■プロフィール

sausalito

Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

■訪問していただいた数

■最近の記事

クリックした記事に飛びます。

■記事の分類とアップ数
■良く参考にする書籍リスト

記事中で引用したり、取材のヒントを得るために良く利用する書籍です。  文中の注釈が長くなりますので、ここに掲載します。               ■「成田の史跡散歩」小倉 博 著 崙書房 2004年               ■「成田の地名と歴史」大字別地域の事典編集委員会 2011年      ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会編 1986年       ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会編 1972年

■訂正一覧

掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル        --------------- 

【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■月別アーカイブ
■リンク
■検索フォーム

■最新コメント
■最新トラックバック
■メールフォーム

メールをいただける場合はこちらから

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

最下行の「コメント」をクリックしていただいてもご連絡いただけます

■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

ちょっとしたスポット~430年以上前の建立「下福田稲荷」
【ちょっとしたスポット】

今回は下福田の山道で偶然見つけた「下福田稲荷神社」です。

下福田稲荷ー25
下福田稲荷ー1

大正二年(1913)に編さんされた「印旛郡誌」中にある「八生村誌」には、村内の神社に
ついてのの記述がありますが、その最後に「其の他の神社」として列記された数社の中に
この「稲荷神社」はありました。

「稲荷神社 下福田村字稲荷原 祭神・保食神 明治二年一一月一日再建 社殿・間口
三尺奥行三尺 境内坪数・五六一 氏子・三九戸」


「成田市史 中世・近世編」にある「成田市域の主な神社表」にも、下福田の「稲荷神社」の
ご祭神は「保食神」とあります。

「保食神(ウケモチノカミ)」は食物の神様で、長沼にある稲荷神社と成毛の稲荷神社が同じ
「保食神」をご祭神としています。


下福田稲荷ー19
下福田稲荷ー5
*********** 下福田稲荷ー6
下福田稲荷ー7
*********** 下福田稲荷ー8

4基の御神燈の奥に流造りの社殿があります。
御神燈はいずれも平成19年の寄進です。


下福田稲荷ー4

この手水盤には「文化十一年甲戌正月吉日」と記されています。
文化十一年は西暦1814年ですから、200年前のものです。

「京屋」の文字が見えます。
その下に刻まれている文字は、「店商賣繁盛」「宰領道中安全」と読めます。
また、「願主 大野太郎左ェ門」とも記されています。
何の商いかは分かりませんが、「京屋」の主人の太郎左ェ門が、商売繁盛と商品の輸送の
安全を祈願して寄進したのでしょうか。


下福田稲荷ー9

平成19年7月に建立の「下福田稲荷神社 由来」の石碑。

『神体は「正一位稲荷大明神」もとは白い木製の狐であったが、戦後紛失し現在は幣束と
なっている。祭神は倉稲魂命(保食神)で由緒は未詳だが、数百年前村人が伊勢参りの
際、外宮の豊受大神宮にて倉稲魂命を参拝し、大神宮の神礼と帰途京都の伏見稲荷で
神体を受け、持ち帰って神社を建立したと伝承される。・・・』


文化二年(1805)、明治二年(1869)と再建が行われ、以降数回の改築を経て、平成
19年の社殿等の改築が行われました。


下福田稲荷ー10
下福田稲荷ー12
下福田稲荷ー21

「千葉県神社名鑑」(千葉県神社庁)には、ご祭神は「豐受姫大神(トヨウケヒメノオオカミ)」
と「倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)」と記載されています。
「印旛郡誌」にある「保食神」と、神社名鑑にある「倉稲魂神」、そして「豊受姫」は、いずれも
穀物・食物の神です。


下福田稲荷ー13
下福田稲荷ー14

社殿の奥にあるこの祠は、何の神様をお祭りしているのかは分かりませんが、比較的
新しいもののようです。


下福田稲荷ー15
下福田稲荷ー22
下福田稲荷ー23

社殿の裏側から境内を見ています。
長い参道があって、その奥に社殿がある狭い境内があります。


下福田稲荷ー24
下福田稲荷ー16
下福田稲荷ー18

こじんまりした境内と細長い参道は、鬱蒼とした鎮守の森に守られています。
昔はこんな風景が日本中のどこにでもあったのでしょう。


下福田稲荷ー17
下福田稲荷ー27

「古老の伝承によれば、伊勢の外宮様より御分霊を奉斎。天正九年兵火のため社宇を
焼失、稲葉藩主の寄進によって再建されたが、慶応年間再び野火により焼失、現在の
社殿は明治二年一一月一日創建された。往古は稲荷原に広大な社地を有した。」


「神社名鑑」には「下福田稲荷神社」についてこのように記されています。
天正九年は西暦1581年、織田信長が破竹の勢いであったころです。
430年以上も前に兵火によって焼失したとすれば、この神社が村人によって建立された
のはそれよりも前ということになります。

この神社は、成田安食バイパスを「房総のむら」に向かって進み、「八生大橋」バス停の
そばの細道を右に少し入ったところにあります。
鳥居が細道からさらに引っ込んだ場所にあり、まわりは鬱蒼とした森ですから、バイパス
からはこの「稲荷神社」は見えません。

目立たない小さな神社ですが、ここには長い歴史が漂っています。


下福田稲荷ー28


                ※ 「下福田稲荷神社」 成田市下福田1520




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

寺社 | 09:32:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
下福田の山中に笑う(?)石仏群~正福寺
正福寺ー39

下福田の「正福寺」は真言宗智山派のお寺で、ご本尊は「阿弥陀如来」です。


正福寺ー43
正福寺ー42

「正福寺」へと向かうこの坂はすごい傾斜で、まるで登山のようです。
顔を上げても先が見えない急坂は150メートルほど続きます。


正福寺ー1

坂を登り切ると左手に墓地が広がっています。
新旧の墓石が並んでいて、古い墓石には、寛政、文化、文政、天保、慶應などの年号
が記されています。


正福寺ー41

木々の間から、遠く新妻、芦田、荒海方面が見えます。


正福寺ー2

お寺が見当たらないので右にしばらく進むと、下に向かう長い石段がありました。
せっかく急坂を登ってきたのに・・・と思いながらも、ともかく石段を下りてみました。


正福寺ー3
正福寺ー4

89段の石段の下に「正福寺」がありました。
どうやら裏参道から来てしまったようです。

明治十七年(1884)に書かれた「千葉縣下總國下埴生郡下福田村誌」には、「正福寺」
について次の一行のみの記載があります。
「正福寺ハ本村ノ南方ニ在リ、之亦旧記ナシ建立不詳。」
(「成田市史近代編史料集一」に収録)

