看板だけが見える「ろくろくさま・福城稲荷神社」を訪ねます。

この看板は以前から気になっていて、ブログに書くための下調べのための資料を探しまし
たが、全く見つからずに延び延びになっていました。
今回、幸いにもこの神社を守っておられる平野マチ子さんにお話を聞く機会を得て、ようやく
掲載することができました。

「福城稲荷神社(ふくしろいなりじんじゃ)」は、毎年六月六日がご祭礼で、「六六稲荷」や
「ろくろくさま」と呼ばれて親しまれています。
この神社については、「成田市史 中世・近世編」の成田市域の神社表には記載が無く、
明治十九年(1886)に書かれた「成田村誌」や、大正元年(1912)の「成田町誌」にも
名前が出てきません。
千葉県神社庁発行の「千葉県神社名鑑」も調べてみましたが、やはり見つかりません。
謎だらけの神社でしたが、最近になって、市立図書館資料室の協力を得てようやく微かな
手掛かりを一つ見つけることができました。
明治・大正・昭和の三代にわたって松崎の地で医療活動を行い、近隣地域に多大な貢献
をした「尽誠堂病院」に関する小冊子、「尽誠堂病院物語」(宮本惇夫 著 小川國彦 監修
尽誠堂病院研究会)の中にこの神社についての記述があることが見つかったのです。
それは、
「一家の主である平野伸が亡くなった後、平野家の後継者である平野スマ子・マチ子が親子
二代にわたって神山の麓に、社務所を建て換えて山の神を守った。現在それは「伏白神社」
「福城稲荷」、「六六稲荷(通称)」と呼ばれているが、主である平野伸亡き後、平野親子が約
七十年間守り続けて現在に至っている。」 (P17)
という一節でした。
ようやく謎を解くきっかけが見つかり、平野さんにお話を伺うこととなったのです。

「その平野伸だが、東京谷中時代、病気を助けた患者との縁で、現在、JR成田駅の広く線路
区域になっている大きな神山(*)を、買わされる羽目となった。 当時、一帯は囲護台という
地名で九軒ほどの家しかなく、山の周りは閑散とした寂しい沼地だったという。(神山=神の
鎮座する山)」 (同P16~17)
平野伸氏は、尽誠堂病院の院長を長年務めた人物で、尽誠堂を退任後も尽誠堂の近くに
医院を開き、しばらくして東京・谷中に移り住んで、真言宗豊山派の初音山東漸寺(観智院)
の境内地に医院を開いた、大変評判の高いお医者さんでした。
ある時、どこの医者にかかっても病が治らない一人の患者が、行者にお伺いを立てたところ
見ず知らずの平野医師の病院の場所を示して、“ここに行くべし”と言われたと訪ねて来ます。
平野医師の治療により快癒したその患者がお礼のため行者に引き合わせると、その行者が
現在の「福城稲荷神社」のある山を買うことを勧めました。
その山は、権現山と呼ばれている成田駅東口の一帯とつながっていて、西側には大きな沼
が広がり、山上には小さな石神様があったそうです。
平野家とこの神社の不思議な縁がこうして始まります。

さて、約100年前の大正時代の初期に、成田駅は、構内の拡張に迫られ、平野家の山の
一部を取得して工事を行いましたが、なぜか事故が頻発し、死者・怪我人が続出する事態
に悩まされることになります。
駅長が行者にお伺いを立てたところ、「工事にかまけてお山の神様を粗末に扱ったからだ」
との託宣があり、打ち捨てられたようになっていた石神様を平野家の山に戻し、祠を建てて
祀ったところ、工事は無事に終了し、その後も事故が起こらなくなりました。
以降、毎年二月六日には成田駅職員がこの神社へのお参りを欠かさず続けているそうです。
こうしてみると、昔のことはいざ知らず、平野伸氏がこの山を買った時がこの神社の始まり
だと考えられないでしょうか?



「福城稲荷神社」の場所ですが、JR成田駅東口から表参道を進み、福田屋と鷹匠本店の
間を左折すると下り坂となり、間もなくJRの下をくぐる「なかよしとんねる」に出ます。
トンネルを過ぎると道は左にカーブして下って行き、大きく右に曲がって今度は坂を登る
ことになりますが、下り坂が終わって右に曲がる所に、「福城稲荷神社」の看板があります。


JR成田駅西口からは、駅を出てすぐ右の道を線路に沿って進み、坂を下り切ると右側に
「福城稲荷神社」の看板が見えます。
民家の間に小さな石段がありますが、庭先に入り込んでしまいそうで、進むにはちょっと
迷う雰囲気です。


道路から数段の石段を上ると、小さなお堂があります。
ここから先のきつい石段を登ってお参りすることができない人は、このお堂にお参りすること
で山上の神様にお参りしたことになります。


お堂の先を右に行く狭い道があり、さらに石段を下ると、鳥居と「お清めの水」と記された
お堂があります。
井戸の上にお堂を建てたようです。
後方に見える「龍神」と「水神」の祠は、昔この一帯が沼だったころにおられた神様です。

お堂まで戻って、今度は左へ入ります。
狭い軒先を進むことになりますが、前方にチラッと鳥居が見えています。


鳥居の前に立つと、今度は急な石段が目の前に現れます。
神社はとても狭い場所、それも急斜面にあるので、この傾斜は仕方ありません。

登り切って振り返ると、恐いくらいの角度です。

石段の踊り場を左に行くとすぐ行き止まりになり、その先はJRの線路です。
見えているのは敷地拡張のために当時の鉄道会社(成田鉄道だったか、国鉄だったか)
が買い取った因縁の場所になります。




