
「星光院」は真言宗のお寺で、山号は「窓除山」。
前回の「長泉寺」と同じ、香取市との境に位置する大字「所」にあります。

一直線に伸びる石段の先が「星光院」です。

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石段の登り口に小さな祠が数基、あるものは倒れ、あるものは砕けていますが、その中の
いくつかは「正月吉日」「寅年」などの文字が読めます。

「大栄町史 通史編中巻」(平成14年)には、「星光院」について次のように書かれています。
「新義真言宗。所村字長津に所在。本尊は薬師如来(「県寺明細」)。香取郡香取村追野
(佐原市)にあった惣持院(戦後佐原市仁井宿へ移転)の末寺。惣持院は醍醐光台院(京都
市)の末寺であったから、光台院ー惣持院ー星光院という上下関係であった。」
『「県寺明細」には寛文四年(一六六四)に小貫保重が開基し、元禄十三年(一七〇〇)に
星光院に改称したとあるが、それを裏付ける史料は未詳である。同明細には境内の薬師堂
は宝永二年(一七〇五)小貫重益が建立し、寛政四年の再建とあるが、これも史料は未詳
である。』 (P557~558)
一方、「成田市の文化財 第42集」(平成22年)には、「星光院」が真言宗智山派のお寺で、
総持院(香取市)の末寺であると書かれています(P28)。
また、「香取市内宗教法人名簿」にある「惣持院」は真言宗智山派となっています。
さらに、「醍醐寺」とは、「古義真言宗」の真言宗醍醐派の総本山なのです。(「光台院」は
「醍醐寺」の塔頭)
「新義真言宗」と「真言宗智山派」、「惣持院」と「総持院」、そして、「古義真言宗」・・・。
大した問題ではないかも知れませんが、気になります。
「新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)は、空海(弘法大師)を始祖とする真言宗の宗派の
一つで、真言宗中興の祖覚鑁(興教大師)の教学を元に覚鑁派の僧正頼瑜に連なる。
高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれた。広義では、根来寺を本山
とする新義真言宗、智積院を本山とする真言宗智山派、長谷寺を本山とする真言宗
豊山派、室生寺を本山とする真言宗室生寺派などを含むが、狭義では真言宗十八本山
の一つで、根来寺を総本山とする【新義真言宗】を指す。」 (ウィキペディア)
一方「古義真言宗(こぎしんごんしゅう)」は、「高野山真言宗」「東寺真言宗」のほか、
「大覚寺派」、「善通寺派」等があり、「醍醐派」もその一つです。
難しい教義を素人が説明するのは無謀ですが、
「古義真言宗」では、最高仏である「大日如来」が自ら説法をする(ひたすら念仏を唱えて
いると、自ずから「大日如来」が現われる=本地身説法)としていますが、「新義真言宗」は、
「大日如来」が説法のために加持身となって教えを説く(加持身説法)としています。
明治・大正期の史料には「新義真言宗」となっている寺院がいくつかありますが、最近の
宗教法人名簿ではほとんど見かけなくなりました。
それでも、市川市の「雙輪寺」や、船橋市の「明王院」、「常楽寺」のように「新義真言宗」と
して宗教法人登録をしているお寺もありますので、「惣持院」や「星光院」は、「改宗」という
ほどではないのかも知れませんが、昭和以降に真言宗智山派となったようです。
なお、平成22年12月31日現在の「文部科学大臣所轄包括宗教法人」では、新義真言宗
は203寺院、1教会となっています。
ごちゃごちゃと書きましたが、要は、現在の「星光院」は真言宗智山派のお寺で、
香取市の「惣持院」(智山派)の末寺ということです。


境内は大部分が畑になっていて、いろいろな野菜が植えられています。
こんな境内の使い方も良いかも知れません。



窓越しに見えるご本尊の「銅造薬師如来座像」です。
静かに何かを考えておられるようなお顔です。
「薬師如来」は人々を現世において救済するとされていて、この「現世利益」から多くの
信仰を集めてきました。

「小貫大輔翁百壽碑」。
慶應元年に大須賀村に生まれ、昭和39年に没した、小貫大輔氏の家族が昭和41年に
建立したものです。
今では百歳を超える長寿の方は多くなりましたが、当時は珍しいことでした。

境内の一角にある墓地には、古い墓石が並んでいます。
天和、元禄、宝暦、安政などの年号が読めます。

右の石碑は、宝暦八年(1758)のもので、風化がしていますが、なんとか「四国八十八ヶ■
五十九番 所村」と読めます。
四国霊場五十九番は伊予の「国分寺」で、真言律宗のお寺であり、ご本尊は「星光院」と
同じ「薬師如来」です。
真ん中の地蔵像は、頭が欠損してセメントの頭が乗っています。
宝暦十年(1760)のもので、「権大僧都法印■傳」と記されています。
左端に変わった石仏があります。

頭の部分が欠けていていますが、「慈母観音」のようです。
赤子に乳を含ませているポーズは珍しく、秩父の第四番札所「金昌寺」の「子育観音」
によく似た姿です。
安政四年(1857)と記されています。

これもまた「慈母観音」で、「寛政五年」「當邑善女講中」と刻まれています。
両手で優しく赤子を抱く姿です。
寛政五年は西暦1793年になります。

あちらこちらに壊れた墓石のようなものが積まれています。

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境内の一角に立つカヤの大木の根元に、小さな小屋のようなものがあります。
近づいて中を覗くと、ここにも「慈母観音」がありました。
赤子が「でんでん太鼓」を持っているように見えます。
明治廿年(1887)と記されています。


本堂の裏側も、石段の横の斜面も畑になっています。
荒れて草ボウボウになるより、このほうがずっと良いですね。

「星光院」は山の中腹にありますが、前方には田んぼが広がっています。


田んぼ道をほんのちょっと歩くと、地蔵菩薩を上部に刻んだ道標が立っています。
「南 さくみち」「北 とつは さハら道」と記されています。
いずれも“変体カナ”ですので、読み方が合っているかは分かりませんが、「さくみち」とは
“作業用の道”のことで、農道であることを示しています。
「さハら」は「佐原」で間違いないとおもいますが、「とつは」は多分現在の「香取市鳥羽」の
ことではないかと推測しました。
「鳥羽」と書いて「とっぱ」と読む字(あざ)で、所村の北方、佐原へ向かう途中にあります。
「さくみち」については、7月初旬に紹介した押畑の「真福寺」の項にある道標にも、同じ
文字がありました。


「大栄町史 史料編Ⅳ」に収録されている、享保九年(1724)の「所村御請所内検地帳」
に、「星光院」の名前がちょっと出ています。
「四十二間ニ四十四間 六反歩 薬師免 星光院」
同「史料編Ⅱ」に収録の天保三年(1832)の「町奉行与力給知新知七ヶ村高書上帳」には、
「寺壱ヶ寺
一 建立年暦相分不申候 新義真言宗 窓除山星光院」
とありました。


柿の色が濃くなってきました。
もう、すっかり秋の風です。
境内の畑も収穫が終わりそうです。


※ 「窓除山星光院」 成田市所504