また、「成田市史中世・近世編」には、
「下福田村の正福寺はもと南羽鳥村の小字正福寺にあった寺で、遷座年代など不詳で
あるが、天正十九年の「福田郷御縄打水帳」にその名がみえるので、これ以前のことに
なる。」
「本尊は阿弥陀如来で宝暦三年(一七五三)に本堂が再建されている。」
 (P786)
とあり、「成田市域の寺院表5-1」には、真言宗で飯岡村の永福寺の末寺であり、創建は
天正十九年以前で、南羽鳥村から遷座したと記されています。
天正十九年は西暦1591年ですから、それ以前の創建となれば425年以上の歴史を有し
ていることになります。


正福寺ー5
正福寺ー7

本堂の鬼瓦には、真言宗智山派の宗門である桔梗紋があります。


正福寺ー8

「延享元甲子五月」「當寺親住法印尭辧」と記された「宝篋印塔」。
延享元年は西暦1744年にあたります。
「宝篋印塔」は、本来は内部にお経を納めるものですが、石塔の場合は内部にお経を
納めることは無いようです。


正福寺ー9
正福寺ー10

「法印筐塔」に並んで立つ「地蔵尊」。
寛文十年(1670)と読めるような気がします。


正福寺ー11
正福寺ー12

境内の一角に数基の石仏と墓石が並んでいます。
大きな板碑状のものは明治三十三年(1900)のもので、二つの戒名が刻まれています。
右側にある3基の石仏の内、後ろにあるのは「如意輪観音」で、「天明」(?)と記されて
いるように見えます。


正福寺ー13
正福寺ー14

本堂に向かって左側には「大師堂」があります。


正福寺ー15
正福寺ー17
*********** 正福寺ー49
正福寺ー57
*********** 正福寺ー58

「大師堂」の右半分には十体の木像が並んでいます。
一見して「十二神将」や「天龍八部衆」を思い浮かべましたが、傷みが激しく、また持物が
ことごとく欠損しているので、判別はできません。
いずれも鎧のようなものを着けているように見えるので、二体が欠けた「十二神将」では
ないか、と思うのですが・・・。


正福寺ー18
正福寺ー19
********** 正福寺ー20
正福寺ー21

境内奥に並ぶ墓石群。
延宝、元禄、享保、明和、安永、文化などの年号が読めます。


正福寺ー22
正福寺ー25
*********** 正福寺ー23
正福寺ー24
*********** 正福寺ー26

こちらの墓石群に刻まれている石仏の多くは、微笑むと言うより、笑っているように見えます。
微笑むような石仏は見ますが、神仏習合の産物とも言える「七福神」の他には、笑う石仏は
見たことがありません。
もちろん、これは風化やカビのなせる技ですが、私には、石仏が何やら語り合っている内に、
誰かの言葉に思わず皆が笑ってしまったような景色に見えました。


正福寺ー27
正福寺ー35

二つの墓石群の間に、山頂に向かって道のようなものがあります。
枯木や竹が道を塞ぎ、足許が滑ります。


正福寺ー54
正福寺ー50
正福寺ー51

薄暗い竹やぶの中を蜘蛛の巣にからまれながら登ると、小さなお社がありました。
鳥居もあって鞘堂に守られていますが、神社の名前は分かりません。


正福寺ー52
正福寺ー32

目を上に向けると、10メートルほど先に祠がありました。
「天明三■卯二月吉日」と刻まれています。
天明三年(1783)の干支は癸卯(みずのと・う)です。


正福寺ー33

祠まで登ってみると、さらにその奥に「辧財天」と刻まれた祠が・・・。
明治三十七年(1904)の文字と、とぐろを巻いた蛇が描かれています。

「弁財天」はもともと「弁才天」と表記されていたものが、江戸時代になってから金運・開運の
神として信仰されるようになり、「弁財天」と表記されることが多くなりました。

「弁才天はサンスクリット語でサラスヴァティーといい、その昔インドにあった同名の河(現在
は存在しない)を神格化したもの。もともとは河川の神であるが、川の流れる音を音楽に例
えて音楽の神となり、さらに音楽は流暢な言葉に通じることから弁舌の神になり、雄弁さは
頭の良い証拠でもあるから学問の神となり、さらには幸福や財宝、子宝を授ける神として
信仰されるようになった。」
「このサラスヴァティーが仏教に取り入れられ、すぐれた智慧をもって雄弁に語ることから
「弁才天」と名付けられ、雄弁、智慧、音楽、豊穣などの神になったのである。」

(「仏像鑑賞入門」 瓜生中 著 幻冬舎 2004年 P170~171)

もともと川の神であったことから、インド古来の蛇・龍信仰と結びついて、蛇や龍が「弁才天」
の使いだとされています。


正福寺ー44
正福寺ー59
正福寺ー36

大正二年(1913)の「印旛郡誌」は「正福寺」について、次のように書いています。

「下福田村字表にある眞言宗新義派に屬し飯岡村永福寺末なり本尊は木造阿彌陀如来
にして寶暦三酉年再建立堂宇間口六間三尺奥行五間境内二百二十九坪民有地第一種


再建立された宝暦三年は、西暦1753年になります。
前々回に訪ねた「星光院」と同じく、「印旛郡誌」の新義真言宗から、現在の宗教法人名簿
では真言宗智山派へと表記が変わっています。

下福田の静かな田園を前に、背後には山を抱いた「正福寺」には、420年以上の歴史が
眠っています。


正福寺ー60
正福寺ー61


                       ※ 「正福寺」 成田市下福田248



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

八生村の寺社 | 07:44:24 | トラックバック(0) | コメント(2)
家族連れでお弁当持って・・・坂田ヶ池総合公園(2)
坂田ヶ池ー37

「坂田ヶ池総合公園」の2回目です。
1回目をお読みになっておられない方は、できれば1回目からお読みください。

家族連れでお弁当持って・・・坂田ヶ池総合公園 1回目 ☜ ここをクリック


坂田ヶ池ー43

「中央広場」を過ぎ、さらに公園の奥へと入って行きます。
10月も半ばとなると、そろそろ紅葉が始まります。


坂田ヶ池ー44

「芝生広場」に出ました。
遊具などはありませんがとても広々としていて、周りには桜が植えられていますので、
春のお花見には絶好の場所ではないでしょうか。


坂田ヶ池ー45
坂田ヶ池ー46

「渓流の径」に入ってみます。
狭い坂道が下っています。


坂田ヶ池ー47
坂田ヶ池ー48

池から流れ出る水が、小さな渓流を作っています。


坂田ヶ池ー49

渓流の終点には小さな公園があります。


坂田ヶ池ー53
坂田ヶ池ー50  花輪下踏切
坂田ヶ池ー51  成田線・我孫子行き

ここから先は道路に沿った側溝になって、約1キロ先の印旛沼へと流れて行きます。
小公園のすぐ先をJR成田線が走って行きます。


坂田ヶ池ー54
坂田ヶ池ー55

戻りの道は流れの反対側を歩いてみました。
こちらを歩く人はほとんどいないようで、枯れ枝が散乱し、蜘蛛の巣が行く手を邪魔します。
でも、渓流の眺めは一段と良くなり、意外と深い谷になっていることが分かります。