右に少し上るとようやく境内に入ります。
手前にあるのが「福城稲荷」と「禄彔稲荷」です。


キツネの顔はスッキリした感じです。




奥には「伏白大神」があります。
屋根には鰹木が三本と、水平に切られた千木があります。


このお堂の中には、小さなキツネの置物がビッシリと並んでいます。


お堂の裏に隠れるようにして昭和3年の板碑があり、宝珠の下に2匹のキツネが向き
合っている図が線刻されています。
キツネの目元はパッチリで可愛らしい表情です。

境内の裏手に回ると、小さな祠とお地蔵様、そして五輪塔がありました。

この小さな祠には、寛政三年(1791)と刻まれています。

五輪塔には、「八幡四郎恒永元安外数十名之靈」と刻まれていて、裏面に「昭和42年5月
平野スマ子建立」と記されています。
スマ子さんは今回お話を伺ったマチ子さんのお母様です。
“なぜここにこの五輪塔があるのか?”について、とても興味深い話を伺いました。
この五輪塔を建立したスマ子さんのお母様(マチ子さんのお祖母さん)である江栄さんは、
平野夫婦に子が無かったため養女に迎えられた方で、とても霊感が強い方でした。
ある時から、鎧兜に身を固め、憤怒の表情をした武将の霊が江栄さんに取り付き、いくら
払っても離れないため、行者にお祓いをしてもらったところ、この霊は、信じていた仲間に
裏切られて落命したために強い怒りを持ち続けている武将の霊であることが分かりました。
ただ、いくら尋ねても頑として自分の名前を明かしてはくれません。
娘のスマ子さんが、深い信仰心をもってこの武将の霊の怒りを和らげ、何とか「八幡四郎
(やわたしろう―「はちまん」を名乗るには差し障りありとのこと)の名を聞き出すことができ、
供養の五輪塔を建立したのだそうです。
ちょっと脇道にそれますが、この武将のことが気にかかり、調べてみました。
真偽のほどは分かりませんが、この一帯は昔、「平将門の乱」での戦場になったことがあり、
討伐軍の平貞盛と藤原秀郷が、討ち取った将門軍の将兵の霊を弔った場所だという伝承
もあるようですので、敗れた将門軍の将兵の中にこの武将がいたのかも知れません。
それから、将門の乱より少し後の時代の武将、源頼義の長男で勇猛な武将として知られる
八幡太郎(はちまんたろう)に関わる人物の中にそれらしき人物は・・・?と探してみました。
源頼義の長男は八幡太郎義家、次男は賀茂次郎義綱、三男は新羅三郎義光と、ここまで
は良く知られていますが、その他に「親清」と「快誉」の名が出てきます。
「快誉」は滋賀の大津にある「園城寺」に出家した息子です。
一方、「親清」は伊予の豪族河野氏の女婿になって「三島四郎親清」を名乗ったという伝承
があるようです。
この「親清」についての史料はほとんどありませんが、少なくとも非業の死を遂げるような
生涯では無かったようです。
手掛かりは見つかりませんでしたが、こういうことは“いつか分かる時が来るかも知れない”
と、あまり詮索せずにいた方が良いのかも知れませんね。
事実は闇の中ですが、スマ子さん、マチ子さん親子の供養によって、その後、武将の霊は
再び現われることはなかったそうです。

この地蔵像は、鉄道関係の犠牲者を供養する地蔵像が、あちこちに散在していて
忘れられたような状態だったため、それらをまとめてここに建立したものです。

この小さなお堂は、この山の「地主神(じぬしのかみ)」です。
古くからの民間信仰や神道では、土地ごとにそれぞれの地主神がいて、その土地を守護
しているとされています。
例えば、「成田山新勝寺」の「奥の院」や「光明堂」のある一角に、「清瀧大権現」と「地主
妙見宮」がありますが、この「地主妙見」が成田山の「地主神」です。

木々の合い間から囲護台方面が見渡せます。

民家の屋根の向こうにはJR成田駅の我孫子行きホームがチラリと見えます。

この手水鉢は昭和2年に寄進されました。


狭い境内ですが、鉄道が通る前のこの一帯は鬱蒼とした森だった痕跡が、境内裏の桜の
大木と石段脇のシイの大木に残っています。
シイの大木は、駅の東口に残る「不動のシイ」とほぼ同じ樹齢を重ねているように見えます。



ひょんなことから、この山を守る役目を背負った平野家の方々の苦労は、並大抵のもの
ではなかったことでしょう。
このブログで見てきた多くの神社やお寺が、衰退の一途を辿っている今日、平野さんの
ように懸命に神域を守っておられる方の存在は本当に貴重です。
電車の窓からチラッと見える「ろくろくさま・福城稲荷」の看板の陰には、深い人間ドラマが
隠されていました。

※ 「福城稲荷神社」 成田市新町849
当神社についての由緒がまったくわからなくて、また御祭神も独特で、ネットで調べていてようやくここに辿り着きました。私もブログを書いているのですが記事を書く際には御参考にさせて頂きたいと思いますm(__)m
確かにこの神社は難しい神社でした。資料は皆無に近く、管理されている方に強引にお話を聞いてようやく記事にすることができました。(まだ少し謎が残っていますが・・・)あまり参考にならないかも知れませんが、よろしければ時々覗きに来てください。
ありがとうございました!