
言い伝えによれば、和銅二年(709年)に竜女が現れて薬師如来像を祀ったことを
起源として、天平二年(730年)釈命上人により「龍閣寺」として開かれたという
関東屈指の歴史ある寺です。

天台宗のお寺で、天竺山寂光院龍角寺が正式名です。
ご本尊は薬師如来で、銅造薬師如来坐像は国の重要文化財に指定されています。

常夜塔には文化二年(1805年)と刻まれています。
(弘化二年とも読め、自信がありません。弘化なら40年後です)

これが本堂か?と一瞬意外な感じがしました。
由緒ある古刹の本堂とは見えなかったからです。

中を覗いてみましたが、ご本尊の写真と、
境内から出土した瓦などが飾られていています。
薬師如来像は頭部と胴体部が別作のものですが、
頭部は白鳳時代のもので、竜女伝説と一致します。
(竜女伝説と今回の表題の龍にまつわる伝説とは違うものです。
“龍の伝説”は最後にお話しします。)


ご本尊や大切なものは後ろに続く倉のような建物に保管されているようですが、
それにしても、大分傷んでいます。


奥にある三重塔跡も石柱が倒れたままで、荒れ果てた感じです。
塔の礎石は「不増不滅の石」と呼ばれ、中心にある主柱をはめた穴には、
日照り続きであっても、雨が降り続いても、常に一定の水が溜っていると伝えられています。

三重塔跡のとなりには、出土した古瓦を埋めた塚があります。

さらに右奥には小さなお社があり、消えかけた掲額には
「金毘羅大権現」の文字がかろうじて読めます。

校倉造りの資料庫で、明治初期の建物です。
三里塚御料牧場にあったものをここに移設しました。



一番奥まったところには古いお墓が並んでいます。
安永、宝暦、享和、文化などの年号が読めます。

資料庫の左奥にある「二荒神社」です。



資料庫脇の坂道を下ると代々の住職達のお墓が並んでいました。
天保、文政、享保。文久、安永などの年号が刻まれています。
さすがにどれも立派な石塔です。


本堂の左側には立派な石塔が八つ並んでいます。
どれも年代を感じさせるもので享和、延宝、文政等の年号が刻まれています。


境内のあちこちに古い石塔が立ち並んでいます。


金堂跡です。
本堂と資料庫の間にあります。
発掘調査によってこの場所には三重塔と並んで金堂がある
「法隆寺式伽藍配置」であったことが分かっています。
今はいくつかの石が転がる塚にしか見えませんが、往時は人々の信仰を集める
立派な金堂が建っていたのでしょう。

仁王門の建っていた跡にも、いくつかの礎石が並んでいるだけです。
繰り返される火災で古い建造物は一つも残っていません。
歴史のある名刹が、どこか荒れた感じがするのは寂しいことです。
分かりにくい場所ですが、案内板を立て整備を加えれば、
また多くの人々が訪れる賑わいを取り戻せると思うのですが・・・。
さて、この龍角寺には興味ある伝説が残っています。
大昔から印旛沼には龍が棲んでいると言い伝えられてきました。
そう言えば、印旛沼は龍の形に似ています。

(水土里ネット印旛沼 http://www.inbanuma-lid.jp/ より転載)
ある年長く続く日照りに田畑は荒れ果て、この地の住民は困窮を極めていました。
龍閣寺の釈命上人が印旛沼に舟を漕ぎ出し、雨乞いの祈祷をしたところ、
沼に棲んでいた小さな龍が人々の苦しみを哀れに思い、龍王の教えに背いて
天に昇って地上に七日七晩雨を降らせ、乾いた田畑を蘇らせてくれました。
しかし、この小さな龍は龍王の怒りに触れ、雷鳴とともに体を三つに切り裂かれて
地上に落ちてきました。
その身を犠牲にして自分たちを救ってくれた小さな龍を哀れに思った住民たちは、
落ちた龍を探しまわり、頭を安食村で、胴体を本埜村で、尻尾を匝瑳の大寺で見つけ、
それぞれの地に手厚く葬ったそうです。
その時、頭を葬った龍閣寺を龍角寺とあらため、
胴体を葬った本埜村の地蔵堂に龍腹寺を建て、
尻尾を葬った大寺にあった寺を龍尾寺としたそうです。
伝説の頃の人々の距離感からすると、そうとうスケールの大きいファンタジーです。
龍角寺から龍腹寺までは車で約30分、龍尾寺までは1時間半程度かかります。
次回は龍腹寺を、そして龍尾寺を訪ねてみようと思います。
※龍角寺 印旛郡栄町龍角寺239
JR成田線安食(あじき)駅から徒歩30分、バスは「竜角台車庫」行き、
または「安食循環」で「酒直坂上」下車徒歩10分。