坂田ヶ池ー58
******坂田ヶ池ー57*****
坂田ヶ池ー60

「芝生広場」には戻らず、山道を左手に進みます。
右手には木々の間から池の水面が見えていますが、道は徐々に池から離れて行きます。


坂田ヶ池ー61
坂田ヶ池ー62
*********** 坂田ヶ池ー63
坂田ヶ池ー64
坂田ヶ池ー65

やがて、古墳が次々と現れてきます。
それぞれは良く見れば確かに小高く土盛りがされた古墳のようですが、木や笹が生えて
いて、説明の標識がなければ気が付かないでしょう。

これらは「龍角寺古墳群」と呼ばれ、現在確認されている古墳は114基に上ります。
発掘はあまり進んでいないため、不明な点が多いのですが、6世紀~7世紀にかけて
造られたものであるとされています。


坂田ヶ池ー66

突然、見慣れた景色が現れました。
「房総のむら」に入り込んだようです。
「坂田ヶ池総合公園」と「房総のむら」の一部がつながっていました。
この一帯は以前は「房総風土記の丘」と呼ばれていた辺りです。

房総風土記の丘 ☜ ここをクリック


坂田ヶ池ー67
坂田ヶ池ー68
*********** 坂田ヶ池ー69
坂田ヶ池ー72
坂田ヶ池ー71

来た道を途中まで引き返し、⑥と書かれた標識を左に曲がって、坂道を下ります。
この標識は公園内のあちこちに立っていて、道に迷った時などに携帯で今いるところの
番号を知らせると、助けに来てくれるようになっています。
坂を下りるとアヤメやコウホネの群生地として知られる「水生湿生植物園」があります。


坂田ヶ池ー70

ここは池が入江のようになっていて、とても静かな雰囲気です。


坂田ヶ池ー73
坂田ヶ池ー74

少し進むと池の周回路に合流します。
向こう岸には「野鳥観察所」や「ガゼボ」が見えています。


坂田ヶ池-75

あずまやの周りは「水生植物園」になっています。


坂田ヶ池ー76

池をぐるっと回って、出発点の駐車場が見えてきました。


坂田ヶ池ー77
坂田ヶ池ー78

「片歯の梅」です。

「その昔、坂田ヶ池に住む雄の大蛇が、毎年梅雨時になると土手を越えて長沼の雌の
大蛇に逢いに行きました。その度、田や家を守る土手が崩れてしまったそうです。村人
たちは、土手が崩れないようにするには人柱を立てた方が良いということを耳にしました。
そこへ、子供を背負った女の人が通りかかったので、この親子をふびんと思いながらも
埋めてしまいました。それ以来、土手は崩れることがなくなり村々は助かったそうだ。
ところが、いつの間にか埋めた場所の土手に、梅ノ木が育ちました。しかしその梅は、
実が半分しかないことから片歯の梅とよぶようになりました。その梅ノ木は、埋められた
時に子供が、半分かじったままの梅から生えたものだと伝えられています。」

(成田市ホームページ「坂田ヶ池総合公園」より)

伝承のわりにはちょっと物足りない大きさですが、細かいことは言わないことにしましょう。


坂田ヶ池ー79

遠くに成田・安食線のバイパスが見えています。


坂田ヶ池ー80
坂田ヶ池ー81

「花のテラス」と名付けられたスペースには、きれいな花時計があります。


坂田ヶ池ー82

この池には、周りの山から絶え間なく水が流れ込んでいます。


坂田ヶ池ー84
坂田ヶ池ー85
坂田ヶ池ー86
坂田ヶ池ー83

これからは紅葉のシーズン。
お天気の良い日に、ご家族で「坂田ヶ池総合公園」にお出かけになってはいかがですか?


坂田ヶ池ー00


                       ※ 「坂田ヶ池総合公園」 成田市大竹1450




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公園・施設 | 09:31:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
家族連れでお弁当持って・・・坂田ヶ池総合公園(1)
今回は家族連れでの手軽な行楽に最適な、「坂田ヶ池総合公園」を紹介します。


坂田ケ池ー1

「本公園は、成田市の北西の市街化調整区域に位置し、JR成田線下総松崎駅から北へ
約1kmの地点にあり、主要地方道成田安食線と成田安食バイパスに挟まれています。
本公園は、平成元年度のふるさと創生事業をきっかけとして、約5haの水面を有する
坂田ヶ池を取り囲み、豊かな自然と水に親しめる市民の憩いの場として整備した総合公園
で、北側に隣接する体験博物館「千葉県立房総のむら」と一体でご利用いただけます。
園内の遊具は、印旛沼周辺に古くから伝わる龍神降雨伝説にちなんで大龍・小龍の形を
しています。また江戸時代に灌漑用として作られた坂田ヶ池には、洪水を防ぐために人柱
にされたという悲しい母と子の物語が今に伝えられています。」

[成田市ホームページ(公園緑地課)より]

成田市ホームページ・坂田ヶ池総合公園  ☜ ここをクリック


坂田ヶ池ー2
坂田ヶ池ー3
坂田ヶ池ー4

よく使われる広さの比較で言うと、「坂田ヶ池」の水面の広さは、東京ドームより一回り
広い位ですが、入り組んだ形をしていますから、もっとずっと広い感じがします。
「坂田ヶ池総合公園」の広さは約17.2haですから、東京ドームの約3.7倍の広さです。


