


滑河駅ー11

跨線橋の上から見た成田方面の景色です。

平成23年3月10日の午前11時ごろ、貨物列車の脱線転覆事故が起きました。
幸いけが人はありませんでしたが、静かな駅周辺は大変な騒ぎだったことでしょう。
ようやく復旧した翌日の午後2時過ぎに三陸沖の大地震、東日本大震災が起こり、
再び運行が中止されました。
長い歴史の中でも、この駅にとっては記憶に残る2日間でした。


滑河駅ー15

1番線ホームです。
待合室は大正9年のものがそのまま残されています。


滑河駅ー14

2番線の銚子方面に、猿山踏切があります。


滑河駅ー2
滑河駅ー12

1番線のホームにくっつくように鳥居が建っています。
ホームとの間には細い道が一本あるのみで、手が届きそうな近さです。
「天満宮」との掲額がありますが、資料によればここは「宰府天満宮」で、
以前の参道を鉄道と駅が横切ってしまったため、このような形になってしまった
ということです。


滑河駅ー17

跨線橋から見た佐原方面です。
単線区間ですが、銚子までの間の駅としては比較的大きい駅です。
線路は佐原の先の香取駅から銚子方面と鹿島神宮方面に分かれて行きます。


滑河駅ー16

電車が発車した後は、駅舎に人影はありません。


滑河駅ー21
滑河駅ー22

Suicaが使えるようになったのはつい最近、平成21年からです。
改札の向こうに天満宮の鳥居が見えます。


滑河駅ー24

改札横の待合室はガラス張りの明るい雰囲気です。


滑河駅ー19

コミュニティ・バスが乗客を待っています。
結局乗客のいないまま出発して行きました。


滑河駅ー18

成田方面行きの電車の時間が近づいてきました。
ちらほらと乗客が集まってきます。
開業以来こうしたのんびりした日常が、この駅で繰り返されてきました。


            ※ JR滑河駅 成田市猿山265
               徒歩15分の距離に「滑河観音龍正院」があります
               龍正院 ⇒ 
              

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鉄道・駅 | 08:05:24 | トラックバック(0) | コメント(0)