坂田ヶ池ー5

駐車場には県外のナンバーも見えます。

池の周りを時計回りに散策してみましょう。

坂田ヶ池ー92
坂田ヶ池ー90
坂田ヶ池ー6

まず目に入るのが広い芝生の斜面、「斜面広場」です。
前方には大きな吊り橋とジャンボスライダーが見えています。


坂田ヶ池ー87
坂田ヶ池ー88
坂田ヶ池ー91
坂田ヶ池ー89

斜面広場の左側には散策路に沿って「龍の泉」と名付けられた小さな流れがあり、右側には
ジャンボスライダーへ向かう階段があります。


坂田ヶ池ー7
坂田ヶ池ー8
*********** 坂田ヶ池ー9
坂田ヶ池ー10
*********** 坂田ヶ池ー11

坂を登ると「森のあそび場」があります。
大きな龍と小さな龍をイメージした、クネクネと曲がった遊具類がたくさんあります。
登ったり、滑ったり、ぶら下がったり・・・、子供たちの歓声が聞こえるようです。

この公園には龍に因んだ名前や施設がいくつかありますが、それはこの地域に伝わる龍の
伝説に因んだものです。

「むかし印旛沼のほとりに心優しい人たちの村がありました。近くの村の人たちは、もちろん
印旛沼に住んでいた竜からも好かれていました。ある年のこと、印旛沼一帯が大日照りで
村の人たちは困り果て一生懸命雨乞いをしました。こうして、いく日か過ぎると、いつも遊び
に来ていた印旛沼の竜が現れて 「日ごろの恩返しに大竜王にしかられて体が断ち切られ
ても雨をふらすべえ」 と言って天に昇りました。しばらくすると空はにわかに曇り始め、大粒
の雨が降ってきました。村の人たちは喜び、天をあおいで竜に手を合わせていました。
すると突然、天を裂くような雷が鳴り、稲妻が走り一瞬村中が明るくなったとき、中天で竜の
姿が三つに裂けるのが見えました。雨に喜んだ村人たちは 「やっぱりオレたちの身代わり
になったんだな」 と悲しみに包まれました。三つに裂かれた竜の体は、頭が安食に、腹が
本埜に、尾が大寺(八日市場)にそれぞれ落ちていました。村人たちは、義理堅い竜の心を
偲んで、せめて供養でもと、それぞれの場所に竜角寺、竜腹寺、竜尾寺を建てたと伝えられ
ています。」

(成田市ホームページ「坂田ヶ池総合公園」より)

※ この龍の伝説に関わる「龍角寺」「龍腹寺」「龍尾寺」については、リンク先を本文の
   最後に記載しています。


坂田ヶ池ー12

ここは結構高い場所になっていて、ずっと下に池の水面が見えています。


坂田ヶ池ー13

「りゅうのみち」と名付けられた吊り橋。


坂田ヶ池ー14
坂田ヶ池-16

吊り橋の上からは、木々の間からジャンボスライダーが見え隠れし、眼下には斜面広場が
広がっています。


坂田ヶ池ー15
坂田ヶ池-17

管理棟の右手にはキャンプ場があります。


坂田ヶ池-18
坂田ヶ池ー19
坂田ヶ池ー20

テントサイトは28か所あり、使用料は以下のようになっています。

        午前9時~午後4時まで   午後4時~翌日の午前9時
一般・学生      200円               200円
小・中学生      100円               100円
幼    児       無料                 無料
[かまど及びテーブルセット]
             610円               610円

[詳しくは公園管理事務所 0476-29-1161 (午前9時~午後4時半)まで]


坂田ヶ池ー21
坂田ヶ池ー22
坂田ヶ池ー23

このジャンボスライダーは全長78メートルもあります。
お尻に敷くダンボールを持参すると、良く滑れます。


坂田ヶ池ー24
坂田ヶ池ー30

散策路は適度なアップダウンがあり、緑がいっぱいです。


坂田ヶ池ー25
坂田ヶ池ー29

水辺には沈みかけた木船があったり、干潟のようなところがあったりして、変化があります。


坂田ヶ池ー27
坂田ヶ池ー28
坂田ヶ池ー32

ダイサギやアオサギが羽根を休めています。


坂田ヶ池ー26

西洋風のあずまやで「ガボゼ」と言います。
レジャーシートを敷いて、家族連れがお弁当を広げていました。


坂田ヶ池ー31
*********** 坂田ヶ池ー35
坂田ヶ池ー36
*********** 坂田ヶ池ー38
坂田ヶ池ー40

池の中央には浮橋があり、人が渡っていると水鳥たちが寄ってきます。


坂田ヶ池ー41

「中央広場」でちょっと一休み。
この続きは明後日に・・・


「小さな龍の伝説が結ぶ三つの寺」はこちら。

 龍角寺  ☜  ここをクリック
 龍腹寺  ☜  ここをクリック
 龍尾寺  ☜  ここをクリック

「家族連れでお弁当持って・・・坂田ヶ池総合公園(2)」から来られた方、
「家族連れでお弁当持って・・・坂田ヶ池総合公園(2)」へ戻る ☜ ここをクリック



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公園・施設 | 07:45:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
駅から見える気になる看板~福城稲荷(六六いなり)
今回はJR成田駅の西口コンコースや、我孫子・佐原方面へ向かう電車の左側車窓から
看板だけが見える「ろくろくさま・福城稲荷神社」を訪ねます。

六六稲荷ー41


この看板は以前から気になっていて、ブログに書くための下調べのための資料を探しまし
たが、全く見つからずに延び延びになっていました。
今回、幸いにもこの神社を守っておられる平野マチ子さんにお話を聞く機会を得て、ようやく
掲載することができました。


六六稲荷ー1

「福城稲荷神社(ふくしろいなりじんじゃ)」は、毎年六月六日がご祭礼で、「六六稲荷」や
「ろくろくさま」と呼ばれて親しまれています。

この神社については、「成田市史 中世・近世編」の成田市域の神社表には記載が無く、
明治十九年(1886)に書かれた「成田村誌」や、大正元年(1912)の「成田町誌」にも
名前が出てきません。
千葉県神社庁発行の「千葉県神社名鑑」も調べてみましたが、やはり見つかりません。

謎だらけの神社でしたが、最近になって、市立図書館資料室の協力を得てようやく微かな
手掛かりを一つ見つけることができました。
明治・大正・昭和の三代にわたって松崎の地で医療活動を行い、近隣地域に多大な貢献
をした「尽誠堂病院」に関する小冊子、「尽誠堂病院物語」(宮本惇夫 著 小川國彦 監修
尽誠堂病院研究会)の中にこの神社についての記述があることが見つかったのです。
それは、
「一家の主である平野伸が亡くなった後、平野家の後継者である平野スマ子・マチ子が親子
二代にわたって神山の麓に、社務所を建て換えて山の神を守った。現在それは「伏白神社」
「福城稲荷」、「六六稲荷(通称)」と呼ばれているが、主である平野伸亡き後、平野親子が約
七十年間守り続けて現在に至っている。」
 (P17)
という一節でした。

ようやく謎を解くきっかけが見つかり、平野さんにお話を伺うこととなったのです。


六六稲荷ー46

「その平野伸だが、東京谷中時代、病気を助けた患者との縁で、現在、JR成田駅の広く線路
区域になっている大きな神山(*)を、買わされる羽目となった。 当時、一帯は囲護台という
地名で九軒ほどの家しかなく、山の周りは閑散とした寂しい沼地だったという。(神山=神の
鎮座する山)」
 (同P16~17)

平野伸氏は、尽誠堂病院の院長を長年務めた人物で、尽誠堂を退任後も尽誠堂の近くに
医院を開き、しばらくして東京・谷中に移り住んで、真言宗豊山派の初音山東漸寺(観智院)
の境内地に医院を開いた、大変評判の高いお医者さんでした。
ある時、どこの医者にかかっても病が治らない一人の患者が、行者にお伺いを立てたところ
見ず知らずの平野医師の病院の場所を示して、“ここに行くべし”と言われたと訪ねて来ます。
平野医師の治療により快癒したその患者がお礼のため行者に引き合わせると、その行者が
現在の「福城稲荷神社」のある山を買うことを勧めました。

その山は、権現山と呼ばれている成田駅東口の一帯とつながっていて、西側には大きな沼
が広がり、山上には小さな石神様があったそうです。
平野家とこの神社の不思議な縁がこうして始まります。


六六稲荷ー43

さて、約100年前の大正時代の初期に、成田駅は、構内の拡張に迫られ、平野家の山の
一部を取得して工事を行いましたが、なぜか事故が頻発し、死者・怪我人が続出する事態
に悩まされることになります。
駅長が行者にお伺いを立てたところ、「工事にかまけてお山の神様を粗末に扱ったからだ」
との託宣があり、打ち捨てられたようになっていた石神様を平野家の山に戻し、祠を建てて
祀ったところ、工事は無事に終了し、その後も事故が起こらなくなりました。
以降、毎年二月六日には成田駅職員がこの神社へのお参りを欠かさず続けているそうです。

こうしてみると、昔のことはいざ知らず、平野伸氏がこの山を買った時がこの神社の始まり
だと考えられないでしょうか?


六六稲荷ー39
六六稲荷ー38
六六稲荷ー37

「福城稲荷神社」の場所ですが、JR成田駅東口から表参道を進み、福田屋と鷹匠本店の
間を左折すると下り坂となり、間もなくJRの下をくぐる「なかよしとんねる」に出ます。
トンネルを過ぎると道は左にカーブして下って行き、大きく右に曲がって今度は坂を登る
ことになりますが、下り坂が終わって右に曲がる所に、「福城稲荷神社」の看板があります。


西口一帯ー6
西口一帯ー7

JR成田駅西口からは、駅を出てすぐ右の道を線路に沿って進み、坂を下り切ると右側に
「福城稲荷神社」の看板が見えます。

民家の間に小さな石段がありますが、庭先に入り込んでしまいそうで、進むにはちょっと
迷う雰囲気です。


六六稲荷-48
六六稲荷ー50

道路から数段の石段を上ると、小さなお堂があります。
ここから先のきつい石段を登ってお参りすることができない人は、このお堂にお参りすること
で山上の神様にお参りしたことになります。


六六稲荷ー5
六六稲荷ー6

お堂の先を右に行く狭い道があり、さらに石段を下ると、鳥居と「お清めの水」と記された
お堂があります。
井戸の上にお堂を建てたようです。
後方に見える「龍神」と「水神」の祠は、昔この一帯が沼だったころにおられた神様です。


六六稲荷ー8

お堂まで戻って、今度は左へ入ります。
狭い軒先を進むことになりますが、前方にチラッと鳥居が見えています。


六六稲荷ー9
六六稲荷ー10

鳥居の前に立つと、今度は急な石段が目の前に現れます。
神社はとても狭い場所、それも急斜面にあるので、この傾斜は仕方ありません。


六六稲荷ー13

登り切って振り返ると、恐いくらいの角度です。


六六稲荷ー11

石段の踊り場を左に行くとすぐ行き止まりになり、その先はJRの線路です。
見えているのは敷地拡張のために当時の鉄道会社(成田鉄道だったか、国鉄だったか)
が買い取った因縁の場所になります。


六六稲荷ー33
六六稲荷ー51
六六稲荷ー55
六六稲荷ー15

右に少し上るとようやく境内に入ります。

手前にあるのが「福城稲荷」と「禄彔稲荷」です。


六六稲荷ー16
六六稲荷ー17

キツネの顔はスッキリした感じです。


六六稲荷ー52
六六稲荷ー54
六六稲荷ー20
六六稲荷ー19

奥には「伏白大神」があります。
屋根には鰹木が三本と、水平に切られた千木があります。


六六稲荷ー21
六六稲荷ー23

このお堂の中には、小さなキツネの置物がビッシリと並んでいます。


六六稲荷ー28
六六稲荷ー29

お堂の裏に隠れるようにして昭和3年の板碑があり、宝珠の下に2匹のキツネが向き
合っている図が線刻されています。
キツネの目元はパッチリで可愛らしい表情です。


六六稲荷ー26

境内の裏手に回ると、小さな祠とお地蔵様、そして五輪塔がありました。


六六稲荷ー24

この小さな祠には、寛政三年(1791)と刻まれています。


六六稲荷ー58

五輪塔には、「八幡四郎恒永元安外数十名之靈」と刻まれていて、裏面に「昭和42年5月
平野スマ子建立」と記されています。
スマ子さんは今回お話を伺ったマチ子さんのお母様です。

“なぜここにこの五輪塔があるのか?”について、とても興味深い話を伺いました。

この五輪塔を建立したスマ子さんのお母様(マチ子さんのお祖母さん)である江栄さんは、
平野夫婦に子が無かったため養女に迎えられた方で、とても霊感が強い方でした。
ある時から、鎧兜に身を固め、憤怒の表情をした武将の霊が江栄さんに取り付き、いくら
払っても離れないため、行者にお祓いをしてもらったところ、この霊は、信じていた仲間に
裏切られて落命したために強い怒りを持ち続けている武将の霊であることが分かりました。
ただ、いくら尋ねても頑として自分の名前を明かしてはくれません。
娘のスマ子さんが、深い信仰心をもってこの武将の霊の怒りを和らげ、何とか「八幡四郎
(やわたしろう―「はちまん」を名乗るには差し障りありとのこと)の名を聞き出すことができ、
供養の五輪塔を建立したのだそうです。

ちょっと脇道にそれますが、この武将のことが気にかかり、調べてみました。

真偽のほどは分かりませんが、この一帯は昔、「平将門の乱」での戦場になったことがあり、
討伐軍の平貞盛と藤原秀郷が、討ち取った将門軍の将兵の霊を弔った場所だという伝承
もあるようですので、敗れた将門軍の将兵の中にこの武将がいたのかも知れません。
それから、将門の乱より少し後の時代の武将、源頼義の長男で勇猛な武将として知られる
八幡太郎(はちまんたろう)に関わる人物の中にそれらしき人物は・・・?と探してみました。
源頼義の長男は八幡太郎義家、次男は賀茂次郎義綱、三男は新羅三郎義光と、ここまで
は良く知られていますが、その他に「親清」と「快誉」の名が出てきます。
「快誉」は滋賀の大津にある「園城寺」に出家した息子です。
一方、「親清」は伊予の豪族河野氏の女婿になって「三島四郎親清」を名乗ったという伝承
があるようです。
この「親清」についての史料はほとんどありませんが、少なくとも非業の死を遂げるような
生涯では無かったようです。

手掛かりは見つかりませんでしたが、こういうことは“いつか分かる時が来るかも知れない”
と、あまり詮索せずにいた方が良いのかも知れませんね。

事実は闇の中ですが、スマ子さん、マチ子さん親子の供養によって、その後、武将の霊は
再び現われることはなかったそうです。


六六稲荷ー56

この地蔵像は、鉄道関係の犠牲者を供養する地蔵像が、あちこちに散在していて
忘れられたような状態だったため、それらをまとめてここに建立したものです。


六六稲荷ー27 

この小さなお堂は、この山の「地主神(じぬしのかみ)」です。
古くからの民間信仰や神道では、土地ごとにそれぞれの地主神がいて、その土地を守護
しているとされています。
例えば、「成田山新勝寺」の「奥の院」や「光明堂」のある一角に、「清瀧大権現」と「地主
妙見宮」がありますが、この「地主妙見」が成田山の「地主神」です。


六六稲荷ー30

木々の合い間から囲護台方面が見渡せます。


六六稲荷ー44

民家の屋根の向こうにはJR成田駅の我孫子行きホームがチラリと見えます。


六六稲荷ー32

この手水鉢は昭和2年に寄進されました。


六六稲荷ー59
六六稲荷ー60

狭い境内ですが、鉄道が通る前のこの一帯は鬱蒼とした森だった痕跡が、境内裏の桜の
大木と石段脇のシイの大木に残っています。
シイの大木は、駅の東口に残る「不動のシイ」とほぼ同じ樹齢を重ねているように見えます。


六六稲荷ー34
六六稲荷ー35
六六稲荷ー46

ひょんなことから、この山を守る役目を背負った平野家の方々の苦労は、並大抵のもの
ではなかったことでしょう。
このブログで見てきた多くの神社やお寺が、衰退の一途を辿っている今日、平野さんの
ように懸命に神域を守っておられる方の存在は本当に貴重です。

電車の窓からチラッと見える「ろくろくさま・福城稲荷」の看板の陰には、深い人間ドラマが
隠されていました。


六六稲荷ー47


                  ※ 「福城稲荷神社」 成田市新町849





テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

成田町の寺社 | 07:33:14 | トラックバック(0) | コメント(3)
新義か古義か、智山派か醍醐派か~慈母観音が並ぶ「星光院」
星光院ー3

「星光院」は真言宗のお寺で、山号は「窓除山」。
前回の「長泉寺」と同じ、香取市との境に位置する大字「所」にあります。


星光院ー27

一直線に伸びる石段の先が「星光院」です。


星光院ー2
***********星光院ー22
星光院ー23
************星光院ー1

石段の登り口に小さな祠が数基、あるものは倒れ、あるものは砕けていますが、その中の
いくつかは「正月吉日」「寅年」などの文字が読めます。


星光院ー4

「大栄町史 通史編中巻」(平成14年)には、「星光院」について次のように書かれています。

「新義真言宗。所村字長津に所在。本尊は薬師如来(「県寺明細」)。香取郡香取村追野
(佐原市)にあった惣持院(戦後佐原市仁井宿へ移転)の末寺。惣持院は醍醐光台院(京都
市)の末寺であったから、光台院ー惣持院ー星光院という上下関係であった。」
『「県寺明細」には寛文四年(一六六四)に小貫保重が開基し、元禄十三年(一七〇〇)に
星光院に改称したとあるが、それを裏付ける史料は未詳である。同明細には境内の薬師堂
は宝永二年(一七〇五)小貫重益が建立し、寛政四年の再建とあるが、これも史料は未詳
である。』
 (P557~558)

一方、「成田市の文化財 第42集」(平成22年)には、「星光院」が真言宗智山派のお寺で、
総持院(香取市)の末寺であると書かれています(P28)。
また、「香取市内宗教法人名簿」にある「惣持院」は真言宗智山派となっています。
さらに、「醍醐寺」とは、「古義真言宗」の真言宗醍醐派の総本山なのです。(「光台院」は
「醍醐寺」の塔頭)

「新義真言宗」と「真言宗智山派」、「惣持院」と「総持院」、そして、「古義真言宗」・・・。
大した問題ではないかも知れませんが、気になります。

「新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)は、空海(弘法大師)を始祖とする真言宗の宗派の
一つで、真言宗中興の祖覚鑁(興教大師)の教学を元に覚鑁派の僧正頼瑜に連なる。
高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれた。広義では、根来寺を本山
とする新義真言宗、智積院を本山とする真言宗智山派、長谷寺を本山とする真言宗
豊山派、室生寺を本山とする真言宗室生寺派などを含むが、狭義では真言宗十八本山
の一つで、根来寺を総本山とする【新義真言宗】を指す。」
 (ウィキペディア)

一方「古義真言宗(こぎしんごんしゅう)」は、「高野山真言宗」「東寺真言宗」のほか、
「大覚寺派」、「善通寺派」等があり、「醍醐派」もその一つです。

難しい教義を素人が説明するのは無謀ですが、
「古義真言宗」では、最高仏である「大日如来」が自ら説法をする(ひたすら念仏を唱えて
いると、自ずから「大日如来」が現われる=本地身説法)としていますが、「新義真言宗」は、
「大日如来」が説法のために加持身となって教えを説く(加持身説法)としています。

明治・大正期の史料には「新義真言宗」となっている寺院がいくつかありますが、最近の
宗教法人名簿ではほとんど見かけなくなりました。
それでも、市川市の「雙輪寺」や、船橋市の「明王院」、「常楽寺」のように「新義真言宗」と
して宗教法人登録をしているお寺もありますので、「惣持院」や「星光院」は、「改宗」という
ほどではないのかも知れませんが、昭和以降に真言宗智山派となったようです。
なお、平成22年12月31日現在の「文部科学大臣所轄包括宗教法人」では、新義真言宗
は203寺院、1教会となっています。

ごちゃごちゃと書きましたが、要は、現在の「星光院」は真言宗智山派のお寺で、
香取市の「持院」(智山派)の末寺ということです。


星光院ー5
星光院ー6

境内は大部分が畑になっていて、いろいろな野菜が植えられています。
こんな境内の使い方も良いかも知れません。


星光院ー7
星光院-31
星光院ー18

窓越しに見えるご本尊の「銅造薬師如来座像」です。
静かに何かを考えておられるようなお顔です。

「薬師如来」は人々を現世において救済するとされていて、この「現世利益」から多くの
信仰を集めてきました。


星光院ー8

「小貫大輔翁百壽碑」。
慶應元年に大須賀村に生まれ、昭和39年に没した、小貫大輔氏の家族が昭和41年に
建立したものです。
今では百歳を超える長寿の方は多くなりましたが、当時は珍しいことでした。


星光院ー9

境内の一角にある墓地には、古い墓石が並んでいます。
天和、元禄、宝暦、安政などの年号が読めます。


星光院ー29

右の石碑は、宝暦八年(1758)のもので、風化がしていますが、なんとか「四国八十八ヶ■
五十九番 所村」と読めます。
四国霊場五十九番は伊予の「国分寺」で、真言律宗のお寺であり、ご本尊は「星光院」と
同じ「薬師如来」です。

真ん中の地蔵像は、頭が欠損してセメントの頭が乗っています。
宝暦十年(1760)のもので、「権大僧都法印■傳」と記されています。

左端に変わった石仏があります。

星光院ー10

頭の部分が欠けていていますが、「慈母観音」のようです。
赤子に乳を含ませているポーズは珍しく、秩父の第四番札所「金昌寺」の「子育観音」
によく似た姿です。
安政四年(1857)と記されています。


星光寺ー12

これもまた「慈母観音」で、「寛政五年」「當邑善女講中」と刻まれています。
両手で優しく赤子を抱く姿です。
寛政五年は西暦1793年になります。


星光院ー14

あちらこちらに壊れた墓石のようなものが積まれています。


星光院ー20
***********星光院ー17
星光院ー16

境内の一角に立つカヤの大木の根元に、小さな小屋のようなものがあります。

近づいて中を覗くと、ここにも「慈母観音」がありました。
赤子が「でんでん太鼓」を持っているように見えます。
明治廿年(1887)と記されています。


星光院ー19
星光院ー21

本堂の裏側も、石段の横の斜面も畑になっています。
荒れて草ボウボウになるより、このほうがずっと良いですね。


星光院ー24

「星光院」は山の中腹にありますが、前方には田んぼが広がっています。


星光院ー25
星光院ー26

田んぼ道をほんのちょっと歩くと、地蔵菩薩を上部に刻んだ道標が立っています。
「南 さくみち」「北 とつは さハら道」と記されています。
いずれも“変体カナ”ですので、読み方が合っているかは分かりませんが、「さくみち」とは
“作業用の道”のことで、農道であることを示しています。
「さハら」は「佐原」で間違いないとおもいますが、「とつは」は多分現在の「香取市鳥羽」の
ことではないかと推測しました。
「鳥羽」と書いて「とっぱ」と読む字(あざ)で、所村の北方、佐原へ向かう途中にあります。

「さくみち」については、7月初旬に紹介した押畑の「真福寺」の項にある道標にも、同じ
文字がありました。

新福寺ー50 押畑の道標

星光院ー28

「大栄町史 史料編Ⅳ」に収録されている、享保九年(1724)の「所村御請所内検地帳」
に、「星光院」の名前がちょっと出ています。

「四十二間四十四間 六反歩 薬師免 星光院」

同「史料編Ⅱ」に収録の天保三年(1832)の「町奉行与力給知新知七ヶ村高書上帳」には、

「寺壱ヶ寺 
一 建立年暦相分不申候 新義真言宗 窓除山星光院」


とありました。


星光院ー30
星光院ー13

柿の色が濃くなってきました。
もう、すっかり秋の風です。
境内の畑も収穫が終わりそうです。


星光院ー33
星光院ー32


                           ※ 「窓除山星光院」 成田市所504



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

大須賀村の寺社 | 07:23:01 | トラックバック(0) | コメント(0)
再建から300年、所の里の「長泉寺」
長泉寺ー1

「長泉寺」は臨済宗妙心寺派のお寺で、山号は「大鹿山」。
ご本尊は「聖観音菩薩」です。


長泉寺ー39
長泉寺ー38

道路からお寺は見えませんが、急坂を登ると左手の茂みの中に「大鹿山長泉寺」の看板
がチラリと見えます。


長泉寺ー2

「大栄町史通史編中巻」(平成14年)には、「長泉寺」について次にように書かれています。

『臨済宗妙心寺派。所村字寺脇に所在。山号は後記のように大鹿山。本尊は正(聖)
観音(「県寺明細」)。寛政元年の「禅宗済家妙心寺派下寺院帳」に、香取郡与倉村
(佐原市)大龍寺の末寺として載せられている。』

『「県寺明細」によれば、開山は方外宏延禅師、貞享三年(一六八六)に野火で焼失し、
中興開山中通和尚が正徳五年(一七一五)に再建したとある。ただ、境内の元禄四年
の石灯籠には「大鹿山」と刻まれており、再建はその時の可能性もある。』
 (P559)

方外宏延禅師によって開山した年月が不詳ですが、野火で焼失した貞享三年より前の
開山であることは間違いないので、少なくとも330年以上の歴史を有しているお寺です。

この他「長泉寺」に関しては、「大栄町史史料編」の収録史料の中に、
「建立年暦相分リ不申候 臨齊禅宗 大鹿山長泉寺」
(天保三年 「町奉行与力給知新知七ヶ村高書上帳)
「四十弐間・四十四間  六反歩  観音免  長泉寺」
(享保九年 「所村御請所内検地帳」)
等の記載が見つかります。

また、「長泉寺」の本寺である「大龍寺」については、「香取郡誌」(大正十年)に、
「寶雲山大龍寺 香西村大字與倉字吐月峰に在り域内千八十坪臨濟宗妙心寺派にして
千手観音を本尊とす寺傳に曰ふ至徳中矢作城主國分壽歡入道大悦之を創し建仁寺大航
慈船和尚を開基とす・・・」
 と書かれています。
至徳年間は西暦1384~87年ですから、約630年の歴史あるお寺です。


長泉寺ー5

「圓通殿」と書かれた掲額。
山号、寺号、院号などを掲げる寺額とは異なるようですが、「圓通」とは、真理があまねく
行き渡っていることを指す仏教用語で、圓通大士(観音菩薩の別称)を指す場合もあります。
この言葉を採ってこの本堂を「圓通殿」と称したのではないでしょうか。

因みに、京都の左京区岩倉にある名園で知られる「圓通寺」は、臨済宗妙心寺派のお寺で、
ご本尊は「聖観音」です。


長泉寺ー4

失礼して覗かせていただいた本堂の内部。
朱色のお堂の中にご本尊の「聖観音」が安置されているのでしょうか。


長泉寺ー7
長泉寺ー8

本堂前の石灯篭には「■■善女人■■三夜待供養」と刻まれています。
元禄と読めるような文字がありますので、この石灯篭が「大栄町史」にある、元禄四年
(1691)のものなのでしょうか?
残念ながら「大鹿山」の文字は見つけられませんでした。


長泉寺ー9
長泉寺ー14

境内の一角に建つお堂には「菩提閣」と書かれた掲額が架かっています。


長泉寺ー10

「菩提閣」の隣に並ぶ3基の石仏。


長泉寺ー11

真ん中は月待塔で、「十九夜待塔善女人■ 享保十■一月十九日 五十人■」と
読めます。
290年近く前のもので、十九夜講の信仰対象である「如意輪観音」を刻んでいます。

左は風化と苔で良く見えませんが、十五夜講の月待塔のようです。
「所村善女人■ 明和■■」と読めますので、240年以上前のもののようです。


長泉寺ー40
長泉寺ー41

「如意輪観音」の月待塔は真ん中から真っ二つに割れています。
補修はされていますが、自然に割れたものではないようですし、右端は見る影もないほど
に破壊されています。
ここにも廃仏毀釈の爪跡が残っているのでしょうか?


長泉寺ー12
長泉寺ー13

「菩提閣」の奥には2基の板碑と数基の崩れた宝塔が並んでいます。
板碑の年代は分かりませんが、右側の板碑には「奉讀誦普門品万巻」と刻まれ、左右に
「国家安全」「天下泰平」の文字が刻まれています。


長泉寺ー15

地元の名家と思われる「小貫平右衛門歴代之碑」。
昭和32年の建立で、裏面には小貫家代々の戒名がビッシリと記されています。


長泉寺47

本堂の裏側の山肌が崩れかけているのが気になります。


長泉寺ー17

本堂の反対側の端にも数基の石塔が並んでいます。


長泉寺ー25

「馬頭観世音菩薩」と文字が刻まれ、「文久二壬戌」と読めます。
文久二年は西暦1862年で、この年には武蔵国橘樹郡生麦村で、島津久光(薩摩藩主
島津茂久の父)の行列に乱入した騎馬の英国人を藩士が殺傷し、薩英戦争の引き金
となった「生麦事件」が起こりました。

長泉寺ー24

こちらは「馬頭観音像」が刻まれて、「文化十癸酉十一月吉日 所村中世話人長左ェ門」
と記されています。
文化十年は西暦1813年になります。

長泉寺ー23

上部が欠けて、「・・観世音」とのみ読めます。
多分、欠けた部分には「馬頭」とあったと思われます。

長泉寺ー22

「馬頭」の文字だけが残っています。

「六地蔵」と同じように、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)に配される
「六観音」の内、畜生道を化益するのが「馬頭観音」であるとされています。

観音像といえば、皆優しいお顔を思い浮かべますが、「馬頭観音」のみは一部の例外を
除いて憤怒の表情をしています。
その憤怒の表情から、「馬頭観音」を「観音」ではなく、「明王」として「馬頭明王」と呼ぶこと
もあるようです。
また、「馬頭」という名前から、民間信仰では馬の守護仏として祀られています。

ここにあるような、観音像を刻まずに「馬頭観音」という文字だけを刻んだ石碑の場合は、
だいたい愛馬への供養のために造られたもののようです。


境内に入ってすぐ右手には「成田市消防団第10分団第4部」の倉庫があり、左手奥には
「所公民館」が建っています。

長泉寺ー28
***********長泉寺ー46

長泉寺ー29

公民館の裏の台地には墓地が広がっています。


長泉寺ー30
長泉寺ー45

見事な板碑が2基並んでいます。
大きい方の板碑には慶長七年(1602)の紀年銘が記されています。


長泉寺ー31

立派な墓石が多く、元禄、宝永、元文、明和、天明、天保等の年号が見えます。


長泉寺ー32

この宝篋印塔は寛保元年(1741)のもので、四面に一文字ずつ「宝」「篋」「印」「塔」の
文字(旧字体よりさらに複雑な字です)が記されています。


長泉寺ー33

一番奥には歴代住職の卵塔が並んでいます。


長泉寺ー34

この石仏の顔はスパッと削られています。
境内にあった如意輪観音像と同じ運命に逢ったのでしょうか?


長泉寺ー36
長泉寺ー35
***********長泉寺ー42
長泉寺ー44
長泉寺ー37

初秋が訪れた「所」の山里には、曼珠沙華が首を伸ばし、赤トンボが舞っています。

貞享三年(一六八六)に野火によって焼失したものの、中興開山中通和尚によって再建され
た正徳五年(一七一五)から数えて300年。
禅の大衆化に尽力し、臨済宗の中興の祖とされる「白隠慧鶴」が生まれたのは、「長泉寺」が
野火で焼失した貞享三年ですから、中道和尚は「白隠慧鶴」の影響を受けて、この寺の再建
を期したのかも知れません。


長泉寺ー48
長泉寺ー47


                   ※ 「長泉寺」 成田市所595



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

大須賀村の寺社 | 07:44:03 | トラックバック(0) | コメント(0)